2020-02-16

踵着地が膝を壊す/『最速で身につく 最新ミッドフットランメソッド』高岡尚司、金城みどり


『56歳でフルマラソン、62歳で100キロマラソン』江上剛
『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁

 ・踵着地が膝を壊す

『ランニング・サイエンス』ジョン・ブルーワー
『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー

 走り方の種類といえば、一般的に前足部を接地させる「フォアフット走法」、中足部を接地させる「ミッドフット走法」、踵(かかと)部分を接地させる「ヒールストライク走法」の3つに分けられます。
 今、注目されているのが、TVドラマでも話題となったミッドフット走法です。【ミッドフット走法は、中足部から足裏全体で地面をとらえて走るため、体への負担が軽くエネルギーロスの少ない走りが可能になるといわれています】。ところが、間違ったミッドフット走法で、ケガをしてしまう人が多いのも事実です。
 その原因は、【接地だけにフォーカスしすぎるあまり、足首に力が入り胴体の使い方が伴わず、重心移動がスムーズにできていないこと】にあります。
 とくに足の外側で接地後、拇指球(ぼしきゅう)に乗るタイミングが早すぎるため、姿勢がブレて筋肉を無駄使いする走り方になっているのです。
【正しいミッドフット走法は、中足部全体で接地した後、重心を踵から拇指球へと移動させていきます。】

【『最速で身につく 最新ミッドフットランメソッド』高岡尚司〈たかおか・しょうじ〉、金城みどり〈かねしろ・みどり〉(主婦の友社、2018年)】


 私は走る以前にウォーキングからしてミッドフットであったので、よもやランニングで踵着地をするつもりはなかった。アスリートの故障で一番多いのは腰痛と膝痛だろう。その原因は踵着地にある。

 室内で歩く時に踵を着けることはない。フォアフットが普通だ。踵が着く人は運動神経に問題がある。元々人類は裸足だったわけだから、踵着地をするようになったのは靴を履くようになってからのことだろう。ソール(靴底)の薄い地下足袋などであればやはり踵は着かない。

 少し前に足の不自由なお年寄りと立ち話をしたことがあった。聞けば学生時代は駅伝選手だったという。1年生からレギューラーを務めたとのこと。「駅伝なんか、やらなきゃよかった」と吐き捨てるように語った。「若い頃に走っていたから、この程度で済んでるじゃないんですか」と言ったが、私の励ましは宙に漂い風に飛ばされてしまった。

 もっとわかりやすく説明しよう。縄跳びをする時に踵から着地することはない。断じてない。ランニングの着地時には体重の3~4倍もの力が掛かる(宮地力)。それを10km、20kmと続けていけば膝がダメージを受けるのは当然だろう。

 クリストファー・マクドゥーガル著『BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』がベストセラーとなりベアフット(裸足)ランニングが注目された。ララムリことタラフマラ族は走るために生まれてきたような人々だ。老若男女がワラーチという手作りのサンダルで山野を駆け巡る。

 我が家の周りも坂道が多いのだが坂道を走っていると自然にミッドフットとなる。ちょっと考えればわかることだが階段を降りる時に踵から着くことはない。衝撃を吸収するべくフォアフット(前方着地)になる。

 脳は妄想(概念)にまみれているが体は自然である。自然であるがゆえに思い通りにならないのだ。だからこそ、せめて賢い使い方を身に着けたい。



2020-02-15

初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように、「成仏伝承」に説かれる「ブッダの悟り」の内容は、「律」の仏伝的記述において説かれる「ブッダの教え」の内容と、よく対応する。すなわち「四聖諦(ししょうたい)」「縁起」「五蘊六処」、および六処と構造を共有する「十二処十八界」は、諸部派の出家教団でともに中心的教理に位置づけられているのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

 六処以降は私もよく知らず。特に知る必要もないと考える。ブッダが説いた教理は四諦・縁起・五蘊と覚えておけばよろしい。

 テキストの成立という点では、こうして重要な点が不明なままである。しかし、思想の成立という点では、かなりの程度はっきりとしたことが言える。諸部派、少なくとも上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部の結集仏典で共通して伝承される「布施」「」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、初期仏教の時代、すなわち遅くとも紀元前後までに成立していたといえる。
 というのは、紀元後1-2世紀のガンダーラ写本にも、2世紀に訳出された漢訳仏典にも、1-2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の作品にも、これらの教えは広く説かれているからである。(中略)
 以上の事実をふまえると、諸部派がブッダの教えとして共有した「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、紀元前に、かつ大乗仏教の興起以前に存在していたことがわかる。これらが初期仏教で広く伝承されていた思想であることは確実である。初期仏教の思想における「主旋律」があったとすれば、これらを措いて他にない。

 ガンダーラ写本については以下の記述がある。

 1990年代中頃に始まるガンダーラ写本の発見は、近代仏教学の歴史のなかでも衝撃的なものだった。なぜなら、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本の作られた年代が古くともせいぜい紀元後7-8世紀なのに対し、ガンダーラ写本は紀元前後から紀元後3-4世紀のものと考えられ、それまでの年代をはるかに遡るものだったからである。

