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2017-12-12

田原総一朗の正体は反戦主義者/『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗


『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 2』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 3』小林よしのり
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり

 ・田原総一朗の正体は反戦主義者

『「知的野蛮人」になるための本棚』佐藤優

 最近、私は、信頼する親しい大学教授や評論家たちから、「自分は真ん中よりやや左だったが、このところ右よりになってきた」という話をよく聞く。どう見ても左派の菅直人までが、朝鮮半島の有事の際には自衛隊の米軍後方支援を支持すると、自民党すらいわないことを口にするくらいだ。世の中は、どんどん右へ、右へと動いている。
 これは、やはり50年続いた戦後日本の世の中が、ひたすら「個」中心へと向かった結果、人びとが「国」や「公」の危うさに気づきはじめたということなのだろう。
 しかし、この前の戦争の末期を体験した私にとって、生きるということは、いってみれば、あのような戦争を二度と再び起こさないことだった。最近は、それが私の役割だとすら思えるようになってきた。そこで小林よしのりとは、さまざまな論点で激突し、徹底的に闘うはめになってしまったのだ。

【『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗(ぶんか社、1999年)】

 田原総一朗の後書きを読んだ瞬間に私は悟った。「この男は単なる反戦主義者なのだ」と。疑問の雲が吹き払われた。田原の周囲に左翼およびシンパが多いのはその反戦主義が共鳴しているためだ。

 彼は必ず「ジャーナリストの田原総一朗です」と名乗る。やはり言論をプロレス化しただけのテレビ屋という自覚があるのだろう。テレビマン時代には衆人環視のもとで性行為をやってのけた人物である。映画監督にも作家にもなることができなかった劣等感を「過激さ」で撥(は)ね退けようとしたのだろう。

 田原に近い人物の一人に佐藤優がいる。佐藤は田原のラジオ番組で再三にわたって小林よしのりを批判してきた。また小林を攻撃する記事も幾度となく書いている。小林はこれに応じた。ほんの2~3年前までの出来事だ。ところが小林は女系天皇論を表明した後、先の総選挙では辻元清美や山尾志桜里を担ぎ上げるまでに大きく旋回した。その後の佐藤との論争を私はフォローしていないのだが、たぶん佐藤は小林批判を控えているのではないか。

 今から7~8年前に行われたシンポジウムで佐藤優が田原総一朗を痛罵する場面があった。会場から湧いた拍手を聞いて「ああ、田原が持てはやされる時代は終わったな」と感じた。


文字起こし:【佐藤優】田原総一朗は官僚支配を促進している

 ジャーナリストの田原総一朗氏は、「権力党員」である。「権力党」とは、民主党とか自民党という、既成政党と関係ない。「権力党員」とは、常に時の権力の内側にいて、事実上、国家の意思形成に加わっている人を指す。「権力党員」は時の政権の手先であるという単純な図式は成り立たない。むしろ時の政権とは、少し距離を置きつつも権力の内側にいて、建設的批判を行った方が「権力党員」としての影響力が拡大することがある。田原氏は、「権力党」の文法に通暁している。それだから、政府の顧問や諮問委員に就かないのだ。

佐藤優の眼光紙背:「権力党員」田原総一朗氏と国民の真実を知る権利 2010年10月25日

 このシンポジウムに田原は遅れて登場したのだが、実はその前に元読売新聞大阪社会部の大谷昭宏も佐藤からの攻撃を受けていた。テレビで活躍する二人をこき下ろすことで佐藤は自分の株価を上げてみせた。結果的にというよりは意図的に行った可能性が高いと私は見る。

 少国民世代である田原が戦争を忌み嫌うのは理解できる。ただし個人の経験というミクロな視点で安全保障や外交を捉えるのは誤っている。日本が70年以上にわたって平和を享受し得たのは憲法9条によるものではなくアメリカの核抑止力に守られてきたからだ。近代国際法の道を開いたウェストファリア条約(1648年)も勢力均衡という思想に基づく。

 もしも日本が大東亜戦争で立ち上がっていなければ、白色人種による帝国主義(植民地主義)は数世紀も長く続いたはずだ。アジア、中東、アフリカ諸国が第二次世界大戦後に独立したのは日本が白人の土手っ腹に風穴を開けたからだ。これが歴史の事実である。

戦争論争戦―小林よしのりVS.田原総一朗
小林 よしのり 田原 総一朗
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2017-05-17

