・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・統合失調症への思想的アプローチ
・『時間と自己』木村敏
・『新版 分裂病と人類』中井久夫
統合失調症を思想面から捉え、システムとして読み解こうとしている。文学的情緒からアプローチした渡辺哲夫と正反対といっていいだろう。
実は読み始めて直ぐ挫折しそうになった。文章が才走り、ツルツルしすぎているためだ。簡単に言えることを、わざわざ小難しくしているような印象を受けた。1973年から版を重ねてきた理由を知りたくて何とか読み通した。
木村は精神分析の世界に道元や西田哲学を持ち込んだことで名を知られているようだが、あまりよくわからなかった。そもそもユングと唯識(ゆいしき)は親和性が高いし、仏を医師に譬(たと)える経文も多いのだから、さほど驚くことでもあるまい。
心理学は学問の世界で長きにわたって低い位置にあった。現在でも低いかもしれない。まず、この分野が果たして学問たり得るのか? という根本的な問題がある。フロイトを占い師みたいに扱う人も多い。因果関係の特定が困難なこともさることながら、心理療法として考えると「治ればオッケー」みたいなところもある。
精神疾患のことを昔は精神病と言った。精神異常とも気違いとも言っていた。日本の人権感覚は現在の中国と遜色がなかったと考えてよかろう。たかだか30年ほど前の話だ。
本書のタイトルは精神異常と、異質なものを排除する社会構造とを掛けたものだ。
異常とは「常と異なる」ことだ。異常気象など。ところがこの「常」が普段や普通を意味すると、「あいつは普通じゃない。異常だ」となる。つまり、皆と同じではないこと=異常という図式である。昔はまだ「はみ出し者」がドラマの主人公たり得た。ところが社会が高度に情報化されると、極端にドロップアウトを忌避するムードが蔓延した。学校におけるいじめとの関連性もあるかもしれない。
木村は「合理性」について疑義を示す。
現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、そのうえに基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかに自らの堅固さを盲信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者(さんだつしゃ)が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を反対にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺した先の主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶しにしようとするだろう。これは、現代の合理主義者会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人とほかの人びととの間の【関係の異常】として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。
【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)以下同】
権力者が交代すればルールも変わる。なぜなら権力とは「俺がルールだ」という仕組みであるからだ。猿山のボスと内閣の首相は一緒だ。社会的な意味合いとしては何も変わらない。服を着ているかいないかという程度の違いだ。
木村は持って回った書き方をしているが、要は権力交代時における暴力性を新勢力がどう正当化するかということだろう。あまり無理無体なことをしてしまうと寝首を掻(か)かれる恐れがある。暴力は数の論理だ。基本的には人数に左右される。
ここから振り下ろされた刀は更に「常識」へと向かう。
さてこれが、アリストテレスのいう「共通感覚」すなわちコイネー・アイステーシスのおおよその意味である。さきに述べたように、このコイネー・アイステーシスがラテン語に訳されてセンスス・コムーニスとなり、それがやがて「常識」の意味に用いられるようになって、現代のコモン・センスという言葉になった。元来は一個人内部の感覚としてとらえられていた「共通感覚」が、いつどのような経路をへて世間的な「常識」の意味に転じてきたのかについては、ここでは詮索しない(カントの『判断力批判』においては、すでにセンスス・コムーニスの語が常識に近い意味で用いられている)。だがこのようにして意味の転化は生じたにせよ、私たちの用いている「常識」の概念とアリストテレスの「共通感覚」の概念との間には、どこかに隠された深いつながりが残っているはずである。
孔子は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)と教えた。これが常識というものだ。だが、「して欲しくないこと」は人によって異なる。善意が仇をなすこともある。結局、常識は概念なのだ。それゆえ常識に囚われた人ほど異常を恐れる。「非常識よね」を連発する。
私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とが同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、かならずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界はけっして同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界はまったく違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に【認識的】な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが【認識的】な態度をやめて【実践的】な態度で世界とのかかわりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。
世界は人の数だけ相対化されるのだ、という私の持論と同じことが書かれている。なぜなら、世界を構築ならしめているのは私の五感であって、知覚されたものが世界であるからだ。もう一歩踏み込むと「知覚された情報空間」が世界の正体だ。だから当たり前の話であるが、あなたと私の世界は違う。それどころか昨日の私と今日の私とでも異なる場合があり得るのだ。
コミュニティは利益を共有する集団であるゆえ、常識やルールで折り合いをつける必要がある。これを我々は「普通」と称している。
木村のいう「実践的」とは「主体的なコミュニケーション」と言い換えてよい。ところが我が国には「出る杭は打たれる」という精神風土がある。出るのも引っ込むのも異常ってわけだ。1億人で行うムカデ競争。
私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これは決して常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。
この言葉からは力が感じられない。熱意も伝わってこない。論にとどまっていて、言葉をこねくり回しているだけだ。例えば先日起こった癲癇(てんかん)が原因とされている交通事故、古くは日航機逆噴射事故(1982年)、あるいは浅草レッサーパンダ事件(2001年)などの痛ましい事故や事件が実際に起こっている。
・『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
他人に危害を及ぼさないのであればいくら論じてもらっても構わないが、殺傷事件となれば話は別である。
精神といったところで脳の機能である。精神疾患が直ちに犯罪の構成要因になるとは思わない。逆説的になるが犯罪という異常行為にブレーキが利かないのは脳に問題があるからだと私は考える。
これは一筋縄ではいかない問題だ。教育が「常識」を押しつけ、鋳型にはめ込んで整形することによって、異形の人間をつくっている可能性もあるからだ。価値観が多様化してくると、社会そのものからストレスを感じる人も増えてゆく。
昨今増えている自閉傾向が見られる軽度発達障害(LD、ADHD、アスペルガー症候群など)も遺伝要因なのか環境要因なのかすら明らかにはなっていない。などと、書いている自分を疑う必要だってあるのだ(笑)。
最終的には暴力と抑圧に行き着くテーマである。そして病人とどう付き合うかは、自分が病気とどう向き合うかと同じ問題である。
・欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