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2014-09-18

キリスト教と仏教の時間論/『死生観を問いなおす』広井良典


『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

 キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
 念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 死を、もっと具体的にいえば「死の向こう側」をどう設定するかで人の生き方は変わる。「今さえよければいい」という態度を刹那的(せつなてき)と切り捨てるのは、国家や社会が揺らぐのを防ぐためだ。「将来のために現在を犠牲にすることが正しい」との価値観を刷り込まれると、知らず知らずのうちに奴隷的な生き方を強いられる。

 宗教と科学を根本で支えているのは時間であり、時間論という軸で宗教と科学は完全に結びつく。時間こそがこの世を解き明かす一大テーマである。

 宗教は「あの世の論理」(苫米地英人)であり、科学は「この世の論理」である。今気づいたのだが日蓮が政治(この世の論理)にコミットしたのは、一世を風靡した浄土思想からこの世に引き戻す企てであったのかもしれない。アインシュタインが宗教を滅ぼしたと私は考える。観測者の運動状態によって時間の進み方が異なる(相対性理論)ことがわかった時点で、もろもろの宗教は単なる一観測者となったのだ。時間が絶対的なものではないという事実が宗教に鉄槌を加えた。ところがそれに気づいた宗教者はいない。

 時間という概念を有する我々は一生という限定された時間を超越することを望み、死後にまで延長しようと目論む。だが永遠って何だ? 永遠に続く映画を見たい人はいるのか? ドラマ『24 -TWENTY FOUR-』が『永遠 -FOEVER-』とタイトル変更をして120歳になっても戦うジャック・バウアーが想像できるか?

 永遠とは「終わりがない」ことを意味する。永遠のドラマが見たいならgif画像を見ればいい。その終わりがない、繰り返しの続く回し車を走るハムスターのような人生をブッダは六道輪廻と説いた。そう。六道回し車だ。

 永遠と無限は異なる。0と1の間に無限は確かに存在する。だが永遠は存在しない。なぜなら観測できる人がいないからだ。永遠の欺瞞を見抜け。特に「永遠の愛」。

2014-08-13

合理性を阻む宗教的信念/『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳


『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳

 ・自由とは良心に基いた理性
 ・合理性を阻む宗教的信念

『魔女狩り』森島恒雄

 普通の人の心の世界は、自分が文句なしに容認し固く執着している信念から成り立っている。このなじみ深い世界の既成の秩序を覆(くつがえ)すようなものに対しては、普通の人は本能的に敵意をもつものである。自分のもっている信仰の一部分と矛盾するような新しい思想は、その人の頭脳の組替えを要求する。ところがこれは骨の折れる仕事であって、脳エネルギーの苦しい消耗が強要される。その人と、その仲間の大衆にとっては、新しい思想や、既成の信仰・制度に疑惑を投げかけるような意見は不愉快であり、だからそれは彼らには有害な意見に見えるのである。
 単なる精神的なものぐさに原因する嫌悪感は、積極的な恐怖心によってさらに増大する。そして保守的本能は、社会機構をも少しでも改変すると社会のよって立つ基盤が危うくなるとの保守的理論へと硬化する。国家の安寧(あんねい)は強固な安定と伝統・制度の変わりない維持とに依存するものだという信仰を人々が放棄しはじめたのは、ようやく最近のことである。その信仰がなお行なわれているところでは、新奇な意見は厄介視されるばかりでなく、危険視される。公認の原則について「何故に」とか「何のために」というような面倒な疑問を発するような人間は、有害な人物だとみなされるのである。
 保守的本能とそれに由来する保守的理論とは、迷信によってさらに強化される。慣習と見解の全部を包含する社会機構が、もしも宗教的信仰と密接に結びつき、神の比護のもとにあると考えられているような場合には、社会秩序を批判することは涜神(とくしん)を意味し、また宗教的信仰を批判することは超自然的神々の怒りに対する直接の挑戦となる。
 新しい観念を敵視する保守的精神を生み出す心理的動機は、既成の秩序やその土台となっている観念を維持するのに利害を共にする階級、カースト、祭司というような、地域社会の有力な諸階層の積極的な反対運動によってさらに強化される。

【『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳(岩波新書、1951年)】

 人類にパラダイムシフトを促してきたのは常に冷徹な科学的視点であった。現実を鋭く見つめる科学者の頭の中から世界は変わり始める。それは緩やかに知の積み重ねを通して人々に広がってゆく。かつて地球は平面であると考えられていた。天動説や魔女の存在を信じていた時代もあった。

 科学の世界とて例外ではない。アインシュタインは一般相対性理論から宇宙が収縮するケースが導かれることを見出し、宇宙定数を方程式に盛り込むことで帳尻を合わせた。それから12年後、エドウィン・ハッブルの観測によって宇宙が膨張している事実が判明した。アインシュタインは宇宙定数を「生涯最大の過ち」と悔いた(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン)。彼は定常宇宙を信じていたのだ。

 信念が相関関係を因果関係に書き換える。脳を支配するのは物語だ。その最たるものが宗教であろう。

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 不幸が祟(たた)りの物語をつくり、僥倖は祝福の物語を形成する。脳は偶然をも必然と捉える。

 ホワイトの指摘は認知科学によって具体的に証明されている。

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 私が不思議でならないのは、なぜキリスト教よりも合理的な仏教から学問的な統合知が生まれ得なかったのかという一点である。これは研究に値するテーマだと思う。



新しい信念と古い信念が拮抗する/『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ

2014-04-19

偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

・偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
宗教は恐怖に基いている

ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 とにかく、もうニュートン式の、たれにも理解できないけれども、ある理由で、自然は統一された様式で動作をするといつたたぐい(ママ)の自然の法則は通用しないのです。今では、われわれが自然の法則だと考えていた沢山なことが、実は、人間の習慣でしかないことを発見しているのであります。御承知のように、天体の空間のどんな違いにおいてもなお三呎(※フィート)は1ヤードです。これは、明らかにおどろくべきことではありますが、どうも自然の法則とは言いかねるのであります。そして自然の法則とみなされてきた多くのことはそのたぐいであります。これに反して、原子が実際になすところのことになんらかの知識を得ることができる場合には、ひとびとが考えていたほどには、法則に従つていないことが解るでありましょう。そして到達することのできる法則は、偶然から現れる類のものにそつくりな統計的平均値なのであります。御承知のように、骰子を振つたなら、6の目が二つでるのは大体36回に一度という法則がありますが、われわれは骰子の目がでるのが神の意向によつて規正されている証拠だとはみなしません。反対に、6の目が二ついつもでるならば、神の意向があつたと考えるべきでありましよう。自然の法則というのは、そのうちの沢山なものについての、そのような類のものであります。それは偶然性の法則から出てくる統計学的平均値にすぎず、そのことが自然の法則に関するすべてのことを昔にくらべて、甚だしく影を淡くしているのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 1927年に行われた有名な講演が冒頭に収められている。ラッセルは回りくどいほど丁寧に、そして時々辛辣なユーモアを交えて語る。時代は第一次世界大戦から第二次世界大戦に向かっていた。ヨーロッパで神を否定することは、日本で天皇を否定するよりも困難であったと思われる。それをやってのけたところにラッセルのユニークさ(独自性)がある。アインシュタインも無神論者であったが神の正面に立つことはなかった。

 原子の振る舞いを例に挙げているのはブラウン運動熱力学の法則が念頭にあったのだろう。また量子力学が確立されたのが1927年であるからラッセルは当然知っていたはずだ。特定の素粒子の位置は不確定性原理によって確率でしか捉えることができない。

 人は不幸や不運が続くと「祟(たた)り」に由来すると考えがちである。これがアブラハムの宗教世界では「神が与えた試練」すなわち「運命」と認識される。つまり物語は偶然(あるいは非均衡)から生まれるのだ。ラッセルはサイコロの例えを通して明快に説く。

 脳は時系列に沿って因果関係を構築するため、相関関係を因果関係と錯覚する。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 そして宗教は人々の不幸と不安に付け込んで商売を行う。免罪符(贖宥状)・お守り・お祓いは金額に換算される。罪を軽くするには神様への賄賂が必要なのだ。

 正確に言えばラッセルはキリスト教批判を目的にしたわけではなかった。彼は科学的なものの見方を披瀝しただけであった。ヨーロッパから神を遠ざけた人物としてラッセルはニーチェと双璧を成すと考える。

宗教は必要か (1968年)

宗教と科学の間の溝について
日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
バートランド・ラッセル

2014-03-19

クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する
コミュニケーションの本質は「理解」にある
クリシュナムルティ「自我の終焉」
・クリシュナムルティの三法印

 ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化もせずに、【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです。自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちは【あるがままのもの】を【あるがままに】考察し、それに偏向を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。【あるがままのもの】を認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、【あるがままのもの】は絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、【あるがままのもの】の素早い動きを追わなくなってしまいます。【あるがままのもの】は、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚(とら)われていたり、自己を対象と同一化してしまっていると、そのような働きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、【あるがままのもの】を素早く敏捷に追っていくことができません。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ:根木宏〈ねぎ・ひろし〉、山口圭三郎〈やまぐち・けいざぶろう〉訳(篠崎書林、1980年)以下同】

 諸法実相を覚知するためには諸法無我が前提となり、あるがままのものは諸行無常である。つまり諸法の実相を見ることが涅槃寂静なのだ。専門用語をひとつも使うことなく三法印をあますところなく説いている。

 ブッダとクリシュナムルティの不思議なる一致に私は恐れをなす。仏とはたぶん人を意味するのではない。それは「現象」なのだ。法が人の姿を通して現れた現象なのだろう。我々の瞳は光を捉えることができない。目に映るのは可視光線だけだ。月光や稲妻は塵(ちり)などに当たった光の反射であろう。ブッダとクリシュナムルティは人類にとって光であった。それゆえ「捉えた」(=わかった)と錯覚してはなるまい。

 我々は「【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識」できない。その事実が延髄に衝撃を走らせる。アントニオ猪木の蹴りでさえ、これほどの衝撃を与えることはできない。私は「私」というフィルターを通して世界を見ているのだ。色眼鏡は暗く、鏡は歪んでいる。思考・解釈・類推が私の世界だ。不幸な者にとって世界は忌むべき対象であり、幸福な者にとっては揺りかごみたいな場所なのだろう。

 では「私」を通すことなく世界を見つめることは可能だろうか? 「可能だ」とクリシュナムルティは説く。ならばグズグズ理屈をこねることなく実践しようではないか。諸法無我に至った時、諸法実相が見える。その内容は『クリシュナムルティの神秘体験』に詳しく描かれている。

自我の終焉―絶対自由への道
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2014-02-23

アインシュタイン、鴻上尚史、岩崎允胤、山竹伸二、他


 6冊挫折、1冊読了。

カミと神 アニミズム宇宙の旅』岩田慶治(講談社学術文庫、1989年)/民俗学的かつ文化人類学的なカミ学といってよいだろう。10年前なら読んだ。私の興味は既に進化宗教学という方向へ向かっているため志向が合わず。この分野が好きな人は安田喜憲と併読するのがいいだろう。

「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二〈やまたけ・しんじ〉(講談社現代新書、2011年)/近頃「承認欲求」という言葉が目立つので開いてみた。胸が悪くなって直ぐ閉じた。一般的な人々は本当にこんな情況なのか? 承認なんざどうでもいいから、何か自分の好きなことをやるべきだ。他人の視線に合わせて生きる必要はない。

ヘレニズムの思想家』岩崎允胤〈いわさき・ちかつぐ〉(講談社学術文庫、2007年)/良書。力のこもったヘレニズム哲学の解説書。セネカを調べるために開いた。立派な教科書本。時間がある時に再読する予定。

知の百家言』中村雄二郎(講談社学術文庫、2012年)/原文を書き換えている時点でダメだと思う。著者は翻案のつもりか。我田引水が過ぎる。

孤独と不安のレッスン』鴻上尚史〈こうかみ・しょうじ〉(大和書房、2006年/だいわ文庫、2011年)/鴻上が数年前に書いた成人の日のエッセイが素晴らしかったので読んでみた。ちょっと文章の余白が大きすぎると思う。普段本を読まない若者向けに書かれたのだろう。高校生くらいに丁度よいと思う。

あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(講談社、2000年/講談社文庫、2003年)/読み物としてはこちらの方が上だ。感情と声の演出は劇作家・演出家ならではの視線だろう。特に若い女性は外面よりも中身を磨くべきだ。自信のない者ほど飾り立てる傾向が強い。7~8年ほど前に鴻上とモノレール内で擦れ違ったがオーラのかけらもなかった。そこがまたいい。

 10冊目『アインシュタイン150の言葉』ジェリー・メイヤー、ジョン・P・ホームズ編(ディスカヴァー・トゥエンティワン、1997年)/薄っぺらい上に余白だらけという代物。ツイッターのbotでも読めるのだが、やはり原典に当たらずにはいられないのが本読みの悲しい性だ。翻訳モノだから致し方ないとは思うが、それにしても作りがデタラメだ。訳者もわからず。紹介されている言葉のソースも不明。文庫で300円が妥当な値段だ。ただし、アインシュタインの言葉は燦然と光を放って読者の脳を撹拌(かくはん)する。一読の価値はある。

2013-12-10

ネット時代の読書法


 昨日(「私のダメな読書法」)の続きを。

 読書という大地は広大で、書籍の山はエベレストのように高い。やはり優れたガイドが必要だ。私にとっては向井敏〈むかい・さとし〉が頼りであった。そこに彗星の如く内藤陳が登場する。『読まずに死ねるか!』(集英社、1983年)シリーズはバイブルとなった。

 あの頃(30年前)は音楽であれば月刊誌『ミュージック・マガジン』(中村とうよう編集)とNHK-FMの「クロスオーバーイレブン」で探すしかなかった。何という情報の乏しさだろう。レコード購入の選択ミスなどざらだった。

 今はインターネットがある。その気になれば情報はいくらでも見つけることが可能となった。

 私の経験から申せば、やはり若い時期は努めて濫読(らんどく)すべきだ。10年間で1000冊程度読めば、たどたどしいながらも自分なりの地図ができてくる。ここでガイドとすべきは自分と感性が近い人物だ。私は開高健や谷沢永一よりも向井敏に共感を覚えた。

 自分が感動した本のタイトルで検索をする。徹底的に。書評ブログは数が多いようで実は少ない。私はamazonレビュワーまで追っ掛けているよ(笑)。情報はある程度の量がないと精度が上がらない。そして獲物を見つけたら、直ちにそこから別の本を辿るのである。自分の目に止まる本の数は極めて限られている。だから視野を広げる努力をするよりも他人の目を使った方が手っ取り早い。

 で、googleも意外と当てにならない。書籍タイトルで検索するのはまだ初心者だ。私はテキストでも検索をかける。それでもダメなら複数キーワードを挿入する。ここに検索センスが求められる。

 1000冊という最初の山を踏破した後は、カテゴリーやテーマを決めてまとめ読みするのが効果的だ。アインシュタインの相対性理論だって、10冊読めば何となく理解できるようになるし、20冊も読めばそこそこ語れるようになるものだ。概念を脳に定着させるためには反復が必要となる。関連書に共通する類似部分が理解を深めるのだ。

 最初は興味本位でいいと思う。しかしある程度力を蓄えたならば、登るべき峰を自分できちんと設定することが望ましい。自分で高さを実感するからこそ眺望が開けるのだ。そこにはあなたにしか見えない景色が広がっている。

2013-11-03

ヘルマン・ヘッセ、福江純、マーティン・リンストローム、今野晴貴、オットー


 4冊挫折、1冊読了。

アインシュタインの宿題』福江純〈ふくえ・じゅん〉(大和書房、2000年/知恵の森文庫、2003年)/砕けた調子が裏目に出ている。

なぜ、それを買わずにはいられないのか ブランド仕掛け人の告白』マーティン・リンストローム:木村博江訳(文藝春秋、2012年)/やや冗長。本書でも紹介されているヴァンス・パッカード著『かくれた説得者』を読めば十分だ。

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』今野晴貴〈こんの・はるき〉(文春新書、2012年)/良書。ただ私の興味が続かなかった。

聖なるもの』オットー:久松英二訳(岩波文庫、2010年)/原著は1917年の刊行。10年前に出会っていたら読了したことだろう。ルードルフ・オットーはドイツのプロテスタント神学者・宗教哲学者。この分野はR・ブルトマン著『イエス』を凌駕するものでなければ食指が動かない。※参照記事

 55冊目『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ:手塚富雄訳(岩波文庫、2011年)/読んでいる途中で「必読書」に入れた。メタフィクションである。ブッダはゴータマとして登場するが主人公のシッダルタは別人だ。「それにしても……」という思いを禁じ得ない。西洋の知性がここまで仏教を理解するとは。日本人が鎌倉仏教の上にあぐらをかいて仏教を名乗っている事実に嫌悪感すら抱かされた。悟りと迷いの往還に六道輪廻の真実を見た。文学者は偉大なる翻訳者でもある。やがてクリシュナムルティを描く文豪も出てくることだろう。

2013-06-04

青木健、天野統康、呉智英、スティーヴン・ホーキング、他


 4冊挫折、3冊読了。

古代オリエントの宗教』青木健〈あおき・たけし〉(講談社現代新書、2012年)/好著。ただ私の興味範囲ではなかった。青木は宗教学の新進気鋭。文章にもキレがある。

世界を騙しつづける科学者たち(上)』ナオミ・オレスケス、エリック・M・コンウェイ:福岡洋一訳(楽工社、2011年)/構成が悪くスピード感を欠く。

宇宙の起源』チン・ズアン・トゥアン:南条郁子訳(創元社「知の再発見」双書、1995年)/五十近くなると「知の再発見」双書はもう読めない。2倍の大きさにしないと無理だろう。アインシュタインの手稿あり。

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上)』スティーグ・ラーソン:ヘレンハルメ美穂、岩澤雅利訳(早川書房、2008年/ハヤカワ文庫、2011年)/満を持して読んだのだがダメだった。翻訳の文体が肌に合わない。

 19冊目『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康〈あまの・もとやす〉(成甲書房、2012年)/ふざけたタイトルと成甲書房というだけで避ける人がいるに違いない。ところがどっこいマネーの本質に斬り込む良書である。時折筆が走りすぎるキライはあるものの、ファイナンシャルプランナーの強みを生かしてわかりやすい図を多用。宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉を始めとする引用文献が説得力に磨きを掛けている。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』も含まれる。信用創造に触れるのはどうやらタブーらしく、宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉の著作はいずれも絶版となっている。岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉と天野統康に注目。

 20冊目『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年)/『知的唯仏論』を読めばやはり本書を避けては通れない。視点は面白いのだがこの人の頑迷な性格が文章に表れている。決めつけてしまえば、もう自由なものの見方はできなくなる。ま、仏教界に問いを突きつけているわけだから仏教関係者は読むべきだろう。宮崎哲弥の評価はチト甘いと思う。宮崎の知識と比べても拙劣な印象を拭えない。

 21冊目『ホーキング、未来を語る』スティーヴン・ホーキング:佐藤勝彦訳(アーティストハウス、2001年/ソフトバンク文庫、2006年)/『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』の続篇。とにかく図が素晴らしい。図だけでも買いだ。アーティストハウス版をオススメしよう。性格が悪いことで知られるがやはりこの人の説明能力は抜きん出ている。佐藤御大の訳もこなれている。チンプンカンプンでもお経のように読めてしまうのだから凄い。で、順番からいうと本書の次にレオナルド・サスキンド著『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』を読むといい。

2013-01-12

デイヴィッド・リンドリー


 1冊読了。

 3冊目『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー:阪本芳久訳(早川書房、2007年)/参った。読み物としては『宇宙をプログラムする宇宙』よりこちらの方が上。天体物理学の博士号をもつサイエンスライターだけあって一筋縄ではゆかない。時に堂々と批判を加える。不確定性原理そのものが科学界の量子的存在として誕生した模様がドラマチックに描かれている。アインシュタインvsボーアの論争が圧巻でハイゼンベルクの影が薄れてしまうほどだ。そしてプランク、ゾンマーフェルト、ボルン、パウリ、シュレーディンガー、ド・ブロイ、ディラックといった豪華キャストが脇を固める。彼らの人間臭さを描写することで読者は不確定性原理の呼吸と汗を感じることができる。晩年のアインシュタインは実に性格が悪い。阪本芳久の訳はどれも素晴らしい。2000円以下に抑えたところに早川書房の気合いが感じられる。尚、関連書は既に紹介済みだ。

2012-10-13

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2012-09-11

バートランド・ラッセル「神について」


 バートランド・ラッセルは論理学、数学、哲学の泰斗。かつて投獄されたこともあった。1950年、ノーベル文学賞を受賞。ラッセル=アインシュタイン宣言でも知られる。

 動画を見ると明らかに落ち着きがない。多分、アインシュタインと同じくAD/HD(注意欠陥・多動性障害)であったのだろう。世間の価値観を疑うことを知らぬ女性ホストの方が堂々としており、妙なアンバランス感がある。



宗教は必要か

哲学入門 (ちくま学芸文庫)ラッセル幸福論 (岩波文庫)怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)神秘主義と論理

読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
バートランド・ラッセル

2012-01-19

アインシュタイン「私は、エレガントに逝く」


 1955年4月18日、アインシュタインが76歳で亡くなった。彼は、その5日前に自宅で突然倒れて入院したが、医師の手術の勧めをすべて断わって急逝した。死の直前のアインシュタインは、「私は、自分が望む時に逝きたい。生命を人工的に長引かせることは、退屈だ。私の役割は、やり遂げた。今が逝く時だ。私は、エレガントに逝く」と言った。後のゲーデルも、アインシュタインと同じような意識で、死を迎えたように映る。

【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】

ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 (講談社現代新書)



2011-12-14

日本人の思考が停止してしまった理由

「あなたは義務感によって、思考と感情が破壊されている」と述べるインドの哲学者クリシュナムルティや、物理学者アインシュタインにも登場いただき、「義務教育の何がまずいのか?」など、日本人の思考が停止してしまった理由を考えました。 http://t.co/xOyPNkCR
Dec 12 via webFavoriteRetweetReply


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する

2011-11-26

ブッダの凄さ


 ブッダの凄さは、一切を相対化した上で相対化をも相対化したことである。アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは2300年後であった。これ以降を末法と考えればよいと思う。そして相対化された世界観は分断されたものではなかった。縁起という関係性・依存性で結ばれていた。

2011-11-07

部屋が汚いのではない


 アインシュタインも真っ青になる相対性理論(笑)。

部屋が汚いのではない。私が美しいのだ。
Nov 26 10 via モバツイ / www.movatwi.jpFavoriteRetweetReply

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

仏教とはなにか―その思想を検証する

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無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎

2011-10-06

地球外文明(ETC)は存在しない/『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
・『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司

 ・地球外文明(ETC)は存在しない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 神と宇宙人と幽霊はたぶん同一人物だ。いずれも自我の延長線上に位置するもので、人類共通の願望が浮かび上がってくる。で、少なからず見たことのある人はいるのだが、連れてきた人は一人もいない。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 すなわち神と宇宙人と幽霊は情報次元において存在するのだ。ま、ドラえもんと似たようなものと思えばいい。ドラえもんは存在するが、やはり連れてくることは不可能だ。

「地球外文明(エクストラテレストリアル・シヴィリゼーション/略してETC)〈※原文表記は Extra-Terrestrial Civilization か〉」は、厳密にいえば宇宙人というよりも、高度な文明をもつ知的生命体という意味合いだ。

 ロシアの天体物理学者ニコライ・カルダシェフは、そのような分類について、役に立つ考え方を提案した。ETCの技術水準は三つあるのではないかという。カルダシェフ・タイプ1、つまりK1文明は、われわれの文明と同等で、惑星のエネルギー資源を利用することができる文明である。K2文明になると、地球の文明を超え、恒星のエネルギー資源を利用できる。K3文明ともなると、銀河全体のエネルギー資源を利用できる。さて、(スティーヴン・)ジレットによれば、銀河にあるETCの大半はK2かK3ではないかという。地球上の生命についてわかっていることからすると、生命には利用可能な空間を見つけて、そこへ広がっていくという、生得の傾向があるらしい。地球外生命は別だと考える理由はない。きっとETCは、生まれた星系から銀河へ進出しようとしているだろう。ここで大事なのは、技術的に進んだETCなら、数百万年で銀河系を植民地にできるという点である。それならすでに地球にも来ていていいはずだ。銀河は生命であふれかえっているはずだ。ところがETCが存在する証拠は見つかっていない。ジレットはこれをフェルミ・パラドックスと呼んだ。ジレットにとって、このパラドックスはそっけない結論を示していた。この宇宙にいるのは、人類だけということである。

【『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ:松浦俊輔訳(青土社、2004年/新版『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』、2018年)以下同】

カルダシェフの定義
フェルミのパラドックス

 科学者の想像力は凄いもんだ。「あ!」と頭の中に電気が灯(とも)る。「ってなわけで、やっぱりいないのよ」以上、で終わってもよさそうなものだが、スティーヴン・ウェッブはここから50の理由を挙証してゆく。

Black Hole Pumps Iron (NASA, Chandra, 09/14/09)

 まずはエンリコ・フェルミの人となりを紹介しよう。

 その後まもなく、ベータ崩壊(大質量の原子核にある、電子を放出するタイプの放射能)に関するフェルミの理論で、その国際的な名声は定まった。その理論は、電子とともに、幽霊のような正体不明の粒子が放出されることを求めていた。この粒子をフェルミは中性微子(ニュートリノ)――「小さな中性のもの」と呼んだ。このような仮説的なフェルミ粒子の存在を誰もが信じた訳ではないが、結局、フェルミは正しかった。物理学者は1956年、とうとう、ニュートリノを検出したのである。

 何と「ニュートリノ」を命名した人物であった。しかも生まれるずっと前の名付け親ときたもんだ。偉大なるオジイサンとしか言いようがない。

 フェルミの同業者たちは、物理学の問題についてその核心をまっすぐ見通し、それを簡単な言葉で述べるフェルミの恐ろしいほどの能力を讃えていた。みんなフェルミのことを法王と呼んでいた。間違うことがないように見えたからだ。それと同様に印象的だったのが、答えの大きさを推定する方法だった(複雑な計算を暗算することも多かった)。フェルミはこの能力を学生に教え込もうとした。いきなり、一見すると答えようのない問題に答えろと命じることがよくあった。世界中の海岸にある砂粒の数はいくらかとか、カラスは止まらないでどのくらいの距離飛べるかとか、人が呼吸するたびに、ジュリアス・シーザーが最後に吐いた息の中にある原子のうち何個を呼吸していることになるかとかの問題である。このような「フェルミ推定」(今ではそう呼ばれている)を考えるには、学生は世界や日常の経験についての理解に基づいて、おおざっぱな近似をする必要がある。教科書やすでにある知識に基づいてはいられないのだ。

 科学は合理性をもって世界を捉える。ここに科学の魅力がある。例えば人体は60兆個の細胞から成る。そして毎日15兆個(20%)が死ぬ。1秒間で5000万の細胞が生まれ変わる。血管全部をつなぐと10万km(地球2周半に相当)になり、肺を広げるとテニスコート半分ほどとなる(「からだの不思議 素晴らしい人体」を参照した)。

 これは単なる数量の計測ではない。人体を小宇宙と開く偉大な発見なのだ。

 パラドックスという言葉は二つのギリシア語に由来する。「~に反する」という意味の「パラ」と、「見解・判断」を意味する「ドクサ」である。それはある見解や解釈とともに、別の、互いに排除し合う見解があることを述べている。この言葉はいろいろな細かい意味をまとうようになったが、どの使い方にも、中心には矛盾という観念がある。ただ、パラドックスはつじつまが合わないだけのことではない。「雨が降っている。雨は降っていない」と言えば、それは自己矛盾で、パラドックスはそれだけのことではない。パラドックスが生じるのは、一群の自明の前提から始めて、その前提を危うくする結論が導かれるときである。外ではきっと雨が降っているに違いないとする鉄壁の論拠があったとして、それでも窓の外を見ると雨は降っていない。この場合、解決すべきパラドックスがあるということになる。
 弱いパラドックスあるいは「誤謬(ファラシー)」は、少し考えれば解決がつくことが多い。矛盾が生じるのは、たいてい、ただ前提から結論に至る論理のつながりを間違えているだけだからだ。これに対して強いパラドックスでは、矛盾の元はすぐには明らかにならない。解決がつくまで何世紀もかかることもある。強いパラドックスには、われわれが後生大事に抱えている理論や信仰を問い直すという力がある。

 パラドックスというテーマにも強弱があるという指摘が面白い。小疑は小悟に、大疑は大悟に通じるということなのだろう。宗教って、こういうところが曖昧なんだよね。彼らはバイブルや経典に束縛されて合理性を見失うのだ。だから、どの宗教でも間違い探しみたいな研鑚ばかりしているのが現状だ。

Black Holes Have Simple Feeding Habits (NASA, Chandra, 6/18/08)

 では、フェルミ・パラドックスが誕生した瞬間を見てみよう。

 4人は腰をおろして昼食をとり、話はもっと現世的なことに転じた。すると、まだほかのこと話しているさなか、だしぬけにフェルミが聞いた。「みんなどこにいるんだろうね」。昼食をともにしていたテラー、ヨーク、コノピンスキーは、フェルミが地球外からの来訪者のことを言っているのだとすぐに理解した。それがフェルミだったので、みな、それが最初思われていたよりも厄介で根本にかかわる問題であることに気づいた。ヨークの記憶では、フェルミは次々と解散して、地球はとっくに誰かが、何度も来ているはずだという結論を出した。(1950年、ロスアラモスにて)

 ロスアラモスの昼食から生まれたというのが示唆的だ。ロスアラモスは核爆弾の総本山である。

 言い換えれば、われわれと通信しようとする文明が、今現在、100万あってもおかしくないということだ。すると、なぜ、向こうからの声が聞こえてこないのだろう。それに、どうしてこちらへ来ていないのだろう。(中略)みんなどこにいるのか。【彼らはどこにいるのだろう】。これがフェルミ・パラドックスである。
 パラドックスは知的生命が存在しないということではないことに気をつけておこう。パラドックスは、知的生命が存在すると予想されるのに、その兆しが見あたらないということである。

 つまり文明が発達していれば当然放射されるはずの電磁波が観測されていないのだ。もちろん宇宙は広大であるがゆえに、たまたま地球の上を通過していないと考えることはできる。

 このパラドックスが別個に四度発見されたことを知れば、このパラドックスの力がわかるだろう。このパラドックスは、正確にはツィオルコフスキー=フェルミ=ヴューイング=ハート・パラドックスと呼ぶべきかもしれない。

 知のシンクロニシティといってよい。一握りの人が先鞭(せんべん)をつける格好で脳内のネットワークシステムは進化し続ける。

Kepler's Supernova Has Fast-Moving Shell (NASA, Chandra, Hubble, Spitzer,10/06/04)

 しかし今のところ何も見つかっていない。探査機は熱を放出しているだろうが、異常な赤外線も観測されていない。

 高度な技術をもつ知的生命体が存在する可能性は極めて低い。

 しかしわれわれは自信をもって、エイリアンの存在を示す証拠はまだ見つかっていないと言うことはできる。それを観測していないのに、なぜいるかもしれないと想定するのだろう(さらに、探査機が太陽系にいるのなら、どうして地球だけ放っておくのかという問題も残る)

 宇宙人を信じる人々は願望を投影しているのだ。著者は物理学者であるが元々はETC肯定派だったという。科学者の間でさえ意見が分かれている。

 もしかしたら、われわれみながエイリアンなのかもしれないのだ。

 人体だって元を尋ねれば星屑に行き着くわけだから、別にエイリアンであっても構わんがね。特に地球という土地に束縛される必要はないだろう。

 地球外文明(ETC)は存在しない。今のところは。



偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
宇宙人に誘拐されたアメリカ人は400万人もいる/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング