2020-04-19

見ることは理解すること/『時間と自己』木村敏


『異常の構造』木村敏
・『自己・あいだ・時間 現象学的精神病理学』木村敏

 ・見ることは理解すること

・『あいだ』木村敏

 外部空間の【もの】とは、【見る】というはたらきの対象となるようなもののことである。もちろん眼に見えないものも多い。しかしそれは、われわれの眼の能力に限界があるためであって、そのものが原理的に見えないということではない。それと同じように、内部空間の【もの】についても、「見る」という言いかたが許される。われわれが頭の中で考えをまとめようと努力しているときなど、われわれは自分の考えが浮かんでくるありさまをじっと見続けているわけである。
 外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、【見る】というはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに【距離】がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」ということばの意味であり、【もの】はすべて客観であり、客観はすべて【もの】である。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことがいわれる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にも【もの】はない。われわれは【もの】を忘れた世界にただよっている。しばらくして主観がわれに帰ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そしてわれわれは、美しい【もの】を見た、という。あるいは美しさという【もの】を余韻として味わうことになる。
 古来、西洋の科学は【もの】を客観的に【見る】ことを金科玉条としてきた。「理論」(theory)の語の語源はギリシャ語の「見ること」(テオリア)である。西洋では、見ることがそのまま捉えること、理解することを意味する。そしてこれが、単に客観的観察とする自然科学だけではなく、哲学をも含めた学一般の基本姿勢なのである。

【『時間と自己』木村敏〈きむら・びん〉(中公新書、1982年)】

 クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。

 主観と客観とが分かれたところに分断が生まれ、好悪(こうお)が生じ、欲望が頭をもたげる。見ることに満足できない我々は美しい景色をカメラで撮影したり絵に描いたりする。続いて「もっと美しい景色はないだろうか」とあちこち探す羽目となる。

 物理の世界においてすら見る行為=観測そのものが量子に影響を及ぼしてしまう。量子の位置と速度は同時に測定することができない。原子核の周囲を飛び回っている電子は惑星のように存在するのではなく、雲のように浮遊し確率論的にしか示すことができない。なぜなら量子は波と粒子の二重性を併せ持つからだ。

 マクロの世界も同様である。宇宙の年齢は138億年であるが、現在観測されている最も遠い銀河は131億光年のEGS-zs8-1である(すばる望遠鏡が発見した銀河団は130億光年)。胸躍る発見ではあるが今見えているのは131億年前の光である。EGS-zs8-1の現在の姿は131億年後までわからない。

 もっと卑近な例を挙げよう。我々が見ている太陽は8分20秒前のもので、月は1.3秒前の姿だ。見るとは光の反射を眼で受容することだ。つまり何を見たところで光速度分の遅れがあるわけだ。

 現在にとどまる瞑想の意味はここにある。「観に止(とど)まる」と書いて止観とは申すなり。

シーツやバスタオルを使った工夫/『今日から実践! “持ち上げない”移動・移乗技術』移動・移乗技術研究会編


『もっと!らくらく動作介助マニュアル 寝返りからトランスファーまで』中村恵子監修、山本康稔、佐々木良

 ・シーツやバスタオルを使った工夫

《バスタオルでつくる移乗用腰ベルト》
 筆者らが簡易に作成した移乗用腰ベルトです。材料は薄手のバスタオルを使用します。最初にバスタオルの対角線の部分を折り返し、それをくるくると巻いて紐をつくります。対角線の部分を折り返すことで、紐は斜め方向に引っ張られ、長く伸びます。また紐の先端に近づくほど細くなるために、結びやすくなります。

【『今日から実践! “持ち上げない”移動・移乗技術』移動・移乗技術研究会編(中央法規出版、2012年)】




 家具同様、介護の世界でもやたらと北欧を持ち上げる空気が一部にある。本書で注目すべきはシーツやバスタオルを使った工夫で「なるほど!」と膝を打つほどの説得力がある。立位不安定な要介護者向け。


 カネを出せばいくらでもいい製品があるのだが如何せん介護用品は高価だ。動画のマスターベルトは22000円である。とはいえ介護する家族が腰を痛めてしまえばもっと高くつくわけだから、必要な先行投資と割り切ってしまえばそれはそれでいい。

 もっと簡単なやり方もあるのだが、要介護者の脚力を維持するためにはやはり立たせるのが一番よい。立てるうちは立つのが基本である。手を拱(こまね)いていると、あっという間に座りきり、寝たきりとなる。

宇野利泰訳を推す/『華氏451度』レイ・ブラッドベリ:伊藤典夫訳


『華氏451度』レイ・ブラッドベリ:宇野利泰訳

 ・宇野利泰訳を推す

 火を燃やすのは愉しかった。
 ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真鍮の筒さきを両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吐きかけるのをながめていると、血流は頭のなかで鳴りわたり、両手はたぐいまれな指揮者の両手となって、ありとあらゆる炎上と燃焼の交響曲をうたいあげ、歴史の燃えかすや焼け残りを引き倒す。

【『華氏451度』レイ・ブラッドベリ:伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、2014年)以下同】

 13ページで挫けた。ワンセンテンスが長く文章の行方がわかりにくい。平仮名表記も多すぎると思う。

『華氏四五一度』もその過程で出会った一冊である。ところが、この本は読めなかった。中学生といえば、翻訳の善し悪しなどおかまいなしにガシャガシャ読み終えていいところだが、この本に限ってはとても読み進むどころではなかった。ついには挿絵をながめて、あとのストーリーを想像するだけとなり、あとがきを読んで放りだした。元々社のシリーズで結末まで読めなかったのはこの『華氏四五一度』だけで、扉にある銘句が、巨大なクエスチョン・マークとしてぼくの記憶に刻まれた――
「もしも彼らが/杓子定規で固めた罫紙を/君によこしたなら/その逆に書いて行きたまえ」……なんのこっちゃ?
 その後、宇野利泰訳が早川書房から出版されるが、こちらも「もし罫紙をもらったら/逆の方向に書きたまえ」という、骨のない、ふやけた訳文になっている。意味がようやくつかめたのは、ダブル・ミーニングを見分ける目がすこし育ってからである。(訳者あとがき)

 私は宇野利泰訳を推す。間違いがあるならただ事実を指摘すればよい。他人を貶めることで自分を持ち上げようとする根性が気に食わない。

出会いと別れの化学反応/『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰

 ・出会いと別れの化学反応

『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「なあ、兄弟、誰が何と言おうと、おまえの人生はおまえのもんや。誰かがやれと言うたからやる。やるなと言うたからやらん。そういう生き方をして、おまえは、自分の人生の責任をちゃんと自分でとる自信はあんのか?
 自分の決断に責任を持たない生き方は、まわりの大人によってつくられる。
 おまえはきっと学校では優秀なんやろう。
 先生がやれと言ったらやる、やるなと言ったらやらん。心の中ではこのおっさんの言うことはおかしいと思いながらも、従う理由は何か。
 恐怖か。それとも、打算か。
 怒られるのが怖いのか、それとも、反抗して成績が下がったり、嫌われたりすると大学に行けなくなるから言うことを聞くんか。まあ、どっちかやろ。
 今の場合もどちらかだったはずや。いや、もう、そういう習慣になっていて、何も考えずに、盲目的に言われたとおりにしただけかもしれん。でも、元々の思考回路は、このおっさん怒ったら怖そう、という感情か、言うこと聞かずにこの場で降ろされたらどうしよう、という打算や。
 ええか、そんな生き方はするんやないで、兄弟。
 先生だろうが、怖そうなおっさんだろうが、理不尽なこと言われたら断れ」

【『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(サンマーク出版、2010年)】

 最初が辛い。主人公の中学生がクズ過ぎて。私の周囲には一人もいないタイプだ。想像を絶するダメ人間だ。そんなダメ男(お)が友人に小さな嘘をついたことから旅に出る羽目となる。あとは映画ジャンルのロードムービーものとなるわけだが、敢えて定型スタイルを選んだところに著者の意欲が窺える。

 中学生は次々と出会う大人から影響を受け、感化され、変貌してゆく。成長の坂道ではなく変貌の階段を登ってゆくのだ。ありふれたストーリーに光る言葉が埋め込まれている。現在では中二病などと揶揄される世代ではあるが、もっとも振幅に富む年代であり、人格の基底部が形成される季節でもある。

 私自身の中学時代を振り返ると、そこそこ恵まれた状況だったとは思うが大人の存在は皆無である。尊敬できる人物と巡り合ったのは十代後半になってからだ。そう考えると縦の関係性が乏しいことに気づく。小中学生の頃からモデルとなるような人物と接する機会を設ける工夫が必要だろう。

 尚、この作品は映画化されているが見る気はない。