・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
・フルビネクという3歳児の碑銘
・邪悪な秘密結社
・解放の時
・『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
・『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
・『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
・必読書リスト その二
巨大な馬にまたがった彼らは、灰色の空と灰色の雪の間で、宙に浮いているかのようで(道は収容所よりも高かった)、その骨肉をそなえた存在感は圧倒的だった。彼らは雪解けの気配を感じさせる湿った風にあおられながら、じっと立(ママ)たずんでいた。
私たちが光の消えた天体のようにして、十日間、内部をさ迷い続けた、死でいっぱいの虚無が、その堅固な核を、凝結する核を見出したように思えたし、それは実際にそうだったのだ。4人の武装した男たち。だがその武器は私たちに向けられたものではなかった。4人の平和の使者。彼らは厚い毛皮の帽子の下に、まだ幼さの残る素朴な顔つきを見せていた。
彼らはあいさつもせず、笑いもしなかった。彼らは憐れみに以外に、訳の分からないためらいにも押しつぶされているようだった。それが彼らの口をつぐませ、目を陰うつな光景に釘付けにしていた。それは私たちもよく知っていたのと同じ恥辱感だった。選別の後に、そして非道な行為を見たり、体験するたびに、私たちが落ち込んだ、あの恥辱感だった。それはドイツ人が知らない恥辱感だった。正しいものが、他人の犯した罪を前にして感じる恥辱感で、その存在自体が良心を責めさいなんだ。世界の事物の秩序の中にそれが取り返しのつかない形で持ち込まれ、自分の善意はほとんど無に等しく、世界の秩序を守るのに何の役にも立たなかった、という考えが良心を苦しめたのだ。
こうして私たちにとっては、解放の時さえも、重苦しく、閉ざされたものになった。心は、喜びと同時に、過度の慎みの感覚に満たされた。私たちはこうした感覚によって、良心の呵責(かしゃく)を軽減し、わだかまっている不快な記憶を取り去れると思った。だが心の中には苦痛も入り込んできた。なぜなら私たちはそれが起こりえないことを感じていたからだ。冒涜(ぼうとく)の印は私たちの中に永遠に刻まれ、それに立ち会ったものたちの記憶に、それが置きた場所に、これから語られる物語の中にずっと残るはずだった。というのも、これは私たちの民族、私たちの世代の恐ろしい特権なのだが、私たち以上に、疫病のように伝染する、その冒涜(ぼうとく)の癒(い)やしがたい性質を理解しているものはいなかったからだ。人間の正義がそれを根絶するなどと考えるのは愚かなことである。それは無尽蔵の悪の根元なのだ。それは収容所に入れられた犠牲者の体と心をずたずたにし、打ちのめし、破滅させた。そして虐待者には汚名としてつきまとい、生き残ったものには憎悪として永遠に巣くって、みなの意志に反し、復讐(ふくしゅう)の渇望、道徳的敗北、拒絶感、厭世(えんせい)観、諦念(ていねん)といった具合には、様々な形で現れるのだった。
【『休戦』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(岩波文庫、2010年/脇功訳、早川書房、1969年)】
解放の時は静かに訪れた。姿を見せたのは若いソ連兵だった。プリーモ・レーヴィがアウシュヴィッツから解放されたのは1945年のこと。カティンの森事件が1940年である。ソ連兵はスターリンによる粛清の嵐を呼吸しながら育ったのだろう。強大な暴力の痕跡は驚くほど酷似している。それがどんな暴力であったにせよ。人々を傷つけ、切り裂き、踏みつけ、穴を開け、ズタズタにし、朽ち果てさせるのだ。
長い無力感の中で潮が満ちるように増した怒りは歳月にしたがって大きく育ってゆくに違いない。「歴史を変えることはできない」というプリーモ・レーヴィの宣言とも読める。しかしながら当事者以外は改竄(かいざん)された歴史を鵜呑みにし、歴史から目を背け、歴史を忘却し、同じ歴史を繰り返すのだ。殺戮(さつりく)が人間の業であれば、これを転換した宗教はいまだにない。むしろ宗教は虐殺の燃料として憎悪の火炎を拡大させた。
あまりにも静かな精神は「変えることのできない過去」をじっと見つめていた。それが起こり得た世界を許すことは決してできないだろう。アウシュヴィッツを出ても、癒えぬ傷から血を流しながら生きてゆくことに変わりはない。まるで生きることは罪であるかのようだ。