・『昭和の精神史』竹山道雄
・『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
・『見て,感じて,考える』竹山道雄
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『ビルマの竪琴』竹山道雄
・『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
・『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
・『精神のあとをたずねて』竹山道雄
・昭和19年の風景
・絵画のような人物描写
・『みじかい命』竹山道雄
・竹山道雄著作リスト
ある日のこと、私はいまは共に故人となられた岩元、三谷両先生がここを登って来られるのにゆきあった。両先生ともにこの登りが苦しそうだった。意外に思っている私を見て立ちどまり、私が降りてゆくのを微笑をうかべてうず高い石塊の上に立って待たれた。一人はつよく澄み、他はきよく澄みきった瞳をして、並んでいられた。
「いまな、柳君の民芸館に琉球のものを参観してきたのよ」と岩元先生が、いささかなまりのつよく館や観をはっきりクヮンと発音しながら、よく響く声でゆっくりといわれた。
老先生は片眉を下げて前屈みになったまま、光が束になって発しているような眼差しや、はげしい意力のあらわれた下唇に微笑を浮べて、先生の癖で、相手の体をまじまじと見ながら話された。三谷先生はこの頃からますます全身が霊化して、スピリットのような感じを増してゆかれたが、この日も息づかいが苦しそうに、薄い外套が肩に重そうだった。しばらく立ち停まって話の末、私は両先生に夕飯のお伴をすることとなり、両先生の学校の用をすませてから、50銭の円タクをつかまえた。
その夕は主として岩元先生が元気よく話された。話題はきわめて広かった。「ホメアのオデュッセイアにある豚汁とわたしの国の薩摩汁とは、調理の法が同じじゃ。大きな鉄の鍋があってのう……」「西郷が戦死した城山の戦の鉄砲の音を、わたしは子供のとき鹿児島できいた」「床次は禅をやった。それで進退の責任感がないのじゃ。禅をやるとそうなる」「田中の世話でヴァチカン法王庁からトマス・アクイノのズンマ・テオロギカを送ってもらって幸せしてる」――こんな言葉を断片的に憶えている。一体岩元先生はあれほど厳格な激しい気性の方であり、随分極端な伝説の主でありながら、近く接して圭角といったようなものをついに示されたことがなかったのは、不思議なくらいだった。むしろヘレニストでありエピキュリアンである一面をよく示された。
三谷先生はこれという話題をもって人に談ずるということはない方であった。しかも、先生ほどその何気ない言葉が相手の(求むるところのある若い人の)魂の底に浸みこんで、そこに火花を点じ、襟を正さしめ、同心せしめ、生涯の転機とすらなった人は、他にはけっしてなかった。この混沌として解きがたい世界人生にも何か動かすべらからざる真実があることを身を以て証(あか)しする人――傍らにいてそんな気のする人であった。(「空地」)
【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】
入力することが喜びにつながる稀有な文章である。まるで絵画のような人物描写だ。テキストで描かれた印象派といってよいだろう。
検索したところ岩元禎〈いわもと・てい〉と三谷隆正のようだ。どちらも大物である。Wikipediaによれば岩元は「夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルであるとする説がある」。三谷は内村鑑三の弟子で「一高の良心と謳われた」とある。
空地の西側にある坂道のスケッチである。今は亡き一高の元老を描くことで政界の元老がいなくなったことを浮き彫りにしようとしたのだろうか。あるいは戦後に向かって戦前の校風を書き残そうとしたのだろう。
老人は歴史の生き証人である。上京してから数年後のこと、私にも元老と呼べる存在のご老人がお二方あった。手に負えない問題を抱えて困り果てた時は必ずどちらかを頼った。涙を落とすほど厳しいことを言われたこともある。私の祖父母は既に亡くなっていたが、血がつながっていればこうした関係を結ぶことは難しかったことだろう。敬愛できる長老を知り得たことはその後の人生を開く鍵となった。
以下に巻末資料を掲載しておく。書籍になっていないテキストも多い。