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三島由紀夫の遺言
・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
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『an・an』の創刊
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時間の連続性
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『文化防衛論』三島由紀夫
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『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
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『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
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『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
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『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
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『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子
私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
【果たし得てゐいない約束――私の中の25年
〈初出〉サンケイ新聞(夕刊)・昭和45年7月7日
私の中の二十五年〈初刊〉「蘭陵王」・新潮社・昭和46年5月
『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫(新潮社、2003年)
『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年)以下同】
三島由紀夫の文学に興味はない。国家が左翼に染まる中で日本の伝統と歴史を取り戻すために、一人立ち上がり、叫び、そして死んでみせた男の存在が、私の内部でどんどん大きくなってきた。三島が自刃したのは4ヶ月後の11月25日である。
三島は大正14年(1925年)生まれなので年齢は昭和の年号と一致する。すなわち「私の中の二十五年」とは戦後の二十五年を意味する。
民主という名の無責任が平和憲法の偽善と重なる。国家の要である国防を他国に委(ゆだ)ね、安閑と経済的繁栄にうつつを抜かす日本を彼は許せなかった。既に国際的な名声を確立し、国内では「天皇陛下の次に有名な人物」と評された。まさしくスーパースターといってよい。壮年期の真っ盛りにあって仕事は成功し、政治にコミットし、肉体を鍛え上げ、国防(民間防衛)のために青年たちを組織した。理想を実現した人物であった。
そんな彼だからこそ満たされぬ渇(かわ)きは深刻だったのだろう。「鼻をつまみながら通りすぎた」との一言に哀切を感じるのは私だけではあるまい。人生という作品を成功だけで終わらせてしまえば陳腐なドラマになってしまう。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、批判により、私は何事かを約束してきた筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ思ひに日夜責められるのである。
プライドは誇り・自尊心・自負心と訳される。「武士は食わねど高楊枝」というのはまさしくプライドであろう。その裏側には痩せ我慢が貼り付いている。責任はプライドよりも重い。世の中の混乱は無責任に端を発するといっても過言ではない。政治家や官僚の無責任はもとより、教師や親に至るまで自分の責任を真剣に考えることは少ない。
三島が痛切に感じた自責の念は「日本人」として生まれた者の責任感であったのだろう。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はわりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってゐるのである。
最後の一言が長く私の心に引っ掛かっていた。これは多分、
藤原岩市〈ふじわら・いわいち〉と
山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉に向けたものだろう。三島にとって最大の理解者でありながらもクーデターを共にすることはなかった。
「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」との予言に戦慄を覚える。三島の視線は現在をも射抜いている。
三島の死後、自宅書斎の机上から、本文が掲載されたサンケイ新聞夕刊の切抜きと共に、「限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫」と記した書置きが発見されている。
【Wikipedia】
三島は死して永遠の存在となった。日本がある限り、三島の魂が朽ちることはないだろう。