・マッカーサーが恐れた一書
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『パール判事の日本無罪論』田中正明
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日本の近代史を学ぶ
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必読書リスト その四
占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない。
――ダグラス・マッカーサー(ラベル・トンプソン宛、1949年8月6日付書簡)
【『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ:伊藤延司〈いとう・のぶし〉訳(角川ソフィア文庫、2015年/角川文芸出版、2005年『アメリカの鏡・日本 新版』/アイネックス、1995年『アメリカの鏡・日本』)以下同】
新書で
抄訳版も出ているが、「第一章 爆撃機からアメリカの政策」と「第四章 伝統的侵略性」が割愛されており、頗(すこぶ)る評判が悪い。完全版が文庫化されたので新書に手を伸ばす必要はない。むしろ角川出版社は新書を廃刊すべきである。
マッカーサーが恐れた一書といってよい。ミアーズは東洋史の研究者で、戦後はGHQの諮問機関である労働政策委員会の一員として二度目の来日をした。原書は1948年(昭和23年)に刊行。戦前のアメリカ政府による主張とあまりに異なる内容のためミアーズの研究者人生は閉ざされた。
私は打ちのめされた。アメリカに敗れた真の理由を忽然と悟った。アメリカにはミアーズがいたが、日本にミアーズはいなかった。近代以降の日本は「アメリカの鏡」であった。遅れて帝国主義の列に連なった日本は帝国主義の甘い汁を吸う前に叩き落とされた。本書を超える書籍が日本人の手によって書かれない限り、戦後レジームからの脱却は困難であろう。
なぜ日本を占領するか
日本占領は戦争行動ではなく、戦後計画の一環として企てられたものである。私たちは勝利に必要な手段として、日本を占領したのではない。占領は日本に降伏を許す条件の一つだったのだ。この方針は1945年7月27日のポツダム宣言で明らかにされている。同宣言は日本民族が絶滅を免れる最後のチャンスとして、不定期の占領に服さなければならない、占領は日本の文明と経済の徹底的「改革」をともなうが、もし、これに服さなければ、日本は「即時かつ完全な壊滅」を受け入れなければならない、というのだった。
この厳しい条件は日本の態度を硬化させた。そして、宣言発表から10日後、私たちは1発の原子爆弾を投下して、この条件が単なるこけ脅しではないこと、日本を文字どおり地球上から消し去ることができることを証明してみせた。私たちは、もし日本がすぐさま惨めにひれ伏して降伏しなければ、本気で日本を消滅させるつもりだったのだ。
ポツダム宣言が発表されたのは「7月27日」ではなく26日である(アメリカ時間か?)。日本政府は8月14日にこれを受諾した。広島への原爆投下が8月6日で、長崎が9日である。ミアーズはアメリカ人なので致し方ないが、日本政府がポツダム宣言受諾を決定した最大の理由は
ソ連対日参戦(8月9日)であった。そして8月14日には陸軍エリートが
宮城事件を起こし、埼玉では
川口放送所占拠事件(8月24日)が発生する。
尚、ポツダム宣言に署名したのは米・英・中華民国であって中華人民共和国ではない。巷間指摘される通り「中国3000年の歴史」という言葉はデタラメなもので、中華人民共和国の歴史は70年にも満たない(1949年建国)。シナという地理的要件がたまたま一致しているだけで国家としての連続性はなく、王朝がコロコロ変わるのがシナの歴史であった。「中国」という幻想をしっかりと払拭しておく必要があろう。
つまり、日本占領はアメリカの戦争目的の一つだったのだ。では、いったい、日本を占領する私たちの目的は何なのか。その答えは簡単すぎるほど簡単だ。この疑問に悩んで眠れなくなったアメリカ人はいまい。答えはたったひと言「奴らを倒せ、そして倒れたままにしておけ」である。これ以上のことをいうにしても、せいぜい、日本人が二度と戦争を起こさないよう「民主化」しよう、ぐらいのものなのだ。
国民の考えは、カイロとポツダムの両宣言から、占領後のホワイト・ハウス声明、ポーリー報告、マッカーサー将軍をはじめとする軍、政府首脳が出した数多くの通達にいたるまで、公の、あるいはそれに準ずる文書の中でいわれてきた戦争目的と見事に一致していた。
すべての文書が、断固として日本を「懲罰し、拘束する」といっていた。懲罰によって「野蛮な」人間どもの戦争好きの性根を叩き直し、金輪際戦争できないようにする。そのために、生きていくのがやっとの物だけを与え、あとはいっさいを剥ぎ取ってしまおうというのだった。占領の目的は1945年9月19日、ディーン・アチソン国務長官代行が語った言葉に要約される。
「日本は侵略戦争を繰り返せない状態に置かれるだろう……戦争願望をつくり出している現在の経済・社会システムは、戦争願望をもちつづけることができないように組み替えられるだろう。そのために必要な手段は、いかなるものであれ、行使することになろう」
ソ連参戦によって日本政府が恐れたのは共産主義化が国体を滅ぼすことであった。
ゾルゲ事件(1941-42年)で近衛内閣のブレーンを務めた尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉までもがソ連のスパイであることが発覚した。
中華民国の蒋介石は既に反共から容共に転じていた。そしてアメリカもまた共産党勢力に冒されていたのである(『
日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫)。GHQは分裂していた。占領初期~民主化~マッカーサー憲法を推進した
民政局(GS)はニューディーラーと呼ばれる左派(社会民主主義者)の巣窟であった。一方、
チャールズ・ウィロビー少将が率いる参謀第二部(G2)は保守派であり、GSとG2は激しく対立していた。
世界恐慌(1929年)から
ブロック経済への移行が第二次世界大戦の導火線となったわけだが、大統領選挙で
ニューディール政策を掲げた
フランクリン・ルーズベルトは社会民主主義色が強く、「ルーズベルトは民主主義者から民主主義左派・過激民主主義者を経て、社会主義者、そして共産主義支持者へと変貌していった」(
ハミルトン・フィッシュ)との指摘もある(『
日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』深田匠)。
日本政府が最後通牒と受け止めたハル・ノートには二案あり、採用されたのは
モーゲンソー私案である。これを作成した
ハリー・デクスター・ホワイトはソ連のスパイであった(『
秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男)。第一次世界大戦後、世界中を共産主義の風が吹いていた歴史の事実を忘れてはなるまい。
敗戦が確定した時点で国体の命運は定まっていなかった。GSが支援した
片山社会党内閣(1947-48年)に続き、
芦田民主党内閣(1948年)を挟んで
第二次吉田内閣(1948-49年)が誕生する。GHQの主導権はGSからG2へと移り変わり、
レッドパージ(1949年)の追い風を受けた吉田内閣は
第五次(1953-54年)まで続いた。吉田首相は国家の自主防衛を捨てても国体を護る道を選んだ。その功罪を論(あげつら)うのは後世の勝手である。しかし吉田が天皇制を護ったのは事実である。辛うじて国体は護持し得たが国家としての日本は破壊された。
大東亜戦争は日本の武士道がアメリカのプラグマティズムに敗れた戦争であったと私は考える。大日本帝国の軍人は軍刀を下げていた。対面を重んじて実質を軽んじた。開戦そのものが見切り発車で、石油の備蓄は2年分しかなかった。つまり最初から2年以上戦うつもりはなかったのだ。明治維新の会津藩と日本の姿が重なる(
会津藩の運命が日本の行く末を決めた)。規範を疑うことを知らず、視線は常に内側に向けられたまま、外部世界との戦いに翻弄された。
GHQによって日本は「二度と戦争のできない国」に改造された。GSとG2の分裂による迷走は今尚、日本を二分している。冒頭に掲げたマッカーサーの言葉は意味深長である。多くの日本人が本書を読んでないのだから、GHQの占領はまだ続いていると思わざるを得ない。
ヘレン・ミアーズ
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