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2015-03-30

アルゴリズムとは/『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ


『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』チャールズ・サイフェ

 ・サインとシンボル
 ・アルゴリズムとは

『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
情報とアルゴリズム

 アルゴリズムは、ひとつの有効な手続き、すなわち、有限個の別個のステップで何かをおこなうすべである。

【『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2001年/ハヤカワ文庫、2012年)以下同】

 古代の人類を思い浮かべてみよう。狩り、農耕、石器(道具)の作り方などにアルゴリズムを見て取れる。学びとは「アルゴリズムの共有」を意味したと考えてもよさそうだ。デイヴィッド・バーリンスキは古代中国に始まる官僚を「複雑なアルゴリズムを実行してきた社会組織以外の何物でもない」と指摘する。戦争やスポーツにおける戦略もアルゴリズムである。経済が上手くゆかないのはアルゴリズムが見出されていないためか。

 今世紀になってはじめて、アルゴリズムという概念の全貌が意識されるようになった。この仕事は、60年以上前、4人の数理論理学者によっておこなわれた。その4人とは、繊細で謎めいたクルト・ゲーデル、教会どころか大聖堂にも劣らずがっしりとして堂々としているアロンゾ・チャーチ、モリス・ラフェル・コーエンと同じくニューヨーク市立大学に葬られているエミル・ポスト、そして、もちろん、20世紀の後半に不安に満ちた目をさまよわせているかのような、風変わりでまったく独創的なA・M・テューリングだ。

 アインシュタインの相対性理論とゲーデルの不完全性定理は世界の見方を完全に引っくり返した。哲学は過去の遺物と化した。キリスト教も色褪せた。二つの理論は現代における常識の最上位に位置する。絶対なるものは崩壊した。

 ドイツはユダヤ人を迫害することで知性を流出して第二次世界大戦に敗れた。その知性を受け入れたアメリカが勝利を収めたのは当然であった。日本も当時、原爆製造に着手していたがウランがなかった。ゼロ戦をつくるほどの技術力はあったものの、全体観に立つ指導者がいなかった。


 解読不可能と思われていたエニグマの息の根を止めたのがチューリングだった。大戦の中で科学は次々と大輪の花を咲かせた。これが歴史の真実である。戦争に勝利したアメリカはドイツから技術や人を盗み取って、戦後の発展を遂げた(『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出)。

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

2011-11-26

ブッダの凄さ


 ブッダの凄さは、一切を相対化した上で相対化をも相対化したことである。アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは2300年後であった。これ以降を末法と考えればよいと思う。そして相対化された世界観は分断されたものではなかった。縁起という関係性・依存性で結ばれていた。

2012-10-13

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2014-10-26

初めにビットありき/『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド


『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ

 ・初めにビットありき

『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

情報とアルゴリズム

「初めにビットありき」と私は話を切り出した。複雑系を研究するサンタフェ研究所が居(きょ)を構える17世紀建立(こんりゅう)の修道院の礼拝堂には、いつもと変わらぬ物理学者、生物学者、経済学者、数学者の集団と、それから数多くのノーベル賞受賞者に影響を与えた一人の人物がいた。私は、宇宙物理学と量子重力の大家であるジョン・アーチボルト・ホイーラーに、『Itはビットからなる』というタイトルで講演するよう求められ、それを引き受けたのだった。

【『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(早川書房、2007年)以下同】

「初めにビットありき」! 痺(しび)れた。「言葉」でも「光」でもない。「情報」だ。『Itはビットからなる』というのは、もちろんジョン・ホイーラーが提唱した「It from bit」を受けたものだろう。

