・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝
・『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
・三島由紀夫「檄」
・三島由紀夫『武士道と軍国主義』
・70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
・『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
・『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
檄
楯の会隊長 三島由紀夫
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛たはわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は4年、学生は3年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈(ママ/りんれつ)の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道着の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を背負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりにも永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てよといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和44年10月21日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで軍法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収集しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごましかしがはじまつた。
銘記せよ! 実はこの昭和45年(※筆者註:44年の誤記)10月21日といふ日は、自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは4年待つた。最後の1年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の因、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)/『決定版 三島由紀夫全集34 評論9』三島由紀夫】
「檄」は三島由紀夫最後の声明文である。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで自衛官にクーデターを呼び掛けた際に森田必勝〈もりた・まさかつ〉、小川正洋〈おがわ・まさひろ〉らが撒布した。原文は三島直筆の走り書きである(画像)。
同書は、当日に市ヶ谷会館にて、ジャーナリストの徳岡孝夫と伊達宗克にも封書に同封されて託された。三島は、徳岡孝夫と伊達宗克へ託した手紙の中で、「同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。」と、檄の全文公表を強く希望した。
【Wikipedia】
徳岡自身が著書で詳しく経緯を書いている(『五衰の人 三島由紀夫私記』文藝春秋、1996年)。
1955年、日本共産党は武装闘争路線を放棄した。これに異を唱えて立ち上がったのが新左翼である。1958年、共産主義者同盟(ブント)を結成し暴力革命を標榜した。彼らは「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」(『共産党宣言』マルクス、エンゲルス、1848年)に忠実な道を選んだ。誤った思想内部における正義ほど手をつけられないものはない。原理主義は常に単純で美しい。
新左翼の尖鋭的な行動は学生運動そのものを暴力的な色彩に染め上げていった。新宿騒乱が1968年で、10.21国際反戦デー闘争が1969年のこと。既に山本からゲリラ戦略の訓練を受けていた楯の会は騒擾(そうじょう)の渦中で実習を行った。
三島の暴力性は自身に向けられたが、左翼の暴力性はテロ事件となった。テルアビブ空港乱射事件(1972年)、あさま山荘事件(1972年)、よど号ハイジャック事件(1970年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)など(日本の新左翼の事件)。1970年代に入ると凄惨な内ゲバが始まった。正義に駆られた人々が仲間をリンチにし次々と殺害した。
新聞も学者も文化人も学生運動を支持し続けていた。大衆は愛想を尽かしていた。国民の興味は学生運動よりもカラーテレビに向けられてていたように思う。そんな時に三島が決起したのだ。寝耳に水とはまさにこのことだ。高度経済成長の上り坂をひた走っていたサラリーマンは真っ黒になって働いていた。年を経るごとに生活は豊かになった。家の中には電化製品が増え、休日には家族でドライブをするようになった。人々が安穏と生きるさなかで時代の寵児(ちょうじ)ともいうべきスターがクーデターを企て、更には切腹までしたのである。
時代も社会も三島の行動を拒んだ。多くの著名人が嘲笑った。国民にとっては一つの事件に過ぎなかった。ところがどうだ。三島の声は死して後、不思議な余韻を残し、長ずるにつれて反響し、一部の人々の胸を震わせた。北朝鮮が日本人を拉致し、中国の公船が尖閣領域に侵入しても、政府はただ抗議を繰り返すのみで、国民の生命と財産を守る覚悟があるようには見えない。拉致被害者の親御さんたちは我が子と再会することなく次々に黄泉路(よみじ)へ旅立った。
三島由紀夫は昭和45年(1970年)の時点で現在の日本の姿を見据えていたのだろう。彼は指をくわえて亡国を眺めるわけにはいかなかったのだ。
本書は特殊な内容で山本の言いわけめいた調子も好きではないが、藤原岩市の裏切りを描いた一点で必読書としたことを付言しておく。
・昭和48年 警察白書
・暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁)
・日本赤軍 | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