2020-03-10

税務調査官の言いなりになるな/『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎


 ・税務調査官の言いなりになるな

『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎
『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎
『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が古代~現代にガサ入れ』大村大次郎
『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎
『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎
『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎
『脱税の世界史』大村大次郎

 さて、こういうグレーの領収書を調査官から咎められたときは、どうすればいいかというと…。
 絶対に引いてはなりません。
 税務申告でグレーのものがあった場合、納税者側にそれを白だと証明する義務はないのです。
 日本は申告納税制度の国です。
 申告納税制度というのは、納税者が自分で出した申告書は、明確な誤りがない限り、税務当局はそれを認めなければならないことになっているんです。
 だからグレーのものを否認するならば、税務署のほうが明確にそれが黒だという根拠を突きつける必要があるのです。
 その点を知らずに、調査官のいいなりになってしまう納税者がけっこう多いのです。調査官もずる賢いので、グレーのものを見つけると、それは「さも真っ黒」であるかのような言い方をします。
「こういう領収書は経費にはできませんね」
 などと怒ったような顔をしていいます。
 でも騙されてはいけません。彼らは、それほど自信を持っていっているわけではないのです。自信がないから怒ったフリをしているだけなのです。
 調査官の仕事というのは、申告書の誤りを見つけることです。だからそれを見つけた場合、喜びこそすれ、怒るはずはないのです。彼らが怒っているときというのは、芝居に過ぎないのです。

【『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(宝島新書、2012年/日本文芸社、2007年『そば屋はなぜ領収書を出したがらないのか? 領収書からみえてくる企業会計・税金のしくみ』改題】

 大村大次郎の著書は大体1冊1000円台に抑えているので良心的だ。本書はそば屋から苦情が寄せられ改題となった作品である。日本で民主政が機能していない大きな要因の一つに税意識の低さが挙げられる。

 元国税調査官の大村大次郎は調査の手法を知悉している。検察が起訴した裁判は検察側に立証責任がある。同様に脱税・申告漏れ・所得隠しは税務当局に挙証責任があるのだ。素人は「税務調査」と聞いただけで震え上がってしまうものだが、大村は「恐れることはない」と断言する。

 仕事のために使った費用は全て経費で落とせる。そのためにはメモ書きで構わないから証拠をきちんと残しておくことだ。中小企業だとこのあたりが丼勘定の社長が多い。

 税法の不平等や二重課税を思えば、この国に税金をまともに払う価値があるかどうかが疑わしくなる。しかもサラリーマンの場合、節税は困難だ。納税実態としては資産家ほど租税を回避しており、所得の少ない者ほど痛税感を覚える仕組みとなっている。

 警察や税務署が恐れられるのは捜査や調査が可能なためだが、とてもじゃないが国民のために行われているとは言い難い。実際は自分たちの昇進のために法を曲げて得点を稼いでいるのだから。過去の冤罪事件を思えば、税務調査にだって行き過ぎがあることだろう。大企業は国税庁の天下りを受け入れることでマルサの査察調査をかわしている。

 税の不平等は国を亡ぼす。貧しい国民が増えるほど犯罪件数も増加してゆく。圧政は必ずや暴力(テロ)の温床となる。

2020-03-09

Canon デジタルカメラ IXY 190


 長らく愛用してきたEXILIM EX-Z330(カシオ)のシャッターが反応しなくなってきた。2011年から使ってきたので間もなく10年が経つ。99%は本のページを撮影してきた。OneDriveの使用量が11.9GBだから、640×480サイズの画像が7746枚×11.9=92000枚になる。更に今年の1~2月で5000枚ほど撮影している。ざっと10万ページ分だ。

 EXILIM EXZS26WEを注文したのだがマクロモードがついていなかったので返品した。同じ失敗を繰り返すわけにはいかないので、「価格で選ぶ!コスパの良い接写デジカメおすすめランキング!」を参照した。結局、Canon IXY 190にした。

 心底驚いたのだがSDカードが付いていない。更にUSBケーブルも付いていなかった。カメラボディはEXILIMより一回り大きく野暮ったい。マクロモードは設定がなく(取扱説明書には書かれている)、オートにすると自動的に判別する。シャッター半押しでピントを合わせるのだが、画面のピントが変わらないのでやりにくい。カメラの出来としてはEXILIMに軍配が上がる。

 カシオはデジカメの草分けメーカーだが2018年にコンデジから撤退を表明。現在は医療用コンデジに特化している。

【追記】なぜかBatchGOO!(画像一括変換ソフト)にフォルダを移動できない。仕方がないので一度フォルダをPCにコピーしている。(3月12日)

2020-03-08

人は自分が探しているものしか見つけることができない/『心晴日和』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰

 ・人は自分が探しているものしか見つけることができない

『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「どんな仕事をしていても、自分にとって嫌なことや退屈なことはある。そういう人にとっては仕事そのものが作業であり、苦痛になる。ところが同じことでも誰かの顔を思い浮かべながら、その人に喜んでもらえるようにと考えながらやると、そのことは努力や苦労ではなくなる。その人にとって楽しくてたまらん時間になるんじゃ」
「確かにそうかもしれないわ。時間を忘れて写真を撮っていたもの」
「そうかい。それはよかった。今やお前さんは我々6人の心を癒してくれる専属カメラマンじゃの」
「そう言われると、なんだか嬉しいな。もっと撮りたくなっちゃう。また撮ってきてもいい?」
「もちろんじゃよ。それより、ちょっと話を聞かせてくれんかね? 写真を撮っていて何か気がつくことはなかったかい?」
「そうだなぁ。やっぱり嫌なことを忘れて集中することができたってことかなぁ」
「他にはないかい?」
「そうね、あとは……春らしいものを探して歩いていると、春らしいものって結構いっぱいあるってことね」
 伊之尾は満足げにうなずいている。
「そのことがわかったじゃろ?」
「えっ?」
「お前さんが春らしいものを探して歩いていると、道は春らしいものであふれていることに気づくじゃろ。ところがお前さんが歩いた道は、初めて歩くような外国の道じゃない。いつもお前さんが歩いている道じゃ。
 いつも歩いている道に、お前さんに貼るを感じさせるものがこんなにあふれているってことに以前は気がついていたかな」
「ううん。気がついていなかったわ」
「人間は、自分が探しているものしか見つけることができないんじゃよ」

【『心晴日和』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(幻冬舎、2010年)】

 タイトルは「こはるびより」と読む。いじめられている女子中学生が病院で老人と知り合う。老人は外に出ることができない自分のために春を感じられる写真を撮ってきて欲しいと頼む。新しい出会いを通して少女は少しずつ着実に変わってゆく。

 喜多川作品を読んで私は自己啓発を見直した。それだけではない。自己啓発には後期仏教(大乗)と同じ指向がある。幸福への扉は自分の内部にあるという発想だ。

「イギリス経験論~プラグマティズム~ニューソート~自己啓発」(密教化/『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン)という流れで私は把握しているのだが、後期仏教(大乗)では唯識や華厳経が自己=世界を掘り下げている。

 ここまで見通せればアファメーションが華厳経の焼き直しであることが立ちどころに理解できる。「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰を画く。一切世間の中に法として造らざること無し」(華厳経第十)。世界は心の影なのだ。

アファメーションの解説書/『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

 思想が浅い分だけ自己啓発はわかりやすい。脳が妄想を離れることは困難だが自己啓発には妄想を解きほどく効果がある。

 余談であるがカバーのイラストがナンバ歩きになっていておかしい。

宗教は集団形成のツールに過ぎない/『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター


『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド

 ・宗教は集団形成のツールに過ぎない

 キリストのはりつけ以来、多くのクリスチャンがキリストの再来を望んできたのであり、それが実現する特定の日付を予言した運動はまれではなかった。しかし、最初期にみられた運動の大部分については、予言のはずれがわかったときに信者たちが経験したかもしれないリアクションに関連して、確実だと思われる形での記録はない。そのようなリアクションについては、ヒューズがモンタヌス派に関して次のような記述を残したように、歴史家がたまたま何かのついでに触れていることがある。

 モンタヌスは2世紀の後半に現れたが、信仰上の問題に関する革新者として現れたのではない。彼が当時の世間に対して行なった個人的な貢献は、我が主の再来が間近に迫っているという固い確信であった。それは、ペブツァ――現在のアンゴラに近い――で起きるはずであった。そして、我が主の真の信者たちは皆、そこへ向かうべきであった。彼の言葉を権威づけるものは言わば内的な霊感であり、新たな予言者としての人格と雄弁によって彼は多数の信奉者を獲得したが、おびただしい数の信奉者が約束の地に群がり、彼らを受け入れるべく新しい町が出現した。【再臨が遅れたことも、その運動に終焉をもたらさなかった。むしろ逆に、そのことは運動に新たな生命と形態を与え】、一種の、選ばれた者たちのキリスト教となった。彼らにとっては、彼らに直接働きかける聖霊のほかには、どんな権威も彼らの新生を導くことはなかったのである……〔傍点は引用者による〕

 この短い記述のなかに、典型的なメシア運動の基本的な要素がすべて含まれている。すなわち、固い信念を持った信者たちがおり、彼等はそれまでの自らの生活を根絶やしにし、新たな場所へ行き、そこに新たな町をつくるという形でコミットする。だが、再臨(さいりん)は起こらない。しかし、我々が注目するように、その運動は止むどころか、この予言のはずれが運動に新たな生命を吹き込むのである。

【『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター:水野博介〈みずの・ひろすけ〉訳(勁草書房、1995年/原書は1956年)】

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で引用されていた一冊だ。原書刊行が昭和31年である。戦勝国アメリカの余裕が咲かせた花のひとつといっていいだろう。日本では経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書に記述し流行語となった頃である。

 キリスト教の代表的な予言(預言とは異なる)はキリスト再臨と終末(ハルマゲドン)である。未だ来ない未来のことは誰にもわからない。そこに人々は不安と希望を抱く。感情がプラスとマイナスに動く要因は経済だ。経済が低迷すると世の中を不安が覆う。ここに予言者が登場する。優れたリーダーとは大なり小なり予言者的性格を帯びている。「確かな未来」を指し示すのがリーダーの役割であるからだ。

 予言を信じて集まった人々が予言の成否を問題としないばかりか、外れても尚強固な結びつきを維持する実態に驚かされる。ヒトの脳にはそうした癖があるのだろう。つまり客観的な合理性よりも、主観的な納得に優位性があるのだ。検証や吟味を不問に付す様を見ると、我々は自分が信じる物語を貫くためならどんな嘘も無視することができる。結局、「予言の好きな人々のコミュニティ」が形成されているわけである。

 宗教は集団形成のツールに過ぎない。もちろん始めに宗教があるわけだが、その宗教は社会や時代という背景から生まれるのだ。ブッダの教えは教団を通して仏教に変質する。教団は教勢を拡大し領土を巡る攻防が繰り広げられる。インドにおいて仏教が廃(すた)れヒンドゥー教が永らえたのも、インド国民の集団形成にはヒンドゥー教の方が相応(ふさわ)しかったのだろう。国民の嗜好や風土に左右される問題で宗教的な正邪は関係がない。

 日本人の占い好きも予言の一種と考えることができよう。私と同世代であれば花びらを千切りながら「好き、嫌い」とやった人も多いはずだ。ま、最後の花びらが「嫌い」で終わると何度でもやり直すからデタラメ極まりないが。

 あらゆる宗教が幸福を約束する。高級な布団が安眠を保証するように。そして信者は不幸に目をつぶる生き方を強いられるのだ。彼らが説く幸福とは不幸への耐性に他ならない。

量子もつれ/『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー


『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
『量子革命 アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』マンジット・クマール

 ・量子もつれ

『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ
『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ

必読書リスト その三

 二つの実体が互いに作用すると、必ず「もつれ」が生じる。光子(光の小さな破片)や原子(物質の小さな破片)であっても、原子からなるもっと大きな塵埃(じんあい)や顕微鏡、あるいはネコやヒトのような命あるものであっても同様だ。のちに別の何かと相互作用しないかぎり――ネコやヒトにはそれができないためにその影響に気づかないが――どれほど互いに遠く離れていても、もつれは持続する。
 このもつれこそが、原子を構成する粒子の動きを支配している。まず、互いに作用しあうと、粒子は単独としての存在を失う。どれほど遠く離れていても、片方に力が加えられ、測定され、観測されると、もう片方は即座に反応するらしい。両者の間に地球がすっぽり入るほどの距離があったとしても、だ。だが、そのしくみは未解明だ。

【『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー:山田克哉監訳、窪田恭子〈くぼた・きょうこ〉訳(ブルーバックス、2016年)】

 量子には粒子と波動という二つの顔がある。この不思議を思えば幽霊や宇宙人など物の数ではない。初めて二重スリット実験を知った時、頭がこんがらがって理解する気も失せた。


 そしてもっと不思議なのが量子もつれである。例えば強い相互関係にある二つの電子があったとしよう。一つの電子は上向きスピンと下向きスピンの状態を重ね持つことができる。そして観測によって電子Aが上向きスピンであれば電子Bは下向きスピンとなる。この関係は電子AとBが宇宙の両端に存在しても変わることがない。

 もう一度説明しよう。電子は上向きスピンと下向きスピンの状態を併せ持つが観測することで方向性が確定する。片方の電子の向きがわかった瞬間にもう片方の向きが決まるのだ。何光年も離れた二つの電子がもつれているとすれば、光速を超えたスピードで情報がやり取りされていることになる。もしそうだとするなら特殊相対性理論に反する。というわけでアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスが発表された。アインシュタインは量子力学の父であったが星一徹のような厳父であった。しかも死ぬまで子供を認めようとしなかった。

「この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと」(Wikipedia)を非局所性という。量子もつれが痴情のもつれよりも強力なのは確かだがはっきりしたことは判明していない。個人的には「つながっている」のだろうと睨(にら)んでいる。もう一つは観測が及ぼす影響である。量子もつれは実験によって証明されているが、何光年も離れた状態の量子を同時に観測することは不可能だ。厳密に言えば観測は可能だとしても連絡を取るのに時間がかかる。同時性を証明することができない。

 相対性理論は速度と時間の概念を引っくり返したが、量子もつれは局所性を軽々と超える。実際の電子は原子核の周囲を惑星のように回っているわけではなく、雲のような状態で存在し確率として捉えられる。