2017-08-05

ユーミンのフランス語カバー/『ルージュの伝言+ANNIVERSARY』キャロル・セラ


「瞳を閉じて」

 ・ユーミンのフランス語カバー

 1991年に発売された『ルージュの伝言』と、その後に出した『ANNIVERSARY』というアルバムの組み合わせ(全20曲)で2000円を切るとは恐れ入谷の鬼子母神である。

 ヒキガエルみたいなユーミンの声も魅力的だが、このフレンチポップスの軽やかさには全く別物の魅力がある。アレンジも隙(すき)がない。軽さが薄さにつながっていないところがミソ。初めてFM放送で聴いた時は妙な懐かしさを覚えたが、直ぐにユーミンの曲だとは気づかなかった。尚、廃盤となったが竹内まりやのカバーアルバムもある。






GOLDEN☆BEST/キャロル・セラ ルージュの伝言+ANNIVERSARY
キャロル・セラ
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2017-07-27

ディープ・フォレスト~ソロモン諸島の子守唄


Difang(ディファン/郭英男)の衝撃
『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝

 ・ディープ・フォレスト~ソロモン諸島の子守唄




 ある動画のBGMに使用されていたのを聴き、「これは!」と背筋を電流のようなものが走った。少し調べても曲名がわからなかったため動画の主にコメントで直接尋ねた。ディープ・フォレストというフランスのユニットで、ソロモン諸島の子守唄をサンプリングしていることが判った。さすがフランスである。りんけんバンドやKOKIAを高く評価しているだけのことはある。



 ソロモン諸島の人種構成はメラネシア人(人種的にはモンゴロイドと混血したオーストラロイド系の民族)が93%となっている。ネグロイドとは異なるようなので「黒い黄色人種」と考えてよいのかもしれない。

 それにしてもどうだ。完全にブヌン族(台湾原住民)の調べと一致している。この優しい子守唄の旋律こそがアジアの謡(うたい)の原像とすら思える。この手の音楽を私はアジアン・フォルクローレと呼びたい。

2017-07-26

西岡昌紀著『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』~第一章「マルコポーロ」廃刊事件


アウシュウィッツ「ガス室」の真実―本当の悲劇は何だったのか?
西岡 昌紀
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エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む/『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄


『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

 ・エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む

時間論
必読書リスト その三

 生物では、時間の早さはエネルギー消費量で変わってくる。エネルギーを使えばつか(ママ)うほど、時間が早く進むのである。
 この関係は、人間の一生にも当てはまるし、社会生活の時間にも当てはまると本書ではみなす。
 時計の時間なら、一定の速度で進んで行き万物共通。でも、現実の時間は、早くなったり遅かったりする。車やコンピュータを使えば時間は早くなる。車はガソリンを食う。道路をつくるにはエネルギーがいる。だからエネルギーを大量に使い時間を早めているのが現代なのだと本書では考える。
 そう考えると、現代社会がハッキリと見えてくる。時は金なり。ビジネスは時間を操作して金を稼いでいるのである。だからこそドッグイヤーになっていくのである。現代社会を理解するには、時計の時間だけでは不十分なのだ。
 エネルギーを使うことにより時間が変わる、ということは、時間とは自分で操作できるものなのだ。
 こう考えると、すごく自由になった気がしないだろうか。時間に縛られた日本人。時間の奴隷のような気分から解放され、生き方が変わるだろう。
 生物においてはエネルギーを使えば時間が進むのだが、これは、生物がエネルギーを使って時間をつくり出しているのだと私は解釈している。エネルギーとは働くこと。つまり、働いて仕事をすると時間が生み出されてくるのが生物の時間なのである。

【『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄(阪急コミュニケーションズ、2006年/文芸社文庫、2012年/1996年、NHKライブラリー『時間 生物の視点とヒトの生き方』改題)】

 中学生の頃から抱いていた疑問が完全に氷解した。ひとたび抱いた疑問を私が手放すことはない。アインシュタインの相対性理論がわかった気になりながら、時間とエネルギーの相対性に気づかぬところが凡人の悲しいところだ。

 昨日私は「速度は空間を圧縮する」と書いたが、それは「時間が早く進む」ことを意味していたのだ。

 結局文明は光の速度を追い続けるのだろう。光速度において時間は流れない。光は常に新しく、そして永遠だ。



テクノロジーは人間性を加速する/『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー
長距離ハイキング/『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア
あなたが1日に使えるエネルギーの総量とその配分の仕方は法則により制限されている/『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』矢野和男
策と術は時を短縮/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光

