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2009-08-21

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

 ・愛国心への疑問
 ・ギネス認定はインチキ
 ・個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
 ・無投票の権利
 ・勝ち上がってくる力士
 ・長時間睡眠自慢

『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 かつて掲示板上で愛国心についてやり取りしたことがある。随分前の話だ。愛国心について否定的な論調を私が書いたところ、「あなたに愛国心はないのか?」と質(ただ)された。すかさず「ないね」と応じた。この時、本当に愛国心がないことを自覚した。

 これは、私が道産子であることも関係していると思う。北海道では学校行事において「君が代」を歌う場面がほぼ完全にない。私の場合だと、中学の音楽の授業で歌ったことが一度あるだけだ。だから今でも「君が代」を歌えない。ちなみに「蛍の光」を歌うことも殆どない。私が通った中学の卒業式では、原語で「ハレルヤ・コーラス」を卒業生が歌うのが伝統となっていた。合唱の盛んな学校だったのだ。

 愛国心――ないね。どこを探しても爪の垢ほどもないよ。愛郷心はある。愛町内会心もある。愛国心を売り物にしている連中を見ると、私はどうしようもない嫌悪感を覚える。「だったら、自衛隊に入れよ」と言いたくなる。

 更に二つばかり理由がある。一つは私が海外へ行ったことがないため、日本と外国を比較しにくいこと。つまり、日本人であることを強く自覚する経験が乏しいのだ。

 もう一つは、国から何かをしてもらった記憶がない。「お前な、道路や空港を作ったのは誰だと思ってるんだ?」と言われればそれまでなんだが、如何せん日本国に対して「ありがとう」と思ったことがないのだから仕方がない。例えば、ヨーロッパの一部の国のように無料で高校や大学に行けたり、他国からの侵略行為を防いでもらったりしていれば、愛国心が芽生える可能性もあったことだろう。でも、どちらかといえばやっぱり「税金ばっかり取りやがって」という不満の方が多い。

 小田嶋隆が愛国心をバッサリと斬り捨てている――

 S誌に目を通す。巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ? 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か? でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か? はっきりさせてくれ。なにしろ命がかかってるんだから。
 もうひとつ。
「死ぬ」というのはどういうことだ? 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ? そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。
 もうひとつある。「国のため」と言う時の「ため」とは、実質的にはどういうことなんだ? 防衛? それとも版図の拡大? 経済的繁栄? あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か? いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。
 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 こんなコラムを巻頭に掲載するのは『諸君!』(文藝春秋)か『正論』(産経新聞社)しかないわな。右寄りの論調というのは愛国心を当然の前提とし、そこに思い切り寄り掛かっている。愛国心を疑ったり、まして愛国心のない野郎は国賊と評価される。

 しかしながら、愛を強制することはできない。街で擦れ違った見目麗しき女性に対して、「あなたは私を愛すのが当然だ」と言っても通用しないのと同じだろう。その昔、『愛される理由』というタイトルの本があったが、確かに愛されるには何がしかの理由や根拠が必要だ。

「国」というのは何だ?
 君たちの想定する「国」と革命分子の想定する「国」が違うものなのだとしたら、そりゃ単に内乱ってことにならないか? 逆に訊ねるが、君たちは、国民に死を要求するような国に対して忠誠を尽くすことができるのか? ついでに言えば、君たちが二言目には口にする「愛する者や家族が目の前で殺されているのを黙って座視するのか」式の設問は、無効だよ。覚えておくといい。質問は、答えを限定する。より詳しく言うなら、質問というのは、時に、回答の思考形式を限定するための手段として用いられるということだ。

 この指摘は実に鋭い。例えば、生まれたばかりの赤ん坊がパレスチナ人であるという理由だけでイスラエル人の手で殺されている。そして、まだお腹の中にいる胎児まで殺されている。殺された赤ん坊に国家という意識があるはずもないし、人種すら自覚していない。結局、国家意識というのは後天的に教育されるものだ。言語を始めとする文化や風習に馴染み、自分がコミュニティの一員であるという自覚が生まれた後に、「異質な別世界」を実感できるようになる。

