2016-07-15
ダニエル・チャモヴィッツ、三枝充悳、稲垣栄洋、岡ノ谷一夫、堀栄三、他
21冊挫折、13冊読了。これ以上のペースで読むと読書日記も書けなくなりそうだ。
『生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学』ピーター・ウォード、ジョゼフ・カーシュヴィンク:梶山あゆみ訳(河出書房新社、2016年)/文章が肌に合わず。もったいぶった姿勢を感じる。
『森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一〈もり・こういち〉(小学館ライブラリー、1994年)/良書。「鋸喩経」(こゆきょう)を調べて辿り着いた一冊。ノコギリの部分はしっかり読んだ。
『絶対の真理「天台」 仏教の思想5』田村芳朗〈たむら・よしろう〉、梅原猛(角川書店、1970年/角川文庫ソフィア、1996年)/シリーズの中では一番面白みがない。最後まで目を通したものの半分ほどは飛ばし読み。説明に傾いて閃きを欠く。
『日本の分水嶺』堀公俊(ヤマケイ文庫、2011年)/文体が合わず。
『ブレンダと呼ばれた少年 性が歪められた時、何が起きたのか』ジョン・コラピント:村井智之訳(扶桑社、2005年/無名舎、2000年、『ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何が起きたのか』改題)/武田邦彦が取り上げていた一冊。双子の赤ん坊の一人がペニスの手術に失敗する。性科学の権威ジョン・マネーが現れ、性転換手術を勧める。男の子はブレンダと名づけられ少女として育てられる。ところが思春期になるとブレンダは違和感を覚え始める。後に逆性転換手術をして力強く生きていった。ところが訳者あとがきで驚愕の事実が明らかになる。これは読んでのお楽しみということで。神の位置に立って勝手な創造を行うのが白人の悪癖である。尚、扶桑社版の編集に対する批判があることを付け加えておく。
『(日本人)』橘玲〈たちばな・あきら〉(幻冬舎、2012年/幻冬舎文庫、2014年)/文章の目的がつかみにくく行方が知れない。
『リベラルの中国認識が日本を滅ぼす 日中関係とプロパガンダ』石平、有本香(産経新聞出版、2015年)/有本香の対談本は出来が悪い。
『「朝日新聞」もう一つの読み方』渡辺龍太〈わたなべ・りょうた〉(日新報道、2015年)/これも武田邦彦が紹介していた一冊。文章が軽すぎて読めない。ネット文体といってよし。
『紛争輸出国アメリカの大罪』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(祥伝社新書、2015年)/文章に締まりがない。
『日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか』小谷賢(講談社選書メチエ、2007年)/とっつきにくい。後回し。
『はじめての支那論 中華思想の正体と日本の覚悟』小林よしのり、有本香(幻冬舎新書、2011年)/本書では「小林さん」と呼んでいるが、有本は動画だと「小林先生」と呼ぶ。ある種の芸術家に対する尊称なのか、個人的敬意が込められているのかは判断がつかない。有本同様、小林の対談本も一様に出来が悪い。「わし」という言葉遣いが示すように公(おおやけ)の精神が欠如している。
『川はどうしてできるのか』藤岡換太郎〈ふじおか・かんたろう〉(ブルーバックス、2014年)/変わった名前である。まるで北風小僧(笑)。文章がよくない。
『カウンセリングの理論』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1981年)/『カウンセリングの技法』(1979年)、本書、『エンカウンター 心とこころのふれあい』(1981年)、『カウンセリングの原理』(1996年)が誠信書房の4点セット。國分康孝は実務的な文章でぐいぐい読ませる。ただし今の私に本書は必要ないと判断した。
『法句経講義』友松圓諦〈ともまつ・えんたい〉(講談社学術文庫、1981年)/初出は『法句経講義 仏教聖典』(第一書房、1934年)か。初心者向きの解説内容である。宗教を道徳次元に貶めているように感じ、読むに堪えず。
『これでナットク!植物の謎 植木屋さんも知らないたくましいその生き方』日本植物生理学会編(ブルーバックス、2007年)/ホームページに寄せられた質問に学者が丁寧に答えたコンテンツの総集編である。続篇『これでナットク! 植物の謎 Part2』(2013年)も出ている。
『〈税金逃れ〉の衝撃 国家を蝕む脱法者たち』深見浩一郎(講談社現代新書、2015年)/パラパラとめくって食指が動かず。
『タックス・イーター 消えていく税金』志賀櫻〈しが・さくら〉(岩波新書、2014年)/「タックス・イーター」をスパっと説明していないのが難点だ。具体的に個人を特定するほどの執念がなければ、ただの解説書である。
『パナマ文書 「タックスヘイブン狩り」の衝撃が世界と日本を襲う』渡邉哲也(徳間書店、2016年)/これも渡邉本としては出来が悪い。文章に人をつかむ力が感じられない。
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修(海竜社、2015年)/良書。これはおすすめ。歴史的経緯を辿ると自衛隊の役割がくっきりと浮かび上がってくる。しかも西は自ら海外を訪れ、直接資料に当たり、関係者に取材している。半分だけ読んだが、それでもお釣りがくる。
『日本人よ!』イビチャ・オシム:長束恭行訳(新潮社、2007年)/話し言葉ほどの切れ味が文章にはない。
『怪獣使いと少年ウルトラマンの作家たち』切通理作〈きりどおし・りさく〉(増補新装版、2015年/JICC出版局、1993年/宝島社文庫、2000年)/編集した町山智浩からの申し出で復刊した模様。読み手を選ぶ本だ。オタク目線が強く、一般よりは特殊に傾く。切通本人の心情も湿り気が濃い。
92冊目『日本人だけが知らない戦争論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2015年)/久し振りの苫米地本である。右傾化への警鐘が巧みで一読の価値あり。サイバー戦争の具体的な解説が圧巻。
93冊目『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司〈おおぐり・ひろし〉(幻冬舎新書、2012年)/大栗はカリフォルニア工科大学ウォルター・バーク理論物理学研究所所長を務める人物だ。場の量子論や超弦理論で国際的な評価を得ている大物である。読みやすい教科書本。いくつかの蒙(もう)が啓(ひら)いた。
94冊目『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ:矢野真千子訳(河出書房新社、2013年)/良書。200ページ弱の小品。著者はイスラエルの学者。後半にわずかなダレがあるが、しっかりとニューエイジ系の誤謬を撃つ。
95冊目『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)/上念司〈じょうねん・つかさ〉が毎年繰り返し読む本である。登場人物に精彩がある。原爆を大本営参謀は知らなかったと書いている。陸軍中野学校と情報が共有されていないことがわかる。「日本の近代史を学ぶ」に追加。
96冊目『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』内藤国夫(日新報道、1989年)/往時、内藤国夫は本多勝一と人気を二分するジャーナリストであったが、その晩節は暗く寂しいものであった。福島源次郎著『蘇生への選択 敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか』と本書を併せ読めば、内藤国夫の下劣さが理解できる。基本的にジャーナリストは人間のクズだと考えてよい。
97冊目『裏切りの民主党』若林亜紀(文藝春秋、2010年)/面白かった。若林は文章はいいのだが性格が暗い。表情や声のトーンからもそれが窺える。たぶん生真面目なのだろう。若林はクズではない稀有なジャーナリストである。事業仕分けの経緯と舞台裏がよくわかった。本書に登場する民主党参議員の尾立源幸〈おだち・もとゆき〉が先日落選した。
98冊目『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫(河出ブックス、2011年/河出文庫、2013年)/小川洋子の前文は読む必要なし。対談は上手いのだが科学的知識の理解に誤謬がある。言葉の発生は歌であったと岡ノ谷は主張する。おお、我が自説と一緒ではないか。岡ノ谷の博識に対して小川の反応がよく一気読み。
99冊目『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦・絵 (文藝春秋、2010年)/まあまあ。岡ノ谷は手抜き本が多そうだ。これも執筆なのか語り下ろしなのか微妙なところ。
100冊目『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係』稲垣栄洋〈いながき・ひでひろ〉(幻冬舎新書、2015年)/見事な教科書本である。稲垣は植物学者でありながら仏教の知識もしっかりしている。これはおすすめ。
101冊目『結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/このシリーズでは一番よくまとまっていると思う。ただしエントロピーに関する記述は完全に誤っている。社会的信用のためにも削除すべきだろう。スマナサーラは小さな誤謬が多いので要注意。
102冊目『初期仏教の思想(上)』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(レグルス文庫、1995年)/難しかった。三枝ノートといってよい。研究者の凄まじさがよくわかる。
103冊目『あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/サンガ新書のスマナサーラ本は慣れてくると1時間ほどで読める。やや牽強付会な印象はあるが、相変わらず読ませる。
104冊目『ぼくは13歳 職業、兵士。 あなたが戦争のある村で生まれたら』鬼丸昌也、小川真吾(合同出版、2005年)/良書。ただし終わり方がよくないので必読書には入れず。読者を誘導しようとする魂胆が浅ましい。「自分は正しい」という感覚が目を見えなくする。たとえ目的が正しいものであったとしてもプロパガンダはプロパガンダである。コンゴの少年兵の悲惨と彼らが語る夢に心を打たれる。「チャイルド・ソルジャー」だから子供兵・児童兵が正しい訳語か。
2016-07-13
武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大問題(2)国の借金
・「腐敗した銀行制度」カナダ12歳の少女による講演
・30分で判る 経済の仕組み
・「Money As Debt」(負債としてのお金)
・武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大事(1)憲法改正
・武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大問題(2)国の借金
・『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
・『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
・『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
尚、質疑応答は聴く必要なし。問いは単純であればあるほど深く突き刺さる。どのような問いを設定し得るかに知性が表れる。
2016-07-12
人間の営為が災害を増幅する/『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
・人間の営為が災害を増幅する
・『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
・『人が死なない防災』片田敏孝
より豊かで快適な生活を求める人間の営為が、それまでそこにあった自然を変えていく。このようにして集積された自然に対する人為のインパクトが大きくなっていくと、反作用としての新しいタイプの災害が、次々と現われてくる。私たちは、それらに一つひとつ対応していかなければならないのである。いかに激しく自然が猛威をふるったとしても、そこに人間の営みがなければ災害はない。けれども、そこに人間の営みがあれば、とどまることなく不断に自然に働きかけるその営みそのものが、新たな災害の原因になりうるのである。効率化をはかるために、自然環境を無思慮に改造していくと、緩衝機能をうしなった大自然は、たとえわずかな変動であっても、それを増幅して私たちにかえしてくる。
【『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠(集英社新書、2004年)以下同】
災害という概念そのものが人間の「勝手な都合」である。大地や海に悪意はないし、火や水に殺意があるわけでもない。人は死ぬ存在である。転んだり、血管が1本切れたり、餅が喉に詰まっただけでも死んでしまう。他人の死を呑気に眺めながら、自分の死を見失うのが我々の常である。
文明は農耕に始まり、近代に至るまで治水の攻防が続いた。川の氾濫を防ぎ、ダムを造ることで水をコントロールし、居住地域を拡大してきた。経済の発展を支えるのは道路である。私が子供の時分はまだ舗装されていない道路があったが、現在は路地でもない限り、ほぼアスファルトに覆われている。線路や高速道路も日本中に行き渡っている。
自然は長大な歳月をかけて少しずつ変化してゆくが、人間の営みは環境を一気に変えてしまう。抑えつけたエネルギーは蓄積する。自然を整備するという発想は人類の大いなる錯覚である。エントロピーは増大する。秩序は必ず無秩序へ向かうのだ。
それだけではない。ライン河を筆頭にヨーロッパの国際河川では、19世紀より水運の便宜と洪水対策のため、河川の蛇行部分を削り、まっすぐにする“整形工事”が行われてきた。流に“遊び”がなくなったため、かつてはゆっくりと流れていた大河の流速が、それまでの2倍にもなってしまったのである。そして川岸を堤防で固めたことによって、流域の氾濫原が洪水時の貯水機能をうしなってしまった。加えて、森林の乱伐と道路のアスファルト舗装によって、大地の保水力に頼ることができなくなってしまった。そのため、降った雨が、猶予なしに河川に流れこむことになったのである。ドイツ、フランス、ベルギー、オランダなどを毎冬のように襲う大洪水には、このような人為的な原因が関わっている。河川の改修や護岸の整備など、本来は防災を目的にした行為自体が、逆に洪水の脅威を増幅してしまったのである。
人類は平野を好む。土地が肥沃である上に住みやすい。日本の都市はどこも平野部にある。
・Googleマップ
北海道・四国・九州はドラッグせよ。
人間が造った人工物は自然の循環機能を阻害する。そして時に手痛いしっぺ返しを食らう。
東日本大震災の後に残ったものは瓦礫(がれき)の山と放射能であった。異変が起こっても自然はわずかな時間で修復する。人間がつくったものはゴミと化し、更なる人為を必要とする。
防波堤や防潮堤よりも、津波の感知システムにカネを掛けるべきだろう。地震を予知することはできないが、津波は何らかの形で観測可能だと思う。
後は逃げる能力を磨くだけだ。
2016-07-10
ブッダ以前に仏教はない/『つぎはぎ仏教入門』呉智英
・ブッダ以前に仏教はない
・『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
ところで、仏教のそもそもの宗祖は釈迦である。釈迦はその弟子や信徒たちと、どんな仏像を拝み、その前でどんなお経を唱えていたのだろうか。
ちょっと考えてみよう。釈迦以前に仏教はない。覚(さと)りを開いて仏陀(ぶっだ)となった釈迦が仏教の宗祖だからである。イエス・キリスト以前にキリスト教はない。イエスの教えがキリスト教である。キリスト教では神父や牧師が信徒たちと十字架の前に額(ぬか)ずくけれど、イエス自らが使徒たちと十字架に額ずいたことなどありえない。十字架上にあるのはイエスその人だからである。これと全く同じように、仏陀釈迦が弟子や信徒たちと仏像を拝んだことなどありえない。釈迦以前に仏教はなく、仏像はないからである。
【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年/ちくま文庫、2016年)】
気づくのは一瞬だ。「あ!」と思った途端に目から鱗が落ちる。少しずつ徐々に気づくということはない。呉智英〈くれ・ともふさ〉は儒者である。外側に立っていたからこそ仏教の本質が見えるのだろう。
ブッダ以前に仏教はなく、イエス以前にキリスト教はない。言葉の限界性を思えば、悟りから発せられた言葉であったとしても、言葉そのものは悟りではない。
念仏を発明した人は南無阿弥陀仏と唱えて悟ったわけでもないし、題目を編み出した人が南無妙法蓮華経と念じて悟ったわけでもない。
ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)であるが、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み/サンスクリット語読みではガウタマ・シッダールタ)以前にもブッダと呼ばれる人々は存在した。つまり悟りの道は一つではないのである。尚、イエスの実在については多くの疑問があり確かな証拠がない。
理窟をこねくり回すのは悟っていない人々だろう。論者・学者は覚者ではない。ひとたび論理の網に搦(から)め捕られると、知識の重みに満足してニルヴァーナ(涅槃)から離れてゆく。
教団が形成されると教義と儀式の構築に傾いてゆく。ブッダの教えはシナを経て日本に至り信仰へと変質した。お経を読み、仏像やマンダラを拝む宗教になってしまった。
教義は死んだ言葉である。繰り返されるマントラ(真言)も生きた言葉ではない。
言葉はコミュニケーションの道具である。真のコミュニケーションは自我を打ち消す。そして言葉を超えた地点にまで内省が深まった時、世界を照らす光が現れるのだろう。瞑想とは思考を解体する営みだ。
教義を説く者を疑え。
2016-07-09
エキスパート・エラー/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
・『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
・集団同調性バイアスと正常性バイアス
・エキスパート・エラー
・『人が死なない防災』片田敏孝
・『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
・『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
・『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
・『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
・『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
9.11同時多発テロ事件発生時、世界貿易センタービルで勤務していたジョンソンさんのケースを見てみよう。55階のオフィスにはジョンソンさんを含め約10名のスタッフがいた。テロ発生後、彼らは、ビルの防災センターに電話をかけた。マニュアルでは災害や火災が発生したときは防災センターの指示に従うことになっていた。「我々はどうしたらいいのか」と尋ねると、警備員が出て「救助に行くから、待機していてください」と答えた。ジョンソンさんたちは待った。しかし煙がオフィスにまで迫ってきたので再度電話をすると「もう少し待ってください」。さらに煙は立ち込めて「これ以上ここにいるのは危険です」と言うと警備員は「それじゃ、すぐ非常階段で脱出してください」と言ったのだ。ジョンソンさんたちは愕然とした。直ちに脱出したがスタッフのうち4人は、命を落とした。自分たちで判断していれば、もう少し早く逃げていれば助かったと、ジョンソンさんは専門家の意見を信頼しすぎた自分を責めていた。
一般の人は、専門家が指示するとそれを疑わず信じてしまう。【専門家の言うことだからと依存しすぎることを「エキスパート・エラー」という】。
たとえ専門家といえども事故現場にいない以上、完全に正しい指示をくれるとは限らない。現場の情報は現場にいる人が一番把握しているはずである。だから、【生死に関わることは、自分の五感で確認した情報に基き、自分で意思決定をすることが重要】なのである。
【『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂・改題)】
ここでいうところのエキスパート(専門家)とは安全管理責任者・消防・警察などと考えてよい。彼らは「動くな」と指示する傾向が強い。ところが大規模災害の場合、災害の全容と動向を把握することは極めて困難である。9.11テロの場合、世界貿易センタービル・ツインタワーが崩落することは誰も予測し得なかった。根強い陰謀説があるのもこれが原因となっている。
要は生きるか死ぬかという危機に際しては、専門家の権威を当て込むのではなく自らの責任で判断し、行動する他ないということだ。もちろんエキスパートですらエラーするわけだから、各人の判断も誤る可能性は高い。だが人生最後となるかもしれない選択を他人に委ねるか、自分が決めるかの差は大きい。
韓国旅客船セウォル号沈没事故(2014年)でも「動かないで下さい。動くと危険です。動かないで!」(CNN 2014-04-17)との指示が再三に渡ってアナウンスされた。助かったのは直ぐ動いた人々だった。乗員・乗客 476人のうち295人が死亡する大惨事となった。そのうち250人が修学旅行中の高校生であった(海外「韓国・セウォル号から生還した高校生のクラス写真が切なすぎる…」)。
災害に限らず専門家の言葉が当てになるのは平時のみである。経済学者やアナリストが経済危機を言い当てたことはない。専門家は事が起こった後で理屈をこねくり回すのが常だ。「わかったつもり」の専門家が一番怖い。
タイトルにある通り、人は皆「自分だけは死なない」と思っている。我々は「自分が死ぬ」という前提で物事を発想することができない。文明は死から目を背け、死を忌避することで発展してきた。現代社会においては死を目撃することすら稀(まれ)である。死は病院に封印され、社会から隔離している。
災害から学ぶといっても特別なことではない。日常生活の中から不注意を一掃することに尽きる。外へ出歩けば、いつ交通事故に遭ってもおかしくない。注意を払えば危険は至るところに見出すことができる。その意味で大東亜戦争を生き抜いた小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(『たった一人の30年戦争』)や坂井三郎(『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子)から学ぶことは多い。
2016-07-08
集団同調性バイアスと正常性バイアス/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
・『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
・集団同調性バイアスと正常性バイアス
・エキスパート・エラー
・『人が死なない防災』片田敏孝
・『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
・『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
