2012-12-20
2012-12-18
ケビン・カーター「ハゲワシと少女」
1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載され、1994年のピュリッツァー賞に輝いた。スーダンの飢餓を捉えた一枚の写真は、「報道か人命か」というセンセーショナルな議論に発展した。受賞から1ヶ月後、ケビン・カーターは自動車内に排気ガスを引き込んで自殺した。
・1枚の写真が招いた騒動
・「ハゲワシと少女」のカメラマン自殺~“人命か報道か”の論議の中で
・「ハゲワシと少女」~報道のエゴ
・ウガンダの飢餓
・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
ローマ法王もツイッターでブロックするレベル
ツイッターでローマ法王に暴言うんぬんの件の酷さはともかく、「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」「仏も一度目でキレるレベル 」に続いて「ローマ法王もツイッターでブロックするレベル」が生まれたかと思うと感慨深い。
— gotrio(ゴトリオ)さん (@gotrio) 12月 15, 2012
2012-12-17
シリア武装集団ホムス郊外でアラウィ派とキリスト教徒民間人16人を殺害
電気会社の職員の集合住宅が攻撃された。殺された16人のうち7人はキリスト教徒、6人はアラウィ派、3人はスンニ派。この集合住宅には日本人を含め外国人も居住していたが殺されたのは全員シリア人。
2012-12-16
【注意報】「北ミサイル発射」 海外紙は「ロケット」と表記
【注意報】「北ミサイル発射」 海外紙は「ロケット」と表記〔第1報〕gohoo.org/alerts/121216/ →韓国紙、英米紙では、北朝鮮が「ロケット」を発射したと報道しています。日本のメディアは、搭載物が弾頭か衛星か区別することなく「ミサイル」という用語を使っています
— 日本報道検証機構さん (@Watchdog_Japan) 12月 16, 2012
選挙の集計システム
選挙の集計システムは(株)ムサシのテラックCRS-VAがほぼ独占状態で使われています。投票用紙は集計結果をコンピュータにデータとして開票結果を出します。この集計データあらかじめ特定の候補に有利なプログラムを入れておけば簡単に不正ができます。bit.ly/XZNodb
— Lulu__19さん (@Lulu__19) 12月 16, 2012
【北朝鮮ミサイル】韓国国防相、解体情報「確認したことない」
127 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2012/12/13(木) 07:21:20.04 ID:Fffli0Da [1/2]
ミサイル、ミサイルとは言うけれど
別に日本やアメリカに撃ち込んでやろうと
開発しているわけじゃないからね
開発したミサイルをイランを始めとした反米諸国に売り込む
その為には『これだけ飛びます』という実演が必要
イランにミサイルを売られるとイスラエルまで届くのでアメリカは必死w
日本に撃ち込まれるぞ!!と嘘をついてまで巻き込もうとしている
日本はとっくの昔に射程圏内で これほどの飛距離は必要ないんだわ
【丁寧語とか、礼儀正しく書いてみる日記2】
2012-12-15
レイ・ブラッドベリ
1冊読了。
70冊目『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ:小笠原豊樹〈おがさわら・とよき〉訳(河出文庫、2011年/集英社、1978年/集英社文庫、1982年)/河出書房新社から復刊。20年振りに再読した。「読む官能」ともいうべき刺激に溢れている。やはり小説は年をとらないと読めないものだ。そこそこ面白かったと記憶していたが、そんなレベルではなかった。ダフネ・デュ・モーリア著『鳥 デュ・モーリア傑作集』、福永武彦著『廃市・飛ぶ男』、山本周五郎著『日日平安』、ちくま日本文学の『中島敦』、それに本書を加えて短篇集ベスト5としたい。467ページのどこにも隙(すき)がない。本が涎(よだれ)だらけになってしまった(ウソ)。
人が一番嘘をつくのは選挙の前だ
人が一番嘘をつくのは戦争の最中と狩りの後と選挙の前だ。(ビスマルク) Es wird niemals so viel gelogen wie vor der Wahl, während des Krieges und nach der Jagd.
