たぶん二人とも女性だろう。おかっぱ頭に見えるから(笑)。単純なシンボルが強い物語を生み出すという好例。
・抱擁
歩きながら、母は私に適切に呼吸をすることを教え、呼吸に細心の注意を払うようにいった。「注意を払うことが、瞑想なのよ」と母はいっていた。歩きながら瞑想するという考えを幼いうちから教えておけば、そのことで私がくじけたりしないだろうと母は考えていたに相違ない。
私がとりわけ覚えているのは、母のこの言葉だった。「息を吸うときと吐くときの間の瞬間に気を向けなさい。息を吸ってもなく吐いてもいない一瞬を見つめるのよ。その瞬間を引き延ばそうとしたり、息を止めたりする必要はないわ、ただ見つめるのよ」
母はこの技を、12年間瞑想を実践してきた尼僧から学んだ。ジャイナ教の尼僧や僧侶は毎日裸足(はだし)で歩き、それ以外の輸送手段は使わない。だからこそ彼らは歩く瞑想の達人なのである。私がたいした苦労もせずに母から瞑想を習うことができたのは、幸運なことだった。
「呼吸は、あなたと世界を結びつけるのよ。あなたは、同じ生命の呼吸を、同じ空気を、すべての人々と分かち合っているの。この目に見えない仲立ちを通じて、すべての人と結びついているのよ。動物、鳥、魚、植物、そして宇宙全体と同じ呼吸を分かち合っているのよ。呼吸を通じて私たちみんながつながっているとは、なんて素晴らしいことでしょう。空気には、どんな壁も境界も、差別や分離もないわ。呼吸に注意を払うことで、あなたの分離の感覚は消えてしまうのよ」
母はこの呼吸の技について私に教えてしまうと話すのをやめ、私たちは10分から20分くらい黙って歩いた。
「足が土に触れるのと、息をするのと、どっちに注意を払えばいいの? 両方いっぺんにはできないよ」と母に尋ねたのを覚えている。
「いえ、できるわ。息をすることも歩くことも考えなければいいのよ。そういうことを考えることが瞑想ではないのよ。起こるにまかせればいいの」、時を経て初めて、私は母の言葉の意味が分かるようになった。瞑想は意識的な行為ではなく、思考や観念、手法や手段から抜け出すことなのだ。あるがままにあり、何が起こっているかに気づき、注意を払う、ということなのだ。
【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール:尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】
好きなお香焚いて、Coccoをヘッドホンで爆音。このまま深海までいけるようなテンション。THA BLUE HERBを聞かないのは唯一の抵抗。これ以上深くにいったらきっとやばめ。
— ぐらたん@2/19札幌女子会 (@miitan0324) 2010年12月4日
本書の冒頭に掲げる《公示》と題した一文は、このボードに関して当時記録された唯一の重要文書に付せられた序文である。この文書は約20ページからなる小冊子で、『ナット・ターナの告白』と大され、翌年初頭リッチモンドで出版されたものであるが、私はその小冊子のいくつかの部分を本書に織りこんだ。物語を書き進めるにあたり、私はナット・ターナーと彼を首謀者とする反乱に関して、【既知の】事実はできるだけ忠実にたどったつもりである。
【『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン:大橋吉之輔〈おおはし・きちのすけ〉訳(河出書房新社、1970年)以下同】
闇は眼に快かった。長年のあいだ、この時刻には祈りをあげるか、聖書を読むのが私の習慣だった。しかし、囚人となってからのこの5日間、私は聖書を持つことを禁じられ、祈りについては――そう、唇から祈りの言葉をむりやりにでも押し出すことが全くできなくなっていることは、私にとってもはや驚きでもなんでもなくなっていた。だが、この日々の勤行をやりたいという強い欲求はまだあった。それは私が大人になってからずっと長いあいだ、肉体の機能のように単純で自然な習慣になっていたのだ。だがいまは、私の理解を越えた幾何学とか他の不可思議な学問の問題のように、やりとげることがまるで不可能なように思えるのだった。今となっては、いつ自分に祈る力がなくなったかを思い出すこともできない――1ヵ月、2ヵ月、あるいはそれ以上前だったかもしれない。何故その力が私から消え失せたか、その理由でも分かっていれば、せめてもの慰めになっていただろう。ところが、それすらわからず、私と神とへだてる深淵にはいかなる形のかけ橋も見当たらなかったのだ(後略)
「南部だけじゃなく北部でも、アメリカじゅうで、みんなが不思議に思った、どうして黒んぼどもがあんなに団結できたんだろう? どうしてあいつらがあんな【計画】を考えだし、それを整然と言ってもいいくらいにおし進めて、実行に移すことができたんだろう、とね。だが、だれにもわからなかった、真相はどうしてもつかめなかった。なにがなにやらさっぱりで、五里霧中の有様だったわけだ」
すべての黒人が12歳か10歳かあるいはそれよりも早くから、自分は白人から見れば人格も道徳観も魂も欠けたただの商品、品物にすぎぬことを自覚するときにもつようになるあの内的な感じ――それは言葉で表わすことはほとんど不可能な実在感だ――を表現したのもハークだった。その感じをハークは【黒ぼけ】と名づけたが、それは私の知っているどの言葉よりも、すべての黒人の心情にひそむ麻痺状態と恐怖とを簡明に表現している。
「お前の評判は、いわば、お前に先行してるんだ。ここ数年間、ひとりの非凡な奴隷についての驚くべき噂がわしの耳にとどいていた。その奴隷は、このクロス・キーズの近在で何人かの主人に、転々と所有されたが、もって生まれた卑賤な境遇をよく克服して――語るも不思議(ミーラーピレ・デイクトゥ)や――すらすらと読み書きができるようになり、その証拠をみせろとあれば、自然科学のむつかしい抽象的な著作も読解してみせるし、また、口から出まかせの口述筆記もみごとな書体で何ページでもやってのけるし、さらに、簡単な代数が分かるくらいに算数もマスターしているし、他方、聖書のほうの理解もずいぶん深いもので、数少ない神学の大家のうち彼の聖書の知識を試験したものたちは、彼の博学のすばらしさに驚いて首をふり退散したそうだ」彼は言葉を切り、げっぷをした。
「要するに、この呪われた国のもっとも惨めな底辺の一人でありながら、自分の悲惨な境遇をよく克服して物ではなく【人間】になった一人の奴隷の存在を想像するということは――そんなことは、どんな奔放な想像の域をも越えた話だ。否(ノー)、否(ノー)! そんな異形(いぎょう)のイメージを受け入れることを拒否する! 説教師さん、【ネコ】という字はどう書くのかいってみてくれ、え? さあ、この悪ふざけの流言の本当のところをわしに証(あか)してみせてくれ!」
しかしいぜんとして不幸な事実は残る。暖かい友情や一種の【愛情】が(※主人であるサミュエル・ターナーとナットの)二人のあいだに通いあってはいたが、私が養豚とか新式肥料の散布のばあいとまったく同じような実験対象にされていたことに変わりはないのだ。
「たしかに、真の人間といえるものはまだどこにもいはしない。【たしかに】そうなんだ! なぜなら、これまでの人間は分別のない愚かものばかりで、それだけがおのれの同属、同胞と卑劣きわまる関係を保って生きているのだ。それ以外にどうしてあんなにぶざまで恥かしい憎むべき残酷さを説明できようか! ふくろねずみやスカンクでさえもっと分別がある! いたちや野ねずみでさえ自分の同類い対しては天性の愛情というものをもっている。人間と同じように低劣ことがやれるのはただ虫けらだけだ――夏になるとポプラの木に群がって、甘い蜜を分泌する小さなあぶらむしどもと貪婪(どんらん)に結ばれようとする蟻のように。そうだ、たぶん真の人間らしい人間はまだどこにもいはしないのだ。ああ、神はどんなにか痛恨の涙を流していらっしゃることか、人間の他の人間に対する所業をごらんになって!」急に言葉がとぎれた。見ると彼は発作を起こしたように首をふり、とつぜんこう叫んだ、「それもすべて金の名において行なわれているのだ! 【金】の!」
「話によるとだな、黒んぼの男は一般にふつうよりも1インチ長い一物(いちもつ)をもっとるそうだが、そうなのかい、ぼうや?」
私は、ふるえる指を太腿に感じながら、じっと押し黙っていた。
飢えと同様、私は鞭も経験したことがなかった。鞭がふりおろされて首筋に火縄のようにまきついたとき、痛みが光のように炸裂して頭蓋の空洞のなかでぱっと花ひらいた。私は思わずあえいだ。痛みは喉の内側につきぬけて尾をひき、私を窒息させてしまいそうな気がしたので、さらにまたあえいだ。そのときになってはじめて、つまり数秒後のことだが、やっと鞭の音が私の心に知覚され――それは空を切る鎌のような妙にもの静かなひゅうという音だった。またそのときはじめて、私は片手をあげて生皮鞭が肉にくいこんだ箇所をさわってみたが、熱くねばねばした血の流れを指先に感じた。
白人に対する鋭くはげしい憎悪は、もちろん、黒人たちが心のなかに容易に抱きうる感情である。しかし実をいえば、すべての黒人の心のなかにそのような憎悪が充満しているわけではない。それが至るところで華々しくはびこるには、あまりにも多くの神秘的な生活や機会の様式(パターン)が必要なのである。そのような真実の憎悪――それは非常に純粋かつ頑固な憎しみで、どんな人間味のあるあたたかい気持も、どんな共感や同情も、その石のような表面には微細な刻み目やひっかき傷すらつけられないほどのものだ――は、すべての黒人に共通しているものではない。それは、残忍な葉をつけた花崗岩の花のように、育つときには育っていくが、それももとはといえば不確かな地面にまかれた弱い種子から出てくるのである。その憎悪が完全に結実するには、悪意にみちた充分な育ち方をするには、多くの条件が必要だが、そのうちでも、黒人がそれまでのある時点において白人とあるていど親しく暮らした経験があるという事実はもっとも重要な条件である。黒人が自分の憎悪の対象をよく知るということ、白人の策略、欺瞞、貪欲さ、腐敗の極致、を知るようになるということは、もっとも必要なのだ。
なぜなら、白人を親しく知らなければ、その気まぐれで不遜な温情に屈服したことがなければ、その寝具や汚れた下着や便所の内部の臭いをかいだことがなければ、自分の黒い腕が白人女の指にさりげなく横柄にさわられたことがなければ、また、白人がふざけたり、くつろいだり、心にもない信心をしたり、下劣な酔っ払いかたをしたり、干し草畑で欲情まるだしに不倫の交接をしたりするところを目撃したことがなければ――そういう打ちとけた内輪の事実を知悉していなければ、黒人の憎悪はあくまでたんなる【見せかけ】にすぎないのだ。そんな憎しみは抽象的な幻想にすぎない。
しかし、これだけはいっておきたい、それをいわなければ黒人の生存の中心にある狂気を理解していただけないからだ――すなわち、黒人というものは、叩きのめし、飢えさせ、自分自身のたれた糞の中にまみれさせておけば、これは生涯あなたのいいなりになるだろう。突拍子もない博愛主義のようなものを仄めかして畏れさせ、希望を持たせるようなことをいってくすぐると、彼はあなたののどをかっ切りたいと思うようになるだろう。
夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。
メーデー前日の4月30日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。
これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。
【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】
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仏陀 ブッダ ことば 仏教 839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
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「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従は服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。
【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】
同調性に関する一連の見事な実験がS・E・アシュ(Ash,1951)によって行われている。6人の被験者集団が、ある長さの線を見せられて、別の3本の中でそれと同じ長さのものはどれか、と尋ねられる。実は被験者は一人を除いて全員が、毎回、あるいは一定割合で「まちがった」線の一つを選ぶように指示されている。何も知らない被験者は、集団の大半の人が答えるのを聞いてから自分の判断を述べるように仕組まれている。アシュによれば、このような社会的圧力の下では、被験者の相当数が自分の目という疑いようのない証拠を受け入れるよりも、集団に流されたという。
アシュの被験者は集団に「同調」したことになる。本書での実験では、被験者は実験者に「服従」する。服従と同調はどちらも、自分の主体性を外部の源に預けることを指す。でも両者は重要な形で異なっている。
1.ヒエラルキー●権威への服従は、行為者が、自分の上にいる人物が行動を指図する権利を持っていると感じるようなヒエラルキー構造の中で起きる。同調は同じ地位の人々の間で行動を左右する。服従はある地位と別の地位を結びつける。
2.模倣●同調は模倣だが、服従はちがう。同調は、影響を受けた人が仲間の行動を採用するので、行動の均質化をもたらす。服従では、影響の源を模倣することなく、遵守が生じる。兵士は自分に与えられた命令を反復するだけではなく、それを実行する。
3.明示性●服従においては、行動の指示は命令や指令の形をとるので明示的である。同調では、ある集団に流される要件は、しばしば暗黙のままである。したがって集団圧力に関するアシュの実験では、集団のメンバーから被験者に対して、自分たちに流されろというはっきりした要求が出されたりはしない。行動は自発的に被験者によって採用される。実際、多くの被験者は、集団のメンバーが明示的に同調しろと要求したら、かえって抵抗する。状況としては、その集団は平等な人々の集まりだとされているため、だれもお互いに命令する権利はないはずだからだ。
4.自発性●だが服従と同調のいちばんはっきりしたちがいは、事後的に生じる――つまり、被験者が自分の行動をどう説明するかにあらわれる。被験者は、自分の行動の説明として同調は否定するが、服従は自ら認める。これをはっきりさせよう。集団圧力に関するアシュの実験では、被験者は自分の行動がどれだけ集団の他のメンバーに影響されたかについて、過小評価する。毎回集団に屈服した場合であっても、集団効果を最小化して、自分の自立性を強調したがる。判断をまちがえたとしても、それは自分自身のまちがいであり、目がよく見えなかったり、判断をあやまったりしただけなのだと固執することも多い。自分が集団に同調した度合いを最小化しようとする。
服従実験では、反応は真逆となる。ここでは被験者は、被害者に電撃を加えるという行動について、一切の個人的な関与を否定し、自分の行動をすべて、権威が課した外的な要件に帰属させている。つまり、同調する被験者は、自分の自立性が集団によって阻害されたことはないと頑固に主張するのに対し、服従する被験者は、自分が被害者に電撃を加えるにあたり自立性はまったくなかったと主張し、自分の行動は完全に自分の埒外だったのだと述べる。
なぜこうなるのだろう? それは同調というのが、暗黙の圧力に対する反応だからだ。仲間に屈する正当な理由を指摘できないために、自分が圧力に屈したことを否定するわけだ。それも実験者に対してだけでなく、自分自身に対しても。服従では、正反対となる。状況は公式に、自発性のないものとして定義づけられる。というのも、服従が期待されている明示的な命令があるからだ。被験者は、自分の行動についての全面的な説明として、この状況の公式な定義をよりどころとする。
したがって服従と同調の心理的な影響はちがっている。
【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】
最初の2回のテストでは、ほかのメンバーは正しい答えを言って、特に何事もなく進む。3回目では、3番目の線が正しいものなので、被験者はそう言おうと待ち構えている。ところが最初の被験者(※サクラ)は「(※長さが同じなのは)1番目の線です」と答える。そして二人目も「1番目の線です」と言う。ほかの参加者(※全員がサクラ)も「1番目の線です」と答える。回答が進むにつれ、真の被験者は何かが変だと考えるようになる。自分の番になったときには、その被験者は、自分の判断を信じるか、それとも意見が一致しているほあのメンバーの答えにあわせるかを今すぐ決めないといけないという困った状態に陥っていることに気づくのである。驚いたことに、だいたい13の試行において、真の被験者は、実験的に作り出されたいつわりの多数派に合わせた回答をしたのである。(ソロモン・アッシュの「同調行動の実験」)
【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】
実験をやってみると、驚くほど多くの人が、サクラの影響を受け、正しくない線分を答えることがわかった。この実験では、なんと35パーセントの誤答率を記録している。単独回答ならば、誤答率は5パーセントの課題である。
実験中の被験者の様子の記述が残されている。その典型的な様子は次のようなものである。
最初のサクラが間違えたとき、被験者は「バカな奴だ」という感じで笑っている。サクラの2人目くらいまでは、笑ったりそっくりかえったりしているが、3人目くらいから、まず、目を凝らしてカードを凝視する。それから、課題の内容を確かめようとするように、他の「被験者」(サクラ)の顔を見たり、実験者に、こと問いたげ(ママ/「物問いたげな」の間違いか?)な視線を送ったりする。4人目、5人目では、あきらかに不安な表情や苛立ちを様子に表す。そして自分の番となると、サクラたちと同じ答えをするようになるのである。
【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】
サクラの人数を減らして実験を行った結果、同調は、サクラが2人では有意に起こり始め、サクラが3人では、サクラがそれ以上の人数の場合とほとんどかわらない比率で同調が起こることがわかった。
したがって、ごく少ない人数で同調が起こることがわかる。
ここまで紹介した研究は、真の被験者が1人で、いつも1人対多数の同調者という条件の研究だが、自分以外に、同じ意見の人がいる場合はどうなのだろうか。
同調しない「非同調者」がいる場合、同調はどのように変化するのだろうか。
最初の実験では7人のサクラに対して、被験者はたった1人だったのだが、これが1人でなく2人だった場合、3人だった場合と、真の被験者の人数を変えて実験を繰り返している。その結果、被験者が2人ならば、同調の発生率は格段に下がることがわかった。つまり、被験者が孤立無援で同調する複数のサクラに出会ったときに、同調が起こるのである。逆にいえば、自分と同意見の正解者が1人でもいると、多数の他者と異なる違憲も表明しやすいということになる。
【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】
権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)
【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】
注記。権威のなかに物理的強制力の現れしか見ない権威「理論」もたしかにある。だが後で見るように、物理的強制力は権威とは何の関係もないし、むしろそれとは正反対ですらある。だから、権威を物理的強制力に還元することは、権威の実在を端的に否定し、無視することである。したがって、われわれはこのまちがった見解を【権威の理論】のなかに含めない。
【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】
共感とは、ごく簡単に言うと、ほかの人や動物の状態に影響される能力のことだ。だから、誰かの振るまいをまねるといった単純な動きも、共感と呼ぶことができる。相手が頭の後ろで手を組むと、つい自分も同じことをやりたくなる。会議では、脚を組んだりほどいたり、上半身を前に傾けたりうしろにそらしたり、髪を直したり、テーブルにひじをついたりといった行動が伝染することが多い。ことにこちらが好感を抱いている相手だと、無意識に動きを合わせようとする。長年連れそった夫婦が似たものどうしになるのも、物腰や身ぶりが同調してくるからだろう。こうした模倣の威力を逆手にとって、人間どうしの感情を操作することもできる。こちらの動作を忠実にまねる人と、いちいちちがう動作をする人――実験でそうするよう指示されているからだが――では、後者への好感度が低くなるのだ。恋に落ちるとき、「ピンときた」と感じるのは、脚を開く、腕を広げるといったボディランゲージで憎からぬ気持ちを発信するのに加えて、意識しないままおたがいの行動を反射的に模倣してきた結果だろう。
【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】
共感を抑え込んだり、心の中でブロックしたり、それに基づいて行動しなかったりすることは可能でも、精神病質者と呼ばれるごく一部の人を除いては、私たちはみな、他者の境遇に感情的な影響を受けずにはいられない。根本的であるにもかかわらず、めったに投げかけられることのない疑問がある。それは、自然淘汰はなぜ、私たちが仲間たちと調和し、仲間が苦しみや悲しみを感じれば自分も苦しみや悲しみを感じ、彼らが喜びを感じれば自分も喜びを感じるように人間の脳をデザインしたのかという疑問だ。他者を利用できさえすればいいのなら、進化は共感などというものには、ぜったいに手を染めなかっただろう。
【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)】
@fuitsuono
小野不一 ある本を読んでモンゴメリー・バス・ボイコット事件の本当の意味を知った。黒人公民権運動→一部の白人が応援→メキシコ系アメリカ人青年同盟結成→アメリカインディアン同盟結成につながる。この流れはアメリカ学生運動~ベトナム反戦運動にまで拡がった。実にダイナミックな史観だと思う。
Oct 03 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
@fuitsuono
小野不一 さっきの続き。ベトナム反戦運動から、ヒッピー・ムーブメント~カウンターカルチャーまでつなげると、相当大きなテーマになる。南米のフォルクローレと日本のフォークを結ぶことも可能だろう。最大の問題はドラッグとニューエイジという思想性である。
Oct 03 via webFavoriteRetweetReply
@BuddhaWords365
Buddha 仏陀 仏教 仏典 真実を真実と知り、真実でないものを真実でないと見る人々は、正しい見方を持っているので、彼らは真実に到達できる。 ダンマパダ #Buddhism
Nov 26 10 via twittbot.netFavoriteRetweetReply