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2011-07-21

人間は人間にとって鏡なのである


 人間は人間にとって鏡なのである。鏡というものは、物を光景(スペクタル)に、光景を物に変え、私を他人に、他人を私に変える万能魔術の道具なのだ。これまでもしばしば、画家たちは鏡について思いを凝らしてきた。それというのも、彼らは遠近法というトリックのばあいと同様に、鏡というこの「機械的トリック」のもとでも、〈見る者〉と〈見えるもの〉との転換を認めたからであり、そしてこの転換こそ、ほかならぬわれわれの肉体の定義であり、また画家の使命の定義なのである。

【『眼と精神』M・メルロ=ポンティ:滝浦静雄、木田元〈きだ・げん〉訳(みすず書房、1966年)】

眼と精神

2010-09-07

父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス

 ・父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威

『マインド・コントロール』岡田尊司

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 学問の本質は「謎を解く」ことにある。「なぜ世界はこうなっているのか?」という疑問に対し、より多くの人々が納得のゆく“新しい物語”を示すことこそ学問の王道であろう。もっと具体的にいえば、脳内の情報空間がすっきりと整理され、より合理的になることを意味する。

 ロジックの力業(ちからわざ)が凄い。「権威という犯人を追いつめる本格推理小説」として読むことも可能だ。

 スタンレー・ミルグラムの『服従の心理』を読んだ人は必読である。本書は政治哲学なので、より抽象度が高い。一読しただけで自分が天才になったかのような錯覚を与えてくれる(笑)。

 フランソワ・レテの緒言が長文で、尚かつ本文中に山ほど脚注があるが、いずれも功を奏していて、思索のアクセントになっている。

 権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)以下同】

 ポイントその一──権威(オーソリティ)は権力(パワー)ではない。相手が自発的に従うのが権威である。

 本書は1942年にドイツ占領下で書き上げられたという。コジェーヴはロシアで生まれ、ドイツ、フランスへと移住している。一方、ミルグラムがアイヒマン実験を行ったのは1963年で、『服従の心理』を著したのが1974年のこと。

 奇妙なことだが、権威の問題と概念はこまでほとんど研究されてこなかった。権威の移転や権威の生成に関する諸問題ばかりが人々の関心を集めてきたが、この現象の本質自体が関心を引くことは稀であった。にもかかわらず、権威としての権威が何であるかを知ることなしに政治権力や国家の構造そのものを論じることは明らかに不可能である。したがって、暫定的にではあれ権威の概念の研究は不可欠であり、この研究は国家の問題の研究全体に先行しなくてはならない。

 ミルグラムは人間心理に光を当てたが、コジェーヴが見つめていたのは国家であった。要は国家というシステムがどのようにプログラミングされているかを明らかにしようと試みたのだ。そのアルゴリズムとして権威が生成されているのだろう。

 まるで詰め将棋のようなスリルに満ちているのだが、やはり白眉は権威を四つのタイプに腑分けした箇所だ──

 さて、我々は権威の【四つのタイプ】(単純で、純粋または要素的なタイプ)を区別することができる。
 α.子供に対する父(または両親一般)の権威。(【ヴァリアント】――年齢の大きい隔たりから生まれる権威――青年に対する老人の権威。伝統と伝統を保持する者たちの権威。死者の権威――遺言。自分の作品に対する「著者」の権威。等々)。

 死者の権威に関する注記。一般に、人間は生前よりも死後においてより多くの権威をもつ。遺言は、まだ存命中の人間が与える命令よりも大きい権威をもっている。約束は、それを交わした相手の死後にいっそう拘束力を発揮する。死んだ父の命令は、父が生前に与えた命令よりもずっとよく尊重される。等々。その理由は、死者に対しては【対抗する】ことが実質的に不可能だからである。したがって、それは定義からして権威をもつ。だが、対抗行為の【不可能性】は、死者の権威に【神的な】(聖なる)正確を与える。死者による権威の行使は、死者にとってはいかなる【危険】もない。ここに、この権威の強みと弱みがある。要するに、それは【神的】権威の特殊なケースである。

