2020-09-10

三島由紀夫「檄」/『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝


・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝

『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・三島由紀夫「檄」
 ・三島由紀夫『武士道と軍国主義』

70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四


楯の会隊長 三島由紀夫


 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛たはわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は4年、学生は3年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈(ママ/りんれつ)の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道着の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を背負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりにも永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てよといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和44年10月21日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで軍法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収集しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごましかしがはじまつた。
 銘記せよ! 実はこの昭和45年(※筆者註:44年の誤記)10月21日といふ日は、自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは4年待つた。最後の1年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の因、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)/『決定版 三島由紀夫全集34 評論9』三島由紀夫】

「檄」は三島由紀夫最後の声明文である。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで自衛官にクーデターを呼び掛けた際に森田必勝〈もりた・まさかつ〉、小川正洋〈おがわ・まさひろ〉らが撒布した。原文は三島直筆の走り書きである(画像)。

 同書は、当日に市ヶ谷会館にて、ジャーナリストの徳岡孝夫と伊達宗克にも封書に同封されて託された。三島は、徳岡孝夫と伊達宗克へ託した手紙の中で、「同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。」と、檄の全文公表を強く希望した。

Wikipedia

 徳岡自身が著書で詳しく経緯を書いている(『五衰の人 三島由紀夫私記』文藝春秋、1996年)。

 1955年、日本共産党は武装闘争路線を放棄した。これに異を唱えて立ち上がったのが新左翼である。1958年、共産主義者同盟(ブント)を結成し暴力革命を標榜した。彼らは「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」(『共産党宣言』マルクス、エンゲルス、1848年)に忠実な道を選んだ。誤った思想内部における正義ほど手をつけられないものはない。原理主義は常に単純で美しい。

 新左翼の尖鋭的な行動は学生運動そのものを暴力的な色彩に染め上げていった。新宿騒乱が1968年で、10.21国際反戦デー闘争が1969年のこと。既に山本からゲリラ戦略の訓練を受けていた楯の会は騒擾(そうじょう)の渦中で実習を行った。

 三島の暴力性は自身に向けられたが、左翼の暴力性はテロ事件となった。テルアビブ空港乱射事件(1972年)、あさま山荘事件(1972年)、よど号ハイジャック事件(1970年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)など(日本の新左翼の事件)。1970年代に入ると凄惨な内ゲバが始まった。正義に駆られた人々が仲間をリンチにし次々と殺害した。

 新聞も学者も文化人も学生運動を支持し続けていた。大衆は愛想を尽かしていた。国民の興味は学生運動よりもカラーテレビに向けられてていたように思う。そんな時に三島が決起したのだ。寝耳に水とはまさにこのことだ。高度経済成長の上り坂をひた走っていたサラリーマンは真っ黒になって働いていた。年を経るごとに生活は豊かになった。家の中には電化製品が増え、休日には家族でドライブをするようになった。人々が安穏と生きるさなかで時代の寵児(ちょうじ)ともいうべきスターがクーデターを企て、更には切腹までしたのである。

 時代も社会も三島の行動を拒んだ。多くの著名人が嘲笑った。国民にとっては一つの事件に過ぎなかった。ところがどうだ。三島の声は死して後、不思議な余韻を残し、長ずるにつれて反響し、一部の人々の胸を震わせた。北朝鮮が日本人を拉致し、中国の公船が尖閣領域に侵入しても、政府はただ抗議を繰り返すのみで、国民の生命と財産を守る覚悟があるようには見えない。拉致被害者の親御さんたちは我が子と再会することなく次々に黄泉路(よみじ)へ旅立った。

 三島由紀夫は昭和45年(1970年)の時点で現在の日本の姿を見据えていたのだろう。彼は指をくわえて亡国を眺めるわけにはいかなかったのだ。

 本書は特殊な内容で山本の言いわけめいた調子も好きではないが、藤原岩市の裏切りを描いた一点で必読書としたことを付言しておく。



昭和48年 警察白書
暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁)
日本赤軍 | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁

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2020-09-06

外交レトリックを誤った大日本帝国/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ですから敗戦後の「東京裁判」では、真珠湾攻撃に先行する、こうした日本政府部内や陸海軍部内の文書が、米国人(多くが法曹職のバックグラウンドをもつ)によって、洗いざらい調べ上げられました。彼らは、日本政府と日本軍が「パリ不戦条約」をあっけらかんと破るのに、いったいどのような公式レトリックを用いていたのかに、特に興味があったのです。公人が公的な嘘をついたら恥じなければならない近代人として、また、法曹の学徒として、それが当然でしたろう。
 彼らはついに、いくつかのマジック・ワードを発見したと思いました。「自存自衛」と「交戦権」です。そして将来の日本政府におけるそのマジック・ワードの再使用は封じなければならないと思いました。だから、マック偽憲法の中には、特別に入念に、ダメを押すような文言が、ちりばめられているという次第なのです。

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)以下同】

 本書は優れた外交論となっており他書とは一線を画している。ただしマッカーサーは後に上院軍事外交委員会の席上で、「日本があの戦争に飛び込んでいった動機は、安全保障の必要に迫られたためで、侵略ではなかった」と証言し、大統領になるチャンスを失った(マッカーサー「東京裁判は間違いだった」)。

 マッカーサーが語った「national security」がアメリカ人に何を示唆したのか。自衛にはself-defense 、self-protection、self-preservationなどの英語がある。

 マック偽憲法が押し付けられることになった第一原因は、日本の対米英開戦流儀にあります。同じ調子でまた将来あっけらかんとした侵略をやらせぬよう、アメリカ人の法律家たちは、念入りに文辞を練ったのです。
 しかし戦後のドイツに対してはそんな「憲法」を押し付ける必要は、ありませんでした。
 なぜなら、ドイツ人たちは「自衛」という言葉の厳密な意味を了解していて、ヒトラーすらそれを濫用(らんよう)してはいなかった(しようとしても外務省官吏や国際法学者たちに止められてできなかった?)のです。
 反して、日本の指導者層には、外務省官吏も含めて、それほどに大事な用語だという了解はなく、かつまた日本政府の誰にも、自国の重大な政策についての体外的な「説明責任」というものが、そもそも意識すらされていないように、外国からは見えた。この「落差」がきわだっていましたので、日本に対する占領政策は、ドイツに対する占領政策とは、すこぶる異なるものになったのでしょう。
 それゆえわたしたちは、ナチス・ドイツがスターリンのソ連に対して奇襲開戦を実行したときの「宣戦布告」のレトリックがどんなものだったか、またそれに応酬しているモスクワ政府のレトリックはどんなものだったか、知っておくことに価値があります。こうした外交上の正式の宣戦布告文や、応酬声明文は、どの法廷に出しても通用しそうな、近代的な説明文になっていることが、確かめられましょう。

 アメリカは日本軍の強さを恐れたと綴る書籍が多い。強い上に死ぬまで戦うことをやめない。降伏よりも玉砕を選ぶのが日本流だ。しかし兵頭の指摘は見落としがちな急所を抑えている。欧米からすると日本は「話が通じない相手」であったのだ。彼らは極東の島国に狂気を見た。

 二・二六事件から敗戦までの変遷に我が国の弱点が凝縮している。長崎に原爆が投下されたとき政府首脳は行方の定まらない会議を続けていた。鈴木貫太郎首相は策を講じて最終判断を天皇陛下に丸投げした。切腹した首脳もいたが腹を切ることで責任を果たせるとは思えない。

 外交レトリックを誤ったとすれば外務省の責任は重い。小野寺信〈おのでら・まこと〉の足を引っ張ったのも外務省だった。

 戦後の日本は経済の道をひた走った。バブル崩壊(1991年)まで46年を経た。その後失われた20年に入る。こうして敗戦を振り返る機会を失った。私は思う。修辞学や論理学という西洋の土俵に乗るよりは、子供でもわかるようなやさしい言葉で誠を貫くことが日本には向いている。1919年(大正8年)、世界で真っ先に人種差別の撤廃を叫んだ日本である(人種差別撤廃提案)。できないことはないだろう。

国民の国防意志が国家の安全を左右する/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 法理として「偽憲法」(これは菅原裕氏の言葉)以外のなにものでもない「当用憲法」(これは福田恆存〈つねあり〉氏の言葉)は、1946年から1950年にかけ、日本に共産主義が根付かない最大支障であるとモスクワがみなした天皇制を滅消したく念ずるソ連発の間接侵略工作を、阻止したというポジティヴな効用があります。

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)以下同】

 やっとクイック編集ができるようになった。編集画面の仕様が新しくなったための混乱のようだ。古本屋を畳んでからはレンタルサーバーと無縁なので、今からWordPressを使うとなると先が思いやられる。設定はともかくとしてFTPソフトの使い方などはきれいさっぱり記憶から消えている。ブログも長くやっていると自分の分身みたいに思えてくる。それゆえに妙なこだわりが生じて、自我を強く意識させられる羽目となる。なかなか諸法無我というわけにはいかないものだ。

 兵頭二十八は当たり外れがある。文章には独特の臭みがあって好き嫌いが分かれるところだ。上記テキストも長すぎて文章の行方がわかりにくい。このあたりは編集者にも半分程度の責任がある。資料を渉猟しているためと思われるが時折びっくりするほど古めかしい言い回しが出てくるのだが、それが様になっていない。ちぐはぐな印象を受けて、微妙に音程のずれた歌を聴いているような気分になる。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と憲法第一条で謳ったことが32年テーゼを防いだ。本来であれば天皇の存在は日本国の形成よりも先んじているから本末転倒といえよう。しかしながら主権在民を糊塗する苦し紛れの文章が戦後の激動を雄弁に物語っている。

 左翼は国家をシステムとして捉え、文化を見落とした。欧州ではキリスト教、日本では天皇が憲法の屋台骨となっている。これを「打倒」することは国家を漂白することに等しい。日本の公を重んじる精神性は社会主義と親和性がある。それを思えば天皇制社会民主主義に舵を切っていれば、二・二六事件前後で日本の運命は変わっていた可能性がある。

 そもそも国民の自由を担保してくれるのは国家だけです。国家が安全でなくなれば、国民の自由もなくなります。その国家の安全は、標榜(ひょうぼう)する憲法の文章が保障してくるわけではない。ただ、国民の抱く「国防の意志」が保障するのです。しかるに利己的で嫉妬深い人間は、不自然な中心点に向かっては、なかなか団結ができないものです。日本国民には自然な精神的な団結の中心はひとつきりしかありません。それが天皇です。もしも日本から天皇が消えてなくなれば、日本国民は間接侵略によって著しく分断されやすくなり、日本国家の防衛力は内側から脆(もろ)くなり、それにつれ、日本人の自由は、一見、合法的なきまりごとを装って、日本人ではない者たちの手の中に、回収されて行くでしょう。

 マッカーサー憲法は日本人から「国防の意志」を見事に奪い去った。戦後、国民の間からは国体意識すら消え失せた。守るべきはものは今日の食糧と自分の命に変わった。敗戦は事実上「魂の一億玉砕」であった。

 だが不思議なことに敗戦を経て日本国民は自由の空気を呼吸し始めた。戦時中の不自由さは社会主義国と遜色がなかった。自由にものを言うこともできなかった。政治家は軍の顔色を窺い、軍はいたずらに兵員を餓死に至らしめた。大東亜共栄圏は絵に描いた餅と化した。国家は国民を守れなかった。

 終戦前後のギャップが精神の真空地帯に風を吹かせた。国民が手にした自由は何の責任も伴わなかった。胃袋は相変わらず不自由なままだった。人々は食べることにしか関心がなかった。何とか食べられるようになると終戦前後に生まれた大学生たちが騒ぎ始めた。学生運動は戦争の余波と見ることができよう。60年安保に反対した彼らの姿は戯画的ですらある。新世代もまた玉砕を望んだのであろう。

 日本国が国民を守れないことはシベリア抑留北朝鮮による拉致被害が証明している。GHQに牙を抜かれた日本はスパイ天国となり、中国や南北朝鮮がほしいままに日本の国益を毀損している。



GHQはハーグ陸戦条約に違反/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