2020-06-12

文化人放送局【横田滋氏追悼SP】/「全身全霊で打ち込んだ」横田滋さん遺族会見 横田早紀江さんら家族が想いを語る













2020-06-11

根を通して助け合う植物=森という社会/『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン


『森のように生きる 森に身をゆだね、感じる力を取り戻す』山田博
・『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ

 ・根を通して助け合う植物=森という社会

『宮脇昭、果てなき闘い 魂の森を行け』一志治夫

必読書リスト その三

 ここで一つの疑問が生じる。木の根は地中をやみくもに広がり、仲間の根に偶然出会ったときにだけ結ばれて、栄養の交換をしたり、コミュニティのようなものをつくったりするのだろうか? もしそうなら、森のなかの助け合い精神は――それはそれで生態系にとって有益であることには変わりないのだが――“偶然の産物”ということになる。
 しかし、自然はそれほど単純ではないと、たとえばトリノ大学のマッシモ・マッフェイが学術誌《マックスプランクフォルシュンク》(2007年3月号、65ページ)で証明している。それによると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。
 では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が1本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。
 逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。1本1本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌(どじょう)も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。
 森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。

【『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン:長谷川圭訳(早川書房、2017年/ハヤカワ文庫、2018年/原書は2015年)】

 地上の「見える世界」では太陽光を巡って熾烈な争いを繰り広げる木々が、見えない地中では協力し合っているというのだから驚きだ。人間社会はといえば陰で足の引っ張り合いをするのが常だ。「支え合う」関係性は1990年代のリストラ(整理解雇)や派遣法改正(2004年)などを通して完全に廃(すた)れてしまった。

 世界的ベストセラーとなっているのも頷ける。本書を読むと樹木を見る目が一変する。彼らは意志する存在なのだ。人間の都合で植えられた街路樹や学校・公園などの木はやはり可哀想だ。日本の場合、森林といえばほぼ山を意味するが、里山文化を受け継いでゆくことが正しいと思う(新しい里山文化の創出に向けて - 全国町村会)。

 皆で森を育くめば、再び支え合う社会が構築できるかもしれない。そんな希望が湧いてくる一書である。

感染症とカースト制度/『感染症と文明 共生への道』山本太郎


『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄

 ・健康と病気はヒトの環境適応の尺度
 ・感染症とカースト制度

『感染症クライシス』洋泉社MOOK
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 高温多湿のガンジス川流域文明の感染症は、インダス川流域文明の住人を圧倒した。それがインド社会にカースト制度をもたらしたという研究者もいる。カースト制度とは、紀元前13世紀頃のアーリア人のインド支配にともなって作られた階級的身分制度である。階級間の移動は認められておらず、階級身分は親から子へ受け継がれる。結婚も同じ階級身分内で行うことを規定した社会制度である。人種差別的制度であり、現在は憲法で禁止されている。
 そのカースト制度について、歴史研究家であるウィリアム・マクニールは、著書『疫病と世界史』の中で以下のように述べている。
「もちろん、ほかにもさまざまな要素や考え方が、インド社会におけるカスト原理の形成と維持に影響している。だが、カストの枠を超えて身体的接触を持つことに対する禁忌(タブー)の存在、そうしたタブーをうっかり犯してしまった場合に体を清めるため守るべき念入りな規定、これらは、インド社会において次第にカストとして固定していったさまざまな社会集団の間で、相互に安全な距離を保とうとした時に、病気へのおそれがいかに重要な動機だtたかを暗示する」
 文化人類学者である川喜田二郎も、カースト制度の起源に、浄不浄によって社会の構成員の交流を管理し、感染症流行を回避しようとした意図があったと、先述のマクニールと同じ説を展開している。もちろん反対意見もある。
 一方、疫学の視点からいえば、これは、選別的交流を行っている集団における感染症流行の問題に置き換えることができる。

【『感染症と文明 共生への道』山本太郎(岩波新書、2011年)】

 人類の業病(ごうびょう)は「飢饉と疫病と戦争」(『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ)である。宗教は祈ることで人々の心をまとめ上げ、これらの業病に対処してきた。宗教的タブー(禁忌)はたぶん病(やまい)に対応したものと考えられる。

 異なる民族が出会う時、必ず病気が交換される。アメリカのインディアンは「コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、猩紅熱、睡眠病(嗜眠性脳炎)、天然痘、結核、腸チフス」を移され、ヨーロッパ人は梅毒に罹患(りかん)した(感染症の歴史 - Wikipedia)。ポンティアック戦争(1763-66年)では「今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘の菌に汚染された毛布を贈り物にし、周辺のインディアンにこれを感染させたことである」(Wikipedia)。

 洋の東西を問わず古いコミュニティがよそ者(ストレンジャー)を警戒したのは「この村の掟に従うかどうか」という疑心と、もう一つは伝染病に対する恐れからだ。

 カースト制度については米原万里が面白いことを書いている。

 親類筋の女性Tがかつてネルーの信奉者だった。ネルーの思想と活動に手放しで共鳴し、親譲りの潤沢な資産を惜しげもなく注(つ)ぎ込んだ。熱烈なる敬愛の念は相手にも通じたらしく、インド独立式典への招待状が舞い込み、いそいそと出かけていった。貴賓席で待ち受けていると、憧れの君は民衆の歓喜の声に包まれて颯爽(さっそう)と登場。ボロをまとった女たちが感極まって駆け寄り壇上のネルーの靴に口付けしようとした瞬間、ネルーはあからさまに汚らわしいという表情をして女たちを足蹴(あしげ)にし、ステッキを振り上げて追い払った。周囲の囁(ささや)きから、女たちが不可触賤民(アンタッチャブル)であることを知る。その刹那、Tの「百年の恋」は冷めた。

【『打ちのめされるようなすごい本』米原万里〈よねはら・まり〉(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)】

 左翼の米原が書くと階級闘争の政治臭を放つが、カーストの根深さはよく理解できる。かつては意味のあった禁忌(きんき)も形骸化すると悪しき伝統に変貌する。宗教は何千年も祈ることしかしてこなかった。一方、科学は原因を調べ対策を講じる。近代とは宗教が科学に追い越された時代であった。神の地位は科学が発達するに連れて低下した。それでもまだ死んではいないが。

 不可触民という言葉からも明らかなようにヒンドゥー教は極端なまでに「穢(けが)れ」を恐れる。このため日常的に接触を避ける行動が貫かれており衛生意識も高い。飲食についても厳格な規定がある。宗教的浄化を求める人々は肉食を避ける。こうした風習が感染症対策であることは明らかだろう。インドは歴史を通じて人種差別解消よりも感染症対策を重んじたということなのだろう。

2020-06-07

警察組織にはびこる薩長閥/『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏


『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏

 ・警察組織にはびこる薩長閥

『転迷 隠蔽捜査4』今野敏
『宰領 隠蔽捜査5』今野敏
『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏
『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版』今野敏
『清明 隠蔽捜査8』今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版』今野敏
『探花(たんか) 隠蔽捜査9』今野敏

ミステリ&SF

 理由は明らかだ。
 初代の警視庁大警視は、薩摩(さつま)藩出身の川路利良(かわじとしよし)だった。大警視は後の警視総監だ。
 今とは、警察機構自体が違うのだが、事実上、川路利良は全国の警察のトップだったと言える。
 警視庁は当時から東京府の警察だったが、内務省が統括していた。他の地方警察が知事によって統括されていたことを考えれば、警視庁は国家警察の性質も持ち合わせていたのだ。
 事実、その後は、特別高等警察など、内務省の実務をこなしていくことになる。
 戦後、警察も大きく様変わりした。全国の警察組織である警視庁と、地方警察とに分かれた。
 だが、いまだに警察組織は、薩長閥(さっちょうばつ)がある。一般の人には信じられないかもしれないが事実なのだ。
 警視庁のことを符丁(ふちょう)でサッチョウと呼ぶ。これは警視庁と区別してケイだけを省いたのだと言われているが、それだけではない。実は、薩長とかけてあるのだ。
 会津と薩摩・長州は、その歴史をひもとくまでもなく犬猿の仲だ。
 会津藩最後の筆頭家老だった西郷頼母(さいごうたのも)や白虎隊(びゃっこたい)の悲劇は、いまだに住民の心に深く刻まれている。それが、薩摩・長州への恨みにつながっているのだ。

【『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2013年)】

 私が道産子のせいか血や土地のつながりを重んじるエトスが全く理解できない。苫米地英人〈とまべち・ひでと〉も「日本における『勝ち組』の正体は薩摩・長州出身者」と指摘している。

 ところで、徳川幕府に取って代わった明治維新の新勢力は、結局どのような人物たちでしょうか。
 もちろん、薩摩と長州の武士たちです。
 脈々と現代に生き続ける、日本の「勝ち組」の正体は、じつはこの薩摩と長州を中心とする勢力だということができます。
 明治維新以来、昭和21年に日本国憲法が施行されるまでの間に任ぜられたのべ45人の内閣総理大臣のうち、薩摩出身者はのべ5人、長州出身者はのべ11人に上っています。倒幕に参加した土佐藩からはのべ1人、肥前藩からはのべ2人、占有率はじつに42パーセントを超えてしまいます。大蔵大臣、外務大臣などの主要ポストも薩長閥がほとんどです。
 中央省庁のなかでも、とくに警察庁と防衛省は、薩長の牙城です。鹿児島県、山口県の出身者が多く、事情を知る関係者の間には「鹿児島県、山口県の出身者でなければ出世できない」という暗黙の了解があるほどです。最後まで新政府軍と戦った会津藩の福島県には、昭和になってからようやく国立大学が創られたというのも有名な話です。

【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】

 安倍晋三首相も長州から出馬している。東京生まれだが本籍は父親(安倍晋太郎)の故郷である山口県になっている。

 内田樹〈うちだ・たつる〉が「原発があるのは戊辰戦争のときの賊軍側の藩ばかり」と言ったのは強(あなが)ち的外れではない(安易には言えないが、原発が立地しているところは戊辰戦争や西南戦争の敗者が多いのは確かだ | タクミくん二次創作SSブログ(Station後))。

 藩閥、軍閥、閨閥(けいばつ)、学閥などがまかり通っているならば、人事は情に流されていると言ってよい。閥とは利益を共有するつながりである。それが1869年(戊辰戦争が終わった年)から続いているとすれば腐敗の極みに達しているのは確実だ。

 世界にあってもロスチャイルド家は同族の婚姻しか認めないと言われる。また、「アメリカ大統領は1人を除き全て英国史上最低の暗君ジョン王の子孫だった」と12歳の少女が見破ったのは2012年のことだ(世界の真実や報道されないニュースを探る ■地球なんでも鑑定団■)。

 政治家の世襲は政治資金団体を通すことで相続税を回避するのが最大の目的とされる。株式会社もまた同様だ。国家を率いる立場の政治家や企業家が税負担を避けながら、その一方で消費税を増税するとは噴飯物である。

 共産主義が目指した革命にはそれ相応の大義があった。だが実現した社会主義国家には新たな門閥が生まれただけであった。崩壊したソ連から何一つ学ぶことなく共産主義の郷愁に浸っている団塊の世代が多い。

 薩長閥は戦後レジームよりも厚い壁なのだろう。

 尚、本シリーズの「.5」とは短篇集を意味する。