・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
・管仲と鮑叔
・およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
鮑(ほう)は氏であり、姓は姒(じ)である。姒という姓は、夏(か)王朝の禹(う)王からはじまる。禹王の子孫はみな姒姓をもち、住みついた地の名によって氏が生じた。鮑敬叔(ほうけいしゅく) は封邑(ほうゆう)をもつ中級貴族であるが、当然のことながら、その血胤は斉の公室にかかわりがない。とはいえ、斉は太公望(たいこうぼう)という軍事の天才によって建国されたときから多民族国家であった。周の文王、武(ぶ)王、成(せい)王を輔成した太公望の姓は羌(姜〈きょう〉)であるが、かれは羌族ばかりを優遇し重用したわけではなく、要職に異姓の才俊(さいしゅん)をすえた。すなわち太公望は血筋より能力を重視したのである。その点、斉という国の体質は他国とはまるでちがった。周王室の思想のなかには血を尊ぶというものがあり、それが当時では、新思想であった。ちかう、という字をおもえばよい。周以前では、誓う、つまり言(ことば)でちかうのであり、周以後は、生(い)け贄(にえ)の血をすすりあってちかうので、盟という字を用いる。盟の下部の字は皿ではなく血がほんとうである。むろん斉の君主が周王に従っているかぎり、そういう思想のなかで違和を生じないようにこころがけたにはちがいないが、斉公室の始祖である太公望がもっていた民族平等の思想がまったく消滅したわけではなかった。それゆえ、異姓人あるいは異邦人が、住みやすさをおぼえるのは、天下広しといえども、斉だけであるといってよい。
【『管仲』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(角川書店、2003年/文春文庫、2006年)】
「管鮑の交わり」という故事成語がある。深い友情を意味する言葉で管仲と鮑叔は実在した人物だ。「仲(ちゅう)曰(いわ)く、我を生む者は父母、我を知る者は鮑子(ほうし)なり」(Web漢文大系)と称(たた)えた言葉が数千年を経て現代の日本にまで届いている。
太公望(紀元前1000年頃)と管仲は350年ほど時代を経ているが、まだ情報が発達していない時代なので隔世の感はやや薄いと考えていいと思う。この時代で名を残した日本人はいない。卑弥呼が西暦200年代の人物であることを思えばシナ文明の古さを理解できよう。
鮑敬叔(ほうけいしゅく)は鮑叔(ほうしゅく)の父親である。まだ社会が安定していない時代である。人の性分はまだ動物に近かったことだろう。盗む、殺すといった行為も平然と行われたに違いない。仏教の五戒やモーセの十戒が示したのは動物性からの脱却であろう。人道は社会の力を高める。それは「群れの優位性」だ。
血縁は動物の論理である。「民、信無くば立たず」(『論語』)が社会の生命線であり、血縁を重んじれば他の縁が弱くなる。日本においては皇統以外の血縁は不要であると私は考える。
明治維新においても薩長閥の形成を許さなければ、昭和も大いに異なる表情を見せたことだろう。日本の社会は基本的に利権の構造があり、あらゆるところでムラ社会が形成される。日本特有のセクト主義と言ってよい。大東亜戦争でも陸軍と海軍が団結することはなかった。悪しき排他性を払拭できないところに自民党長期政権の理由がある。