2020-03-15

アーサー・エディントンと一般相対性理論/『ゼロからわかるブラックホール 時空を歪める暗黒天体が吸い込み、輝き、噴出するメカニズム』大須賀健


『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明

 ・アーサー・エディントンと一般相対性理論

『宇宙はなぜこんなにうまくできているのか』村山斉
『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 蛇足ですが、エディントンは会期中、「一般相対論は大変難解で、理解しているのは世界に3人しかいないというのは本当か?」という質問を受けたそうです。対して何も答えないエディントンに質問者は「謙遜しなくてもよいのでは?」と再度返答を促します。するとエディントンは「私とアインシュタインのほかは誰だろうかと思ってね」と答えたと伝えられています。一般相対論の難解さと、自信に満ちたエディントンの心境がよくわかるエピソードです。

【『ゼロからわかるブラックホール 時空を歪める暗黒天体が吸い込み、輝き、噴出するメカニズム』大須賀健〈おおすが・けん〉(ブルーバックス、2011年)】

 スティーヴン・ホーキング著『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで
で紹介されているエピソードが一般的だがもっと正確な記述があったので紹介しよう。

 正真正銘の教科書本だ。自分の思い込みがいくつも訂正された。例えば赤方偏移など。読書量が多いことは何の自慢にもならないが(単なる病気のため)、知識が正確になるのは確かである。

 そのアーサー・エディントンがブラックホールの存在を理論的に導いた教え子のスブラマニアン・チャンドラセカールを徹底的に批判する。功成り名を遂げた科学者ほど新しい理論を受け容れることが難しいようだ。

「シナ」と「中国」の区別/『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一

 ・「シナ」と「中国」の区別

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

〔付記〕

 対談の中で、「シナ」と「中国」は区別して用いた。中国は中華人民共和国や中華民国の略称としてのみ正当と言うべきであり、地理的、文化的概念としては用いることはできない。地理的概念、あるいは古代以来の文化的概念を指す場合は、「シナ」(英語のチャイナ)を用いることが正当であると、私は考える。中国という言葉の背景には、外国を夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)と見なし、自らを高いものとする外国蔑視がある。
 また、コリアという擁護は、現在の北朝鮮、大韓民国の双方を含んで呼ぶ場合や、朝鮮半島を地理的概念として呼ぶ場合に用いている。
渡部昇一


【『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹〈こむろ・なおき〉、渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉(徳間書店、1995年)】

 かつて石原慎太郎が「三国人」(2000年)とか「シナ」(2012年)とか言って問題にされたことがある。この発言をヘイトスピーチの嚆矢(こうし)とする人もいる。私自身、報道を真に受けて問題だと考えていた。本書を読むまでは。冒頭の付記で日本を取り巻く言論情況が一瞬にして理解できた。ちょっと考えてみれば誰でも気づくことだが「東シナ海」や「支那そば」に差別意識は全くない。「支那(しな)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。日本では、江戸時代中期から第二次世界大戦末期まで広く用いられていた」(Wikipedia)。

 中華思想によれば朝廷に帰順しない民族は東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)と呼ばれ、禽獣(きんじゅう)と同じ扱いを受ける(四夷)。つまり我々が中国と呼ぶことは日本人を東夷と貶(おとし)めていることに通じる。

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 現在左翼が糾弾するヘイトスピーチは在特会(在日特権を許さない市民の会)が始めたものだ。彼らはコリアンタウンで「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」などと書いたプラカードを掲げ、「殺せ、殺せ!」と街宣活動を行った。



「不逞鮮人を死ぬまで追い込め」「朝鮮人をガス室に送り込め」「朝鮮人なんて人間じゃないぞ」…今日の新大久保・嫌韓デモで飛び交った醜悪なシュプレヒコールをあえて記す。許さないためにも。

「ばーかばーか」「あっかんべー」とはデモのコーラーが用いていた表現です。この他、「ウジ虫」「ゴキブリ」「殺せ殺せ」「死ね」「不逞朝鮮 人を死ぬまで追い込むぞ」「ガス室に朝鮮人を叩き込め」「ぶさいく」「クサレマンコ」等の聞く(読む)に堪えない表現が多数用いられています。

日刊ベリタ : 記事 : 新大久保でまたもや在特会デモ  2月9日、「良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」のプラカード掲げ

