2019-01-12

思想する体/『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『究極の身体(からだ)』高岡英夫

 ・思想する体

『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
『アイ・ボディ 脳と体にはたらく目の使い方』ピーター・グルンワルド
『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編

身体革命
必読書リスト その二

 われわれは自らの自己イメージ通りに行動する。この自己イメージは――他方ではわれわれのあらゆる行動を支配するが――程度の差こそあれ、遺伝、教育、自己教育という三つの要因に制約される。
 遺伝的にうけついだものは、もっとも不変の部分である。個人の生理学的資質――神経系、骨格、筋肉、体内組織、腺、皮膚、感覚器の形態と能力――は、なんらかの独自性が確立されるはるか以前に、身体的遺伝によって決定されている。その自己イメージは、自然の成り行きのなかで体験する行動と反応から生まれ発育する。
 教育は、ひとの言語を決定し、特定の社会に共通した概念と反応のパターンをつくりあげる。このような概念と反応は、生をうける環境次第でさまざまであろう。それらは種としての人間の特質ではなくて、ある集団や諸個人の特質なのである。
 教育が自己教育の方向を大部分決定するとはいえ、自己教育は、われわれの成長発展にとってもっとも積極的な要素であり、生物学的起源をもつ諸要素よりもはるかに多く社会的に活用される。自己教育は、外からの教育を身につける方法を左右するだけでなく、習得すべき材料の選択と同化できない材料の拒絶に影響を与える。教育と自己教育は断続的に行なわれる。

【『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス:安井武訳(大和書房、1982年/新装版、1993年)】

 フェルデンクライス・メソッドは動作法である。体操ではない。正式にはソマティック・エデュケーションというらしい。直訳すれば「身体教育」だが「心身技法」とすべきだろう。気づきや内発性に重きを置くところに特徴がある。

 ルドルフ・シュタイナーオイリュトミーリトミックよりも負荷は弱い。

 アレクサンダー・テクニーク成瀬悟策〈なるせ・ごさく〉の心療動作法と同じジャンルと考えてよい。モーシェ・フェルデンクライスはフレデリック・マサイアス・アレクサンダーからレッスンを受けていたとのこと(ソマティック・エデュケーションとは | アレクサンダーテクニークの学校)。

 肉体との対話によって思想する体が形成される。無自覚な姿勢や動きが体の自由を損ない、肩凝りや猫背、腰痛となって現れる。日常生活で筋肉や骨を意識することは殆どない。我々が体を意識するのは病気や怪我をした時に限られる。身体障碍者のリハビリは時に運動部の練習よりも過酷の度合いを増すという。であれば元気なうちから体の内側に眼を向け、耳を澄まし、鍛えておくべきだろう。

 プロスポーツ選手でもフェルデンクライス・メソッドを実践している人がいる。やはり人によるのだろう。私は全くやる気が起こらなかった。ところがである。フェルデンクライスの言葉は刮目(かつもく)に値する。竹内敏晴や高岡英夫と完全に共鳴している。むしろ思想性では一歩先を行っている。

 フェルデンクライスがいう「イメージ」とはスタイルと言い換えてよい。「表現のなかで、人間がいちばん惹(ひ)かれるのは、その文体、スタイルである。人間を好きになる場合でも、その人のスタイルを好きになるのだ。どう生きているか、といった対他的、対社会的スタイルに共鳴するかしないか、である」(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。

 自分が自分らしくあろうと努めて確立したスタイルの結晶が「私」である。つまり「私」とは単なるイメージに過ぎない。そこにあるのは「私」という反応だけだ。ひょっとすると「私」という情報すら錯覚かもしれない。

 しかしながら、観察者と観察されるものとのあいだに分裂があるときには、葛藤があります。
 私たちの、他の人たちとの関係というのはすべて――親密なものであろうとなかろうと――分裂や分離に基づいています。
 夫は妻についてのイメージをもち、妻は夫についてのイメージをもっています。そういったイメージが、何年にもわたり、快楽や苦痛、いらだち、その他もろもろを通じて、ひとまとめにされてきたのです――ご承知のとおりの、夫と妻とのあいだの関係です。
 ですから、夫と妻との関係というのは、実際にはふたつのイメージのあいだの関係なのです。性的なことすら――その行為のなか以外のところでは――そのイメージが重要な役どころを演じているのです。
 そういうわけで、人が自分を観察すると、関係のなかで絶えずイメージを構築し、それゆえ分裂を生じさせていることがわかります。
 そのため、実際には関係というものなどまったくないのです。
 人は家族や妻を愛していると言うかもしれませんが、それはイメージであり、それゆえそこには実際の関係などなにもないのです。
 関係とは、物理的な接触だけではなく、心理的になんの分裂もない状態をも意味します。(スタンフォード大学での四つの講話)