— ドイツ語メール例文集さん (@dt_reibunshu) 12月 4, 2012
2012-12-12
リチャード・E・サイトウィック、デイヴィッド・M・イーグルマン、片山一良、アルボムッレ・スマナサーラ
4冊挫折。
『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界』リチャード・E・サイトウィック、デイヴィッド・M・イーグルマン:山下篤子訳(河出書房新社、2010年)/リチャード・E・シトーウィック、改めリチャード・E・サイトウィックの新著。表記については山下があとがきで言いわけをしている。カラー図版が多く気合の入った作りだ。個人的な関心が低下してしまい読了できず。
『月曜閑談』サント・ブーヴ:土居寛之訳(冨山房百科文庫、1978年)/ウェブで小林秀雄が書いた文章に目が止まり、直ぐ取り寄せた。最初っから「覚書と断想」しか読むつもりはなかった。わずか17ページではあるが十分お釣りがくる。小林が翻訳した『我が毒』も読んでみたい。
『ブッダのことば パーリ仏典入門』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2008年)/後回し。中村本の後で読むことに。
『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ、2009年)/これまた中村本の後に回す。仏典テキストは片山訳を採用している。六師外道の内容が詳しく書かれている。元々は「仏教以外の教えを説いている6人の高名な先生」との意味であるという。沙門果経はアジャータサットゥ(阿闍世王)とブッダの対話が基調となっている。観無量寿経と比較することで大衆部の政治的狙いが見抜けるようにも思う。
GDPに占める生活保護費の割合
GDPにしめる生活保護費の割合・アメリカ 3.7%・イギリス 4.1%・ドイツ 2.0%・フランス 2.0%・日本 0.3%(OECD加盟国平均 2.4%)※そもそも日本は予算を生活保護費に殆ど回していない。生活保護費が増えると国家財政が破綻するとか大嘘だよ
— フランシスコさん (@world420) 12月 10, 2012
2012-12-10
アイガー北壁のスピードクライミング
スイスの登山家、ウエリ・シュテック氏が、三大北壁と呼ばれる難関ルート、アイガー北壁(高さ1800mの岩壁)を2時間47分で登った時の映像
スイスのガイド、Dani Arnold(27) が、アイガー北壁をヘックマイヤールート経由で、4/20 に 2時間 28分というタイムで登頂しました。これまでの記録はウエリ・シュテックが 2008年に出した 2時間 47分という記録でした。Dani は 4/20 の 9:05 に北壁の基部をスタートし、山頂には 11:33 に到達しています。北壁の登攀ルートとしてはメジャーなルートであることから、トレースが残っていたりと条件が良かったようです。彼は、パタゴニアの Torre Egger の冬期初登などの記録を持っています。
因みにアウトドアブランドの「ザ・ノースフェイス」はアイガー、グランドジョラス、マッターホルンの北壁(三大北壁)に由来する。ロゴの右側に描かれている三つのドームがそれ。
・『神々の山嶺』夢枕獏
愚かさをありのままに観察し、理解する
63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者となる。愚でありながら、しかもみずから賢者だと思うものこそ、愚者である。
— ゴータマ シッダッタさん (@budha_bot) 12月 9, 2012
クリシュナムルティと完全に一致している。シッダッタはパーリ語読み。サンスクリットだとガウタマ・シッダールタとなる。 RT @budha_bot: 63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者となる。愚でありながら、しかもみずから賢者だと思うものこそ、愚者である。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 9, 2012
Q――粗野な心も敏感になれるのでしょうか。
質問を、言葉の裏の意味を聴いてごらんなさい。粗野な心も敏感になれるのでしょうか。私の心は粗野だと思い、敏感になろうとするなら、敏感になろうとするその努力こそが粗野なのです。どうかここを見てください。感心していないで、見てごらん。ところが、私が粗野であることを、変えたがらずに、敏感になろうとせずに認識したり、粗野とは何かを理解しはじめて、日々の生活でそれを――私の欲張った食べ方や人々と接するときの粗々しさ(ママ)、誇り、傲慢、習慣や思考の粗雑さを観察するなら、そのときはその観察こそが【ありのまま】を変革するでしょう。
同様に、私は愚かなので、智慧を得なくてはならないと言うなら、智慧を得ようとするその努力はもっと大型の愚行にすぎません。なぜなら、重要なのは愚かしさを理解することだからです。どんなに智慧を得ようとしても愚かしさは残るでしょう。学問の表面的な洗練は獲得するかもしれません。本を引用したり、偉大な著者(ママ)の一節を反復したりはできるかもしれません。しかし、基本的に私は愚かなままでしょう。しかし、日常生活に表現される愚かしさ――私がどのように召使に対して振るまうか、隣の人、貧しい人、豊かな人や会社員をどのようにみなしているのかを見て、理解するなら、そのときはその気づきが愚かしさを断ち切ることになるでしょう。