 β.奴隷に対する主人の権威。(【ヴァリアント】――平民に対する貴族の権威。民間人に対する軍人の権威。女性に対する男性の権威。敗者に対する勝者の権威。等々。)

 勝者の権威に関する注記。勝者の権威が存在するためには、勝者がまさに勝者であることが敗者によって「承認」されなくてはならない。すなわち、敗者が自分の敗北を「認め」なくてはならない。これは自明である。たとえば、「【戦場では負けなかった】」というドイツのスローガンを見よ。このスローガンによって、1918年の勝者たちの権威はまだ生まれかけのときに破壊されてしまった。この勝者たちは、その勝利をドイツに「承認」させることに失敗したので、いかなる権威ももたなかったのである。したがって、彼らは実力行使に訴えざるをえなかった――その結果は周知の通りである。

 γ.同輩たちに対する指導者(原語略)の権威。(【ヴァリアント】――下級者――従業員、兵士、等々――に対する上級者――現場責任者、将校、等々――の権威。生徒に対する教師の権威。学者、技術者、等々の権威。占い師、預言者、等々の権威。)

 将校の権威に関する注記。この権威は、【混合的】権威の好例である。将校は、兵士に対して行使する【指揮官】の特殊な権威に加えて、およそ軍人が民間人に対してもつ【主人】の権威をも帯びる。また、兵士に対しては、将校は一般に【父】の権威ももっている。最後に、将校は【裁判官】の権威をも体現する。これについてはすぐ次に挙げられている。

 δ.裁判官の権威。(【ヴァリアント】――調停者の権威。監督官、検閲官、等々の権威。聴罪司祭の権威。正義の人または誠実な人の権威。等々。)

 聴罪司祭の権威に関する注記。これまた、【混合的】権威の好例である。聴罪司祭は、【裁判官】の権威に加えて、【父】の権威はもとより、「良心の導き手」の資格において【指導者】の権威も帯びる。だが、彼には【主人】の権威が欠けている。
 正義の人に関する注記。実をいえば、これは裁判官の権威の最も純粋なケースである。なぜなら、厳密な意味での裁判官は、裁判官としての権威――自然発生的な権威――に加えて、役人としての権威――派生的な権威――をも備えているからである。

 そしてここからコジェーヴは「ありうべき全ての権威タイプの完全一覧表」64パターンを示している。燃えたぎる知性は、誰人も知らぬ山頂を目指して突き進む。

 これを権力とは別の意味での「階級圧力」と考えれば、社会のパターンとして当てはめることも可能かもしれない。家族的関係、社会的関係、労働的関係・コミュニティ的関係など。裁判官の権威は神に由来していると思われるが、その断罪的行為は最も強靭な権威といってよいだろう。人々が村八分に従うのも、この権威の強大さを物語っている。主人の権威を欠いていながら、人々をかしずかせるところに裁判官の権威がもつ断罪の力が窺えよう。損得を超越しているのだ。

 権威が現に存在するのは、それが「承認」されているかぎりにおいてのみである。つまり、「承認」されているかぎり、権威は【現に存在する】。

 人々の「承認」が権威を存在させるとすれば、時代によって権威は移り変わるものと考えられる。一人ひとりが賢明になった暁には、より純粋な権威が確立されることだろう。それが望ましい国家像なのか、あるいは恐怖社会の到来なのかは今のところ判断がつかない。

 人間が社会化せざるを得ない以上、権威を中心にヒエラルキーが構築されることが大前提となる。だが、閉ざされた専門性の世界における権威は、そのまま権力化することだろう。とすると、異種格闘技的な色彩を帯びた権威が望ましいように思う。例えば政治的見識の優れた宗教家や、社会問題を鋭く論じる科学者など。いま流行りの言葉でいえば「越境的」ということになろうか。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル

 ・「生きる意味」を問うなかれ

『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その二

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。

 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。

 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

【『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル:山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】

 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。

 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。

「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。

 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。

 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。

 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。

 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。

【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。  けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。

 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。

 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。




自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五蘊仮和合(ごうんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。





あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2009-03-26

体から悲鳴が聞こえてくる/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 近年、脳科学本が充実しているが、身体論と併せて読まなければ片手落ち(※差別用語じゃないからね)となる。人体にあって、確かに脳は司令塔であるが、五官からの情報によって脳内のネットワークが変化することもある(池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』朝日出版社、2004年)。つまり、脳と身体はフィードバックによる相互関係で成立している。

 いつの頃からか、若者が自分の身体を傷つけるようになった。一般的に攻撃性は他者に向かう。だから、いじめは昔からあった。それどころか、実はチンパンジーの世界にもいじめが存在する(フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年)。社会を構築する動物の世界には、確固たる“権力”が存在する。そして社会はピラミッド型の序列(ヒエラルキー)を形成する。で、下の奴が上の奴にいじめられるってわけだ。

 若者の自傷行為は、引きこもりと相前後していると思われる。と言うよりも、むしろ引きこもり自体がある種の自傷行為と考えていいのかもしれない。

 鷲田清一は、身体が本来持っていた智慧が失われ、悲鳴を上げていると指摘している――

 なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまく働かないような状況が現れてきているのではないか。
 そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。
 たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』1995年8月30日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。
「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。
 あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。
 あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、20代の女性の感覚。
 あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 自傷行為は“生”の暴走なのか落下なのか。はたまた、“生きる側”に必死でしがみつく行為なのか。あるいは自分で自分に下す罰なのか――私にはわからない。

「彼女達は“生きるため”にリストカットをする」と宮台真司が言っていた。しかしながら、やってることは自分自身に対する暴力である。つまり、「生きるための暴力」を正当化することになりかねない。

 私は違うと思う。彼女達はリストカットをするたびに「死んでいる」のだ。そして、手首から滴り落ちる血の中から再び生まれてくるのだろう。

 若者の自傷行為は、「生きるに値しない世の中」に対する絶望的な抗議である。



自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

2009-03-07

読書という営み/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 20代半ばで読んだ。私は感覚的・感情的・条件反射的な性質が強いこともあって、カルチャーショックを受けた。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)を「先生」と呼びたくなったほどだ。

 そこに何が書かれているかを要約できなければ、本を読んだことにはならないとした上でこう綴る――

 ラスキンは読書を鶴嘴(つるはし)をふるって金礦(きんこう)を求めゆく坑夫になぞらえております。そして、奥にある金礦に達するためには、外側にある固い鉱石を打ちくだかなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年『「自分で考える」ということ 理性の窓をあけよう』改題角川文庫、1963年/角川文庫、1981年、増補版/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「言葉ではなく意図を、そして意図よりも思想に触れよ」というのだ。私は恥ずかしさを覚える。精神がフリチン状態になったような気分だ。真に正しい意見には人を恥じ入らせる作用がある。

「著者の魂を鷲づかみにして、それを自分の魂に取り入れよ」――澤瀉久敬の轟くような声が私には聞こえる。

2008-12-31

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 これはめっけ物だった。試合終了間際のスリーベースヒットといったところだ。2008年、最大の伏兵。

 時間という概念から死生観を捉え直そうと試みて、見事に成功している。それにしても、広井良典の守備範囲の広さに驚かされる。最初はモネからだからね。で、マッハ、アインシュタイン、介護なんぞの話も交えながら、キリスト教と仏教に至る。でもって、これがちゃあんとした連環となっているのだ。お見事。

 で、だ。古本屋のオヤジが手放しで褒めるわけがないわな。多分、この人の慎重な性格と誠実な人柄によるのだろうが、文章が時々すっきりしない。文末が曖昧になり、中途半端なリベラル性が頭をもたげている。あと読点も多過ぎる(特に「、と」の多さは目を覆いたくなるほど)。ま、期待を込めて言うなら、著者の思考はまだまだ洗練される余地があるということだ。

