2017-09-10

世界史対照年表の衝撃/『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編


 ・世界史対照年表の衝撃

『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳

世界史の教科書
必読書 その四

人名の表し方 世界には様々な人物が登場するが、その人名の由来や成り立ちがわかると、その歴史的背景も見えてくる。

1 ヨーロッパ圏
◆解説 英語・フランス語・ドイツ語など、各言語で表記は異なるが、キリスト教、古代ギリシア・ローマ文化、ゲルマン文化に由来するものが多い。

●キリスト教と名前の由来
 ●パウロ(イエスの弟子、「異邦人の使徒」)
  →ポール(英)、パブロ(スペイン)
 ●ミカエル(天使の名)
  →マイケル、マイク(英)
 ●ヨハネ(イエスの洗礼者)
  →ジョン(英)、ジャン(仏)、イヴァン(露)
 ●ヤコブ(イエスの弟子)
  →ジェームズ(英)

●ギリシア・ローマ文化と名前の由来
 ●ヒッポ(ポセイドンの別称・馬を意味する)
  →フィリッポス(ギリシア)、フィリップ(英)、フェリペ(スペイン)
 ●ガイア(大地の神)
  →ジョージ(英)、ゲオルク(独)、ジョルジュ(仏)
 ●ニケ(勝利の女神)
  →ニコラス(英)、クラウス(独)、ニコライ(露)
 ●マルス(ローマの軍神)
  →マーク(英)、マルコ(伊)、マルクス(独)

●ゲルマン文化と名前の由来
 ●Karl(「男」を表すゲルマン系の言葉)
  →チャールズ(英)、シャルル(仏)、カール(独)カルロス(スペイン)
 ●Hluodowig(「高名な戦士」を表すゲルマン系の言葉)
  →クローヴィス(仏)
  →ルイ(仏)、ルートヴィヒ(独)、ルイス(英)
 ●Heinrich(「家の主」を表すゲルマン系の言葉)
  →ヘンリ(英)、アンリ(仏)、ハンリヒ(独)



「~の子ども」という名
 父祖の名に由来した名前や、それが姓として定着した例は、世界の各地に見られる。




【『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編(浜島書店、1998年)】

 テーブルタグがわからないので先程慌てて写真を撮った次第である。多分中高生向けの副読本と思われるが、はっきり言って子供に読ませるのがもったいないほど(※飽くまでもレトリックね)の出来栄えだ。似たような副読本(いずれも1000円以下)を一通り読んだが本書が一頭地を抜いている。

 若い頃から海外ミステリに親しんできたこともあって西洋人の名前に不思議な共通点があることは気づいてた。例えばマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)とミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)のファーストネームは綴りが同じだ。外国人名に興味が高まったのは堀堅士〈ほり・けんじ〉著『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』を読んでのこと。

 また、仏教とキリスト教の酷似するキーワードが次々と示される。釈迦の母親・摩耶(Maya)=イエスの母・マリヤ(Maria:Mary)、釈迦の父・浄飯王(じょうぼんのう)は、イエスの父・ヨセフ(Ioseph:Joseph)と関係ないが、イエスの宗教上の父であるヨハネ(Ioannes:John)という名は、イタリア語で「ジョヴァンニ」(Giovanni)と発音する。

依法不依人/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 よもや本書で長年にわたる疑問が氷解するとは思わなかった。宗教と神話の彩(いろど)りが強いのは根強い信仰の表れか。また父祖の名を名乗る文化が何となく男系天皇の正統性と重なる。

 西洋人名の意味を知ればユダヤ系ミステリ作家が描くナチスものなどには必ずこうしたアイコン的要素が埋め込まれていることだろう。「名は体を表す」のではなくして、「名は宗教的正義を示す」のだ。

 本書はどこを開いても目から鱗が落ちるのは確実で、一気に読もうとするよりはトイレに置いて少しずつ堪能するのがよかろう。巻頭の「世界史対照年表」で衝撃を受けるのは私一人ではあるまい。


 日本は「世界最古の国」である。天皇制を巡る政治的な議論も「永き伝統を破壊しよう」と目論む勢力があることを見失ってはならない。週刊誌による皇室報道も同様で様々な国の諜報機関が情報提供していると囁かれている。天皇陛下がどの国へゆかれても丁重なもてなしを受けるのは、こうした歴史を世界が知っているからだ。

 尚、ポツダム宣言に署名したのは米・英・中華民国であって中華人民共和国ではない。巷間指摘される通り「中国3000年の歴史」という言葉はデタラメなもので、中華人民共和国の歴史は70年にも満たない(1949年建国)。シナという地理的要件がたまたま一致しているだけで国家としての連続性はなく、王朝がコロコロ変わるのがシナの歴史であった。「中国」という幻想をしっかりと払拭しておく必要があろう。

マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ

 また日本の領土の変遷も図示されており大東亜戦争で東南アジアにまで版図が拡大する。


 ただし日本が戦ったのは白人帝国主義であって侵略・簒奪(さんだつ)を目的としわけではない。もちろん侵略的要素はあったが、宣戦布告をするしないはまだまだ曖昧で確固たる国際基準が成立していたわけではなかった。

 参考までに私が目を通した世界史副読本を挙げておく。

ニューステージ世界史詳覧
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山川世界史総合図録
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2017-09-01

出息入息に関する気づきの経/『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『BREATH 呼吸の科学』ジェームズ・ネスター
『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著
『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 ・出息入息に関する気づきの経

悟りとは

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)

 瞑想修行者は、森に行き、木陰に行き、あるいは空き家に行って足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにして、気づきを前面に向けて確立する。常に気をつけて、瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く。

――十六の考察

最初の四考察(身体に関する組)
1.息を長く吸っているときには、「息を長く吸う」と知り、息を長く吐いているときには、「息を長く吐く」と知る。
2.息を短く吸っているときには、「息を短く吸う」と知り、息を短く吐いているときには、「息を短く吐く」と知る。
3.「全身を感じながら息を吸おう。全身を感じながら息を吐こう」と訓練する。
4.「全身を静めながら息を吸おう。全身を静めながら息を吐こう」と訓練する。

第二の四考察(感受に関する組)
5.「喜悦を感じながら息を吸おう。喜悦を感じながら息を吐こう」と訓練する。
6.「楽を感じながら息を吸おう。楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。
7.「心のプロセスを感じながら息を吸おう。心のプロセスを感じながら息を吐こう」と訓練する。
8.「心のプロセスを静めながら息を吸おう。心のプロセスを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第三の四考察(心に関する組)
9.「心を感じながら息を吸おう。心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
10.「心を喜ばせながら息を吸おう。心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
11.「心を安定させながら息を吸おう。心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。
12.「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

第四の四考察(智慧に関する組)
13.「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
14.「色あせていくことに意識を集中させながら息を吸おう。色あせていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
15.「消滅に意識を集中させながら息を吸おう。消滅に意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
16.「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

【『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ:井上ウィマラ訳(春秋社、2001年)】

 単純な行為である。単純であるがゆえに難しい。何もしないことが瞑想だと思われがちだが実はそうではない。フル回転しているコマが止まっているように見えるのと一緒である。卑近な例を挙げれば美しい風景に心を奪われる時、スポーツでトレーニングの威力を発揮する時、ふと耳にした音楽に感動する時、我々は瞑想に近い位置にいる。

 上記テキストには明らかな間違いがある。「集中」は瞑想ではない。「注意」が瞑想なのだ。また「訓練」という言葉も相応しくない。「調(ととの)える」「修める」とすべきだろう。繰り返し行う訓練は心を鈍感にし瞑想を儀式化する。仏教が形骸化した原因もここにある。こうした言葉の誤りが伝承によるものか、あるいは翻訳によるものかはわからない。自分の感性で見抜けばいいだろう。教条主義から離れて軽やかに生きることがブッダの心にかなうと思う。

 本書は実践を踏まえた上で「出息入息に関する気づきの経」を解説した一書で、ヴィパッサナー瞑想関連本の中で一番しっくり来た。ただしヴィパッサナーが「型」になれば瞑想の果実を得ることは難しい。また瞑想と筋トレは異なる。やればやるほど力がつくわけでもない。

 瞑想とは「今」を気づく行為である。恐怖に駆られた時、怒った時、焦った時、驚いた時、失敗した時、事故を起こした時、転んだ時に呼吸を意識できるかどうかである。浅い呼吸を自覚できればそこで深呼吸が可能となる。

 特段大袈裟に考える必要はないだろう。ただ「呼吸を見つめる」という意識を普段から持てばよい。その瞬間、余計な不安が消える。具体的なやり方については「アーナーパーナサティの完全技法と自然法」が詳しい。



六道輪廻/『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ

2017-08-24

疲れないタイピングのコツ/『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖


『ことばが劈かれるとき』竹内敏晴
『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二

 ・疲れないタイピングのコツ
 ・体のセンサーが狂っていると疲れが取れない

『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

身体革命
悟りとは

 今度は、のせた指先とキーボードの間に薄皮1枚入っているようなイメージを持ってください。
 実際には手とキーボードは接触しているのですが、その間を隔(へだ)てる薄くて柔らかいシートのようなものが入っているイメージをすると、指先が柔らかくなって、肩や首の力がフッと抜けるのが感じられるはずです。
 そして、その「薄皮1枚入れる」感覚を持ったまま実際にタイピングしてください。
 肩や首がリラックスした状態が保たれるので疲れなくなり、むしろタイピングすればするほど、ほぐれると感じる方もいるかもしれません。

 では、なぜこんなちょっとしたイメージだけで力が抜けるのでしょうか?
 実は「薄皮1枚入れる」感覚で指先の皮膚感覚が活性化していることと関係があります。
 特にモノに触れるとき、皮膚はそのモノの情報を受けとるために重要な役割を果たしています。
 しかし、我々は一般的にモノに触れるときに皮膚感覚を意識しないので、外からの情報を受けとりにくくなっています。
 キーボードからの情報を受けとることなく、それを押すのにどの程度の力が必要化わからないので、必要以上に力を込めてしまうのです。

【『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖〈ふじもと・やすし〉(さくら舎、2012年/講談社+α文庫、2016年)】

 藤本靖はロルフィング®というボディワークの施術者である。意識を操作するよりも身体を操作する方が手っ取り早い。要は気や意識を内側へ向けることだ。これを内観という。

「薄皮1枚」感覚は携帯電話のボタン操作にも使えるという。薄皮を意識することで皮膚感覚が広くなる。点から面ほどの違いがある。私は歩く時や階段の昇り降りでも心掛けている。

 やってみると直ぐ気づくが「薄皮1枚」とは皮膚そのものを意識することである。大袈裟に言えば日常生活に接触の豊かさを取り戻す行為につながる。

 心も体もほんの少しの歪みによってバランスが狂う。本書は身体操作だけではなく五官の使い方にまで言及されており、五蘊(ごうん)を調(ととの)えるのに役立つ。疲労回復といった低い次元にとどまる内容ではない。

呼吸をコントロールする/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法システマ・ブリージング』北川貴英


『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成

 ・恐怖心をコントロールする
 ・呼吸法(ブリージング)
 ・呼吸をコントロールする

武の思想と知恵 平直行✕北川貴英
『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『BREATH 呼吸の科学』ジェームズ・ネスター

悟りとは

 恐怖心は筋肉を緊張させます。これこそが恐怖心が肉体にもたらす最大の足かせです。皆さんも突然の大きな音に驚いてビクッ! とすくみ上がった経験があるかと思います。人間は何かに驚くと、反射的に筋肉が緊張し、呼吸が浅くなります。

【『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)以下同】

「交感神経の興奮が抑えられ、副交感神経の働きが優位になっている状態」(Wikipedia)をリラクゼーションという。自律神経系の一部を構成する副交感神経系を古来、日本では「肚」(はら)とか「肝」(きも)と呼んだのだろう。泰然自若として動かない落ち着きに人物の大きさが表れる。

 リラクゼーションの本意にかなうのは瞑想・ヨガ・呼吸法であると私は考える。ま、かじった程度しかやってないのにでかい顔をするのはいつもの悪い癖だが付き合ってくれ給え。

「短気は損気」というが瞑想やヨガをやってみるとよくわかる。体が硬い私にとって結跏趺坐(けっかふざ)は苦痛以外の何ものでもないし、ヨガのまったり感を堪(た)えるのは難しい。そこで目をつけたのが歩く瞑想である。

「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン
歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 だがこれも長続きしなかった。歩くスピードがどんどん速くなるのだ。もちろん筋力をつけるためで、現在を犠牲にして未来を目指す行為は瞑想の否定である。

 ところがシステマブリージングはやってみると中々よい。動きと呼吸のマッチングに面白味があるのだ。

 もう少し強い負荷が欲しい人には「スクエアブリージング」をおすすめします。息を吸う時と吐く時の間に息を止めるプロセスをはさむのです。

1.吐きながら1歩歩きます。
2.止めながら1歩歩きます。
3.吸いながら1歩歩きます。
4.止めながら1歩歩きます。
5.これを1~3分続けたら、同じことを2歩のペースでやります。つまり2歩吐き、2歩止め、2歩吸い、2歩止めるサイクルを繰り返すのです。
6.1~3分ほど続けたら、3歩、4歩~10歩と徐々に歩数のサイクルを増やし、10歩まで行ったら9歩、8歩と徐々に歩数を戻します。
7.1歩まで戻ったらおしまいです。


 歩数が増えるほど息を止めるのが苦痛になってきます。吸い過ぎでも吐き過ぎでもない、一番楽に息を止めていられる空気の量を見出しましょう。するとこれまでよりも厳密に自分の呼吸と姿勢をチェックすることができるはずです。息を止めることで緊張が生まれたら、その部位を軽く動かしたりして緊張を分散させるようにしましょう。息を止めるという負荷の中で快適さを保ち、かつ冷静に回復するのがこのエクササイズのポイントです。

 早速実践したところ「お、いい感じだな」という手応えがあった。悟れそうな気になった(笑)。これを応用してストレッチや筋トレを行う際に「呼吸を見つめる」ことを意識するようになった。体をコントロールするのは意識であるが、呼吸をコントロールするには意識と無意識の間を行ったり来たりする必要がある。

「生きる」とは「息する」の謂(いい)である。すなわち息を止めることは死に通じる。呼気と吸気の間で死を自覚すれば、瞬間瞬間に世界は新しく生まれ変わることだろう。多分それが事実なのだ。自我が永続するという錯覚が世界を永続させている。自我が消滅すれば世界は常に新しい。

2017-08-23

テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ

 ・テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ

クリシュナムルティ、瞑想を語る

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

仏教学者ワルポラ・ラーフラ、イルムガルト・シュレーゲル、及びデヴィッド・ボーム教授その他との第一の対話
          1978年6月22日、ブロックウッド・パークにて

ワルポラ・ラーフラ(以下WR):わたしは若いころからずっと、あなたの教え(と言ってよければ、ですが)を追い続けてきました。ほとんどの著書は多大な深い関心を持って読ませていただきましたし、長いあいだ、このような対話ができたらと願っていました。
 ブッダの教えをそれなりによく知っている者にしてみれば、あなたの教えはとても親近感があって、新奇なものではありません。ブッダが2500年前に教えたことを、あなたは今日、新しい言葉遣い、新しいスタイル、新しい姿で教えている。あなたの本を読んでいるとき、わたしはよく、あなたの言葉とブッダの言葉を比較して余白に書き込みをします。ときには1章あるいは偈をまるごと引用したりもします。それもブッダ自身の教えだけでなく、のちの時代の仏教哲学者の思想も含めて、です。それらについてもまた、あなたは同じやり方で取り上げておられるからです。あなたがそのような教えや思想を、どんなに見事に美しく表現しているかを思うと、驚くしかありません。

【『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ:正田大観〈しょうだ・だいかん〉・吉田利子訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2016年)以下同】

『ブッダが説いたこと』が2月17日で本書が3月1日の刊行となっており、微妙なタイミングのせいかラーフラ(Walpola Rahula)の日本語表記が異なる。対談は5回に渡っており、後半は1970~80年代の講話を収録している。

 ワルポラ・ラーフラは延々とクリシュナムルティを称え、ブッダとの共通点を示す。クリシュナムルティはわずか一言で応じる。

クリシュナムルティ(以下K):失礼でなければ、お尋ねしてもいいでしょうか。あなたはなぜ、対比するのですか?

 まさにけんもほろろ。そりゃないよなー、という対応である。最後までこんな調子で話が噛み合わない。実は以前、対談の動画を見ており私は次のように呟いた。


 ま、英語がわからないのでご容赦願おう。

 クリシュナムルティはブッダの権威を否定し、テーラワーダ仏教の伝統と知識を否定し、修行の時間性をも否定する。阿羅漢(アルハット)についてはこう述べる。

K:それ(※自我のかけらもない状態)は可能なのでしょうか? わたしは可能だとか可能でないとか言っているのではありませんよ。わたしたちは探究しているのです。信じる信じないではなく、探索や発見を通じて、わたしたちは前に進んでいるのです。

「信じる信じないではなく」の一言が鍵となる。クリシュナムルティは仏教を信じ、仏教の知識を通して自分が見られることを嫌ったのだろう。そこには「真の出会い」がない。特定のイメージが独り歩きしてしまう。

 正直に申し上げると期待外れであった。そこで「自分の勝手な期待」に気づくのだ。クリシュナムルティの真意は「私を権威に祭り上げてはならない」ということに尽きるのだろう。