 戦争が国家単位で行われている事実を踏まえると、国家という単位はない方がいいかもしれぬ。

 枠組みは常に悪用される。「国を守る」ということと「家族を守る」ということが無批判に同一視されているような質問は、発せられた時点で既に罠だってことだ。家族が暴漢に襲われている状況と国が戦争をしている状況は同じものではない。それどこから、逆かもしれない。だって、相手の国にとっては、暴漢はこちらということになるからね。つまり、君たちの質問の意図は、仮想敵国を強盗殺人犯に仕立て上げるところにあるわけで、国防とはまったく関係がないのだよ。
 兵隊が何を守るか知っているか? 国土?
 ははは。幸運な場合、結果として兵隊が国土を守ることもあるだろう。
 しかし、たいていの場合、兵隊が守るのはなによりもまず、軍隊の秩序であり、上官の命令だ。
 そして軍隊の機能はなによりもまず殺人であって防衛ではない。殺人が防衛の手段になるということが事実であるにしろ、軍隊の本意は防衛にはない。あくまでも殺人ということが彼らの動機であり目的であり存在意義です。さらに言うなら、その軍隊が命にかえて防衛するのは、国民の安全ではなくて、権力者の意志だよ。権力者の意志が国防にあればそれでいいじゃないかって?
 そうかもしれない。しかし、その権力者と対立する陣営の権力者の意志もまた国防にある。そして、国防という概念は敵の側から見れば侵略と区別がつきにくいものだ。ってことは、忠良な国民をかかえた2人の権力者は、自分の国防のために互いに侵略をし合うことにならないか?
 国のために命を捨てるのはけっこうだ。が、それが相互侵略のためだとしたら、犬死にどころか無理心中じゃないか。

 戦争の欺瞞を見事に暴き出している。俗に愛憎は紙一重と言う。であれば、愛国心とは他国を敵国と仮想することで成り立っているのかもしれない。とすると、権力者にとっては近隣諸国に敵国が存在した方が都合がいいとも考えられる。

 確かにそうだ。北朝鮮がテポドンを北海道に落としたら、私はたちどころに愛国者となるだろう。北朝鮮に対する憎悪を燃やした瞬間に、私の中の日本人が目を覚ますのだ。単純なもんだね。いや、ホントの話。恐ろしくなってくるよ。

 それでも人類が戦争をやめることはないだろう。戦争こそは人類の業(ごう)なのだ。だから、いっそのこと大掛かりな「戦争シミュレーションゲーム」を開発すればいいと思う。実際の戦争と同じように国会を召集し文民統制の下、自衛隊が戦略を練る。保有する武器や兵力もそのまま反映させて、ネット上のゲームで勝敗を決する。コントローラーを握るのはもちろん首相や大統領だ。

 これが実現すると選挙運動も大きく変わってゆくことだろう。ま、首相はアキバ系で間違いなし。指にはタコができている。また、数ヶ月前まで引きこもりだった青年が突如、首相になることも考えられる。

 皆が手を取り合う平和よりも、犠牲者の少ない戦争のあり方を模索した方が実行可能な気がしてくる。



小田嶋隆『イン・ヒズ・オウン・サイト』│mm(ミリメートル)
民族という概念は「創られた伝統」に過ぎない/『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優
民族という概念は18世紀に発明された
ポピュリズムによるナショナリズムの昂揚
戦争は「質の悪いゲーム」だ/『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編

2009-06-26

「お年寄り」という言葉の欺瞞/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・[https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_95.html:title=『コンピュータ妄語録』小田嶋隆]
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 小田嶋隆のデビュー作にして最高傑作。オダジマンの若さが、ストレートな毒となって疾走している。世の中を斜めに見上げる視線が冷ややかさを湛(たた)えて、反骨の域に達している。そして時折、街の光景をハードボイルドのように描いてみせる。駄洒落や下ネタは、江戸っ子特有の照れ隠しであることが察せられる。

 小田嶋は「お年寄り」という言い回しに隠された欺瞞を暴く――

「田中さんのご長男は弁護士になったんですって」
「田中さんのご長男は大学教授になったんですって」
「田中さんのご長男は八百屋さんになったんですって」
「田中さんのご長男は大工さんになったんですって」
 ここで「さん」のついている職業と、ついていない職業を比べてみるとそのあたりの事情が良く分かる。我々は時々、軽蔑していることを隠すために丁寧語を用いるのである。
「お年寄り」という言い方にも私はひっかかる。ニュースのアナウンサーは「学生」を「学生さま」と呼んだり「子供」を「お子様」と呼んだりしないのに、ことさらに年寄りだけを「お年寄り」と呼ぶ。たぶん心のどこかに「老いぼれ」「くたばりぞこない」「よいよい」「人間の残骸」といった気持ちがあるから、尊敬語を使ってバランスを取らなければならないのだ。
 最近では「老人」を「老人」と呼ばずにすますために「熟年」とか「実年」とかいった言葉が発明されている。が、実際に使ってみるとますます皮肉に響いてしまうだけだ。早い話が「うんこ」を「うんこちゃん」と呼んでみてもうんこはうんこだし臭いものは臭いのである。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 そして中年期になった今でも尚、少年の心を失っていない私のような読者が痺れるのは、うんこネタとゲロネタである(笑)。少年は汚いものを愛する。なぜなら、心の奥底でうんことゲロが最終兵器であると固く信じているからだ。もしも、放射能とうんこを並べられたら、私は間違いなくうんこを怖れることだろう(←ウソ)。

 で、お年寄りだ。昨今の年寄りは若くなった。ジイサンもバアサンもファッショナブルである。特に女性の場合、たとえ結婚をしたとしても30代、40代からシミ・そばかす対策に身をやつし、理想的な体重を維持し、颯爽と流行の髪形をあしらっている人が多い。そして、いよいよ50代に突入すると、「アンチエイジング」と来たもんだ。「抗老化」「抗加齢」だってさ。ケッ。

 自分の年齢が戦うべき対象であるならば、小学生は老成を目指すべきなのだろう。目尻には墨でシワを描き、額には梅干しをセロテープで貼り付け、背中を丸めてゴホゴホと咳込み、カァーーーッ、ペッと痰を吐くのがアンチエイジングといえる。ま、女子高生の化粧や茶髪なんぞはそれに近いのかもね。若さの否定は実に滑稽だ。じっとしていたって大人になれるんだけどね。

 かように自分の年齢と戦うことは愚かだ。死という人生の最終章から目を背け、若く「見せる」ことにいかほどの意味があるというのだろうか。ないね。これっぽっちも意味はない。そんなに見栄えをよくしたいのであれば、着ぐるみでも被(かぶ)ればいいのだ。

「若々しい」のと「若く見せる」のとは違う。大体だな、外見ばっかり気にするのは中身がない証拠なんだよ。真のアンチエイジングは、躍動する精神と柔軟な思考に宿るのだ。昨日の自分よりも今日の自分を新しく変革する努力の中に存在するものだ。更に、貫禄と気品が備われば言うことなしだ。

 年を取っているだけの、古いうんこみたいな年寄りにだけはなりたくないものだ。

2008-12-05

メディアは“下水管”に過ぎない/『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆


 この間読んだ『パソコンは猿仕事』(小学館文庫、1999年)がつまらなかったので、少し前に読んだものから紹介しよう。

 ちなみに「メディアはメッセージだ」というのは、恥知らずな広告屋が言い出したハッタリだ。スピーカーが音楽でなく、キャンバスが絵でないように、メディアは、結局、通路以上のものでない。通路という言い方が不満なら「メディアは下水管だ」と言い替えても良い。要するに、あんたたちは、うんこだ。

【『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆(翔泳社、1995年)】

 確かにそうだ。流れているものが悪臭を放っているのだから、メディアは下水管といえるだろう。芸能界の下劣な噂話、昼メロにおける畜生さながらのイジメと自由奔放な恋愛、テレビ局の意向に沿ったコメントを繰り返すコメンテーター、記者クラブで発表された官僚からの情報を垂れ流すだけのニュース番組、そして、みのもんた……。ギャラのためなら寿命を縮めても構わないといった魑魅魍魎どもが蠢(うごめ)くヘドロみたいな世界だ。

 大体、濡れ場を演じる女優と売春婦のどこが違うと言うのか? みのもんたに愛想を振りまくTBSの女子アナと、ジャイアンにおべっかを使うスネ夫に差はあるのか?

 そんなテレビを楽しむあなたは、下水管に棲息するドブネズミのような存在だ。もはや、汚水の悪臭すら気にならなくなっていることだろう。私は違うよ。ちゃあんと鼻をつまみながらテレビを観ているもんね。

 しかも、だ。私は今年、NHKの「おはようにっぽん」から出演依頼を受けたのだが、きっちりと断わっておいたのだ。私をテレビに出すとすれば、番組そのものを依頼するしか手はないよ。NHKの名誉のために言っておくが、スタッフは低姿勢で誠実な人物であった。こっちは、べらんめえ調で話していたにもかかわらずだ。

 芸能人なんてえのあ、所詮、川原乞食の末裔に過ぎない。そんなものにうつつを抜かしているようでは先が知れている。

『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
なんとなくインチキ臭い/『メディア論 人間の拡張の諸相』マーシャル・マクルーハン
あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

2008-10-21

洗練された妄想/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆


 小田嶋隆のコラムデビュー作。まあ凄いよ。150kmのナックルボールと言ってよい。電車の中で読んだら、間違いなく白い目で見られることだろう。噛み殺せる程度の笑いじゃ済まないからだ。本を読んで、これほど笑い転げたのは初めてのことだ。

「何を探してるの?」
 秋葉原の電気街をぶらついていると、店のお兄ちゃんが行く手をさえぎっていきなり話しかけてくる。
 たとえば、ここが秋葉原でなく、話しかけてきたのがパンチパーマでなく、私が私でないのならこの質問にももう少し答えようがある。仮に私が砂浜で桜貝を集めている傷心の男で
「何かお探しのものですか」
 と声をかけてきたのが妙齢の女性ということにでもなれば、私も確信を持って
「未来を探しているのです」
 と答えることができる。すると彼女は花のように笑ってこう言う。
「それで、もうお見つけになって」(育ちが良いのだ)
 そこで私は、たっぷり2秒間彼女の目を見つめたあとにこう言う。
「たったいま見つけたところです」
 ところがここは秋葉原で、話しかけてきたのはパンチパーマで、私はといえば桜貝で癒せるような傷心は持っていない(赤貝でもやっぱりダメだ)。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 妄想は、想像の母だ。そして、想像は創造と婚姻関係にある。とすると、全ての芸術は妄想の孫と言ってよい(よいわけねーだろーが)。

 秋元康の向こうを張るほどの臭さだ。だが臭さを極めてしまえば、ドリアンや銀杏のように多くの人々を魅了してしまうのだ。そして、小田嶋隆の妄想は、秋元よりも洗練されていて文学的だ。その上、オチもある。

 人は笑うと無防備になる。笑いは心を開放するからだ。オダジマンはそこに毒を吐きつける。揶揄・嘲笑・愚弄という成分の毒が全身に行き渡り、読者は餌食となる。小田嶋隆は、現代という砂漠を駆け抜けるサソリだ。