 ウーム。もしも古い写本が見つかるたびに教理が変わるとしたら、仏教は既に宗教ではなく歴史なのだろう。「教え」が与えた余韻は長く響き渡り、人々の心を震わせたはずだと私は考える。

 もう一つは北伝仏教をどう捉えるかという問題がある。ブッダの教えからどんどん乖離して変形していった背景にはまず気候の違いがある。文化を支配するのもまた気候である。仏教東漸の歴史を思えば日本仏教までの道程は進歩史観さながらである。

 問われるべきは「悟ったかどうか」であり「悟りの中味」である。そう考えると禅宗を除いた鎌倉仏教は悟りから離れていったように見えてならない。

 今後あるべき日本仏教の姿としては鎌倉仏教から密教要素を取り除くか、あるいはルネサンス運動として部派仏教に回帰するのが望ましいと思う。もちろん「密教の正当化」という方向性もあるが、これだとヒンドゥーイズムに取り込まれてしまうだろう。

 鎌倉仏教が日本思想の精華であるのは確かだが、当時の情報量の少なさを思えば現代の仏教徒はもっともっと知的格闘を行う必要があろう。

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2020-02-14

小部は苦行者文学で結集仏典に非ず/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように五部派で一致して、結集仏典の「法」に位置づけられる四阿含(四部)が成立した後に、「小蔵」(または「小部」「小阿含」)という集成が「法」に追加されたということは、「小蔵」に収録されている仏典がもともと結集仏典に位置づけられていなかったことを示している。実際、この集成に収録されているのは、基本的に韻文仏典であり、経蔵の「四阿含」の諸経典が用いる定型表現を用いていない。まったく異なる様式のものなのである。
 以下に説明するように、韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。
 このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な誤りがあるのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

犀の角のようにただ独り歩め
ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 馬場紀寿が「初期仏教」としたのは「原始仏教」に対する批判が込められている。更に小部(しょうぶ/パーリ五部のうち半分以上の量がある)は苦行者文学で結集(けつじゅう)仏典に非ずとの指摘は『ブッダのことば スッタニパータ』が「ブッダの言葉ではない」と断言したもので、少なからず中村元〈なかむら・はじめ〉に学んだ者であれば大地が揺らぐような衝撃を覚えるだろう。

 『犀角』も、『経集』と同様に「小部」に収録されている『義釈』において『到彼岸』とともに注釈されており、『経集』のなかでも成立の古い偈である。おそらく紀元後1世紀頃に書写されたと考えられるガンダーラ写本が見つかっているから、その成立は紀元前に遡ると考えてよい。
 しかし、これらの仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や『マハーバーラタ』などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば『犀角』は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教外の苦行者文学を取り入れて成立したものである。

 古いから正しいわけではない。これは「小乗非仏説」といってよい。小部には「スッタニパータ」以外にも「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」を含む。

「いやあ参ったなー」と思うのは私だけではないだろう。困惑のあまり不可知論に陥りそうだ。

 ま、言われてみれば「犀の角のようにただ一人歩め」というのは単なる姿勢であって教理ではない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』公孫丑篇)と同工異曲だ。クリシュナムルティの仏教批判は正当なものであった(『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ)。

毀誉褒貶に動かされるな/『原始仏典』中村元


『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
『ブッダ入門』中村元
『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集

 ・毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるな

『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

「比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗しようとも、あるいは法を誹謗しようとも、あるいは僧団を誹謗しようとも、それに対してあなたたちは怒ったり、不機嫌になったり、心を不快にしてはいけあい。比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなたたちがそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなたたちの障害となるであろう。(中略)
 比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛しようとも、あるいは法を賞賛しようとも、あるいは僧団を賞賛しようとも、それに対してあなたたちは喜んだり、うれしく思ったり、心に得意に思ったりしてはならない。比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛し、あるいは法を賞賛し、あるいは僧団を賞賛して、あなたたちがそれに対して歓び、うれしく思い、得意に思うなら、それはあなたたちの障害となるであろう。

【『原始仏典』中村元〈なかむら・はじめ〉(ちくま学芸文庫、2011年)】

 感情の相対性理論である。ブッダが示すのは中道の生き方だ。瞑想とは怒りや喜びを見る行為である。見るためには離れる必要が生じる。毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるなとの指針は心理的テクニックを教えるものではなく、自身の反応を静かに見つめる内省的な次元でそのメカニズムを解体するとことに目的がある。

 ブッダはかつて存在した。しかしブッダの教えは変遷に変遷を重ねて仏教各種を生んだ。そこにブッダの面影を偲ぶことは可能だろうか? 私が想うブッダはインドを闊歩したブッダと同じであろうか? ひょっとすると脚色を施されたブッダという名のキャラクターを勝手に妄想しているのかもしれない。

 中村元が編んだ仏典シリーズは『ジャータカ全集』(全10巻、春秋社)~『原始仏典』(全7巻、春秋社)~『原始仏典Ⅱ』(全6巻、春秋社)と続く。