2009-02-05

光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング

 ・光は年をとらない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

 ブライアン・グリーンは超ひも理論の権威。私と同い年である。後半は小難しくなるものの、これだけの読み物にしたお手前が見事。自分達の発見に関しても、実に控え目な表現となっている。

 物体が私たちにたいして動くときに時間の進み方が遅くなるのは、時間に沿った運動の一部が空間のなかでの運動に振り向けられるからだということがわかる。つまり、物体が空間のなかを進む速さは、時間に沿った運動がどれだけ他に振り向けられるかということの反映にすぎない。
 また、物体の空間的速度に限界があるという事実が、この枠組みですぐに説明がつくこともわかる。時間に沿った物体の運動がすべて、空間のなかでの運動に振り向けられれば、物体が空間のなかを進む速さは限界に達する。このとき、時間に沿った光の速さでの運動がすべて、空間のなかを光の速さでおこなう運動に振り向けられる。時間に沿った物体の運動がすべて使い果たされてしまったときのこの速さが、空間のなかを動く速さの限界だ。どんな物体も、これ以上速くは動けない。これは、先の車を南北方向に運転するのにたとえられる。ちょうど、この場合、東西の次元に動くための速さが車に残らないの(と)同じように、光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一〈はやし・はじめ〉、林大〈はやし・まさる〉訳(草思社、2001年)】

 相対性理論がすっきりと整理されている。光速度に達すると時間は止まる。だがそれは観測者である我々から見た話である。時間が経過する実感は全く変わらない。ここが面白いところ。

 科学の世界は想像力を駆使して宇宙の秘密を解き明かす領域にまで踏み込んだ。とすれば宗教は、科学的姿勢・実験的な態度で思想を再構築する必要が求められるだろう。

 浅川の緩やかな流れが反射する光や、城山湖が照らす光の波を見ていると、不思議なほど亡くなった友のことが思い出される。死者は亡くなった時点で光と化し、いつも変わらぬ姿でメッセージを送っていると思えてならない。



神は細部に宿り、宇宙はミクロに存在する/『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

2009-01-13

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・脳は神秘を好む
 ・言語概念連合野と宗教体験
 ・神は神経経路から現れる
 ・人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 宗教的な神秘体験が側頭葉で起こっていることは、既に多くの脳科学本で指摘されている。てんかん患者と似た状態らしい。LSDを服用すると同様の体験ができるとも言われている。トリップ、旅、「そうだあの世へ逝こう」JR。

 いずれにせよ、人間という動物は「不思議」が大好きだ。これに異論を挟む者はあるまい。不思議は不可思議の略語で、大辞泉にはこうある――

1.どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと。また、そのさま。
2.仏語。人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。
3.非常識なこと。とっぴなこと。また、そのさま。
4.怪しいこと。不審に思うこと。また、そのさま。

 4が凄いよね。ストレンジ(strange)ですな。思議とは「あれこれ思いはかること。考えをめぐらすこと」。つまり、「想像を絶する」物語や世界に我々は憧れ、魅了されてしまうのだ。というわけで早速、説明責任という言葉を私の辞書から削除することにしよう(笑)。

 西洋において宗教的な神秘体験は「神との邂逅(かいこう)」として現れることが多い。多分(←テキトー)。日本では「神がかり」と称される。お稲荷さんにはまると「狐憑き」。本当にピョンピョン跳ねるそうだよ。洋の東西に共通するということは、人間の本質に根差している証左といえよう。では、そこにどのような回路があるのか――

 われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。パズルの要領でこれらのピースを組み合わせているうちに、徐々に意味のあるパターンが見えてきて、やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追求せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。

【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】

 つまり、「脳がそのような仕組みになっている」ってことだ。ってこたあ、脳そのものが神秘的と言わざるを得ない。脳は“物語としての神話”を求める。起承転結の「転」には不思議な展開が不可欠だ。モチーフは「奇蹟的な逆転」だ。

 そう考えると不思議とは希望の異名なのかも知れない。古来、人間は行き詰まるたびに起死回生を信じて、時には信じるあまり側頭葉をピコピコと点滅させ、“生の行き詰まり”を打開してきたのだろう。

 一つだけはっきりしているのは、古本屋という商売には何の神秘も存在しないことだ。



自我は秘密を求める/『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス
江原啓之はヒンドゥー教的カルト/『スピリチュアリズム』苫米地英人
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2009-01-10

長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた/『恍惚の人』有吉佐和子


 ・長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた

『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』佐藤眞一
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス

 初版は1972年6月新潮社刊。昭和47年である。老人介護に先鞭をつけた記念碑的作品。高度経済成長の真っ只中で書かれている。

 日本は敗戦後、朝鮮特需(1950-1952、55)によって経済的な復興の第一段階を遂げた。で、日米安保が1960年に締結される。ま、先に餌をもらった格好だわな。ベトナム戦争が1959年から始まっているので、アメリカとしては是が非でも日本を反共の砦にする必要があった。そして日本経済はバラ色に輝いた。これが高度経済成長だ。1973年からバブルが弾ける1991年までは「安定成長期」と呼ばれている。ってことはだ、東京オリンピック(1964)や大阪万博(1970)は、アメリカからのボーナスだった可能性が高い。

 日本人の大半が豊かさを満喫し、丸善石油が「オー・モーレツ!」というテレビCMを流し、三波晴夫が「こんにちは」と歌い、水前寺清子は「三百六十五歩のマーチ」でひたすら前に進むことが幸せだと宣言した。フム、行進曲だよ。遅れたら大変だ。

 そんなイケイケドンドンの風潮の中で、有吉佐和子はやがて訪れる高齢化問題を見据えた。

 主人公の昭子の言葉遣いや、杉並区に住んでいる設定を考えると、当時の山の手中流階級一家といったところだろう。以下に紹介するのは、昭子と老人福祉指導主事とのやり取り――

「それに分って頂きたいんです。私は仕事をもっていますし、夜中に何度も起されるのは翌日の仕事に差しつかえますし、世間は女の仕事に対して理解が有りませんけど、そんなものじゃないってことは貴女(あなた)なら分って頂けますね」
「それは分りますけど、お年寄りの身になって考えれば、家庭の中で若いひとと暮す晩年が一番幸福ですからね。お仕事をお持ちだということは私も分りますが、老人を抱えたら誰かが犠牲になることは、どうも仕方がないですね。私たちだって、やがては老人になるのですから」

【『恍惚の人』有吉佐和子(新潮社、1972年/新潮文庫、1982年)】

「老人を抱えたら誰かが犠牲になる」――これが介護の本質だ。これこそが答えなのだ。介護保険が導入された2000年4月以降も変わらぬ実態だ。

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘されたネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)の化石は、右腕が萎縮する病気でありながらも比較的高齢(35〜40歳)だった。このことから、仲間によって助けられている可能性が指摘されている(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。つまり、介護だ。「人間とは“ケアする動物”である」という見方もある(『死生観を問いなおす』広井良典)。

 そうでありながらもコミュニティが崩壊し、人間が分断される社会が出現してしまった。これこそ、政治が持つ致命的な欠陥のなせる業(わざ)であろう。歪(いびつ)な社会は、歪な政治を裏に返した姿だ。

 今年の4月から介護報酬が引き上げられる。果たして全体で3%のアップがどの程度の効果を生むことやら。「焼け石に雀の涙」となりそうな気がする。多分、有吉佐和子が書いた現実は変わらない。介護は女性の手に押しやられ、ストレスまみれになった挙げ句、家庭は崩壊し、社会のあらゆる部分にダメージを与えることとなる。高齢者がお荷物扱いされるとすれば、我々はお荷物になる人生を歩んでいることになる。



電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

2009-01-06

苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」/『妻として母としての幸せ』藤原てい


 ・苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」

『夫の悪夢』藤原美子

 講演を編んだもの。これは聴いてみたかった。既に長女の藤原咲子さんが『母への詫び状 新田次郎、藤原ていの娘に生まれて』(山と渓谷社、2005年)で明らかにしているが、ていさんは既に認知症である。藤原正彦(次男)の『祖国とは国語』でも、記憶が薄れゆく姿が描かれていた。

 満州からの壮絶な引き上げ体験(『流れる星は生きている』)が、単純明快な哲学となってほとばしっている。

 この人生を生きていくうえに、人様の喜びを素直に手を取り合って喜び合うことのできない人生、人様の悲しみを悲しんでやることのできない人生、それはわらくず同然だと私は思います。生きていく甲斐のない人生だと思います。

【『妻として母としての幸せ』藤原てい(聖教新聞社、1982年)】

 わかりやすい言葉には、鞭のような厳しさが込められている。死線をくぐり抜けた者だけが知る真実に彩られている。問いかけではなく断定。「生きる姿勢」は考えるものではなく、先人である大人が指し示すべきものだ。小気味いいほどの確信こそ、藤原ていの魅力だ。

「わかる」とは、「分ける」の謂いである。「はっきりした言葉」が善悪を分けるのだろう。

2008-12-31

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 これはめっけ物だった。試合終了間際のスリーベースヒットといったところだ。2008年、最大の伏兵。

 時間という概念から死生観を捉え直そうと試みて、見事に成功している。それにしても、広井良典の守備範囲の広さに驚かされる。最初はモネからだからね。で、マッハ、アインシュタイン、介護なんぞの話も交えながら、キリスト教と仏教に至る。でもって、これがちゃあんとした連環となっているのだ。お見事。

 で、だ。古本屋のオヤジが手放しで褒めるわけがないわな。多分、この人の慎重な性格と誠実な人柄によるのだろうが、文章が時々すっきりしない。文末が曖昧になり、中途半端なリベラル性が頭をもたげている。あと読点も多過ぎる(特に「、と」の多さは目を覆いたくなるほど)。ま、期待を込めて言うなら、著者の思考はまだまだ洗練される余地があるということだ。

 早速、本題に入ろう。大晦日になっても尚、ブログを更新するような人生にウンザリさせられるよ。キリスト教と仏教の永遠は違っていた――

 キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
 念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 つまり、だ。キリスト教の永遠は直線の向こう側に存在し、仏教の永遠は輪廻という輪の外側にあるというわけだ。で、どっちにしても「遠く」にあることは確かだろう。手を伸ばして届くようなところに永遠は存在しない。

 そして、永遠の定義が凄い。参ったね。ぐうの音も出ないよ。「超」にせよ「無」にせよ、そこは「比較対象する事象が存在しない世界」になってしまう。結局、認知や認識の外側に“死の世界”が開けているのだろう。

 アインシュタインの相対性理論から考えると、「“自分”という観測者を失った自分」になりそうな気がする。

 例えば、“眠り”は“小さな死”といわれる。私の場合、殆ど夢が記憶に残っていない。そう。夢も希望もない人生なのだよ。で、寝ている間って時間の感覚はないよね。五感だって溶けているような印象がある。「俺は寝ている」という自覚すらない。それからもう一つ。人間は眠る瞬間と起きる瞬間を意識できない。だから、死ぬ時や生れる時はこんな感じではないかと、最近感じている。

 この続きは来年ということで。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
宗教とは何か?