やってごらんなさい。自分が召使に話しているのを見つめ、知事と接するときのとうほうもない尊敬や、何も与えてくれるものを持たない人にはどれほど尊敬を示さないのかを観察するのです。そのとき、君は自分がどんなに愚かであるのか、見出しはじめます。その愚かしさを理解するところに、智慧や敏感さはあるのです。敏感に【なる】ことはないのです。何かになろうとしている人は醜く、鈍感です。それが粗野人なのです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
Q――「進歩」という言葉の意味は何でしょう。
ほとんどの人々のように、あなたも理想を持っていることでしょう。おして、理想は事実や現実ではありません。それはある【べき】ものであり、何か未来のことなのです。そこで、私が言うのはこういうことです。理想は忘れてしまいなさい、そして、自分のありのままに気づいていなさい。あるべきものを追求せずに、【ありのまま】を理解してみなさい。実際のありのままの理解は、あるべきものの追求よりもはるかに重要です。なぜでしょう。なぜなら、ありのままを理解するところから、自然な変革の過程が始まるからです。ところが、自分がこうある【べきだ】と考えるものになっていくとき、そこにはまったく変化がなく、形を変えた同じ古いものの継続だけがあるのです。心が自分は愚かだと知って、その愚かしさを智慧に、すなわちある【べき】ものに変化させようとするなら、それはばかげているし、それでは意味も真実もありません。それはただ自己投影の追及で、ありのままの理解の延期にすぎません。自分の愚かしさを他のものに変化させようとうするかぎり、心は愚かなままなのです。しかし、心が「自分は愚かだと実感しているので、愚かしさとは何かを理解したい。それゆえに、愚かしさに立ち入ろう、それがどのようにして生じてきたのか観察しよう」と言うなら、そのとき、まさにその探究の過程こそが、根本的な変革をもたらします。(中略)
進歩は時間を意味しているでしょう。というのも、牛車からジェット機に至るには何世紀もかかっています。そこで、私たちは同じように真実や神も時間をかければ見つかると考えます。私たちはここにいて、神を向こう側か、はるか彼方にあると考えて、その距離、間隔を埋めるには時間が必要だと言うのです。しかし、神や真実は固定していないし、私たちも固定していません。固定した出発点もなく、固定した到達点もないのです。私たちは真理的な安全という理由のために、一人一人に固定した点があり、真実もまた固定しているという考えにすがります。しかし、これは幻想です。事実ではありません。内的、精神的に進化したり、進歩する時間を求めたとたんに、私たちのしていることはもはや精神的ではないのです。なぜなら、真理は時間のものではないからです。時間に囚われている心は、真実を見つける時間を必要とします。しかし、真実は時間を超えていて、固定した点を持ちません。心は、意識的にも無意識的にも、すべての蓄積から自由でなくてはなりません。そのときにだけ、真理とは何か、神とは何かを見出すことができるのです。
・『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
2012-12-09
我々が弔う人間とそうでない人間、あるいは悼む人間とそうでない人間
凄い言葉だ→「友だちに手伝ってもらおうと思ったけど、もうみんな死んでいなくなってた」/94歳無所属新人、蓄えた葬式代つぎ込み出馬…埼玉12区:社会:スポーツ報知 hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 9, 2012
結局のところ、我々には最後、二種類の人間があるだけです。それは、我々が弔う人間とそうでない人間、あるいは悼む人間とそうでない人間。つまり、我々に生の意味を与えてくれた人間とそうでない人間。 indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2012/…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 9, 2012
2012-12-08
『望郷と海』と『石原吉郎詩文集』の目次
I
確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
オギーダ
沈黙と失語
強制された日常から
終りの未知――強制収容所の日常
望郷と海
弱者の正義――強制収容所内の密告
II
沈黙するための言葉
不思議な場面で立ちどまること
『邂逅』について
棒をのんだ話 Vot tak! (そんなことだと思った)
肉親へあてた手紙――一九五九年一〇月
III
一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから
付・自編年譜
初稿掲載紙誌一覧
解説 問題はつねに、一人の単独者の姿にかかっている――今、石原吉郎を読むということ(岡真理)
詩の定義
I
詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より
位置
事実
馬と暴動
葬式列車
その朝サマルカンドでは
サンチョ・パンサの帰郷
耳鳴りのうた
夜がやって来る
酒がのみたい夜
自転車にのるクラリモンド
さびしいと いま
伝説
夜の招待
詩集〈いちまいの上衣のうた〉より
霧のなかの犬
いちまいの上衣のうた
シベリヤのけもの
待つ
泣いてわたる橋
霞
詩集〈斧の思想〉より
Frau Komm!