 早速、本題に入ろう。大晦日になっても尚、ブログを更新するような人生にウンザリさせられるよ。キリスト教と仏教の永遠は違っていた――

 キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
 念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

 つまり、だ。キリスト教の永遠は直線の向こう側に存在し、仏教の永遠は輪廻という輪の外側にあるというわけだ。で、どっちにしても「遠く」にあることは確かだろう。手を伸ばして届くようなところに永遠は存在しない。

 そして、永遠の定義が凄い。参ったね。ぐうの音も出ないよ。「超」にせよ「無」にせよ、そこは「比較対象する事象が存在しない世界」になってしまう。結局、認知や認識の外側に“死の世界”が開けているのだろう。

 アインシュタインの相対性理論から考えると、「“自分”という観測者を失った自分」になりそうな気がする。

 例えば、“眠り”は“小さな死”といわれる。私の場合、殆ど夢が記憶に残っていない。そう。夢も希望もない人生なのだよ。で、寝ている間って時間の感覚はないよね。五感だって溶けているような印象がある。「俺は寝ている」という自覚すらない。それからもう一つ。人間は眠る瞬間と起きる瞬間を意識できない。だから、死ぬ時や生れる時はこんな感じではないかと、最近感じている。

 この続きは来年ということで。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
宗教とは何か?

2008-11-05

嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ


『悲しみの秘義』若松英輔
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『休戦』プリーモ・レーヴィ

 ・嘘、悪意、欺瞞、偽善

『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ページをめくるごとに私はたじろいだ。死の臭いがそこここに立ち込めている。プリーモ・レーヴィの遺作は、遺作となることを運命づけられていた。深い思索は地表にもどることができぬほどの深淵に達していた。

 地球の中心までは6400kmもの距離がある。人類が最も深く掘った穴は、ロシア北西部のコラ半島で、たったの12.261kmだ。5000分の1ほどの距離しかない。レーヴィは多分、マントルあたりまで行き着いてしまったのだろう。岩石がドロドロに溶ける2891kmのギリギリまで辿り着いたのだ。そして、鉱物相が相転移し、不連続に増加した密度が発する震度に、読者の自我が揺り動かされるのだ。

 生っちょろい覚悟でこの本と向き合うと危険だ。この私ですら死にたくなったほどだ。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを生き延びた。そして1987年4月11日、自宅のアパートから身を投げて死んだ。強制収容所を生き抜いた男ですら、生を断念する世界に我々は置かれている。

 それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか?
 この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で、頭の良い専門家であっても、アイヒマンのように冷酷な狂信主義者であっても、トレブリンカのシュタングルやカドゥクのような愚鈍な野獣であっても。言い回しは異なり、知的水準や教養程度の差で傲慢さに強弱はあるにせよ、彼らは実質的に同じことを言っていた。私は命令されたからそれをした。他のものは(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。私の受けた教育、私の生きていた環境では、そうせざるを得なかった。もし私がそうしなかったら、私の地位に取って代わった別のものがさらに残忍なことをしただろう。こうした自己正当化を読むものが、初めに感じるものは嫌悪の身震いである。彼らは嘘をついている、自分の言うことが信じてもらえるなどとははなから思っていない、自分たちがもたらした大量の死や苦痛と、彼らの言い訳の間の落差を見て取ることができない。彼らは嘘をついていることを知りつつ、嘘を述べている。彼らは悪を持って行動している。

【『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(朝日新聞社、2000年/朝日文庫、2019年)】

 私は、パトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)の言葉を思い出した。「嘘は暴力に至る控え室である。“真実が君臨すること”が民主社会の基本でなければならぬ」――。

 レーヴィが耐えられなくなったのは、アウシュヴィッツを凌駕する嘘、悪意、欺瞞、偽善であったのか。悪臭にまみれた我々の鼻は、既に何も嗅ぎ取れなくなってしまっている。

 しかし、だ。レーヴィの鼻を通すと、そこにはもっと強烈な死臭がプンプンしているのだ。退くも地獄、進むも地獄だ。で、私は本を閉じてしまったというわけ。とにかく強靭な体力をつけておかない限り、こんな本は読めるはずがない。

2001-07-12

蝶のように舞う思考の軌跡/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 これは随分と前に読んだ本。ちょっと気になる箇所があるので書き残しておこう。

 竹内敏晴などに興味がある人は必読。石川九楊や養老孟司のバランス感覚が好きな方にもお薦め。写真家とのコラボレーションである最新作は文体が気になり、読み終えることができなかったことを付け加えておく。

 著者は臨床心理学の提唱者で、身体(しんたい)についての考察は並々ならぬものがある。

 確かに産業革命による分業は、人々から“太陽と共に働き、月星と語る”生活を奪ったといってよいだろう。そもそも機械化は、人間の労力を削減するところに眼目があった。現代の労基法の考え方では、仕事=質量×距離といった物理的なものではなくして、時間の切り売りということになっている。その結果、我々は身体能力をフルに発揮する手立てを失った。幼少の頃からペットボトルをラッパのようにがぶ飲みしている子供が目につき、現代人を悩ませている問題の一つに「肥満」が挙げられることに異論を挟む人は少ないであろう。

 何を隠そう、この私もその一人である。上京してからというもの、胴回りは成長するだけ成長し、76cmだったウエストが現在では93cmという飛躍を示している。せめてこの半分だけでも身長が伸びて欲しかった。それも出来ることならば脚を……。それにしても、給料が上がらないのに肥え続けるというのは不思議である。“出る杭は打たれる”という格言があるが、“出る腹はくたびれる”と言う他ない。

 で、私が気になった箇所というのは以下の部分である。

 たとえば風呂に入ったり、シャワーを浴びたりするのが気持ちいいのは、湯、あるいは冷水といった温度差のある液体に身体を浸すことによって、皮膚感覚が強烈に活性化されるからだ。ふだん視覚的には近づきえない自分の背中の輪郭が、この背中の皮膚感覚の覚醒によってひじょうにくっきりしてくるわけだ。これは、幼児があぐらをかいている父親の膝の上に座りにくる、あるいは押入れなど狭苦しいところに入りたがるのととてもよく似ている。このような視角から考えると、スポーツや飲酒、喫煙についても同様のことが言える。激しい運動をすると、汗の気化熱で肌が収縮して身体表面の緊張が高まるし、また筋肉が凝って、ふだんはぼんやりしている身体の物質的な存在感が増す。アルコールを摂取すれば、血液が皮膚の表面に押し寄せてくるような感覚があるし、煙草や香辛料を口にしたときにも局部的に同様の効果が発生する。他人との身体の接触やマッサージについても同じことが言えそうだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 これは凄い指摘だ。私は読んだ瞬間、目の前がパッと開ける思いがしたものだ。鷲田が言うには「身体というのは部分的にしか見ることができない。だから、我々が“自分の身体”という時、それは想像された〈像〉(イメージ)でしかありえない」とのこと。

 大いに首肯できる。例えば日常生活では全く意識されない歯なども、虫歯による痛みがあれば自覚される。それは他の全てを忘れさせてくれるほどの強烈さである。

 つまりだ。上記の文章で鷲田が言っているのは、自分の身体を心地よく実感できる場合に人は快感を覚えるということなのだ。

 そう考えると様々なことに気がつくのである。例えば若者に人気があるオートバイ、スキー、サーフィン、ジェットコースター、バンジージャンプ等々。これらは、スピードを出すことにより風を受けて、自分の身体を実感することができるのが人気の理由かも。

 お茶やコーヒー、あるいはパイプ煙草、ワインなどの嗜好品は嗅覚を実感させる。日焼けや化粧なども肌を実感するためであろう。指輪、イヤリング、ネックレスなどの装飾品も、その部位を意識するものであろう。まあ、呑み屋に入るたびに指輪を外す律儀な男性もいるらしいが……。

 結局のところ、五感に刺激を受けることによって“失われた身体能力”への郷愁のようなものが掻き立てられているのかも知れない。余りにも強い刺激を求めるようになると SMクラブや覚醒剤に手を出すことになるので要注意。まあ、人間は見境のつかないところがあるから、自虐的なまでに刺激を求めてしまうのだろう。自分の身体を苛め抜くという点では、ストイックな宗教の修行と規を一にするのが何とも不思議。

 今までは只単に心地いい・気持ちいいぐらいにしか思ってなかった事柄が、実は自分を感じることによって得られる感覚だということが、実に斬新であった。とはいうものの、シェイプアップは一向に進まない。

1999-08-03

“考える葦”となるために/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 ・“考える葦”となるために

『壊れた脳 生存する知』山田規畝子
『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重

必読書リスト その五

「馬鹿だった。全くもって俺は馬鹿だった。小倉智昭に『バカヤロー!』と言われても仕方がないほどの馬鹿だった」と一読後思い知る。

 わかりやすい比喩をもって思考回路を解きほぐしてくれる。考えるという行為の道筋が見えて来る。「ああ、考えるとはこういうことなんだ」と諭(さと)すように教えられる。だが、易しい表現の底には自己と相向かう厳しさが剛音を立てて流れている。

 私が生まれた昭和38年に角川文庫版として出版された本である。干支(えと)が三周りした後に読むことと相成り、不思議な巡り合わせを感じる。

 情報化社会はスピードが要求される。古い情報の価値は直ちに色褪せ、新しい情報にとって替わる。政治・経済から流行に至るまでありとあらゆる情報が氾濫している昨今、自分の意見を持つ人が何人いるであろう。あなたが今抱いている政治的意見は、田原総一郎がこの間テレビで話していたものではないか? そのギャグはビートたけしの最新のものではないか? その商品を奨めるのはCMを見て印象に残っていたからではないか? 自分で考えることを放棄した瞬間から“ビッグ・ブラザー”に支配される。

 一昔前に「感性の時代」という言葉がもてはやされた。感性とは感覚によって支えられるが故、享楽に傾きやすくなることは必定である。時代の空気に最も敏感な女子高生を見るがいい。プリクラ、ルーズ・ソックス、茶髪、ミニ・スカート、ブランド品、小汚い色に焼いた肌から、果ては喋り方に至るまで皆一様ではないか。全く何も考えていないに違いない。脳味噌の量が半減しているとしか思えない。例えば若い者がよく読む漫画で何かしらの情報操作を試み、ある感情に訴える主張をさり気なく盛り込めば、一気に広まりゆくと私は思う。感覚的に同じものを指向する有様にファシズムの芽が見える。澤瀉が説く持論は今こそ必要とされるものである。全国のコギャルどもよ、この本を手にせよ! と言いたい。

 澤瀉は静かに、しかし、断固たる態度で「考えよ、自分で考えよ!」と言う。丁寧な語り口が、如何なる人にも分かるように、どんな人でもそうしたくなるように、との配慮に満ちている。

 澤瀉は言う――

 正しく考えるよりも前に、正しく見ることが必要なのであります(19p)

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年『「自分で考える」ということ 理性の窓をあけよう』/角川文庫、1963年/増補版、角川文庫、1981年/レグルス文庫、1991年)】

 続いて、目的地への交通手段が様々あることを例に挙げ、

 考えるとは可能性を考えるということであります。しかもその可能性というものは、はじめから可能性としてあるのではありません。はじめから可能性としてあってただそれを選べばよいというものではなく、それら多くの可能性は、考え出されてはじめて可能性となるのです。(25p)

 と“何を”考えるのかをハッキリさせてくれる。更に、

 元来、わたくしたちは身体的栄養を摂る場合には、食物を自分で口に入れ、自分で咀嚼し、自分で消化する。これと同じように、あるいはそれ以上に、精神が知識を獲得するためには、自分で精神を働かせ、自分で考えなければなりません。そこには、当然、強い精神、強靱な思索が要求されてまいります。それは決して容易なことではありません。考えるということはなかなかむずかしいことであり、また苦しいことでもあります。(27p)

 と考えるという作業に伴う実感を示す。そして、そこからもう一歩考え続けるよう促し、

 なお、この考えるという行為は、それをたえず行うことによってその力を強めるものであります。からだが訓練によって強化されるのと同じように、精神というのも、それを鍛錬することによって、次第に強力となるものであることを申し上げたいと思います。それに反して怠惰な、怠けた精神は、怠惰なからだにもまして、ますます貧弱なものとなることは申すまでもありません。ともかく考えるためには、〈自分で考える〉ことが絶対に必要であります。(27p)

 とその本質は戦いであることを教えてくれる。

 精神が新しいアイディアを生む場合には全く無からの創造なのであります。いままでそれを考え出す本人にも思いつかなかったものが、精神によって考え出されるのであります。ここに生命の創造にもまさる精神の創造の歓喜があると考えたいのであります。(46p)

 考える醍醐味がここに極まる。

 丁寧に丁寧に聞き手への尊敬を込めて語られる考えるという行為は、単なる机上の思索ではなく、人生を切り開いてゆく智慧そのものと言ってよい。

 ひとは、あるいは思索の無力を説くかもしれません。大切なことは考えることではなく実践することであると主張されるかもしれません。それはそのとおりであります。しかし、実践はそれがただ実践であることによって尊いのではありません。実践は、それが〈より〉よいものへの実践であることによってのみ尊いのであります。そしてその『〈より〉よいもの』とは何かということは、それこそ精神の思索によってのみ明らかとなるのであります。そうして、そのおり大切なことは、〈より〉よいものがはじめからあって、それを精神がただ暗やみから明るみに引き出すのではないということであります。精神そのものが常にみずから〈より〉よきものを創造するのであります。考えるということの尊さ、考えるということの喜び、まさにそのようにしてよりよいもの、〈より〉正しいもの、〈より〉美しいものを創造するというところにあると思うのであります。そして、それこそまさに人間として生きる歓びではないかと私は考えるのであります。(49p)

 考えることが生きることであり、生きることとは考えることなのだと思い至る。妙な飛躍を望むのではなくして、水滴が石を穿(うが)つように徹底して考え抜く行為が、人生の価値を高らしむるのである。それは、弓をキリキリと引き絞る行為に例えられるかも知れない。あらん限りの精神の力をどれだけ込められるかで、放たれた矢の勢いが決まる。慎重を極めた角度でのみ的を射ることが可能になる。

「読書について」に至っては私のアキレス腱を絶たれた感を抱いた。

 本を読むとは、そこに何が書いてあるかを簡単に要約することができるということです。それが言えぬようでは、本を読んだとは申せません。そして、それができるためには、まず、書物全体の構造が整然と分析され、かつてその部分はどのような道すじを通って展開されているかを把むことでなければなりません。(185p)

 これは私の最も不得手とすることで「お前さんのは本を読んだとは言わない」と断言されたようなものだ。思わず膝を正して「申しわけありません!」と声に出してしまった次第。

 更に追い打ちをかけるように、

 お寺の鐘は鐘をつく者の力と心に応じて鳴るのであります。(202p)

 と書かれた暁には、「オレの場合、力は漲(みなぎ)っているのだが、爪楊枝で叩いているようなものだな」と全てを見透かされているような気がした。しかしながら、

 ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。(189p)

 との一文には震えたね。「そう、それなんだよ、読書の醍醐味は」と。

 考え抜く厳しさが言葉の端々に光っている。

「自分で考える」ことによって人生は深みを増し、個性は輝き、真の人間として限りなく向上しゆくのであろう。

他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人