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

 病気や障碍を受け容れることが難しいのも過去のイメージを手放すことができないためだ。我々はイメージを持つことで現実性を見失っているのだ。ジョン・レノンは「想像してごらん」と歌ったが、想像を振り捨てて目の前の現実をありのままにただ見つめることが正しい。

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2019-01-10

最後の元老・西園寺公望/『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦

 ・最後の元老・西園寺公望

『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 西園寺(さいおんじ)は公卿(くぎょう)である。公卿は百六十家あるというが、そのなかでもっとも格式が高いのは五摂家(ごせっけ)であり、近衛篤麿(このえあつまろ)、その子の文麿(ふみまろ)を出した近衛家はその一つである。その次は九清華(せいが)であり、維新後の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)を出した三条家西園寺家が含まれる。つまり、公卿のなかでもトップの十分の一に属する名門である。

【『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2000年/PHP文庫、2003年)以下同】

 西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉は明治維新から支那事変までを生き抜いた最後の元老(げんろう)である。陸奥宗光と共に伊藤博文を支えた。伊藤の腹心とする向きが多いが彼らの関係は朋友であった。

 政治の場においては、すべての歴史家が指摘するように無欲恬淡(てんたん)、権力にも金にもまったく執着するところがなかった。というよりも、公卿育ちのわがままで、面倒なことにかかずらうのが嫌だったのであろう。
 東洋自由新聞社の社長になったときも、「社長もいいが僕には到底真面目(まじめ)の勤めはできぬ」というと、「それもよく心得ている」といわれてなったと追想しているが、謙譲でなく本音であろう。外国でも日本でも、文人墨客(ぶんじんぼっかく)、才子佳人(さいしかじん)と付き合うほうに強い関心があった。かつて大磯の伊藤博文の邸(やしき)で、尾崎行雄に対して「政治などということは、ここのおやじのような俗物(ぞくぶつ)のすることだ」と吐き棄てるようにいったという。

 最後の一言がいい。8歳違いの伊藤を「おやじ」呼ばわりした若気(わかげ)の至りも好ましい。一億総町人のような現代社会には貴族が存在しない。金持ちはいる。が、彼らに西園寺のような矜恃(きょうじ/「矜持」と「矜恃」の本来の意味と違い)は持ち得ない。金儲けに腐心する輩は利で動く。経団連を見れば一目瞭然である。国の行く末よりも自社の利益しか眼中にない連中だ。

 かねがね記しているように私は民主政という制度を全く信用していない(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。むしろエリートや貴族が政治を担い、国民をリードするべきだと考える。戦前の政治家で私腹を肥やした者は殆どいないという。井戸塀政治家(いどべいせいじか)という言葉があったほどだ。自民党が金権腐敗に染まったのは田中角栄以降のことだろう。

 貴族は遊民というよりも国家にとっての遊撃と私は考える。

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若き日の感動/『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃

2019-01-09

若き日の感動/『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃


 ・中国人民の節度
 ・若き日の感動

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦

「我々は口ではどんな格好のよい事も言える。しかし、問題は実践だ。君達は準備討議の時、たくさん立派な事を言った。でも実際行動はまるで正反対だ。働けば疲れる。コヤシは臭い。臭くないと言ったら嘘だ。しかし、疲れるのを嫌がったり、臭い仕事から逃げるのは思想問題だ。それに、疲れる仕事、臭い作業も誰かがやらねばならない。僕はそういう仕事こそ進んでやるべきだと思う。それを一つの鍛錬の場と思い、喜んでやるべきだ。それでこそ進歩するんだ。口でいくら進歩すると言っても、結局は実践の中で努力して、初めて実現するんだ。口先だけの革命の本質は、不革命か反革命なんだ」

【『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉(中央公論社、1971年)以下同】

 35年前に読んだ本である。同じ頃に本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社、1972年)も読んでいる。1980年代はまだ進歩的文化人が大手を振って歩いていた。知識がなければ判断力が働かない。直接会えば声や表情から真実を辿ることは可能だが、読書の場合かなり難しい。例えば相対性理論に関する間違いだらけの解説書を読んでも素人には判別しようがない。特に大東亜戦争を巡る歴史認識は専門家たちによって長く目隠しをされてきた。

 若さとは「ものに感じ入る」季節の異名であろう。10代から20代にかけてどれほど心の振幅があったかで人生の豊かさが決まる。西園寺少年が直接見聞した中国の姿に私は甚(いた)く感動した。社会主義国の高い政治意識に度肝を抜かれた。

「あの店はあなた方、外国同志達のためにあるのです。私もあの店の洋菓子がおいしいことを知っています。でも今は食べません。もう少ししたら、我々は今の困難(100年振りの大災害による食糧不足)を克服して6億人民全部がいつでも好きなだけ、おいしい菓子を食べられるようになります。そうしたら食べます。その時は、おいしい菓子が一段とおいしく感じられるでしょうから、その時までとっておきますよ」
 と言って笑った。彼はその日、中国の笑い話やことわざについて色々と話してくれ、僕達を腹の皮がよじれるほど笑わして帰っていった。しかし、彼の前に出されたシュークリームはそのまま残っていた。僕達一家4人は、同じように手をつけなかった菓子を前に、妙に白けた気持ちになった。僕は苦いものを飲み込むようにそれを食べた。少しもおいしくなかった。

 これらのテキストは当時私がノートに書き写したものだ。他にもまだある。

 西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉の父・公一〈きんかず〉が尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉(『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫)の協力者でゾルゲ事件に連座して公爵家廃嫡となったのを知ったのは最近のことだ。公一〈きんかず〉は西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉の孫である。

 公一〈きんかず〉は真正の共産主義者であった。息子の一晃〈かずてる〉が同じ道を歩むのは当然だろう。とすると本書はただのプロパガンダ本ということに落ち着く。著者は嘘つきだったのか? その通り。西園寺は「大災害による食糧不足」としているが、実際は毛沢東が行った大躍進政策が原因であった。中国人が語った「今の困難」とは5000万人の餓死を意味する。まるで秋にやってくる台風のような書きぶりだ。左翼に限らず主義主張に生きる者は都合の悪い事実に目をつぶり、自分たちに都合のよいことは過大に評価する。

 若き日の感動は長く余韻を残しながらも、情報は書き換えられて更新されてゆく。今となっては嘘つきに騙された無念よりも、嘘つきに気づいた満足感の方が大きい。尚、親中派つながりで創価学会が組織を上げて本書を購入した経緯があり、後に西園寺は『「周恩来と池田大作」の一期一会』(潮出版社、2012年)という礼賛本を書いている。

青春の北京―北京留学の十年 (1971年)
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狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

「バランスのとれた人物」という表現は、戦前の日本にはなかった。それよりも度胸とか腹とかいうことのほうが重視された。しかし、戦後の日本では「バランスのとれた」はすでに日本語として定着し、社会人の評価としては最高のほめ言葉の一つとなっている。

 宋(そう)の人、蘇東坡(そとうば)はいっている。
「天下がまだ泰平でないときは、人々は相争(あいあらそ)って自らの能力を発揮しようとする。しかし天下が治まると、剛健(ごうけん)で功名(こうみょう)を求める人を遠ざけ、柔懦(じゅうだ)、謹畏(きんい)の人(かしこまってばかりいる人)を用いるようになる。そうして数十年も過ぎないうちに、能力のある者は能力を発揮する場もなく、能力のない者はますます何もしなくなる。
 さて、そうなったときに皇帝が何かしようとして前後左右を見渡しても、使える人間が誰もない。……上の人はつとめて寛深不測(かんじんふそく)の量(りょう)をなし(度量が大きく、しかも中身が計り知れない大人物の恰好〈かっこう〉ばかりして)、下の人は口を開けば中庸(ちゅうよう)の道(バランスがとれている、というのが適訳であろう)ばかりい、……もってその無能を解説するのみなり」
 そして蘇東坡は、「中庸」のもとの意味はこれとはまったく異なることを論証している。そして、右のような人々を孔孟(こうもう)は「徳の賊」と呼び、むしろ「狂者」(志の大にして言行の足らない人)を得ようとし、それが得られない場合は、「者」(けんじゃ/たとえ知は足りなくても何か守るところのある人)を得ようとしたという。狂者は皆のしないことをやる人であり、獧者は皆がするからといってもこれだけは自分はしないというものをもっている人、つまり土佐の「いごっそう」である。蘇東坡はいま天下をその怠惰(たいだ)から奮いたたせるには、狂者、獧者であってしかも賢い人間を使うに如くはない、というのである。