2017-07-25

魂の到着を待つスー族/『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン
『喪失』カーリン・アルヴテーゲン

 ・魂の到着を待つスー族

『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄

ミステリ&SF

 彼女はアメリカ先住民のスー族のことを思った。1950年代、彼らは大統領との会見のためにノース・ダコタにある先住民居住地から飛行機に乗せられた。ジェット機は彼らを数千キロ離れているワシントンDCまで運んだ。首都の空港到着ロビーに足を踏み入れた彼らは床に座り込んだ。待機しているリムジンへどんなに勧めても無駄だった。彼らはそのまま1ヵ月その場に座り続けた。飛行機に乗せられて運ばれたからだと同じ速さで移動することができない魂を待っていたのだった。30日後、彼らはやっと大統領に会う用意ができた。
 もしかすると、わたしたちに必要なのはそれではないだろうか? 生活をなんとか全部機能させようと必死に努力をする、ストレスいっぱいのわたしたち。わたしたちは腰を下ろして、ゆっくりするべきではないのだろうか。だが、わたしたちはすでに腰を下ろしているのだ。魂の到着を待つためにではなく、居間でそれぞれが自分のコーナーに座る。なんのために? テレビでお気に入りのドラマを心ゆくまで見るために。ほかの人間たちの欠点や短所を笑い、人間関係の失敗を楽しむのだ。いったいどこまで愚かなのだろう? そして自分自身の行動を反省するのを避けるために、面白くなくなったらすぐにチャンネルを変える。離れたところではほかの人間たちを批評するほうがずっと楽なのだ。

【『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由実子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2006年)】

 夫婦の擦れ違いを描いたサスペンスである。一度挫けているのだが、このテキストを探すために再読したところ一気に読み終えた。やはり読書は知的体調に左右されるのだろう。カーリン・アルヴテーゲンの第3作目でここまではハズレなし。

 私がインディアンや台湾原住民に憧れるのは彼らに自然な進化の度合いを感じるためだ。ヒトは文明を手に入れ、そして逞しい生命力を失った。国家は人間を社員(≒納税者)に変えてしまった。もちろんインディアンを理想視するつもりはない。一部に暴力的な衝突があったことも確かである。それでも彼らが有する「人間の貌(かお)」に私は惹(ひ)かれる。

 平仮名が多すぎて読みにくい文章だ。せめて「からだ」は漢字表記にすべきだ。ボーっとしていると助詞のように読めてしまう。

 時間論として捉えると面白味が一段と増す。スー族は文明の不自然さを嫌ったのだろう。私も若い頃から乗り物のスピードが人生に及ぼす影響について考え続けてきた。走るスピードを超えた時、何かが変わるはずだ。速度は空間を圧縮する。とすれば小規模な双子のパラドックスが起こると考えてよかろう。スー族は人間の分際を弁えていた。

 私の疑問については本川達雄が見事に答えてくれている。次回紹介する予定。

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テクノロジーは人間性を加速する/『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー

2017-07-24

靴下を探す


 何とはなしに「いい靴下が欲しいな」と思い、散々探し回ったので記録しておく。安いのから順番で買ってゆく予定である。一部送料が掛かる商品を含む。









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2017-07-23

“芯の堅い”利他主義と“芯の柔らかい”利他主義/『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン


『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン

 ・“芯の堅い”利他主義と“芯の柔らかい”利他主義

・『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
・『モラルの起源 道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』クリストファー・ボーム
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 この奇妙な選択性を理解し、人間の利他行動にまつわる謎を解くためには、我々は、協力的な行動の二つの基本的な形態を区別しておかねばならない。まず第一に、利他的な行動は、非理性的な形で、一方的に行使されることがある。この場合行為者は、意識の上で等価的見返え(ママ)りを望んでいないばかりでなく、同時に、無意識的な振舞いにおいても、結果としてそういった報いを望むのと同じ効果を示すような行動は、示さないのである。このような形態の行動を私は、“芯の堅い”利他主義 hard-core altruism と呼んでいる。これは、子供期以後の社会的賞・罰によっては、あまり影響を受けない一群の反応である。仮にこのような行動が見られるならば、それはおそらく、血縁選択、すなわち、競争関係にある家族または部族そのものを単位として作用する自然選択に基づいて進化したものと考えられる。“芯の堅い”利他主義は、非常に近縁な血縁者に向けられるものであり、相手との近縁の程度が薄まるに従って、その出現頻度や強度は急激に減少するものと予想される。これに対してもう一つ、“芯の柔らかい”利他主義 soft-core altruism と呼ぶべきものがあり、こちらは本質的には利己的な行為である。この場合、“利他的行為者”は、社会が、彼自身あるいはそのごく近縁な親族に、お返しをしてくれることを期待しているからである。彼の善行は損得計算に基づいており、この計算は、しばしば完全に意識的な形で実行されている。彼は、うんざりする程複雑な、各種の社会的拘束や社会的要請をうまく活用しながら、あの手この手を行使するのである。“芯の柔らかい”利他主義の能力は、主として個体レベルの自然選択に基づいて進化したものと考えられ、同時に、文化進化のきまぐれな変動にも大幅な影響を受けているものと思われる。“芯の柔らかい”利他行動の心理学的媒介項となるのは、嘘、見せかけ、欺瞞などである。欺瞞には自己欺瞞も含まれている。自分の振舞いに嘘いつわりはないと信じ込んでいる行為者は、最も強い説得力を示すだろうからである。

