2018-11-29
ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
・ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
・悟りとは
悟りには段階がある(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。四向四果(しこうしか)だと預流果→一来果→不還果→阿羅漢果で完成となる(藤本晃)。
悟りを説明することに意味はあるのだろうか? ないね。ちっともないよ。むしろ説明することによって悟りは知識の範疇(はんちゅう)に押し込められる。レシピ本を読んで料理を語ることはできても決して満腹にはならない。
知識や考え方、概念から離れるのが悟りである。いかに努力を積み重ねても自分の価値観を変えることは難しい。努力の過程そのものに自分の価値観が入っているためだ。すなわち悟りは努力の果てに得られるものではない。悟りを「理想」と捉えるのも誤っている(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。
例えば宮崎哲弥の該博な知識や頭のよさに唸(うな)らされることはあっても、そこに悟りの明晰さは見られない。通説の経・論・釈(経典・論書・釈書)にこだわるつもりはないが次元の違いを見極める必要がある。
人類にとって最大の問題は悟りを社会に展開できるのかどうかだ。政治・経済は差別の世界である。軍隊を持たぬ平和主義は脆弱(ぜいじゃく)だ。チベットは中国に侵攻され、いまだ独立がかなわない。もしも国民全員が悟った国があったとすれば直ちに隣国から攻撃されることだろう。人類史上最も攻撃的なキリスト教白人が帝国主義以降の世界をまだ牛耳っていることからも明らかである。
2018-06-24
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2017-11-23
「改革」を疑え/『平成経済20年史』紺谷典子
・『円高円安でわかる世界のお金の大原則』岩本沙弓
・『国債は買ってはいけない! 誰でも儲かるお金の話』武田邦彦
・『税金を払う奴はバカ! 搾取され続けている日本人に告ぐ』大村大次郎
・「改革」を疑え
・『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん
・必読書リスト その二
小泉改革が、景気回復をもたらしたというのは、ほとんど嘘である。戦後最長のいざなぎ景気を抜いた「最長の景気回復」と政府は言ったが、そういう政府自身、デフレ経済からの脱却を宣言できなかった。
米国とならんで、裏で改革を後押ししてきたのは財務省だ。「改革」と言われてきたものの多くが、財政支出の削減でしかなかったことを見ても、それは明らかだ。
年金改革も医療保険改革も、保険料の値上げと、年金の削減、医療の自己負担の増加でしかなかった。国民に安心を与えるための社会保障改革は、逆に国民の不安を拡大した。財政危機が実態以上に、大げさに語られてきたからである。しかし、年金や医療の財政危機は、事実ではなかった。
社会保障の削減はすでに限度を超している。その結果、世界一と評価されたこともある日本の医療は、もはや崩壊寸前である。
小泉改革の「官から民へ」は行政責任の放棄であり、「中央から地方へ」移行されたのは財政負担だけだった。「郵政民営化」は、保険市場への参入をめざす米国政府の要望である。小泉首相の持論と一致したのは、米国にとっては幸運でも、国民にとっては不運だった。
改革のたびに国民生活が悪化してきたのは、改革が国民のためのものではなかった証左である。私たちは、そろそろ「改革」とされてきたものを疑ってみるべきではないだろうか。
【『平成経済20年史』紺谷典子〈こんや・ふみこ〉(幻冬舎新書、2008年)】
紺谷典子は小泉政権の天敵と言われ、いつしかテレビから抹殺された人物である。まずは動画をご覧いただこう。
・博士も知らないニッポンのウラ:紺谷典子
時間のない人は58分30秒から10分ほどだけでも必ず見てほしい。様々な圧力や美味しい話に振り回されることなく、専門家としての矜持(きょうじ)をさらりと語っている。紺谷が抜いた真剣の光に照らされて宮崎哲弥や水道橋博士の軽薄さがくっきりと見える。豊かでありながら抑制された声も今時珍しい。更に誰かが口を開くと自分の話をやめて耳を傾ける姿勢も謙虚さの表れだろう。
番組の配信が2008年3月15日である。前年の7月末にサブプライム・ショックがあり、そして2008年の9月にリーマン・ショックがマーケットを襲う。日経平均は7000円を割り込んだ。そして2009年9月に民主党政権が産声をあげる。3年間の迷走と混乱が国民を保守に回帰せしめて今日に至る。わずか9年前の番組でありながら隔世の感がある。
amazonレビューを見ると専門的な勉強をした人ほど低い評価のようだ。ただし具体性に欠け説得力が弱い。国民全体が貧しくなった原因と解決策を示さなければ所詮言葉遊びに過ぎない。
大蔵省-財務省にメスを入れることのできる政治家が登場しない限り、この国の政治は旧態依然のまま利権の巣窟と化す。去る総選挙で安倍首相は消費税増税分の使途を変更する公約を掲げた。やはり長期安定政権であっても財務省には逆らえないのだろう。
2017-05-14
仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
・『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
・『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
・仏教における「信」は共感すること
・『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
・『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ
(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。
【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】
言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。
今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。
私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。
スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。
・ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。
法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。
信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。
南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。
南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。
南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。
・『プライムニュース』動画
普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。
南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。
2016-07-10
ブッダ以前に仏教はない/『つぎはぎ仏教入門』呉智英
・ブッダ以前に仏教はない
・『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
ところで、仏教のそもそもの宗祖は釈迦である。釈迦はその弟子や信徒たちと、どんな仏像を拝み、その前でどんなお経を唱えていたのだろうか。
ちょっと考えてみよう。釈迦以前に仏教はない。覚(さと)りを開いて仏陀(ぶっだ)となった釈迦が仏教の宗祖だからである。イエス・キリスト以前にキリスト教はない。イエスの教えがキリスト教である。キリスト教では神父や牧師が信徒たちと十字架の前に額(ぬか)ずくけれど、イエス自らが使徒たちと十字架に額ずいたことなどありえない。十字架上にあるのはイエスその人だからである。これと全く同じように、仏陀釈迦が弟子や信徒たちと仏像を拝んだことなどありえない。釈迦以前に仏教はなく、仏像はないからである。
【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年/ちくま文庫、2016年)】
気づくのは一瞬だ。「あ!」と思った途端に目から鱗が落ちる。少しずつ徐々に気づくということはない。呉智英〈くれ・ともふさ〉は儒者である。外側に立っていたからこそ仏教の本質が見えるのだろう。
ブッダ以前に仏教はなく、イエス以前にキリスト教はない。言葉の限界性を思えば、悟りから発せられた言葉であったとしても、言葉そのものは悟りではない。
念仏を発明した人は南無阿弥陀仏と唱えて悟ったわけでもないし、題目を編み出した人が南無妙法蓮華経と念じて悟ったわけでもない。
ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)であるが、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み/サンスクリット語読みではガウタマ・シッダールタ)以前にもブッダと呼ばれる人々は存在した。つまり悟りの道は一つではないのである。尚、イエスの実在については多くの疑問があり確かな証拠がない。
理窟をこねくり回すのは悟っていない人々だろう。論者・学者は覚者ではない。ひとたび論理の網に搦(から)め捕られると、知識の重みに満足してニルヴァーナ(涅槃)から離れてゆく。
教団が形成されると教義と儀式の構築に傾いてゆく。ブッダの教えはシナを経て日本に至り信仰へと変質した。お経を読み、仏像やマンダラを拝む宗教になってしまった。
教義は死んだ言葉である。繰り返されるマントラ(真言)も生きた言葉ではない。
言葉はコミュニケーションの道具である。真のコミュニケーションは自我を打ち消す。そして言葉を超えた地点にまで内省が深まった時、世界を照らす光が現れるのだろう。瞑想とは思考を解体する営みだ。
教義を説く者を疑え。
2015-11-18
石光真人、古谷文太、内藤国夫、水木しげる、兵頭二十八、藤原肇、他
4冊挫折、6冊読了。
『攘夷の幕末史』町田明広(講談社現代新書、2010年)/開国派も攘夷派も「尊王」という点では一致していた。尊王攘夷と公武合体の対立軸をずらすと別の側面が見えてくる。文章が冴えず。
『南北朝こそ日本の機密 現皇室は南朝の末裔だ』落合莞爾〈おちあい・かんじ〉(成甲書房、2013年)/藤井厳喜〈ふじい・げんき〉おすすめ。忍耐力を総動員して1/3ほど読む。「さる筋」「その筋」による口伝情報を基に南北朝の裏面史に迫る「推理小説」と言ってよい。私は皇室の歴史には疎いので全く面白からず。この手法がまかり通るのであれば何でもありになるだろう。amazonレビューの評価が高いのが意外である。
『ナイスヴィル 影が消える町(上)』カーステン・ストラウド:山中朝晶〈やまなか・ともあき〉 (翻訳(ハヤカワ文庫、2015年)/ホラー。スピード感を欠く。
『記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック』ドミニク・オブライエン:梶浦真美訳(エクスナレッジ、2012年)/ツイッターで知った本。私はかなり物覚えが悪い。そのためメモ魔である。油性ペンで手に書くことも珍しくない。演習を真剣に行うことが必須である。私はやらなかったが。「演習2」でわかったのだが、記憶術とは「想像力を駆使して共感覚化を行う作業」なのだろう。情報をコード化しストーリー設定を行うジャーニー法を著者は編み出す。52枚のトランプを3分間で記憶できるという。
149冊目『賢く生きる 藤原肇対談集』藤原肇(清流出版、2006年)/面白かった。やはり頭のいい人である。対談相手も多士済々。西原克成が森鴎外をクソミソにすると藤原が何とか持ち上げようと頑張るところで大笑い。首藤尚丈のダイヤモンドカット特許に目を瞠(みは)る。寺川正雄の会計工学は初耳。最後は池口恵観との対談で藤原が空海は過去にも入唐(にっとう)していたのではないかと推理。石油から宗教まで網羅する豪華対談。
150冊目『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(光人社、2007年)/目から鱗が落ちる。確か藤原本で紹介されていた一冊。Q&A形式でありながら、日本の近代史を正確かつ精緻に辿る。本書を読まなければ単純な日本万歳という迷蒙に陥る。冴えない表紙に騙されることなかれ。ある程度近代史を踏まえた上で読むのがよかろう。「必読書」入り。
151冊目『総員玉砕せよ!』水木しげる(講談社、1973年/講談社文庫、1995年)/宮崎哲弥がネットテレビで紹介していた一冊。水木本人の体験に基づく漫画作品。「あとがき」に90%は事実であると記されている。将校が威張り散らし、何かにつけて制裁を下す。ビンタ、ビンタの連続。小集団におけるいじめは日本文化か。ペリリュー島ものと併せて読むべきだ。軍隊の悪しき断面。兵卒の「はーい」という返事に違和感を覚える。作品としてはさほど評価できず。
152冊目『公明党の素顔 この巨大な信者集団への疑問』内藤国夫(エール出版社、1969年)/新書サイズ。ある時期において朝日の本多勝一と毎日の内藤国夫が大学生の人気を二分していたことがある。驚くほど良心的な批判本である。たまげた。増長せる都議会公明党がトリッキーに議会運営を掻き回す様が克明に描かれている。当時の中心メンバーであった竹入義勝と竜年光〈りゅう・としみつ〉が後に創価学会を去ったことを思えば隔世の感あり。尚、藤原弘達〈ふじわら・ひろたつ〉よりも先んじて恐るべき出版妨害が行われたという。公明党が国民政党になり得なかった最大の理由は批判アレルギーであろう。
153冊目『「値引きして売れるなら捨てるよりマシ」は本当か? 将来どちらのほうが儲かるかで考える損得学』古谷文太〈ふるや・ぶんた〉(ダイヤモンド社、2010年)/デビュー作とは思えないほど文章がこなれている。まるでテレビドラマか漫画作品のノベライズ化。現実感の乏しさよりも説明能力の高さを評価すべきだろう。会計学とは似て非なる「損得学」を提唱。実にわかりやすい。
154冊目『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人〈いしみつ・まひと〉(中公新書、1971年)/魂の一書である。今頃になって読んだことを深く恥じ入る。明治人のハードボイルド文体が読者の背に鞭を振るう。襟を正さずして本書と向き合うことはできない。維新に翻弄された会津人の苦衷を思う。尚、村上兵衛は本書に「潤色あり」と断じているが具体的な説明がない。私にとって柴五郎はセネカとほぼ同じ高みに位置する。
2015-11-02