王仏冥合について/『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎

 ・王仏冥合について

『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

石原●わたくし、先生にお目にかかかって、ひじょうに興味があるといっては失礼ですが、「ここに一人の人間がいる」という感じが強くするのです。「大丈夫」という言葉があります。りっぱな人間、確固とした人間のことをいうわけですが……。
 先生にお目にかかると、先生は女でいらっしゃるけれど、「大丈夫」がいるという気がします。それはやっぱり、さっきおっしゃいました、目に見えるものと見えないものとの和、つりあいというものを、きちっと、もっていらっしゃるみごとさだと思うんです。

【『対話 人間の原点』小谷喜美〈こたに・きみ〉、石原慎太郎(サンケイ新聞社出版局、1969年)以下同】


 小谷喜美(1901-1971年)は見るからに温和で福々しい表情をしている。霊友会の創設者は久保角太郎(1892-1944年)であるが、事実上の教祖は小谷であるといってよい。

 本書を読む限りでは小谷から宗教的英知を感じられない。そこが逆に凄いと思う。久保角太郎からはいじめさながらの仕打ちを受け、貧苦の中で他者を救う壮絶な修行を通して小谷は霊感を会得した。石原の指摘通り、人間としての存在感が際立っていたのだろう。前回、新興宗教の教祖は神懸り的色彩が濃く、統合失調症タイプであると書いた。民族宗教はシャーマニズムとセットであるが、論理を無視し超越しているため浸透の度合いが深い。右脳の発する声が人々に受け入れられれば教祖となり、奇異と思われれば病人となる。

小谷●ところで、「王仏冥合」を、どういうふうに考えていますか。
石原●「王仏冥合」ですか、あれは別に創価学会だけの言葉じゃない。つまり仏の言葉です。政治と宗教というものの理想が重なるということは、これにこしたことはないと思いますけれど、ただ、やっぱり、自分のところの教義以外は、みんなだめなんだという教条的な排他的なものの考え方が、その王仏冥合の中の“仏”であるのは困りますね。このごろ創価学会は、そうじゃないということをいっておりますが、確かに、ひとりの政治家が、朝、仏壇にお燈明をあげ、線香をおあげするような、つまり、仏心をもっている人間としての理念を政治に反映するということで、王仏冥合は人間的にありうることだと思います。ただ、これはひじょうにむずかしい、一人の人間の内ではできても、それを社会的に現出させるということは。

 小谷の質問は創価学会の動向を気にするというよりは、霊友会の政治進出を考慮したものだろう。『巷の神々』の取材で小谷と知遇を得た石原はその後霊友会の支持を取り付け、1968年(昭和43年)に自民党から参議院選挙に打って出る。知名度が高かったとはいえ全国区で301万票という空前絶後の得票数で当選を勝ち取った。石原がどのタイミングで霊友会の信者になったのか私は知らないが、単なる選挙目当ての取引であったようには見えない。

石原●ですから、王仏冥合というのは、なにも日本の仏教で考えだされた言葉でもなければ、日蓮聖人の言葉だけじゃなしに、やっぱり、すべての人間の胸の中に、神・仏を念じるような、まじめな、ひたむきな姿勢というのが、政治というものに重なりあったら、どんなにすばらしいものができるだろうかという願い、期待としては、洋の東西を問わず、古今を問わず、あるわけです。とくに、現在のような時代の政治は、実は、古今東西にわたってある王仏冥合に対する人間の基本的な願いというものを、かなえていく政治を行なうということを目ざさなくちゃならないと思いますが、どうも、日本の政治家は、先生がおっしゃるように、その場しのぎの、あした、あさって、あるいは1年、2年先のことしか考えていない。

 政治と宗教は祭政一致政教一致政教分離という歴史を辿ってきた。日蓮(1222-1282年)はとても中世の人物とは思えないほど傑出した国際感覚の持ち主で強い国家意識を持っていた。まだ日本が統一されていない時代であるにもかかわらず。その一生は政治闘争と弾圧の繰り返しであったといっても過言ではない。日蓮の王仏冥合は亡国を回避するために政治理念の必要性を説いたものであろう。日蓮が明言した蒙古襲来の予言が当たったことで鎌倉幕府は彼を無視できなくなる。

 大東亜戦争の敗戦は国家神道の敗北でもあった。そして雨後の筍(たけのこ)のように新興宗教が出現した。失意の中で「神も仏もあるものか」と落胆した人々が飛びついた。だが宗教性は復興することなく政治に取り込まれてしまった感がある。しかも若者は学生運動に流れた。それ以降は経済一辺倒である。

 政治に宗教的理念があってもいいだろう。これだけ多くの宗教があるのだから、むしろあって当然だ。しかし教団ぐるみで政治にコミットするのは問題がある。例えば創価学会の場合、公明党支援が政教分離原則に抵触するわけではない。宗教者が誰に投票しようと自由だ。最大の問題は――誰も指摘していないが――個々の学会員が立候補する自由を奪っているところにある。また東京都議会選挙のために全国の信者が応援にゆくのも民主政のルールを踏みにじる行為だ。

