・鉄オタ父子鷹と思いきや……原丈人が描く壮大な日本の未来図
・原丈人〈はら・じょうじ〉の父と祖父
・『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人
偶然見つけた動画である。いやあたまげた。凄い人物がいるものだ。父、祖父のエピソードもドラマチックで味わい深い。原の風貌および声、挙措は現代に生きる武士(もののふ)を思わせる。もしもかなうものなら工藤美代子か中丸美繪に評伝を書いてもらいたい。関連リンクは後日紹介する。
鹿野の絶食さわぎは、これで一応おちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追求を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当たったのは施(シェ)という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追求しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。〈協力〉とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。
鹿野はこれにたいして「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。取調べが終ったあとで、彼はこの言葉をロシヤ(ママ)文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。
その時の鹿野にとって、おそらくこの言葉は挑発でも、抗議でもなく、ただありのままの事実の承認であっただろう。だが、こうした立場でこのような発言をすることの不利は、鹿野自身よく知っていたはずである。私はまたしてもここで、ペシミストの明晰な目に出会うのである。私には、そのときの鹿野の表情がはっきり想像できる。そのときの彼の表情に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。真実というものは、つねにそのような表情でしか語られないのであり、そのような表情だけが信ずるに値するのである。まして、よろこばしい表情で語られる真実というものはない。
施は当然激怒したが、それ以上どうするわけにも行かず、取調べは打切られた。爾後、鹿野は要注意人物として、執拗な監視のもとにおかれたが、彼自身は、ほとんど意に介する様子はなかった。
私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている。
【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】
「国が廃墟(はいきょ)となり、自分たちの身はこうした万里(ばんり)の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。
そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途方(とほう)にくれるというほかはない。
いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯(きょうがい)がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはこれからの苦しいことも覚悟しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえ(ママ)って、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙(だま)ってきいていました。
誰(だれ)もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
おもえば、われわれは歓呼(かんこ)の声におくられ、激励(げきれい)されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不吉(ふきつ)な気分がみちみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮(う)わついて空疎(くうそ)でした。酔っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。
【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】
『日本童謡事典』の「埴生の宿」p323-32の解説によれば,「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。
【レファレンス協同データベース】