・『流れる星は生きている』藤原てい
・『旅路』藤原てい
・『妻として母としての幸せ』藤原てい
・『劒岳 点の記』木村大作監督
・『我が家の流儀 藤原家の闘う子育て』藤原美子
・『家族の流儀 藤原家の褒める子育て』藤原美子
・藤原ていの覚悟
・『藤原家のたからもの』藤原美子
・『藤原正彦、美子のぶらり歴史散歩』藤原正彦、藤原美子
まだ新婚生活がスタートしたばかりのころ、私が物干し竿に洗濯物を広げていると、私の姿を見つけた母が嬉しそうに庭に下りてきた。
「いい光景だねえ。お日様がさんさんと降り注いで、洗いたての洗濯物が風に揺れている。美子さんは若くて溌剌(はつらつ)としている。この幸せがいつまでも続くように思っているでしょうけど、私たちの時代にはある日、いきなり夫が戦地へ連れていかれたりしたのですよ」
と言った。母は柿の若葉をまぶしそうに見上げた。そして「いま戦争が起きたら、美子さん、どうしますか」と聞いた。
戦争が起きたら、なんて考えたこともなかった。(中略)
「美子さん、正彦をどんなことがあっても戦地に送ってはいけないですよ。そのときには私が正彦の左腕をばっさり切り落としますからね。手が不自由になれば、召集されることはありません。右手さえあればなんとか生きていけますから」
と毅然として言った。ばっさり腕を切り落とす。まだ若い息子の白い腕をばっさりと。母と一緒に見上げていた柿の枝が夫の腕に見えてきた。私は柔らかな葉の隙間から洩れる光の中で、軽いめまいがした。微塵の迷いもない母の強い語気に、まだ若い私はしばらく言葉を継げずにいた。
「それにしてもお母様、よく幼い3人を満州から無事に連れ帰ることができましたね」とやっとの思いで言うと、
「引き揚げてきたときに一番弱かったのは独身男性ですよ。守るべき者がいない人は簡単に首をくくってしまう。私には命がけで守らなければいけない子供たちがいましたからね。しかしあのような状況のときには、溢れるように出ていたお乳もぴたりと止まってしまうんですよ。赤ん坊には噛み砕いた大豆を口移しで与えたりしてどうにか連れ帰ってきたけれども、日本にたどり着いたときには1歳2ヶ月になる娘の髪は真っ白、顔はしわくちゃ、おなかばかりが膨らんで身体は私の掌に乗るほど小さかったですよ」
と言った。引き揚げの話になると、母はいつにもまして言葉に力こもるのだった。
修羅場ともいえる世界をくぐってきた母は、その後の平和な世になっても常にいざという事態に備えているように見えた。
【『夫の悪夢』藤原美子〈ふじわら・よしこ〉(文藝春秋、2010年/文春文庫、2012年)】
藤原美子の名前は『月の魔力 バイオタイドと人間の感情』(1984年)で知っていた。よもやこんな美人だとは思わなかった。藤原正彦の顔を知っていれば、二人が夫婦であることに群雲(むらくも)のような疑問が湧く(笑)。しかも文章がよい。まさに才色兼備。
藤原正彦は若い時分から父・新田次郎(本名は藤原寛人〈ふじわら・ひろと〉)の原稿を読み、美子は正彦の原稿を読み、文体が継承されている。そんな家族のつながりも興(きょう)をそそる。
敗戦後に3人の子らと1年以上にわたる決死の逃避行(徒歩で700km以上)をした藤原ていの言葉には千鈞の重みがある。しかも子を守らんとする激しい愛情がいかにも女性らしい。戦う場所が男と女では違うのだ。
私は後になって知ったのだが実は新田次郎よりも藤原ていの方が作家デビューが早い。しかも第一作がベストセラーとなった。新田は自分が書いた原稿を妻に見てもらっていたが、必ずクソミソに貶(けな)されたという。そうして次男の正彦に原稿が渡されるようになった。正彦に「書く」ことを勧めたのも新田である。
藤原夫妻は既に日本を代表するエッセイスト(ユーモリストでもある)として知られるが、親子、夫婦、家族のつながりがしっかりとした軸になっており、更には戦前と戦後のつながりまでがよく見渡せる。それを一言で申せば「昭和」ということになろうか。
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