1928年になると、ジャンゴはフランス・グラモフォンやIdeal等のレーベルでレコーディングを行うようになる。しかし、この年の10月26日未明、ジャンゴはキャラバンの火事を消そうとして、半身に大やけどを負う。その結果、彼の右足は麻痺し、左手の薬指と小指には障害が残った。彼を診察した医師がギターの演奏は二度と無理だと思うほどの怪我であったが、ジャンゴは練習によって独自の奏法を確立し、ハンディキャップを克服した。
【Wikipedia】
(デューク・エリントンと)
(エディット・ピアフと)
愛は地球を救い、同性愛は笑いのネタですか。ご立派な番組で。┃Togetter>24時間テレビで放送された嵐の大野智さんと神保悟志さんの「オネエの先輩俳優が迫る!」と題されたドッキリについて togetter.com/li/362251
— NTYさん (@NTYjp) 8月 27, 2012
偏(ひとへ)に法律を以て防護の具となす者は、攻伐(こうばつ)の具となす者也。盾(たて)の両面を知悉(ちしつ)せる後にありて、人多くは高利貸となり、詐欺師となり、賭博師となり、現時の政治家となる。
【日刊新聞「万朝報」明治31年1月9日~32年3月4日(※送り仮名は適宜割愛した)/『緑雨警語』斎藤緑雨〈さいとう・りょくう〉、中野三敏編(冨山房百科文庫、1991年)以下同】
智は有形なり、徳は無形なり。形を以て示すを得、故に智は進むなり。形を以て示すを得ず、故に徳は進むことなし、永久進むことなし。若有之(もしこれあり)とせば、そは智の色の余れるをもて、徳の色の足らざるを一時、糊塗(こと)するに過ぎず。
約言すれば社会の智識は、書肆(しょし)の戸棚也、戸棚の隅也、隅の塵也、塵の山也。
無鑑札なる営業者を、俗にモグリと謂(い)ふ。今の政党者流(せいたうしやりゆう)は、皆このモグリなり。鑑札無くして売買に従事するものなればなり。
学問は宜しく質屋の庫(くら)の如くなる可からず、洋燈屋(らんぷや)の店の如くなる可し。深く内に蓄ふるを要せず、広く外に掲ぐべし、ぶら下ぐべし、さらけ出すべし。其庫(そのくら)窺知(きち)し難きも、其店の透見(とうけん)し易きも、近寄る可からざるは一(いつ)なり、危険は一なり。
官吏も商ひなり、議員も商ひなり、一(いつ)として商ひにあらざるは莫(な)し。商ひの盛んなるは、売買の盛んなるなり。売買の盛んなるは、金銭授受の盛んなるなり。要するに商業は金銭也。商業より金銭を脱離せよといふは、天下比類なく不法の註文也。況(いわん)や各自、商業の発達を企図しつつあるに於(おい)てをや。金銭重んずべし、崇(たつと)ぶべし、百拝(ぱい)すべし。日本は世界の商業国たらざる可からず。
恐るべきペストよ、恐れても且(かつ)恐るべきペストよ。来りて悪者(あくしや)を斃(たふ)せ、猶来りて善者を斃せ。人幾千万を斃したる時、金(かね)万能の世は少しく揺(うご)きて、其処(そこ)に微(かす)かなる信仰の光を認むるを得んか。
紳士とは服装の事なり、思想にあらず。車馬の事なり、言語にあらず。かくて都は楽土たり、人物の会萃(かいすい)たり、幾十百種の書の発行所たり。
【文芸雑誌「活文壇」明治33年1月10日】
一攫千金、これ当代の呪文也。積むをおもはず、累(かさ)ぬるをおもはず、貯(たうは)ふるをおもはず、単に切に、拾はんことをおもへり。
【週刊新聞「太平洋」明治33年1月1日~22日、以下同】
何人(なんぴと)の財布の裡(うち)にか、罪悪を潜(ひそ)めざるものある。財(ざい)の布(ふ)は罪(ざい)の府也。
正義は呼号すべきものなり、印刷すべきものなり、販売すべきものなり。決して遂行すべきものにあらず。
くれは即(すなは)ち、与へよの義なり。請求の声、天地に漲(みなぎ)るによりて、一年のくれとはいふとぞ。
世は米喰う人によりて形成され、人啖(く)ふ鬼によりて保持せらる。
おもふがまゝに後世を軽侮(けいぶ)せよ、後世は物言ふことなし、物言ふとも諸君の耳に入ることなし。
【日刊新聞「二六新報」明治33年11月25日~12月29日、以下同】
按(あん)ずるに筆は一本也、箸(はし)は二本也。衆寡(しうくわ)敵せずと知るべし。
人は鳥ならざるも、能(よ)く飛ぶものなり。獣ならざるも、能く走るものなり。されども一層、適切なる解釈に従はゞ、人は魚(うを)ならざるも、能く泳ぐものなり。
【日刊新聞「二六新報」明治35年2月2日~8月22日、以下同】
奔走(ほんそう)するが故に、迅速を貴(たつと)ぶが故に、種々の事物を齋(もたら)すが故に、おそろしき声を立つるが故に、記者と汽車とは其音(そのおん)をひとしくす。共に轢殺(れきさつ)を目的とせざるも、然(しか)もしばしば轢殺のことあるは、更に重大の一理由なるべし。
あゝわれ何の欠点かあらん。強(しひ)て求めば富豪岩崎を、伯父さんに持たざることのみ。
【日刊新聞「二六新報」明治36年5月11日~7月27日、以下同】
道理は強弱を判(わか)てど、曲直を判たず。畢竟(ひっきょう)強者のものなり、弱者のものにあらず。
死人に口無しで遺体の身元を偽る事は可能。しっかり自分で比べてみて。顎ひげを生やした自由シリア軍兵士らは、ほぼ外人傭兵といわれてる。#シリア は中東でも進歩的で、ニュースに写る一般人youtube.com/user/SiriaNews/ であごひげがある人は珍しいぐらい。#syrjp
— SyriangirlFANさん (@SyriangirlFAN) 8月 25, 2012
東京電力の記者会見に出席すると、肌身で感じられますが、社員が自分たちは加害者ではなく被害者だと思っているからです。「被害者なのに理不尽なイジメを受けている」と RT @hironakayuriko あれだけの事故を起こした会社が、どうして資料を非公開にできるのかが理解できません。
— 寺澤有さん (@Yu_TERASAWA) 8月 25, 2012
樋口一葉の真価を理解評価し、森鴎外・幸田露伴とともに「三人冗語」で紹介した一人である。1896年(明治29年)1月に手紙をやりとりし始め、緑雨は直截な批評を一葉に寄せるようになる。樋口家を訪問しては一葉と江戸文学や当時の文壇について語り明かし、一葉は「敵にまわしてもおもしろい。味方にするとなおおもしろそうだ」とその印象を日記に書き記している。以来、一葉没するまで2人の交流は続く。
【Wikipedia】
今はいかなる時ぞ、いと寒(さぶ)き時なり、正札(しょうふだ)をも直切(ねぎ)るべき時なり、生殖器病云々(うんぬん)の売薬広告を最も多く新聞紙上に見るの時なり。附記す、予が朝報社に入れる時なり。
【日刊新聞「万朝報」明治31年1月9日~32年3月4日(※送り仮名は適宜割愛した)/『緑雨警語』斎藤緑雨〈さいとう・りょくう〉、中野三敏編(冨山房百科文庫、1991年)以下同】
代議士とは何ぞ、男地獄的壮士役者(おじごくてきそうしやくしゃ)と雖(いへど)も、猶(なほ)能(よ)く選挙を争ひ得るものなり。試みに裏町に入りて、議会筆記の行末をたづねんか、截(き)りて四角なるは安帽子(やすぼうし)の裏なり、貼りて三角なるは南京豆の袋なり、官報の紙質殊(こと)に宜(よろ)し。
拍手喝采は人を愚(おろか)にするの道なり。つとめて拍手せよ、つとめて喝采せよ、渠(かれ)おのづから倒れん。
途(みち)に、未(いまだ)学ばざる一年生のりきみ返れるは、何物をか得んとするの望(のぞみ)あるによるなり、既に学べる三年生のしをれ返れるは、何物をも得るの望(のぞみ)なきによるなり。但し何物とは、多くは奉公口(ほうこうぐち)の事なり。
選(えら)む者も愚なり、選まるゝ者も愚なり、孰(いづ)れか愚の大なるものぞと問はゞ、答(こたへ)は相互の懐中に存すべし。されど愚の大なるをも、世は棄(す)つるにものにあらず、愚の大なるがありて、初めて道の妙を成すなり。
日本は富強なる国なり、商にもよらず、工にもよらず、将(はた)農にもよらず、人皆内職を以(もつ)て立つ。
渠(かれ)はといわず、渠もといふ。今の豪傑と称せられ、才子と称せらるゝ者、いづれも亦(また)の字附(つ)きなり。要するに明治の時代は、「も亦」の時代なり。
涙ばかり貴(たふと)きは無しとかや。されど欠(あく)びしたる時にも出づるものなり。
問ふて曰く、今の世の秩序とはいかなる者ぞ。答へて曰く、銭勘定に精(くは)しき事なり。
恩は掛くるものにあらず、掛けらるゝものなり。漫(みだ)りに人の恩を知らざるを責むる者は、己も畢竟(ひっきょう)恩を知らざる者なり。
若(も)し国家の患(うれひ)をいはゞ、偽善に在らず偽悪に在り。彼(か)の小才(せうさい)を弄し、小智(せうち)を弄す、孰(いづ)れか偽悪ならざるべき。悪党ぶるもの、悪党がるもの、悪党を気取る者、悪党を真似る者、日に倍■(ますます/伏字は「々」ではなく二の字点)多きを加ふ。悪党の腹なくして、悪党の事をなす、危険これより大なるは莫(な)し。
賢愚は智に由(よつ)て分(わか)たれ、善悪は徳に由て別たる。徳あり、愚人(ぐじん)なれども善人なり。智あり、賢人なれども悪人なり。徳は縦に積むべく、智は横に伸ぶべし。一(いつ)は丈(たけ)なり、一は巾(はば)なり、智徳は遂(つひ)に兼ぬ可(べか)らざるか。われ密(ひそか)におもふ、智は凶器なり、悪に長(た)くるものなり、悪に趨(はし)るものなり、悪をなすがために授けられしものなり、荀(いやし)くも智ある者の悪をなさゞる事なしと。
勤勉は限(かぎり)有り、惰弱は限無し。他(た)よりは励すなり、己よりは奮ふなり、何ものか附加するにあらざるよりは、人は勤勉なる能(あた)はず、惰弱は人の本性(ほんせい)なり。
打明けてといふに、已(すで)に飾(かざり)あり、偽(いつはり)あり。人は遂に、打明くる者にあらず、打明け得る者にあらず。打明けざるによりて、わづかに談話(はなし)を続くるなり、世に立つなり。
知己(ちき)を後の世に待つといふこと、太(はなはだ)しき誤りなり。誤りならざるまでも、極めて心弱き事なり。人一代に知らるゝを得ず、いづくんぞ百代の後に知らるゝを得ん。
己を知るは己のみ、他(た)の知らんことを希(ねが)ふにおよばず、他の知らんことを希ふ者は、畢(つひ)に己をだにも知らざる者なり。自ら信ずる所あり、待たざるも顕るべく、自ら信ずる所なし、待つも顕れざるべし。今の人の、ともすれば知己を千載(せんざい)の下(もと)に待つといふは、まことに待つにもあらず、待たるゝにもあらず、有合(ありあ)はす此句(このく)を口に藉(か)りて、わづかにお茶を濁すなり、人前をつくろふなり、到らぬ心の申訳(まをしわけ)をなすなり。
知らるとは、もとより多数をいふにあらず、昔なにがしの名優曰く、われの舞台に出(い)でゝ怠らざるは、徒(いたづ)らに幾百千の人の喝采を得んがためにあらず、日に一人の具眼者の必ず何(いづ)れかの隅(すみ)に有りて、細(こまか)にわが技(ぎ)を察しくるゝならんと信ずるによると。無しとは見えてあるも識者なり、有りとは見えてなきも識者なり。若(も)し俟(ま)つ可(べ)くば、此(かく)の如くにして俟つ可し。
恐る可(べ)きもの二つあり、理髪師と写真師なり。人の頭を左右し得(う)るなり。
さる家の広告に曰く、指環(ゆびわ)は人の正札(しゃうふだ)なりと。げに正札なり、男の正札なり。指環も、時計も、香水も、将又(はたまた)コスメチツクも。
理ありて保たるゝ世なり。物に事に、公平ならんを望むは誤(あやまり)なり、惑(まどひ)なり、慾(よく)深き註文(ちゅうもん)なり、無いものねだりなり。公平ならねばこそ稍(やゝ)めでたけれ、公平を期すといふが如き烏滸(おこ)のしれ者(※大馬鹿者)を、世は一日(じつ)も生存せしめず。
それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といわず文学といわず。
終戦の日らしいことを言うと、我々があの戦争から学ぶべきことは「正義に酔うな」とかいう安っぽい相対主義的な教訓ではなく、「サンクコストに囚われるな」「制度的誤謬を運用でカバーしようとするな」「制度設計の問題点を是正する時は、慎重に」という、極めて具現的な教訓なのではないか。
— noiehoieさん (@noiehoie) 8月 14, 2012
いま出ている「歌壇」九月号(本阿弥書店)に巻頭作品二十首「ゆでたまご」が掲載されています。震災で避難したころの心境を、初めて短歌にしました。「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」
— 俵万智さん (@tawara_machi) 8月 16, 2011
ルサンチマンの本質
定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして【実際にそうであった】、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそが【よい】生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)
【『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均〈ながい・ひとし〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、2009年)】
TPPの「工業製品、農産物、知的所有権、司法、金融サービスなど、24分野の全てにおいて例外なしに関税・貿易障壁を撤廃する」という内容は、国際金融資本にとってバラ色の未来だ。政府が「国民を守る責任」を放棄してくれるだけでなく「相手国のルール変更が可能なISD」というおまけ付きだから
— 笹田 惣介さん (@show_you_all) 8月 7, 2012
【北米自由貿易協定:NAFTAのISDにおける訴訟件数と結果】カナダ:28件(米国からの提訴に対し、全て敗訴し賠償)、メキシコ:19件(米国からの提訴に対し、全て敗訴し賠償)、米国:19件(カナダ、メキシコからの提訴に対して、全て勝訴)。酷過ぎて笑ってしまうほどの「偏り具合」だ。
— 笹田 惣介さん (@show_you_all) 8月 7, 2012