自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
・『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
・自殺は悪ではない
・わかりやすい入門書
・『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
・『ただ坐る 生きる自信が湧く一日15分坐禅』ネルケ無方
たとえば、「自殺は決して罪悪ではない」(本書第40話)ということを書いたところ、それに対しては、何通かの批判の投書と、多くの方からの丁寧なお礼状を頂戴した。礼状はもちろん、身近な人を自殺で亡くされた方々からの封書である。
1通読むたびに涙があふれた。そして、私の発する言葉が、良し悪しはともかく、こうして大勢の人たちの心に様々な思いを呼び起こすのだと知って、襟を正したのである。メディア上で発言するということは、その言葉に対して無条件に責任を負うということだ。まして人の生き方にかかわる言葉なら、なおさらである。
【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)以下同】
朝日新聞に連載された仏教エッセイ。佐々木は仏教史と戒律の研究で知られる。
そのような人が、もし仮に、自分で自分の命を絶ったとしたら、それは悪事であろうか。一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。
では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが罪悪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。
人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けなければならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶(おとし)めたり軽んじたりすることなどできないのだ。
自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。
「一部」ではなく「全部」である。アブラハムの宗教において自殺は罪と認識されている。「自殺は煩悩と無関係」との根拠も不明で、全体的には腰砕けの印象を拭えない。それでも救われた人々が多いという事実が重い。
「自殺は煩悩と無関係」よりも「自殺は不殺生とは無関係」(仏教は自殺を本当に禁じているのか?)の方がすっきりしてわかりやすい。とすると、やはり「自殺」という言葉よりも、「自死」「自裁」が相応(ふさわ)しいのだろう。
@shirayuri_kun たぶん無明が噴出するのだろう。で、遺伝子レベルでスイッチが入ると死を選ぶ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 6月 5
かつてこう書いた。
事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。
【無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元】
身近な人々が「なぜ自殺をしたのか?」と問うことは「毒矢の喩え」と似た陥穽(かんせい)におちいる。
自殺とは究極の自己免疫疾患であると定義したい。長年にわたって思索してきたが、それ以外に説明のしようがない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 1月 16
9.11テロの直後、カリフォルニアでは流産件数が跳ね上がったという。しかも増加分はすべてが男児であった(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス、2007年)。胎児が五感情報を通して生まれ来る世界が戦争状態であると認知すれば、男であることは生存率の低さを意味する。その瞬間、遺伝子は死のスイッチを押すのではあるまいか。
少子化も無関係ではないだろう。「この世は生きるに値しない世界だ」と認識すれば、自分の遺伝子を残そうとは思わない。病んだ社会は人々を緩慢な自殺へといざなうことだろう。飽食や運動不足を始めとする不健康さが、我々の人生そのものにべったりと貼り付いている。
「なぜ自殺したのか?」と問うなかれ。ただ「その人と出会えたこと」を喜べるかどうかを問うべきだ。
・「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
・マラソンに救われる/『56歳でフルマラソン、62歳で100キロマラソン』江上剛
2015-04-07
イーサン・ウォッターズ、町山智浩
2冊読了。
30冊目『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』町山智浩(文藝春秋、2008年/文春文庫、2012年)/待望の文庫化。映画評論家として知られる町山はもともと編集者であった。やや砕けた調子なのは若者を想定したためか。日本人が抱く「アメリカ」という幻想を木っ端微塵にしてくれる。またかの国が福音派を中心とするキリスト教原理主義である実態を見事に伝える。「キリスト教を知るための書籍」に追加。因みに宮崎哲弥の最初の編集者が町山であった。年齢も同じ。
31冊目『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ:阿部宏美訳(紀伊國屋書店、2013年)/期せずしてアメリカ本が2冊並んだ。どちらも収穫が大きかった。4章で構成されているが、第4章が「メガマーケット化する日本のうつ病」となっている。拒食症やうつ病など、病名が広く知られることによって病人が増大する傾向がある。しかもその背景には医師が無意識のうちに患者製造に加担している可能性がある。そして一方には流行の病に冒されることで自己主張をする人々が存在する。これは十分あり得ることである。私流に言えば「脳内情報の上書き更新」である。ひとたび精神疾患という物語が構成されれば、脳や身体(しんたい)は物語に沿って動き出す。文章の行方が時々危うくなるのは英語本文のせいか。もっと思い切った意訳を試みてもよかったのではないか。傑作『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタインとは角度が異なり、社会科学的色彩が強い。そして本書もまた製薬会社の薄汚い手口を暴いている。こちらは近々書評を書く予定だ。
2013-12-31
2013年に読んだ本ランキング
・2012年に読んだ本ランキング
・2013年に読んだ本
ウーム、こうして一覧表にしておかなければ何ひとつ思い出すことができない。加齢恐るべし。これが50歳の現実だ。ランキングは日記ならぬ年記みたいなものだ。自分の心の変化がまざまざと甦(よみがえ)る。ニコラス・ジャクソン著『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』を書き忘れていたので、今年読了した本は66冊。
まずはシングルヒット部門から。
『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
『日本文化の歴史』尾藤正英
『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』クリス・ヘッジズ
『心は孤独な数学者』藤原正彦
『人間の叡智』佐藤優
再読した作品は順位から外す。
『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希