像を移す
泣きたいやつ
居直りりんご
便り
ドア
方向
詩集〈水準原点〉より
いちごつぶしのうた
詩が
詩集〈禮節〉より
神話
構造
世界がほろびる日に
詩集〈北條〉より
痛み
世界より巨きなもの
詩集〈足利〉より
足利
詩集〈満月をしも〉より
膝・2
疲労について
死
II
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
望郷と海
失語と沈黙のあいだ
棒をのんだ話
III
一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから
解説 佐々木 幹郎
年譜 小柳 玲子
著書目録 小柳 玲子
・『望郷と海』石原吉郎
・『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」
2012-12-07
2012-12-05
大川隆法大先生のスピリチュアル偉人対談
スピリチュアル漫才の間違いではないのか?
大川隆法大先生のスピリチュアル偉人対談で明治天皇と対談した時に、明治天皇が「どうも、明治です。」と名乗ってたのがめっちゃ面白かった。
— はばたくキツネさん (@foxnumber6) 12月 4, 2012
盛鶴延、片山一良、馬場紀寿
2冊挫折。1冊読了。
『気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延〈セイ・カクエン〉(太田出版社、1996年/コスモスライブラリー、2004年)/本書は既に紹介済み。呼吸法の参考になるかと思い図書館から借りたのだが、内容が素晴らしいので購入することにした。
『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)/文章に臭みがあって読めず。テーマがよいだけにもったいない。多分この人、坊さんだね。レイ・ブラッドベリと併読していたことも不運であった。
69冊目『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(春秋社、2008年)/博士論文を改稿したもので気魄のこもった力作だ。馬場紀寿の今後は十分期待できる。上座部大寺派の学僧ブッダゴーサは5世紀初頭の人物。細かい部分に興味はないのだが、最初の経典制作過程がよく理解できる。ブッダの悟りの基本は四諦であり、縁起は後世になって強調された概念であることを初めて知った。私のスタンスとしては大衆部(だいしゅぶ=大乗)から上座部(=小乗)にさかのぼり、更にブッダを辿ることが正しいと考えている。クリシュナムルティを読めば、それほど難しい作業ではない。
ブッダの悟りは四諦と表現された。仏典制作の過程で縁起が強調されることになるが、これは集諦(じったい)から導かれたものであろう。そして八正道は正見に収まる。天台智ギは止観、日蓮は観心、クリシュナムルティは観察と説いた。「観る」という行為の何と深きことよ。私の目は節穴も同然だ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 2, 2012
2012-12-04
イラン映画『9.11テロのブラックボックス』
2011年、イラン。Mohammedreza Eslamloo監督。原題は"The 9/11 Black Box"。ティエリ・メサンが自分自身の役で出演。
2012-12-03
超硬水 コントレックスとクールマイヨール
藤田紘一郎が近著『50歳からは「炭水化物」をやめなさい。 「病まない」、「ボケない」、「老いない」体をつくる腸健康法』(大和書房、2012年)で、硬度の高いミネラル・ウォーターを勧めているとのこと。私は来年、50歳になるので試してみようと思う。レビューを読む限りではコントレックスからクールマイヨールへ乗り換えている人が多いようだ。
・水の健康法
ミスコン優勝美女と麻薬組織の危険な関係、メキシコ
輝くように美しい顔立ちと抜群のスタイルを誇るミスコンテストの優勝者たち。そんな美女たちが、メキシコではしばしば、財力は豊富だが非情な麻薬組織の手に落ちてしまう。
北西部シナロア(Sinaloa)州のミスコンテストで今年優勝したミス・シナロアのマリア・スサナ・フロレス・ガメス(Maria Susana Flores Gamez)さん(22)の場合、それは死への誘いとなった。
ガメスさんは前週、麻薬組織と警察との銃撃戦に巻き込まれて死亡したのだ。捜査当局によると、麻薬組織メンバーのものとみられる車にボーイフレンドと共に乗っていたガメスさんは、銃を手にして車から出てきた。「人間の盾」にされた可能性が高いという。
ガメスさんのボーイフレンドが所属していたのは、指名手配中のホアキン・グスマン(Joaquin Guzman)容疑者が率いる同州最大の麻薬組織の一派とみられる。
グスマン容疑者は2001年、収監されていた刑務所から洗濯籠に隠れて脱出に成功。その6年後の2007年に、ドゥランゴ(Durango)州のミスコンテストで優勝した当時18歳の少女と結婚している。グスマン容疑者は背後でこの少女の優勝に手を貸したと言われている。
◆ブランド品や宝石につられて…
ミスコンテストの優勝者たちの中には、高級ブランドの衣服や靴、宝石などに目がくらみ、麻薬組織と付き合い始める者が少なくない。「ギャングたちは、いつも美女をはべらせておきたいのさ」と、メキシコの麻薬カルテルを題材とした小説を幾つも執筆しているエルメル・メンドサ(Elmer Mendoza)氏は言う。「そうして、自分好みに仕立て上げるんだ」
メキシコで昨年制作された映画『Miss Bala』は、こうした実話に基き、ミスコンテストをめぐり美女が犯罪の道に転落してゆく人生を描いている。表題の「Bala」は銃弾の意味だ。モデルとなったラウラ・スニガ(Laura Zuniga)容疑者は2008年にミスコンテストに優勝したが、同年12月に麻薬組織メンバーと一緒にいるところを逮捕された後、釈放された。
2011年にはメキシコ市(Mexico City)でコロンビア人モデルの女が、恋人で麻薬組織メンバーのホセ・ホルヘ・バルデラス(Jose Jorge Balderas)容疑者とともに逮捕された。バルデラス容疑者はサッカーの元パラグアイ代表、サルバドル・カバニャス(Salvador Cabanas)選手を射殺しようとした容疑で指名手配されていた。モデルの女性は後に釈放されている。
◆長い因縁の歴史、権力も魅力
シナロア州では、美女と犯罪組織との因縁の歴史は数十年前にもさかのぼる。1958年のミスコンテストで優勝したケニャさんは6年後、イタリアのシチリア(Sicily)島で殺害された。ケニャさんはマフィアのボスだったイタリア系米国人のおいと結婚していた。
1990年、マザトラン(Mazatlan)のカーニバルでのミスコンテストで優勝した18歳の少女は、敵対組織の男との結婚を阻止しようとした麻薬組織幹部に拉致された。この幹部は3年後に逮捕された。
美女と犯罪組織との結び付きについての共著のあるホセ・カルロス・セニセロス(Jose Carlos Ceniceros)氏は、麻薬密売は危険な世界だが、貧しい女性にとっては金持ちになれる機会として魅力的な側面もあるのだろうと指摘する。金だけでなく、犯罪組織が持つ権力も魅力なのだという。
「彼女たちは、ぜいたくな生活に馴れ、危険を顧みなくなっていく。たとえ短い命となろうとも、一瞬でも優雅な人生を生きたがるのだ」と、セニセロス氏は述べている。
【AFP 2012-11-30】
アフガン15歳少女、喉切られ殺される 結婚断られた腹いせか
アフガニスタン北部のクンドゥズ(Kunduz)州で28日、15歳の少女が喉を切られて殺害される事件が起きた。地元警察は29日、男2人を殺人の疑いで逮捕したと発表。容疑者の1人は事件前、少女に結婚を申し込んだものの家族に断られていたという。少女は川に水くみに行き、村に帰る途中で襲われて喉を切り裂かれたとされている。
保守的なイスラム国家のアフガニスタンでは、イスラム原理主義組織タリバン(Taliban)の政権が米軍主導の攻撃で崩壊して10年以上が経過した今も、女性や少女に対する行き過ぎた暴力が大きな問題となっている。英人道支援団体オックスファム(Oxfam)によると、アフガニスタンでは女性の87%が身体的、性的、精神的な暴力を受けたり、強制的に結婚させられた経験があるという。
先月も西部へラート(Herat)州で、20歳の女性が嫁ぎ先の家族から売春を強要され、拒否したところ首を切断され殺害される事件が起き、男女4人が逮捕されている。
【AFP 2012-11-29】
2012-12-02
2012-12-01
プラスチックとマーガリンは、分子一つの差しかない
マーガリンというのは、本来、屠殺用の家畜を太らせるための二級のバターだったというのは、知ってましたか?マーガリンは灰色がかった色をしていて、バターのように見せるためには着色する必要がある。実際、プラスチックとマーガリンは、分子一つの差しかない。
— 東洋医さん (@touyoui) 12月 1, 2012
マイクドンカーズの言葉から一部訂正抜粋。... fb.me/1Sn0H2F8J
— 東洋医さん (@touyoui) 11月 30, 2012
同じくマイクドンカーズから。... fb.me/23eicQR2E
— 東洋医さん (@touyoui) 11月 30, 2012
マイクドンカーズから、続き。... fb.me/2g5uH8b8f
— 東洋医さん (@touyoui) 11月 30, 2012
マイクドンカーズからさらに続き。... fb.me/OC9W3txs
— 東洋医さん (@touyoui) 11月 30, 2012
・牛久東洋医学クリニック
正確には「マイク・ドンカーズ」のようだ。以下のサイトで記事が読める。
・NaturalNews - 自然健康、栄養、その他についての独立したニュースを報道
宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・自由の問題 1
・自由の問題 2
・自由の問題 3
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
・教育の機能 1
・教育の機能 2
・教育の機能 3
・教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
・無垢の自信
・真の学びとは
・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
・時のない状態
・生とは
・習慣のわだち
・生の不思議
・宗教とは何か?
・クリシュナムルティ著作リスト
・必読書リスト その五
宗教は人を救い、人を悩ます。教団は人々に希望を与え、そして人々をコントロールする。
大抵の場合、信仰は知性を眠らせることで維持される。何らかのやり甲斐や張り合いを信者は自己実現と錯覚する。エキストラから端役(はやく)に昇進したようなものだろう。そして懐疑の刀を抜いた者は教団内で居場所を失う。コミュニケーションが拙いためだ。中途半端な視線の高さは背伸びした位置と変わりがない。もどかしい言葉が相手に伝わらないため、懐疑が智慧に至らず疑心暗鬼にとどまることも多い。その孤独に耐えられず再び中途半端な信仰で惰性のレールを歩む。
そもそも宗教とは何か?
Q――神の崇拝が真の宗教ではないでしょうか。
最初に、何が宗教では【ない】のかを見出しましょう。それが正しいアプローチではないですか。何が宗教では【ない】のかを理解できるなら、そのときはたぶん他の何かを知覚しはじめるでしょう。それは汚れた窓を拭き清めるのに似ています。そこからとても明確に見えはじめます。では、宗教ではないものを理解して、心から拭き取りましょう。「考えてみよう」とか言って、ただ言葉をもてあそぶだけではいけません。たぶん君にはできるでしょう。しかし、大人たちのほとんどはすでに囚われています。宗教ではないものに安楽に納まって、動揺したくはないのです。
それで、何が宗教ではないのでしょう。考えたことがありますか。宗教とみなされているもの――神や他のたくさんのものへの信仰については何度も何度も言われてきたでしょう。しかし、何が宗教では【ない】のかを見出すようにとは誰も言ったことがありません。そして、今、君と私は自分自身で見出してゆきましょう。
私や他の誰かの話を聴くときでも、言われることを単に受け入れないで、よく聴いて、問題の真相を識別するのです。何が宗教でないのかをひとたび自分で知覚できるなら、そのときは宗教家や本も君を生涯欺けないし、恐怖感が幻想を生んで、幻を信じたり、幻に従ったりすることもないでしょう。何が宗教ではないのかを見出すには、日常のレベルから始めなくてはなりません。そこから登ってゆけるのです。千里の道も一歩からです。最初の一歩が最も重要な一歩です。それでは、何が宗教ではないのでしょうか。儀式は宗教でしょうか。何度も何度も礼拝(プージャ)を行う――それが宗教でしょうか。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
インドは精神大国であり宗教大国でもある。経済発展を遂げる現代にあっても尚、苦行にいそしむ修行者が存在する。インダス文明(紀元前2600年-紀元前1800年)の頃から瞑想が行われ、その後ヒンドゥー教と仏教がせめぎ合い、豊穣なる大地は混沌とした精神のジャングルを形成した。悠久の大河ガンジス川では沐浴する人々と流された遺体が行き交う。
10代の少年少女が繰り出す質問に対してクリシュナムルティは問い返す。「何が宗教では【ない】のか?」と。背理法的なアプローチといってよい。疑うことは自立に支えられている。幼児は母親を疑うことを知らない。そして大いなる疑問が大いなる答えを導く。ゆえに「最初の一歩が最も重要な一歩」となる。エベレストを目指す一歩と近所を散歩する一歩は、同じ一歩でも中身が違うのだ。覚悟と決意を欠いた一歩は風雨をはねのけることができない。
クリシュナムルティは問う。「儀式は宗教でしょうか?」。儀式は形式である。形式は宗教ではない。民俗宗教においてはコミュニティを維持する目的で宗教性よりも儀式性が重んじられたと考えられているが、言葉と政治が発達すれば儀式は祭りに格下げされる。宗教と儀式がセットであるのは確かだが、儀式そのものは宗教ではない。
真実の教育とは、【何を】考えるのかではなく、【どのように】考えるのかを学ぶことなのです。どのように考えるのかを知って、本当にそうする力があるのなら、そのとき君は自由な人間で、教義や迷信や儀式から自由です。したがって、何が宗教かを見出すことができるのです。
宗教に束縛された精神は宗教を見出せない。何と鋭い指摘であろうか。ここでいう「自由」とは依存の不在をも意味している。
明らかに、儀式は宗教ではありません。なぜなら、儀式を執り行うときには、受け継がれてきたしきたりを単に反復しているだけですから。儀式を執り行うときには、ある種の楽しみは見つかるでしょう。ちょうど、他の人が酒やタバコにそれを見出すように、です。しかし、それが宗教でしょうか。儀式を執り行うとき、君は何も知らないことをしています。お父さん、おじいんさんがそうします。そのため君もそうします。しなければ彼らは叱りつけるでしょう。それでは宗教ではないでしょう。
クリシュナムルティの利剣が伝統と常識をバッサリと斬り捨てる。「儀式に込められた精神性」といえば聞こえはよいが、儀式という形式が精神性を失わせることもまた確かなのだ。儀式は過去に依存している。伝統は宗教ではない。芸能である。
そして、寺院には何があるのでしょう。人間が自分の想像に任せてこしらえた彫像です。その像は象徴なのかもしれません。しかし、それでも単なる像であり、本当のものではありません。象徴や言葉はそれが表現しているものではありません。「ドア」という言葉はドアではないでしょう。言葉はそのものではありません。寺院に行って、礼拝します。何をでしょう。象徴とされる像を、です。しかし、象徴は本当のものではありません。それなら、どうしてそこへ行くのでしょう。これらのことは事実です。私は非難していません。そして、これらが事実である以上、誰が寺院に行くのか、それが不可触民か、バラモンか非バラモンかということでどうして悩むのでしょう。誰が気にするでしょう。大人たちは象徴を宗教にし、そのためにけんかをし、闘って、虐殺しようとしていますね。しかし、そこには神はいないのです。象徴には決して神はありません。それで、象徴や像の崇拝は宗教ではないのです。
神学論争の瑣末さは微塵もない。骨太のテーマを次々と叩きつけることで、宗教の方が音(ね)を上げるのではないか。そんな気にさえなる。言葉は概念であって実体そのものではない。言葉はコミュニケーションのツールであって、双方が頭の中で翻訳しながら意味をまさぐっているのだ。だから時に誤解が生じる。
神という言葉は神そのものではなく、マンダラは宇宙そのものではない。ここはビックリマークを100個くらい付けたいところだ。
そして、信仰は宗教でしょうか。これはもっと複雑です。私たちは近くから始めました。今は、もう少し先に進みましょう。信仰は宗教でしょうか。キリスト教徒はある方法で信じ、ヒンドゥー教徒は他の方法で、イスラム教徒はさらに他の方法で、仏教徒もさらに他の方法で信じていて、みんな自分たちをとても宗教的な人間だとみなしています。みんなおのおのの寺院や神、象徴や信仰を持っています。それが宗教でしょうか。神やラーマ(※古代インドの国民的叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公)やシーター(※前に同じ)やイーシュヴァラ(※自在天・自在主。ヒンドゥー教三大神の一つであるシヴァの異名)やそのようなものを信じているとき、それが宗教でしょうか。なぜそんな信仰を得たのでしょう。お父さんやおじいさんが信じているから、君も信じます。あるいは、シャンカラ(※紀元700-750年頃のインドの宗教哲学者。ヴェーダーンタ学派における不二一元論の開祖。宇宙の根本原理ブラフマンの知識による輪廻からの解脱を説いた)やブッダのような師の言ったとされる言葉を読み、それを信じて、真実だと言います。あなたたちのほとんどはギーター(※『バガヴァッド・ギーター』。古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の一部をなす宗教哲学的詩篇)の言うことを信じているだけで、そのために他のどんな本でもするように、単純明快にそれを検討してみません。何が真実なのかを見出そうとしないのです。
信仰も宗教ではない。信じる行為が宗教であればマルチ商法も宗教たり得る。「わからない」から「信じる」のだ。大乗仏教では信解(しんげ)、智解(ちげ)などと使い分けているが、こんなものはまやかしだ。そんな専門用語は世間じゃ誰も使っていない。「理解」だけで十分だ。
1+1=2であることがわからなければ、信じることが正しいのだろうか? 社会機能としては正しいかもしれないが、それでは「反応を強いられる」ことになる。お手をさせられる犬と変わらない。信仰とは犬になることなのだろうか? 御意。神はエサを下さるのだから。
我々が信仰と考えていることの殆どは伝統と過去に依存するものだ。教義といっても所詮「他人の言葉」にすぎない。虎の威を借る狐と聖書を振りかざす牧師はよく似ている。既に示された通り、言葉が象徴である以上、教義は宗教そのものではあり得ない。真の宗教性はもっと深い位置に存在するのだ。
儀式は宗教ではなく、寺院に行くことは宗教ではなく、信仰は宗教ではないことはわかりました。信仰は人々を分断します。キリスト教徒は信仰を持ち、そのために他の信仰の人たちからも、自分たちの中でも分裂しています。ヒンドゥー教徒は自分たちをバラモンや非バラモン、ああだ、こうだと信じているために、永久(とわ)に憎しみでいっぱいです。それで、信仰は憎しみや分裂や破壊をもたらします。明らかにこれは宗教ではありません。
世界中の宗教指導者はクリシュナムルティの前に頭(こうべ)を垂れるべきだ。そして潔く信者の前で謝罪するのが当然ではないか。彼らがやってきたことは修行と称して仕事を与え、寄付金を要求し、他の宗教を憎悪させ、世界をバラバラにしただけだ。
それでは、宗教とは何なのでしょう。窓を磨き清めたなら、それは儀式を執り行うことを実際にやめ、すべての信仰を捨て、どんな指導者や導師(グル)に従うこともやめたということであり、そのとき心は窓のようにきれいに磨かれ、清らかです。そこから外がとても明確に見えるのです。像や儀式、信仰や象徴、すべての言葉、真言(マントラ)、反復、すべての恐怖心を心から拭き清めるとき、見えるものは本当のもの、時のないもの、永久(とわ)のものでしょう。それは神と呼べるかもしれません。しかし、そのためには非常に大きな洞察と理解と根気が必要です。これは、宗教とは何かを本当に探究し、それを日に日に終わりまで追及する人たちだけのものなのです。このような人たちだけが、真実の宗教とは何かを知るでしょう。残りは単に言葉を口にしているだけであり、彼らの装飾や装身具のすべて、礼拝(プージャ)や鐘を鳴らすこと――すべては何の意義もないただの迷信です。本当のものを見出すのは、いわゆる宗教のすべてに対して心が反逆しているときだけです。
常識が瞳を曇らせる。我々の思考は「こうあるべきだ」「かくあらねばならない」でいっぱいになっている。反逆とは時代や社会の重力に抗して自らの足で立つことだ。反逆とは単独性(ただひとりあること)の異名であり、「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩む」者である。
手放した後でつまらない荷物だったことに気づく。今の自分が大切に思っている事柄が実は不要な荷物であったりする。捨てるべきものを全て捨て去って、身も軽やかに自分自身の旅路を歩むことが宗教性に通じる。そして最後に捨てるのは「自分」だ。
2012-11-28
『気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延〈セイ・カクエン〉(太田出版社、1996年/コスモスライブラリー、2004年)
2012-11-27
文体とスタイル/『書く 言葉・文字・書』石川九楊
表現のなかで、人間がいちばん惹(ひ)かれるのは、その文体、スタイルである。人間を好きになる場合でも、その人のスタイルを好きになるのだ。どう生きているか、といった対他的、対社会的スタイルに共鳴するかしないか、である。
【『書く 言葉・文字・書』石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉(中公新書、2009年)】
挫折本である。読書日記に書くのも忘れていた。多分今年の1月に読んだと記憶する。石川の頑(かたく)なさが、どうも肌に合わない。書字にこだわって主張が勝ちすぎている。相手の話に耳を傾けるゆとりが感じられない。文章は神経質で生硬さを帯び、『一日一書』のような軽やかさに欠ける。主張をすればするほど人間の幅が狭く見えてくる。
それでも尚、この一文は光っている。私の内側でモヤモヤとした疑問が立ちどころに形をなして、そのまま氷解した。我々が物語に感動するのはストーリーや構成よりも、文体や語り口によるところが大きいのだろう。
「歴史とは文体(スタイル)の積畳である」とまで石川は言い切っている。
・人間の表出と表現の積畳が歴史
「生の本質は反応である」という我が持論からすれば、「反応は常に表現的である」と導かれる。これは意図や演出があろうとなかろうと、相手の瞳には「表現」と映ることを意味する。
こう書くと何だか小難しい話に聞こえるかもしれないが、好きなヒーローやヒロインを思い浮かべると腑に落ちる。例えばロバート・B・パーカーが描くスペンサー、例えば私が敬愛してやまないアフマド・シャー・マスードや鹿野武一〈かの・ぶいち〉など。そのスタイルを我々は「生きざま」と呼ぶのだ。
「ざま=様、態」とは「さま」が訛(なま)った言葉で、その意味は次の通りだ。「1.物事や人のありさま。ようす。状態。 2.姿かたち。かっこう。 3.方法。手段。 4.理由。事情。いきさつ。 5.おもむき。趣向。体裁」(「大辞林」による)。
つまり「物」ではなく「事」である。固定ではなく変化。単独ではなく関係性。
思考や性格を支えているのも多分文体である。石川の指摘はそれほど深い。
・香る言葉/『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ
・思想する体/『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク