@shunsoku2002
宍戸 俊則 県外で福島続行中 福島県から人が減れば、県に税金が入らない。企業が逃げれば県に税金が入らない。農業を止めれば、県に税金が入ってこない。なので、人をこれ以上避難させず、呼び戻す。企業活動も呼び込む。農作物も作って売らせる。そこまでして維持しなくちゃいけないか、福島県?福島は残したいけど。
Oct 02 via webFavoriteRetweetReply
2011-10-10
ウガンダの飢餓
1980年4月、ウガンダ北西部のカラモジャ地方で飢餓に苦しむ少年と宣教師の手。イギリスの写真家マイク・ウェルズが撮影。
・ケビン・カーター「ハゲワシと少女」
・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
世界の殺人発生率、中米とカリブ海で危機的な局面 国連
国連は8日までに、世界各国の殺人事件の発生率などに関する報告書をまとめ、中米とカリブ海諸国では「危機的な水準」に近付いていると発表した。
中米諸国では8カ国のうち5カ国で過去5年の間、発生率が上昇、ホンジュラスでは2005年から10年までの間、倍以上を記録した。ジャマイカ、トリニダード・トバゴやドミニカ共和国でも増えている。
麻薬カルテル掃討に伴う「麻薬戦争」が続くメキシコでは同期間で65%増を示した。
国連の報告書によると、北米や中南米での火器による殺人事件の4分の1には麻薬密輸などの組織犯罪が絡んでいた。この比率はアジアや欧州諸国ではそれぞれ5%としている。
世界規模で見た場合、殺人事件の10件のうちの4件以上で火器が用いられていた。昨年起きた殺人事件の総数は推定46万8000件。このうち36%がアフリカ大陸、31%が北米や中南米諸国、27%がアジア諸国で発生していた。欧州やオセアニア諸国の比率は合わせて6%以下だった。
事件の犠牲者や実行犯の約80%が男性だったとも報告した。男性の場合、公の場所で殺害される事犯が目立ったものの、女性の場合は事件現場は主に自宅だったことも判明した。欧州ではパートナーや前パートナーが犯人だった殺人事件のうち犠牲者の約80%が女性だった。
【CNN 2011-10-08】
分析だけなら小学生にだってできる。
・殺戮大陸メキシコの狂気 1 麻薬に汚染されてしまった国家
2011-10-09
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ本の翻訳はどれも評判が悪い。私の周囲でも「あんな悪文がよく読めますね」という声を聞く。その上、翻訳者が声高に自己主張を叫んでいる。これが大野純一、大野龍一、藤仲孝司の共通点だ。
不思議なことだが酷い翻訳であるにもかかわらず、私は読むのに支障をきたすことがない。クリシュナムルティの静謐な精神に包まれているような心地がするのだ。
翻訳は重要な事業である。鳩摩羅什〈くまらじゅう〉がいなければ鎌倉仏教も生まれなかったであろうし、小ブッダともいうべき人々が存在しなければ、部派仏教も大乗仏教も誕生しなかったに違いない。
その意味で翻訳は単なる言葉の置き換えではない。人々の脳内情報を書き換え、上書き保存するほどのプレゼン能力が求められる。仏典では文・義・意という考え方があるが、これは翻訳の原理を示したものといってよい。
藤仲は文(もん)を重んじるタイプで、翻訳というよりは通訳に近い。それはそれで資料的価値がある。解釈というものは常に誤謬(ごびゅう)に満ちているものだから。
本書には1933年から1967年に渡る講演が収められている。ところが古さを全く感じさせない。どんなに立派な人物であっても1970年代前半くらいまでは差別的な言辞や用語があるものだ。社会全体もそれを受容していた。
今、中国の風潮を揶揄するネット言論が目立つが、高度経済成長が終わるまでの日本とさほど遜色があるとは思えない。
クリシュナムルティにはそれがないのだから驚くべきことである。
私たちは、目覚めさせてくれる人がほしいのです。啓発者がほしいのです。導き手がほしいのです。振るまい方を私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。愛は何であるのか、何を愛するのかを私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。私たちは自分自身では空っぽです。私たちは自分自身では混乱し、不確実で、悲惨です。ですから、私たちは、助けてもらい、啓発してもらい、導いてもらい、目覚めさせてもらえるよう、乞い求めて巡るのです。どうかこれに付いてきてください。それはあなたの問題です。私の〔問題〕ではありません。それはあなたの問題ですから、あなたはそれに向き合い、それを理解すべきです――来る年も来る年も、〔ついに〕混乱し全く迷って死ぬまで、それを反復すべきではないのです。あなたは、啓発者が不可欠である、または導師(グル)は必要である、と言います。何のためですか。導師(グル)は、あなたが真理と呼ぶもの――実在(the real)と呼ぶもの、神、自己実現――に導かれるために、必要でしょうか。理解できるでしょうか。あなたは導かれたいのです。これには幾つものことが含意されています。(マドラスでの講話4 1953年12月13日)
【『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉、横山信英、三木治子訳(UNIO、2007年)以下同】
1953年だから昭和28年の講話(トーク)である。第二次世界大戦が終わってから10年経っていない。バブル景気が弾けた後なら、まだ理解のしようもある。クリシュナムルティの指摘は半世紀ほど先んじていた。
サラリーマンは「よき上司」を求めるものである。我々現代人は何らかの形で組織や集団に所属している。皆が皆、「素晴らしいリーダー」を待望している。我々はそれを当たり前のように自然な気持ちとして考えている。だがクリシュナムルティはその実相を暴く。
多くの人々は心理的な依存を求めており、よりよき方向へ自分を導いてくれる案内者を探している。つまり、「よきコントロール」を望んでいるのだ。
主従(経済的関係性)、親子(家族的関係性)、師弟(教育的関係性)のいずれにおいても、我々はコントロールされている。会社の指示を聞き、親に従い、先生の言いつけを守ることが「正しい」と信じている。社会のありとあらゆる場面で、積極的な隷属を強いられている。そこで重んじられるのは智慧よりもセオリーだ。幼い頃から「ルールを守る」ことは教わっても、「誤ったルールを見抜き、変える」ことはただの一度も教わっていない。
「お母さん、明日の朝起こしてね」――これが我々の生きる姿勢なのだ。
次に紹介するのはラージガートの講話で聴衆は学生である。
今朝私は〔できるなら〕、かなり難しそうな話題について話をしたいのです。ですが、可能なかぎり、それを単純で直接的にしようとするでしょう。知っているでしょうが、私たちのほとんどは何らかの恐れを持っていますね。君たちは、自分の特定の恐れを知っているでしょうか。君たちは、自分の先生を、保護者、親、大人たちを、または蛇や野牛、誰かの言うことや死などを恐れているかもしれません。一人一人が恐れを持っていますが、若者たちにとって恐れは相当に単純です。私たちが年を取るにつれて、恐れはもっと複雑で、もっと難しく、もっと微細になるのです。私は特定の方向で自己を充足したいのです。君たちは、「充足」とはどういう意味であるかを、知っていますね。私は偉大な作家になりたいのです。私は、もしもものを書けたなら、自分の生活が幸せになるだろうと感じます。それで、私はものを書きたいのです。しかし、私には何が(ママ)起きるかもしれません。私は余生の間、〔身体が〕麻痺してしまうかもしれません。それが私の恐れになるのです。それで、私たちが年を取るにつれて、様々な形の恐怖が生じます――ひとり取りのこされる〔恐れ〕、友だちがいない〔恐れ〕、資産を失う〔恐れ〕、どんな地位をも持たない恐れ、そして他の様々な種類の恐れ、です。しかし私たちは今、とても難しくて微細な種類の恐れには入らないでしょう。なぜなら、それらははるかに多くの思考を必要とするからです。
私たちが――君たち若者と私が、この恐れという疑問を考慮することが、とても重要です。なぜなら、社会と大人たちは、君たちを行儀よくさせておくには恐れが必要である、と考えるからです。君が自分の先生や親を恐れているなら、彼らは君をもっとうまく制御できるでしょう。彼らは、「これをしなさい、あれをしてはいけない」と言えるし、君はまったく彼らに服従しなくてはならないでしょう。ですから、恐れは道徳的な圧力として使われます。教師たちは、たとえば大きな学級において、学生たちを制御する手段として恐れを使います。そうではないでしょうか。社会は、恐れは必要である、さもなければ市民たち、民衆たちは弾けて、むちゃなことをするだろう、と言うのです。こうして、恐れは人の制御に必要なものになったのです。
知っているでしょうが、恐れはまた、人を〔文明化・〕教化するためにも使われます。世界中の〔諸々の〕宗教は、人を制御する手段として、恐れを使ってきたでしょう。彼らは、君はこの生で一定のことをしないなら、来世でそのつけを払うことになるだろう、と言うのです。すべての宗教は愛を説くけれども、同胞愛を説くし、人の和について話をするけれども、彼らはすべて、微妙にまたはひどく残忍に、粗雑にこの恐れの感覚を維持するのです。(ラージガートでの講話2 1954年1月5日、以下同)
あっと言う間に「恐怖」の本質を浮かび上がらせている。確かに社会や集団は恐怖で人々を支配している側面がある。法的な罰(ばつ)と神罰(しんばつ)仏罰(ぶつばち)は同根であろう。人間よりもコミュニティに重きを置いた眼差しだ。
社会で罰の価値観が共有されると、「あいつを罰するべきだ」という主張が必ず生まれる。法律で裁けないなら俺たちの手で裁こう、というのが私刑だ。イタリアマフィアのオメルタの掟、やくざ者の指詰め、クー・クラックス・クラン(KKK)による黒人の処刑、関東大震災における朝鮮人虐殺も全部同じだ。
・クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義
一人ひとりの権利を守るべきルールが、今度は人々の行動を束縛し抑圧する方向へと作動する。次々と生まれる新たな犯罪によって法律は細分化し、次々と発生する新たな事故や病気によって保険の約款(やっかん)は長くなる。
組織が必ず統治されている以上、そこでは権力が機能する。権力は必ず服従を求める。組織内では服従の競争がまかり通る。これを「積極的奴隷性」と名づけよう。
誰もが社会での成功を望んでいる。否、我々にとっての幸福とは「社会での成功」に他ならない。皆が皆、ひとかどの者になろうと悪戦苦闘している。だが、よくよく考えてみると、それ自体が社会の奴隷になることを促している。ビジネス書が披露しているのは「賢い奴隷になる方法」であろう。
私たちのほとんどはとても保守的です。君たちは、その〔保守的という〕言葉がどういう意味であるのかを、知っていますね。「保守する」とはどういうことかを知っていますね――保つ、守るのです。私たちのほとんどは、〔尊敬されるよう〕体裁よくしていたいのです。それで、正しいことをやりたいし、正しい行ないに従いたいのです――それは、とても深く入るなら分るでしょうが、恐れの表示です。なぜまちがえていけないのでしょうか。なぜ見出さないのでしょうか。しかし。恐れている人はいつも、「私は正しいことをしなければならない。体裁よく見えなければならない。本当のありのままの私を公に知らせてはならない」と考えています。こういう人は基本的に、根源的に恐れています。野心を持っている人は本当は怯えた人物です。そして怯えている人は、どんな愛をも持ちません。どんな同情も持ちません。彼は壁の向こうに監禁された人物に似ています。私たちが若いうちに、このことを理解すること、恐れを理解することが、とても重要です。私を服従させるのは、恐れです。しかし、私たちはそれについて話し合い、ともに推理し、ともに議論し、考えることができるなら、そのとき私は、頼まれたことを理解して、できるかもしれません。しかし、私が君に怯えているからといって、私が理解しないことをやるよう私に強制すること、強いることは、まちがった教育でしょう。
凄い指摘だ。野心を持つ者は臆病者だと言い切っている。組織が巨大になればなるほど、そこでは野心と思惑が働く。権力闘争といえば聞こえはいいが、所詮パン食い競争みたいなものだ。
地位・名誉・称賛を求める人生に本当の幸福はあり得ない。なぜなら奴隷には自由がないからだ。知らず知らずのうちに「不自由な豊かさ」を幸福だと思い込まされている事実が恐ろしい。我々が望んでいるのは「豪華な牢獄」に他ならない。
権力者を恐れ、権威に従うことは、群れの本能に基づいているのだろう。権威に服従すればコミュニティ内では得をする。
・服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
相手を立場や所属で見つめる眼差しに人間の姿は映らない。我々は人間と向き合うことすら奪われてしまったのだろう。
クリシュナムルティは宗教者に鉄槌を下す。
恐れている人物は、けっして真理や神を見出せません。私たちの崇拝すべて、像すべて、儀式すべての裏には、恐れがあります。ゆえに、君の神は神ではなくて、それらは石なのです。
もうね、ぐうの音も出ないよ。宗教は死、あるいは死後の恐怖を利用して信者を脅す。ただ脅すだけではない。必ず金を巻き上げる。地獄や祟(たた)りが彼らの常套句だ。先祖をオールスターで勢揃いさせて、恨みつらみを勝手に代弁する。霊の腹話術みたいなもんだ。しゃべってんのは、てめえだろーが。
クリシュナムルティが示したのは「恐怖からの自由」であった。
智恵からの創造―条件付けの教育を超えて (クリシュナムルティ著述集)
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・クリシュナムルティ「智恵からの創造」
・恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ
・自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・宗教は恐怖と不安を利用する
・死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
陸山会事件判決要旨に関する郷原信郎のツイート
@nobuogohara
郷原信郎 九州電力第三者委員会も、昨日の最終報告書公表で、一応終わり。ようやく、陸山会事件の判決要旨を読んだ。唖然としたとしか言いようがない。こんな刑事判決があり得るのか。検察の立証をベースにしてきた従来の刑事司法を、(悪い意味で)根底から覆し、裁判所が、勝手な判断ができるのといえる(続く
Oct 01 via webFavoriteRetweetReply
@nobuogohara
郷原信郎 続き)検察がストーリーを固定化して、それに沿う調査を不当な手段でとろうとするのも問題だが、それ以上に、その調書すら必要とせず、裁判所が、推測や憶測で勝手に事実を認定するようになったら、不十分とはいえ、検察という組織のハードルがかかるのと比較して、さらに事態は悪化する。(続く
Oct 01 via webFavoriteRetweetReply
@nobuogohara
郷原信郎 続き)今回の事件では、裁判所は、検察が用意した検察官調書という料理を食べないでが推測、憶測で料理を作り上げた。こういうことがまかり通るのであれば、検察官は、適当な証拠で取りあえず起訴すれば、有罪判決もあり得るなることもある、ということで、無責任な起訴がまかり通ることになってしまう
Oct 01 via webFavoriteRetweetReply
・郷原信郎【動画】
異端審問官がサバトを発明した
悪魔学の権威の碩学(せきがく)ロッセル・ホープ・ロビンズが、サバト(※悪魔に忠誠を誓う集会)は「異端審問と関係する学者や裁判官によって発明された」と書いているとおり(『悪魔学大全』)、これが教会によるでっちあげであったことはいうまでもない。
【『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』(学研ブックス・エストリカ、2006年)】
・悪魔祓い
2011-10-08
大田俊寛の中沢新一批判を「私怨」と決めつけた佐藤剛裕の言いわけ
大田俊寛と佐藤剛裕のツイートをまとめた。オブジェクトの埋め込みが上手くいかないので、テキストをそのままコピーさせてもらう。@ujikenorioさんからのRTで知った。
【大田俊寛】▼コミックナタリー編集長の唐木元さん(@rootsy)、文化人類学者の佐藤剛裕さん(@goyou)に対し、公開で質問させていただきます。お二方は、昨日10月5日のツイートにおいて、私がこれまで発した中沢新一氏への批判に対し、「私怨」に基づく「売名行為」ではないかと述べています。
【大田俊寛】▼具体的な経緯は以下の通り。まず唐木さんが佐藤さんに対し、「サイゾーの、太田という人はそんなに筋が悪くないのに、中沢先生をああも敵視するのはなんなのか、不思議に思えた。なんかうらみでもあんのかしらね。」とツイートしました。
【大田俊寛】▼これに対して佐藤さんは、「東大のグノーシス研究の人でしょう?彼、山口瑞鳳とか島田裕巳とかの私怨に満ちた言説を引き継いじゃってるんだよね。ただの売名行為なのか嫉妬なのかしらないけれど。」と返答し、唐木さんは「やっぱ私怨に見えるよねw。」と応じています。
【大田俊寛】▼私は中沢氏との個人的接触は一切なく、その批判が「私怨」に基づくものであるということはありません。『オウム真理教の精神史』でも述べたように、オウム事件を学問的にあらためて総括し、ひいては宗教学を再構築するというのが私の目標であり、中沢批判はその文脈に位置しているものです。
【大田俊寛】▼また、山口瑞鳳先生、島田裕巳氏による中沢批判についても、大枠としては、元オウム信者の高橋英利氏による「僕と中沢新一さんのサリン事件」(『宝島30』1996年2月号)という記事に基づくものであり、それを「私怨に満ちた言説」と捉えるのは当たらないと考えます。
【大田俊寛】▼唐木元さんや佐藤剛裕さんは、私を含むこれらの人々の中沢批判を、なぜ「私怨」から発するものと考えるのでしょうか。その根拠を提示していただきたいと思います。そしてその根拠が提示できない場合、発言を撤回していただきたいと思います。
【大田俊寛】▼唐木さんや佐藤さんが私のツイートを読む可能性は低いと思いますので、お二方とフォロー関係にあるという方がいらっしゃれば、私の質問に対して応答するように伝えていただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。
【佐藤剛裕】知らんぷりしようと思っていたんだけれど、わざわざRTしてくれる人もいるのでちょっと書こうかな。
【佐藤剛裕】@t_ota 大田さん、わざわざリプライをありがとうございます。大田さんが宗教学理論を再構築するという高い志を掲げているのに、私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう。いつか大田さんの著作を読んで詳細な議論をみれば、また見解が変わるのかもしれません。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 僕は宗教学理論を再構築するというような高い志を掲げて中沢新一を批判的に乗り越えようというような研究ならば、ぜひ読んでみたいと思っているんですよ。中沢のハイデガーの解釈のここがおかしい!とか、あの贈与経済学仮説にはここに不備がある!とかね。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota オウム事件についてなら週プレの「オウム信者への手紙」や別冊Imagoの「尊師のニヒリズム」、『緑の資本論』の「シュトックハウゼン事件」の批判などはなかなか出てこない。とくに事件直後の「オウム信者への手紙」では師弟間の癒着の問題の指摘もなされているのに。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 揚げ句の果てに主な論拠として出てくるが、あの一連の宝島30の記事だというのならば、およそ議論の本筋からは遠く離れた感情的なものになっているのではないかというのが正直な印象なのです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 印象だけで語るのもなんですから、とくに山口瑞鳳氏の言説が資料として不適切だということについては、やや専門的な話になるのですが僕の見解を示しておきます。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 近代チベット学の発展初期には、ゲルク派のセラ寺メ学堂に属する僧侶達を主な情報源とする帝政ロシア下のペテルスブルグ学派が一定の影響力を持っていました。セラ寺メ学堂はニンマ派を敵視する傾向の強い、ダライ・ラマ13世とは対立する政治集団の最大の本拠地でした。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 中央チベットのウ地方とツァン地方を治める氏族たちの古代から連綿と続く対立が原因となり、東チベットやモンゴル諸部族を巻き込んだ闘争が、ゲルク派の保守強硬派の極端な反ニンマ派的傾向を産みだしました。思想的発端も中世の古代史解釈にまで遡る根深いものです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 山口瑞鳳氏はそのようなゲルク派の反ニンマ派プロパガンダ言説を極端な形で受け継いで、ニンマ派の密教は全て性瑜伽だというような誤謬に満ちた主張を行っていました。そこに中沢新一がネパールでニンマ派の調査をして帰ってきたので、当然面白く思ってなかったようです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 宗教研究一般において、先行研究の成果というものは、情報提供者の政治的立場による偏向を読み取り補正してながら利用しなければならないものです。中沢新一批判という文脈で山口瑞鳳氏の言説を取り扱うのは、「ニンマ派って何?」という程度の知識では難しいはずです。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota また、チベット学界における山口瑞鳳氏の研究全般の評価についての例として、1994年に書かれた批判論文をひとつご紹介します。福田洋一「日本のチベット学10年、−山口瑞鳳博士の研究を中心に−」『佛教學』36号 http://ci.nii.ac.jp/naid/40004207632
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 島田氏は大学時代の柳川ゼミの先輩・後輩の仲でもあり、あの事件に関連して大学を辞職させられるという辛いご経験をされて、中沢先生に対して個人的に複雑な感情が入り交じっていることはご本人も吐露している通りですから、その部分は考慮しなければならないでしょう。
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota もちろん中沢新一先生と師弟関係にある僕の意見も批判的にお読みくださいね。中沢が反原発を掲げる環境保護政党を立ち上げようとしている時期だから、ネット上で中沢擁護の論戦を張ろうとしているに違いない!とか思って下さってもけっこうです(大爆笑)
【佐藤剛裕】@goyou @t_ota ちなみに僕がサンガ・ジャパン第五号・第六号に寄稿した論考は、山口瑞鳳氏がしてきたようなゲルク派の立場からのニンマ派批判に対する反駁であり、同時にオウム真理教のグルイズムに対する批判でもあります。御笑覧下さい。『サンガジャパン Vol.5(2011Spring)』
【大田俊寛】★佐藤剛裕(@goyou)さん、ご回答有難うございました。しかし佐藤さんの回答は、腑に落ちないところがあります。佐藤さんは「文化人類学者」という立場にもかかわらず、私の言論に対して公開の形で中傷を行ったのですから、まず最初に、そのことを率直に詫びるべきではないでしょうか。
【大田俊寛】★また、山口瑞鳳先生にしても、島田裕巳氏にしても、中沢氏から何か個人的に被害を受け、それに恨みを抱いて中沢批判を行っているというのではまったくないのですから、それを「私怨」と捉えるのは、やはり当たっていないと考えます。
【大田俊寛】★今回特に、私が佐藤さんの発言に抗議しなければならないと思ったのは、山口瑞鳳先生の中沢批判、さらには、山口先生との対談が収められた高橋英利氏の「僕と中沢新一さんのサリン事件」(以下、高橋論考と略)までもが、「私怨に満ちた言説」の一言で切り捨てられているように感じたからです。
【大田俊寛】★私が高橋論考を読んだのは、遅ればせながら昨年の夏のことでしたが、私はこの論考から、いくつものことを教えられました。まずその一つは、二〇歳前後までは私も熱心なファンであった中沢新一という人物が、本質的にどのような人間性を備えているかということについてです。
【大田俊寛】★中沢新一氏は地下鉄サリン事件後、オウム信者を「本気で引き受ける」と発言し、高橋英利氏を含む元オウム信者は、オウムがどこで道を踏み外したのかということを、中沢氏に質問しました。それに対して中沢氏は、どのように答えたか。
【大田俊寛】★詳しくは高橋論考を実際に読んでいただきたいのですが、それは「サリン事件の被害者が一万人とか二万人の規模だったら別の意味合いがあった」「坂本事件の犯人はオウムではない」「オウム事件の背後には大きな謀略がある」といった、耳を疑うような発言の数々だったのです。
【大田俊寛】★その答えに納得できない高橋氏は、「それはどういう意味か」と中沢氏に問い質しましたが、中沢氏はそれには回答せず、高橋氏の行動や人格を非難・侮辱する発言を繰り返した挙げ句、最後には一方的に「絶交」を宣言したのです。
【大田俊寛】★ここから分かるのは、中沢氏の思考が、きわめて濃密な幻想によって覆われているということです。こうした人間は、自分の幻想を共有してくれる人々に対しては、海のように深い優しさや包容力を示しますが、その人間が自分の幻想を否定していると分かるやいなや、態度を大きく豹変させます。
【大田俊寛】★そしてその際には、最初の人格とは正反対の人格、すなわち、陰湿な攻撃性や、混乱した感情に満ちた人格が現れてくるのです。率直に申し上げて、私はここに、「カルトの教祖」に類似したと言って過言ではない、特異な精神性の存在を感じ取らざるを得ません。
【大田俊寛】★第二に、中沢氏のチベット密教研究が、信頼に値しないものであるということです。もちろん、中沢氏を批判する山口瑞鳳氏のチベット密教理解もまた、一定の偏りや単純化が見られるものであるというのは、おそらくその通りだろうと思います。
【大田俊寛】★しかし、高橋氏のように、中沢氏の『虹の階梯』に真理性を見出してオウムに入信したという人間にとって、山口氏という専門家から中沢氏への苛烈な批判を聞かされたこと、また、仏教やチベット密教についての違った視点を与えられたことは、大きな意味があったのではないでしょうか。
【大田俊寛】★福田洋一氏の「日本のチベット学10年」も拝読しました。この論考は、チベット学の権威としての山口氏の業績を認めた上で、まさにそれを批判的に継承しようとしたものです。山口氏が盲目的に崇拝されていないという点で、日本のチベット学の学問的健全性を示していると感じました。
【大田俊寛】★それに比して気になるのは、中沢新一氏は、日本においておそらくもっとも著名なチベット密教研究者でありながら、この論文では一顧だにされていないということです。福田洋一氏もまた、山口氏と同じく、中沢氏の研究は学問的には「論外」であると見なしているのではないですか。
【大田俊寛】★また、手元に『サンガジャパン Vol.6』を持っていたので、佐藤さんの「ダライ・ラマの慈悲とチベットの大地母神」を読みましたが、これのどこが山口批判やオウム批判になっているのか、門外漢の私にはよく分かりませんでした。もっと直接的な批判的論考を、別に書くべきではないでしょうか。
【大田俊寛】★中沢氏の「シュトックハウゼン事件」(『緑の資本論』所収、2002年)にも目を通しました。率直に申し上げて、唾棄すべき愚劣な論考、というのが私の印象で、これまで私が言ってきたとおり、中沢氏にはそもそもオウム事件を反省しうるだけの知的能力がないという事実を再確認させられました。
【大田俊寛】★音楽家シュトックハウゼン氏の舌禍事件と、宗教学者である中沢氏のオウム礼賛は、根本的に水準の違うものであり、両者を比較しても意味がありません。そして何より気になるのは、中沢氏がこの論考において、宗教の本質が「聖なる狂気」にあるという見解を繰り返していることです。
【大田俊寛】★宗教や芸術の本質は「聖なる狂気」にあり、それは場合によっては、圧倒的暴力や破壊に行き着くこともある。それを理解しない一般社会は、宗教家や芸術家の崇高な行為を妨害し、彼らを不当に貶めるための陰謀を張り巡らしている…。中沢氏の思考回路は、オウム事件以前と何ら変わっていないのです。
【大田俊寛】★今回中沢氏が、緑の党を結成して政治進出する意志を発表したことについて、私は中沢氏が、約二万人に及ぶ犠牲者を出したことで東北地方の「霊的磁場」が変わり、そこに救済者として降臨するという幻想でも抱いているのではないかという危惧を覚えずにいません。これは私の根拠のない妄想でしょうか。
【大田俊寛】★幻想やオカルトにしか触れたことのないロマン主義的思想家が、現実社会に不満を覚えて政治参加を志すとき、それがどれだけの惨禍を引き起こしてきたかを、私たちはもう知っているはずなのです。今の日本社会は、こうした幻想家に関わり合う余裕はもうないはずだというのが、私の考えです。(終)
【唐木元】@t_ota 大田さんはじめまして。ツイート拝読したのでまずはそのことをお知らせしますね。ご質問ですが、あとでメールでお返事する形にさせてください。その文面を公開なさるかどうかはお任せします。OKなら空メールで結構ですのでgen@rootsy.netまで1通投げてください。
相手に読まれることが十分想定されるにもかかわらず佐藤剛裕は「知らんぷりしようと思っていたけれど」と前置きし、「私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう」と他人事みたいにとぼけている。完全に罪悪感が欠如しており境界性人格障害傾向が窺える。
・人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見
今後、佐藤剛裕と唐木元の名前を見つけたら、私はその本を極力読まないようにする。
・自ら「グル」になろうとした中沢新一ら研究者たちの罪と罰
・中沢新一批判をめぐる論争:togetter
・岩上安身×宮崎哲弥 ぼくらの「オウム」戦争(『宝島30』1996年6月号)
・大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ
・山形浩生 の「経済のトリセツ」
女子割礼(女性器切除)禁止に直面するマサイ、遠い道のり ケニア
ケニア南西の町ナロク(Narok)にある小さな教会では、女子割礼(女性器切除)から逃れてきたマサイ人(Maasai)の少女十数人が保護されている。女子割礼はマサイ人の古くからのしきたりだが、ここにきて、健康上の懸念や新法の制定により伝統にほころびが生じつつある。
マサイの長老たちは女子割礼を文化だとして強く擁護している。そんな中、この教会の牧師ら一部のマサイ人たちは伝統に背を向け、2007年、ナロクに少女たちの「駆け込み寺」として教会直属の保護センター「マサイの少女たちの希望(Hope for the Maasai Girls)」を設立した。
だが、運営はスムーズではない。怒った男たちがしばしば設立メンバーを脅迫したり、逃げ込んだ娘を親が勘当したりするためだ。
早ければ9歳から、割礼が根付いた社会
マサイ社会の伝統では、少女は結婚する前にまず割礼を済ませなければならない。そして親にとって娘を嫁に出すことは、婚資(夫方から妻の実家への贈り物)をもらえることを意味する。婚資はたいてい、牛数頭。半遊牧民のマサイにとっては大きな財産だ。
「未割礼の少女を嫁にもらうと、男の価値が下がるとみなされます。割礼を受けていないと参加できない儀式もあるのです」と、保護センターを運営するマーティン・オロロイゲロさんは説明した。
学校が休みに入ると、マサイの少女たちは早ければ9歳で、大人への通過儀礼として割礼を受ける。これは自動的に、はるかに年配の男性のもとへ嫁がされる状態になったことを意味する。
「マサイは他の部族とは違って、割礼を済ませてもいないような娘を嫁には出さない。割礼が済めばその娘は成人だ。男に嫁ぐことができるんだから良いことだ」と、ナロクのある長老は語った。
保護センターにいる少女たちに、割礼から逃げた経緯について聞いてみた。15歳のマリーさんは、「両親が死んだあと私を引き取った保護者が私を結婚させようとしたから、ここに逃げてきたの」と語った。「割礼されて結婚させられた女の子は、苦しい生活を送ることになる。わずかな収入を得るために卑しい仕事もせざるを得なくなるから」
同じく15歳のサラさんも同意した。「割礼されたら、出産がとても困難になる。だから割礼を拒否したんです。それに、嫁ぐ相手はおじいさんで、もし死んでしまえば残された女の子は生き延びるために大変な苦労をしなければならなくなる」
ファーストレディーも廃止に意欲
女子割礼の風習があるのはマサイだけではない。ケニアの他の部族も行っている。割礼では陰核を時には外陰部と一緒に切除するが、使われる刃物は消毒していないことも多く、麻酔なしに行われることも少なくない。その結果、合併症を起こしたり、出血多量で死亡する例もあり、NGOやケニア政府からは批判の対象となっている。
ケニア議会は先に、女性器切除(FGM)禁止法案を可決し、法制化した。違反者には禁錮7年または罰金5000ドル(約40万円)が科され、相手が死亡した場合は終身刑となる。
同国のルーシー・キバキ(Lucy Kibaki)大統領夫人は9月、この新法の厳格な適用を呼び掛けた。「これらの罰則は、効果的に実施されれば十分な抑止力になる。FGMが一般的な地域では出産時の母親と新生児の死亡率が高いが、一因はFGMだ」
とはいえ、マサイ社会では女子割礼がいまだに広く行われており、支持する人も多い。保護センターのオロロイゲロさんは次のように話した。「すぐに廃止にはならないでしょう。時間がかかります。私たちは地域社会を混乱させたいわけではありません。私たちもその一員なのですから。徐々に変わることが望ましいのです」
【AFP 2011-10-07】
女子割礼(女性器切除)は宗教と似ている。たとえ誤っていたとしても、後の時代に「伝えられたもの」が正当化される仕組みとなっているからだ。「歴史とは書かれたもの」で「伝統とは伝えられたたもの」なのだ。
・歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
学校教育をよくよく吟味すると、社会に隷属させる目的で行われていることに気づく。とすると真の教育とは「懐疑する精神」を陶冶(とうや)することなのだろう。合理的な批判精神を欠けば、我々は伝統や風習のコピー媒体と化してしまう。
実に情けない話だが、以下の動画を私は怖くて視聴することができなかった。
・女子割礼
・女子割礼
・女子割礼に警鐘を鳴らすアムネスティのポスター
・動画
・閲覧注意:動画
・閲覧注意:動画
2011-10-07
藤永茂、染田秀藤
2冊挫折。
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂(朝日選書、1974年)/量子化学者が書いたアメリカ先住民の歴史。構成がまずい。文章も相性がよくなかった。リライトすれば売れると思う。ただし私はこの本を大切にしてゆく。藤永は科学者らしい態度で、どちらに与(くみ)することもなく両者の功罪をきちんと書いている。
『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉(渓水社、1995年)/助成金による研究のためか資料的側面に重きが置かれ、物語性を欠いている。パネーの報告書で挫ける。
2011-10-06
ユネスコ執行委、パレスチナの加盟勧告案を可決
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の執行委員会は5日、パレスチナの正式加盟をめぐる勧告案の採決を行い、58カ国中40カ国の賛成で可決した。
ユネスコ筋によると、採決では米国、ドイツ、ルーマニア、ラトビアの4カ国が反対し、日本など14カ国は棄権した。
勧告案は、加盟193カ国が参加して今月25日に始まるユネスコ総会にかけられるが、パレスチナの加盟が認められれば、ユネスコ予算の22%を拠出する米国が、その負担を減額させる可能性もあるとみられる。
パレスチナ自治政府のアッバス議長は先月23日、イスラエルや米国の強い反対を押し切り、国連の加盟申請に踏み切った。この問題は現在、安全保障理事会の審査委員会で審議されている。
【ロイター 2011-10-06】
日本人をやめたくなってきた。
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