【『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン:岸由二〈きし・ゆうじ〉訳(思索社、1980年思索社新装版、1990年/ちくま学芸文庫、1997年)】

 旧ブログの抜き書きを削除してこちらに移す。再読して痛感したのだが、やはり「第7抄 利他主義」が本書の白眉である。

 2009年に読んであっさりと挫けたのだが、昨年何とか読了した。私にとっては忘れ難い読書道のメルクマール(指標)となった一冊である。エドワード・オズボーン・ウィルソン(1929-)は昆虫学者で社会生物学を提唱したことで知られる。

「情けは人の為ならず巡り巡って己(おの)が為」という。親切な行為には何らかの自己犠牲が伴うものだが時に疲労を覚えることがある。裏切られることも決して少なくない。「巡り巡って己(おの)が為」をエゴイズムと捉える向きもあるようだがそうではない。利他とは自分を取り巻く環境に正義や公正を実現する営みなのだ。困っている者や弱い者、打ちひしがれた者を助けるのは当たり前だ。躊躇(ちゅうちょ)や逡巡が入り込む隙(すき)はない。

「“芯の堅い”利他主義」とは例えば我が子が目の前で溺れた時に発揮される行動であろう。それに対して「“芯の柔らかい”利他主義」とは文化的・社会的・宗教的価値観に基づく判断と考えられる。殉教や自爆テロなど。

 因(ちな)みに仁義の仁とは自分と近しい人に施す情愛で、義は距離に関係なく示される正義のこと。

 このテキストだけではわかりにくいと思うが、冒頭の「奇妙な選択性」とは国際社会で無視された大量虐殺を示している。中東の例を出してインディアン虐殺を出さないところがいかにもアメリカ人らしい。

 利他主義を相対的に捉えるのはウィルソンの「暫定的な理神論」という立場とも関係があるのかもしれない。

“芯の堅い”と“芯の柔らかい”は先天的・後天的に置き換えることも可能だろう。ところが私の育った家庭を振り返るとこれに該当しない。全く困ったものである。父は惜しみなく弱者を助ける性質で少々大袈裟にいってしまえば英雄的気質があった。ただし立派な父親ではなかった。私は長男だが物心ついてから会話らしい会話をした記憶がない。極端に正義感が強いと家庭を省みることが少なくなる。つまり父や私に関しては“芯の堅い”利他主義は存在しない。むしろ逆で血縁関係を軽んじるところがある。

 日本において核家族化が急速に進んだのは私が生まれた1963年(昭和38年)のこと。出生率のピークは10年後の1973年(昭和48年)で209万人(出生率 2.14)となっている。核家族・少子化の影響も考慮する必要があるだろう。

「義を見てせざるは勇無きなり」(『論語』「為政」)という。「弱きを助け強きを挫く」のは当然だ。利他行動を失えばもはや動物である。その意味からも社会機能を正常に維持するためには窃盗や詐欺などの犯罪には厳罰を課すべきだ。特に振り込め詐欺を放置してきた警察・銀行・政府与党の責任は重い。

2017-07-20

整形手術の是非あるいは功罪


『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ

 ・整形手術の是非あるいは功罪

 15年ほど前になるがある掲示板のやり取りで「整形手術は人体コスプレだ」と書いたことがある。コスチューム・プレイ(以下コスプレ)は1990年代から盛り上がりを見せたらしいが私が知ったのは2000年前後のこと。テレビでは『B.C.ビューティー・コロシアム』(2001年)や『整形美人。』(2002年)が放映された。

「目は心の窓」というがこれに倣(なら)えば「顔は遺伝子の玄関」である。「居間」でも宜しい。顔と体型が遺伝情報をもっともわかりやすく表現している。獲物獲得能力に(カネを稼ぐ)オスの優位性があるのは確かだが、健康や身体能力は顔と体型に表れる。

 整形手術の最大の問題は遺伝情報を隠蔽するところにある。「じゃあ女性の化粧はどうなんだ?」という声が当然出てくることだろう。文化的には身だしなみであるが、まあインチキであることに変わりはない。髪型や服装はその人のセンスを示すものとして許す。

 21世紀に入り整形手術は一種のリフォームとして捉えられるようになったと思われるが、様相が変わったのは韓国の整形文化が伝えられるようになった頃からである。


 美人女優まで整形するってえんだから、もはや化粧レベルのお手軽さである。韓国では既に女子小中学生が母親と連れ立って美容整形をしているらしい。

 後ろめたさや疚(やま)しさを感じないのだろうか? 多分感じないのだろう。だったら「どうぞご勝手に」だ(笑)。

 もしも結婚相手が整形していたとすればあなたはどう思うか? そこに自(おの)ずと答えがある。俺は嫌だね(笑)。

 たとえ整形したとしても「醜い自分」「劣った自分」から自由になることができるとは到底思えない。

2017-07-19

エリザ・R・シドモア、他


 13冊挫折、1冊読了。

弱者の戦略 (新潮選書)
稲垣 栄洋
新潮社
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 良書。ヨーロッパの紋章には動物が多いが日本の家紋は植物が多い。天皇陛下を中心とする文化は強さよりも継続性という繁栄を好んだのだろう。弱者はニッチ(隙間)で生き延びる。

ヒマラヤ登攀史 (岩波新書 青版)
深田 久弥
岩波書店
売り上げランキング: 257,227

 これまた良書。ヒマラヤとは古いサンスクリット語のヒマ(雪)+アラヤ(居所)の合成後で「雪の居所」を示す。アラヤでピンと来る人もいるだろうが阿頼耶識の「アラヤ」である。再読する予定。

ドラゴン・オプション (小学館文庫)
中原 清一郎
小学館 (2016-08-05)
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「その昼下がり、マカオのホテル『イージス』の1階にある大ホールでは、大陸・香港・台湾の合作になる映画『義侠の園』の制作発表が行われた」という冒頭の文章で挫けた。「その」は不要だろう。

なっとく!数学通になる本
中宮寺 薫
インデックス・コミュニケーションズ
売り上げランキング: 1,205,190

 図が多くそのどれもが目を引く。「2匹の雉と2日とが、いずれも『2』という同じ数であることに気づくまでには長い年月を要したに違いない」バートランド・ラッセル。

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)
吉田 満
講談社
売り上げランキング: 82,464

 あとわずかというところで放り投げる。「そういえば……」と検索したのが運の尽き。Wikipediaに詳細があるが本書にはフィクションが多く紛れ込んでいる。何か騙されたような気になって嫌になっちまった。


 悪書である。「姿かたちや体質だけでなく、知能や感情、つまり『こころ』を生み出す脳の作り方も書き込まれていると考えることが自然だと、私は思います」(4ページ)。科学者とは思えぬ文章だ。


 視点が低い。

職人衆昔ばなし (文春学藝ライブラリー)
斎藤 隆介
文藝春秋
売り上げランキング: 359,922

 私が持っているのは文藝春秋版続篇もある。読むのが遅すぎた。職人ものの古典である。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義
マイケル・S. ガザニガ
紀伊國屋書店
売り上げランキング: 19,033

 ガザニガが苦手である。

文庫 近衛文麿「黙」して死す (草思社文庫)
鳥居 民
草思社
売り上げランキング: 383,596

 鳥居民〈とりい・たみ〉も苦手である。工藤美代子著『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』を補うためには必要か。

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議
ジュリア・ショウ
講談社
売り上げランキング: 13,907

 著者は偽の記憶を埋め込む実験で有名らしい。文章が冗長で読むに堪えず。

理性の暴力~日本社会の病理学 (魂の脱植民地化 5)
古賀 徹
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売り上げランキング: 685,338

「いじめ、集団自決、ハンセン病の強制収容、水俣、原発。 理性の限界事例に即して徹底思考する理性の自己批判」(帯の惹句)。「叢書 魂の脱植民地化 5」である。安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉にはもう愛想が尽きた。沖縄の反基地活動家を煽るようになった時点でアウト。叢書に安冨がどのように関わっているのかはわからぬが読む気が失せた。そもそも暴力や集団性については進化科学的に解き明かすのが筋で、哲学や社会学は文学の域を脱していないように思われる。私は人権を決して軽視するつもりはないが人権を語ることに意味を感じない。語れば語るほど人権のフィクション性が浮かび上がってしまうためだ。

官賊と幕臣たち―列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート
原田 伊織
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 偶然リアルタイムですんすけ(@tyuusyo)氏のツイートを読んで放り投げた。ブログ記事「Q&A 原田伊織のサムライエッセー批判まとめ」(随時更新)を参照せよ。

シドモア日本紀行: 明治の人力車ツアー (講談社学術文庫)
エリザ・R・シドモア
講談社
売り上げランキング: 52,652

 エリザ・ルアマー・シドモア(1856-1928年)はアメリカで生まれスイスで没した。ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物として知られる。日本を褒められて悪い気がする人はいないと思うが、白人特有の人種差別意識から自由な女性であったようだ。文章もよく、古き日本の姿が目に浮かんでくる。「日本の近代史を学ぶ」に追加。

2017-07-09

【討論】作られた内外マスメディアの嘘を暴く





2017-06-08

人間を帰属によって規定する社会/『カルトの島』目黒条


『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『カルト村で生まれました。』高田かや

 ・人間を帰属によって規定する社会

 こわーい! という声が上がった。
 彼女たちは宗教団体に入る話をしているのだった。
 来年までに「日本」という国はなくなってしまい、全員が宗教団体に入らなければならなくなる。各「団体」が自治権を持つ団体連合社会に、1年かけて移行していくそうだ。
 なぜそんなことになったかというと、子供の数が極端に減ってしまい、人工生殖に頼らなければ日本が滅亡する、という危機が近づいてきたからだ。けれども人工生殖を行おうとすると「生命倫理」が問題となり、意見を異にする人たちの対立が生まれて、結論が出せない。それで、「皆さん、自分の信念に合った団体に入ってください。団体ごとの法律で人工生殖を行います。団体に入ることが国民の義務となりました」ということになった。

【『カルトの島』目黒条〈めぐろ・じょう〉(徳間書店、2008年)】

「宗教団体」を「会社」に置き換えれば日常のありふれた光景が見えてくる。「意見を異にする人たちの対立」は政治そのものだ。それほど突飛な設定ではない。

 国家・宗教・会社といった集団はソフトが異なるだけでハード(機構)は同じだ。集団は必ず競い合い、闘い合い、奪い合う。そこにこそ集団の目的があるのだろう。

 人間を帰属によって規定するのが社会である。「あんたはどこの何者なんだ?」。住所不定・無職です、と答えれば社会から爪弾きにされる。

「私は○○だ」と言う時、殆どの人は職業や勤務先を述べる。それが現代における身分なのだ。エスタブリッシュメントと目される政治家や医師、経営者、テレビ局などが2世だらけなのがその証拠である。資産や権益の譲渡が自由競争を阻害する。

 興味深いのはアイデンティティ喪失という現象だ。諸法無我なのだからアイデンティティなどなくてもよさそうなものだがそうは問屋が卸さない。社会的な位置がはっきりしないと不安を覚えるのはなぜか? たぶん自分という存在の「重み」を感じることができなくなるのだろう。

 でも、どうなんだろうね? いくら努力したところでカネに換算されるような人生しか見えてこない。それを拒絶したいのであれば出家をするような覚悟が必要だろう。

カルトの島

2017-06-06

ヤマギシ会というフィクション/『カルト村で生まれました。』高田かや


『カルトの島』目黒条

 ・ヤマギシ会というフィクション

『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司

 村では大人と子供の生活空間がはっきり分かれています

 そして基本、親子は別々の村に住んでいます

 別の村で暮らしている親のもとへ年に数回だけ泊まりに行くことができる

【『カルト村で生まれました。』高田かや(文藝春秋、2016年)】

 文藝春秋社『CREA WEB』の「コミックエッセイルーム」に投稿したのがデビューのきっかけとなった。

 著者はヤマギシ会(幸福会ヤマギシ会)のコミューン(村)で生まれ育ち、19歳で村を出た。結婚相手に自分の過去を語ったことで客観的な視点を得たように見える。

 毎朝5時半に起床し、ニワトリの飼育やトイレ掃除などの労働。食事は昼と夜のみ。あらゆるものが共有されている。髪型も決められている。親戚や友人からの手紙は検閲される。テレビやマンガは禁止だが『日本昔ばなし』だけは許される。食事抜きや体罰が常態化している。

 和製アーミッシュとするのは間違いだ。ヤマギシ会は新興宗教に倣(なら)っていえば新興共産主義といえよう。

 日常的に繰り返される体罰が淡々と描かれている。呼び出されると必ず平手打ち、人通りのある道路に立たされる、裸で立たされる、暗いところに閉じ込められる、髪の毛を掴んで引きずり回して壁に打ちつける、などなど。