宇宙を決定しているのは人間だった!?― 猫でもわかる「ビットからイット」理論

 ジョン・ホイーラー(最近は「ウィーラー」という表記も多い)は類稀な言葉のセンスの持ち主でブラックホールの命名者でもある。

「事物、すなわち“It”は、情報、すなわち“ビット”から生まれます」と、私は、緊張した手でリンゴを投げあげながら続けた。「このリンゴは“It”の良い例です。リンゴは昔から情報と結びつけられてきました。まず何よりも、“禁断の一口が世界に死とすべての苦悩をもたらした”知の果実として、リンゴによって運ばれる情報には、良いものも悪いものもあります。時が下り、リンゴの落下する軌道からニュートンが万有引力の法則を明らかにし、リンゴの表面はアインシュタインの説く歪(ゆが)んだ時空の喩(たと)えにもなりました。もっと直接には、リンゴの種の中に閉じ込められた遺伝暗号が、将来育つリンゴの木の構造をプログラミングしています。そして最後に、リンゴには自由エネルギー、すなわち、われわれの体を機能させるうえで必要な、ビットに富む何キロカロリーものエネルギーが含まれているのです」

「事物、すなわち“It”は、情報、すなわち“ビット”から生まれます」――つまり情報理論とは仏教の唯識なのだ。唯識は認識機能に立脚するが、認識対象はすなわち情報である。世界の本質は認知世界であり、世界はこれ情報であり唯識である。目の前に世界が広がっているわけではなく、世界は感覚器官に収まる。

「このリンゴには、当然さまざまな【タイプの】情報が含まれています。いったいこのリンゴには、【どれだけの】情報が含まれているのでしょうか? 1個のリンゴの中には、【どれだけの】ビットが存在するのでしょうか?」私はリンゴをテーブルに置き、ボードの方を向いてちょっとした計算をした。「面白いことに、1個のリンゴに含まれるビットの数は、20世紀初頭、“ビット”という言葉が誕生する前からわかっていました。ちょっと考えただけだと、1個のリンゴには無限個のビットが含まれていると思えるかもしれませんが、そんなことはない。実は、リンゴとその原子の微視的状態を特定するのに必要なビットの数は、あらゆる物理系を支配する量子力学の法則によって、有限とされています。1個1個の原子は、その位置と速度という形でわずか数ビットを記録しているにすぎないし、一つ一つの原子核が持つ核スピンは、たった1ビットしか記録していません。結果として、このリンゴには、原子の数のわずか数倍、すなわち10億の10億倍の数百万倍個の0と1が含まれているだけなのです」

 残念なおしらせだ。無限の可能性は否定された。ビットは有限なのだ。ただし我々の日常感覚からすればやはり無限に近い。そもそも観測可能な宇宙に存在する原子の総数が10の80乗個と推定されている。因(ちな)みに宇宙全体にある星の数は地球上の砂の数を上回る(「砂(すな)の数と星の数」)。

 セス・ロイドは量子コンピュータの第一人者で、本書において宇宙そのものが巨大コンピュータであるという驚くべき仮説を示す。情報処理という観点に立つと「計算」というキーワードが重要になる。

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

仏教とはなにか―その思想を検証する

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無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎

2016-07-15

ダニエル・チャモヴィッツ、三枝充悳、稲垣栄洋、岡ノ谷一夫、堀栄三、他


 21冊挫折、13冊読了。これ以上のペースで読むと読書日記も書けなくなりそうだ。

生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学』ピーター・ウォード、ジョゼフ・カーシュヴィンク:梶山あゆみ訳(河出書房新社、2016年)/文章が肌に合わず。もったいぶった姿勢を感じる。

森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一〈もり・こういち〉(小学館ライブラリー、1994年)/良書。「鋸喩経」(こゆきょう)を調べて辿り着いた一冊。ノコギリの部分はしっかり読んだ。

絶対の真理「天台」 仏教の思想5』田村芳朗〈たむら・よしろう〉、梅原猛(角川書店、1970年/角川文庫ソフィア、1996年)/シリーズの中では一番面白みがない。最後まで目を通したものの半分ほどは飛ばし読み。説明に傾いて閃きを欠く。

日本の分水嶺』堀公俊(ヤマケイ文庫、2011年)/文体が合わず。

ブレンダと呼ばれた少年 性が歪められた時、何が起きたのか』ジョン・コラピント:村井智之訳(扶桑社、2005年/無名舎、2000年、『ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何が起きたのか』改題)/武田邦彦が取り上げていた一冊。双子の赤ん坊の一人がペニスの手術に失敗する。性科学の権威ジョン・マネーが現れ、性転換手術を勧める。男の子はブレンダと名づけられ少女として育てられる。ところが思春期になるとブレンダは違和感を覚え始める。後に逆性転換手術をして力強く生きていった。ところが訳者あとがきで驚愕の事実が明らかになる。これは読んでのお楽しみということで。神の位置に立って勝手な創造を行うのが白人の悪癖である。尚、扶桑社版の編集に対する批判があることを付け加えておく。

(日本人)』橘玲〈たちばな・あきら〉(幻冬舎、2012年/幻冬舎文庫、2014年)/文章の目的がつかみにくく行方が知れない。

リベラルの中国認識が日本を滅ぼす 日中関係とプロパガンダ』石平、有本香(産経新聞出版、2015年)/有本香の対談本は出来が悪い。

「朝日新聞」もう一つの読み方』渡辺龍太〈わたなべ・りょうた〉(日新報道、2015年)/これも武田邦彦が紹介していた一冊。文章が軽すぎて読めない。ネット文体といってよし。

紛争輸出国アメリカの大罪』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(祥伝社新書、2015年)/文章に締まりがない。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか』小谷賢(講談社選書メチエ、2007年)/とっつきにくい。後回し。

はじめての支那論 中華思想の正体と日本の覚悟』小林よしのり、有本香(幻冬舎新書、2011年)/本書では「小林さん」と呼んでいるが、有本は動画だと「小林先生」と呼ぶ。ある種の芸術家に対する尊称なのか、個人的敬意が込められているのかは判断がつかない。有本同様、小林の対談本も一様に出来が悪い。「わし」という言葉遣いが示すように公(おおやけ)の精神が欠如している。

川はどうしてできるのか』藤岡換太郎〈ふじおか・かんたろう〉(ブルーバックス、2014年)/変わった名前である。まるで北風小僧(笑)。文章がよくない。

カウンセリングの理論』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1981年)/『カウンセリングの技法』(1979年)、本書、『エンカウンター 心とこころのふれあい』(1981年)、『カウンセリングの原理』(1996年)が誠信書房の4点セット。國分康孝は実務的な文章でぐいぐい読ませる。ただし今の私に本書は必要ないと判断した。

法句経講義』友松圓諦〈ともまつ・えんたい〉(講談社学術文庫、1981年)/初出は『法句経講義 仏教聖典』(第一書房、1934年)か。初心者向きの解説内容である。宗教を道徳次元に貶めているように感じ、読むに堪えず。

これでナットク!植物の謎 植木屋さんも知らないたくましいその生き方』日本植物生理学会編(ブルーバックス、2007年)/ホームページに寄せられた質問に学者が丁寧に答えたコンテンツの総集編である。続篇『これでナットク! 植物の謎 Part2』(2013年)も出ている。

〈税金逃れ〉の衝撃 国家を蝕む脱法者たち』深見浩一郎(講談社現代新書、2015年)/パラパラとめくって食指が動かず。

タックス・イーター 消えていく税金』志賀櫻〈しが・さくら〉(岩波新書、2014年)/「タックス・イーター」をスパっと説明していないのが難点だ。具体的に個人を特定するほどの執念がなければ、ただの解説書である。

パナマ文書 「タックスヘイブン狩り」の衝撃が世界と日本を襲う』渡邉哲也(徳間書店、2016年)/これも渡邉本としては出来が悪い。文章に人をつかむ力が感じられない。

いちばんよくわかる!憲法第9条』西修(海竜社、2015年)/良書。これはおすすめ。歴史的経緯を辿ると自衛隊の役割がくっきりと浮かび上がってくる。しかも西は自ら海外を訪れ、直接資料に当たり、関係者に取材している。半分だけ読んだが、それでもお釣りがくる。

日本人よ!』イビチャ・オシム:長束恭行訳(新潮社、2007年)/話し言葉ほどの切れ味が文章にはない。

怪獣使いと少年ウルトラマンの作家たち』切通理作〈きりどおし・りさく〉(増補新装版、2015年/JICC出版局、1993年宝島社文庫、2000年)/編集した町山智浩からの申し出で復刊した模様。読み手を選ぶ本だ。オタク目線が強く、一般よりは特殊に傾く。切通本人の心情も湿り気が濃い。

 92冊目『日本人だけが知らない戦争論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2015年)/久し振りの苫米地本である。右傾化への警鐘が巧みで一読の価値あり。サイバー戦争の具体的な解説が圧巻。

 93冊目『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司〈おおぐり・ひろし〉(幻冬舎新書、2012年)/大栗はカリフォルニア工科大学ウォルター・バーク理論物理学研究所所長を務める人物だ。場の量子論や超弦理論で国際的な評価を得ている大物である。読みやすい教科書本。いくつかの蒙(もう)が啓(ひら)いた。

 94冊目『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ:矢野真千子訳(河出書房新社、2013年)/良書。200ページ弱の小品。著者はイスラエルの学者。後半にわずかなダレがあるが、しっかりとニューエイジ系の誤謬を撃つ。

 95冊目『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)/上念司〈じょうねん・つかさ〉が毎年繰り返し読む本である。登場人物に精彩がある。原爆を大本営参謀は知らなかったと書いている。陸軍中野学校と情報が共有されていないことがわかる。「日本の近代史を学ぶ」に追加。

 96冊目『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』内藤国夫(日新報道、1989年)/往時、内藤国夫は本多勝一と人気を二分するジャーナリストであったが、その晩節は暗く寂しいものであった。福島源次郎著『蘇生への選択 敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか』と本書を併せ読めば、内藤国夫の下劣さが理解できる。基本的にジャーナリストは人間のクズだと考えてよい。

 97冊目『裏切りの民主党』若林亜紀(文藝春秋、2010年)/面白かった。若林は文章はいいのだが性格が暗い。表情や声のトーンからもそれが窺える。たぶん生真面目なのだろう。若林はクズではない稀有なジャーナリストである。事業仕分けの経緯と舞台裏がよくわかった。本書に登場する民主党参議員の尾立源幸〈おだち・もとゆき〉が先日落選した。

 98冊目『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫(河出ブックス、2011年/河出文庫、2013年)/小川洋子の前文は読む必要なし。対談は上手いのだが科学的知識の理解に誤謬がある。言葉の発生は歌であったと岡ノ谷は主張する。おお、我が自説と一緒ではないか。岡ノ谷の博識に対して小川の反応がよく一気読み。

 99冊目『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦・絵 (文藝春秋、2010年)/まあまあ。岡ノ谷は手抜き本が多そうだ。これも執筆なのか語り下ろしなのか微妙なところ。

 100冊目『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係』稲垣栄洋〈いながき・ひでひろ〉(幻冬舎新書、2015年)/見事な教科書本である。稲垣は植物学者でありながら仏教の知識もしっかりしている。これはおすすめ。

 101冊目『結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/このシリーズでは一番よくまとまっていると思う。ただしエントロピーに関する記述は完全に誤っている。社会的信用のためにも削除すべきだろう。スマナサーラは小さな誤謬が多いので要注意。

 102冊目『初期仏教の思想(上)』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(レグルス文庫、1995年)/難しかった。三枝ノートといってよい。研究者の凄まじさがよくわかる。

 103冊目『あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/サンガ新書のスマナサーラ本は慣れてくると1時間ほどで読める。やや牽強付会な印象はあるが、相変わらず読ませる。

 104冊目『ぼくは13歳 職業、兵士。 あなたが戦争のある村で生まれたら』鬼丸昌也、小川真吾(合同出版、2005年)/良書。ただし終わり方がよくないので必読書には入れず。読者を誘導しようとする魂胆が浅ましい。「自分は正しい」という感覚が目を見えなくする。たとえ目的が正しいものであったとしてもプロパガンダはプロパガンダである。コンゴの少年兵の悲惨と彼らが語る夢に心を打たれる。「チャイルド・ソルジャー」だから子供兵・児童兵が正しい訳語か。

2016-12-21

シャンカール・ヴェダンタム、オリバー・ベレス、グレッグ・カプラ、藤原肇、藤井尚治、他


 1冊挫折、3冊読了。

修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』角田和男〈つのだ・かずお〉(今日の話題社、1989年光人社、2002年/光人社NF文庫、2008年)/良書。文章もよい。年末で時間がないため時期を改めて読むつもりである。大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉は講和へ導くために特攻隊を考案した。大西個人の考えではないことが書かれている。

 170冊目『間脳幻想 人類の新時代をひらくキー・ワード』藤原肇、藤井尚治〈ふじい・なおはる〉(東興書院、1988年)/小室直樹と互角に渡り合った(『脱ニッポン型思考のすすめ』1982年)藤原が藤井には全くかなわなかったという。対談というよりは雑談なのだが恐ろしいまでの鋭さがぶつかり合う。アインシュタインの宇宙定数が再び見直されたように二人は錬金術の目的と思想をすくい上げる。その手並みが実に鮮やかだ。

 171冊目『デイトレード マーケットで勝ち続けるための発想術』オリバー・ベレス、グレッグ・カプラ:林康史〈はやし・やすふみ〉監訳、藤野隆太訳(日経BP社、2002年)/投資家の間では有名な本だが初めて読んだ。文章が巧みで随所に名文が光る。矢口新著『実践 生き残りのディーリング 変わりゆく市場に適応するための100のアプローチ』が霞んで見えるほどだ。株式投資以外でも十分通用する内容である。

 172冊目『隠れた脳』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)/再読。既に書評済み。名著は何度読んでも新しい発見がある。

2016-06-07

「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)/『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 ・「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)

『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

『スッタ・ニパータ』は、初期経典が結集(けつじゅう)される前、サーリプッタ尊者など偉大なる阿羅漢(あらかん)たちが活躍されていたときから知られていた経典です。もちろん、きちんと編集されたのはブッダが般涅槃(はつねはん)に入られてからですが、ブッダが直々に説法をなさっていた頃から伝えられている詩集なのです。そのゆえに、古い経典として大変重んじられています。
 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味のほうがふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)以下同】

 小部の『スッタ・ニパータ』は最古層の経典として知られる。中でも第4章が最古と目され、ブッダの直説(じきせつ)と見なされている(PDF「最古層の経典の変遷 スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」石手寺 加藤俊生)。

 サーリプッタ(舎利弗)は十大弟子の筆頭で智慧第一と称された人物でブッダよりも年上だった。二大弟子の一人モッガラーナ(目連)と共にブッダよりも先に逝去した。小部にはサーリプッタの註釈とされる『義釈』が収められている。

「縦糸」の義から「スッタ」を「経」と訳す。


「式」との表現が絶妙だ。「スッタ」の一語が仏教の公式を宣言しているのだ。小部十八経の中で他に「スッタ」は見当たらない。

 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、
 生まれた怒りを速やかに制する修行者は、
 蛇が脱皮するように、
 この世とかの世をともに捨て去る。

 この「蛇」の経典では、ずっと蛇の脱皮を譬(たと)えに使っています。蛇という単語には、「毒」という意味も入ってきますが、蛇の特色といえば「脱皮」という生態です。蛇はデパートに行って服など買わなくとも、古くなったら捨てればいいのです。だから他の動物と比べると、蛇はいつでも体がきれいです。あれほど体がきれいな動物は他にいないと思います。他の動物は臭くて、体が汚くて、ノミやらいっぱいいて大変でしょう。蛇の皮膚はビニール製のようなものですから、体には虫も何も付いていません。蛇の皮が古くなると色が変わってきます。すると、蛇は皮ごと全部捨ててしまう。細い枝の間などに体を入れて進むと、古い皮だけが引っかかり、脱皮してきれいになった蛇だけが出て行ってしまうのです。

 革命というよりは変容が相応(ふさわ)しい。「この世とかの世をともに捨て去る」とは、此岸(しがん)にも彼岸(ひがん)にも執着しない中道の姿勢である。ただし「この世もあの世も捨てろ」とは言っていない。生きることは死ぬことである。我々は死ぬために生きている。生命とは死ぬ存在だ。そう達観できれば、この世とあの世の虚妄(きょもう)が見抜ける。脱皮とは虚妄の皮を捨てることだ。欲望の充足こそ幸福だと錯覚する感覚から抜け出ることだ。諸行無常である。不幸も幸福も長く続かない。不幸な時に幸福を願い、幸福な時に不幸を恐れるのが人の常であろう。人生は瞬間の連続であるが、こうした生き方は瞬間が疎(おろそ)かとなってゆく。

 今さえよければ後はどうなっても構わない(この世)という生き方も、将来のために現在を犠牲にする生き方(あの世)も誤っている。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 怒りは「我」(が)から生まれる。「よくも俺を馬鹿にしたな!」というのが怒りの正体だ。「自分は凄い」と思っているから頭に来るのだ。「私は愚かだ、馬鹿だ」と自覚すれば怒ることもない。我々は自分が平均以上であると思い込むからダメなのだ。思い切って今後はブッダやアインシュタインと比較しようではないか。確かに馬鹿です。100%馬鹿(笑)。

 人間が一般的に、自分には色々なトラブルがある、問題がある、と思ったら、それは99%が怒りによるものなのです。金銭トラブル、社会関係のトラブル、精神的なトラブル、そういったトラブルは、ほとんど「怒り」が原因になっています。

 何ということか。怒(おこ)らなければ幸せになれる――ただそれだけのことだったとは。まずは怒らないこと。次に怒りっぽい人から遠ざかること。そして怒りを喚起する映画や小説に触れないことである。最後のやつはスマナサーラからの受け売りだ。

 ルワンダ、パレスチナ、インディアンといった歴史の悲劇を思うと私の五体は怒りに打ち震える。全神経を殺意が駆け巡り、血が逆流する。私の願いは虐(しいた)げた側の連中を皆殺しにすることだ。それが実現すれば平和になるだろうか? 悲劇を防ぐための殺人は正当化し得るだろうか? どんな理由をつけようとも「殺した」という事実は残る。暴力の結果は次の暴力の原因となり連鎖は果てしなく繰り返されることだろう。

 諸法無我が真理であれば「私」はない。ただ現象だけがある。「私」という中心から感情が生まれ、物語が形成される。「この世」「あの世」という物語が。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

2011-05-20

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール


『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳

 ・神智学協会というコネクター

『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン
『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎訳

 驚愕の一書である。西洋に与えた仏教の影響、仏教をニヒリズムと断じたショーペンハウアーの過ち、クリシュナムルティを生んだ神智学協会の文明史的意味、西洋からニューエイジ・ムーブメントが台頭した背景などに興味がある人は必読。学術書でありながら驚くほど読みやすい。ただし誤謬もいくつか散見され、出版社宛てにその旨メールを送ったところ直ちに返信があった。

 本書において西洋と仏教が主役を務めているわけだが、見方を変えると神智学協会を取り巻く物語としても読める。

 ロプサン・ランパ(※偽書『第三の眼』の著者)は強力な触媒であるが、この転送をさらに遡ってみるのは、興味深いことと思われた。この歴史的探究で、私は、西洋における秘教主義の系譜をたどってゆくと、オルコット大佐(※ヘンリー・スティール・オルコット)とヘレナ・ブラヴァツキーによって1875年に創設された神智学(しんちがく)協会へと行き着いた。神智学者たちは彼らの教義を正当化するために、謎めいた「チベット人の師」から授けられた秘密の教えをよりどころにすることで、なみはずれた秘密の能力を具え、人類の根源的な叡智を託されたラマと、魔術のチベットという近代の神話を作り上げた。この神話は、20世紀を通じて、大衆的、秘教的フィクション文学の源となった。

【『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳(トランスビュー、2010年)以下同】

 神智学協会は無節操な多神教で、いいとこ採りのつまみ食い教団だ。教義の幕の内弁当。ま、スケールのでかい幸福の科学と考えてよろしい。典型的な秘教主義であるわけだが、このエソテリシズム(秘教主義)ってのも実は奥が深い。西洋だとグノーシス主義(1世紀)からマニ教に至る系譜があり、魔術、占星術、錬金術を網羅している。

西洋オカルトの源流はカバラとグノーシス思想にある

 話を戻そう。思想が広まるためには人や物の交流が不可欠である。東洋と西洋はどのように出会ったのだろうか。

 まず最初に、ペルシャ帝国、ついでアレクサンドロス大王の帝国、そしてローマ帝国による政治的統一は、東洋と西洋、より厳密にはインドとギリシャのあいだの交流を数世紀にわたって促進した。紀元前546年、未来のブッダが10歳くらいの頃、ペルシャのキュロス大王は、小アジアのギリシャ都市と、インダス河のインド領域を征服し、エジプトからインドにまでまたがる大帝国を打ち立てた。ペルシア人が作った素晴らしい道路と中継地のおかげで、ブッダは3週間の騎馬の旅で、ギリシャの同時代人ピュタゴラスを訪ねていくことも可能であった(現在では、ギリシャとインドのあいだに位置する緩衝国の大半が、不安定で政治的に閉ざされているので、こんな旅行はほぼ不可能である!)。ヘーゲルは、いみじくも、この新しい政治的統一のおかげで、「ペルシャ人が、東洋と西洋とのつなぎ目となった」と述べている。

 ここで目から鱗(うろこ)が一枚落ちる。思想はそれ自体がもつ力で広まるわけではない。政治・経済の恩恵に浴する形で伝わってゆくのだ。ヨーロッパの連中は長い間、アフリカやアジアには化け物が棲んでいると考えていた(化物世界誌)。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ギリシャがインドを征服したわけだが、東洋と西洋が本格的に交流したのはモンゴル帝国が拡大した13世紀のことである。

 仏教は西洋に多大な影響を与えたのは確かだが、それは思想的というよりは政治的なものだった。

 フランス大革命の理想に熱狂し、反教会に徹した19世紀フランス知識人のもっとも典型的な例であったミシュレは、インド、ことに仏教の発展を喜んだ。彼は、この発展のおかげで、ヨーロッパの文化的地平線は、ユダヤ・キリスト教的ヒューマニズムに比べてもっと普遍的なヒューマニズムへと拡大すると考えた。

 ここから本書の主役はショーペンハウアーにバトンタッチする。

 ニーチェ、フロイト、キルケゴール、ベルクソン、ヴィトゲンシュタイン、モーパッサン、トルストイ、カフカ、マン、プルースト、カミュ、セリーヌ、ボルヘス、ヴァーグナー、マーラー、シェーンベルク、アインシュタイン、チャプリンといった多彩な人たちの間に、どんな共通点があるのだろう。それは全員が、人により浅深の差はあるが、今日ではほとんど完全に忘れ去られたドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)の思想に、影響を受けたことである。

 で、この小悪魔みたいな風体(ふうてい)のオッサンが仏教をニヒリズムとペシミズムに貶(おとし)めたのだ。

 重要なことは、19世紀後半の教養あるヨーロッパ人の大半、そしてフロイト、マルクス、ニーチェの同時代人に、仏教は、このドイツの哲学者の思想と混同されたということである。この現象は、ヨーロッパで仏教がまだよく知られておらず、この混同が根拠のないものであることが、少数の特別な専門家だけにしかわからなかった時代に起こったがゆえに、いっそう決定的であった。正しい見識がなかったたえに、仏教思想はその後数十年の間、根本的厭世主義の烙印を押された、ショーペンハウアーの哲学と同一視されることになった。

 フレデリック・ルノワールは、苦を相対化したブッダと絶対化したショーペンハウアーの根本的な違いを示し、誤謬がもつ毒性に警鐘を鳴らしている。

 ショーペンハウアーは今日、一般大衆にはあまり知られていないが、彼の根本的に悲観主義的な思想と仏教とを同一視することは、哲学の素養はかなりあるものの自分で仏教を深く勉強する必要を感じない知識人の間では、今(ママ)だに根強く生き残っている。

 著者はここからオカルティズムとスピリチュアリズムに切り込む。

 19世紀最後の30年間に、交霊術はヨーロッパの芸術家、知識人たちのあいだに怒濤のように広まり、ヴィクトル・ユゴーをはじめ数え切れないほどの著名人が、半信半疑ながらも熱狂的に、死者との対話に没頭した。
 交霊術に続いて、ひとつの新たな流れが、この秘教的な成分のただなかに出現した。オカルティズムある。この言葉を創始したのは、『偉大な秘儀の鍵』なる書を1861年に出版したアルフォンス=ルイ・コンスタン、またの名を祭司エリファ=レヴィというフランス人である。オカルティズムは、占星術、タロット、カバラ、魔術、錬金術などといった数々の「伝統的科学」に支えられた探究と実践の、ひとつの総体として出現したのである。
 入れ替わり立ち替わり現れるこの二大潮流、つまり交霊術とオカルティズムは、19世紀最後の30余年間、大いに流行し、その地下組織やクラブは数千を数え、隠れた信奉者は数百万人に上った。

 同時代のトーマス・エジソンがあの世に通じる電話を作ろうとしていたことを考えると、さほどおかしなことではない。

かつて無線は死者との通信にも使えると信じられていた/『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット

 化学(Chemistry)だって錬金術(Alchemy)が産み落としたものだ。

 人間には元々不思議なことを好む性質がある。世界は驚きに満ちていた方がよい。抜きん出た技をもつ人は、どの世界でも重用される。スピリチュアリズムを嫌悪する私ですら、イチローを「フェンス際の魔術師」と呼ぶことに異論はない。

 1961年、インド哲学と、こうした新傾向の心理学に関する研究センターが、カリフォルニアのエサレンに設立された(※エサレン研究所)。これが、のちに「ニュー・エイジ」と呼ばれることになるものの第一の礎石となった。

 これを侮ってはいけない。彼らのヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント(人間性回復運動)がマズロー心理学の自己実現理論を布教したのだ。そして、この系譜の末席に自己実現セミナーやワークショップが居座る。

 20世紀に最も影響を与えた心理療法家と称されるカール・ロジャーズもスピリチュアリズムに接近している。

 もう少しアメリカの歴史を辿れば、『若草物語』で知られるルイーザ・メイ・オルコットの父親(※エイモス・ブロンソン・オルコット/オルコット大佐とは別人)に注目する必要がある。このオヤジがエマソンやソローに超越主義を吹き込んだのだ。

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之

 それにしても神智学協会がこれほど有名な団体だとは知らなかった。しかも神智学協会は西洋と仏教をつなぐコネクターであったというのだから驚かされる。結果的に「世界における比叡山」のような機能を果たしたわけだ。

 西洋の政治状況とスピリチュアリズム志向の隙間に神智学協会という楔(くさび)が打ち込まれた。そして神智学といういかがわしい沼からクリシュナムルティという花が咲くのだ。なんという不思議であろうか。しかも、あろうことかそのクリシュナムルティがニューエイジの教祖みたいに祭り上げられているのだ。神智学教会は世界の矛盾を体現しているのかもしれない。

 ところが次に見るように、仏教は、人間性の変革を図るにあたって、世界や社会に働きかけることより、自我に働きかけることを優先するという点で、西洋とは正反対の立場をとっている。仏教が推薦する革命とは、まず第一に、そしてなによりも、個人の意識革命なのである。

 本書の後半部分は上座部仏教(いわゆる小乗仏教という名称は大乗仏教が使った蔑称)に傾いている。それでもこの部分は首肯できる。古来、世俗を捨てて仏道に入ることを出世間(しゅっせけん)といった。社会とは複合的な集団であり、ヒエラルキー形成に本質がある。ヒエラルキーは差別であり暴力でもある。社会で生きてゆけば必ず何らかの残酷さと向き合うこととなる。人と人とが行き交う以上、欲望がぶつかり合うのを避けて通ることはできない。

 フレデリック・ルノワールのメッセージに対して、アジアから応答する学者が待たれる。尚、クリシュナムルティに関する記述は少ないことを付言しておく。



星の教団と鈴木大拙
キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
煩悩即菩提/『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー