2021-11-30

からだの語源は死体/『日本人の身体』安田登


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登

 ・からだの語源は死体

必読書リスト その四

 古い日本語の「からだ」というのは死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。
 それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようになります。
 このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じることができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。

【『日本人の身体』安田登〈やすだ・のぼる〉(ちくま新書、2014年)以下同】

 日本人が心身二元論になったのは近代以降であるとの指摘だ。ただし仏教では色心(しきしん)二法が説かれていた。色法(しきほう)が物質で心法(しんぽう)が性質である。続いて西洋と日本の体に対する見方の違いが示される。

「裸であることを知る」というのは、ちょっと違和感のある言葉使いです。しかし、この「知る」という言葉が大事です。
「知る(ヘブライ語略)」という行為は、『聖書』の中では神のわざです。「知る」が動詞として使われるのは「神のように善悪を知る」というような使われ方が『聖書』での初出です。
「知る」というのは、ただ単に何かを知ることではなく、善と悪とを知ることであり、これは本来、神だけに許された「神のみのみわざ」でした。アダムとイブの罪の第一は、「知る」という神の行為を手に入れてしまったことだったのです。

 つまり、「上(天)から見ているから知る」ということなのだろう。抽象度が高いのだ。

 聖書で裸をあらわす「マアル:ヘブライ語略」は、アッカド語や、それ以前のシュメール語では「男性性器」を表す言葉です。善悪を「知る」が、やがて性的な行為をも意味するようになったと書きましたが、ヘブライ語の裸にはもともと性器の意味があり、自然に性行為を思い起こさせる言葉だったのでしょう。
 それに対して、日本語の「はだか」は「はだ」+「あか」です。「あか」は赤でもあり「明」でもあります。公明正大なこころを「あかき清きこころ」というように、「あか」には「明るさ」や「清浄さ」のイメージがあります。日本語の「はだか」は、そのように明るく、清浄な、おおらかなイメージをもった言葉なのです。

 温暖湿潤気候の影響が大きい。欧米が家の中でも靴を履いているのは寒さが厳しいためだ。明治以前は裸を見られても羞恥心が湧くこともなかったと書かれている。1970年代に突然始まったストリーキングもキリスト教世界の方がはるかに大きい衝撃があったに違いない。

 身(み)は「実」と同源の言葉で、中身のつまった身体をいいます。その中身とは命や魂ですが、「身」という言葉しかなかった時代には「魂」という言葉もありませんでした。
「身」とは身体と魂、体と心が未分化の時代の統一体としての身体をいいます。
 ちなみに後の時代になって生まれてくる「からだ」という言葉は、もぬけの殻や、空っぽの「から」が語源ではないかといわれていますが、魂の抜けた殻としての「死体」という意味が最初でした。そして「からだ」という語がない時代には「魂」という言葉もなく、『古事記』の中に「たま」という語は出てきますが、そのほとんどが勾玉をあらわす「たま」です。
 ところが「西洋」の古典を読むと、神話ができた頃には、すでに心身は分離していたようです。
 紀元前8世紀半ばごろの作品といわれるホメーロスの『イーリアス』には次のような文章があります。

 怒りを歌え、女神よ……あまたの勇姿らの猛き魂を冥府(アイデス)の王に投げ与え、その亡骸(なきがら)を群がる野犬野鳥の啖(くら)うにまかせたかの呪うべき怒りを。
(『イーリアス』岩波文庫 呉茂一訳)

 勇士の「魂」は冥府の王のもとに行くのですが、その「亡骸」は地上にあって野犬野鳥に食われると歌われます。こんな古い叙事詩で、すでに「魂」と身体である「亡骸」が分離しています。

 二元論がグノーシス主義よりも古かったとは恐れ入谷の鬼子母神である。

 しかし、明治以降に西洋文化が大量に入ってくるようになると、心身二元論が優勢になり、「身」は「からだ」と「こころ」に別(ママ)れてしまい、身体は「からだ」に属するようになります。
「身」が「からだ(殻=死体)」に取って代わられるようになると、身体をモノとして扱うようになります。身体の客体化です。
 そして「からだを鍛える」というような、突拍子もない考えが生まれます。
「鍛える」というのは、「きた(段)」を何度も作る、すなわち金属を鍛錬するために何度も打つというのが本来の意味で、身体をそのように扱うのは「からだ」を自分自身から離したとき、すなわち外在化・客体化してはじめて可能になります。自分自身と身体が一体だったときには、そのようなことは思いもよらなかったでしょう。
 体を鍛えるためのエクササイズなどは、少なくとも江戸時代にはなく、夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で当時はやりつつあった「運動(エクササイズ)」を猫にさせて笑っています。(以下引用文略)

 確かに。武術の世界で行われていたのは稽古だ。筋トレやストレッチのような部分に注目するエクササイズは見られない。

 能楽師の見識恐るべし。書評を書きながら検索まみれとなり、挙げ句の果てには読むべき本を63冊追加した。心身二元論は病によって更に引き裂かれる。病は心にまで及び、精神疾患は深層心理学や脳科学によって多種多様な症状に名称を与えられ百花繚乱の感を呈している。近代化は人間をアトム化したが、コンピュータ時代は精神をも分断し解体する。

 体は不調や衰えによって意識される。私が危機感を抱いたのは生まれて始めて肩凝りになった時だ。48歳だった。すぐさま対処法を調べ、1週間で治した。それが体を見つめるきっかけとなった。ウォーキング、ランニング、バドミントン、ロードバイク、ストレッチ、筋トレ、懸垂、ケトルベル、胴体トレーニング、血管マッサージを行ってきた。最終段階に見据えているのは呼吸法~瞑想だ。

 尚、文章に「という」「ように」「なる」が頻発していて折角の内容がくすんでしまっている。ご本人の癖もあるのだろうが筑摩書房編集部の無能が露呈している。

2021-11-29

諸行無常と縁起の意味/『生物にとって時間とは何か』池田清彦


『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

 ・諸行無常と縁起の意味

時間論
必読書リスト その三

 生物の本質は物質とは独立の霊魂であるとの考えを採らなければ、生物は確かに物質のみで構成されている。しかし、たとえば細胞は、生きて動いている限り、決して構造が確定した物体ではない。ならば細胞とは何か。それは細胞を構成する物質(主として高分子)間の関係性であると、さしあたっては考えるより仕方がない。
 これは細胞に限らず、イヌでもネコでも同じである。プラトンはイヌをイヌたらしめて、ネコをネコたらしめているのは、物体から遊離独立した実在であるイデアであると考えた。これは単純明快で、この上なくわかり易い考えであるけれども、物体から独立して実存しているイデアなるものを、それ自体として研究することは、現代科学の枠組では不可能である。現代科学は、物体あるいは物質の実存性を基底とする研究枠組であり、関係性は、これらの間の関係性として措定されなければならないからだ。常に成立する関係性を明示的に記述できたとき、通常それは法則と呼ばれる。法則もまた不変で普遍の同一性である。たとえば重力法則は常に同一の形式で記述でき、しかも、いかなる時空においても成立しているとされる。
 物理学や化学などの現代科学は、物質と法則という二つの同一性を追求してきたのだ、と言ってよい。この二つの同一性は不変で普遍であり、ここからは時間がすっぽり抜けている。別言すれば、現代科学は理論から時間を捨象する努力を傾けてきたのである。恐らく、不変で普遍の同一性が、我々の存在とは独立に世界に自存するとの構図は錯覚であるが、この構図が大きな成功をおさめてきたのは事実である。

【『生物にとって時間とは何か』池田清彦〈いけだ・きよひこ〉(角川ソフィア文庫、2013年)】

 少し癖のある文章が読みにくい。それでも虚心坦懐に耳を傾ければ池田の破壊力に気づく。関係性は動きの中に現れる。これすなわち時間である。我々はともすると有無の二元論に囚われ、存在を固定しようとする。ところが固定されたものは死物なのだ。なぜなら関係性が見捨てられているからだ。とすれば、クオリアが指す質感もイデアから滴り落ちた樹液の一雫(ひとしずく)なのだろう。

「長嶋茂雄っぽい感じ」とプラトンのイデア論/『脳と仮想』茂木健一郎

 イデアが志向するのはブラフマンだ。「究極で不変の現実」(Wikipedia)は画鋲で留められたあの世である。この世(此岸)との関係性が断ち切られている。

 諸行無常縁起(えんぎ)の意味が見えてくる思いがする。今まで読んできたどの宗教書よりも説得力がある。

2021-11-28

不確実性に耐える/『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環

 ・不確実性に耐える

『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

「自分自身を知る」とは「自分はこういう人間だった、わかった!」という理解ではありません。自分自身もまた「汲み尽くすことのできない他者」として理解することです。対話実践とはその意味で、自分自身との対話でもあるのです。

【『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環〈さいとう・たまき〉解説、まんが水谷緑〈みずたに・みどり〉(医学書院、2021年)以下同】

 オープンダイアローグを通して斎藤自身が変わった。結局、統合失調症患者を媒介にして参加者全員が変わるところに「オープン」の意味があるのだろう。「変わる」と言っても決して大袈裟なことではない。今まで言えなかった何かや、見えなかった自分に気づけばそれでいいのだ。

 オープンダイアローグでは途中でリフレクティングを行う。これは一旦対話を中断して、専門家同士が目の前で対話の内容を検討するというもの。この時、見えないカーテンで仕切られているとの自覚で、当事者とは目も合わせてはいけない。また、当たり前だが否定的な意見は言わない。

 結果的に私たちがしてきたことは、「そんなことあるわけがない」と反論するわけでもなく、「そうですよねぇ」と同調するわけでもなく、ただ、「私はそういう経験をしたことがないからよくわかりません」という基本姿勢で、「どういう経験か知りたいので、もっと教えてくれませんか」と尋ね続けたことだと思います。
 そのように聞いていくと本人は、みんながわかるような言葉を自分で絞り出して説明するわけです。おそらく、他人にわかってもらうように説明するという過程のなかに、ちょっとこれは自分でもおかしいかなとか、自発的に気づくきっかけがあったのかもしれません。人から言われて気づかされるのではなくて、自分から矛盾や不整合に気づいて修正していくと、結果的に正常化が起こってくるということかもしれないなとは思いました。

 漫画で描かれているのは完全な妄想性障害である。旦那が浮気をしていると思い込んで、やや狂乱気味の女性だ。何度もオープンダイアローグを重ねて、「もう駄目かも」と斎藤があきらめかけた時、彼女は一変した。

 この人の訴えを「妄想」と呼ぶ医師もいるかもしれません。妄想というと、きっちり構築された理屈みたいに聞こえますが、実は妄想の背景にあるのは、怒りや悲しみなどの強い「感情」なんですね。だから感情の部分に隙間ができると、妄想の内容もだんだん変わってくる。それをこのケースでは痛感しました。

 いやいや妄想ですよ。それも完全な。ここで常識人は意味の罠に囚(とら)われる。「妄想の原因は何か?」「妄想の意味は何か?」と。あるいは単なる脳のバグかもしれない。

「オープンダイアローグの7原則」の6番目に「不確実性に耐える」とある。この一言は重い。だがよく考えてみよう。生きるとは「不確実性に耐える」ことだ。紀貫之〈きのつらゆき〉は「明日知らぬ 我が身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ かなしかりけれ」と詠んだ。従兄弟の紀友則〈きのとものり〉が亡くなったことを嘆いた歌だ。一寸先は闇である。その不確実性に分け入り、切り拓いてゆくのが人の一生なのだろう。

【変えようとしないからこそ変化が起こる】――この逆説こそが、オープンダイアローグの第1の柱です。オープンダイアローグでは、治療や解決を目指しません。対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です。(中略)
 ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、一種の副産物、【“オマケ”として、勝手に変化(≒改善、治癒)が起こってしまう。】これは一見回り道のように見えるかもしれませんが、私の経験をもとにして考えると、結局はいちばんの最短コースになっていることが多いんですね。
 裏返して癒えば「対話というものは続いてさえいればなんとかなるものだ」――これがオープンダイアローグの肝だと私は思っています。これはこの言葉どおり捉えていただいてかまいません。対話を続けてさえいればなんとかなる。続かなくなったらヤバいかも、ということです。

 ここまで指摘されてオープンダイアローグが集合知であることに気づく。ヒトという群れが言葉を介してつながる姿が鮮やかに見える。「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説が正しいなら、胎内で魚からヒトにまで進化した赤ん坊が、言葉を操るようになるまで3年ほど要することを見逃せない。つまり大脳ができても言葉のなかった人類の時代があったに違いない。

 まだ成り立てのほやほやだった人類は、限りなく動物に近い存在だった。言葉のない時代の方がコミュニケーションは円滑であったと想像する。社会性動物の真価は群れにあるのだ。それゆえ群れの中で上手く動けない者は淘汰されたことだろう。そして人類の多くは統合失調症であった(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)。右脳と左脳を統合したのは言葉と論理だ。理窟で抑えきれない情動は狂気となって滴り、迸(ほとばし)る。

 たぶん言葉が脳を豊かにし、そして脳にブレーキをかけている。更に文字が言葉を強力に支える。歴史も文明も言葉から生まれた。だが果たして現在の我々の生き方が本当に人間らしいのだろうか? やや疑問である。

精神医療の新しい可能性/『オープンダイアローグとは何か』斎藤環


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界

 ・精神医療の新しい可能性

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 どれほど精神療法志向の医師でも、統合失調症だけは薬物療法が必須であると考えています。かつて反精神医学運動のなかで、薬物投与や行動制限をしない治療の試みが何度かなされ、ことごとく挫折に終わっているという苦い記憶もあります。統合失調症だけは薬を用いなければ治らない。それどころか、かつて早発性痴呆と呼ばれたように、放置すれば進行して荒廃状態に陥ってしまう。これは精神医学において専門家なら誰もが合意する数少ないハード・ファクトのひとつです。少なくとも、そう信じられています。

【『オープンダイアローグとは何か』斎藤環〈さいとう・たまき〉著、訳(医学書院、2015年)以下同】

 オープンダイアローグとはフィンランドで行われている統合失調症の治療法である。「開かれた対話」を家族と関係者で行う。斎藤は精神科医の本音を赤裸々に綴っている。私は過去に5~6人の統合失調症患者と接する機会があったが、やはり同様に考えていた。ギョッとさせられる言動や行動が多いためだ。妄想は想像の領域を軽々と超える。突拍子もない支離滅裂な話に「うん、うん。そうか――」と耳を傾けることは意外としんどい。もっとはっきり言うと「治そう」という意欲すら湧いてこない。できれば何とかしてくれ、時間よ。と嵐が通り過ぎるのを待つ心境に近い。

 自殺を防ぐためだと思われるが強い薬が処方されることも多い。一日に30~40錠もの薬を服用している人もいた。服薬後は頭がボーッとして何もできなくなる。当然、仕事もできない。

【映画に登場する病院スタッフたちが語る内容は、実に驚くべきものでした】。
 この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮されました。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていたというのです。そう、なんとこの治療法には、すでにかなりのエビデンス(医学的根拠)の蓄積があったのです。

 これは革命といっていいだろう。私は予(かね)てから左脳と右脳の統合に支障がある病気と考えてきたが、情報の紐づけが混乱している状態と考えた方がよさそうだ。対話は言葉で行われる。しかし言葉だけではない。情緒が意味や位置をくっきりと浮かび上がらせるのだ。我々はちょっとした目の動きや何気ない動作から様々な情報を受け取る。ひょっとすると体温や体臭まで感じ取っているかもしれない。

 尚、斎藤が購入した映画は現在、You Tubeで公開されている。


 オープンダイアローグとは、これまで長い歴史のなかで蓄積されてきた、【家族療法、精神療法、グループセラピー、ケースワークといった多領域にわたる知見や奥義を統合した治療法なのです】。

 やや西洋かぶれ気味で鼻白む。なぜなら、ほぼ同じことを20年以上も前から、べてるの家が実践してきたからだ。本書の中では申しわけ程度に紹介されているが、べてるの家を無視してきた日本の精神医療が炙り出された恰好だ。

 余談になるが、表紙を飾る冨谷悦子〈ふかや・えつこ〉のエッチング(「無題(19)」2007年)が目を引く。個と群れの絶妙なバランス感覚が際立っている。

2021-11-27

石川義博と土居健郎の出会い/『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子


『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
・『無知の涙』永山則夫
・『「甘え」の構造』土居健郎

 ・石川義博と土居健郎の出会い

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 犯罪精神医学界で大きな賞も受賞し自信をもって乗り込んだものの、これまでの研究は、彼らを前にして役に立たないどころか全然使いものにならなかった。自信は木端微塵に打ち砕かれた。少年たちへの治療は思うように進まず、ここで精神科医として職責を全うすることすら出来ないのではないかという、強い危惧まで抱くようになった。それまで自身が邁進してきた統計学に基づく研究は、何の意味があったのだろうかと重大な疑問が湧いた。どのようにして非行少年の面接や治療を行えばよいのか、何から手をつけていいのか分からなくなった。焦燥感にかられ、まさに医師として拠って立つ基盤を見失った。
 そんな最中に出会ったのが、土居健郎医師だった。
 土井が、東京大学医学部精神科の大学院生のために「精神療法的症例研究会(通称、土居ゼミ)」を開くことになったという話を聞き、石川は土居に関する知識もほとんどないまま、あまり期待することもなく、とりあえず参加することにした。とにかく藁をも摑むような気持ちだった。
 土居の研究会ではまず、事前に選ばれた報告者(参加者のひとり)が、自分が担当している患者の症例や家族歴、病歴、治療経過、行き詰まっている事象などについて報告する。
 事前に綿密な準備を行い、当日の報告だけでもかなりの時間を費やし、一見、詳細な説明が為されたかのように見える。ところが報告が終わるやいなや、じっと聞いていた土居が次々と質問を投げかけていく。「患者の最初の言葉は何だったか」、「それに対してどう答えたのか」、「患者はさらにどう答えたか」といった具合に、患者と治療者の間に起きた事柄を次々と問うてくる。そうするうちに他の参加者にも、最初の説明では実は理解できていなかった患者の全体像が少しずつ明らかになってくる。
 土居はあいまいな回答は容赦しなかった。質問を重ねる時の土居の迫力は、まさに真実に迫るための凄まじい気迫に満ち満ちていた。次から次へと続く詰問に、報告者は不意をつかれ立ち往生し、汗びっしょりになった。鋭く盲点をえぐられ、自分の患者であるにもかかわらず度々、答えに窮してしまい、さらに厳しい指摘に晒され、その切れ味の鋭さと自らの不甲斐なさに泣きだす者も少なくなかった。
 こうした数時間に及ぶやりとりの中で、土居による解釈は、その患者が本当に抱えている問題を浮き彫りにしていった。問題がより立体的に説明され、治療の方向性が示されていくのだ。
 事実、参加者の多くは現場に戻ってから、土居の指摘が正しかったことを実感した。土居自身、かつてのアメリカ留学時代に同じようにしごかれ鍛えられ辛酸を舐めた体験があり、それを日本の研究者たちに伝えようと必死だった。まさに「土居道場」とも呼ぶべき研究会は週に一度のペースで開かれ、報告者を替えながら続いた。
 最初はとりあえず参加した石川も、目からうろこが落ちるほどの衝撃を受けたという。何度も報告者として土居の前に立ち、自分の無知が曝け出され、骨の髄まで切り刻まれる思いを味わった。特に石川は、土居からの「それで君は何て言ったの?」という質問に弱かった。当時、石川は患者との面接において、自分自身の言葉などまったく関心を持っていなかったからだ。
 患者の悩みを出発点にして患者の話に耳を傾け、分からないところを聞き直し、患者との対話を深めていく。徐々に信頼関係が気づかれ、お互いに問題点を探りあいながら、ある日、「そうだったのか」という瞬間を共に迎えることができるようになる。土居の教えは、時間をかけてひとりの人間とじっくり向き合っていくことの重要さを説くものであった。
 石川は厳しい研究会での経験を積みながら、これまで迷っていたことに、ひとつずつ答えが出てくるような確かな手ごたえを感じていた。自分が求めていたものに「やっと出会えた」と思った。

【『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子〈ほりかわ・けいこ〉(岩波書店、2013年/講談社文庫、2017年)以下同】

 永山則夫〈ながやま・のりお〉は行きずりの人を次々と4人射殺した連続殺人犯である。犯行当時(1968年)、19歳だった。1997年に死刑執行。享年48歳。石川義博医師は永山の精神鑑定を行った人物である。

資料室「心と社会 No.159」 日本精神衛生会

 鑑定を行ったのが石川で、鑑定されたのは永山である。つまり「封印された鑑定記録」は二人の共同作業であるゆえに、本書の主役もまた石川と永山の二人になる。

 人と人との出会いは化学反応である。眠った精神は欲望に基づいて反応するが、目覚めた精神は知性や情緒を敏感に受信する。迷いや行き詰まりが精神の扉を開く端緒となり、そこに扉の向こう側から光を放つ人が現れるのだ。人間には魂と魂が触れる瞬間がある。それがなければ動物と変わらぬ人生と言われても抗弁できまい。

 堀川と石川の出会いがあり、石川と永山の出会いがあり、石川と土居の出会いがあった。この三重奏から死者となった永山則夫が蘇るのである。堀川もまた永山と出会った。確かに出会った。

 278日間にもわたって石川が精魂を傾けて作成した膨大な鑑定記録は最高裁に無視された。その後、石川は「裁判の精神鑑定は二度としない」ことを誓った。一流のエキスパートによる一流の仕事をまるで存在しないように扱い、政治的な事情を優先して閉鎖システムの内部で物事が決定される。出る杭は打たれる文化の中から実力者が育つことはない。

 石川の苦労は徒労に終わったのだろうか? 決してそうではあるまい。二人の邂逅(かいこう)こそが全てなのだ。魂のふれあいは時を経て連鎖する。根は地中深く張り、太陽に向かって枝を伸ばす。本書はそこに実った果実の一つにすぎない。

 後日談になるが、土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる2009年まで45年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した。

 本書を通して私は石川と確かに出会った。