 百田尚樹は桜井誠の選挙演説を「カッコいいね」と称えた。竹田恒泰は「(在特会の主張は)部分的には正しいことも言っている」とテレビで語った。彼らの性根が垣間見えた瞬間である。

 新しい歴史教科書をつくる会が結成される2年前に週刊文春編『徹底追及 「言葉狩り」と差別』(文藝春秋、1994年)が出た。『週刊金曜日』の創刊が1993年である。失われた20年はリベラルな雰囲気に包まれた時代であった。折しも1986年に施行された男女雇用機会均等法によって看護婦・スチュワーデス・保母さんが禁句となった。そういえば径書房〈こみちしょぼう〉編『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房、1990年)を読んだのもこの頃だ。ダッコちゃん人形が製造停止(1988年)となり、カルピスのマークも使用停止(1990年)に追い込まれた(黒人差別をなくす会)。

 平等を極限まで推し進めて古い伝統や文化を破壊するのが左翼の手口である。「言葉狩り」に異を唱えた書籍は他にもあったが、まだまだ左派系作家の影響が大きかった。現在でも『「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き』(朝日新聞デジタル、2018年3月24日)といった記事からも明らかなように一部の声を居丈高に拡大して言葉狩りを行っている。

 戦時中の「シナ人」という言葉に差別感情があったのは確かだろう。だが、「中国」という言葉が中華民国(現在の台湾)と中華人民共和国の違いすら見えなくし、第二次世界大戦後に建国された中華人民共和国があたかも戦勝国の一員であったかのような錯覚を抱かせる現状を思えば、我々はもっと歴史に忠実であるべきだ。青少年に反日教育を施す中国や韓国に遠慮するのは実に馬鹿げた行為だ。

2020-03-14

インターネットを通じたイスラム教の宗教改革/『イスラム教の論理』飯山陽


『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

 ・インターネットを通じたイスラム教の宗教改革

・『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』飯山陽

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 イスラム教の価値観を前面におしだすこうした現象が増加している背景のひとつに、インターネットを通じたイスラム教の「正しい」教義の普及があります。本来イスラム教の教義は民主主義も世俗主義も国民国家体制も認めませんし、イスラム教と他宗教の間の平等も認めませんから、インドネシアの現状はイスラム教に反しています。しかしこれまでは、インドネシア国民として生まれたイスラム教徒の多くが、自分たちの置かれている状況がイスラム教の教義に反しているなどとは考えもしませんでした。
 なぜなら、彼らにとってのイスラム教とは親や周囲の人が語り実践するものであり、自らコーランハディースと対峙して解き明かすようなものではなかったからです。イスラム教徒ではあっても戒律にそれほど頓着しない人ばかりが身近にいれば、自分もそれが当然だと思うのは無理もありません。それに、彼らの身近にいて、モスクで説教をしたりイスラム教について語ったりする穏健派法学者たちは軒並み体制派ですから、「実は西洋由来の民主主義は反イスラムである」とか、「イスラム教は他宗教との平等を認めない」などとは口が裂けてもいいません。彼らは現体制を守り社会を安定っせるのに好都合なコーラン章句だけを引用して、「民主主義とイスラム教は両立する」などと人々に伝えてきたため、人々はイスラム教をそういうものだと認識してきたのです。
 ところがインターネットの普及により、体制派の穏健派法学者がもっぱらイスラム教解釈を独占する時代は終焉を迎えました。というのもインターネット上ではコーランやハディースのテキストがいくらでも閲覧可能であり、それらを自国語に訳すのも簡単であるため、誰でも手軽に教義を知ることができるようになったからです。これにより、穏健派法学者たちが説き自分たちが「正しい」と信じてきたイスラム教のあり方が実は正しくないのではないか、と疑念を抱く人々が現れました。彼らはSNSやウェブ上のフォーラムなどを通して、イスラム教の教義について学び議論するようになりました。そしてインターネット上でイスラム教に関する情報や議論が増加するのに伴い、それまで穏健派法学者が説いてきたのととは異なる「正しい」教義が広まり始めたのです。

【『イスラム教の論理』飯山陽〈いいやま・あかり〉(新潮新書、2018年)】

 ツイッターでは喧嘩上等の飯山だが単に威勢がいいだけではなかった。「イスラム教の論理に基づけばイスラム国を否定することはできない」との指摘に始まり、アッラーに額(ぬか)づく精神世界が教義という合理性に貫かれていることが書かれている。筆致に独特の勢いがあり機関銃を連射するような小気味のよさが巻末まで続く。

 アブラハムの宗教を筆頭とする一神教とギリシャや日本のような多神教との違いは神の絶対性と相対性にある。イスラムは服従を意味する言葉だ。山や森のそこここに神が存在する多神教は和を重んじるが、その分だけ価値観が曖昧になる。一神教には「あれもこれも」といった鷹揚(おうよう)さはない。その厳しさは苛烈な砂漠が育んだものだ。温暖で水の豊富な環境にいれば、そりゃあ甘くもなる。

 イスラム教はたぶん宗教改革(『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通)を経験していないだろう。そうするとインターネットを通じたイスラム教の宗教改革が近代化に向かう可能性は十分ある。ただし近代化に向かわなかったとしてもイスラム社会は持続可能性をはらんでいる。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト

 私たちは近代の世界に住んでいる。近代において人間を動かすものは何かと考えると、みんな、お金とか名誉とか、あと暴力~強制とか、そういうものだと信じている。っていうかそういうものでしか人間は動かないと思っている。だからテロが起こると「これは強制されたんだ」とか、「お金がない(貧しい)から」とか、そういう風にしか考えられない。自分の立脚している価値観だけに基づいてイスラム教徒が起こしているテロを見るからそうなっちゃう。私が言っているのは「あなたが思っている当たり前と彼らの当たり前は違うんですよ」ということ。彼らの当たり前に立脚するとあなたの言っていることは的外れだ、ということを私は言っている。

【飯山陽×池内恵「イスラム法の真実」】


 女性アナウンサーの知的レベルが低く、池内の口ごもった喋り方が聞き取りにくいので視聴は勧めないが、飯山の言葉は近代の陥穽(かんせい)を見事に突いている。

 人権だとか教育だとかを過大に信じる我々は自由に至上の価値を見出す。ところが絶対性という視点からすると、イスラム教の不自由さに我々の自由はかなわない。そして一番大事なことは人間が自由と同じように不自由を好むことだ。一番わかりやすいのはスポーツのルールである。一定の不自由を課すことで体力・知力・技術を競い合うのだ。その意味から申せばイスラム教はスポーツのルールたり得るが、資本主義経済の自由は肥大した好き勝手でしかない。

 飯山は世界のイスラム人口を18億人としている。


 イスラム教では4人までの妻帯が認められており、その他にも性奴隷が存在する。クリスチャンの出生率がわからないがムスリムの方が高いに違いない。あと数十年もすれば世界最大の宗教となりそうだ。

 その絶対性を思えば日本にムスリムの帰化を認めるのは危険だろう。彼らに「みんな仲良く」という志向はない。天皇陛下に敬意を表することも難しいのではあるまいか。

人口過密社会と森林破壊が感染症拡大の原因/『感染症の世界史』石弘之


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝

 ・人口過密社会と森林破壊が感染症拡大の原因
 ・微生物の耐性遺伝子は垂直にも水平にも伝わる

『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄
『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新
『感染症と文明 共生への道』山本太郎
『ワクチン神話捏造の歴史 医療と政治の権威が創った幻想の崩壊』ロマン・ビストリアニク、スザンヌ・ハンフリーズ
『病が語る日本史』酒井シヅ
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー
『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

「医学の発達によって感染症はいずれ制圧されるはず」と多くの人は信じてきた。世界保健機構(WHO)が1980年に、人類をもっとも苦しめてきた天然痘(てんねんとう)の根絶を宣言したとき、そしてその翌年にポリオ(小児マヒ)の日本国内の発生がゼロになったとき、この期待は最高潮に達した。
 ところが、皮肉なことに天然痘に入れ替わるように、エイズが想像を超える速度で地球のすみずみまで広がった。インフルエンザウイルスも、ワクチン開発の裏をかくように次々に「新型」を繰り出している。なおかつ、エボラ出血熱、デング熱、西ナイル熱といった予防法も治療法もない新旧の病原体が流行し、抑え込んだはずの結核までが息を吹き返した。
 微生物が人や動物などの宿主(しゅくしゅ)に寄生し、そこで増殖することを「感染」といい、その結果、宿主に起こる病気を「感染症」「疫病」「流行病」の語も使われるが、現在では農業・家畜関連を除いては、公的な文書や機関名では感染症にほぼ統一された。
 私たちは、過去に繰り返されてきた感染症の大流行から生き残った、「幸運な先祖」の子孫である。そのうえ、上下水道の整備、医学の発達、医療施設や制度の普及、栄養の向上など、さまざまな対抗手段によって感染症と戦ってきた。それでも感染症は収まらない。私たちが忘れていたのは、感染症の原因となる微生物も、40億年前からずっと途切れることなく続いてきた「幸運な先祖」の子孫ということだ。人間が免疫力を高め、防疫体制を強化すれば、微生物もそれに対抗する手段を身につけてきた。
 人間が次々と打つ手は、微生物から見れば生存が脅かされる重大な危機である。人が病気と必死に戦うように、彼らもまた薬剤に対する耐性を獲得し、強い毒性を持つ系統に入れ替わって戦っているのだ。まさに「軍拡競争」である。
「あらゆる生物は、自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めるために利己的にふるまう」という動物行動学者のリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」説でみれば、人も微生物も自らの遺伝子を残すために、生存と繁殖につとめていることはまったく同じである。
 人類は遺伝子という過去の遺伝情報が詰まった「進化の化石」を解明したお陰で、この軍拡競争の実態や歴史に迫れるようになった。本書ではその最先端の研究成果を紹介する。
 感染症が人類の脅威となってきのは、農業や牧畜の発明によって定住化し過密な集落が発達し、人同士あるいは人と家畜が密接に暮らすようになってからだ。インフルエンザ、SARS(サーズ)、結核などの流行も、この過密社会を抜きには考えられない。
 急増する肉食需要に応(こた)えるために、鶏や豚や牛などの食肉の大量生産がはじまり、家畜の病気が人間に飛び移るチャンスが格段に増えた。ペットブームで飼い主も動物の病原体にさらされる。農地や居住地の造成のために熱帯林の開発が急ピッチで進み、人と野生動物の境界があいまいになった。このため、本来は人とは接触がなかった感染力の強い新興感染症が次々に出現している。
 大量・高速移動を可能にした交通機関の発達で、病原体は時をおかずに遠距離を運ばれる。世界で年間10億人以上が国外にでかけ、日本にも1000万人を超える観光客が訪れる。エイズ、子宮頸(けい)がん、性器ヘルペスといった性感染症が増加の一途をたどっているのは、性行動の変化と無縁ではないだろう。つまり、ここでも「天災」は「人災」の様相を強めているのだ。(まえがき)

【『感染症の世界史』石弘之〈いし・ひろゆき〉(角川ソフィア文庫、2018年/洋泉社、2014年『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』を加筆修正)】

 遺伝子は垂直に伝わるがウイルスは水平に移動する。主に水・虫(蚊やノミ)・動物(ネズミやコウモリ)・人・注射針などを介して広がる。人類は定住革命~農業革命~都市革命と歴史を重ねてきた。食物・生産性・蓄えといった経済的観点よりも情報の集約性という視点に立った方が把握しやすい。

 人口過密社会が感染症の拡大に拍車をかけることは理解できよう。もう一つ見逃せないのはストレスが増すことだ。生物にはサイズに応じた適切な距離がある。昆虫や動物の群れには縄張りがあり、軍拡競争は一定の範囲にとどまっている。文明の大きな変化は脳内の変化と即時性があると私は考える。外部情報と内部処理の双方向性が文明として結晶するのだろう。

 また森林が破壊されることで生息場所を奪われた動物が人間の住む地域に現れる。新しいウイルスの殆どはこうした形で人に乗り移る。つまり豊かな森はウイルスや寄生虫をとどめるダムの役割をしているのだ。そのダムが決壊すれば水は怒涛の勢いで下流に放たれる。環境問題や自然破壊はウイルスとの共生という視点から捉え直す必要がある。

 定住革命や都市革命は何かを犠牲にしても情報集約を優先した結果と見てよい。折しも新型コロナウイルスのパンデミックが社会を恐怖に陥れ、世界の株価が暴落している。我々は感染症をくぐり抜けた先祖の末裔である。しかしながらウイルスは人類以前からの長大な歴史を生き永らえてきたのだ。地球上の生物の大半は微生物が占めている。人体すらその例外ではない。

 新しい感染症への対策として次の文明を築けるかどうかが今問われているのだろう。

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