「淡々と描かれている」のは絵のタッチもさることながら、幼児期から常態化した暴力が判断力を奪ったためだろう。家庭内の暴力は感情に任せて振るわれることが多いが、コミュニティ内の暴力はシステマティックな作業として行われる。そして暴力は必ず激化する。

 近藤(衛/フリーライター)によると、「怒り研鑽」における数時間にわたる反復の中で、怒りを覚えた動機を全面的に否定し、むしろ自分のほうが謝罪したいと涙ながらに語る参加者が現れた。さらに会場内には連鎖反応的に恍惚の表情を浮かべ、「もう腹は立ちません」と語り出す者が現れた。そのような反応に対し、進行役は頷く素振りをみせたという。近藤は「まるで集団催眠にかかったような光景だった」と述懐している。

Wikipedia:ヤマギシズム特別講習研鑽会

 巧い仕組みを考えたものだ。自発的なマインドコントロールに駆り立てる効果があるのだろう。

 精神科医の斎藤環〈さいとう・たまき〉が次のような指摘をしている。

 ところで、僕自身はカルトを次のように定義している。それは「カネのかかる信仰」であり、言い換えるなら、奉仕活動と集金システムによって幹部クラス以上に富や利権が集中するような信仰のこと。

 ヤマギシはカルト。なぜなら「参画」時に全財産没収が条件で、脱会時に返還されないから。「特講」はあきらかに洗脳。所有欲の否定は立派な教義でしょう。ニワトリの社会を理想とするから、あれは「ニワトリ憑き」集団だと断じたひとがいておかしかった。憑依も解離だからあながちデタラメではない。

 米本和広『カルトの子』によれば、エホバ、オウム、統一教会、ヤマギシ、みな児童虐待集団。カルトがやたらと学校を作りたがるのは子どもに汚れた外部の社会と接点を持たせたくないため。

 1998年、ヤマギシ学園の計画書が提出され、三重県は異例の実態調査に乗り出した。407人のヤマギシの小・中学生を対象に、アンケート形式の調査を行ったところ、世話係に暴行を受けたとする回答が80%以上、また逃げ出したいと思ったことがあるものが、やはり80%以上を占めていた。

 子供たちが記した暴行の内容。平手打ち、往復ビンタ、足蹴にする、鼻血が出るまで殴る、壁に頭を叩きつける、体を持ち上げて床に投げおろす、棒で叩く、食事を抜かれる、バットで尻を叩く、プロレス技をかける、コンクリート張りの部屋に監禁する、裸のまま屋外に放置される、などなど。

斎藤環氏 ヤマギシ会について語る

 私がヤマギシ村で育ったとしたら、二十歳を超えた時点で必ず復讐を遂げるだろう。金属バットが1本あれば十分だ。二度と暴力を振るうことができない体にしてやるところだ。相手が50人や100人であろうと何の問題もない。大人たちが目を覚ますか、あるいは二度と目を覚ますことがなくなるかのどちらかだ。

「正しい理想」が「誤った手段」を正当化する。組織やコミュニティのつながりが強いほど同調圧力も高まる。

 島田裕巳が懲(こ)りることなくヤマギシ会を称(たた)えている。

ヤマギシ会はまだやっていた

 例えば社会からドロップアウトした人々や生活困窮者を積極的に受け入れているならば一定の社会貢献は認められよう。ただし、それをもってしても児童虐待を正当化することはできない。

 ヤマギシ会というフィクションに老後の生活保障はあっても、真の自由や幸福はあり得ないだろう。

カルト村で生まれました。
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「本当の孤独」と「前向きの不安」/『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史

2017-05-31

信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎

 ・信じることと騙されること

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 山村に滞在していると、かつてはキツネにだまされたという話をよく聞いた。それはあまりにもたくさんあって、ありふれた話といってよいほどであった。キツネだけではない。タヌキにも、ムジナにも、イタチにさえ人間たちはだまされていた。そういう話がたえず発生していたのである。
 ところがよく聞いてみると、それはいずれも1965年(昭和40年)以前の話だった。1965年以降は、あれほどあったキツネにだまされたという話が、日本の社会から発生しなくなってしまうのである。それも全国ほぼ一斉に、である。

【『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節〈うちやま・たかし〉(講談社現代新書、2007年)以下同】

 目の付けどころが素晴らしい。やはり現実を鋭く見据える眼差しに学問の出発点があるのだろう。私は道産子だが、歴史の浅い北海道ですら狐憑(つ)きの話は聞いたことがある。

 結局、東京オリンピック(1964年10月10日~24日)が日本社会を一変させたのだろう。ともすると経済的発展のみが注目されがちだが宗教性や精神性まで変わったという指摘は瞠目に値する。

 ただし内山節が試みるのは科学的検証ではない。

 私が知っているのは、かつて日本の人々はあたり前のようにキツネにだまされながら暮らしていた、あるいはそういう暮らしが自然と人間の関係のなかにあったという山のように多くの物語が存在した、という事実だけである。

 つまり「キツネは人を騙(だま)す動物である」という共通認識のもとで、「騙された」という話を共有できる情報空間がかつて存在したのだ。

 内山はコミュニケーションの変化を指摘する。1960年代にテレビが普及したことで口語体に変化が現れた。言葉は映像を補完するものとして格下げされた。また映像が視聴者から想像力を奪った。そして時差も消えた。

 人から人に伝えられる場合、情報には脚色が施される。事実よりも物語性に重きが置かれる。

 さらに電話の普及は、人間どうしのコミュニケーションから表情のもっていた役割をなくさせ、用件のみを伝えるというコミュニケーション作法をひろげていった。
 同時に1960年代に入ると、自然からの情報を読むという行為も衰退しはじめたのである。

 隔世の感がある。電話で長話・無駄話をするようになったのはバブル景気(1986~1991年)の頃からだろう。

公共の空間に土足のままで入り込む携帯電話/『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

 そしてバブル景気と歩調を合わせるようにファクシミリポケットベル携帯電話が普及する。

 文明の利器(←もはや死語)は人類から「語り」という文化を奪ったのだろう。古来、ヒトは焚き火や炉を囲んで先祖伝来の物語を伝え、コミュニケーションを図った。現在辛うじて残っているのは日本の炬燵(こたつ)くらいのものだが、エアコンやファンヒーターを併用しているため寄り添う気持ちが弱まる。

 では本題に入ろう。

 幕末から明治時代に新しく生まれた宗教は、ある日一人の人間が神がかりをし、神の意志を伝えるかたちで誕生したものが多い。たとえば大本教(おおもときょう)をみれば、出口なお(※1837-1918年)が神がかりしてはじまる。その出口なおは以前から地域社会で一目おかれていた人ではない。貧しく、苦労の多い、学問もない、その意味で社会の底辺で生きていた人である。その【なお】が神がかりし、「訳のわからないこと」を言いはじめる。このとき周りの人々が、「あのばあさんも気がふれた」で終りにしていたら、大本教は生まれなかった。状況をみるかぎり、それでもよかったはずなのである。ところが神がかりをして語りつづける言葉に、「真理」を感じた人たちがいた。その人たちが、【なお】を教祖とした結びつきをもちはじめる。そこに大本教の母体が芽生えた。
 この場合、大本教を開いた人は出口なおであるのか、それとも【なお】の言葉に「真理」を感じた人の方だったのか。
 必要だったのは両者の共鳴だろう。とすると、「真理」を感じた人たちは、なぜ【なお】の言葉に「真理」を感じとったのか。私は「真理」を感じた人たちの気持のなかに、すでに【なお】と共通するものが潜んでいたからだと思う。自分のなかにも同じような気持があった。しかしそれは言葉にはならない気持だった。表現形態をもたない気持。わかりやすくいえば無意識的な意識だった。そこに【なお】の言葉が共鳴したとき、人々のなかから、【なお】は気がふれたのではなく「真理」を語っていると思う人が現われた。教祖は無意識的な意識に、それを表現しうる言葉を与えたのである。
 この関係は、古くからある宗教でも変わりはないと私は考えている。他者のなかにある無意識的な意識との共鳴が生まれなければ、どれほど深い教義の伝達があったとしても、大きな宗教的動きには転じない。

 内山節は哲学者である。視点が宗教学者よりも一段高く、宗教を社会現象として捉えている。

 よく考えてみよう。これは宗教現象に限ったことであろうか? そうではあるまい。政治にせよ経済にせよ、はたまた科学に至るまで共鳴と流行が見られる。無神論者のアインシュタインでさえ宇宙の大きさは静止した定常状態であると思い込んでいた。脳は情報に束縛されるのだ。それが悟りであろうと神懸(がか)りであろうと脳内情報であることに変わりはない。前世の物語も現在の脳から生まれる。

 国民国家の時代における戦争と平和もひとえに国民の共鳴が織り成す状態と考えられよう。企業の繁栄も社員や消費者の共鳴に支えられている。技術革新がそのままヒット商品になるかといえばそうではない。かつてソニーが開発したベータマックスはソフト(実態としてはエロビデオ)が貧弱であったために普及しなかった。

 我々が「正しい」とか「確かにそうだ」と感じる根拠は理性よりも感情に基づいているような気がする。つまり脳の揺れ(共鳴)が心地よいかどうかで判断しているのだろう。歴史が進化するなどというのは共産主義者の戯言(たわごと)だ。

 内山の達観には敬意を表するが文系の限界をも露呈している。ここまで気づいていながらネットワーク科学~複雑系科学に踏み込んでいない物足りなさがある。

『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
『複雑で単純な世界 不確実なできごとを複雑系で予測する』ニール・ジョンソン

 更にここから意識(心脳問題)や認知科学行動経済学を視野に入れなければ読書量が足りないと言わざるを得ない。

 もう一歩思索してみよう。人々は何に対して共鳴するのだろうか? それはスタイル(文体)である。

歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊

 仏典も聖書も大衆が魅了されるのは論理性ではなく文体(スタイル)であろう。ここが重要だ。そして受け入れらたスタイルは様式となりエートス(気風)に至る。「マックス・ヴェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは『エトス(Ethos)』のことであると。エトスというのは簡単に訳すと『行動様式』。つまり、行動のパターンである」(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。

 信じるから騙される。もっと言ってしまおう。信じることは騙されることでもある。言葉という虚構(フィクション)で共同体を維持するためには物語(フィクション)が必要になる(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。神話を信じることは神話に騙されることを意味する。神話を疑う者はコミュニティから弾(はじ)き出される。

 我々だって大差はない。小説、演劇、ドラマ、映画、漫画、歌詞、絵画に至るまで散々フィクションを楽しんでいるではないか。そう。俺たち騙されるのが好きなんだよ(笑)。

2017-05-29

回内運動のコツ/『基礎からのバドミントン』中田稔監修


 どうやって腕をムチのようにしならせることができるのか。そのカギを握るのが「腕のひねり運動」だ。その中でもっとも重要なのが「前腕のひねり運動」。ラケットをもった手首を上下に振るのではなく、手首を曲げて(リストスタンドという)左右に動かすことで前腕をひねるのだ。これを回内(かいない/内側にひねる)、回外(かいがい/外側にひねる)といい、これができるかどうかに初心者と経験者の違いが大きく現れる。

【『基礎からのバドミントン』中田稔〈なかだ・みのる〉監修(ナツメ社、2002年)以下同】

 15年振りにバドミントンを始めたのだが、生まれて初めて運動音痴の気持ちが理解できた。体の反応が鈍く、足が全然動かない。翌日は全身の筋肉痛に苛まれ、歩くこともままならなかった。特に「コートのボクシング」と呼ばれるバドミントンではケツの筋肉痛が顕著だ。1ヶ月後には右ふくらはぎが肉離れを起こした。

 本を読んでスポーツが上手くなることは畳水練と似ているが思い込みや誤りを正すのに役立つ。で、回内運動である。言葉は知っていたが全く理解できなかった。ネットでも散々調べた。スマッシュ時における手首の動作であることは何となくわかった。

バドミントンの回内運動について未だによくわかりません!


 これが一番わかりやすい回内運動の動画である。ところが「過剰な回内運動がスマッシュを妨げる」という指摘もある。


 一番理解しやすいのは以下のページである。

バドミントンで最初にぶつかる壁~回内動作

 本書の挿絵に次の記述がある。

 体温計を振る動作はラケットを振る回内運動に似ている


 この動きがラケット操作の基本となる。わざわざグリップの下部分を延長して練習する必要はない。ラケットを極端に短く持ち(指2本がシャフトに掛かるくらい)、動画の動作を繰り返し、そのまま腕を上に持ち上げればよい。すると腕に対してラケットが直角になってしまうが、この感覚で振り抜けば回内動作が身につく。

 もっと単純に行おう。グリップは通常、握手をするような形で握るが、親指を下げて普通のグーで握る。グリップを耳の後ろへ持ってゆき、肘から先に振り始める。この時ラケットの面は自分の顔の方に向いている。で、インパクトの瞬間に回内動作を行うのだ。グーで握っていれば自然に回内動作となるはずだ。

 つまりバドミントンにおける手首の使い方は野球の珠を投げるような動きとは方向が90度異なる。

 これで回内運動は君のものだ。

【追伸】ラップやアルミホイルの芯、あるいは長めの定規や孫の手で首の後ろを叩いてみよう。それが回内運動である。



力強いショットは回内-回外動作で打つ!!
ペダリングの悟り