『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ
次に仏教関連。『出家の覚悟』は読了していないが、スマナサーラ長老の正体を暴いてくれたので挙げておく。
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
『つぎはぎ仏教入門』呉智英
『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
これまた未読本。何とはなしに日蓮と道元の関係性を思った。歯が立たないのは飽くまでも私の脳味噌の問題だ。
『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート
以下、ミステリ。外れなし。
『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ
『催眠』ラーシュ・ケプレル
『エージェント6』トム・ロブ・スミス
格闘技ファン必読の評伝。ただし内容はド演歌の世界だ。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
宗教全般。
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』苫米地英人
マネー本は良書が多かった。興味のある人は昇順で読めばいい。
『新・マネー敗戦 ドル暴落後の日本』岩本沙弓
『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓
『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
9位『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
新しい知識として。
『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人
政治関連。増税に向かう今、高橋本は必読のこと。
『民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア
『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一
『さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別』高橋洋一
10位『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
宮城谷昌光。
『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光
『太公望』(全3冊)宮城谷昌光
ディストピアとオカルト。
『科学とオカルト』池田清彦
『われら』ザミャーチン
8位『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー
科学関連。まあ毎年毎年驚くことばかりである。
3位『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
7位『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
2位『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
宗教原始と宇宙創世の世界。ブライアン・グリーンの下巻は挫折。必ず再チャレンジする。
5位『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
6位『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン
初期仏教関連。
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
4位『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
やはり同い年ということもあって佐村河内守を1位としておく。
1位『交響曲第一番』佐村河内守
2013-09-08
野口健、宮城谷昌光、アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉、岸田秀、他
10冊挫折、4冊読了。
『性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃(講談社選書メチエ、2002年)/前置きが長すぎる。
『偶然とは何か その積極的意味』竹内啓〈たけうち・けい〉(岩波新書、2010年)/まどろっこしい。
『確率と統計のパラドックス 生と死のサイコロ』スティーヴン・セン:松浦俊輔訳(青土社、2004年)/冗長。無駄話が多すぎる。
『なぜ少数派に政治が動かされるのか?』平智之〈たいら・ともゆき〉(ディスカヴァー携書、2013年)/これも安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉のオススメ。TPP参加に賛成している件(くだり)を読んでやめた。
『100年予測 世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』ジョージ・フリードマン:櫻井祐子訳(早川書房、2009年)/文章がよくない。本書でも日本が戦争を行うことを予測している。
『続 獄窓記』山本譲司(ポプラ社、2008年)/文章はいいのだが、メンタル面が弱すぎる。
『2円で刑務所、5億で執行猶予』浜井浩一(光文社新書、2009年)/良書。ただし著者の性格が悪い。読者の無知を指摘し続けて辟易させられる。
『徒然草』島内裕子校訂・訳(ちくま学芸文庫、2010年)/時間のある時に読み直す。『徒然草』は本書が一番よい。
『唯幻論大全 岸田精神分析40年の集大成』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(飛鳥新社、2013年)/「第三部 セックス論」を除いて読了。ストックホルム症候群で一つ閃きを得た。
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ、2009年)/やはりスマナサーラ長老は声聞であるとの確信を強めた。南のことを「先生」とは呼んでいるものの、常に上から目線で語っている。一方、南は南で遠慮しながら自らの疑問を投げかけている。議論が擦れ違う理由は南の仏教アプローチにある。知に傾きすぎているのだ。今のままだと宮崎哲弥の僧侶版となりかねない。
38冊目『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)/これはオススメ。素晴らしい写真集だ。しかも廉価(2100円)。構成がまとまりを欠いているのは仕方がない。本書は野口の眼を紹介するところに重きを置いたのだろう。小中学生にも読ませたい作品だ。
39、40、41冊目『太公望(上)』『太公望(中)』『太公望(下)』宮城谷昌光(文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)/3日で読了。殷の紂王、周の文王・武王、周公旦、そしてほんのわずかながら伯夷〈はくい〉と叔斉〈しゅくせい〉まで登場する。彼らの名は鎌倉時代の日本にまで及び日蓮も遺文で紹介している。壮大な復讐譚(ふくしゅうたん)。唯一の瑕疵は幼少の太公望が既に天才として描かれており、由来が示されていないところ。紀元前11世紀において軍に戦略を用いたというのだが凄い。
2013-06-04
青木健、天野統康、呉智英、スティーヴン・ホーキング、他
4冊挫折、3冊読了。
『古代オリエントの宗教』青木健〈あおき・たけし〉(講談社現代新書、2012年)/好著。ただ私の興味範囲ではなかった。青木は宗教学の新進気鋭。文章にもキレがある。
『世界を騙しつづける科学者たち(上)』ナオミ・オレスケス、エリック・M・コンウェイ:福岡洋一訳(楽工社、2011年)/構成が悪くスピード感を欠く。
『宇宙の起源』チン・ズアン・トゥアン:南条郁子訳(創元社「知の再発見」双書、1995年)/五十近くなると「知の再発見」双書はもう読めない。2倍の大きさにしないと無理だろう。アインシュタインの手稿あり。
『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上)』スティーグ・ラーソン:ヘレンハルメ美穂、岩澤雅利訳(早川書房、2008年/ハヤカワ文庫、2011年)/満を持して読んだのだがダメだった。翻訳の文体が肌に合わない。
19冊目『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康〈あまの・もとやす〉(成甲書房、2012年)/ふざけたタイトルと成甲書房というだけで避ける人がいるに違いない。ところがどっこいマネーの本質に斬り込む良書である。時折筆が走りすぎるキライはあるものの、ファイナンシャルプランナーの強みを生かしてわかりやすい図を多用。宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉を始めとする引用文献が説得力に磨きを掛けている。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』も含まれる。信用創造に触れるのはどうやらタブーらしく、宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉の著作はいずれも絶版となっている。岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉と天野統康に注目。
20冊目『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年)/『知的唯仏論』を読めばやはり本書を避けては通れない。視点は面白いのだがこの人の頑迷な性格が文章に表れている。決めつけてしまえば、もう自由なものの見方はできなくなる。ま、仏教界に問いを突きつけているわけだから仏教関係者は読むべきだろう。宮崎哲弥の評価はチト甘いと思う。宮崎の知識と比べても拙劣な印象を拭えない。
21冊目『ホーキング、未来を語る』スティーヴン・ホーキング:佐藤勝彦訳(アーティストハウス、2001年/ソフトバンク文庫、2006年)/『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』の続篇。とにかく図が素晴らしい。図だけでも買いだ。アーティストハウス版をオススメしよう。性格が悪いことで知られるがやはりこの人の説明能力は抜きん出ている。佐藤御大の訳もこなれている。チンプンカンプンでもお経のように読めてしまうのだから凄い。で、順番からいうと本書の次にレオナルド・サスキンド著『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』を読むといい。
2013-05-07
渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」/『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
・『つぎはぎ仏教入門』呉智英
・渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」
・『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
・『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
宮崎●愛の問題はどうですか。たとえば「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」で、ブッダは繰り返し「愛する者に会うことなかれ」と戒めています。なぜかというと、「愛」もその対象も必ず変滅するからです。経典には「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とすら記されてある。
呉●トリシュナー(サンスクリットの「渇き」)だね。愛の問題はね、いろんなところで何度も言ってますが、日本人の中で愛がものすごく大きな原理になってきたのは1970年ぐらいからで、それまではそんなに愛っていうのは大きな原理ではなかった。
宮崎●ダンマパダの、この偈の“愛”はパーリ語のピヤで、渇愛というよりは単純に「好ましい」「いとおしい」ぐらいの語意なんですが、それでもこのように否定的に語られているのが興味深い。
【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】
宮崎哲弥が“評論家の師匠”と呼ぶ呉智英との対談。マンガネタも豊富。一日で読み終えた。
同様のテーマは『大パリニッバーナ経』でもアーナンダとのやり取りで「婦人を見るな」とブッダが断言する件(くだり)がある。
ここらあたりでつまずく人も多いと思われるので少々解説しておこう。
仏教の哲学性は万人に共通する「苦」を見つめることであった。仏典で仏は医師に喩(たと)えられる。マッサージ師ではない。つまり極言すればブッダの狙いは「抜苦」にあったわけで、最初から「与楽」を目指したものではない。
果たして苦はどこから生まれるのか? ブッダの瞳は「我」(が)を捉えた。更に我の構成要素をも見極め、瞑想の深度は時空を超えて遂に成道(じょうどう)する。
日本では愛と聞けば大半の人々が恋愛を思う。呉が1970年台からと指摘しているのは、ベトナム戦争反対運動のラブ&ピースや、ビートルズからフォークを経てニューミュージックに至るサブカルチャー・ムーブメントを指すのだろう。恋愛結婚が増えたのも戦後になってからのことだ。
恋愛は愛なのだろうか? 私の10代を振り返ってみよう。恋愛感情は断じて愛ではなかった。単なる欲望であった(笑)。それこそ渇愛そのものだ。ただただ相手を手に入れたいという衝動に駆られていた。恋愛が美しいのは、ま、そうだな、最初の1週間くらいだろうな。10年以上連れ添った夫婦を見てごらんよ。半分以上はそっぽを向いているから。
ブッダが明かしたのは苦と快楽が表裏一体であることだった。欲望がプラスに傾くと快楽で、マイナスに傾くと苦になるわけだ。愛憎もまた表裏一体だ。
美味しいものを食べれば食べるほど、日常の食事がまずくなるようなものだ。快楽が比較を生み、比較が不幸を感じさせる。比較には限度がない。欲望は更なる高みを目指す。
愛する者がいるゆえに悲哀が深まる現実を見失ってはなるまい。愛と喪失感は比例関係にある。だがこの愛は仏教的視座に立てば「自我の延長」と見ることが可能だ。
好き嫌いというのは反応である。道徳的な理由であろうと進化的な理由であろうと反応に過ぎない。生の本質は反応である。政治・経済・科学・宗教・文化といってもそこにあるのは反応だ。
我々の人生はビリヤードの球みたいなものだ。ある時は教育というキューでつつかれ、またある場合には他人が決めたコースを無理矢理走らせられる。そしてメディアは常に大衆の欲望を操縦する。
「好きこそものの上手なれ」とも言う。確かに技術においてはそうだろう。しかしこれが人生に反映されると機械的な生き方となってゆくことを避けられない。
欲望は現在性を見失わせる。満たされぬ渇(かわ)きに支配された人は荘厳な夕日の美しさに決して気づくことがない。彼の目は自分の将来しか見つめていないからだ。
2013-05-06
フレデリック・ルノワール、佐藤優、宮崎哲弥、呉智英、ほか
4冊挫折、3冊読了。
『シャノンの情報理論入門』高岡詠子(講談社ブルーバックス、2012年)/『インフォメーション 情報技術の人類史』の前に読んでおくべきだった。文章に締まりがない。
『ツァラトゥストラ 1』ニーチェ:手塚富雄訳(中公クラシックス、2002年)/満を持して臨んだが訳文が肌に合わず。岩波か筑摩で再チャレンジする予定。
『退屈 息もつかせぬその歴史』ピーター・トゥーヒー:篠儀直子訳(青土社、2011年)/期待外れ。というか私の予想が誤っていた。トム・ルッツの系統と思い込んでいた。
『人類の宗教の歴史 9大潮流の誕生・本質・将来』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳(トランスビュー、2011年)/前著と比べるとテーマが総花的すぎて散漫な印象を抱いた。こういうのは新書でやるべきだと思う。
13冊目『人間の叡智』佐藤優(文春新書、2012年)/これはオススメ。TPP賛成の理由も理解できた。既に書いた通り「新・帝国主義ノススメ」「マルクスから読み解く21世紀の政治学」「新たなるエリート主義」といった内容である。原発問題、橋下現象も取り上げている。一々ご説ごもっともなんだが、やはり佐藤の視線があまり好きではない。プラグマティックな保守主義といってよいだろう。
14冊目『フィボナッチ 自然の中にかくれた数を見つけた人』ジョセフ・ダグニーズ文、ジョン・オブライエン絵:渋谷弘子訳(さ・え・ら書房、2010年)/久々の絵本である。微妙。絵はいいのだが創作物語として読むべきだろう。毒が無さすぎて淡い。
15冊目『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)/面白くて一日で読んでしまった。博覧強記といえば佐藤優に次ぐのが宮崎哲弥。1日6冊、月に200冊は読破するというのだが凄い。まあとにかく知識が豊富で、創価学会のマンガにまで目が行き届いている。大変勉強になったが、宮崎の仏教アプローチは知に傾きすぎて人間から離れているように見える。つまり抜苦与楽(=慈悲)の実践が感じられない。
2012-02-21
「『死刑』を語る」森達也×宮崎哲弥
森達也という人物は論者である。彼は論じることが目的となっているような節(ふし)がある。タイプは異なるが太田光と似ていて、論じるために論じている。言葉という言葉に響きがない。リベラルの最悪の形と思えてならない。
◎死刑廃止についてのリレーエントリーと、フランスのロベール・バダンテール法務大臣による死刑廃止時の演説
◎バダンテールの死刑廃止演説
◎ロベール・バダンテール 死刑廃止演説 (1) (1981年9月17日、フランス国民議会)
◎ロベール・バダンテール 死刑廃止演説 (2) (1981年9月17日、フランス国民議会)
◎森達也インタビュー
2011-11-06
ダン・アリエリー、サンガジャパン、ヒクソン・グレイシー、湯浅勲
4冊挫折。
『不合理だからすべてがうまくいく 行動経済学で「人を動かす」』ダン・アリエリー:櫻井祐子訳(早川書房、2010年)/私が30代なら読んだことだろう。50歳近くなると、「人を動かす」ことには興味が湧かない。『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』を読めば十分だろう。
『サンガジャパン Vol.5(2011 Spring)』ティク・ナット・ハン、アルボムッレ・スマナサーラ、佐々井秀嶺、宮崎哲弥、田口ランディ、他(サンガ、2011年)/結構期待していたのだが、びっくりするほど面白くなかった。佐藤剛裕の名前を目にした時点で気づくべきであった。日本の仏教界が苫米地英人〈とまべち・ひでと〉に太刀打ちできない現状がよくわかった。
『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』ヒクソン・グレイシー、ミゲール・リーヴァスミクー構成(ダイヤモンド社、2010年)/翻訳者の名前がどこにもない。ま、その程度の本だ。構成以前の問題で、きちんとリライトすべきだろう。ネームバリューにぶら下がっただけの代物。
『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲(海鳥社、2003年)/定価5250円。古本屋で買ったのだが、それでも半額だ。もったいないので飛ばし読みする予定だ。出だしは好調なんだが、日蓮の章で明らかにトーンが変わる。突然、「日蓮大聖人」という表記になるのだ。しかも日蓮遺文の現代語訳については『日蓮大聖人御書講義』(聖教新聞社)から引用し、創価学会の池田大作名誉会長の著作からの孫引きが目立つ。湯浅は冒頭で孔子の「名を正す」ことを挙げておきながら、特定の人物に対して敬称を付与する過ちを犯しており、自語相違の謗りを免れない。真摯な思索の結論がプロパガンダの臭みを伴い、台なしになっている。出版社の見識を疑う。
2011-10-08
大田俊寛の中沢新一批判を「私怨」と決めつけた佐藤剛裕の言いわけ
大田俊寛と佐藤剛裕のツイートをまとめた。オブジェクトの埋め込みが上手くいかないので、テキストをそのままコピーさせてもらう。@ujikenorioさんからのRTで知った。
【大田俊寛】▼コミックナタリー編集長の唐木元さん(@rootsy)、文化人類学者の佐藤剛裕さん(@goyou)に対し、公開で質問させていただきます。お二方は、昨日10月5日のツイートにおいて、私がこれまで発した中沢新一氏への批判に対し、「私怨」に基づく「売名行為」ではないかと述べています。
【大田俊寛】▼具体的な経緯は以下の通り。まず唐木さんが佐藤さんに対し、「サイゾーの、太田という人はそんなに筋が悪くないのに、中沢先生をああも敵視するのはなんなのか、不思議に思えた。なんかうらみでもあんのかしらね。」とツイートしました。
【大田俊寛】▼これに対して佐藤さんは、「東大のグノーシス研究の人でしょう?彼、山口瑞鳳とか島田裕巳とかの私怨に満ちた言説を引き継いじゃってるんだよね。ただの売名行為なのか嫉妬なのかしらないけれど。」と返答し、唐木さんは「やっぱ私怨に見えるよねw。」と応じています。
【大田俊寛】▼私は中沢氏との個人的接触は一切なく、その批判が「私怨」に基づくものであるということはありません。『オウム真理教の精神史』でも述べたように、オウム事件を学問的にあらためて総括し、ひいては宗教学を再構築するというのが私の目標であり、中沢批判はその文脈に位置しているものです。
【大田俊寛】▼また、山口瑞鳳先生、島田裕巳氏による中沢批判についても、大枠としては、元オウム信者の高橋英利氏による「僕と中沢新一さんのサリン事件」(『宝島30』1996年2月号)という記事に基づくものであり、それを「私怨に満ちた言説」と捉えるのは当たらないと考えます。
【大田俊寛】▼唐木元さんや佐藤剛裕さんは、私を含むこれらの人々の中沢批判を、なぜ「私怨」から発するものと考えるのでしょうか。その根拠を提示していただきたいと思います。そしてその根拠が提示できない場合、発言を撤回していただきたいと思います。
【大田俊寛】▼唐木さんや佐藤さんが私のツイートを読む可能性は低いと思いますので、お二方とフォロー関係にあるという方がいらっしゃれば、私の質問に対して応答するように伝えていただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。
【佐藤剛裕】知らんぷりしようと思っていたんだけれど、わざわざRTしてくれる人もいるのでちょっと書こうかな。
【佐藤剛裕】@t_ota 大田さん、わざわざリプライをありがとうございます。大田さんが宗教学理論を再構築するという高い志を掲げているのに、私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう。いつか大田さんの著作を読んで詳細な議論をみれば、また見解が変わるのかもしれません。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 僕は宗教学理論を再構築するというような高い志を掲げて中沢新一を批判的に乗り越えようというような研究ならば、ぜひ読んでみたいと思っているんですよ。中沢のハイデガーの解釈のここがおかしい!とか、あの贈与経済学仮説にはここに不備がある!とかね。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota オウム事件についてなら週プレの「オウム信者への手紙」や別冊Imagoの「尊師のニヒリズム」、『緑の資本論』の「シュトックハウゼン事件」の批判などはなかなか出てこない。とくに事件直後の「オウム信者への手紙」では師弟間の癒着の問題の指摘もなされているのに。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 揚げ句の果てに主な論拠として出てくるが、あの一連の宝島30の記事だというのならば、およそ議論の本筋からは遠く離れた感情的なものになっているのではないかというのが正直な印象なのです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 印象だけで語るのもなんですから、とくに山口瑞鳳氏の言説が資料として不適切だということについては、やや専門的な話になるのですが僕の見解を示しておきます。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 近代チベット学の発展初期には、ゲルク派のセラ寺メ学堂に属する僧侶達を主な情報源とする帝政ロシア下のペテルスブルグ学派が一定の影響力を持っていました。セラ寺メ学堂はニンマ派を敵視する傾向の強い、ダライ・ラマ13世とは対立する政治集団の最大の本拠地でした。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 中央チベットのウ地方とツァン地方を治める氏族たちの古代から連綿と続く対立が原因となり、東チベットやモンゴル諸部族を巻き込んだ闘争が、ゲルク派の保守強硬派の極端な反ニンマ派的傾向を産みだしました。思想的発端も中世の古代史解釈にまで遡る根深いものです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 山口瑞鳳氏はそのようなゲルク派の反ニンマ派プロパガンダ言説を極端な形で受け継いで、ニンマ派の密教は全て性瑜伽だというような誤謬に満ちた主張を行っていました。そこに中沢新一がネパールでニンマ派の調査をして帰ってきたので、当然面白く思ってなかったようです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 宗教研究一般において、先行研究の成果というものは、情報提供者の政治的立場による偏向を読み取り補正してながら利用しなければならないものです。中沢新一批判という文脈で山口瑞鳳氏の言説を取り扱うのは、「ニンマ派って何?」という程度の知識では難しいはずです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota また、チベット学界における山口瑞鳳氏の研究全般の評価についての例として、1994年に書かれた批判論文をひとつご紹介します。福田洋一「日本のチベット学10年、−山口瑞鳳博士の研究を中心に−」『佛教學』36号 http://ci.nii.ac.jp/naid/40004207632
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 島田氏は大学時代の柳川ゼミの先輩・後輩の仲でもあり、あの事件に関連して大学を辞職させられるという辛いご経験をされて、中沢先生に対して個人的に複雑な感情が入り交じっていることはご本人も吐露している通りですから、その部分は考慮しなければならないでしょう。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota もちろん中沢新一先生と師弟関係にある僕の意見も批判的にお読みくださいね。中沢が反原発を掲げる環境保護政党を立ち上げようとしている時期だから、ネット上で中沢擁護の論戦を張ろうとしているに違いない!とか思って下さってもけっこうです(大爆笑)
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota ちなみに僕がサンガ・ジャパン第五号・第六号に寄稿した論考は、山口瑞鳳氏がしてきたようなゲルク派の立場からのニンマ派批判に対する反駁であり、同時にオウム真理教のグルイズムに対する批判でもあります。御笑覧下さい。『サンガジャパン Vol.5(2011Spring)』
【大田俊寛】★佐藤剛裕(@goyou)さん、ご回答有難うございました。しかし佐藤さんの回答は、腑に落ちないところがあります。佐藤さんは「文化人類学者」という立場にもかかわらず、私の言論に対して公開の形で中傷を行ったのですから、まず最初に、そのことを率直に詫びるべきではないでしょうか。
【大田俊寛】★また、山口瑞鳳先生にしても、島田裕巳氏にしても、中沢氏から何か個人的に被害を受け、それに恨みを抱いて中沢批判を行っているというのではまったくないのですから、それを「私怨」と捉えるのは、やはり当たっていないと考えます。
【大田俊寛】★今回特に、私が佐藤さんの発言に抗議しなければならないと思ったのは、山口瑞鳳先生の中沢批判、さらには、山口先生との対談が収められた高橋英利氏の「僕と中沢新一さんのサリン事件」(以下、高橋論考と略)までもが、「私怨に満ちた言説」の一言で切り捨てられているように感じたからです。
【大田俊寛】★私が高橋論考を読んだのは、遅ればせながら昨年の夏のことでしたが、私はこの論考から、いくつものことを教えられました。まずその一つは、二〇歳前後までは私も熱心なファンであった中沢新一という人物が、本質的にどのような人間性を備えているかということについてです。
【大田俊寛】★中沢新一氏は地下鉄サリン事件後、オウム信者を「本気で引き受ける」と発言し、高橋英利氏を含む元オウム信者は、オウムがどこで道を踏み外したのかということを、中沢氏に質問しました。それに対して中沢氏は、どのように答えたか。
【大田俊寛】★詳しくは高橋論考を実際に読んでいただきたいのですが、それは「サリン事件の被害者が一万人とか二万人の規模だったら別の意味合いがあった」「坂本事件の犯人はオウムではない」「オウム事件の背後には大きな謀略がある」といった、耳を疑うような発言の数々だったのです。
【大田俊寛】★その答えに納得できない高橋氏は、「それはどういう意味か」と中沢氏に問い質しましたが、中沢氏はそれには回答せず、高橋氏の行動や人格を非難・侮辱する発言を繰り返した挙げ句、最後には一方的に「絶交」を宣言したのです。
【大田俊寛】★ここから分かるのは、中沢氏の思考が、きわめて濃密な幻想によって覆われているということです。こうした人間は、自分の幻想を共有してくれる人々に対しては、海のように深い優しさや包容力を示しますが、その人間が自分の幻想を否定していると分かるやいなや、態度を大きく豹変させます。
【大田俊寛】★そしてその際には、最初の人格とは正反対の人格、すなわち、陰湿な攻撃性や、混乱した感情に満ちた人格が現れてくるのです。率直に申し上げて、私はここに、「カルトの教祖」に類似したと言って過言ではない、特異な精神性の存在を感じ取らざるを得ません。
【大田俊寛】★第二に、中沢氏のチベット密教研究が、信頼に値しないものであるということです。もちろん、中沢氏を批判する山口瑞鳳氏のチベット密教理解もまた、一定の偏りや単純化が見られるものであるというのは、おそらくその通りだろうと思います。
【大田俊寛】★しかし、高橋氏のように、中沢氏の『虹の階梯』に真理性を見出してオウムに入信したという人間にとって、山口氏という専門家から中沢氏への苛烈な批判を聞かされたこと、また、仏教やチベット密教についての違った視点を与えられたことは、大きな意味があったのではないでしょうか。
【大田俊寛】★福田洋一氏の「日本のチベット学10年」も拝読しました。この論考は、チベット学の権威としての山口氏の業績を認めた上で、まさにそれを批判的に継承しようとしたものです。山口氏が盲目的に崇拝されていないという点で、日本のチベット学の学問的健全性を示していると感じました。
【大田俊寛】★それに比して気になるのは、中沢新一氏は、日本においておそらくもっとも著名なチベット密教研究者でありながら、この論文では一顧だにされていないということです。福田洋一氏もまた、山口氏と同じく、中沢氏の研究は学問的には「論外」であると見なしているのではないですか。
【大田俊寛】★また、手元に『サンガジャパン Vol.6』を持っていたので、佐藤さんの「ダライ・ラマの慈悲とチベットの大地母神」を読みましたが、これのどこが山口批判やオウム批判になっているのか、門外漢の私にはよく分かりませんでした。もっと直接的な批判的論考を、別に書くべきではないでしょうか。
【大田俊寛】★中沢氏の「シュトックハウゼン事件」(『緑の資本論』所収、2002年)にも目を通しました。率直に申し上げて、唾棄すべき愚劣な論考、というのが私の印象で、これまで私が言ってきたとおり、中沢氏にはそもそもオウム事件を反省しうるだけの知的能力がないという事実を再確認させられました。
【大田俊寛】★音楽家シュトックハウゼン氏の舌禍事件と、宗教学者である中沢氏のオウム礼賛は、根本的に水準の違うものであり、両者を比較しても意味がありません。そして何より気になるのは、中沢氏がこの論考において、宗教の本質が「聖なる狂気」にあるという見解を繰り返していることです。
【大田俊寛】★宗教や芸術の本質は「聖なる狂気」にあり、それは場合によっては、圧倒的暴力や破壊に行き着くこともある。それを理解しない一般社会は、宗教家や芸術家の崇高な行為を妨害し、彼らを不当に貶めるための陰謀を張り巡らしている…。中沢氏の思考回路は、オウム事件以前と何ら変わっていないのです。
【大田俊寛】★今回中沢氏が、緑の党を結成して政治進出する意志を発表したことについて、私は中沢氏が、約二万人に及ぶ犠牲者を出したことで東北地方の「霊的磁場」が変わり、そこに救済者として降臨するという幻想でも抱いているのではないかという危惧を覚えずにいません。これは私の根拠のない妄想でしょうか。
【大田俊寛】★幻想やオカルトにしか触れたことのないロマン主義的思想家が、現実社会に不満を覚えて政治参加を志すとき、それがどれだけの惨禍を引き起こしてきたかを、私たちはもう知っているはずなのです。今の日本社会は、こうした幻想家に関わり合う余裕はもうないはずだというのが、私の考えです。(終)
【唐木元】@t_ota 大田さんはじめまして。ツイート拝読したのでまずはそのことをお知らせしますね。ご質問ですが、あとでメールでお返事する形にさせてください。その文面を公開なさるかどうかはお任せします。OKなら空メールで結構ですのでgen@rootsy.netまで1通投げてください。
相手に読まれることが十分想定されるにもかかわらず佐藤剛裕は「知らんぷりしようと思っていたけれど」と前置きし、「私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう」と他人事みたいにとぼけている。完全に罪悪感が欠如しており境界性人格障害傾向が窺える。
・人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見
今後、佐藤剛裕と唐木元の名前を見つけたら、私はその本を極力読まないようにする。
・自ら「グル」になろうとした中沢新一ら研究者たちの罪と罰
・中沢新一批判をめぐる論争:togetter
・岩上安身×宮崎哲弥 ぼくらの「オウム」戦争(『宝島30』1996年6月号)
・大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ
・山形浩生 の「経済のトリセツ」
2011-08-21
「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
・『望郷と海』石原吉郎
・石原吉郎と寿福寺
・常識を疑え
・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた
・『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
・『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
すでにヤルタ会談(45年2月)で、ルーズベルト米大統領がスターリンに対して、対日参戦の代償として、「莫大な戦利品の取得」「南樺太・千島列島の割譲」「大連を自由港とし、ソ連の優先権を認める」などの密約をしていたし、「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていたが、日本政府にそうしたスターリンの横暴を許す姿勢がなかったとは言えない。
45年5月には、同盟国だったナチス・ドイツが無条件降伏して、ますます窮地に追い込まれた日本政府は、不可侵条約を結んでいたソ連を仲介にして和平交渉を進めようと、7月20日、近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣する計画を立て、「和平交渉の要綱」なるものをつくったが、それには次のような条件が含まれていたという。
一、国体護持は絶対にして、一歩も譲らざること。
二、戦争責任者たる臣下の処分はこれを認む。
三、海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、やむを得ざれば、当分その若干を残留せしむることに同意す。
四、賠償として、一部の労力を提供することに同意す。
事態が急速に悪化して、この近衛特使派遣は実現しなかったが、日本政府みずから、「国体護持」(天皇制護持)を絶対的条件とする代りに、“臣下”の戦犯処分、シベリヤ抑留・労働酷使に道を開くような提案を用意していたのだ。
【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】
そして今、シベリア抑留者と全く同じように、福島の人々が見捨てられているのだ。守るべき国民の生命は脅かされ、国家の体面だけを優先している。
・「岸壁の母」菊池章子
・「国家と情報 Part2」上杉隆×宮崎哲弥
・真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
・瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎
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