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2009-06-28

時間の複層性/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 広井良典は時間を捉え直すことで、死生観を問い直す。果たして時間は主観なのか客観なのか。また時間は一種類しかないのか。そして広井は、時間の複層性を注視する――

「時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)以下同】

 考えさせられる指摘である。例えば、受精してから誕生に至る十月十日(とつきとおか)の間に、新生児は進化の過程を辿るといわれる。何とはなしに、羊水の中で人類の悠久の歴史が流れているような印象を受ける。あるいは、DNA的時間というのも存在するかも知れぬ。一本の川を宇宙の歴史と考えれば、それこそ無数の時間が流れていそうだ。

 広井の考察は時間と空間との関係に及ぶ――

 こうなってくると、時間と空間とは相互に独立したものではなく、互いに関係し合ったものとなる。つまり、例えば先にふれたようにシリウスまでの距離は8.6光年、一方七夕の彦星であるアルタイルまでの距離は16光年だそうなので、ということは私たちはいつも「8.6光年前のシリウス、16光年前のアルタイル」を同時に見ていることになり、いわば異なる過去に属する星々を「いま」見ていることになる。単純に言えば、「遠い」星ほどその「古い」姿を見ているわけであり、時間と空間はこうして交差する。私たちは宇宙の「異なる時間」をいまこの一瞬に見ている、といってもよいだろう。

 これまた座布団を三枚差し出したくなるような例え話だ。浦島太郎は竜宮城で数日間を過ごしたが、地上では700年が経過していた。こうした時間の複層性が示しているのは何か?――

 つまり、時間というものは、「世界そのものの側」に存在するのではない。それは認識する「人間の側」にあるもので、世界を見る際の枠組み、色メガネのようなものである。

 時間は「私が認識する」ものだった。主観。なぜなら、変化を観測する人物がいないと時間は存在しないからだ。人類が滅亡した時点で時間は消失する。それでも納得できなければ、宇宙が消滅した時点で時間は存在しなくなると言っておこう。

 この相対化の方向を、極限まで推し進めたのがアインシュタインだった、ということができる。相対論の体系では、先にもふれたように、絶対時間、絶対空間の存在は否定され、時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつことになる。つまり、時間や空間は認識主体との関係でまさに「相対的」であり、それらとは別に唯一の客観的な時間・空間が存在しているのではない。したがって、異なる個人、たとえばAさんとBさんとは異なる「時間」の中に存在していることになる(ただし、これは光速の有限性ということがあって初めて出てくる結論だから、光速が有限であることがほとんど無視できるような地球上の現象に関する限りは、そうした時空の相対性は事実上無視できるものになる)。
 ふり返って見ると、カントの段階では、先にふれたように時間は世界の側から「人間の側」にもって来られたが、それでもなお、人間の世界の内部では、ある普遍的な、絶対的な(唯一の)時間が存在していたのだった。それがアインシュタインの相対論に至ると、時間はおのおのの個人によって異なるものとなり、唯一の「絶対時間」なるものは存在しなくなる。つまり共通の“時間という色メガネ”すら実は存在しない、というのが相対論の結論である。ニュートンからカント、マッハ、アインシュタインへの歩みは、したがって絶対時間あるいは「直線的時間」というものが解体してゆく歩みであるということもできる。

 まったくもって凄い展開になっている。これは思索の要あり。ある人物の人生を生と死で結べば、それは「直線的時間」といえよう。だが、死へと向かいつつある我々の時間は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとウロウロすることが珍しくない。しかも、時間というものは過ぎてしまえば一瞬なのだ。

 若くして亡くなる人がいると心が痛む。だが、我々は資本主義に毒されてしまい、人生七十年という平均値を8時間労働のように考えている節がある。更に恐ろしいことに、人生そのものを仕事量で判断する傾向すらある。

 広井良典の知的作業は永遠をも峻別しながら、豊穣なる時間を志向している。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン

2009-05-01

外情報/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 世界一短い手紙(※正確には電報)はヴィクトル・ユゴーが書いたもので、「?」だけが記されていた。これに対する出版社の返事が振るっていて「!」のみ。発売されたばかりの『レ・ミゼラブル』の売れ行きをユゴーが尋ね、出版社が「売れ行き良好」と答えたもの。まさに阿吽(あうん)の呼吸だ。

 トール・ノーレットランダーシュは、意図的に省略された情報を〈外情報〉と名づける――

 ユゴーが書いた疑問符は、明白な形で情報を処分した結果だ。もっとも、ただの処分とは違う。彼はたんに全部忘れてしまったのではない。処分した情報を明確に指し示した。しかし、通信文という観点に立てば、その情報はやはり捨てられてしまっている。本書では、この明白な形で処分された情報を〈外情報〉と呼ぶことにしよう。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)以下同】

 で、〈外情報〉にはどのような効果があるのか――

 多くの〈外情報〉を含んだメッセージには深さがある。ある人が最終的なメッセージを作り上げる過程で、意識にある大量の情報を処分し、メッセージから排除すれば、そこには〈外情報〉が生まれる。メッセージの情報量からだけでは、そのメッセージがどれだけの〈外情報〉を伴っているかはわからない。メッセージのコンテクストを理解して初めてそれがわかる。送り手は自分の頭にある情報を指し示すように、メッセージの情報を作り上げる。

 こうなると、情報というよりは言葉の本源に関わってくる問題だ。つまり、我々は日常において言語を介して意思の疎通を図っているが、言語に対するイメージは人によって微妙に異なる。同じということはあり得ない。とすれば、ここに言葉の詐術がある。

 人が心の底から感動した時、「言葉にならない」と言う。本来、情感というものは言葉では表現し尽くせないものだ。それを、相手に何とか伝えようとして我々は言葉を駆使し、声に抑揚をつけ、目を丸くし、身振り手振りを交えて――つまり、身体的な言語をも活用して――表現するのだ。

 結局、意図的に言葉を省略することで、「言葉にならない思い」がメッセージとして放たれるわけだ。「見つめ合う恋人同士」に言葉は不要であろう。ま、数ヶ月もすれば互いに言葉尻を捉えて喧嘩するようになるんだけどさ。

 ここで聞き手に求められるのは、コンテクスト(文脈)を読み解く能力だ。心の深い人物は、おしなべて「声なき声」をすくい取ることができる。本当に耳を澄ませば、小さなため息一つからでも相手の悩みを感じ取ることはできる。

 コミュニケーションの上手な人は自分のことばかり考えたりしない。相手の頭に何があるかも考える。相手に送る情報が、送り手の頭にある何らかの情報を指し示していても、どうにかして受け手に正しい連想を引き起こさせなければ、それは明確さという点で十分とは言えない。情報伝達の目的は、送った情報に込められた〈外情報〉を通して、送り手の心の状態に相通ずる状態を、受け手の心に呼び起こすことだ。情報を送るときには、送り手の頭にある〈外情報〉に関連した何らかの内面的な情報が、受け手の心にもなければならない。伝えられた情報は、受け手に何かを連想させなければならない。

 一読すると、「フーン」以上、で終わりかねないが、実は凄いことを言っている。飯嶋和一著『汝ふたたび故郷へ帰れず』(河出書房新社、1989年)を読んで私は悟った。北朝鮮から帰ってきた曽我ひとみさんが、新潟で父上と再会した際のやり取りなんかが、まさにそうだ。

 仏法ではそれを「念」と名づけた。そして、今この瞬間の思いを「一念」と称し、三千の世間(※本質的な差異との意)を内包していると説かれている(一念三千)。

 言葉を圧縮すれば、当然重みが増す。地球を半径2cmまでに圧縮すれば、ブラックホールが出来上がる(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』草思社、2001年)ように。格言や名言が心に響くのも、省略された情報が多いためだと理解できる。そして、〈外情報〉が豊富になればなるほど、メッセージの抽象度は高くなってゆくのだ。



飯島和一作品の外情報

2009-04-04

死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人


 ・死の瞬間に脳は永遠を体験する

『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人
『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

「死んだ後はどうなるのか?」――古(いにしえ)より議論されている大きなテーマである。果たして死後の生命はあるのかないのか。あるとすれば形状が問われ、ないとすれば倫理が崩壊する。

 ところが、だ。苫米地英人は「死ぬ瞬間」に着目する。これは斬新な視点だ――

 二つのことを事実として説明すればわかりやすいと思いますが、まずひとつはドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。脳幹の中心の中脳のところ、VTA領域からいくつかの経路が伸びていて、脳幹の中のドーパミン細胞からドーパミンが大量に出ます。要するに、臨死体験のときは超大量の脳内伝達物質が出て、凄く気持ちが良い体感をする。同時にありとあらゆる幻視・幻聴・幻覚が起こります。
 もうひとつは、時間が無限に長くなっていきます。時間感覚が変わっていくわけです。たとえば走馬灯のように自分の人生の歴史を見るとか言いますが、それはあたりまえのことで、脳内の神経細胞が壊れるにあたってとてつもない脳内伝達物質が放出されますから、最後の最後に脳が超活性化されるのではないかと思います。線香花火の最後の一瞬のようなものです。すると、たくさんの記憶を同時に見る。脳は元々超並列的な計算機なのです。我々の脳はふだん生きているときは凄くシリアルに(ひとつずつ順を追って)認識しますが、つまり、ひとつのことを認識しているときは他を認識できません。それが臨死体験のときは、同時に全部認識するわけです。走馬灯のように一生を経験するというのは、一生をリアルに経験しているのではなく、短い間に一生の体験を全部同時に認識するわけです。内省的には一生を全部ゆっくり体験したかのように感じています。時間の感覚がどんどん変わっていくからです。生という状態から限りなく死に近づいていく、死という接点に向かって永遠に近づき続ける接線のようなものです。死んでいく人にとって、体感としての時間はとてつもなく長くなっていきますから、もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません。

【『スピリチュアリズム』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】

 つまり、大量のドーパミンによって極限まで活性化された脳が、コンピュータのように超並列で動き出すということ。ご存じのように、パソコンというのは複数のアプリケーションやシステムが同時に目まぐるしく動いている。これと同じ働きが脳で起こるというのだ。

 脳内ではニューロンが猛烈なスピードで信号を放つ。そして思考(無意識も含めて)のスピードは光速に等しくなる(『数学的にありえない』アダム・ファウアー、文藝春秋、2006年)。

 この時、観測者(=遺族)から見れば、死者の動きは完全に止まって見える。なぜなら、「光は年をとらない」からだ(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン、草思社、2001年)。

「もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません」――これは人が死ぬ瞬間に光と化すことを示している。

 この指摘は凄い。時間と永遠というテーマは、宇宙の起源や宗教と密接に関わっている。そして歴史の奥底を貫く概念でもある。死の瞬間に向かって永遠(無限)が立ち現れるという発想は、ちゃぶ台を引っ繰り返すほどのパラダイムシフトと言ってよい。



キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
過去世と来世/『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

2009-02-05

光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング

 ・光は年をとらない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

 ブライアン・グリーンは超ひも理論の権威。私と同い年である。後半は小難しくなるものの、これだけの読み物にしたお手前が見事。自分達の発見に関しても、実に控え目な表現となっている。

 物体が私たちにたいして動くときに時間の進み方が遅くなるのは、時間に沿った運動の一部が空間のなかでの運動に振り向けられるからだということがわかる。つまり、物体が空間のなかを進む速さは、時間に沿った運動がどれだけ他に振り向けられるかということの反映にすぎない。
 また、物体の空間的速度に限界があるという事実が、この枠組みですぐに説明がつくこともわかる。時間に沿った物体の運動がすべて、空間のなかでの運動に振り向けられれば、物体が空間のなかを進む速さは限界に達する。このとき、時間に沿った光の速さでの運動がすべて、空間のなかを光の速さでおこなう運動に振り向けられる。時間に沿った物体の運動がすべて使い果たされてしまったときのこの速さが、空間のなかを動く速さの限界だ。どんな物体も、これ以上速くは動けない。これは、先の車を南北方向に運転するのにたとえられる。ちょうど、この場合、東西の次元に動くための速さが車に残らないの(と)同じように、光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一〈はやし・はじめ〉、林大〈はやし・まさる〉訳(草思社、2001年)】

 相対性理論がすっきりと整理されている。光速度に達すると時間は止まる。だがそれは観測者である我々から見た話である。時間が経過する実感は全く変わらない。ここが面白いところ。

 科学の世界は想像力を駆使して宇宙の秘密を解き明かす領域にまで踏み込んだ。とすれば宗教は、科学的姿勢・実験的な態度で思想を再構築する必要が求められるだろう。

 浅川の緩やかな流れが反射する光や、城山湖が照らす光の波を見ていると、不思議なほど亡くなった友のことが思い出される。死者は亡くなった時点で光と化し、いつも変わらぬ姿でメッセージを送っていると思えてならない。



神は細部に宿り、宇宙はミクロに存在する/『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

2008-12-31

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 これはめっけ物だった。試合終了間際のスリーベースヒットといったところだ。2008年、最大の伏兵。

 時間という概念から死生観を捉え直そうと試みて、見事に成功している。それにしても、広井良典の守備範囲の広さに驚かされる。最初はモネからだからね。で、マッハ、アインシュタイン、介護なんぞの話も交えながら、キリスト教と仏教に至る。でもって、これがちゃあんとした連環となっているのだ。お見事。

 で、だ。古本屋のオヤジが手放しで褒めるわけがないわな。多分、この人の慎重な性格と誠実な人柄によるのだろうが、文章が時々すっきりしない。文末が曖昧になり、中途半端なリベラル性が頭をもたげている。あと読点も多過ぎる(特に「、と」の多さは目を覆いたくなるほど)。ま、期待を込めて言うなら、著者の思考はまだまだ洗練される余地があるということだ。

 早速、本題に入ろう。大晦日になっても尚、ブログを更新するような人生にウンザリさせられるよ。キリスト教と仏教の永遠は違っていた――

 キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
 念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 つまり、だ。キリスト教の永遠は直線の向こう側に存在し、仏教の永遠は輪廻という輪の外側にあるというわけだ。で、どっちにしても「遠く」にあることは確かだろう。手を伸ばして届くようなところに永遠は存在しない。

 そして、永遠の定義が凄い。参ったね。ぐうの音も出ないよ。「超」にせよ「無」にせよ、そこは「比較対象する事象が存在しない世界」になってしまう。結局、認知や認識の外側に“死の世界”が開けているのだろう。

 アインシュタインの相対性理論から考えると、「“自分”という観測者を失った自分」になりそうな気がする。

 例えば、“眠り”は“小さな死”といわれる。私の場合、殆ど夢が記憶に残っていない。そう。夢も希望もない人生なのだよ。で、寝ている間って時間の感覚はないよね。五感だって溶けているような印象がある。「俺は寝ている」という自覚すらない。それからもう一つ。人間は眠る瞬間と起きる瞬間を意識できない。だから、死ぬ時や生れる時はこんな感じではないかと、最近感じている。

 この続きは来年ということで。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
宗教とは何か?