2020-07-04

法定通貨が政府の「信用」で成り立っているという誤解/『今だからこそ、知りたい「仮想通貨」の真実』渡邉哲也


『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン
『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー

 ・法定通貨が政府の「信用」で成り立っているという誤解

 インターネット上で流通し、お金のように取引されている「仮想通貨」は、中郷銀行や金融機関を経由せずに取引されるデジタルデータで「紙幣」も「貨幣」もなく、国家による価値の保証もありません。しかし、専門の取引所(仮想通貨取引所)で円やドルなどの法定通貨に交換可能で、価格が大きく値上がりし、億単位の利益を得た「億(おく)り人(びと)」も登場したことで話題になり、仮想通貨の取引を始める人が増えました。

【『今だからこそ、知りたい「仮想通貨」の真実』渡邉哲也〈わたなべ・てつや〉(WAC BUNKO、2018年)】

 正確には暗号通貨(crypto currency)である。仮想通貨という言葉は現代のマネーシステムが仮想である事実を見失わせるので好ましくない。渡邉の著書は粗製乱造気味で食指が伸びない。本書もさほど期待せずに読んだのだが暗号通貨の取引をやめる契機になった。専門家はおしなべてブロックチェーン技術は優れているが暗号通貨そのものは危ういと説く。渡邉の主張は中央銀行がブロックチェーンを導入すれば現在流通しているデジタル通貨は吹き飛ばされるというものだ。確かに一定の説得力はある。

 今回紹介したいのは以下のテキストである。

 かつては紙幣は金や銀などと交換することができた。しかし現在流通しているドルや円は政府が何とも交換することのない不換紙幣である。「何もしない」ということが不換貨幣のそもそもの意味である。保証も何もあるはずがない。政府は逆に紙幣印刷でそれを暴落させることはするだろう。

 法定通貨が政府の「信用」で成り立っていると主張する人々もいるがこれも完全な間違いである。信用とは基本的に将来何かしてくれるかどうかという意味である。したがって紙幣における信用とは「紙幣を持っていけば政府が何か(例えばゴールド)と交換してくれる」信用があるという意味であり、何とも交換してはくれない不換紙幣にはそもそも信用という概念さえ存在しない。

 円やドルはファンダメンタルズで考えれば金本位制を廃止した時点で価値がゼロになっていなければおかしいのである。(あるいは紙としての価値は残るだろう。)現在の法定通貨は信用ではなく、単に完全なバブルによって成り立っている。

ジム・ロジャーズ氏: 仮想通貨の価値はゼロになる | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート

 これは難しい問題だ。ペイオフ解禁で預金の最低保証は1000万円までとなった。預金保険機構による保証は政府保証と考えてよい。ニクソン・ショック(1971年)でドルはゴールドの裏づけを失ったが、これは通貨の価値を変動相場制に委ねたことを意味する。現実にはアメリカ政府がドルとゴールドを交換することはないわけだが、マーケットや販売所にゆけば交換(トレード)できる。つまり国民がドルの価値を信用することで経済活動が成り立っているのだ。一方のゴールドを支えているのはその稀少性で、現在までの採掘量はオリンピックプール4杯分に満たない(3.8杯分)。マネーの価値はインフレ率分だけ年々下がっていくが、ゴールドは更なる高値を目指すことだろう。なぜなら中国がゴールドを買いまくっているためだ。そして世界各国の通貨の信用が剥げ落ちた時、ゴールド価格は想像を超える高値をつけるに違いない。

「信用という概念さえ存在しない」との指摘はどうか? 銀行が信用創造をしていることを踏まえれば「信用は機能している」と言えよう。ではニクソン・ショックをどう考えるべきなのか? アメリカ政府は1オンス35ドルの兌換(だかん)をやめたわけだが、現在ゴールドの価格は1オンス1800ドルとなっている。約半世紀でゴールド価格は51倍になった。逆に考えればドルの価値が1/51になったとも言える。対円だと360円から107.5円(今現在)に下がっている。円の価値は米ドルに対して3.35倍の価値が上がったわけだ。

 リーマン・ショック(2008年)以降、世界各国の中央銀行は量的緩和を行ってきた。わかりやすく言えば紙幣を刷りまくったわけだ(実際に印刷しているわけではない)。通貨の供給量が増えるわけだからコモディティ(商品)の相対的価値が上がる。ところがインフレ傾向にあるのは株価だけだ。デフレ後の経済は奇々怪々な状況を呈しており、ヘリコプターマネーは富豪の資産や大企業の内部留保となってとどまっている。川の流れが途絶えれば緑野は砂漠と化し、人体の血流が悪くなると冷え性が生じ、やがては動脈硬化・脳梗塞などを起こす。

 政治が格差を是正できなければ低所得者は社会主義になびくことだろう。左翼にとっては好機到来である。ソ連の崩壊で自由主義・資本主義が勝利したものと思い込んでいたが、もう少し長いスパンで見なければ本当の勝敗はわからない。

2020-07-02

解放の時/『休戦』プリーモ・レーヴィ


『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ

 ・フルビネクという3歳児の碑銘
 ・邪悪な秘密結社
 ・解放の時

『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その二

 巨大な馬にまたがった彼らは、灰色の空と灰色の雪の間で、宙に浮いているかのようで(道は収容所よりも高かった)、その骨肉をそなえた存在感は圧倒的だった。彼らは雪解けの気配を感じさせる湿った風にあおられながら、じっと立(ママ)たずんでいた。
 私たちが光の消えた天体のようにして、十日間、内部をさ迷い続けた、死でいっぱいの虚無が、その堅固な核を、凝結する核を見出したように思えたし、それは実際にそうだったのだ。4人の武装した男たち。だがその武器は私たちに向けられたものではなかった。4人の平和の使者。彼らは厚い毛皮の帽子の下に、まだ幼さの残る素朴な顔つきを見せていた。
 彼らはあいさつもせず、笑いもしなかった。彼らは憐れみに以外に、訳の分からないためらいにも押しつぶされているようだった。それが彼らの口をつぐませ、目を陰うつな光景に釘付けにしていた。それは私たちもよく知っていたのと同じ恥辱感だった。選別の後に、そして非道な行為を見たり、体験するたびに、私たちが落ち込んだ、あの恥辱感だった。それはドイツ人が知らない恥辱感だった。正しいものが、他人の犯した罪を前にして感じる恥辱感で、その存在自体が良心を責めさいなんだ。世界の事物の秩序の中にそれが取り返しのつかない形で持ち込まれ、自分の善意はほとんど無に等しく、世界の秩序を守るのに何の役にも立たなかった、という考えが良心を苦しめたのだ。
 こうして私たちにとっては、解放の時さえも、重苦しく、閉ざされたものになった。心は、喜びと同時に、過度の慎みの感覚に満たされた。私たちはこうした感覚によって、良心の呵責(かしゃく)を軽減し、わだかまっている不快な記憶を取り去れると思った。だが心の中には苦痛も入り込んできた。なぜなら私たちはそれが起こりえないことを感じていたからだ。冒涜(ぼうとく)の印は私たちの中に永遠に刻まれ、それに立ち会ったものたちの記憶に、それが置きた場所に、これから語られる物語の中にずっと残るはずだった。というのも、これは私たちの民族、私たちの世代の恐ろしい特権なのだが、私たち以上に、疫病のように伝染する、その冒涜(ぼうとく)の癒(い)やしがたい性質を理解しているものはいなかったからだ。人間の正義がそれを根絶するなどと考えるのは愚かなことである。それは無尽蔵の悪の根元なのだ。それは収容所に入れられた犠牲者の体と心をずたずたにし、打ちのめし、破滅させた。そして虐待者には汚名としてつきまとい、生き残ったものには憎悪として永遠に巣くって、みなの意志に反し、復讐(ふくしゅう)の渇望、道徳的敗北、拒絶感、厭世(えんせい)観、諦念(ていねん)といった具合には、様々な形で現れるのだった。

【『休戦』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(岩波文庫、2010年/脇功訳、早川書房、1969年)】

 解放の時は静かに訪れた。姿を見せたのは若いソ連兵だった。プリーモ・レーヴィがアウシュヴィッツから解放されたのは1945年のこと。カティンの森事件が1940年である。ソ連兵はスターリンによる粛清の嵐を呼吸しながら育ったのだろう。強大な暴力の痕跡は驚くほど酷似している。それがどんな暴力であったにせよ。人々を傷つけ、切り裂き、踏みつけ、穴を開け、ズタズタにし、朽ち果てさせるのだ。

 長い無力感の中で潮が満ちるように増した怒りは歳月にしたがって大きく育ってゆくに違いない。「歴史を変えることはできない」というプリーモ・レーヴィの宣言とも読める。しかしながら当事者以外は改竄(かいざん)された歴史を鵜呑みにし、歴史から目を背け、歴史を忘却し、同じ歴史を繰り返すのだ。殺戮(さつりく)が人間の業であれば、これを転換した宗教はいまだにない。むしろ宗教は虐殺の燃料として憎悪の火炎を拡大させた。

 あまりにも静かな精神は「変えることのできない過去」をじっと見つめていた。それが起こり得た世界を許すことは決してできないだろう。アウシュヴィッツを出ても、癒えぬ傷から血を流しながら生きてゆくことに変わりはない。まるで生きることは罪であるかのようだ。

2020-06-30

無責任な戦争アレルギー/『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
『ゲームチェンジの世界史』神野正史

 ・国際法成立の歴史
 ・無責任な戦争アレルギー

『「米中激突」の地政学』茂木誠
『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

世界史の教科書
必読書リスト その四

 第二次世界大戦後の歴史教育は、戦争を悲惨なもの、あってはならないものとしてタブー視し、戦争について語ることさえはばかられるという風潮を作ってきました。サッカーの公式試合にぼろ負けしたチームが、敗因の分析をまったく行わず、「二度とサッカーはしない。ボールは持たない」と誓いを立てたのです。
 あの軍民合わせて300万人もの日本人を死に至らしめた満州事変から第二次世界大戦に至る戦争についても「そもそも間違っていた」と断罪するだけで、「なぜ負けたのか? 今後二度と負けないためにはどうすればよいのか?」という議論は封殺されてきたのです。
 しかし現実の世界では苛烈な「試合」が今も続いており、日本が望むと望まざるとにかかわらず、巻き込まれる可能性が高まってきました。北朝鮮の核兵器搭載可能な弾道ミサイルが日本列島の上空を通過し、中国海上警察の公船が日本の領海侵犯を繰り返しているのです。武力紛争に巻き込まれないためにはどうすればいいのか、もし巻き込まれた場合はどうするのか、を真剣に議論しないのは、あまりにも無責任だと思います。

【『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠〈もぎ・まこと〉(TAC出版、2019年)】

「ゲームに負けた」というカテゴライズだと戦争とサッカーにさしたる差はない。確かに。それまで馬関戦争薩英戦争など特定の地域が敗れたことはあった。黒船ペリーに膝は屈したものの倒れはしなかった。日米戦争は日本にとって初めての敗北であった。その衝撃はあまりにも大きかった。日本人の精神的な空白状態を衝いてGHQが洗脳を施した(WGIP)。吉田茂首相は粘り腰で老獪(ろうかい)な交渉を行ったが、マッカーサーの顔ばかり窺って国民の表情を見ることがなかった。日本人は一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)状態に陥り、生々しい記憶を封印した。明治以降の急激な近代化を想えば、虐待された幼児のような心理状態であったことだろう。

 敗戦の原因を軍部の暴走に求めるのは左翼史観で日本が民主政であった事実を見失っている。日清戦争の三国干渉以降、日本国民は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉にロシアへの報復を待った。その後日露戦争には勝利したものの大きな戦果はなかった。こうした心理的抑圧は第一次世界大戦の戦勝国となったことで益々肥大していったのだろう。抑圧を解消するには戦争をする他なかった。その姿は家庭内暴力に目覚めた中高生のような姿であった。しかし白人帝国主義を打ち破ったわけだから彼らの権益を奪ったことは大いなる戦果とせねばなるまい。

 GHQ支配の往時を知るアメリカ人は日本がいまだに憲法第9条を改正していない事実に皆驚く。「確かに我々はあの時、日本から爪と牙をもぎ取ったが、その後のことは自分たちで選択したのだろう。それをアメリカのせいにするのはお門違いだ」と言う。アメリカからの政治的圧力は現在でもある。日本の政治家は結局吉田茂と同じ道を歩んだといってよい。しかしながらそれは飽くまでも経済面に限られていた。

 戦争アレルギーは1960年代の学生運動や進歩的文化人の言論を通して強化された。彼らの目的は日本を「戦争のできない国」にすることだった。ソ連が侵略する地ならしをしていたのだ。ベトナム戦争反対運動やウーマンリブ運動は何となく時代の先端を行っているようなムードがあった。その後、左翼知識人は犯罪をおかした少年の権利を擁護し、ジェンダー問題(女性の権利)~セクハラ糾弾、環境問題など、手を変え品を変え伝統的文化の破壊を試みている。

 中国や北朝鮮は既に沖縄と北海道を侵略しつつあるが日本政府は何ら対応をしようとしていない。将棋でいえば先手が10手くらい指したような状態だ。ここから挽回するのは難しいだろう。日中戦争は必至と見ているが勝てる見込みが年々薄くなっている。

2020-06-29

税務調査を恐れる必要はない/『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎


『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎
・『あらゆる領収書は経費で落とせる』大村大次郎

 ・税務調査を恐れる必要はない

『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎
・『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
・『起業のためのお金の教科書』大村大次郎
『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が古代~現代にガサ入れ』大村大次郎
『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎
『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎
『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎
・『知らないと損する給与明細』大村大次郎

 所得控除の中には、雑損控除というものもあります。
 雑損控除というのは、災害、盗難、横領で、生活上の資産の被害を受けた場合に受けられる控除のことです。
 この雑損控除、一般の人はあまりご存知ないですよね? サラリーマンの方などもほとんど知らないのではないでしょうか?
 でもサラリーマンの方もちゃんと使えるのです。
 災害や盗難などの被害に遭った場合、その損失額が5万円以上だったら、控除の対象となるのです。スリに財布を盗まれたような場合も該当します。
 王女できる額は(被害額-5万円)です。
 たとえば、盗難に遭って50万円の被害に遭ったとします。この場合は、
 50万円-5万円=45万円
 この45万円を、所得から控除できるのです。税額にすれば、だいたい5万円から数十万円の還付になります。ただ詐欺による被害はダメです。詐欺の場合には自己責任の部分もあるということでしょうか。

【『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(中公新書ラクレ、2012年)】

「税金は国家と国民の最大のコミュニケーション」(小室直樹)である。国家は道路を始めとするインフラや安全保障を提供し、国民は税と兵役を提供する。この交換関係・契約関係に国家-国民の基盤がある。元税務調査員の大村(仮名)がなぜ節税を勧めるのだろうか? それは日本が税を支払うに値しない国家であるからだ。メディアが情報の取捨選択をすることで大衆は目隠しをされている現状がある。昨年、消費税が10%に増税されたが、新聞・テレビはこれを推進し、国民は「やむなし」と判断した。大規模な反対運動やデモは起こっていないゆえ国民は合意したと判断できる。私はこれが日本を崩壊に導く楔(くさび)になったと考える。

 税務調査員には扶養家族が多いという。なぜなら別居でも扶養家族に入れることができるからだ。初耳だ。別居している親が年金収入一人約120万円以下であれば不要家族にすることができる。仕送り額の明確なルールは存在しない。また当然ではあるががフリーターやニートの子供も扶養家族にできる。大体、38~63万円の扶養控除が受けられる。更に夫が失業した場合、パートタイマーであっても妻の扶養家族にすることができる。

 領収書というのは、経費を証明する、重要な証票類ではあります。しかし、これがなくては絶対に経費として認められないのか、というとそうではないのです。実際に支払いがあるのなら、領収書がなくても経費として認められるのです。(中略)
 ですから、ちょっとした支払いや買い物ならば、レシートで十分なのです。レシートには、その支払内容と金額、日付などが明記されていますから、証票類として立派にその役目を果たすのです。
 何かの支払いをしたときに、必ず領収書をもらわなくてはならない、と思っている方も多いようですが、決してそうではありません。コンビニなどでも、わざわざ領収書をもらっている方をときどき見かけますが、あれはまったく無駄なことです。

 これは知っていた。レシートもない場合はメモ書きで十分だ。領収書の法的規定はない。要は事業に必要な経費として「いつ」「いくら」「何に」使ったかを証明できればいいわけだ。

 そして税金の申告は、原則として申告通りに認められます。つまり、納税者が申告した内容は、原則として認められるということです。税務当局は、申告内容に間違いがあるときに限って、それを修正させたり追徴したりできるわけです。
 つまり、納税者が「自分の申告が正しい」という証明をしなければ申告が認められないのではなく、税務当局がその申告が正しくないという証明をしない限り、申告は認められるのです。
 ということは、概算での申告であっても、一旦、申告は認められます。そしてその申告に誤りがあったときに初めて修正されたり、追徴されたりするわけです。

 税務調査と聞いただけで社長や個人事業主は震え上がってしまうものだが、実はそれほど恐れる必要はないことがわかった。ビクビクしてしまえば相手はそこに付け込んでくる。連中の仕事は「違反を見つてなんぼ」の世界である。思い上がったクズが多いようなので、一朝事が起こった場合は刺し違えてみせるほどの気概を見せておいた方がいいだろう。

 納税を年貢意識で支払っていれば国民が国家の主体となることはない。税務署の捕捉率は「トーゴーサン(10:5:3)」と言われる。サラリーマンは10割、自営業者は5割、農家が3割の所得を捕捉されているという意味だ。サラリーマンは源泉徴収で所得は完全にガラス張りだ。自営業者と農家は労働人口の1割ちょっとである。彼らが優遇されているのはどう考えてもおかしい。自民党が農家に甘いことはよく覚えておくべきだろう。

 大村は国民目線で税の不平等を指摘し続けている。高橋洋一でさえ言っていないような事実も多い。特に一貫して大企業や金持ち優遇のメカニズムを暴露している。立派な国をつくるためには国民が賢くなるしかない。なぜなら民主政で選ばれた政治家は国民の平均値を上回ることはないからだ。