・『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
・『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
・『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
実験を集計すると以下のとおりだった。(中略)
つまり、【部屋に1人でいた場合は、全員が火災報知機が鳴ってからすぐドアを開けて何か起きていないか確認行動を起こしている。しかし、部屋に2人でいた学生は、1組だけが行動を起こし、ほかの部屋に2人でいた計6人は、火災報知機が鳴っても何の行動も起さず煙に気づいていから行動を起こしている】のである。食堂にいた学生に至っては3分の間、何の行動も起さなかった。
避難が遅れた部屋に2人でいた学生に聞くと「多分誤報か点検だと思っていた。【まさか火災とは思わなかった】」がほとんどだった。これは食堂にいた学生たちも同じような答えだったが【「皆いるから大丈夫だと思った」】という言葉が付け加えられていた。
緊急時、人間は1人でいるときは「何が起きたのか」とすぐ自分の判断で行動を起こす。しかし、複数の人間がいると「皆でいるから」という安心感で、緊急行動が遅れる傾向にある。これを【「集団同調性バイアス」】と呼ぶ。先の実験の食堂のように人間の数が多いと、さらにその傾向が強くなる。【集団でいると、自分だけがほかの人と違う行動を取りにくくなる】。お互いが無意識にけん制し合い、他者の動きに左右される。【自分より集団に過大評価を加えている】ことが読み取れる。結果として逃げるタイミングを失うことにもなりかねない。
【『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂・改題)】
山村は「防災心理を知っているか知らないか、その違いが生死を分ける」と訴える。本書を読んでいれば東日本大震災を生き延びることができた人々もたくさんいたに違いない。読みながら痛恨の思いに駆られた。災害心理学は新しい学問だが、認知科学に基づいており信頼性は高い。生存者の手記やインタビューの多くは愚行と偶然性に支配されていて読めたものではない。単なる僥倖(ぎょうこう)から他人が学べることは耳かきほどもあるまい。
人は関係性の中で生きる動物であるため必ず他人からの影響を受ける。集団で生きることが進化的に有利であったとすれば集団に同調することは人間らしさといってよい。行列に連なり、流行のファッションを取り入れ、観光地を旅するのが大衆の姿である。納豆が健康によいとテレビ番組が告げれば、我々は慌ててスーパーに向かう。で、各店舗で納豆が品切れになった頃、番組の捏造(ねつぞう)が発覚するという寸法だ。
日常会話においても同調は明らかで、話が合う人同士は微細な体の揺れ(ダンス)が一致している。特に若い女性に顕著で双方が頷き合いながら「そうそう」と語る場面を時折目にする。
そして集団が大きくなればなるほど烏合の衆と化す。一人ひとりの役割が小さくなり無責任になるためだ。
「逃げる」という行為は非日常的である。そこに躊躇(ためら)いが生じる。日本人の場合、みっともないという価値観も混入する。一瞬の遅れが取り返しのつかない過ちとなる。
加えて、非常時には「こんなことは起こるはずがない」と捉え、現実ではなくヴァーチャルではないかと考える【「正常性バイアス」】が働くことがある。韓国の地下鉄火災に巻き込まれた人々は口々に「まさか火災だとは思わなかった」「みんながじっとしているので自分もじっとしていた」と話していた。まさに、正常性バイアス、多数派同調バイアスに捉われていたものと思われる。
韓国で起こった大邱(テグ)地下鉄放火事件(2003年2月18日)では立ち込める煙の中でじっと座り続けている乗客の姿が撮影されている。
思考が日常の延長線上から抜け出ることは難しい。しかも五官が捉えるのは部分情報である。全体情報は神の視点に立たなければ見えない。スポイルされた空間は安心感を生む。東日本大震災ではクルマで逃げてそのまま流された人々が多かった。建物や乗り物が認知を歪める。大邱地下鉄放火事件では192人が死亡した(再現動画)。
人間の知覚には歪み(バイアス)がある。集団同調性バイアスと正常性バイアスは何も災害に限ったことではない。人間関係が濃いコミュニティほどバイアスは強くなることだろう。例えば運動部のしごきや集団暴行、マルチ商法グループの暴走、宗教組織の反社会性など。またあらゆるハラスメントは距離の近い人間に対して行われる。
異常な集団に身を置けば異常であることが正常となる。そして異常なコミュニティには必ず強い同調圧力がある。出来るだけ多くのコミュニティに所属することが望ましいが、もっと手っ取り早いのは異なる価値観を知ることである。その意味で人と会うことと読書は最大の武器となる。
『春秋左氏伝』に「安(やす)きに居(お)りて危(あやう)きを思う。思えば則ち備え有り、備え有れば患(うれ)い無し」とある。備えるとは注意を払うことだ。災害心理学を学ぶことは、安きにいて危機を思うことに通じる。
・「戦うこと」と「逃げること」は同じ/『逃げる力』百田尚樹
2016-07-05
1億円を超えると所得税は下がる/『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
・『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
・『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
・1億円を超えると所得税は下がる
・『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫
最初に、この図序-1を見てほしい。これは日本の納税者の税負担率を所得金額別に表したグラフである。このグラフは、日本の所得税制度には見過ごすことのできない不公平があることを示している。見るとわかるように、日本の所得税負担率は、所得総額が1億円を超えると低下していくのである。
これはどういうことであろうか。日本の所得税制は累進課税を採用している。ならば、このグラフは、所得額の増加にともない右肩上がりになるはずである。ところが、実際はそうではない。1億円の28.3%をピークにした山型のグラフになっているのである。これは、所得金額が1億円を超えると、日本の所得税は「逆進的」なものに変わることを示している。100億円にいたっては13.5%にまで下がる。
年間の所得金額が100億円とは、普通の市民の感覚からすれば、およそ想像を絶する額である。しかし、現実にそういう高額所得者が日本にも存在する。多くは株式の売却による所得だが、現在の日本の税制によれば、そうした所得に対しては特別措置が適用される。グラフの低下は、その効果によるものである。
【『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻〈しが・さくら〉(岩波新書、2013年)】
以下の所得税負担率がほぼ同じグラフである。1億円を境に下がり始め、100億円超で17%の負担率となっている。
もう一つ興味深いグラフを紹介しよう。
株式譲渡所得とは売却益(キャピタルゲイン)のことである。このグラフは縦長に作ることで意図的に衝撃を煽っている。2003年から時限措置として証券優遇税制(株式譲渡益・配当金・投資信託売却益・投資信託分配金に対する税率が一律10%)が導入された。二つのグラフはこれに基づく。同税制は民主党政権時にも引き継がれ、2013年に廃止された。投資で得た利益には20%の課税となっているが、株式譲渡所得と先物取引に係る雑所得等に分かれていてややこしい。外為(FX)は後者となるが、2012年の法改正までは、くりっく365=申告分離課税20%、店頭=総合課税(累進課税)という不平等があった。くりっく365業者は官僚の天下りを受け入れていたので優遇されていた。
つまり2013年までは高額所得者に有利な税制が布(し)かれていたと覚えておけばよい。また2015年からは課税所得金額4000万円超という最高区分が設けられ税率は45%となった。ざまあみろと言ってるわけにもゆかない。「年収1000万円超の給与所得者の数は全体の4%しかいないが、所得税の税収に占める割合は46%に達する。全体の4%に過ぎない高額所得者が、所得税の約半分を支払っている」(高額所得者の税負担が増加。今後もこの傾向が続くのか?)のだから。
一つ思考実験をしてみよう。ある日突然100億円の遺産を相続することとなった。6億円超の税率は55%で控除額を差し引いても50%前後は失ってしまう。さて、あなたはどうするか? 当然、弁護士・税理士に相談することだろう。で、財団法人の設立となる。資産家が経営者や政治家であるのには理由がある。相続税の回避だ。株式会社や政治資金団体というトンネルを通して彼らは甘い汁を吸い続ける。
ただし、相続税廃止論にも相続税100%論にも一定の根拠があって一筋縄ではゆかない。
公共支出の大幅削減にロンドンで50万人が抗議デモ | Democracy Now! https://t.co/O3qr1MksNB
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年7月3日
行き過ぎた不平等が社会に混乱を生む。国家が末永く繁栄するためには国民を幸福にする必要がある。政治家諸兄は貧困が国家を破壊すると心得るべきだ。
2016-07-04
セイコークロック - 目覚まし時計 PYXIS RAIDEN の修理依頼
セイコークロックの目覚まし時計が直ぐ壊れる。当たり前だが保証書をしっかり保存しておくこと。アナログの方は1年経たない内にベルが鳴らなくなった。当時、デジタルからアナログへ換えたため、枕元に置くと針の音が気になって仕方がなかった。続いてデジタルを購入したのだが、8ヶ月目で液晶表示が消えた。電池交換をして電波受信のスイッチを押したところ再び液晶が消えた。何度も電池を入れ替えてみたがご臨終のようにしか見えなかった。
保証期間内の修理依頼についてメモしておく。
amazonの返品受け付け期間は保証期間よりも短い。まず以下に電話をする。
セイコークロックお客様相談室 0120-315-474 受付時間:9時30分~17時30分(土日祝祭日は休業)
「一旦、電池を外して乾いた布で拭いて下さい。次に電池を入れてクルクル回して下さい」と告げられる。故障が明らかな場合、【番号】を伝えられるので、送り状の備考欄に書き込む。
送り先:491-0364 愛知県一宮市萩原町中島字流3-1 佐川急便内セイコークロック・サービスステーション
保証書と納品書(ない場合はamazonサイトからダウンロード印刷)を同封し、「時計、ワレモノ注意」と書く。宅配業者はどこでも構わない。ゆうパックでも可。【送料着払い】で送る。緩衝材がなかったので私は古いタオルでグルグル巻きにして送った。尚、「修理には2~3週間ほど要する」とのことだったが1週間ほどで戻ってきた。結局、製品交換となった。
目覚まし時計が一つしかなかったので止むを得ず安物を購入した。ところが意外にもこれがスグレモノ。音量はライデンより小さいが、目覚ましとしては十分である。しかも電波時計で1000円は安すぎる。購入金額2000円以上でないと送料が無料とならないので靴下を一緒に注文した。
セイコークロックの目覚まし時計はオススメできない。かつて家電製品は10年持つと言われたが、コスト削減が様々な陰を製品に落としているのだろう。
2016-07-03
デュポン一族の圧力に屈したデラウェア州/『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
・『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
・アンシャン・レジームの免税特権
・多国籍企業は国家を愚弄し、超国家的存在となりつつある
・デュポン一族の圧力に屈したデラウェア州
・『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
アメリカで2番目に小さい州、デラウェアは、世界最大手の企業の多くにとって生まれ故郷である。タックスヘイブンの通常の定義――税制を重視する定義――では、デラウェアはオフショア・システムには含まれないが、この地で重要なことが起きているのは明らかだ。アメリカの株式公開企業の半数以上、フォーチュン500社の3分の2近くが、この州の法人であり、2007年にアメリカで上場した企業の90パーセント以上がこの小さな州に登記している。これらの企業はデラウェアに本社を置いているわけではない。そこで法人化されただけであり、これはつまりはデラウェア州の法律に従って社会の仕組みが築かれているということだ。
【『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン:藤井清美訳(朝日新聞出版、2012年)以下同】
「世界最悪のタックスヘイブンはアメリカにある」との声もある。
デラウェア州の会社法(州法)は極めて著名である。他州に比べ、会社の設立や解散が容易で、多くの判例があるため裁判が予測可能などといった特徴を持つ。
そのため、州外で事業活動をする会社でも、同州に登記上の本社を置くことが多い(会社設立における法律回避を参照)。また、小さな州にも拘らず、ニューヨーク証券取引所で上場している会社の半数以上、フォーチュン500に載る会社の63%はデラウェア州の会社法に準拠して設立されていると言われる。法人税で州歳入の5分の1が挙げられている。
例えば、世界最大の化学会社であるデュポンの米国法人、日本アイ・ビー・エムの親会社であるIBMワールド・トレード・コーポレーション(米IBMではない)、生命保険会社のアメリカン ライフ インシュアランスカンパニー(アリコ)の本社など、多くの有名企業がデラウェア州法により設立されている。
【Wikipedia > デラウェア > 法人の州】
租税よりも法律リスクの回避が重んじられていることがわかる。法律も所によってはルールが変わるという現実が恐ろしい。そして楽園のコストは最終的に国民に付け替えられる。一般人は租税を回避することができない。
1899年、デラウェア州政府は、巨大な化学事業を法人化したいと考えていたデュポン一族の圧力を受けて、「一般会社法」と呼ばれる新しい寛容なビジネス規定を制定した。そこには、企業の力が大になりつつある時代の自由放任的な精神が反映されていた。この法規が意味するところは、デラウェアでは、企業経営者は他の利害関係者を犠牲にして自分のやりたいことをする大きな自由を持つことができる、ということだった。デラウェア州は、株主や他の利害関係者が救済措置を得るのをとくに難しくしている。(中略)
企業は、かつては公共の利益に役立つための手段とはっきりみなされていた。だが、デラウェアはその考えを捨て去って、デラウェアのある公文書が「断然、自由のきく民間企業モード」と表現しているものを採用した。このモードでは、企業や個人がそれぞれ自分の目標を追求し、政府は、公共の利益は自動的に増大するという想定のもとで、脇に追いやられている。これは企業に対する姿勢の微妙ながら根本的な変化だった。
デュポンはフランス系のアメリカ財閥だ。ま、ケミカル(化学)企業・石油産業・製薬会社は悪の巣窟と考えてよかろう。巨大資本が必要なため新規参入が難しい。軍需とも深く関わっている。日本人はアメリカを政治的に成熟した社会と思いがちだが実態は異なる。企業や業界、各種団体が力任せに利益を奪い合う世界だ。インディアンを虐殺して土地を奪い、黒人奴隷で利益を上げてきた伝統は脈々と受け継がれている。
先日、イギリスがEUから離脱した。タックスヘイブンは一種の植民地主義でイギリス領に多い。シティが金融センターとしての機能を失うかどうかが注目される。
ユーロ建て金融取引についてはEU域内であるパリやフランクフルト、ダブリン等に業務の拠点を移転すると思われる。/EU離脱で危機に瀕するロンドン国際金融センター~7万人の雇用が英国から移転し、バーゼル規制の行方にも影響か~ https://t.co/F46Gvli95i
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年7月3日
やはり英仏独が歩調を揃えることは難しいのだろう。ヨーロッパの平和は絵に描いた餅だ。白人は常に争ってきた。自分たちが滅びるまで争い続けるに違いない。
2016-07-02
多国籍企業は国家を愚弄し、超国家的存在となりつつある/『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
・『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
・アンシャン・レジームの免税特権
・多国籍企業は国家を愚弄し、超国家的存在となりつつある
・デュポン一族の圧力に屈したデラウェア州
・『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
多国籍企業がオフショアを利用して税金をゼロにするのは、政府が対抗措置をとるのでたいてい容易ではないが、これは政府が負けるに決まっている戦いだ。イギリスの会計検査院が2007年に行った調査によると、イギリスの大手700社の3分の1が、金融ブームに沸いた前年度にイギリスではまったく税金を払わなかった。『エコノミスト』誌は1999年に、独自の調査に基づいて、ルパート・マードックの肥大化したニューズ・コーポレーションに適用されている税率はわずか6パーセントだと推定した。このような移転価格操作ができることが、多国籍企業が多国籍企業という形をとっている最も重要な理由の一つであり、より小規模な競争相手より通常速いペースで成長する理由の一つでもある。グローバル多国籍企業の力を危惧している人は、この点に注意を払うべきだろう。
【『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン:藤井清美訳(朝日新聞出版、2012年)】
アメリカの法人税率は35%だが税逃れをしたアップル社は2%の税金しか払っていなかった。スターバックスに至っては無税である。バンク・オブ・アメリカ、モルガンスタンレー、ファイザーは5年間にわたって納税ゼロだった(日本の大企業・富裕層はタックスヘイブンで世界第2位の巨額な税逃れ、庶民には消費税増税と社会保障削減)。
各国法人税(2009年)。 pic.twitter.com/07F2D8eQFZ
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年7月2日
多国籍企業は国家を愚弄し、超国家的存在となりつつある(『ザ・コーポレーション(The Corporation)日本語字幕版』)。国家が法人をコントロールできないのであれば、次なる革命を起こすのはクラッカーであろう。
被害者は銀行なのか?/東京新聞:コンビニATMで14億円不正引き出し 2時間余で1400台 偽造カードか:経済(TOKYO Web) https://t.co/QMEth3LdKO
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年5月23日
マネーはデジタル化され実体が見えない。米騒動のように銀行を襲ったとしても、そこには一部の現金しか存在しない。バンカメの純利益は26億8000万ドル(2016年 1-3月期決算)である。鼠小僧の手に負える金額ではない。
富の集中はやがて訪れるであろう大量死を予兆する。税の公平性が失われれば、エネルギーと食糧の分配にも偏りが生じる。持てる者はますます富み、持たざる者はどんどん奪われる。
人類のコミュニティを考えた場合、果たして国家に軍配が上がるのか、それとも企業が勝つのか――その岐路に立たされている。
カルビー フルグラ 800g
1袋=684円、6袋=4061円はドラッグストアや業務スーパーより安い。賞味期限は7ヶ月弱。プレーンヨーグルトで食べるのが美味しい。甘味が足りない場合はオリゴ糖や黒砂糖を加える。シナモンパウダーもよく合う。
アンシャン・レジームの免税特権/『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
・『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
・アンシャン・レジームの免税特権
・多国籍企業は国家を愚弄し、超国家的存在となりつつある
・デュポン一族の圧力に屈したデラウェア州
・『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
タックスヘイブンは確かに避難所だ。ただし、一般庶民にとっての避難所ではない。オフショアは、富と権力を持つエリートたちが、コストを負担せずに社会から便益を得る手助けをする事業なのだ。
具体的なイメージを描くとすれば、こういうことになる。あなたが地元のスーパーマーケットでレジに並んでいると、身なりのいい人たちが赤いベルベットのロープの向こうにある「優先」レジをすいすい通り抜けていく。あなたの勘定書きには、彼らの買い物に補助金を出すための多額の「追加料金」も乗せられている。「申し訳ありません」とスーパーマーケットの店長は言う。「でも、われわれには他に方法がないのです。あなたが彼らの勘定を半分負担してくださらなければ、彼らはよそで買い物をするでしょう。早く払ってください」
【『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン:藤井清美訳(朝日新聞出版、2012年)】
ノブレス・オブリージュの精神は絶えた。資本主義という世俗化は貴族を完全に滅ぼしてしまったのだろう。
歴史の嘘がまかり通るのはカネの流れを明かしていないためだ。人類の歴史は「戦争の歴史」といってよいが、戦争にはカネが掛かる。武器を購入し人を集めるには融資を必要とする。その負債の流れを辿らなければ歴史の真相は見えてこない。
税とは社会を維持するためのコストであるが、近代では戦費を捻出するために増税が行われた。例えば煙草税は日清戦争後に導入(1989年/明治31年)された(Wikipedia)が、その後は日露戦争の戦費を調達するために完全専売制となった(「煙草税のあゆみ」 煙草印紙の攻防)。そして一度上がった税金が下がることはほぼない。
マネーは高金利を好み税を嫌う。ニクソン・ショック(1971年)でアメリカはドルと金の兌換(だかん)を停止し、ブレトン・ウッズ体制は崩壊した。変動相場制は通貨の相対性理論みたいなものだが、マネーはゴールドの裏づけを失い、中央銀行が保証する紙切れと化した。信用という名の詐欺に等しい。にもかかわらず我々はおカネの価値を疑うことがない。マネーこそは現代の宗教といってよい。
ニコラス・シャクソンの例えはアンシャン・レジームを思わせる。16~18世紀のフランスでは第三身分者(市民や農民)が聖職者(第一身分者)と貴族(第二身分者)を背負っていた。聖職者と貴族には免税特権があったためだ。
格差と困窮を強いられる人々はナポレオンのような英雄と革命を待望する。ある閾値(しきいち)や臨界点に達した時、破壊の風が世界に吹き荒れることだろう。そしてまたぞろ流血が繰り返され、新しい階級が誕生し、富は一旦分配され、時を経て再び偏る。収奪と破壊の輪廻が人類の業(ごう)か。
利子、配当は富裕層に集中する(『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代)。チンパンジーの利益分配(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)とどちらが優れているだろうか。格差は人類というコミュニティを確実に崩壊へと誘(いざな)う。平等を失ったコミュニティは暴力の温床となることだろう。
タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!
