2020-02-02

フランス人ジャーナリストが描く特攻の精神/『神風』ベルナール・ミロー


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之

 ・読書日記
 ・フランス人ジャーナリストが描く特攻の精神
 ・仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った
 ・特攻隊員は世界の英雄

『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 すべては1944年10月25日に始まった。いや、より正確にいうなら、全世界はこの日驚くべきニュースに接したのである。新聞とラジオは、日本軍の飛行機がレイテ沖でアメリカ海軍艦船に決然たる体あたり攻撃を敢行し、大損害を与えたことを報じた。ニュースの解説者たちは、これらの攻撃が秩序だてて実行されたもののように見えるところから、これが日本軍司令官の命令に発したものであろうということを力説した。このときをもって、太平洋戦争の局面はまったく異常な展開を見せることになったのである。この日以降、それは世界戦史のいかなる戦闘にも似つかぬものと化した。

【『神風』ベルナール・ミロー:内藤一郎〈ないとう・いちろう〉訳(ハヤカワ・ノンフィクション、1972年)以下同】

「まえがき」の冒頭部分である。1944年10月18日に捷(しょう)一号作戦が発動された。神風(しんぷう)特別攻撃隊が実際に体当たり攻撃を行ったのが25日のことである。敷島隊、菊水隊、朝日隊、山桜隊が出撃した。


 それでも、大戦勃発以来すでに5年、世界の人心は軍の発表や戦闘のニュースにもはや食傷していたけれども、この事件のニュースだけには感銘を受けた。だがこれに対する意見はかなり分裂した。ある者はこの途方もない勇気の持主だったパイロットたちに尊敬と感嘆を惜しまなかった。また他のある者はこの戦闘手段の性質自体に戦慄をおぼえ、眉をひそめ、一種の集団的発狂だときめつけたものであった。
 このどちらもあまりに早計であることは明らかだった。そこにはこれら日本人パイロットの行動の真意をつかむ要素が欠けていた。この前代未聞の、そして常軌を逸した行動を理解するための、あるいは少なくとも説明をつけてみようとするための、哲学的な思惟というものは世界になく、多くの者はただ迷ってしまうだけであった。彼らがこれら日本の逆上した空軍軍人たちを鼓舞している原理というものについて、本気になって自らに立ち向かうようになったのは、もうしばらくたってからのことで、他にも同様の自殺攻撃がより大規模に実行されつづけるようになってからである。戦後はより広汎に、かつ詳細に事実が判明した。そして感情の鎮まるにつれて、少しずつ理解の度が進展していったのである。まったくそれは驚くべきことで、全世界があらためて驚倒したのであった。


 原書刊行は1970年と思われる。タイトルは『叙事詩カミカゼ』か。日本が朝鮮特需を経てベトナム戦争を背景にした高度経済成長に沸いている頃、特攻に思いを馳せたフランス人がいた。その目の付けどころと精神性の深さが鞭を振るうように迫ってくる。

 若きエリートたちの自己犠牲がなければダウンフォール作戦(連合国による本土上陸作戦)が実施されていたことだろう。特攻隊が日本を守ったのは確かな歴史的事実である。問題は戦後の日本人が特攻隊への感謝を忘れ、あろうことか蔑む人々まで現れたことだ。そしてシナ大陸(※「中国」だと中華民国と中華人民共和国の違いが不明瞭となるため地理的名称の「シナ」を採用する)への深入りが必然的に特攻を誕生させたわけだが、その戦略ミス・政策判断ミスを現在に至るまで研究も反省もしていない。結局我が国は大東亜戦争と似たようなことを何度も繰り返す羽目となる。「官僚の無謬性」はその最たるものだろう。

 靖国神社に参拝する国会議員は100人程度だろう(昨年の秋季例大祭は98人)。旧会津藩以外は党派・宗派を超えて参拝するのが当然ではないのか? なかんづく「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に一人も参加していない公明党・共産党は反日勢力と言われても仕方ないだろう。

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マッスルグリル「沼」


 ・マッスルグリル「沼」

リュウジ版「沼」

 無水鍋で6合(米3+胚芽押麦3)を炊くのはやはり多すぎる。だが5合では足りない。そこで大きい炊飯器を物色していたところ「沼」なる言葉が随所に出てきた。検索したところ「マッスルグリル」というYou Tubeチャンネルを見つけた。ボディビルダーのシャイニー薊(あざみ)とプロ格闘家のスマイル井上で配信している。運動部のノリが溢れていて楽しい。因みに「沼」は減量食である。肉じゃがと牛丼も紹介しよう。圧力鍋でもできそうだ。








2020-02-01

嗄れ声が病みつきになる


 twitterで流れてきたのだが天才的なセンスの持ち主である。畳み込むような編集・構成・ナレーションが独特のリズムを生んでおり、何と言ってもその嗄(しわが)れ声が病みつきになる。私がカメラメーカーの社長だったら直ちにCM作成を依頼する。シリーズ物で10年契約してもいいくらいだ。キャラクターが際立っているので俳優の世界でも通用しそうだ。

@camera.tiktok

花火撮影📷基本はF11、ISO200、バルブモード。花火の種類によってタイミングを合わせましよう🧨 #tiktok夏祭り #夏スタイル #tiktok教室 #カメラ #気合い #夏の思い出

♬ 夏ノ詩 - コアラモード.

@camera.tiktok

望遠レンズ📷圧縮効果と言って背景が大きく、近づいた様に映ります。レンズのサイズも大きいので接触事故注意です☆ #tiktok教室 #圧縮 #効果 #花火綺麗 #あぅ

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2020-01-31

サンカーラ再考/『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬


『無(最高の状態)』鈴木祐
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『仏陀の真意』企志尚峰

 ・サンカーラ再考

『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『ブッダの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 仏教には「心の反応は連鎖する」という発想があります。伝統的には“縁起論”(えんぎろん)と呼ばれていますが、心のからくりを理解するために、いっそう「本質」が浮かび上がるように表現すると、次のようになります。

 無明(むみょう/無理解)の状態において、心は反応する。刺激に触れたとき、心は反応して感情が、欲求が、妄想が結生(けっしょう)する。結生した思いに執着することで、ひとつの心の状態が生まれる。その心の状態が新たな反応を作り出す。その反応の結果、さまざまな苦悩が生まれる。     ――菩提樹下の縁起順観 ウダーナ

 つまり、(1)触れて、(2)反応して、(3)感情や欲求や妄想や記憶などの「強い反応のエネルギー」が生まれます。この強い反応を“結生”と表現することにします(元のパーリ語では「サンカーラ」sankhara。英語だと「心の形成」mental formaitionと訳されています)。これは「記憶に残る」「表情や行動に出てしまう」ような強い反応です。
 そして、これらの結生した反応が、新しい刺激に反応して、(4)同種の反応を作り出す、というサイクルです。(中略)
 この結生した反応は、新しい刺激に触れて作動する「地雷」みたいなものです。よくある「怒りっぽい」「やたら神経質」「落ち込みやすい」「対人恐怖症」といった気質の奥には、こうした“結生した反応”があったりするのです。

【『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬〈くさなぎ・りゅうしゅん〉(KADOKAWA、2015年)】

 あまり考えすぎると思弁に傾いてしまうので感じたことを書き残しておく。友岡本と併読することで後期仏教(大乗)と初期仏教の違いが浮き上がってくる。本書を読んでカテゴリーの「初期仏教」を「ブッダの教え」に変えた。仏教と表現すれば宗教としてキリスト教やイスラム教、ユダヤ教やヒンドゥー教と同列の扱いとなってしまう。ブッダの隔絶した理知を思えば、それは宗教というよりも「教え」とするのが相応しいと感じる。

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
真の無神論者/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 仏教用語のサンカーラ(Saṅkhāra)、サンスカーラとはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。典型的には行(ぎょう)と訳される。

 一つ目の意味合いでは、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象、はたらき、作用」をさすのだが、とりわけ全ての精神的な気質を指すことが多い。これらは意志の結果として形成されるものであり、将来における意欲的な行動の発生原因であるため「意思による形成」と呼ばれる。

 二つ目の意味では、サンカーラは行蘊として業(カルマ)をさし、それらは縁起の原因とされる。

Wikipedia

 五蘊(ごうん)の項目には「行蘊(ぎょううん、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 意識を生じる意志作用。意志形成力。心がある方向に働くこと」とある。図がわかりやすいので拝借しよう。


三科」の図も参照せよ。認識作用の細分化であり、感覚に対する科学的アプローチである。幸不幸や喜怒哀楽のメカニズムを五つの段階で捉えたのが五蘊であり、これを五蘊仮和合(ごうんけわごう)と達観すれば無我である。

 受(感覚)→想(知覚)→行(指向作用)の流れは、感じて、快不快を想って、好き嫌いの態度を表明するという理解で構わないだろう。つまり行とは「スタイル」(石川九楊)に置き換えることが可能で業(ごう)の本質もここにある。

 我々が「生き方」と錯覚しているのは単なる五蘊の反応に過ぎないわけだ。それを個性とか自分らしさとか呼んだところで同じところをグルグル回っているだけの話だ。「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り」(『新八犬伝』)とはよく言ったものだ。

 私はかつて「同じ過ちを繰り返す」という意味で業(カルマ)を捉えていたのだがそうではないことに気づいた。私はいまだに昔買ったレコードをデジタル音源で聴いている。レコード(record)の「re」は「何かを取り戻す、行って帰ってくる」(「レコード」の原義)という意味だから繰り返しを表す。単純な訳だと「再」である。リフレイン(refrain)、リプレイ(replay)などの言葉は見事なまでに業を指し示している。

 つまり「快」を繰り返そうとする「行」にサンカーラの正体があるのだろう。その基盤にあるのが「自我」なのだ。我々は色や形の異なったネズミ車のようなものだ。繰り返しに対する強迫観念が過去世・来世の物語を生むのは自然なことである。自我は死後にまで延長しようと目論む。とはいえ石に名前を刻んだり(墓)、名誉などで名を残そうとしたりするのは、逆説的ではあるが死後の存在を信じていないためだろう。

 サンカーラから離れた瞬間に過去から自由になった現在が現れるはずだ。早速試してみよう。