2014-03-31

エティ・ヒレスムの神 その一/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

ヴェーダとグノーシス主義

キリスト教を知るための書籍

 かくいう私は、社会学者だ。社会学的啓蒙の救済力を信じており、世俗主義の用語は私の血肉と化している。世俗化の基本想定、端的にいえば、近代化が進むと宗教的なものはおのずと解消していくという考え方は、たとえこの予測が歴史によって否定されようとも、そう簡単に社会学的思考からとりのぞくわけにはいかない。宗教には、他者についての様々なヴィジョンを掲げて世界を動かしていく、相対的に自立した現実性と力が備わっている。したがって、そうした宗教の中身が、ありとあらゆる両義性を含めて社会学の視野に入ってくることはめったにない。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直〈すずき・ただし〉(岩波書店、2011年)以下同】

 社会学的な懐疑主義につきまとう非宗教性・反宗教性を乗り越えようと試みた労作。上記テキストの「宗教的」とは神秘的と同義であり、非科学的と言い換えてもよいだろう。ウルリッヒ・ベックは宗教社会学の空白を埋めようと意気込んでいるわけだが、出発点からして方向を誤ったように見える。相対主義的観点からは新しい統合的な発想は生まれにくい。宗教と科学を相対的に捉え、聖俗を分けて考え、学問や科学を高みに置く考え方そのものを疑うべきだろう。

 科学は文明の発達をもたらし生活を便利にしたが、人生を豊かにしたとはいえない。学問がそんなに立派であるなら学者は模範的な生き方をしているはずである。とてもそんな風には思えない。極端に言ってしまえば宗教も科学も学問もひとつの文脈であり物語にすぎない。社会学はデータを重視するが、どのようなデータを選ぶかはその時代の社会的価値で決められる。つまり恣意的なものなのだ。すべてのデータを網羅することが不可能である以上、データ解釈には「読み解く」作業が付随する。ま、データで絵を描くようなものだ。その絵が科学的かどうかはまったくの別問題だ。

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。

 著者はエティ・ヒレスムの日記を通して「自分自身の神」からコスモポリタン化を探る。

 彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信徒たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。

 つまり一人を掘り下げて人類共通の泉に辿り着こうとする作業である。エティ・ヒレスムの信仰は制度化も組織化もされていなかった。そこに生まれ立ての宗教の姿を見ることは可能だろう。教団とは宗教の国家化に他ならない。ゆえに教団は信徒からカネを集め、他教団との戦闘に臨む。信仰のヒエラルキーが残虐行為を命じる。

 ではエティ・ヒレスムの神との対話を見てみよう。

 神様、私はあなたが私のもとを去って行かれぬように、あなたをお助けするつもりです。でも私は最初から何一つ請け合うことはできません。ただ一つのことだけは、ますますはっきりとわかってきました。それは、あなたが私たちを助けられないこと、むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならないこと、そしてそれによって結局は私たちが自分自身をも助けることができるのだということです。神様、大切なことはただ一つ、私たち自身の中に住まうあなたのひとかけらを救い出すことなのです。もしかすると私たちは、さいなまれた他の人々の心の中で、あなたを復活させるお手伝いができるかもしれません。確かに神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます。それはもう、この人生の一部になってしまっています。私はあなたに釈明を求めてはいません。むそろあなたのほうが、いつの日か私たちに釈明を求められることでしょう。そしてほとんど心臓が鼓動するたびに、私にはますますはっきりとしてくるのです。あなたは私たちを助けることができないのだということが。むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならず、私たちの内なるあなたの住まいを最後の最後まで守りぬかねばならないのだということが。

 何と美しい心根であろうか。彼女が「神様」と呼びかけたのは、喪われた人間性すなわち良心そのものであった。彼女は全人類に良心を喚起すべく、まず自らの良心を掘り起こす必要があった。エティ・ヒレスムは良心を助け、そして守る。死が迫り来る中でこれほどの勇気を示した女性がいたのだ。ナチスを声高に糾弾することもなく、彼女は静かに自分の内面世界を押し広げた。

「エティ・ヒレスムの神」を否定する者はあるまい。彼女の神は神々の党派性を超越してすべての神を従わせる。ナチスはエティ・ヒレスムを殺した。しかし彼女の神が死ぬことはなかった。現に今こうして私の胸を打っているではないか。

  

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『原発事故の正体』 by ウルリッヒ・ベック:Goeche's Blog

2014-03-30

神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス


宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 ・神経質なキリスト教批判

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
キリスト教を知るための書籍

 この時点で、アメリカの読者に対してとくに一言述べておく必要がある。なぜなら、現在のアメリカ人の信心深さは目を見張るものだからである。弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張しているにすぎない。今日(こんにち)のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が公職に選ばれることは、けっして簡単というわけではまだないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性(95%は投票する)、ローマ・カトリック教徒(94%)、ユダヤ人(92%)、黒人(92%)、モルモン教徒(79%)、同性愛者(79%)、無神論者(49%)という結果だった。明らかに道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世界は驚愕するだろう」。

【『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)】

 リチャード・ドーキンスが苦手な上に垂水雄二の訳文が苦手だ。ドーキンスの文章はワンセンテンスが長すぎる。垂水は文体が悪い。

「信心深さは目を見張るものだからである」→信心深さには目を見張るものがある。
「現実をほんのわずかに」→「に」は不要
「けっして簡単というわけではまだないが」→けっして容易ではないが
「その他の点では十分な資格をもつ次のような人物」→政治家としての資質を十分に備えた次の人物
「はるかに」が重複。「に」が多すぎる。ジョン・スチュアート・ミル(本文ではスチュワート)の言葉も実にわかりにくい。はっきりいって悪文だ。


 私は本書を三度読み、三度とも挫けている。ドーキンスの神経質な性格に耐えられないためだ。言いたいことはわかるし、彼の役割が重要だとも思う。だが、どうしてもキリスト教に対する反射的な言動が目立ち、否定の度合いが浅く感じる。

 たとえ本人が「自分は無神論者」であると言っていても、無神論者であるということ自体、宗教の影響を受けているのです。無神論ということの前提には、まず神があるかないかという問いがあるからです。

〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)

 この指摘がドーキンスに当てはまる。しかもピッタリと。彼はたぶん意図的に騒ぎ立てることでアメリカを中心とするキリスト社会に風穴を空けようと目論んでいるのだろう。それが上手くいって欲しいとは思う。彼はかつて日本の新聞社によるインタビューで「仏教は宗教ではない」と答えた。もちろんそれは「彼が否定する宗教」との意味合いであろう。ここらあたりが実は難しいところで、無神論=宗教の否定ではないし、無神論が正義だと叫んでしまえばキリスト教と同じ穴に落ちてしまう。私は人類における宗教性は誰も否定することができないと考える。

「神は妄想である」――これはいい。だが「宗教との決別」がまずい。「真の宗教性の追求」にすれば論旨も大きく変わったことだろう。批判や否定は簡単だが、その言葉が信者に届くことは稀だ。相手の心を開かなければ胸を打つこともない。魔女狩り、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚ますことがないのがキリスト者なのだ。頭ごなしに否定したところで何かが変わるわけではあるまい。

 尚、併読書籍については「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」に示してある。

神は妄想である―宗教との決別

リチャード・ドーキンスが語る「奇妙な」宇宙
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静


新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン

 ・宗教は人を殺す教え

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
キリスト教を知るための書籍

 本書は次のような素朴な問いに答えることを目的としている。
〈宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?〉
「幸せ」という曖昧な言葉を用いた。人によって何を幸せと感じるかはさまざまであろうが、宗教が提供しようとする幸せとは、人の〈いのち〉にかかわるようなものである。〈いのち〉とは生物学的な生命を意味するだけでなく、その人の人格、生全体、その人らしく生きること、そういった〈生、生きること〉にかかわる総体を〈いのち〉と呼びたい。宗教は、人が充実した生、安心した、落ちついた生、社会的な地位や身分や役割とは無関係に根元(ママ)的に存在する自立した生の在り方を示し、人がその人らしく、その人自身として〈いのち〉を生きることを可能にする。しかしながら、歴史を少しでも振り返ってみるならば、嫌というほど多くの〈いのち〉が宗教ゆえに殺されている。宗教戦争は歴史年表を埋め尽くしている。文字通り「殺される」ということだけではない。宗教の名のもとに人間としての尊厳を否定されている人は、今も後を絶たない。自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた〈いのち〉を生きているとはいえず、むしろそれを失っているのである。自らの〈いのち〉を生きられない人が、他者の〈いのち〉を奪うことに無頓着になってしまうのは、ある意味当然のことである。自らの〈いのち〉を喪失し、他者の〈いのち〉を殺すことが信仰熱心の証となってしまうという悲劇は、いつの時代にも繰り返されている。しかも、宗教指導者こそが先頭に立って〈いのち〉を奪っているという事態は、決して稀なことではない。一般信徒の方がはるかにまっとうな感覚を具(そな)えているということはよくあることだ。

【『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静〈うえむら・しずか〉(岩波書店、2008年)】

 本書刊行時は東京大学や東海大学で非常勤講師をしていたが現在は著作に専念しているようだ。あっさり味だが出汁(だし)がしっかり出ている塩ラーメンの趣がある。文章にスピード感がないのはそのため。出汁を取るには時間がかかる。ましてキリスト者に対するメッセージであれば慎重に話を進めないと拒否反応を招く。

 冒頭で一般論を掲げてからキリスト世界に入ってゆくわけだが、外野から見るとキリスト教の内部世界を描いているため、そこかしこに「甘さ」を感じる。だが上村の抑制された筆致は清々しく、陰険な性質が見られない。宗教を巡る議論は正義の奪い合いに終始して、主張が誘導の臭いを放つことが多い。上村は自分の足でイエスに接近する。

「宗教は人を幸せにするためにある」というのは一般論としては正しいかもしれないが、科学的に見れば誤っていると思う。宗教は本来、コミュニティ維持のために発生したと考えられる。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

「幸せ」は元々「仕合わせ」と書いたが、たぶん鎌倉時代にはなかった言葉だと思われる。とすれば概念そのものが中世以降のものだ。まして、「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)ことを踏まえると、「幸せ」は更に遠のく。

 それゆえ宗教は「死を巡る物語」であり、コミュニティを維持する目的で「死を命じる」ことも当然含まれていたことだろう。その意味でコミュニティとは悲しみと怒りを共有する舞台装置といえそうだ。

 一般論としての「幸せ」は人権概念から生まれたものではあるまいか。もちろんそのためには自我の形成が不可欠だ。西洋では「神と相対する自分」から個人が立ち現れる。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 発想を引っくり返してみよう。宗教は人を殺す教えなのだ。そして人間は自分が束縛されることを望む動物なのだ。おお、実にスッキリするではないか(笑)。これが掛け値なしの事実である。積極果敢に幸福を説く宗教の欺瞞を見抜け。彼らが幸せそうな素振りをしてみせるのは布教の時だけだ。胸の内では布教の成果を求めて煩悩の炎が燃え盛っている。布教とはプロパガンダの異名である。声高な主張には必ず嘘がある。真実は黙っていても伝わる。

 私の見地からすれば「宗教の倒錯」ではなくして「宗教は倒錯」ということになる。

宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教タルムードの中のイエス旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)キリスト教の自己批判: 明日の福音のために


エティ・ヒレスムの神/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック

2014-03-29

教団内部の政争/『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也
『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也

 ・教団内部の政争

 創価学会にまつわる数々の事件で汚れ仕事をやらされてきた著者が赤裸々に舞台裏を綴った手記である。矢野絢也のネゴシエーター振りは国税庁との攻防で見事に発揮されており、政治家としての力量が窺える。

 教団内部の政争が醜悪極まりない。それでも優れた読み物になっているのは著者の筆致が抑制されているからだ。声高に創価学会を糾弾することもなく、事実を淡々と綴っている印象が強い。

 創価学会の体質は巨大企業というよりは暴力団に近い。さしずめ創価一家といったところだろう。組長である池田大作を守るためなら、どの幹部であろうとも鉄砲玉のように扱われるのだ。矢野絢也も結果的にその一人となった。

 マンモス教団の乱脈経理にメスを入れるべく国税庁は池田大作の公私混同を問題視していた。全国の創価学会会館に設置されている池田のプライベートルームや、実質的に池田の別荘と化している各地の研修道場、そして海外要人への高価なプレゼントや公明党議員への報奨金および創価学会員への小遣いなど。


 国税庁との窓口は矢野が担当し、矢野はあらかじめ竹下元首相などに国税庁への働きかけを依頼していた。

 その5日後の4月18日、竹下元首相からの一本の電話は私を狂喜させた。竹下氏のちからをまざまざと見せつけるものだった。竹下氏は、事実上、(※第二次税務調査の)税金をゼロにするよう国税庁首脳部を説き伏せていたのだ。
「国税庁には“心にまで課税できない”と言っておいた。源泉徴収義務を怠った程度の扱いで収める。学会の山崎尚見〈やまざき・ひさみ〉副会長には“矢野さんの力でできたことだ”と話しておく。だが、山崎には、今後も注意するようにと言っておく」
 山崎氏は学会の政治担当で、公明党だけでなく、自民党首脳らとも接触していた。山崎氏は、竹下氏に以前から米などを付け届けしていた。このときはおそらく池田氏と秋谷氏の指示で、私とは別に念押しのために竹下氏と接触していたようだ。
 私は竹下氏に「ありがとうございました。ご恩は忘れません」と繰り返しお礼を言い、電話機に向かって何度も頭を下げた。

【『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2011年)】

 元々創価学会は困ったことがあると自民党代議士に泣きついてきた。言論出版妨害事件の際は田中角栄に仲裁を依頼している。

 ところがあろうことか公明党と創価学会はあっさりと竹下を裏切る。

 世論の激しい批判にさらされた金丸氏は10月14日、遂に議員辞職に追い込まれ、竹下派会長も辞任。竹下派では後任の会長を巡り、会長代行の小沢氏のグループと反小沢の小渕副会長のグループが激しく対立し、年末の竹下派分裂に突き進む。
 一方、皇民党事件に関連して、金丸、竹下両氏の国会証人喚問を求める声が高まり、竹下氏に対して議員辞職を求める声が政界から沸き起こった。
 竹下氏の議員辞職要求の先頭に立ったのは、こともあろうに学会への第二次税務調査潰しを竹下氏に頼んだ公明党の石田委員長だった。
 石田氏は14日の記者会見で「総裁選への暴力団関与は、民主政治の根幹に関わる問題だ」として、竹下、金丸両氏の証人喚問による真相解明に全力を上げることを表明、あわせて竹下氏の進退に言及し「議員辞職に値する」と言い切った。野党党首が竹下氏に議員辞職を求めたのは初めてで、これをきっかけに他の野党や自民党内からも竹下氏の議員辞職を求める声が相次いだ。
「公明党は竹下にきつい」という宮沢首相側近の指摘どおりの展開になったわけで、竹下氏の側近からさっそく私に抗議が来た。
「お宅の石田委員長がいちばん先に竹下辞任の口火を切ったが、どういうつもりか。恩知らずとはこのことを言うんだ」
 私は「マスコミに聞かれて、つい言ってしまったようだ」と苦しい弁明をしたが、私自身も石田氏の発言に腹を立てていた。私はすぐ竹下氏に連絡して謝罪した。石田発言によって追い詰められた竹下氏は不機嫌で「なぜ、よりによって石田に言われなければならないのか」と憮然としていた。(中略)
 しばらくすると竹下氏から電話があった。竹下氏は、懸命に心を静めようとしているらしく、いつもの淡々とした口調に戻っていた。竹下氏は私と話す前に学会の山崎副会長と話したという。
「山崎に私のほうから電話をして、自分の心境を話した。山崎は、石田に事情を聞いて連絡をすると話していた。学会との関係は変えたくないと思っている」
 だが翌日になっても山崎副会長は竹下氏に電話一本かけなかったという。
 山崎氏は、学会の政治担当として、第二次税務調査をはじめ問題があるたびに竹下氏にすがっていた。池田名誉会長個人の脱税問題では、竹下氏の力添えで脱税をもみ消してもらい、山崎氏も竹下氏に感謝していた。
 ところが竹下氏が政治的に追い込まれるや態度を一変させ、助け舟を出すどころか逆に追い落としにかかった。学会・公明党の首脳たちは冷酷、非情と言われても仕方がなかろう。

 創価学会は下衆の勘繰りをし「国税は竹下がけしかけたのではないか」と考えたのが真相のようだ。平然と恩を仇で返すところに創価学会の政治性があり、その後公明党が与党入りをしたことも納得がゆく。

 学会の裏切りを目のあたりして、さすがの竹下氏も「学会もわからないところだ」と憮然たる様子で私に愚痴を言った。
「山崎から連絡が来ない。私は文句を言った訳ではなく心境を話しただけなのになあ」
 私が言葉に窮していると、竹下氏は、国税庁の坂本前本部長が竹下氏のところに押しかけてきたことを明かした。
「坂本が私のところに来た。“我慢して便宜を図ってやったのに学会は許せない”といきりたっていた。私は“宗教は心の問題だから課税しないでいい”となだめておいた」
 それでも坂本氏は収まらず「ルノワール事件は今後、問題になる」と仕返しをほのめかすなど、怒り心頭だったそうだ。

「マムシの坂本」の異名を持つ坂本導聡〈さかもと・みちさと〉国税庁直税部長は竹下の側近であった。

 創価学会内部から国税庁に投書が寄せられているというのだから教団の腐敗ぶりが目に浮かぶ。日本一のマンモス教団が凋落するのも時間の問題だろう。私は戦後から高度経済成長期にかけて創価学会と日本共産党には一定の役割があったと考えているが、既に双方とも役割は果たし終えたものと見ている。

 公明党は大衆福祉を掲げて設立されたわけだが、国民の見えないところで消費税導入にも賛成していた事実が書かれている。政界で魑魅魍魎(ちみもうりょう)に魂を売ってしまった宗教者の成れの果てが哀れだ。権力が腐敗するように、巨大化する組織も腐敗を免れないのだろう。

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検察庁と国税庁という二大権力/『徴税権力 国税庁の研究』落合博実

目撃された人々 57


すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ


 あなたの存在を今支えているのが何か知っていますか?
 その表面をちょっと撫でてみるために、例えば、あなたが朝食を終えて、お気に入りの椅子に座り、この本を取り上げたと想像してみましょう。あなたの首と肩が、頭を支えています。胸の骨と筋肉が呼吸を支えています。椅子があなたの身体を支えています。床が椅子を支えています。地球が、あなたの住んでいる建物を支えています。いろいろな恒星や惑星が、地球の軌道を支えています。窓の外では、男性が犬を連れて道を歩いています。この男性があなたを何らかのかたちで支えていないと断言できますか? 彼は、あなたの家に電気を供給している会社で、書類整理の仕事をしているかもしれませんよ。
 道にいる人たちの中で、そして、その背後で働いている、見えない無数の人たちの中で、あなたの存在を支えていない人がいると断言できますか? 同じ質問が、過去に生きていた先祖たちにも、また、朝食と何かの関係があったさまざまな動物や植物にも当てはまります。どれほど多くの起こりそうもない偶然が、今のあなたを作りだしたのでしょうか!

【『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ:水島広子訳(創元社、2007年)以下同】

 バイロン・ケイティの『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』(旧訳は安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)に続く2冊目の著作。

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 装丁と訳文が明らかに女性向けとなっている。原書に由来するのかどうかは不明。「訳者あとがき」によれば、バイロン・ケイティは元々重度のうつ病だった。摂食障害の社会復帰センターへ入所したのは彼女の保険がそこしか適用できなかったためだという。「自分はベッドに寝る価値もない」と彼女は床で寝ていた。ある朝、目を覚ますと世界は一変していた。自分を苦しめているものは「現実」ではなく、「自分が信じている考え」であることに気づいたのだ。うつ病というプロセスを経てバイロン・ケイティは悟った。

 私を支えているものに気づくことは現実を知ることでもある。この相依相関の関係性をブッダは縁起と説いた。バイロン・ケイティの目はありのままの縁起世界を見つめている。「支えられた自分」を自覚する時、人は自(おの)ずから「支えよう」とする方向を目指す。「私」という存在は「支えられている重み」を実感する中にあるのだろう。

 グローバリゼーションの時代にあってはテレビに映る外国人すら自分と関係があるかもしれない。その人たちが輸入品の製造や収穫をしている可能性がある。今目の前にあるパソコンも、部品や部材をたどってゆけば数百人、数千人の人々につながっていることだろう。


 すべてのものがあなたを支えているのです。あなたがそれに気づいていようといまいと、考えようと考えまいと、理解しようと理解しまいと、それを好きであれ嫌いであれ、あなたが幸せであろうと悲しかろうと、眠っていようと起きていようと、やる気があろうとなかろうと、支えているのです。お返しに何かを要求することなく、ただひたすら支えているのです。

 これを生きる中で自覚しているのはインディアンだけだろう。彼らは大地に感謝を捧げ、恵みを享受する。インディアンに富という概念はない。彼らは必要最小限を自然から分け与えてもらい、必ず正しい行為に使うことを約束する。ブッダとクリシュナムルティの思想を生きるのはインディアンである。彼らの生は完全に自然と調和している。それゆえ私は密教(日本仏教)のスピリチュアリズムは否定するが、インディアンのスピリチュアリズムは肯定する。ひょっとすると同じ文化がアイヌや沖縄、エスキモーにもあったのかもしれない。

「私」という言葉を、「私の考えは」に置き換えることが、気づきをもたらすこともあります。「私は敗北者だ」は、「私の考えは敗北的だ。特に自分自身についての考えは」となります。(中略)痛みをもたらすのは考えであり、あなたの人生ではありません。

 我々は思考に囚われている。身動きもままならないほどに。ブッダやクリシュナムルティの教えですら我々は思考で受け止める。バイロン・ケイティは思考から離れた。まさに独覚(どっかく=アルハット=阿羅漢)である。世界を変えるためにはブッダの教えを広めるよりも、人類全体がインディアンを目指すべきなのかもしれない。

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人


・欽定訳聖書の歴史的意味
他人によってつくられた「私」

 あなたは、15世紀の大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)を知っていますか?
『魔女に与える鉄槌』は、1486年にドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラマー(Heinrich Kramer)とヤーコプ・シュプレンガー(Jacob Sprenger)によって書かれた【魔女狩り】に関する論文です。魔女発見の手順とその審問と拷問の方法についてこと細かに記されており、中世において大きな影響を与えたことで知られています。

【『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2011年)以下同】

 私は小室直樹著『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』で『魔女に与える鉄槌』を知った。本書はキリスト教を通してメディアと洗脳に切り込んでいる。文章はやさしいのだがキリスト教の知識がなければ理解が難しいか。

 新しいメディア(媒体)の登場は情報伝播(でんぱ)のスピードを一気に加速する。そして自由に氾濫した情報が人々に不自由な生き方を強いて、ついには新たな魔女狩りに至るといった主旨だ。


 21世紀を生きる日本人として、やはりキリスト教を知の常識として学んでおくことが必要だ。私は昔っからキリスト教に対して嫌悪感を抱いているが、キリスト教を知らずして欧米文化――すなわち先進国文化――のコンテクストを理解することは不可能だ。

キリスト教を知るための書籍」を読む余裕のない人は、
魔女狩り』森島恒雄
インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人
日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
 を読んでから本書に望めばシナプスがスムーズにつながることだろう。

 本書によれば『魔女に与える鉄槌』がドイツで出版されたのが1487年。1520年までに13版の増刷が重ねられ、その後1574年から1669年にわたって33版に至る。苫米地の計算によればグーテンベルク聖書の発行部数を基準(1版あたりの印刷が180部)にすると、で、最初の13版で2340部、次の33版で5940部、合計8280部となる。これに海賊版を加えると優にグーテンベルク聖書を上回った可能性があるとしている。

 魔女狩りのマニュアル本にこれほどの需要があったところから当時の時代的雰囲気が伝わってくる。キリスト思想に抑圧されたヨーロッパ人が集団ヒステリーを起こし、生け贄(にえ)を探していたわけだ。抑圧的な思考は必ず暴力的な行動を招く。


 佐藤優が「イエスの教えを、ユダヤ教とは別のキリスト教であると定型化したのはパウロだ。従って、キリスト教の開祖はイエス・キリストであるが、開祖はパウロである」(『功利主義者の読書術』新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)と指摘。これに対して苫米地はコンスタンティヌス大帝(1世)を開祖に挙げる。私は苫米地に一票。

世界の構造は一人の男によって変わった/『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ

 ここから苫米地は聖書の翻訳にまつわる問題を取り上げる。

 英語の「Virgin」に置き換えられたもともとのヘブライ語は「若い女性」という意味であり、イエスの処女懐胎が教義となったのは325年ニカイア公会議においてです。もともとヘブライ語で"almah"という単語が使われており、これは結婚適齢期の女性、もしくは新婚の女性を表す一般名詞です。これがギリシア語に訳される過程で、若い女性と処女の両方を意味する"ギリシア語略 (parthenos)"と訳されました。ニカイア公会議ではヘブライ語の元の言葉を無視してギリシア語の派生的意味合いの「処女」をわざわざ選んだのです。

 キリスト教の書き換え~上書き更新だ。宗教も歴史も常に「書き換え~上書き更新」を繰り返す。なぜなら脳のシステムがそのようにできているためだ。ただし、つながりやすさ=進歩ではないことに留意する必要がある。


 英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書です。KJV聖書といわれます。プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。実はカトリックの聖書も英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。

 この聖書を作成した人物は誰か?

 プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランド、イングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュアート)です。彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から『欽定(きんてい)訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
 じつは『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー』(悪魔学)という書物を著しています。この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の系譜を汲(く)み、イギリスにおける魔女狩りの指南書の役割を果たしました。つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書をつくったのです。


 権力者は聖書を巧妙に書き換えた。「汝殺すことなかれ」の"kill"を"murder"に置き換えた。ここから「神は"murder"は禁じても"kill"は禁じていない」との論理が生まれる。ただし第1回十字軍が1096-1099年であった歴史を踏まえると神の正義と暴力には元々親和性があったと考えてよかろう。欽定訳は暴力のギアをシフトアップした。

 私は昂奮を抑えることができなかった。アングロ・サクソン人の優位性を決定づけた理由が初めてわかったからだ。魔女狩りという同胞の大虐殺から『欽定訳聖書』が生まれ、アングロ・サクソン人の系譜はプロテスタント~ピューリタンの渡米~プラグマティズムへとつながる。

 世界覇権はローマ帝国から大英帝国に移ったが、そこからアメリカには移っていないような気がする。多分アメリカという国家そのものがメディアの役割を果たしているのだ。それゆえ王が存在しないのだろう。

 テンプル騎士団についても詳しく触れていて実に勉強になった。

「新しい媒体は必ず、人間の思考の質を変容させる。長い目で見れば、歴史とは、情報がみずからの本質に目覚めていく物語だと言える」(『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック:楡井浩一訳)。

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魔女狩りは1300年から激化/『魔女狩り』森島恒雄

2014-03-27

袴田事件の取り調べ・拷問


 袴田への取り調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等(など)した。
 睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2~3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3~4人だったのが後に10人近くになっている。
 これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄〈くればやし・あさお〉警部人脈の関与があったとされている。

Wikipedia

宣告の果て ~確定死刑囚 袴田巌の38年~
袴田事件
袴田事件のあらまし【PDF】
日本:袴田事件 - ただちに再審を開始せよ : アムネスティ日本
袴田(はかまだ)事件
袴田ネット



はけないズボンで死刑判決―検証・袴田事件 (GENJINブックレット (37))主よ、いつまでですか美談の男―冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密裁かれるのは我なり―袴田事件主任裁判官三十九年目の真実

2014-03-26

白い点ひとつで生命感を表現したフェルメール/『誰も知らない「名画の見方」』高階秀爾


 精緻(せいち)な写実の画家というのが、フェルメールに対する一般的な評価であろう。たしかにその描写は、ひじょうに繊細である。しかし、彼の作品をよく見ると、画家がけっして事物の質感表現を極めようとしていたわけではないことがわかる。むしろフェルメールが追求したのは、事物を照らし出し事物にまつわりつく光の効果なのだ。彼の作品の多くにおいて、その画面は、厳密な質感描写というよりも、事物の表面を覆う光の結晶に満ちあふれている。

 そんなフェルメールの描く人物の魅力的な表現の秘密は、目にある。代表作の《真珠の耳飾りの少女》でも、描かれた少女の魅力は、神秘的ともいえるそのまなざしに由来する。では、フェルメールはどのようにして、この表情豊かな目を描き出しているのだろうか。ポイントなっているのは、瞳に描かれた白い点である。ハイライトとして白い点をひとつ、瞳に描き加えることだけで、生命感にあふれた人間の顔を描くことができるということを、フェルメールは発見したのだ。これは、「光の効果」を研究し尽くした画家ならではの発見といえるだろう。

【『誰も知らない「名画の見方」』高階秀爾〈たかしな・しゅうじ〉(小学館101ビジュアル新書、2010年)以下同】

 頭の中を「!」が支配した。その後「なぜ私は気づかなかったのだろう?」のリフレインが押し寄せた。見ているようで見ていなかったのだ。高階に見えたものが私には見えなかったという事実に打ちひしがれた。で、教えてもらった途端、それは「見える」ようになるのだ。ここに視覚の奥深さがある。きっと私には見えていないものがたくさんあるに違いない。視覚は並列的かつ横断的に働くため細部を見逃しやすいのだ。

 では実際にご覧いただこう。ヤン・ファン・エイクとフェルメールの光には決定的な違いがある。


 ヤン・ファン・エイクが写実的であるのに対してフェルメールは高窓から差すような光を描いている。白い点ひとつで生命を吹き込むのだから凄い。

 実は最近知ったのだが涙袋効果ってのがあるそうだよ。

【あの芸能人で徹底比較】涙袋の大切さ!!あるだけでこんなに違う・・・!!?

 確かに違う。まったく違うよ。人の目は陰影を好む。ネクタイのえくぼスタッコ壁、ボイン、筋骨隆々、碧眼(へきがん)、鼻の高さなど。神は細部に宿るってわけだ。

 じつは、現代においても写真家はしばしば、生き生きとした表情をつくり出すために、被写体の目のなかに人為的な光を加えるという。400年近くも前にフェルメールが試みたこの手法を用いている。つまり、自然のとおりの即物的な光を描写するかわりに、かならずしも自然のとおりではないけれど、人物に生命感を与えるような光を描き加える。そのことによって、瞳はたんに外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。

 さすが大御所。文章が香り高い。2時間程度で読める本だが各所に侮れない指摘がある。学ぶことは世界を広げることでもある。本を読めば読むほど豊かな世界が広がってゆく。

Art 1 誰も知らない「名画の見方」 (小学館101ビジュアル新書)

2014-03-25

失業と破産こそ資本主義の生命/『小室直樹の資本主義原論』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹

 ・失業と破産こそ資本主義の生命

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

 生き残った企業は、資本主義市場に相応(ふさわ)しい企業である。生き残った労働者は、資本主義市場に相応しい労働者である。
 いま、「資本主義市場に相応しい」企業を単に「企業」、同じく「資本主義市場に相応しい」労働者を単に「労働者」と呼ぶことにすれば、つぎの命題(文章)が成立する。
【市場は労働者を作る。】
 また、
【市場は企業を作る。】
 では、如何(いか)にして、
【淘汰(とうた)によってである。】
 資本主義は、労働者と企業とから作られる。資本主義のメンバーは、労働者と企業である。労働者と企業とがなければ、資本主義は生成も存続もできない。その労働者と企業とは、市場における淘汰によって作られる。
 市場淘汰こそ資本主義の生命である。
 市場で淘汰された労働者は失業者となる。市場で淘汰された企業は破産する。
 ゆえに、
【失業(者)と破産こそ資本主義の生命である。】
 という命題(文章)が成立するのである。

【『小室直樹の資本主義原論』小室直樹(東洋経済新報社、1997年)】

 これが市場原理である。まったく疑問の余地がない。資本主義経済においては資本の運動がすべてである。資本家からすれば「高く売れるか売れないか」であり、消費者からすれば「買うか買わないか」というだけの世界だ。

 市場で公正な競争が行われ、消費者が賢い選択をすれば、淘汰によってよりよき世界が現れるはずだ。だが現実は異なる。全然よくなっていない。それどころか日本はデフレが20年も続いた。この間の付加価値はどこへ行ってしまったのか?

 わかりやすく極論を述べよう。事業を立ち上げるにはカネが必要だ。企業は銀行などから借金をする。これが「資本」だ。そのカネを事業に投資する。企業は銀行からの借金+労働者の賃金を上回る利益を出さなくてはならない。つまり資本主義は借金で回っているわけだ。それゆえ経済は銀行の金利+αのインフレになるのが自然なのだ。

 にもかかわらず長期間に渡るデフレは進行した。日銀も政府も無能であった。投資先を失った日本のマネーは海外へ向かわざるを得ない。それどころか円高に悲鳴を上げた多くの企業は生産拠点を海外へ移した。雇用までもが流出したのだ。世界各国が金融緩和をしている中で日本だけが躊躇していた。

 世界経済は2007年にサブプライム・ショック、翌2008年にリーマン・ショックに襲われた。これ以降、富の過剰な集中が目立ってくる。インターネットとグローバリゼーションによって資本の移動は一瞬で国境を超える時代となった。多国籍企業はタックス・ヘイブンを経由することで租税を回避する。既にイギリスやアメリカ国内にもタックス・ヘイブンが存在する。

 明らかに公正な競争が行われていない。更に巨大資本を有する連中がマーケットをやすやすと動かす。最大の問題は資本主義を称しておきながら、米ドルが基軸通貨として流通している事実である。だから本来であれば第二次世界大戦以降の資本主義は米ドル資本主義と名づけるべきだ。しかもドルを発効するFRBは中央銀行機能を有しながらも実体は私企業なのだ。通貨発行権を国家の手に取り戻そうとした大統領も何人かいたが全員暗殺されている。

 すなわち米ドル資本主義は資本の運動ではなく、資本家の思惑で動いていると見てよかろう。米ドルの価値が極限まで下がった時が資本主義の終焉と個人的には考えている。



消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
信用創造の正体は借金/『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎

2014-03-24

我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎


『国文学史講話』の序

 三十七年の夏、東圃(とうほ)君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己(おの)が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。
 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲(かなしみ)を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底(きょうてい)を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡(すべ)て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
 余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪えなかった、特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、しかして直ただちにこれを東圃君に送って一言を求めた。当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李(こうり)の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳(つまびら)かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、余の心は君の心の如くに動いたのである。

【『思索と体験』西田幾多郎〈にしだ・きたろう〉(岩波書店、1937年/岩波文庫、1980年)】


「至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである」――情が流れ通う時、人は差異を超えてつながる。行間に誠実を湛(たた)える清冽な文章だ。死は人に沈黙を強いる。いつの日か我が身にも訪れる死を思えば精神は内省に向かい、言葉を拒否する。

 西田には悲哀を共有する友(藤岡作太郎)がいた。コミュニティが裁断された現代社会では悲しみを吐露する相手を見つけることもままならない。ただひっそりと胸の奥に畳んでいる人も多いことだろう。言葉にならぬ思い、言うに言えない苦悩を抱えて、それでもなお我々は生きてゆかざるを得ない。

 果たして救われることがあるのだろうか? そうではない。問いの立て方が誤っている。救いを求めるのではなくして、自らの力で悲しみを掬(すく)い上げるのだ。悲哀には時間を止めて過去へ押しとどめる作用が働く。「亡くなった人の分まで生きる」という言葉には欺瞞がある。人生は一人分しか生きられないからだ。だから「死者と共に生きる」べきだ。心の中で語りかければそれは可能だ。


道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継

クリシュナムルティ『英知の探求』


六道輪廻する世界/『英知の探求 人生問題の根源的知覚』J・クリシュナムーティー

2014-03-23

目撃された人々 56


アメリカ礼賛のプロパガンダ本/『犬の力』ドン・ウィンズロウ


 寝間着姿――高価な絹のパジャマやネグリジェ――の者もいれば、Tシャツ姿の者もいる。裸の男女がひと組――情交のあとの睦(むつ)まやかな眠りを引き裂かれたのか。かつて愛欲だったものが、今は剥(む)き出しの猥褻(わいせつ)と化した。
 向かいの壁の沿って、亡骸(なきがら)がひとつ、ぽつんと横たわる。老人。家長。おそらく最後に撃たれたのだろう。家族が殺されるのを見届けたあと、みずからもあの世に送られた。慈悲の計らい? これは一種のゆがんだ慈悲なのだろうか? しかし、そのとき、アートの目が老人の手をとらえる。爪が剥(は)ぎ取られ、指が切り落とされている。老人の口は悲鳴の形に開いて硬直し、何本かの指が舌にへばりついている。
 敵はつまり、この一家の中に“指”(デド)――密告者――がいると考えていた。
 そう考えるように、わたしが仕向けたせいで。
 神よ、赦(ゆる)したまえ。
 アートは特定の一体を捜して、屍をひとつひとつ検分していく。
 捜し当てたとき、胃の腑(ふ)が揺さぶられ、喉(のど)へ突き上げてきた嘔気(おうき)を懸命に抑えつける。その若者の顔が、バナナのように皮を剥かれていたからだ。生皮が首から醜く垂れ下がっている。これが息絶えた【あと】に施された仕置きであることをアートは願ったが、そう甘くはあるまい。
 若者の頭蓋(ずがい)の下半分が吹き飛ばされている。
 口を撃たれたということだ。
 反逆者は後頭部を、密告者は口を撃たれる。
 敵はこの男を密告者だと考えた。
 まさにおまえが仕向けたとおりだ、とアートは胸に言い聞かせる。見るがいい――おまえが意図したとおりになったのだ。
 だが、わたしは想定していなかった。連中がこんなことをするとは。

【『犬の力』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)】

 世界は主観で構成される。だから人の数だけ世界が存在する。つまり私が言いたいのはこうだ。書評は当てにならない。優れた書評本ですら鵜呑みにすると痛い目に遭う。例えば『狐の書評』で一躍有名になった山村修など。米原万里〈よねはら・まり〉すら信用ならない。ま、そんなわけで私は抜き書きを多用しているのだ。

 このテキストを慎重に読み解けば本書の内容は窺える。吉川三国志の劉備玄徳を思わせる優柔不断さである。暗に良心の呵責を盛り込むことで主人公を読者の側に近づけたつもりなのだろう。私の目には単なる小心としか映らない。

 一言でいえばメキシコのドラッグ・ウォー(麻薬戦争)を舞台にしたアメリカ・プロパガンダ本である。アート・ケラーはDEA(アメリカ麻薬取締局)のエージェントだ。麻薬戦争については以下のページを参照せよ。

殺戮大陸メキシコの狂気(1)麻薬に汚染されてしまった国家(記事末尾に関連記事リンクあり)

 既にメキシコのマフィアは軍隊並みの武器を保有しており、警察が手をつけられるような状態ではない。そこでエンターテイメント小説の出番となるわけだ。たぶん各所に目立たぬ真実が書かれている。大衆の位置からは現実の全体像が見えない。映像やテキストによるプロパガンダ作品の目的は「どうせ映画や小説の話」として喧伝するところにある。そして我々はフィクションであることに安心して、事実から目を逸(そ)らして日常生活に戻るのだ。

 アメリカが正義の味方だと思ったら大間違いだ。かの国こそ世界で最も邪悪な国家と言い切ってよい。本書のプロパガンダを見抜くのは意外と簡単で、ジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』と、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読むだけで十分だ。

 ドン・ウィンズロウは『ストリート・キッズ』が秀作であっただけに残念だ。嘘を見抜く力を養うためには有益な作品といえよう。

犬の力 上 (角川文庫)犬の力 下 (角川文庫)

ストーリー展開と主人公の造形が雑/『流刑の街』チャック・ホーガン

2014-03-22

自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ


 ・努力と理想の否定
 ・自由は個人から始まらなければならない
 ・止観

質問者●あなたは、われわれインド人が独立を獲得したのだということを考慮していないように思われます。あなたによれば、真の自由とはどのような状態なのですか?

クリシュナムルティ●自由が民族(国家)主義的なものであるとき、それは孤立になるのです。そして孤立は必然的に葛藤に帰着します。

【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)以下同】

 本書はテーマ別シリーズの一冊で、講話の抄録+質疑応答となっていて読みやすい。期間は1948~1985年に渡っている。つまり第二次大戦後からクリシュナムルティが亡くなる前年に及ぶ。前回掲載した講話と同じく、1948年3月7日ボンベイ(現ムンバイ)にて。

 インド・パキスタン分離独立が1947年8月14~15日のこと。国父ガンディーが凶弾に斃れたのが1948年1月30日であった。87年もの間、イギリスの植民地であったインドの歴史を思えば質問内容は決して的外れとはいえない。

 第二次世界大戦が行われている間、クリシュナムルティは公開講話をせずに沈黙の中で過ごしている(1940年8月末~1944年5月中旬まで)。クリシュナムルティは一貫して反戦の態度を示した。だが多くの人々はそれを理解できなかった。聴衆が去っていったこともあった。

クリシュナムルティが放つ光/『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス

 インドの国民が国家意識に目覚める中でクリシュナムルティはあっさりと国家主義を否定してみせた。

 皆さんが国家という存在として自分自身を孤立させたとき、皆さんは自由を得たのでしょうか? 皆さんは搾取からの自由、階級闘争、飢餓、異宗教間の衝突からの自由、司祭、宗教的・人種的団体間の争い、指導者たちからの自由を得ましたか? 明らかに得ませんでした。皆さんはたんに白い皮膚の搾取者たちを追い出し、代わりに浅黒い――たぶん、もう少し冷酷な――搾取者たちをかれらの後釜に坐らせただけなのです。私たちはあい(ママ)変わらず以前と同じものを持ち、同じ搾取、同じ司祭、同じ組織宗教、同じ迷信、そして同じ階級闘争をかかえています。で、これらは私たちに自由を与えたでしょうか? そう、私たちは実は自由になりたくないのです。ごまかさないようにしましょう。なぜなら、自由は英知、愛を意味しており、それは搾取しないこと、権威に屈従しないこと、並外れて廉直であることを意味しているからです。先ほど言いましたように、独善は常に孤立化していく過程なのです。なぜなら、孤立と独善は相伴うからです。これに反して、廉直と自由は共存するのです。主権国家は常に孤立しており、それゆえけっして自由ではありえないのです。それは、絶えざる紛争、猜疑、敵意そして戦争の原因なのです。

 何と辛辣(しんらつ)な指摘か。当時を生きる人々が理解できたとは到底思えない。それでも尚クリシュナムルティは「変わらぬ現実」を指摘し抜いた。現在、インドはIT大国となった。既に核爆弾も保有している。BRICsの一翼を担い、2026年には中国を抜いて世界一の人口となることも予想されている。だが実態はどうか? カースト制度が生む暴力が止むことはなく、強姦は頻繁に繰り返され、児童虐待は後を絶たない。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
外交官が描いたインドの現実/『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ

 クリシュナムルティがアメリカで受け入れられたのは多分ベトナム戦争が泥沼化した後のことだろう。私だってバブル景気以前であれば理解できなかったに違いない。我々は時代という波に翻弄される存在だ。聴きたいのは真実ではなく耳触りのよい言葉だ。

「そう、私たちは実は自由になりたくないのです」――頭からバケツで冷や水を掛けられた思いがする。私が求めていたのは心地よい束縛であったのだ。ソフトSM。自由には責任が伴う。そして重大な判断を自分が下さなければならない。そうであれば国家や会社や組織に乗っかった方が楽だ。これが私の本音なのだ。

 そして二度に及ぶ世界大戦が宗教と教育の無力を完全に証明した(『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳)。


 ですから、自由は全的な過程である個人、集団に対立した存在ではない個人から始まらなければなりません。個人こそは世界の全過程であり、そしてもし彼が自分のことをたんにナショナリズムや独善のなかで孤立させれば、彼は災いと不幸の原因になるのです。が、もし個人――全過程である個人、集団に対立しておらず、集団、全体の結果である個人――が自分自身、自分の人生を変容させれば、そのとき彼にとって自由があるのです。そして彼は全過程の結果なので、彼が自分自身をナショナリズム、貪欲、搾取から解放させれば、彼は全体に対して直接作用を及ぼすのです。個人の再生は未来においてではなく、【いま】起こらなければなりません。もし自分の再生を明日に延期すれば、皆さんは混乱を招き、暗黒の波に呑まれてしまうのです。再生は明日ではなく【いま】なのです。なぜなら、理解はいまの瞬間にのみあるからです。皆さんがいま理解しないのは、自分の精神・心・全注意を、自分が理解したいと思っているものに向けないからです。もし皆さんが自分の精神・心を理解することに傾ければ、皆さんは理解力を持つことでしょう。もし自分精神・心を傾けて暴力の原因を見い出すようにし、充分にそれに気づけば、皆さんはいま非暴力的になることでしょう。が、不幸にして、皆さんは自分の精神を宗教的延期や社会道徳によってあまりにも条件づけられてきたので、皆さんはそれを直接見ることができなくなっているのです――そしてそれが私たちの困難なのです。

 私が変われば世界が変わるのだ。だとすれば問題は世界ではなくして私にある。しかも修行を積んで時間をかける(「宗教的延期」)のではなくして、「今直ぐただちに変われ」というのだ。すなわち真の自由とは「今この瞬間に変わる自由」なのだ(本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。

「人は自由であるか自由でないかのどちらかです」(『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ)とも。つまり自由であれば変わることができ、不自由であれば変わることができない。考える余地もなければ、準備する猶予もない。つべこべ言わずに今変わる。変わった。明日、世界も変わっていることだろう。

余は極て悠久なり/『一年有半・続一年有半』中江兆民


 余一日(いちじつ)堀内を訪(と)ひ、あらかじめ諱(い)むことなく明言してくれんことを請(こ)ひ、因(よつ)てこれよりいよいよ臨終(りんじゅう)に至るまではなほ幾何日月(いくばくじつげつ)あるべきを問(と)ふ。即ちこの間(あいだ)に為すべき事とまた楽むべき事とあるが故に、一日(いちじつ)たりとも多く利用せんと欲するが故に、かく問ふて今後の心得(こころえ)を為さんと思へり。堀内医(ほりうちい)は極(きわ)めて無害(むがい)の長者(ちょうじゃ)なり、、沈思(ちんし)二、三分にして極めて言ひ悪(に)くそふに曰(いわ)く、一年半、善(よ)く養生(ようじょう)すれば二年を保(ほ)すべしと。余曰く、余は高々(たかだか)五、六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余のためには寿命(じゅみょう)の豊年(ほうねん)なりと。この書題(だい)して一年有半(ゆうはん)といふはこれがためなり。
 一年半、諸君は短促(たんそく)なりといはん、余は極(きわめ)て悠久(ゆうきゆう)なりといふ。もし短(たん)といはんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。それ生時(せいじ)限りありて死後限りなし、限りあるを以て限りなきに比(ひ)す短にはあらざるなり、始(はじめ)よりなきなり。もし為(な)すありてかつ楽(たのし)むにおいては、一年半これ優(ゆう)に利用するに足らずや、ああいはゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)はこれ虚無海上一虚舟(きょむじょうかいじょういちきょしゅう)。

【『一年有半・続一年有半』中江兆民〈なかえ・ちょうみん〉:井田進也〈いだ・しんや〉校注(博文館、1901年/岩波文庫、1995年)

 中江兆民自由民権運動に理論的な魂を打ち込み、「東洋のルソー」と称された人物である。

 現在を十全に生きようとする態度がセネカと完全に一致している(『人生の短さについて』セネカ)。「いついつまでにこれこれを成し遂げる」という生き方だと途中で死ぬことを避けられない。人生に目的があるとすれば、生そのものが二義的になってしまう。生きることそれ自体が人生の目的であり意味でありすべてである。であるならば、生を常に花の如く咲かせるべきだろう。


 自由民権運動について何も知らなかったので少々調べてみた。

 従来の戦後歴史学では、民権派=民権論、政府=国権論として捉えられてきた。近年、高知大学教授の田村安興らの研究(※『ナショナリズムと自由民権』)によって、土佐の民権派においても国権は前提であったことが示されている。田村の研究によって、従来、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきたことが誤りとなった。事実、板垣らは征韓論を主張したのであり、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛・中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。その理由として、田村は自由民権運動が国学以来の系譜の延長線上にあるからとしている。

【自由民権運動→民権論と国権論:Wikipedia

 飽くまでも国民的な国家意識の芽生えにおける平等主義と見てよかろう。自由民権運動と戦前の新興宗教の結びつきが気になったのだが有益な情報を発見できず。たぶん国家主義は太平洋戦争まで続いたことだろう。すると革命意識を有したのは共産主義者のみか。

 新しい理論が世の常識を変える。だがそれはまた古い常識と化し、手垢(てあか)にまみれる。社会改革はどこまで行ってもキリがない。ここにこそ宗教性の必要があるわけだが、宗教もまた組織化することで世俗化を免れない。ブッダとクリシュナムルティを思えば、正真正銘の巨人は2000年に一人しか登場しないようだ。

一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

2014-03-21

多忙の人は惨めである/『人生の短さについて』セネカ


 ・我々自身が人生を短くしている
 ・諸君は永久に生きられるかのように生きている
 ・賢者は恐れず
 ・他人に奪われた時間
 ・皆が他人のために利用され合っている
 ・長く生きたのではなく、長く翻弄されたのである
 ・多忙の人は惨めである
 ・人類は進歩することがない

『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳

必読書リスト その五

 誰彼を問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行なう者たちである。彼らが自分自身の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、自分だけの生活がいかに小さな部分でしかないかを考えさせるがよい。

【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版岩波文庫、1991年)】

 大西英文による新訳が出ているが私は茂手木訳を推す。音楽にはリズムとメロディーがあるが文章には文体しかない。それゆえ文体こそが文章の魂なのだ。翻訳と通訳は異なる。文体の調子が低いと読み手の思考にノイズが混入する。

 ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃-65年)は2000年前の人物である。軸の時代の一人といってよい。

 鮮やかな描写が資本主義に鞭を振るう。現代人は多忙である。生産性を追求するために。セネカの指摘を避けることができる人は一人もいないだろう。我々は自分の人生を歩むことがない。社会に敷かれたレールの上で他人が決めた価値観に基いてひたすら成功を目指しているだけだ。


 恐るべきは「愛と憎とを命令されて行なう者たち」との一語である。国粋主義者、信者、党員、ファンを見よ。彼らは自我の空白を埋めるために主義主張を展開し、敵と味方を峻別する。商人や営業マンも同様だ。彼らにとっては商品を買ってくれる客だけがよい客なのだ。そして資本主義は万人を商売人に変えた。

 自由にメッセージを発信できるインターネットの世界においても、アクセス・ブックマーク・被リンク・フォロワー・リツイート・いいね!の数を我々は競う。メッセージはやがてアフィリエイトや広告に寄り添い、取るに足らないマーケティングが進行する。テキストはカネに換算され、人物もまた収入で判断される。

 人生は短い。年を重ねるごとにその思いは深まる。ならばやはり自分の好きなことをするのが一番正しいあり方だ。好きなことは継続できる。何にも増して自由を味わえる。私が曲がりなりにも十数年にわたってブログを続けることができたのは、本を読むのが好きな上、紹介することも好きだからだ。アクセス数や本の売り上げなんぞを気にしていれば長く続けることは難しい。それ自体を楽しむことが人生の秘訣だ。

 競争から離れた位置に身を置くことが大切だ。元々仏教の出家にはそういう目的があったに違いない。たった独りになる時間、好きなことをする時間、何ものにもとらわれない自由な時間。私はこれを「出家的時間」と呼ぶ。世俗の塵埃(じんあい)から離れるところに自分だけの聖なる瞬間が開ける。

2014-03-20

誤解、曲解、奇々怪々


 楽しいエッセイを読んだ。以下に一部を引用する。

 大学に入学した頃、学生運動はなかなりし時代とあって、学内でアジ演説を聴く機会が多かった。演説の中で「味噌ひき労働者」という言葉がよく出てきた。「我々学生は味噌ひき労働者と連携して云々(うんぬん)」。零細企業で働く虐げられた労働者と手をたずさえてというほどの意味だろうと推測した。石臼で味噌豆をひく働きづめの老女の姿を思い浮かべ、含蓄のある言葉だなあと一人感じ入ったものである。その後何かの折に都会地出身の友人に話したところ、怪訝(けげん)な顔で「未組織労働者ではないのか」と言われ、驚くやら恥ずかしいやら。我が田舎では「ひ」と「し」の区別もあやしかったのである。

【あすへの話題:「味噌ひき労働者」元宮内庁長官・羽毛田信吾〈はけた・しんご〉/日本経済新聞 2014年3月19日付夕刊】

 聞き間違いが想像力を刺激し具体的な物語を生む。楽しいだけではない。行間には左派学生と一線を画したことまで滲(にじ)ませている。羽毛田は山口県出身のようだ。エッセイ冒頭では「ぞ」を「ど」と発音することも紹介されている。

 不意に昔の記憶が蘇った。勤め人をしていた頃、私は勤務中の空いた時間を使って事務所の周りに花壇をつくった。確か四つほどつくったはずだ。勢いあまって10本ほどの枝垂れ桃と数本のムクゲも植えた。花や木は私の相方を務める事務のオバサンが自宅から持ってきてくれた。このオバサンから花のことを随分教わった。

 ある日のこと、見慣れない花があったので私は尋ねた。「これ、何ていう花なの?」と。すかさず「おだまり!」と返ってきた。3秒ほど沈黙を保った。「で、何ていう名前なの?」「おだまり!」。私は困惑した。そして「花の名前くらい教えてくれたっていいだろうが!」と気色ばんだ。「だから、コデマリって二度も言ったでしょ!」。

 私の場合は聞き間違いから怒りの物語が生まれたわけだが、いずれにしても物語は「情報の受け手」が作成しているところに注目したい。つまり物語とは情報処理の異名なのだ。そこに誤解や曲解があれば奇々怪々の物語が生まれる。検証不可能という点で宇宙人・幽霊・神様は一致している。良質な想像力とは思えない。単なる空想だ。

 賢明さとは低い物語を高い物語に書き換える智慧のことだろう。仮に誤っていたとしても、新たな事実を知ることで更新可能な余裕をもちたい。頑迷な人物が豊かに見えないのは、やはり物語性が貧しいためか。


(コデマリ)

2014-03-19

クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ


クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する
コミュニケーションの本質は「理解」にある
クリシュナムルティ「自我の終焉」
・クリシュナムルティの三法印

 ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化もせずに、【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです。自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちは【あるがままのもの】を【あるがままに】考察し、それに偏向を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。【あるがままのもの】を認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、【あるがままのもの】は絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、【あるがままのもの】の素早い動きを追わなくなってしまいます。【あるがままのもの】は、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚(とら)われていたり、自己を対象と同一化してしまっていると、そのような働きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、【あるがままのもの】を素早く敏捷に追っていくことができません。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ:根木宏〈ねぎ・ひろし〉、山口圭三郎〈やまぐち・けいざぶろう〉訳(篠崎書林、1980年)以下同】

 諸法実相を覚知するためには諸法無我が前提となり、あるがままのものは諸行無常である。つまり諸法の実相を見ることが涅槃寂静なのだ。専門用語をひとつも使うことなく三法印をあますところなく説いている。

 ブッダとクリシュナムルティの不思議なる一致に私は恐れをなす。仏とはたぶん人を意味するのではない。それは「現象」なのだ。法が人の姿を通して現れた現象なのだろう。我々の瞳は光を捉えることができない。目に映るのは可視光線だけだ。月光や稲妻は塵(ちり)などに当たった光の反射であろう。ブッダとクリシュナムルティは人類にとって光であった。それゆえ「捉えた」(=わかった)と錯覚してはなるまい。

 我々は「【あるがままのもの】を【あるがまま】に認識」できない。その事実が延髄に衝撃を走らせる。アントニオ猪木の蹴りでさえ、これほどの衝撃を与えることはできない。私は「私」というフィルターを通して世界を見ているのだ。色眼鏡は暗く、鏡は歪んでいる。思考・解釈・類推が私の世界だ。不幸な者にとって世界は忌むべき対象であり、幸福な者にとっては揺りかごみたいな場所なのだろう。

 では「私」を通すことなく世界を見つめることは可能だろうか? 「可能だ」とクリシュナムルティは説く。ならばグズグズ理屈をこねることなく実践しようではないか。諸法無我に至った時、諸法実相が見える。その内容は『クリシュナムルティの神秘体験』に詳しく描かれている。

自我の終焉―絶対自由への道
J.クリシュナムーティ
篠崎書林
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2014-03-17

横田夫妻とキム・ウンギョンさんの面会が実現/『家族』北朝鮮による拉致被害者家族連絡会


 何ということであろうか。横田夫妻が失った時間はあまりにも長かった。初めて孫の存在を知った時、彼女は失踪した当時のめぐみさんと同じ年頃であった。そして遂に面会が実現すると、孫には小さな娘ができていた。横田夫妻の時計はめぐみさんが13歳の時から止まったままであった。孫のキム・ウンギョン(※後述)さんは26歳になっていた。


 偶然にも私は本書を読んでいる最中であった。本書は手記ではなくノンフィクションである。やはり手記だと感情がまさってしまう。北朝鮮による拉致被害は1963年の寺越昭二〈てらこし・しょうじ〉、外雄〈そとお〉、武志さん失踪に始まる。横田めぐみさんが忽然(こつぜん)と姿を消したのは1977年のことであった。その後1983年まで被害は続いた。「めぐみさんが北朝鮮にいる」と横田夫妻が知らされたのは1997年。失踪から既に20年を経過していた。それ以降も苦労は深まる一方であった。動かぬ政府、まともに取り合ってくれない官僚、そして絶えざる噂。読みながらこれほど泣いたのは東京HIV訴訟原告団著『薬害エイズ原告からの手紙』(三省堂、1995年)以来か。

 安明進〈アン・ミョンジン〉氏は後に名前も出して、北朝鮮の実態を暴く著書を出している。その中には、件(くだん)の実行犯から聞いた話として次のような話も登場する。

《……体格も一見して子供のようには思えなかったから拉致したと(その教官は)言った。ところが船に乗せると彼女があまりにも騒がしく泣き叫び抵抗するので、彼らはたまらず船倉に閉じ込めて清津(チョンジン=編集部注)まで帰還したという。船倉でも少女はずっと「お母さん、お母さん」と叫んでおり、出入口や壁などをあちこち引っかいたので、着いてみたら彼女の手は爪が剥がれそうになって血だらけだったという。少女が暗黒の船倉に一人きりで40時間以上も閉じ込められていたことを考えると、どんなに恐ろしかったことかと思わずにはいられない》

 この部分を読んだとき、早紀江は嘔吐(おうと)しそうになった。めぐみは、こんな酷(ひど)い目に遭いながら、よく生きていた。どうやって我慢したんだろう。だが、涙は流さなかった。心の奥底からわいてきたのは、深い深い怒りだった。

【『家族』北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(光文社、2003年)】

 早紀江さんは20年間にわたって泣き明かしてきた。街角で娘と似た女性を見つけては声をかけた。娘とよく似た絵を見ては画家の元まで押し寄せた。いつめぐみさんが帰ってくるかわからないから家を空けることもできなかった。滋さんの転勤も引き延ばしてもらった。そしていよいよ引っ越す際には心を引き裂かれる思いで移転先の住所を貼りつけておいた。心の穴ではない。この人たちは文字通り穴の中で生きてきたのだ。闇はどこまでも暁(あかつき)を退けた。

 早紀江は、話を聞くうちに、この安明進氏もまた国家によって工作員に仕立てあげられ、いまは亡命して北朝鮮に残してきた両親と兄弟を案ずる、“体制の犠牲者”なのだと感じた。別れ際、早紀江は彼にこう声をかけた。
「めぐみのことを、よく話してくださいました。私は毎日めぐみちゃんのことを祈っていますが、これからは、安さんのご家族のことも一緒にお祈りさせていただきます」
 早紀江が後に聞いたところによると、この日、安明進氏は拉致被害者の両親に会わせられるのだということを直前に知って、その場から逃げ出そうとしたという。自分は実行犯ではないが、かつて同じ組織にいた経歴の持ち主として、とても両親には会えないという思いだったのだろう。そして、面会後、安明進氏は早紀江の最後の言葉に号泣したという。この出会いが彼が自分の顔を出して拉致を語ろうと決意する大きなきっかけとなった。

 早紀江さんはクリスチャンとなっていた。涼やかな声からも人柄がしのばれる。傷つき痛みを知る者は人を思いやることができる。そして出会いが人の心を変える。

 そのキム・ヘギョンちゃんとの対面をめぐって、滋と早紀江、滋と息子たちの意見は対立している。滋の言葉からは情が滲(にじ)み出る。「家族会としては訪朝しないということになっていますが、個人的には、孫ですから会いたいし、私が向こうに行って会えば、めぐみのことについても、何らかのことは聞けると思うんです。最善のケースは、私の帰国と一緒に日本に連れてこられることなのですが……」。


 キム・ウンギョンちゃんはめぐみさんとよく似ていた。今26歳となった彼女に横田夫妻は成長しためぐみさんの面影を見たに違いない。そしてウンギョンちゃんは母親になっていた。何という天の配剤であろうか。子を持ったことで彼女は横田夫妻の気持ちを察することができただろう。今回の面会についてあれこれ詮索すべきではないと私は思う。もうこれ以上被害者の家族を傷つけることはあるまい。真相は不明のままだ。しかし祖父母と孫が見つめ合う視線の中に自(おの)ずから明らかな何かが通ったことだろう。それだけでよい。ただそれだけで。

家族

2014-03-16

戦後民主主義は民主主義に非ず/『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹

 ・戦後民主主義は民主主義に非ず

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

 戦後民主主義は、占領軍による強制というおよそ民主主義にふさわしくない方法で導入された。この尖鋭な矛盾が、「民主主義」の実質をその正反対のものに転化させた。これを「虚妄(きょもう)の民主主義」と称した人がいたが、「虚妄」などの生易(なまやさ)しいものではない。似而非(えせ)民主主義でもない。少しも似ていないからである。
 もっと悪いことに、日本人は少しも、この民主主義が、その正反対のものになりはてたことに気付いていないのである。また、「民主政治」最悪の衆愚政治に堕落したことを痛感していないのである。
 そのために、「平等」「自由」「人権」「議会」などの意味がとんでもなく誤解され、この誤解が教育の無間地獄をつうじて、おそろしい惨禍(さんか/わざわい)をまきちらしているのである。
 たとえば、「平等」の誤解は、「どの生徒にも同じことをさせる」という結果を生み、受験戦争を最終戦争にした。知的エリートを根絶させ、優者の責任(ノーブレス・オブリージュ)を埋没させて無責任体制を完成させた。「自由」の誤解は、権威と規範を失わせ若者を本能のままに放置する放埒(ほうらつ)となった。「人権」の誤解が殺人少年をのさばらせている。「議会」の誤解が、政治家を役人の傀儡(かいらい)にしている。
 民主主義教育の惨禍(さんか)は、新左翼の無目的殺人、カルト教団の無差別殺人と、とめどもなくエスカレートしていったが、ついに日本の舵(かじ)取りたる官僚制の究極的腐朽(ふきゅう)にいたった。この惨禍を激化しているのが凶悪犯罪の低年齢化である。
 今の日本にとっての急務(イマージェンシー)は、民主主義の真の理解である。

【『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹(青春出版社、1997年)以下同】

「架空デモクラシーは日本を廃人国家へと導く!」との帯が目を惹く。小室直樹の原論シリーズにはハズレがない。合理的かつ科学的である。

 私は民主制を信じていない上、悪しき制度であると考えている。そもそも「民主主義」という言葉自体が誤訳であろう。デモクラシーに「イズム」は付いていないのだから。住民自治程度の単位であれば民主制で構わないと思う。

 一応、選挙の投票と義務教育の学級会やホームルームで行われているのが民主制である。その他ではお目にかかったことがない。ただし民主制とはいえ、自由意志で投票判断することは考えにくい。業界団体や職場、あるいは教団の指示に従って投票しているだけのことだ。学校ではやはり友人の視線を気に掛けながら賛否を決めることだろう。コミュニティとは利益を共有する共同体であるため損得が優先される。政(まつりごと)はもともと祭り事であった。村から追い出されてしまえば祭りに参加することは不可能だ。村八分。

 民主とは名ばかりで、かつて私が主(あるじ)になったのは小学校4~6年生で学級代表を務めた時だけだ(笑)。そう。主には権力が必要なのだ。憲法すら形骸化するこの国で民が主となれるわけがない。

「民主主義」(デモクラシー)は、プラトン、アリストテレスの昔からずっとマイナス・イメージであった。それが、ウイルソン米大統領による第一次世界大戦における対独宣戦布告文にある「この世界をしてデモクラシーが住みよい所にするために」という宣言から、俄然(がぜん)プラス・イメージに転じたのであった。

 デモクラシーを鼓吹した連中も殆どが貴族制を支持していた(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。

 民主主義が華々しい服装で登場したのは20世紀になってからとは知らなかった。以下のページが参考になる。

『民主主義』(8) デモクラシーと進歩主義|Generalstab

 ただしアメリカの説く民主制はアメリカ独自のものでアメリカン・デモクラシーといってよい。学問的にも分けて考えられている。それも当然だ。インディアンを大量虐殺し、黒人奴隷を保有していた連中が説く「民主」なんて誰も信じないに決まっている。

 民主制が群衆の叡智(集合知は群衆の叡智に非ず/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン)を意味するなら、議会制を廃止してその都度インターネット国民投票で決めればよいことだ。運営コストも格段に安くなることだろう。

 私は政党政治にも嫌悪感を抱いている。党議拘束で所属議員を縛りつける政党が国民を縛るのは当然であろう。

 議論が成立する人数はどの程度であろうか? 私は20~30人くらいだと思う。だから政治家の数もその程度でよいのではないか? で、参議院は少し人数を増やして50人にすればよい。政党は廃止。賢人会議のようにする。議会はカメラが入り放題。議員は人口構成の世代別に準じて選別する。更に政治家は官僚の人事権を完全に掌握する。このくらいやらないと日本はまともな独立国になれない。官僚ファシズムは権力者の顔が見えない。そこが恐ろしい。

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2014-03-15

稀有な文章/『石に話すことを教える』アニー・ディラード


 ・稀有な文章

『本を書く』アニー・ディラード
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー
『悲しみの秘義』若松英輔

動物記』のアーネスト・T・シートンによると、ある人が空からワシを撃ち落とした。死骸を調べたところ、ワシの喉には干からびたイタチの頭蓋骨が顎でぶら下がっていた。想像するに、ワシがイタチに襲いかかるや、イタチはくるっと向きなおって本能の命ずるままにワシの喉に歯を立て、もう少しで勝ちをとるところだったのだろう。わたしは叶うものなら、撃ち落とされる何週間か何か月か前に、天翔けるそのワシを見たかった。ワシは喉元にイタチごとぶら下げて飛んでいたのだろうか。毛皮のペンダントかなにかのように。それとも、ワシはイタチを届くかぎり食べたのだろうか。胸元のかぎ爪を使って生きたまま内蔵をかき出し、首を折るように曲げて肉をきれいについばみ、美しい空中の骸骨に仕立て上げたのだろうか。

【『石に話すことを教える』アニー・ディラード:内田美恵〈うちだ・みえ〉訳(めるくまーる、1993年)以下同】

「イタチのように生きる」と題した一文を紹介する。40年以上に渡って本を読んできたが、これに優るエッセイはない。稀有(けう)といってよい。ソローの超越主義的臭みを感じた私は本書を読み終えてはいない。それで構わない。一篇の随想が稲妻のごとく私の背骨を垂直に貫く。


 彼女は数日前にイタチを見かける。

 4フィート先の、ぼうぼうに生えた野バラの大きな茂みの下から姿を現わしたイタチは、驚いて凍りついた。わたしも幹に坐ってうしろをふり向きざま、同様に凍りついた。わたしたちの目と目は錠をかけられ、その鍵を誰かが捨てたようだった。
 わたしたちの表情は、ほかの考えごとをしていて草深い小道でばったり出食わした恋人どうし、もしくは仇敵どうしのそれだったにちがいない。意識を澄ませる下腹への痛打か、あるいは脳への鮮烈な一撃か。それとも、こすりつけられた脳の風船どうし、出合いがしらに静電気と軋みを発したのか。それは肺から空気を奪い、森をなぎ倒し、草原を震わせ、池の水を抜き去った。世界は崩れ、あの目のブラックホールへともんどり打っていった。人間どうしがそんな見つめ方をすれば、頭はふたつに割れて両の肩に崩れ落ちるほかはない。だが、人はそれをせず、頭蓋骨は守られる。つまり、そういうことだった。

 正直に告白しておくと何も書く気がしない。ただテキストを抜き書きして紹介したい。しかしそれではブログの格好がつかないし、何といっても私の魂の震えが伝わらないだろう。

 ディラードの文章は瑞々しい静謐(せいひつ)に包まれている。そして一瞬の想像力が太陽に向かって跳躍する。その姿は逆光の中で鮮やかな影となって確かな姿を私は捉えることができない。だがそのスピードと高さだけは辛うじてわかる。彼女は「見る」という行為を限りなく豊かに押し広げ、そこに自分を躍らせるのだ。


 どのように生きるか。わたしは学ぶなり思い出すなりできたらと願う。ホリンズ池に来るのは、学ぶためというより、正直言ってきれいさっぱり忘れるためである。いや、わたしは野生動物からなにか特定の生き方を学ぼうなどとは考えていない。このわたしが温かい血を吸い、尾をピンと立て、手の跡と足の跡がぴったり重なるような歩き方をしてどうなるというのだ? けれども、無心ということを、身体感覚だけで生きる純粋さを、偏見や動機なしで生きる気高さを、いくらかなりとも身につけることはできるだろう。イタチは必然に生き、人は選択に生きる。必然を恨みつつ最後にはその毒牙による愚劣な死を遂げる。イタチはただ生きねばならぬように生きる。わたしもそう生きたいし、それはすなわちイタチの生き方だという気がする。時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず、与えられたものを猛烈な、思い定めた意志で選択する生き方だ、と。

「偏見や動機なしで生きる気高さ」「時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず」との文章がクリシュナムルティと完全に一致している(偏見動機気づき)。「時間と死に苦もなく開き」という言葉は作為からは生まれ得ない。すなわちディラードの文は生きる態度がそのまま表出したものであろう。本物の思想や言葉は生そのものから「滴(したた)り落ちてくる」ものなのだ。


 その機会を、わたしはのがした。喉元に食らいつくべきだったのだ。イタチの顎の下の、あの白い筋に向って突進すべきだった。泥の中だろうが野バラの茂みの中だろうが、食らいついていくべきだった。ただ一心に得がたい生を求めて、わたしたちは連れだってイタチとなり、野バラのもとで生きることもできたろう。ものも言わず、わけもわからずに、いたって穏やかにわたしは野生化することもできたろう。二日間巣にこもり、背を丸め、ネズミの毛皮に身を横たえ、鳥の骨の匂いを嗅ぎながら瞬きし、舐め、麝香(じゃこう)を呼吸し、髪に草の根をからませて。下は行くにいい場所だ。そこでは心がひたむきになる。下へは外へでもあり、愛してやまぬ心から外へ抜け、とらわれのない感覚へと戻ることである。

 見るものは見られるものである。瞳が捉えた対象との間に距離や差異は消え失せて完全にひとつとなる。ディラードの生とイタチの生はDNAのように螺旋(らせん)を描き、分かち難く結びつき新たな生命として誕生する。

 もうこれ以上は書かない。ただただアニー・ディラードの奏でる文章に身を任せ、堪能し、浸(ひた)り、溺れて欲しい。この随想はこう終わる――。

 そうすることもできたはずだ。わたしたちはどのようにも生きられる。人は選んで貧困の誓いを、貞節や服従の誓いを、はたまた沈黙の誓いを立てる。要は、呼ばわる必然へと巧みに、しなやかにしのび寄ることだ。やわらかい、いきいきとした一点を見つけて、その脈に接続することだ。それは従うことであり、抗うことではない。イタチはなにものをも襲わない。イタチはそう生きるべく生きているだけだ、一瞬一瞬、ひたむきな必然の、完全なる自由に身をゆだねて。
 自分のただひとつの必然をつかみとり、それをけっして手放さず、ただぶら下がってどこへなりと連れていかれることは、すばらしくまっとうで従順な、純粋な生き方ではないかと思う。そうすれば、どのように生きようが結局は行きつく死でさえ、人を分かつことはできないだろう。
 つかみとることだ。そしてその爪で空高くつかみ上げられることだ。両の目が燃えて抜け落ちるまで。おのが麝香の身をずたずたに裂かれ、骨は千々に砕かれ、野や森にばらかまれることだ。軽やかに、無心に、望みの高みから、ワシのごとき高みから。




ファーリー・モウェット、齋藤利男、ジャン・ジグレール、副島隆彦、佐藤優、響堂雪乃、他


 5冊挫折、8冊読了。

黒い怒り』W・H・グリアー、P・M・コッブズ:太田憲男訳(未來社、1973年/投資日報出版、1995年)/猿谷要著『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』で引用されていた一冊。良書。時間がないため半分ほどしか読めず。

生命文明の世紀へ 「人生地理学」と「環境考古学」の出会い』安田喜憲〈やすだ・よしのり〉(レグルス文庫、2008年)/たぶん創価学会主催の聖教文化講演をまとめた内容だろう。ちょっと媚び過ぎだと思う。最悪なのは村上和雄を引用していること。それだけでも、まったく読む価値のない疑似科学本だと言い切れる。好きな学者だけに落胆の度合いも深い。

世界を変えた10冊の本』池上彰(文藝春秋、2011年/文春文庫、2014年)/飛ばし読み。ラインナップがオーソドックス過ぎて興味が高まらず。

停滞空間』アイザック・アシモフ:伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、1979年)/ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック著『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』に引用されていた「最後の質問」だけ読む。

頭を5cmずらせば腰痛・肩こりはすっきり治る! 一日3分の姿勢矯正エクササイズ』綾田英樹〈あやた・ひでき〉(角川SSC新書、2012年)/3分の1ほど読む。文章はよいのだが、時折カイロプラクティックへの誘導が見られるのが難点。親切な営業マンっぽくて残念。

 11冊目『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(早川書房、2010年)/昨年読み終えたのだが書いていなかった。最新宇宙論のひとつ。ビッグバン理論およびインフレーションモデルに疑問を投げかけ、サイクリック宇宙論を提示する。宇宙は誕生したり滅亡したりしながら循環してゆくという話。泡みたいなものか。筆づかいが慎重なためドラマ性には欠けるが、それでも読ませるだけのわかりやすさがある。

 12冊目『相場サイクルの基本 メリマンサイクル論』レイモンド・A・メリマン:皆川弘之訳(投資日報社、1995年)/これは勉強になった。テクニカル派はやはりロジックが大切だ。

 13冊目『バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか』ジョージ・S・クレイソン:大島豊訳(グスコー出版、2008年)/原書は1920年刊。若い人にオススメ。この手の本は読んだ瞬間に思考回路が変わるようでなければいけない。意外と読み手を選ぶ本だと思う。

 14冊目『狼が語る ネバー・クライ・ウルフ』ファーリー・モウェット:小林正佳訳(築地書館、2014年)/カナダの国民的作家らしい。期待したほどではなかったが一日半で読み終えた。本当のことを書いておくと、テンプル・グランディン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』に「ヒトは狼から社会性を学んだ」とあったので、それを補強する材料を探しただけのこと。アニー・ディラードと比べると浅い。

 15冊目『2015年の食料危機 ヘッジファンドマネージャーが説く次なる大難』齋藤利男(東洋経済新報社、2012年)/これは面白かった。食糧モノを集中的に読み込んでいるのだが、アメリカが穀物を戦略物資と位置づけていることがよくわかった。

 16冊目『世界の半分が飢えるのはなぜ? ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』ジャン・ジグレール:たかおまゆみ訳、勝俣誠監訳(合同出版、2003年)/以前からタイトルは知っていたが読むのが遅れた。先ほど読了。やはり合同出版は気骨がある。最初は舐めてかかっていたのだが大間違いだった。食糧モノの筆頭第1冊目に推す。 今後ネスレ商品は一切購入しないことを決意した。

 17冊目『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(日本文芸社、2008年)/一気読み。佐藤優は明らかに真っ向勝負をしていない。「受け」に徹している。そのためか副島も礼儀正しく誠実な話しぶりである。書評済

 18冊目『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(ヒカルランド、2012年)/いやあ知らなかった。こんなブロガーが存在したとは。全国紙系列の広告代理店で編集長を務めた人物で著者名はハンドルと思われる。タイトルと各章の見出しだけで読書意欲が湧く。何と言ってもジャン・ボードリヤールを思わせる華麗な文体が凄い。文章の圧縮度が高く、説明能力が引用文献を上回り、あらん限りの力で警鐘を乱打している。該当ブログの記事は既に削除された模様。著者は男性のようだ。唯一の瑕疵は参考文献が手抜きなところ。ナオミ・クラインを挙げていないのはおかしい。

2014-03-14

システマのナイフディフェンス


 先日、千葉県柏市で連続殺傷事件が起こった。日本では銃を規制されているため、通り魔はナイフを使用すると考えてよい。もちろん我々素人が咄嗟(とっさ)に対応できるとは思えないが、やはり学習しておくに限る。家族と同居している人は実際に練習してみるとよいだろう。知識がなければ身体は動かない。














(11分10秒から)

官僚は増殖する/『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン


『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ
『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 ・官僚は増殖する

『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ

 そこで技術的な点を省略し(実は非常に数多いが)、まず次の二つの動因を特に考えてみることにしよう。それらはさしあたり、次の二つの公理的ステートメントでいいあらわされる。すなわち、(1)役人は部下を増やすことを望む。しかしながら、ライヴァルは望まない。(2)役人は互いのために仕事をつくり合う。
 第一の素因を理解するために、自分の仕事が過重であると感じている一人の公務員について考えてみよう。この人物をAとする。仕事の過重の真疑(ママ)は問題ではないのだが、一応このAの感じは自分の精力の減退、つまりいわゆる更年期障害からくるものとしよう。この場合の処方は大ざっぱにいって三つある。すなわち、辞めるか、同僚Bと仕事を分ち合うか、あるいは二人の部下CおよびDの助力を求めるかである。しかし、実はAがこの第三以外の方法を選ぶ例は、歴史的にみても、ほとんどない。辞めれば恩給がもらえなくなるし、Bを自分と同列に入れれば、いずれW氏が引退するときにそのあとをつぐライヴァルをつくることになる。したがって、AがCおよびDなる後輩を自分の部下にしたいと考えるのはむしろ当然である。二人の部下は自分の重要さを増し、仕事を二つに分けてCとDとに分担させれば、自分だけ両方のパートに精通しているただ一人の男になりうるのである。CとDと、どうしても二人必要だということは重要な点である。Cだけを入れることはできない。何となれば、C一人を入れ、仕事の一部をさせれば、Cは、さきにBの場合にみたように、自分をAと同列の地位にあるように考えだす。もしCがAのたった一人の後継者だとしたら、問題はさらに深刻である。したがって部下の数は常に二人以上で、互いに他の昇格をおそれさせるようにそておかねばならない。そのうちやがてCがその仕事の過重を訴えてくるようになったら(必ずそうなるであろう)、Cとの協力で、さらに彼を助ける二人の助手、EおよびFを入れるべく意見具申をし、かつまた内部摩擦をさけるため、Dにも二人の助手、GおよびHをつけるよう意見具申をする。こうして、E、F、G、Hの採用に成功すれば、Aの昇進はもはや疑いの余地はない。

【『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン:森永晴彦訳(至誠堂、1965年)以下同】

 シリル・ノースコート・パーキンソンはイギリスの政治学者・経済学者である。パーキンソンの法則を端的に表現すると次のようになる。

第一法則:仕事は、その遂行のために利用できる時間をすべて埋めるように拡大する。
第二法則:支出の額は収入の額に達するまで膨張する。
第三法則:拡大は複雑化を意味し、組織を腐敗させる。

情報システム用語事典:パーキンソンの法則

 1955年(英国『エコノミスト』誌 11月19日号)に発表した風刺コラムが税金に寄生する官僚の実態を見事に暴く。そしてステレオタイプ化された様相が笑いを誘う。巨大組織は官僚を必要とするが、官僚はどこの官僚も同じ表情をしている。

「裸の王様上司」は「ヒラメ部下」によってつくられる

 事なかれ主義と不作為(『国家の自縛』佐藤優)が官僚の自律神経として働く。引き続き著者は官僚が増殖する様をコミカルに描く。

 こうして、前に一人でやっていた仕事を、7人の人間がやることになった。ここで、第二の要因が働きだす。すなわち、7人の人間は互いに仕事をつくり合い、Aは事実上、前にも増して忙しくなる。1通の受入書類は、彼等のあいだを次々にまわって行くこととなる。まずEがその書類はFの管轄に属することを定め、Fはその回答の下書きをCに提出し、CはDに相談する以前にそれを大幅に修正し、Dはこの問題についてはGに取扱いを命ずる。ところが、Gはこれから出張なので、Hにファイルをわたす。Hは覚え書きをつくり、Dがそれにサインをし、Cにわたす。Cはそれを見て、前の下書きを改訂し、その改訂版をAにもって行く。
 さて、Aは何をするか。いまこそ彼にはメクラ判を押す口実がヤマとある。つまり一人であまりにも多くのことを考えなければならないからだ。来年Wのあとをつぐことになっているので、CかDのいずれかを自分の後任にきめなければならない。またAはGの出向に、必ずしもというわけではないが、同意せねばならない。もしかしたら、健康上の理由からはHをやった方がよいのかもしれない。彼はこのごろ顔色がすぐれない。家庭的な事情もあるらしいが、必ずしも、それだけでも(ママ)ないらしい。それからFの給料を会議の期間中にましてやらねばならない。Eは恩給局に転勤希望を申しこんできている。Dが夫のあるタイピストと恋愛しているということをきいていたし、GとHが絶交中だという話もある。(しかも理由を知ったものは誰もいないというのだ)。こういうわけだから、AはいまCのよこした文書にただサインだけして片付けてしまいたいところである。だが、Aには良心がある。彼は、彼の仕事仲間が、みんなや自分のために作り出してくれたさまざまの問題、つまり、これらの役人がいるということだけのために生じてきた問題に悩まされながらも、その義務を怠るような男ではないのである。彼は注意ぶかくその文書を読み、CおよびHによってつけ加えられた気に入らぬ部分をけずり、結局、少々喧嘩早いが有能なFによって最初にきめられた形にもどしてしまう。彼は英語を直し――近ごろの若いものときたら、英語もろくすっぽ書けない――そして、公務員C、D、E、F、G、Hはまったく不必要な存在であったかのように、回答を作成する。だが、もっとずっと多くの人びとが、これよりもはるかに多くの時間をかけて同じものを作っていることもある。ここでは誰一人として怠けた者はいなかった。全員がベストをつくした。そしてAが退庁し、イーリングの自宅に向って帰途につくときには、もう日は暮れかかっている。オフィスの最後の灯は、また今日も長い労働の一日の最後をマークする薄明の中に消されて行く。最後に退庁する人群れにまじって、Aは肩を丸め、ゆがんだ微笑をうかべながら思う。頭が白くなるのと同じように、時間がおそくなるのも、成功の代償のひとつなんだな、と。

 失礼。面白いあまり引用が止まらなくなってしまった。だが笑ってばかりもいられない。ブラックユーモアを真面目に実行する彼らが複雑怪奇な法制度や経済システムを構築し、国民の資産を税金という形で天下り先に流しているのだから。

 日本の場合、事実の上で官僚が三権を支配している。ここに大鉈(おおなた)を振るわない限り、民主主義が実現することはあり得ない。各省庁に稲盛和夫のような人物を社外取締役に任命し、国民が直接監査する制度が必要だと思う。


国を賊(そこな)う官僚/『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一

パレートの法則/『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ


『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ
『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル
『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン

 ・パレートの法則

『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ

 80対20の法則とは、投入、原因、努力のわずかな部分が、産出、結果、報酬の大きな部分をもたらすという法則である。たとえば、あなたが成し遂げる仕事の80%は、費やした時間の20%から生まれる。つまり、費やした時間の80%は、わずか20%の成果しか生まない。これは、一般の通念に反する。
 投入と産出、原因と結果、努力と報酬の間には、どうにもできない不均衡があり、その不均衡の割合はおおよそ80対20なのである。投入の20%が産出の80%、原因の20%が結果の80%、努力の20%が報酬の80%をもたらす。

【『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ:仁平和夫〈にひら・かずお〉、高遠裕子〈たかとお・ゆうこ〉訳(増補リニューアル版、2018年/阪急コミュニケーションズ、2011年/阪急コミュニケーションズ旧版、1998年)以下同】

 この法則を発見したのはイタリアの経済学者ヴィルフレード・パレートで1897年のこと。パレートの法則は、80対20の法則、最小努力の法則、不均衡の法則などとも呼ばれる。基本的な原理は以下のページがわかりやすい。

パレートの法則

 自由競争や合理化の限界を示しているようで面白い。生産性を旨とするコミュニティは不均衡によって支えられているとも考えられよう。ただし資本主義は不当な格差を生んでしまった。自由な社会とは正当な格差に基いて、上位20%の人々が貧困者に対してスポンサーシップを発揮するスタイルであろうか。勤勉な20%のアリが富を独占することは決してない。

 パレートの法則は所得分布の経験則にすぎない。ただし汎用度が広い。

 ビジネスの世界で、この80対20の法則がはたらいている例は枚挙にいとまがない。通常、売り上げの80%を占めているのは、20%の製品、20%の顧客である。利益をとってみても、この比率に変わりはない。
 社会をみると、犯罪の80%を20%の犯罪者が占めている。交通事故の80%を20%のドライバーが占め、離婚件数の80%を20%の人たちが占め(この人たちが結婚と離婚を繰り返しているため、離婚率が実態以上に高くなっている)、教育上の資格の80%を20%の人たちが占めている。
 家庭をみると、カーペットの擦り切れる部分はだいたいいつも決まっていて、擦り切れる場所の80%は20%の部分に集中している。これは衣類についても同じだろう。侵入防止の警報装置があるとすれば、それが誤作動する80%は、あらゆる問題のうちの20%が原因で起こる。
 エンジンをみても、80対20の法則がみごとにはたらいている。燃料の80%は無駄になり、車輪を回しているのは、燃料の20%だけなのだ。この場合、投入の20%が産出の100%をもたらしている。

 ビジネスシーンでは苦情の80%は20%の事柄に集中していると考え、解決策の優先順位を決めやすい。それとは反対にネット通販ではロングテールという手法を用い、80%部分を充実させることで20%部分を伸ばすモデルも登場した。

 ここで恐ろしい想像をしてみよう。ひょっとすると機能する社会とは、20%の優秀な人々と60%の一般人と20%のダメ人間で構成されるのかもしれない。私は民主制よりも貴族制(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)を支持しているのでわかりやすい構成といえる。世界の混乱は貴族階級(上位20%)がノブレス・オブリージュの精神を失ったところに原因があるのだろう。強欲が人類を滅亡へといざなう。その強欲に翼を与えたのはミルトン・フリードマンであった。

2014-03-13

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 宗教はとりわけ、共同体のメンバーが互いに守るべき道徳規範を示し、社会組織の質を維持する。まだ市民統治機構が発達していなかった初期の社会では、宗教だけが社会を支えていた。宗教は、同じ目的に向けた深い感情的つながりをもたらす儀礼をつうじて、人々を束ね、集団で行動させる。
 したがって、単独で存在する教会はない。教会とは、同じ信念を持つ人々が作る特別な集団、つまり共同体である。その信念はありふれた無味乾燥なものの見方ではなく、深い感情的つながりを持つ。象徴的儀礼や、合唱や一斉行動のなかで共通の信念を表現することによって、人々は、自分たちを共同体として束ねている共通の信仰に深くかかわっているという信号を送り合う。宗教(religion)という語が、ラテン語で「束ねる」を意味する religare からおそらく派生しているのは、この感情的な結びつきのためかもしれない。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】

 余生が少なくなってきたので(あと30年くらいか)重要な書籍からどんどん紹介してゆこう。進化宗教学の地平を拓いた一書である。「宗教とは何か?」で順序を示してあるので参照せよ。相対性理論や数学の知識がある人は小室直樹から始めてよろしい。このラインナップですら省(はぶ)いている書籍は多い。本来であればやはり「キリスト教を知るための書籍」から入るのが正しい。流れとしてはキリスト教→科学→宗教→仏教&クリシュナムルティという順序が望ましい。ま、所詮は感性の問題であるが。

 人間と動物を分かつのは宗教行為である。政治や経済は類人猿にも存在する(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。だが死を悼(いた)み、死者を弔(とむら)い、遺体を埋葬し祈りを捧げるのは人類だけだ。宗教行為は「死の認識」に基づく。

 ヒトのコミュニティが巨大化して国家にまで至ったのはなぜか? それは「悲しい」という感情を共有したためと考えられよう。「悲しみ」はたぶん後天的な感情だと思われる。既に学術的価値がないとされるJ・A・L・シング著『野生児の記録 1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記』(福村出版、1977年/原書は1942年)にもそのような件(くだり)があった。

 北朝鮮の国家主席が死亡した際に登場する泣き女もシャーマン(巫女)と関係があるのではないだろうか。

「笑い」が知的行為で人によって異なるのに対して、「悲しみ」の感情は同じ場面で現れる(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)。つまりコミュニティとは「悲しみを共有する」舞台装置なのだろう。オリンピックがその典型であろう。浅田真央が転んだと聞けば、オリンピックをまったく見ない私ですら悲しくなる。国家は感情を分断する。戦争が国家単位で行われるのも不思議ではない。

 世界宗教と呼ばれるような宗教でも教義解釈によって絶えず分派を繰り返す。国家であろうと宗教であろうと権力は必ず腐敗する。その悪臭の中から必ず原点回帰運動が起こる。そして叫ばれた「正義」が人々に受け入れられると一気に暴力行為が花開くのだ。

 宗教の語源については以下も参照せよ。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 細切れの時間で書いたため取りとめのない文章となったが今日はここまで。あと10回か20回は紹介する予定だ。

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
ニコラス・ウェイド
エヌティティ出版 (2011-04-22)
売り上げランキング: 55,882

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
『歴史的意識について』竹山道雄

今枝由郎訳『ダンマパダ』『スッタニパータ』(トランスビュー、2013年、2014年)

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

 ブッダは難しい仏教語ではなく、誰にもわかるふだんの言葉で説いた。やさしい日本語で読める。絶望にとらわれず、欲に振り回されず、気持ち安らかに、こころ豊かに、より良く生きるための珠玉の実践法。

日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉

 最初期に編まれた経典・スッタニパータから、ブッダの教えにせまる核心と日常生活における心がけや実践にかかわる部分を抄訳。覚者・ブッダから、貪欲な人、怒りっぽい人、迷っている人、愛しすぎる人、快楽に弱い人、苦しみをかかえた人への最良の処方箋。

若松英輔
神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳

2014-03-12

「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ


 わたしたち人間のユニークさというのは単に、人間がこうした所説を語るという事実、しかも自分自身にこうした所説を信じ込ませることが実際にできる、という点にある。もし、わたしが人間の定義を一言で表現しよとするなら、次のようになるだろう。「人間とは、自分自身について自分が語る所説を信じる動物である。人間というのは、根拠なしに軽々しく信じやすい動物なのだ」と。
 昨今の暗い時代にあって、わたしたちが自分自身について語る所説が、ある人間と別の人間を差別する最大の源になり得る、ということを強調することはないだろう。信じやすい性質はしばしば、ほんの一歩で敵意に変わってしまうのだ。

【『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ:今泉みね子訳(白水社、2010年)】

 知識という知識は未来の予測を目指す。農耕という文明は食糧を蓄えるところに目的があったのだろう。人間と動物の差異に注目するのは欧米の文化だろう。我が国の場合はむしろ日本人と外国人の違いを巡る議論が多い。

 キリスト教では神に次ぐ位置にいるのが人間のため、動物を下等なものに貶(おとし)めることで神に近づけると思っているのだろう。その思い上がりが世界を混乱に導いている。

 信じる行為はコミュニティ化、社会化が進むに連れて広範な領域に及んだ。信頼関係があればこそ分業が成立するのだ。我々の生活は食べ物から乗り物に至るまで殆どを他人の手に委ねている。原子力発電も安全だと信じてきた。いまだに信じている人々も多いようだが。

 信じるという点では洋の東西に大差はない。「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱といってよい。「薬の効力を調べる場合、『使った、治った、効いた』という『三た』式思考法は危険なのだ」(『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎)。祈った、治った、効いたという思考法はいかがわしい健康食品の類いと一緒である。

 テンプル・グランディンが動物にも確証バイアスがあることを示した。私はここに宗教発生の源があると考えている(宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン)。

 我々が信じて疑わない最大級のものは宗教と国家であろう。そしてこの二つは憎悪生産装置として作動する。ウェブ上における信者の言動を見れば一目瞭然だ。彼らは罵倒・中傷・讒謗(ざんぼう)に生き甲斐を見出しているかのようだ。争え、争え。もっと争え。そしてさっさと滅ぶがいい。

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
マーク ローランズ
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