 明治の人はよく自らを「狂」と呼んだ。山県有朋(やまがたありとも)は「狂介」(きょうすけ)と名乗り、陸奥宗光(むつむねみつ)は雅号(がごう)を「六石狂夫」(きょうふ)とした。まさに身に過ぎた志をもつ狂者と自らを呼んでいるのである。
 小村は、まさに狂者であり獧者であった。とても「バランスのとれた人物」という範疇(はんちゅう)には入りようがない人物であった。明治維新から30年近く経て官僚制度もそろそろ硬直化してくる時期に、その小村が「余人(よじん)をもって代え難い」として重用(ちょうよう)されたのは、やはり日清、日露という日本の危機の時代だったからであろう。小村の業績に毀誉褒貶(きよほうへん)が現われるのは日露戦争の勝利後であり、それまでの危機の時期においては、あらゆる局面において小村の判断は結果として正確であり、小村の起用が正しかったことが実証されている。時代が狂者、獧者を必要とし、小村がその時代の要請に応えたのである。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉著『中国古典名言事典』(1972年)では「狷者」という表記になっている。異体字なのだろうが正字が判らず(Jigen.net - 漢字と古典の総合サイト)。

 バランスは均衡と訳す。衡は秤(はかり)の意。バランスする、バランスさせると自動詞や他動詞を付けると「権」の字が浮かび上がってくる。権力の権には「はかる」という意味がある(『孟嘗君』宮城谷昌光)。「所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という」(墨子)。とすると権力を擁(よう)する者の慎みとして「軽重を権(はか)る」姿勢は堅持すべきものだが、彼の周囲にいる人々は種々雑多で構わない。むしろ宋江(そうこう)のように梁山泊(りょうざんぱく)の猛者(もさ)どもをバランスさせる能力が望ましい。平和の世には能吏(のうり)が、混乱する時代には狂者、獧者が求められるのだろう。

 風変わりな人を見直し、称(たた)えよ。新しい時代を開くのは今表に出ていない人々なのだから。



『銀と金』福本伸行
恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也

2019-01-07

長く続いた貧苦困窮/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 もう一つ小村について書かざるをえないのは、その貧乏であった。おそらく世界史上、政治家、外交官のなかで、小村より貧乏な人物はいかなったといってよいであろう。
 着ているものといえば、夏も冬も着古しのフロック・コート一つだけだった。夏は暑いだろうというと、貧乏していると暑さを感じないと答えたという。昼食時には、そのフロック・コートからほつれて出てくる糸を鋏(はさみ)で切るのを習慣にしていたという。その昼食の金もなく、しばしばお茶だけで過していた。
 親が事業に失敗した借金をそのまま引き継いだのが原因であったが、東京中の金貸しから借金をしていて、家のなかに金になりそうなものがあればみな借金取りがもっていくので、家財(かざい)はまったくなく、座布団も2枚しかないので客が来れば布団なしで座ったという。雨が降っても傘はなく、まして車に乗る金もないので、帽子から雨の雫(しずく)をたらしながら歩き、それでも外務省の裏門のほうが家から近いのに堂々と正門から入ったという。
 北京の代理行使として赴任するとき、新橋駅に見送りに来た友人が、小村が時計をもっていないのを見て自分の時計を贈ろうとした。小村はそれを遮(さえぎ)って、見送りのなかに高利貸しがいて何か餞別(せんべつ)を貰(もら)えばただちに取り上げようと待ちかまえているから、くれる気があるならば先の駅でくれ、といったという。別の本では、北京赴任に際して陸奥(むつ)は小村に対面をもたせるために金時計を贈ったが、北京着任のときは、小村はもうその時計はまったくもっていなかったという。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 北京赴任は1893年(明治26年)のことである。小村寿太郎〈こむら・じゅたろう〉は1855年(安政2年)生まれだから38歳である。没したのが56歳だから人生の大半を貧苦困窮の内に過ごしたといってよい。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学していることを思えば、よほど圭角のある人物だったのだろう。貧困は人を惨めにする。志を手放すことがなかったところに強靭な精神力が窺える。

 小村を引き上げたのは陸奥宗光である。陸奥~小村という外交官によって日本は不平等条約を解消し、日清・日露戦争を乗り越え一等国の仲間入りを果たした。この二人は真正のエリート(選良)であった。近代人の存在があって近代の扉が開かれる様子がよくわかる。彼らはまた愛国者でもあった。世論の誹謗中傷を恐れることなく、ただただ国の行く末を案じて身を処した。

 明治から昭和初期にかけて政治家は辛労の限りを尽くし、絶命することも決して珍しくはなかった。財を成した人物も殆どいない。国を造ることに真剣であった。

小村寿太郎とその時代―The life and times of a Meiji diplomat
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