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2016-06-29
核廃絶を訴えるアメリカの裏事情/『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘
・『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
・『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年
・『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
・沖縄普天間基地は不動産の問題
・核廃絶を訴えるアメリカの裏事情
・『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
・『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
・『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
・『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
・『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
・『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
・『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
・『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
・『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
・『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
・『沈むな!浮上せよ! この底なしの闇の国NIPPONで覚悟を磨いて生きなさい!』池田整治、中丸薫
北朝鮮も、小なりといえども核兵器を持つことによって、政治的な独立あるいは自主性、民族の尊厳を中国からも守れる。だから、そういう政治的な意味を込めて核実験をやったということは間違いない。
しかし、これまた不思議な話で、当時、一般的に北朝鮮の最初の核実験は失敗だったと言われた。我々日本人は核兵器についての知識があまりないものだから、それを信じてきたが、どうもそれは的はずれではないかと考えられます。というのは、北朝鮮はプルトニウム爆弾をつくっているが、これは10年くらいたつと、劣化して処理しなくちゃいけない。今、「核の廃絶」とかみんな言っている。アメリカのオバマ大統領もこの前言いました。あれも、我々はただ単純に、これはいいことだと言っているが、あの裏を見ますと、もうそろそろアメリカの兵器もみんな劣化し始めているんです。これを廃棄するとものすごく金がかかるわけです。したがって、大義名分がないと金が使えない。ロシアも同じことです。だから、「世界から核をなくそう」という名目でどんどん減らしていくことになる。
最近になって、北朝鮮はもっと早い段階で既に核兵器を持っていたんじゃないか、それが劣化してきた。この第1回の核実験というのは、劣化した核兵器処理ではなかったか。だから、あの実験の本質は何かということをもっと究明する必要がある。それから、第2回の核実験は何か。これは恐らく核弾頭を小型化する実験に成功したんじゃないのかとも言われているんです。
【『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘(ヒカルランド、2010年)】
本書は第20回日本トンデモ本大賞(2011年)の候補作品となった。
宇宙人や地底人と交信している中丸薫さんが、北朝鮮に招かれ、北朝鮮は素晴らしい国だと絶賛します。対談相手の菅沼光弘氏もそれに同調し、北朝鮮を批判する日本人を非難したりしています。こういう人が、元公安調査庁調査第二部長だったというのが、いちばんトンデモないことかも……。
【山本弘】
ま、無責任な嘲笑目的の賞なので力を込めて反論するだけ無駄だろう。個人的にはやはり中丸薫の人脈は侮れないと思う。例えば池田大作の場合は創価学会というマンモス教団の組織力・財力・政治力が背景にあるが、中丸の場合は完全に一個人である。それでいて池田を凌駕するほどの国際的な人脈を持っているのだ。
菅沼も中丸やベンジャミン・フルフォードが相手だと、かなり踏み込んだ発言をしている。自らトンデモ系に近づくことで読者に与える衝撃を和(やわ)らげようとしているのだろう。
オバマ大統領はプラハ演説(2009年)で核廃絶を訴え、同年のノーベル平和賞を受賞した。
これが世紀のペテンであったとすればハリウッド映画さながらの演出である。あるいは産業廃棄物をお花畑に変えるようなマジックか。
オバマよ、あんたは核爆弾の中古品を処分する目的で広島を訪れたのか? 平和を売り言葉にして軍産複合体への利益誘導を図ったのか? 利用できると見込んで広島の被爆者をも利用したのか?
美しい言葉は感情を揺さぶる。そして我々は考えることをやめるのだ。オバマ万歳、広島万歳。めでたしめでたしである。
政治は富の分配という本来の仕事を放棄して、明らかに富の誘導へとシフトしている。そもそも世界各国で莫大な量の金融緩和を行っているにもかかわらず、目に見えるバブルが発生していない。緩和マネーはどこへ行ったのか? 企業の内部留保の納まるような金額ではないと思うのだが。格差が拡大するとマネーは流動化を失い、持てる者に富が蓄積されてゆく。消費も低迷し、いつまで経ってもデフレを克服できない。
情報公開と情報判断によって民主政は作動する。奇しくも核兵器廃絶と原発事故を通して我々は情報が秘匿されている事実を知った。そして我々にはロクな判断力がない。討論番組と称する言論プロレスを見て気勢を上げたり溜飲を下げる程度のレベルである。政府の予算を読み解くこともできなければ、法改正の意味も理解できない。本来であればそこにエリート(選良)が求められるわけだが、この国のエリートは官僚となっている(笑)。
結局のところいい意味でも悪い意味でも、なるようにしかならないのだろう。安倍首相が真珠湾を訪問すれば、「アメリカと共に血を流す」覚悟を披瀝せざるを得なくなる。アメリカの軍産複合体にとっては一石二鳥というわけだ。
この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】 (超☆わくわく)
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目撃された人々 69
年老いた男が打ちひしがれた姿で歩いていた。猫背が背負っていたリュックには大小様々な罪が入っていたのかもしれない。とぼとぼと歩く足が止まった。男は鉢植えの桔梗に目を留め、じっと見入った。 pic.twitter.com/5rSU6aBVrH
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年6月29日
彼が去ると今度は7~8歳くらいの少女がやってきた。少女は花の中に顔をうずめるようにして香りを嗅いだ。そしてスキップしながらどこかへ行った。わずか30秒ほどの出来事である。美しいものに心を留めることこそが美しい。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年6月29日
2016-06-28
バイロン・ケイティ、友松圓諦、松田卓也、二間瀬敏史、服部正明、梶山雄一、他
3冊挫折、7冊読了。
『起業のためのお金の教科書』大村大次郎(双葉社、2015年)/起業入門的な内容。融資情報など。あまり参考にならず。これから起業する人向け。
『忘れられた日米関係 ヘレン・ミアーズの問い』御厨貴〈みくりや・たかし〉、小塩和人〈おしお・かずと〉(ちくま新書、1996年)/冒頭から思い上がりが全開である。著者の情操に問題あり。悪い学者の見本だ。内容も大したことはない。普通の論文である。
『オープン・スペース・テクノロジー 5人から1000人が輪になって考えるファシリテーション』ハリソン・オーエン:株式会社ヒューマンバリュー訳(ヒューマンバリュー、2007年)/アイディアとしては非常によいと思う。自分が話し合いたいテーマを貼り出し、小グループで討議する。ただそれだけのことなんだが冗長な説明が続く。もう一つポイントがあって「輪となって座ること」。椅子の並べ方などが図示されている。行き詰まりつつある大企業などでどしどしやるべきだと思う。
85冊目『空の論理「中観」 仏教の思想3』梶山雄一、上山春平(角川書店、1969年/角川文庫ソフィア、1997年)/なかなか難しい。
86冊目『認識と超越「唯識」 仏教の思想4』服部正明、上山春平(角川書店、1970年/角川文庫ソフィア、1997年)/一部飛ばし読み。
87冊目『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史〈ふたませ・としふみ〉(丸善、1987年)/こういうのを読み落としているのだから、私も本を読んでいるようで読んでいない。ブライアン・グリーン著『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』に通じる内容だ。
88冊目『時間の本質をさぐる 宇宙論的展開』松田卓也、二間瀬敏史〈ふたませ・としふみ〉(講談社現代新書、1990年)/松田、二間瀬コンビの2冊を「時間論」に入れる。
89冊目『心の中はどうなってるの? 役立つ初期仏教法話5』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)/サンガ新書は気合いを入れると1時間程度で読める。スリランカのアヌルッダ大長老が10世紀頃にまとめた『アビダンマッタサンガハ』の第二章の内容を解説する。わかりやすいアビダルマ入門。
90冊目『法句経』友松圓諦〈ともまつ・えんたい〉(講談社学術文庫、1985年/講談社、1975年『真理の詞華集 法句経』改題/全日本真理運動本部、1935年『法句経 仏教聖詩』改題か?)/書誌情報が不明だが序文は昭和10年(1935年)に書かれている。同じダンマパダとは思えない。いろは歌のような訳である。好みが分かれるところだろう。名訳とは思わないが、脳細胞への浸透度が高い。友松訳の存在を私は最近まで知らなかった。
91冊目『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル:ティム・マクリーン、高岡よし子訳(ダイヤモンド社、2014年)/これは凄い。正真正銘の悟り本だ。バイロン・ケイティは道教を用いているが、私はブッダの教えに対する理解が深まった。尚、「スピリチュアリズム(密教)理解のテキスト」を「悟りとは」に改めた。
2016-06-27
ネレ・ノイハウス、桜部建、上山春平、仲谷正史、小林よしのり、アルボムッレ・スマナサーラ、他
21冊挫折、9冊読了。
『天災と国防』寺田寅彦(講談社学術文庫、2011年)/読みにくい。昨今は文章にスピード感、鋭さ、躍動感のいずれかがないと読む気が起こらず。
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ:高橋健次訳(草思社、2006年)/二度目の挫折。文章も構成も悪い。
『インターネットは民主主義の敵か』キャス・サンスティーン:石川幸憲訳(毎日新聞社、2003年)/哲学書並みの難解さ。
『すごい!ゼラチンふりかけ健康レシピ』浜内千波、藤野良孝(扶桑社ムック、2013年)/健康本で「すごい」「治る」「絶対」「必ず」は禁句である。ま、インチキ本と思ってよい。食用ゼラチンをゴマなどに混ぜるだけ。フードプロセッサーがあればレパートリーは格段に増える。お肌がきれいになるらしいよ。取り敢えずゼラチンは買った(笑)。
『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン:大塚勇三訳、桜井誠イラスト(岩波少年文庫、2000年)/ずっと「長靴の下にいるピッピ」だと思い込んでいた。ハイソックスのことだったとはね。読むのが遅すぎた。リンドグレーンはスウェーデンを代表する児童文学作家。
『文明の逆説 危機の時代の人間研究』立花隆(講談社、1976年/講談社文庫、1984年)/文庫化された当時に読んでいる。何となく開いたのだが読めず。正確の悪さを露呈している。興味が勝ち過ぎて抑制を欠いているようにも見える。
『日本国の研究』猪瀬直樹(文藝春秋、1997年/文春文庫、1999年)/この人の文章が苦手だ。
『続・日本国の研究』猪瀬直樹(文藝春秋、1999年/文春文庫、2002年)/正に比べると文章が短くて格段に読みやすい。規制緩和の警鐘を鳴らした書。
『白雪姫には死んでもらう』ネレ・ノイハウス:酒寄進一訳(創元推理文庫、2013年)/シリーズ第4作。酒寄進一の文章に堪(た)えられず。2冊で十分だ。
『脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める』築山節(生活人新書、2006年)/年寄り用の本だった。
『神経とシナプスの科学 現代脳研究の源流』杉晴夫(ブルーバックス、2015年)/ちょっと見当が外れた。専門色が濃い。
『枠組み外しの旅 「個性化」が変える福祉社会』竹端寛(青灯社、2012年)/「叢書 魂の脱植民地化 2」。仲間内でやっている印象が拭えず。こういうのはサブカル色を強く出した方が広範囲にアピールできると思う。
『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』青木薫(講談社現代新書、2013年)/帯に「科学書の名翻訳で知られる著者初の書き下ろし」とある。誇大広告。盛り過ぎ。私とは相性が悪い。飛ばし読みで読了。人間原理に興味のある人は読む価値あり。
