2011-07-24

人生という名の番組、私という受信機/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン


 地デジ化がいいねと言った総務省 7.24はアナログ命日

 サラダ記念日の韻を踏もうと試みたのだが見事に失敗した。7.24は「ナナニーヨン」と詠んでくれ給え。

 我が家のアナログテレビ死去に伴い、「テレビはアナクロ(時代錯誤)だ」という信念はいや増して高くそびえる。私は10代後半からテレビを殆ど視聴しなくなり、ここ数年は年に一度くらいしか見ていない。それゆえ普段はコンセントを外したままだ。

 アナログテレビは本当に死んだのだろうか? 毎日jp(7月24日)によれば、「24日正午からは番組終了や問い合わせ先などを表示する「お知らせ画面」に切り替わった。25日午前0時までにはアナログ電波の送信そのものが止まり、砂嵐のような画面になる」とのことだ。すると脳死ってわけだな。

 送信が止まれば受信する情報は存在しない。ここが重要なのだが、情報を遮断されることは機能喪失を意味する。つまり送信停止=受信不能なのだ。以下、不遜な例えを連発するがご容赦願いたい。真っ暗闇の世界に置かれた人と、明るい世界で生きる視覚障害者は内実において一致する。周囲の人々全員がわけのわからぬことを言い始める状況と、重度の認知症を患う人も同様だ。世界全体が狂気に包まれれば、あなたが異常と診断されるわけだ。

 情報の相対性はツーウェイの一方が機能しなくなることでコミュニケーションが喪失する。

 あなたがテレビ番組の『ペイウォッチ』を見ているとする。さて『ペイウォッチ』はどこに局在しているのだろうか? テレビの画面で光っている燐光体のなかにあるのか、ブラウン管のなかを走っている電子のなかにあるのか。それとも番組を放送しているスタジオの映画用フィルムやビデオテープのなかだろうか。あるいは俳優にむけられたカメラのなかか?
 たいていの人は即座にこれが無意味な質問であると気づくだろう。もしかすると、『ペイウォッチ』はどこか一カ所に局在しているのではなく(すなわち『ペイウォッチ』の「モジュール」というものは存在せず)、全宇宙に浸透しているのだという結論をだしたくなった人もいるかもしれない。だがそれもばかげている。それは月や、私の飼い猫や、私が座っているソファには局在していないからだ(電磁波の一部がこれらに到達することはあるかもしれないが)。燐光体やブラウン管や電磁波やフィルムやテープは、どれもみなあきらかに、月や椅子や私の猫にくらべれば、私たちが『ペイウォッチ』と呼んでいるシナリオに直接的な関係がある。
 この例から、テレビ番組がどんなものかを理解すれば、「局在性か非局在性か」という疑問が力を失い、それに代わって「どういう仕組みになっているのか」という疑問がでてくるのがわかる。

【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー:山下篤子訳(角川書店、1999年/角川文庫、2011年)】

 朗報だ。12年も経ってやっと文庫化された。テレビ番組を通した問いかけは仏教の属性論と規を一にしている。

「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 番組を人生に置き換えてみよう。私の人生はどこにあるか? 家族や友人の視線の中か、私の感覚か、それとも記憶か、あるいは写真か?

「局在性か非局在性か」との指摘は存在論を鋭く抉(えぐ)り、実は関係性という双方向性の中で人生が成り立っていることを明らかにしている。ラマチャンドランは縁起(えんぎ)を志向している。

 テレビが私であるとすれば、自我を形成するのが番組と考えてよかろう。幼い頃はテレビの操作法を知らないから、親が見る番組の影響を受ける。思春期になると自分の嗜好(しこう)が形成されてゆく。何らかの信念をもつ人は最終的に一つの番組しか見ない。スポーツ、バラエティ、歌番組、ニュース、ルポ、そして政治、思想・哲学、宗教へと至る。

宗教OS論の覚え書き

 1963年から始まった「私」という番組はいつの日か終わりを迎える。受信機としての機能も失う。「昔、シャボン玉ホリデーという番組があったよな?」あったあった。「あれは面白い番組だったよな」確かに影響力があった。「昔、小野って野郎がいたよな?」いたいた――ってな具合だ。

 もしも「私」が生まれ変わるとすれば、それは「私」という情報に依存している以上、再放送とならざるを得ない。つまり再生はあっても新生はない。来世を信じる人は六道輪廻を望んでいることになる。自我の延長戦、繰り返し観る映画、因果は巡る糸車、ネズミ車のハムスターってわけだよ。

 自我への執着をブッダは諸法無我で木っ端微塵にした。空の概念をわかりやすくいえば、「存在は電波である」となる。電波野郎って意味じゃないからね(笑)。送信と受信の関係性の中で存在し、時を経て宇宙に溶け込む。

「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す」(雑阿含経)。

 この世界に単独で存在するものは何ひとつない。西洋近代の扉を開いたのはデカルトだ。「我思う、ゆえに我あり」と彼が自覚した瞬間に、人間の自我は分断されたものとなった。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 西洋の分断された自我が世界の分断を生んだ。平和に暮らしていたアフリカの黒人は奴隷とされ、友好的なアメリカ先住民は虐殺された。世界というテレビでは近代以降、キリスト教の番組が席巻している。宣教という名目で信仰をも支配しようと目論んでいる。彼らはチャンネル権争いのためとあらば戦争までやってのける。

 キリスト教に鉄槌を下さずしてポストモダンは成立しない。そして既成概念を打ち破らなければ自由を享受することは不可能だ。

 今まで通りテレビを見ない自由は確保しようと思う。

先入観を打ち破る若き力/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン

脳のなかの幽霊 (角川文庫)脳のなかの幽霊、ふたたび (角川文庫)

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