『魂の殺害者 教育における愛という名の迫害』モートン・シャッツマン:岸田秀訳(草思社、1975年/新装版、1994年)/94年の新装版で「気違い」を直していないのは草思社の手抜きだ。教育的虐待の影響を明かした一冊だが、例としては特殊すぎるだろう。統合失調症を調べようと思ったのだが当てが外れた。
『幻の女』ウイリアム・アイリッシュ:稲葉明雄訳(ハヤカワ文庫、1976年)/黒原敏行の新訳(2015年)の評判が悪い。古典的名作であるが今となっては古い。被害妄想的なストーリー。自分のアリバイを証明できる行きずりの女性が幻のように消えてしまう。
『A型の女』マイクル・Z・リューイン:石田善彦訳(ハヤカワ文庫、1991年)/再読。石田善彦の悪文に堪えられず。既に書評済み。
『A型の女』マイクル・Z・リューイン:皆藤幸蔵〈かいとう・こうぞう〉訳(ハヤカワ・ミステリ、1978年)/別訳があったとは露知らず。石田訳よりはずっといい。文章がきちんと頭に入ってくる。ただし文体に切れはない。
『遥かなるセントラルパーク(上)』トム・マクナブ:飯島宏訳(文藝春秋、1984年/文春文庫、2014年)/今頃になって文庫化するってえのあどういう料簡なのかね? 1984年に幼馴染みのムラモトさんから借りて読んだ。日高晤郎がラジオで強く推していた一冊。
『ワールド・カフェ カフェ的会話が未来を創る』アニータ・ブラウン、デイビッド・アイザックス、ワールド・カフェ・コミュニティ:香取一昭、川口大輔訳(ヒューマンバリュー、2007年)/読みにくい。
『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』小林よしのり(小学館、2000年)/やはり漫画作品は読めない。活字本の方は読了。本書は台湾でもベストセラーとなっている。
『1日10分で自分を浄化する方法 マインドフルネス瞑想入門』吉田昌生(WAVE出版、2015年)/ダメ本。
76冊目『悪女は自殺しない』ネレ・ノイハウス:酒寄進一訳(創元推理文庫、2015年)/オリヴァー&ピアシリーズの第一作。ドイツ・ミステリ。まあまあ、といったところ。基本的に酒寄進一の訳文が苦手である。オリヴァー(貴族の血を引く上司)とピア(バツイチ女性)に何の魅力も感じない。それでも構成がよいので読了できた。
77冊目『深い疵』ネレ・ノイハウス:酒寄進一訳(創元推理文庫、2012年)/ドイツ版『犬神家の一族』という評価は当たっていない。第二次世界大戦にまでさかのぼる歴史ミステリである。一読の価値あり。日本同様、歴史観がすっきりしない世相を反映しているようにも思える。
78冊目『存在の分析「アビダルマ」 仏教の思想2』桜部建、上山春平(角川書店、1969年/角川文庫ソフィア、1996年)/上山の対談がよい。アビダルマは仏教心理学だが煩瑣すぎて付いてゆけず。それでも勉強になることが多い。
79冊目『触楽入門』テクタイル、仲谷正史、筧康明、三原聡一郎、南澤孝太(朝日出版社、2016年)/触覚に関する珍しい本。文章がまどろっこしいのだが、なかなか面白かった。テクタイルとはチーム名。
80冊目『そば屋はなぜ領収書を出したがらないのか? 領収書からみえてくる企業会計・税金のしくみ』大村大次郎(日本文芸社、2007年)/蕎麦屋からクレームが来て改訂したのが『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』(宝島社新書、2012年)である。要は現金商売ということ。大村本は外れが少ない。
81冊目『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎(角川書店、2015年)/これはオススメ。目から鱗が落ちる世界史の教科書本。
82冊目『李登輝学校の教え』(小学館、2001年/小学館文庫、2003年)/『台湾論』の活字版。何と李登輝と対談している。長らく小林のことを誤解してきたが、彼は感情のバランスが優れている。そして嘘が少ない。これは稀有なことである。佐藤優が欠いているものを私は小林に見出す。
83冊目『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)/再読。サンガ新書のスマナサーラ本を渉猟中である。
84冊目『現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)/一読の価値あり。再読はしないだろう。「慈悲の瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の具体的なやり方を伝授する。「慈悲の瞑想」を3日間ほど実践してみた。言葉の語呂が悪い。
あと10冊あるのだが、疲れたので明日書くことに。
2016-06-26
『バッハバスターズ』ドン・ドーシー
・『バッハバスターズ』ドン・ドーシー
・『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史
松田卓也はこれとジャック・ルーシェの『Bach to Future』聴きながら『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』(丸善、1987年)を執筆した。
2016-06-25
「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと/『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
・『僕の名前は。 アルピニスト野口健の青春』一志治夫
・「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと
この写真集で最も表現したいのは「現場」の世界。ヒマラヤの高山、アフリカ、そして日本の被災地など、僕はどの現場に行ってもA面とB面があると考えている。パッと目に入る美しい世界がA面ならば、あえて踏み込まなければ見えてこない世界がB面。ときにB面は目を背けたくなるほど残酷だったりする。人の目はどうしてもA面ばかりに向きがちだが、本当の意味で「知る」ということはA面B面のどちらも必要なこと。僕が最も大切にしているのは「見る」ということ。なぜならば「見る」ということは「知る」ということであり、同時に「背負う」ということだから。
【『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)】
いい写真集だ。ヒマラヤ、アフリカ、フィリピン・沖縄の遺骨収集、そして東日本大震災の被災地を野口がゆく。中学生や高校生の頃に出会いたかったというのが本音である。目をどこに向けるか、何を見て、どう感じるかで人生は決まる。噂話を垂れ流すテレビよりも、一枚の写真に心を動かされる。
写真には他人の視線に入り込むスリルがある。同じ場所へ行っても見る世界は人によって違う。そして切り取られた瞬間は二度と訪れない時間でもある。人も出来事も来ては去る。風景も時間も来ては去る。諸行は無常を奏でながら一瞬としてとどまることがない。ところが写真は瞬間を永遠に引き延ばす。何という不思議だろう。
野口の公式ブログにも写真は掲載されている。山男らしいダイナミズムを感じさせるものが多い。
2016-06-24
時間論
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・悟りとは
・ブッダの教えを学ぶ
・物語の本質
・権威を知るための書籍
・情報とアルゴリズム
・世界史の教科書
・日本の近代史を学ぶ
・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
・時間論
・身体革命
・ミステリ&SF
・必読書リスト
・『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵訳
・『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
・『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦
・『スピリチュアリズム』苫米地英人
・『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人
・『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
・『死生観を問いなおす』広井良典
・『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史
・『時間の本質をさぐる 宇宙論的展開』松田卓也、二間瀬敏史
・『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン
・『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』
2016-06-21
ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・ものごとが見えれば信仰はなくなる
・筏(いかだ)の喩え
・ドゥッカ(苦)とは
・『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・クリシュナムルティ、瞑想を語る
・ブッダの教えを学ぶ
「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、
(1)ドゥッカの本質
(2)ドゥッカの生起
(3)ドゥッカの消滅
(4)ドゥッカの消滅に至る道
を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繋がるからである。私はそれゆえに説明したのである」
【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】
マールンキャプッタからの形而上学的問いに対してブッダは無記を示し、次に「毒矢の喩え」を説く(『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元)。続けてブッダは四諦(したい)を確認する。
ドゥッカ
パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさなどといったさらに深い意味がある。それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。
皮相的な現在進行形の苦しみではなく、人生の底を絶えず流れる苦悩が「ドゥッカ」である。ま、「苦しい・空しい・悲しい・寂しい」と覚えておけばよい。哲学的なターム(用語)だと孤独・存在の危うさ・不安となる。人生は思うようにならない――これが「ドゥッカ」である。
ドゥッカの概念は、
(1)普通の意味での苦しみ
(2)ものごとの移ろいによる苦しみ
(3)条件付けられた生起としての苦しみ
の三面から考察することができる。
続けて、
第三の「条件付けられた生起」(訳註:漢訳仏典では「縁起」)としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。
と。(1)は苦しいという実感、(2)は空しさ、(3)は自我の限界性である。生まれる苦しさ、生きる苦しさ、老いる苦しさ、病む苦しさ、死ぬ苦しさがある(四苦)。そして別れる苦しさ(愛別離苦〈あいべつりく〉)、憎む苦しさ(怨憎会苦〈おんぞうえく〉)、手にはらない苦しさ(求不得苦〈ぐふとっく〉)、私が私である苦しさ(五蘊盛苦〈ごうんじょうく〉)がある(合わせて八苦)。
五蘊盛苦がわかりにくいと思われるので解説する。私を私たらしめているものは何か? 事実に基いて観察すると五つの集合要素(五蘊)から成っていることがわかる。
・アルボムッレ・スマナサーラの解説
世界は私というフィルターを通して認識される。私を離れて世界は存在しない。そして五蘊という肉体的・精神的な機能・作用は人によって異なる。つまり同じ物事を見ても人それぞれの反応があり、人それぞれの世界がある。そこに人それぞれの苦しみが生まれる(五蘊盛苦)。すなわち自我に基づく苦しみである。「俺の苦しさがあんたにわかってたまるか」と誰かに向かって言う時、人は自分というストーリー設定の中で理不尽さを感じている。自我という初期設定そのものが人生に不具合をもたらす原因になるというのが五蘊盛苦である。
語源的には五蘊執苦(しゅうく)とするのが正しいのかもしれない。興味(受)・感覚(想)・判断(行)を通して自分らしさ(識)が培われる。私は私にこだわる。アイデンティティ(自己同一性)が揺らぐのは私が無視されるためだ。他人との比較や社会的評価という物語が自我を左右する。国籍という自己規定も見逃せない。アイデンティティには国家が深く関与している(在日韓国・朝鮮人など)。
ブッダは語った。「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素である」と。今枝由郎は五蘊を「五集合要素」と訳す。私は私のものの見方・考え方、つまり「私という意識」に執着する。私は常に正しい。私は間違っていない。私は悪くない――誰もがそう思っている。そう。悪いのは世界だ(笑)。自我を形成するシステムに苦の原因がある。
諸行は無常であり、諸法は無我である。我々はここに苦を見る。苦と感じるゆえに現実が見えなくなるのだ。幸不幸は錯覚に過ぎない。その錯覚から逃げ、錯覚を追い求めるところに苦の本質がある。
2016-06-18
『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース
・『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・手引き
・唯識における意識
・認識と存在
・「我々は意識を持つ自動人形である」
・『イーリアス』に意識はなかった
・右脳に囁きかける神々の声はどこに消えたのか?
・意思決定そのものがストレスになる
・『新版 分裂病と人類』中井久夫
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
しかし、人間の進化は単純な直線をたどってきたのではない。人類の歴史をひともくと、紀元前3000年頃にひときわ目を引く不思議な慣習が登場する。話し言葉を変容させて、石や粘土板、パピルス(もしくは紙)に小さな印を使って記すようになったのだ、このおかげで、耳で聞くことしかできなかった話し言葉は、目に見えるものともなった。それも、そのとき聞こえる範囲にいた者だけでなく、万人のものとなった。
【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)以下同】
・イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優
人類の脳は約240万年前に巨大化した。言葉が生まれた時期については不明だが、7万5000年前には使用されていた証拠があるという(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。近代における情報革命は活版印刷(1455年)~カメラ-写真(1827年)~電信(1830年代)・電話(1876年)~映画(1895年:リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』)と花開く。
その後はラジオ(1906年)、テレビ(1926年)~インターネット(1969年)と続く。尚、カメラ以降の背景にはアレッサンドラ・ボルタによるボルタ電池の発明(1800年)を始めとする電気革命があった。彼の名に因(ちな)んで電圧を「ボルト」と呼ぶ。
アゴ弱り脳膨らむ、遺伝子レベルで裏付け…米チーム
人類の脳が大きくなった原因につながる遺伝子を、米ペンシルベニア大などの研究チームが突き止め、25日付の英科学誌「ネイチャー」に発表する。この遺伝子は本来、類人猿の強じんなアゴの筋肉を作る働きがあったが、人類では偶然、約240万年前に機能を喪失。このため、アゴの筋肉で縛りつけられていた頭の骨が自由になり、脳が大型化するのを可能にしたらしい。
人類は、約250万-200万年前に猿人から原人へ進化し、脳は大きさが猿人の2倍程度になったとされる。今回の遺伝子が機能を失ったのは約240万年前と推定され、原人への進化時期と一致する。
これまでの化石研究などから、頭の骨が膨らんだのは、頭頂部に近い所から続いていた猿人のアゴの筋肉が弱くなり、解放されたためではないかと考えられていたが、この進化過程を遺伝子レベルで裏付ける証拠が見つかったのは初めて。
チンパンジーやゴリラは今も、この遺伝子が働いていて、アゴの筋肉が頭部を広く覆っている。人類は原人に進化した段階で、硬い木の実に加え、軟らかい肉なども食べるようになり、アゴの筋肉の退化も不利にならなかったようだ。
斎藤成也・国立遺伝学研究所教授の話「化石で見られる頭骨の形の変化を、遺伝子レベルで突き止めた成果で興味深い。遺伝子から人類進化を明かす研究はますます活発化するはずだ」
◆人類の脳の進化=約700万-600万年前に誕生した猿人の脳容量は350-500cc程度だったが、現生人類では約1400cにまで大きくなった。脳の大きさを制限していたアゴの筋肉の減少に加え、二足歩行で自由になった両手を使うことで、脳の発達が促されたとする説もある。
【YOMIURI ONLINE 2004年3月25日】
487万年前±23万年に猿人が直立二足歩行を開始する。約260万年前には石器が使用される(『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム)。脳の大型化は直後の約240万年前である(地球史年表:1000万年前-100万年前)。火の使用を始めた時期については判明していない(初期のヒト属による火の利用)。240万年前から使用したと考えてもよさそうなものだ。火がなければ肉食獣の攻撃を防ぐことはできなかったはずだ。調理同様、言葉もまた炉辺(ろへん)から生まれたと考えられている。
・昆虫食が人類の脳の大型化に貢献した、ワシントン大セントルイス
文字の歴史についてもまだまだ判明していないことが多い。現在、最古とされているのはメソポタミアの楔形(くさびがた)文字とエジプトのヒエログリフである(紀元前3200年頃)。
言葉は空間を超えて複数の人々とのコミュニケーションを可能にし、文字は時間を超えたコミュニケーションを実現した。文字の発明は人間が歴史的存在になったことを意味する。
私の仮説に関連して検討するにあたり、確実な翻訳が行なえる言葉で書かれた人類史上最初の著作は『イーリアス』だ。現代の研究では、血と汗と涙に彩られたこの復讐譚は、吟じ手(アオイドス)と呼ばれる吟遊詩人の伝統によって創り上げられたものと考えられ、その時期は、近年発見されたヒッタイト語の銘板から、作品の中に記された出来事が起こったと推定できる紀元前1230年頃から、作品が文字で記された紀元前900年頃ないし850年頃までの間ではないかとされている。本章では、この叙事詩をきわめて重要な心理学上の記録として取り上げることにする。そして、ここで投げかけるべき問いは『イーリアス』における心とは何か、だ。
答えは、とても平静ではいられないほど興味をかき立てられるものだ。おしなべて、『イーリアス』には意識というものがない。
ホメロス作『イーリアス』。 pic.twitter.com/kXAIzGka2K
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年5月15日
とすると『イーリアス』は壁画であったのだろう。そこにはまだ「物語」がなかった。心は事実を解釈するに至っていなかった。つまり意識は存在しなかったのだ。
・不確実性に耐える/『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑
2016-06-15
イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優
・『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
・イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・宗教とは何か?
キリスト教の教祖であるイエス・キリストは、紀元30年ごろに復活した。復活というのは、実はそんなに異常な現象ではありません。なぜならば、近代より前の人たちの世界像というのは、日本でもヨーロッパでも中東でも同じで、哲学でいうところの素朴実在論の立場にたっているからです。すなわち、夢で見たこと、坐禅をしているときに体験したことと、現実に起こっていることとの間に差異がない。権利的に同格なんです。
もちろん、仏教の場合は、存在論が縁起観によって構成されていますから、関係性によって実体が見えてくる。しかし、その実体というものは、そもそも虚妄であるという考え方ですから、そこにはなんら違和感がないと思うんです。
キリスト教の場合は、夢で見たことと復活ということの間に差異はありません。基本的に同じです。あるいは白昼の幻を見る。当時サウロといってキリスト教徒を弾圧していた後の使徒パウロがダマスカスに行く途中で、光にうたれて幻を見る。これは実際に出会ったのと同じことなんです。
『源氏物語』でも、なぜ六条御息所(みやすどころ)の怨霊をみんなあんなに恐れるのか。それは、実際に六条御息所が出てくるのと同じことだからです。夢の中で見ることと現実とは同格なのです。
この二つが分かれたのは近代に入ってからです。近代に入って分離したのですが、19世紀の終わりから20世紀になると、フロイト派、ユング派の心理学が生まれて、再び夢の権利を回復しようとしているわけです。
【『サバイバル宗教論』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2014年)】
臨済宗相国寺派の僧侶を対象に行った講義を再編集したもの。2012年に4回行われた。クリスチャンを講師に招くという度量もさることながら、佐藤に対する質問のレベルもかなり高い。
カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなすが、キリスト教神学を確立したのはパウロであり、実質上のキリスト教開祖といってよい。
キリスト者を迫害していたサウロ(後のパウロ)はある時、光に打たれ、イエスの声を聴く。いわゆる啓示である。サウロは失明する。その後イエスの声に従って町へゆく。キリスト者が手を置き祝福を告げると、サウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ち、再び目が見えるようになった。これが「目から鱗が落ちる」の語源である(ペテロ、パウロ、そしてアウグスティヌス)。
そしてキリスト教を世界宗教にしたのはコンスタンティヌス1世(272-337年)である。彼は夢のお告げによってキリスト教に改宗した(『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ)。人々は夢に支配されていた。
これを心理学の夢分析(深層心理学)に結びつけるところに佐藤の卓見がある。夢を鵜呑みにすることは決して笑えない。現代においてもテレビや映画は非現実であり、形を変えた夢といってよい。そして我々も彼らと同じように知性と感情を刺激され、大なり小なり影響を受ける。小説や漫画も同じメカニズムである。
他にも例えばサードマン現象というのがある(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー)。一種の啓示と考えてよかろう。
現実と非現実を意識と無意識に置き換えることも可能であろう。私も一度だけだが月明かりの下で亡き友人の声をはっきりと聴いたことがある。それは早まろうとする私を諌(いさ)める声だった。聴こえたのはたった一言だったがそれで私は思いとどまった。
キリスト教が行ってきた殺戮の歴史を思えば、到底神がいるとは思えない。神よ、あんたが創造した世界は混乱と悲惨に覆われている。近代の扉が開き、科学技術が発達し、世俗化が進んだとはいえ、まだアメリカはキリスト教原理主義国家である。そして現在、ソ連に代わって社会主義国家の中国が台頭する。これまた一党独裁の原理主義国家だ。きっと人間の脳は支配されたがっているのだろう。
体力の衰えが気力の衰えにつながると考え、少し前から腕立て・腹筋・背筋・スクワットを行っている。まだまだ回数は少ないものの、心地良い疲労感の中でぐっすり眠れる。夢は全く見ない。神様と巡り合うことも当分ないだろう。
・『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
2016-06-13
ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・犀の角のようにただ独り歩め
・蛇の毒
・所有と自我
・ブッダは論争を禁じた
・『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。
【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】
「筏(いかだ)の喩え」(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ)でブッダは「正しい教えにも執着してはならない」と教えた。それを更に検証しよう。
初期仏教の最古層といわれるスッタニパータの第4章(七六六~九七五)では繰り返し同じことが述べられる。ブッダは論争を禁じた。鎌倉時代に生まれた日蓮が知れば、ぶったまげたことだろう。日蓮は法論を好み、幕府に対して繰り返し公場対決を申し入れた。
悪意から誹る言葉が生まれる。誹る言葉が風となって悪意の火は盛んになる。怒りの車輪は回転を始める。恨みは必ず同調者を求め、敵と味方を形成してゆく。
七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
八〇〇 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
「偏見」とは偏った見方に執着することだ。ここで驚くべきことにブッダは「比較から離れる」ことを教える。
比較と順応がないとき、葛藤は姿を消します。
【『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年/新装・新訳版、2016年)】
・比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
・比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ
2500年前に想いを馳せてみよう。権利という意識はまだ芽生えていなかったことだろうし、自由や平等といった概念も稀薄だったことだろう。庶民に至っては自我も確立されておらず、まだ右脳の声が聞こえていたに違いない(統合失調症)。そして夢と現(うつつ)の境も曖昧であったことだろう。「個人」という言葉は近代以降の概念である。
知識は脳を束縛する。それ以上にコミュニティ(党派)が人々を支配する。出自やカーストから自由になることは想像を絶する。枢軸時代以前の民俗宗教は神の声を代弁するシャーマンやチャネラーの言葉に集団が従うシステムであった。人々の脳には検討できるだけの材料(情報)がなかった。たぶん渡り鳥や魚の群れと大差がなかったことだろう。文字がないゆえに知識は神話の形で語り継がれる。神話はただ「受け取る」ものである。それは掟でありルール(法)であり定めであった。
人々がカーストに執着し、カーストを疑うことすらできなかった時代に、ブッダは執着からの自由を説いた。
八二五 かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。――みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。
八二六 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論的の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
八二七 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
八二八 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
まるで創価学会の折伏(しゃくぶく)や共産党のオルグを予言するかの如き言葉である(笑)。分断された自我は競争の道をひた走り、社会全体が闘争に覆われる。ブッダの指摘は資本主義経済や大衆消費社会にまで当てはまる。「朝まで生テレビ」なんかそのまんまである(笑)。議論の目的は自己主張・自己宣伝・自己宣揚に傾き、自己顕示欲の修羅場と化す。政治もまた同様である。党利党略を優先し、国民は単なる票として換算される。経済政策のミスを犯しても誰一人責任を取ることなく、平然と増税するような恥知らずばかりとなってしまった。
八三九 師は応えた。「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安でもある。)」
これが中道の奥深さである。「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく」との鮮烈な言葉が「筏の喩え」を彷彿(ほうふつ)とさせる。教義に固執することなく、教義の否定にも固執することなく、教義を筏として扱うことが求められるのだろう。
八六三「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
三悪道・四悪趣は渇愛と欲望から起こる。戦争の原因もここにある。
八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。
アルボムッレ・スマナサーラによれば六師外道という言葉は「『仏教以外の教えを説いている6人の先生』という程度の意味」(『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』)で、ブッダが徹底的に批判したのはマッカリ・ゴーサーラただ一人であった。彼の厳格な決定論・宿命論は社会を無気力にしてしまう。ただしブッダの批判は怒りに基づいたものではない。ただ事実を指摘するだけである。
「その(真理)を知った人は、争うことがない」――つまり争う人は真理を知らないのだ。
八九六(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
毀誉褒貶(きよほうへん)は世間の常である。誰だって褒められれば嬉しいし、貶(けな)されれば落ち込む。しかし社会の評価と人生の幸不幸は別物である。まして悟りとは何の関係もない。論争の勝敗は知的レベルの満足と不満足であり、無明を滅するには至らない。
九〇七(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
伝えられるものは知識である。悟り(涅槃)は伝えることも教えることもできない。これが「他人に導かれるということがない」の意味であろう。簡単な道理である。「人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない」(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。手放し運転はもっと説明できない。野球で打者がヒットを打つことも説明できない。何でも説明できると思ったら大間違いだ。我々はお互いが「できる」という事実に基いてコミュニケーションを図っているだけなのだ。目が見えない人に視覚を伝えることは不可能だ。無明に覆われた者が涅槃(悟り)を知ることはできない。
ブッダの教えは一切の依存を拒絶する。執着から離れ、論争を超越する。究極的には悟りに至っても悟りに執着しない生き方を示している。
そして論争から離れる道はただ一つ、傾聴である。
・コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
2016-06-12
筏(いかだ)の喩え/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・ものごとが見えれば信仰はなくなる
・筏(いかだ)の喩え
・ドゥッカ(苦)とは
・『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・クリシュナムルティ、瞑想を語る
・ブッダの教えを学ぶ
かつてブッダは弟子たちに因果の教えを説明し、弟子たちはそれをはっきりとわかり、理解したと答えた。そこでブッダが言った。
「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」
教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。
「弟子たちよ、ある人が旅の途中で大きな川に出くわしたとしよう。こちらの岸は危険であり、対岸は安全で危険がない。安全で危険がない対岸に渡る舟もなく、橋もない。そこで彼はこう思った。「この流れは大きく、こちらの岸は危険だ。対岸は安全で危険がない。渡るのに舟はなく、橋も架かっていない。草、木、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足で漕ぎ、安全な対岸に渡ろう」と。
弟子たちよ、こうして彼は、草、木、枝、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足を使って無事対岸に渡った。そして、こう思った。「この筏は大変役だった。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に着いた。だから、これからは頭に載せるか、背負うかしてこの筏を持ち歩くことにしよう」
弟子たちよ、彼の筏に対する思いは正しいかどうか」
弟子たちは「正しくありません」と答えた。
「では弟子たちよ、どういう態度がふさわしいであろうか。もし彼が「この筏は大いに役立った。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に辿り着けた。筏は浜に揚げるか、つなぎ止めて浮かしておき、私は先に進もう」と言ったらどうだろう。これこそが、正しい行ない、正しい態度である。
弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」
この譬えから明らかなように、ブッダの教えは人を安全、平安、幸せ、静逸、ニルヴァーナへと導くためのものである。ブッダが説いたすべての教えは、すべてこの目的のためである。
【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】
・筏の喩え
・クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』
有名な経典だが物語の背景をきちんと押さえておく必要がある。パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)では第22経『蛇喩経』(じゃゆきょう)、中阿含経では第200経『阿梨吒経』(ありたきょう)となっている(Wikipedia)。そして「筏の喩え」の部分だけを『筏喩経』(ばつゆきょう)と称する。
元鷹匠のアリッタという修行僧がブッダの教えを誤解した。「欲は修行の障(さわ)りとならない」と。周囲の修行僧が注意をしてもアリッタは耳を貸さない。弟子たちから相談を受けたブッダは直ちにアリッタを呼び、戒める。
始めにブッダは「蛇の喩え」を説く。蛇を捕える場合、腹や尻尾をつかめばたちまち噛まれてしまう。傷つき、毒が回り、命を失うこともある。そのように苦しむのは正しく蛇をつかまえなかったためである。人が蛇を捕えようとする時は鉄の杖で首を押さえ、次に手で頭を持つ。このようにすれば蛇に噛まれることはない。我が教えもまた同様である。意義を正しく理解しなければ、逆さまに考えて苦しむ者が出る。続いて「筏の喩え」が説かれる。詳細については以下のページを参照せよ。
・筏の譬え
・筏の如く
・中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その1.
・中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その2.
・中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その3.
・中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その4.
・Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え
・筏喩経(阿梨咤経)
尚、実際の経文を知りたい人は『パーリ仏典第一期1 中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』片山一良〈かたやま・いちろう〉訳(大蔵出版、1997年)を参照せよ。
文脈を考慮すれば「悪しき教え」とは誤解であり犯された誤謬(ごびゅう)である。だが元はといえばアリッタとの個人的なやり取りが「蛇の喩え」と「筏の喩え」を通して真理の高みに達する。その深さは居合わせた弟子たちはもとより、2500年後の私にまで響く。
これがキリスト教であれば「神を捨てよ」と言ったも同然だ。世間では「嘘も方便」というが、ブッダは「真理も方便」「教えも方便」と言い切った。教えの目的は彼(か)の岸(涅槃)に渡ることである。であれば教えは「地図」と考えてよかろう。にもかかわらず仏教の歴史は「地図」の色彩や精密さを競い合う方向へ動いた。あるいは筏を豪華客船に造り変えたようなものだ。仏教は日本に至ると信仰のレベルに堕し、もはや目的地がどこなのかわからぬ地図となってしまった。仏塔信仰がストゥーパに始まり、法華経では宝塔と巨大化していったのも一種の虚仮威(こけおど)しであろう。
ブッダは執着から離れる道を教えた。その究極として「正しい教えに執着してもならない」と説いた。ありとあらゆる宗教が神への、教義(ドグマ)への、グル(導師)への執着を説いている。ブッダこそは目覚めた人であった。他の宗教は信者の目を閉ざし、眠らせていることが理解できよう。
ブッダの教えに従えば、我々は「筏の喩え」にも執着してはならないことになる。これぞ完全無執着の道だ。なぜなら教えもまた「空」(くう)であり、自我もまた「空」であるからだ。テキストではなく、ブッダその人でもなく、ただ真っ直ぐに涅槃(悟り)を求めるのが真の仏弟子だ。
・クリシュナムルティ「道標は重要ではない」
・ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
2016-06-11
マイケル・クローネン著『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』新装・新訳版
キッチンで料理を提供し、デイヴィッド・ボームなどの会食者たちと歓談するかたわらで綴られた、精緻にして長大なクリシュナムルティ随聞記。
インドでは、古来食べ物はブラフマン(意識)だと言われてきた。『キッチン日記』は、当代の最も偉大な賢者の一人の意識の中で揺れ動いている気分ならびに精神の微妙な陰影への洞察をあなたに与えてくれる。一連のランチメニューに順次目を通しながら本文を読み進めていくうちに、あなたは、多くの人々に影響を与えてきたこの偉大な存在のパーソナリティの中にある複雑さ、単純さ、そしてユーモアを体験するであろう。
──ディーパック・チョプラ(『富と成功をもたらす7つの法則』の著者)
マイケル・クローネンの『キッチン日記』は、クリシュナムルティと彼の客たちにシェフとして菜食料理を提供した著者による、一九七五年から一九八六年までの出来事の優れた記録である。この伝記的ポートレートは、クリシュナムルティを聖人扱いしようとする様々な企てへのタイムリーな矯味薬である。ランチ中の打ち解けた会話からの記述と引用は、読んで楽しいだけでなく、真剣に考察するに値する。クリシュナムルティの教えのエッセンスの多くが、本書全体にちりばめられている。メニューが添えられている菜食料理を想像しながら、会食者たちと共に間接的に味わう人は誰であれ、それに満喫させられるだけでなく、スピリチュアルな滋養も与えられることだろう。
──アラン・W・アンダーソン(サンディエゴ大学宗教学部名誉教授)
クリシュナムルティの最も深い理解者の一人による、手作りの菜食料理とジョークによって趣を添えられた、機智に富んだ回顧録。
・一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン
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