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2017-05-14

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

 ・仏教における「信」は共感すること

『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
 道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
 この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。

【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】

 言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。

 今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
 今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
 私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
 と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。

 私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。

スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。

 法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。

 信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。

南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。

 南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。

 南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。

『プライムニュース』動画

 普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。

 南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。

2015-11-09

ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた/『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫


 ・ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた

『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫
『世界を操る支配者の正体』馬渕睦夫
『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思

渡部●ルーズベルトは社会主義的なものに惹(ひ)かれ、共産主義とソ連に寛容でした。大恐慌後の不況対策として打ち出したニューディール政策には財産権を侵害するものも含まれ、最高裁で無効とされたものもあります。また、夫人のエレノアとともに社会運動に熱心なあまり、コミンテルンの工作員や共産党同調者の影響を受けてしまい、国務省や大統領周辺には、500人に及ぶ共産党員とシンパがいたと言われています。

馬渕●ですから、歴史の真実は、まだまだ明らかになっていない。アメリカで公文書が公開されるにつれ、ルーズベルトの政策を再検討する動きが出ています。有名なチャールズ・ビーアドさんという歴史学会の会長が書いた本(『ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか』藤原書店)も、ようやく日の目を見るようになりました。ルーズベルトは一体何をしたのか。今までは英雄でしたけれども、現にアメリカの中から、それを見なおそうという機運が熟し、英雄像にほころびが出てきた。
 アメリカ人はあれほどの犠牲を払いながら、いまだに戦争の本当の理由を知らされていないと言えるでしょう。

【『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉、馬渕睦夫〈まぶち・むつお〉(飛鳥新社、2014年)】

 アメリカは世論の国である。いかに権限のある大統領といえども世論には逆らうことができない。ゆえに「世論をつくり上げる」。

 やり方は至って簡単だ。自国民をわざと犠牲にした上で国民感情を復讐に誘導するのだ。

アラモの戦い」(1836年)では当時メキシコ領であったテキサス州でアメリカ義勇軍が独立運動を起こした。義勇軍は何度も援軍を頼んだが合衆国軍はこれを無視。200人の義勇軍は全滅した。アメリカは惨殺の模様を誇大に宣伝し、「アラモを忘れるな!(リメンバー・アラモ)」を合言葉にテキサス独立戦争(1835-36年)に突入した。メキシコ合衆国は半分の領土を失った。テキサス共和国はアメリカに併合される。

 19世紀後半になるとスペイン帝国が弱体化した。フィリピンではホセ・リサール(1861-96年)が立ち上がり、キューバではホセ・マルティ(1853-95年)がゲリラ戦争を展開。この頃アメリカの新聞は読者層を伸ばそうと激しい競争を繰り広げていた。「1897年の『アメリカ婦人を裸にするスペイン警察』という新聞記者による捏造記事をきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した」(Wikipedia)。「ピュリッツアーは、『このときは戦争になってほしかった。大規模な戦争ではなくて、新聞社の経営に利益をもたらすほどのものを』と公然と語っている」(「死の商人」と化した新聞)。嘘にまみれた新聞の演出によって参戦の機運が国民の間で高まる。アメリカ海軍は最新鋭戦艦メイン号をキューバに派遣。ハバナ湾でメイン号は原因不明の爆発を起こし、260人余りのアメリカ人が死亡した。アメリカの新聞は「メイン号を忘れるな!」と連呼し米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)に至る。アメリカはキューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコを手中にし、世界史の表舞台に登場する。

 第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてアメリカはモンロー主義(孤立主義)を貫いた。1915年、米客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートによる魚雷で攻撃され沈没した。乗客1200名に128名のアメリカ人が含まれていた。アメリカ世論の反独感情は沸騰し第一次世界大戦に参戦する。後にルシタニア号が173トンの弾薬を積載していることが判明。当時の国際法に違反しており、ドイツ軍の攻撃は正当なものと考えられている。

 フランクリン・ルーズベルトはそれまでの慣例を破り3期目の大統領選に出馬。「アメリカの青少年をいかなる外国の戦争にも送り込むことはない」と公約した。ルーズベルトは日本に先制攻撃をさせるべく、ありとあらゆる手を尽くした。大東亜戦争における日本軍の紫暗号は当初から米軍に解読されていた。日本はその事実も知らないまま真珠湾攻撃を行う。この時不可解なことが起こる。日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」をコーデル・ハル国務長官に渡すのが遅れたのである。攻撃開始の30分前に渡す予定だったのが、実際は攻撃から55分後となってしまった。本来なら責任があった駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官は切腹ものだが、何と敗戦後、吉田茂によって外務省で事務次官に任命され、キャリアを永らえている。ルーズベルトは議会で「対日宣戦布告要請演説」を行う。「日本は太平洋の全域にわたって奇襲攻撃」「計画的な侵略行為」「卑劣な攻撃」との言辞を弄してアメリカ国民を欺いた。米軍は真珠湾から空母2隻と新鋭艦19隻は攻撃前に避難させていたのだ。「真珠湾を忘れるな!(リメンバー・パールハーバー)」を合言葉にアメリカは第二次世界大戦に加わる。ルーズベルトは日本に対する最後通牒ともいうべきハル・ノートの存在を国民に知らせなかった。


 1964年、トンキン湾事件によってアメリカはベトナム戦争(1960-75年)に介入する。1971年6月ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者がペンタゴンの機密文書を入手し、トンキン湾事件はアメリカが仕組んだものだったことを暴露した。

 こうして振り返ると自作自演こそアメリカという国家の本性であり、「マニフェスト・デスティニー」(明白なる使命)に基づくハリウッド国家、ブロードウェイ体制と考えてよい。

 そのアメリカがソ連にコントロールされていたというのだから、やはり歴史というのは一筋縄ではゆかない。マッカーシズムの嵐が起こるのは1950年のことである。

  

建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ
大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし

2015-04-28

日本における集団は共同体と化す/『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平


 ・断章取義と日蓮思想
 ・日本における集団は共同体と化す

岸田 つまり日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っているわけですね。

【『日本人と「日本病」について』岸田秀〈きしだ・しゅう〉、山本七平〈やまもと・しちへい〉(文藝春秋、1980年/青土社、1992年/文春文庫、1996年)以下同】

 ま、早い話が親分子分の世界だ。確かにそうだ。後進の育成を我々は「面倒を見る」と表現する。この時点でもう兄貴分だ(笑)。結局、日本の集団は「一家」のレベルに過ぎないのだろう。日本経済をバブル景気まで支えてきた終身雇用制は、まさしく「擬制血縁の原理」が機能していた。

山本 私はね、ヨーロッパが血縁幻想を持つための条件をなくしたとすれば、それは二つあると思っているんです。一つは奴隷制ですね、人間を買ってくる。もう一つは僧院制、これは独身主義です。血縁ができない。したがって、これらは真の意味の組織だけになってくるんです。
 奴隷制度はヨーロッパに唯一神が現れる前から、一種の組織だったんですね。あの時代の自由の概念はきわめてはっきりしていて、契約の対象か売買の対象かで自由民か奴隷かが決まるわけです。ひと口に奴隷といっても、いわゆる技能奴隷、学問奴隷などはムチでひっぱたいてもダメで、報酬を与えないと働かない。その結果、ずいぶん金持の奴隷もいたわけなんです。だけど、金を持っただけでは自由民になれない。奴隷は契約の対象じゃないんですから、いわば家畜が背中に貨幣でも積んでいるような形にすぎないんですね。

「民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に『創られた伝統』に過ぎない」(『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優)としても、やはりヨーロッパには異なる宗教や言語が存在したわけだから「敵」が多かったことは確かだろう。第二次世界大戦に至るまで戦争に次ぐ戦争の歴史を経てきた。それゆえ集団内にあっても徹底的に主張をぶつけ合う。日本のように小異を捨てて大同につくなどということはあり得ない。

岸田 やはりヨーロッパは家畜文化であるというところに、根本の起源があるのかもしれませんね。

山本 そうかもしれません。

岸田 日本には奴隷制はなかったわけですからね。

山本 ないです。「貞永(じょうえい)式目」を見ると人身売買はありますが、ローマのような制度としての奴隷制というものはない。これははっきりしている。

 人間を家畜化したのが奴隷である。

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 日本に奴隷制がなかった事実が、ヨーロッパと日本の帝国主義の違いにつながる。イギリスやフランスは植民地を奴隷として扱った。日本は一度もそんな真似をしたことがない。朝鮮も併合したのであって植民地ではなかった。イングランドとスコットランドのようなものだ。

 ヨーロッパ人がアフリカ人やインディアンに為した仕打ちを見るがいい。キリスト教による宗教的正義がヨーロッパ人の残虐非道を可能とした。アメリカでは黒人奴隷が動産として扱われた(『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン)。

岸田 では、日本の集団はどういう原理で動いているでしょうかね。

山本 ただ一つ、言えるだろうと思う仮説をたてるとしますと、日本では何かの集団が機能すれば、それは「共同体」になってしまう。それを擬制の血縁集団のようにして統制するということじゃないでしょうか。ただ、機能しなくちゃいけないんです、絶対に。血縁集団というものは元来、機能しなくていいんですね。機能しなくても血縁は血縁。しかし、機能集団は別にある。しかし、日本の場合、それは即共同体に転化しちゃう。

 これは日本がもともと母系社会であったことと関係しているように思う。父は裁き、母は守るというのが親の機能であるが、日本のリーダーに求められるのは母親的な役回りである。親分・兄貴分も同様で父としての厳しさよりも、母親的な包容力が重視される。考えてみれば村というコミュニティや談合という文化も極めて女性的だ。

 ま、天照大神(あまてらすおおみかみ)は女神だし、卑弥呼(?-248年頃)という女性権力者がいたことを踏まえると、キリスト教ほどの男尊女卑感覚はなかったことだろう。

 今この本を読むと、意外なことに「日本はそれでいいんじゃないか」という思いが強い。自立した人格の欠如とか散々自分たちのことをボロクソに言ってきたが、寄り合い、もたれ合いながらも、奴隷制がなかった歴史的事実を誇るべきだろう。俺たちは『「甘え」の構造』(土居健郎)でゆこうぜ(笑)。今更、砂漠の宗教にカブれる必要はない。自然に恵まれた環境なんだから価値観が異なるのは当たり前だ。それゆえ私は今こそ日本のあらゆる集団が「確固たる共同体」を構築すべきだと提案したい。

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会津藩の運命が日本の行く末を決めた/『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
シナの文化は滅んだ/『香乱記』宮城谷昌光

2014-11-22

沖縄普天間基地は不動産の問題/『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘


『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年
『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年

 ・沖縄普天間基地は不動産の問題
 ・核廃絶を訴えるアメリカの裏事情

『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
『沈むな!浮上せよ! この底なしの闇の国NIPPONで覚悟を磨いて生きなさい!』池田整治、中丸薫

菅沼●普天間の関連で言えば、あんなものは不動産の問題なんです。みんな「安全保障」とか「抑止力」とかいろんな理屈言っていますが、とどのつまりアメリカは、本当はあんな基地は要らないんです。
 何であんなことになっているかと言うと、内外の不動産屋の利権がからんでいるからです。例えば、その中には沖縄の不動産屋もある、普天間基地の地主がいる。地代は、いろいろな問題が起こるものだから、どんどん上がっているんです。沖縄の人にとってみれば、今何が一番成長産業かというと不動産業です。地代は全部右肩上がりだから、そこへ投資すれば利益が出るわけです。なくなりゃ、みんなパーです。沖縄はそれがなくなれば、土地の値段は低い。

【『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘(ヒカルランド、2010年)】

 早速調べてみた。





 菅沼は日米双方の利権が絡んでいると指摘し、小泉純一郎もダミー会社を使って関与していると語る。ネット上では小沢の名前も上がっていた。

小沢氏、日米合意直後に沖縄で土地購入 普天間移設予定地から9キロ(産経新聞)
小沢氏、沖縄に別荘建築 老後に備え? 故郷・岩手から離れた真意は… zakzak2013.03.28

 利権とは私益だ。私益に走る公僕が国益を守れるわけがない。日本の政治家がことごとくアメリカからの圧力に屈するのも当然であろう。我々国民もまたそうした政治家の存在を許し、米国の外圧を黙認してきた。自殺者数が3万人を超えても、格差社会が広がっても目を醒(さ)ますことはなかった。今日本人に必要なのは「特攻隊の精神」だ。自分の命をなげうっても国家・国民のために尽くす覚悟である。

 個人的な所感ではあるが、米軍基地問題に関してデモや選挙などの平和的手法で解決できるとは到底思えない。かつて10代の少女が米兵に強姦された事実を踏まえれば、沖縄県民は武装すべきだろう。

 尚、本書はトンデモ本大賞の候補作となっているが、山本弘の指摘は的外れである。ま、と学会の連中の常識を信じる方がどうかしていると思うが。

2014-11-10

日本共産党はコミンテルンの日本支部/『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎


『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年
『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年

 ・日本共産党はコミンテルンの日本支部
 ・ヒロシマとナガサキの報復を恐れるアメリカ

『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年

 日本共産党というのはいったい何かと言うと、これはもともと【コミンテルン】の日本支部としてつくられた団体です。
 そもそも日本共産党の綱領や規約とは、かつては全部モスクワでつくられたものであり、そのモスクワの政策を日本で実行する。もっと言うと、日本における共産革命をモスクワの指導と援助で行なうということです。だから、いろいろな形でモスクワから指令が来たのです。
 しかもスターリン時代は、ソ連を守ることが全世界の共産主義者の任務でしたから、共産党員は全員、ソ連のスパイということになります。

【『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎(扶桑社、2010年)以下同】

 日本の政治がいつまで経っても成熟しないのは、近代史を封印することで国家意識を眠らされているためだ。日本では国を愛することもままならない。これまたGHQの戦後処理が深く関わっていることだろう。

 コミンテルン(Communist International の略)は第三インターナショナルともいわれる。

 ソ連は共産主義を輸出し、世界中を共産主義国にしてしまおうと行動に出た。そのための組織として、コミンテルン(第三インターナショナル)が1919年(大正8年)に作られた。
 革命政権は樹立直後から、一国だけでは世界中から包囲されて生き延びることはできない、と重大な危機感を抱いていた。そこでコミンテルンを作り、世界各国で知識人や労働者を組織して共産主義の革命団体を世界中に作り出し、すべてをモスクワからの指令によって動かし、各国の内部を混乱させ共産革命を引き起こそうとした。

コミンテルン(第3インターナショナル)

 これはイギリスが植民地支配で行ってきた「分割統治」(『そうだったのか! 現代史 パート2』池上彰)と同じ手法である。革命政権首脳の殆どはユダヤ人だった。彼らは情報戦に長(た)けていた。




 いまから50年前の【安保闘争】の時代は、中国やソ連から、国内の共産主義勢力へいろいろな形で指令や資金援助などが来ていました。それを調べて摘発するのが我々の仕事だったのですが、その過程でいろいろ非合法的な調査活動も行ないました。
 当時のソ連や中国の、日本共産党に対する指導・援助といったら、それは大変なものがありました。西園寺公一という共産党の秘密党員だった人物がいたのですが、銀座にある西園寺事務所が中国共産党と日本共産党の秘密連絡拠点となっていた。そこに潜り込んで書類を盗写したこともあります。

 西園寺公一〈さいおんじ・きんかず〉は西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉の孫である。子の西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉には『青春の北京 北京留学の十年』(中央公論社、1971年)という中国礼賛本がある。

 ソ連の情報・諜報活動が日本の貴族にまで及び、しかも籠絡(ろうらく)されていたという事実に驚愕(きょうがく)する。近衛文麿政権のブレーンであった尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉(元朝日新聞記者/異母弟が尾崎秀樹)に至ってはソ連のスパイとして活動し、結局死刑になった(ゾルゲ事件)。

 スパイが身を隠す職業として真っ先に挙げられるのはジャーナリスト、新聞記者、作家である。何と言っても情報収集がしやすい身分である上、プロパガンダ工作も行える。大東亜戦争の際、アメリカで捕虜になった日本人の多くは、アメリカの工作員として日本の新聞社に送られているという話もある。

 学生運動の火が消えた後も左翼勢力は学術・教育に巣食ったまま、日本の国益を毀損(きそん)し続けている。そしてもう一つ複雑な要素がある。実は戦後になって日教組をつくったのはGHQであった。アメリカ側からすれば日本国内で左翼を野放しにしておくことが分割統治となるのだ。

 その意味では旧ソ連の狙いもアメリカの思惑も上手く機能していた。東日本大震災までは。2011年3月11日に日本を襲った悲劇は再び日本を一つにした。同時に天皇陛下の姿も鮮やかに浮かび上がった。アメリカは焦った。で、慌ててTPPを進めているというわけ。

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菅沼 光弘 須田 慎一郎
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小林秀雄の戦争肯定/『国民の歴史』西尾幹二

2014-10-28

民主主義のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すアメリカ/『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘


『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年

 ・民主主義のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すアメリカ
 ・郵政民営化の真相
 ・日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 その正体は、北京政府の忠実な代理人(エージェント)

『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
『沈むな!浮上せよ! この底なしの闇の国NIPPONで覚悟を磨いて生きなさい!』池田整治、中丸薫

『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘(徳間書店、2006年)で中丸が薦めている動画を紹介する。かような国家に日本の安全保障を託している事実を考え直すべきだ。



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この国を支配/管理する者たち―諜報から見た闇の権力
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2014-10-13

湖東京至の消費税批判/『あなたの知らない日本経済のカラクリ 対談 この人に聞きたい!日本経済の憂鬱と再生への道』岩本沙弓


『円高円安でわかる世界のお金の大原則』岩本沙弓
『新・マネー敗戦 ――ドル暴落後の日本』岩本沙弓(2010年)

 ・湖東京至の消費税批判
 ・付加価値税(消費税)は物価

『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
消費税が国民を殺す/『消費税のカラクリ』斎藤貴男
消費税率を上げても税収は増えない
【日本の税収】は、消費税を3%から5%に上げた平成9年以降、減収の一途

 湖東京至〈ことう・きょうじ〉は静岡大学人文学部法学科教授、関東学院大学法学部教授、関東学院大学法科大学院教授を務め現在は税理士。輸出戻し税を「還付金」と指摘したことで広く知られるようになった。岩本は既に『バブルの死角 日本人が損するカラクリ』(2013年)で湖東と同じ主張をしているので何らかのつながりはあったのだろう。更に消費税をテーマにした『アメリカは日本の消費税を許さない 通貨戦争で読み解く世界経済』(2014年)を著している。

 私にとっては一筋縄ではゆかない問題のため、湖東の主張と批判を併せて紹介するにとどめる。

湖東●私が写しを持っているのは2010年度版なのでちょっと古いのですが、これを見るとたしかに10年度時点で日本国の「負債」は1000兆円弱、国債発行高は752兆円あります。しかし一方で日本には「資産」もあります。これは預金のほか株や出資金、国有地などの固定資産などさまざまなものがありますが、この合計額が1073兆円あるのです。しかもこの年は正味財産(資産としての積極財産と、負債としての消費財産との差額)がプラス36兆円あるんですね。だから借金大国ではなくて、ひと様からお金を借りて株を買っている状態。そういう国ですから、ゆとりがあると言えばある。

【『あなたの知らない日本経済のカラクリ 対談 この人に聞きたい!日本経済の憂鬱と再生への道』岩本沙弓(自由国民社、2014年)】
 国債発行額は1947年(昭和22年)~1964年(昭和39年)まではゼロ。大まかな推移は以下の通りだ。

     1965年 1972億円
     1966年 6656億円
     1971年 1兆1871億円
     1975年 5兆6961億円
     1978年 11兆3066億円
     1985年 21兆2653億円
     1998年 76兆4310億円
     2001年 133兆2127億円
     2005年 165兆379億円
     2014年 181兆5388億円

国債発行額の推移(実績ベース)」(PDF)を参照した。湖東のデータが何を元にしているのかわからない。Wikipediaの「国債残高の推移」を見ると2010年の国債残高は900兆円弱となっている。

「実績ベース」があるなら「名目ベース」もありそうなものだが見つけられず。以下のデータでは昭和30~39年も発行されている。

国債残高税収比率

 まあ、こんな感じでとにかく税金のことはわかりにくいし、政府や官僚は意図的にわかりにくくしていると考えざるを得ない。響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉は「国家予算とはすなわちブラックボックスであり、我々のイデオロギーとは旧ソビエトを凌ぐ官僚統制主義に他なりません」と指摘する(『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』)。

 日本以外では「付加価値税」という税を、なぜか日本だけが「消費税」と命名している。直訳すれば世界で通用せず、反対に別の税だと受け止められると湖東は指摘する。

 以下要約――付加価値税という税を最初に考えたのはアメリカのカール・シャウプであるとされる。「シャウプ勧告」のシャウプだ。アメリカではいったん成立したものの1954年に廃案となる。フランスはこれを「間接税」だと無理矢理定義して導入した。日本やドイツに押されて輸出を伸ばすことができなかったフランスは輸出企業に対して補助金で保護してきた。しかし1948年に締結されたGATT(関税および貿易に関する一般協定)で輸出企業に対する補助金が禁じられる。

湖東●そこでフランスがルールの盲点を突くような形で考えたのが、本来直接税である付加価値税を間接税に仕立て上げて導入することでした。税を転嫁できないことが明らかな輸出品は免税とし、仕入段階でかかったとされる税金に対しては、後で国が戻してやる。その「還付金」を、事実上の補助金にするという方法を思いついたのです。

岩本●ほとんど知られていないことだと思いますが、消費税には輸出企業だけが受け取れる「還付金」という制度がある、ということですね。

湖東●あるんです。たとえばここに年間売上が1000億円の企業があり、さらにこの1000億円の売上高のうち500億円が国内販売で、500億円が輸出販売。これに対する仕入が国内分と輸出分を合わせて800億円だったとします。
 このモデルケースでは、国内販売に対してかかる消費税は500億円×5%で25億円であるのに対し、輸出販売にかかる消費税は500億円×0でゼロ。したがって全売上にかかる消費税は、国内販売分の25億円だけです。
 一方で控除できる消費税は年間仕入額の800億円×5%で40億円になりますから、差し引き15億円のマイナスになります。これが税務署から輸出企業に還付されるのです。
 私の調査では、日本全体で毎年3兆円ほどが還付されています。

岩本●仮にその会社の販売比率が、国内3に対し輸出7だとすれば、消費税は300億円×5%で15億円。還付される額は25億円になりますから、売上に締める輸出販売の割合が高ければ高いほど還付金が増える仕組みですね。

湖東●そうです。ですから日本の巨大輸出企業を見るとほとんどが多額の還付金を受け取っており、消費税を1円も納めていません。

 これが問題だ。国税庁は「消費税とは、消費一般に広く公平に課税する間接税です」と定義している(「消費税はどんな仕組み?」PDF)。間接税であれば事業者負担はない。これに対して湖東は中小企業が消費税分を価格に上乗せすることができないケースや、大企業が中小企業に消費税分を値引きさせるケースを挙げている。こうなるとお手上げだ。ってなわけで以下に湖東批判を引用する。

 消費税はすべて消費者に転嫁されるので、実は税率がいくらであっても、企業の付加価値は変わらない。(中略)企業は、受け取った消費税分から支払った消費税分を引いた金額を納税(マイナスになれば還付)するため、還付されたからといって収益に変化はない。(高橋洋一:「輸出戻し税は大企業の恩恵」の嘘 消費増税論議の障害になる

 しかし、それと輸出免税還付金とは別のハナシであります。なんとなれば、トヨタの値引き圧力にあらがうことができずに、60万円で売りたいところ50万円にしなさいという圧力に涙を呑んで受け入れても、実務的には消費税は伝票に記入せざるをえません。(雑想庵の破れた障子:消費税の問題点とされる “輸出戻し税” について考える(4)無理を承知の上で、あえて主張している…。

消費税の問題点とされる “輸出戻し税” について考える(その1)消費税額の2割強が還付されている。
消費税の問題点とされる “輸出戻し税” について考える(その2)豊田税務署は “TOYOTA税務署” なのか?
消費税の問題点とされる “輸出戻し税” について考える(3)直感的に正しく見えることは、必ずしも真ならず。
消費税の問題点とされる “輸出戻し税” について考える(5)消費税の増税は、逆に税収を減らす…。

 以下のまとめもわかりやすい。

「輸出戻し税」で本当に大企業はボロ儲けなの?(仮) - Togetterまとめ

 こうして考えると、湖東の分が悪いように思う。次回は富岡幸雄(中央大学名誉教授)との対談を紹介する予定だ。

あなたの知らない日本経済のカラクリ---〔対談〕この人に聞きたい! 日本経済の憂鬱と再生への道筋

2014-10-02

土俗性と普遍性/『涙の理由』重松清、茂木健一郎


【茂木】普遍性が、ある種の土俗性を切り捨てたところに成り立っている。そこに、忸怩(じくじ)たるものを感じるのかもしれない。

【『涙の理由』重松清、茂木健一郎(宝島社、2009年/宝島SUGOI文庫、2014年)】

 茂木健一郎が精力的に対談本を出し、佐藤優がそれに続いたような印象がある。「どれどれ」と思いながら開いたところ、そのまま読み終えてしまった。初対面の中年男二人がちょっとぎこちない挨拶を交わし、茂木がリードしながら会話が進む。この二人、実は少年時代から抱えている影の部分が似ている。

 茂木の指摘は小説に対するものだが、そのまま宗教にも当てはまる。民俗信仰(民俗宗教)が世界宗教に飛躍する時、儀式性よりも理論が優先される。ここで民俗的文化が切り捨てられる。それを個性と言い換えてもよかろう。つまり味を薄めることで人々が受け入れやすい素地ができるのだろう。これが妥協かといえば、そう簡単な話でもない。

 唐突ではあるが結論を述べよう。私はインディアンのスピリチュアリズムは好きなのだが、ニューエイジのスピリチュアリズムは否定する。両者の違いは奈辺にあるのだろうか? それが土俗性であり、もっと踏み込めばアニミズムということになろう。

 一神教や大衆部(大乗仏教)は神仏を設定することで土俗性を破壊する。そして必ず政治的支配(権力)と結びつく。日本が仏教を輸入したのも国家戦略に基づくものであった。

 そう考えるとよくわかるのだが、ブッダやクリシュナムルティの教えは最小公約数的な原理を示しているだけで、特定の神仏への帰依を強要するものではない。手垢まみれになった宗教という言葉よりも、根本の道というイメージに近い。

2014-05-06

グローバリズムの目的は脱領土的な覇権の確立/『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫、萱野稔人



『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻

 ・グローバリズムの目的は脱領土的な覇権の確立

『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫
『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫

『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した!』ジェームズ・リカーズ

水野●その価格決定権を(※OPECから)アメリカが取り返そうとして1983年にできたのが、WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)先物市場ですね。
 石油の先物市場をつくるということは、石油を金融商品化するということです。いったんOPECのもとへと政治的に移った価格決定権を、石油を金融商品化することで取り返そうとしたんですね。

萱野●まさにそうですね。
 60年代までは石油メジャーが油田の採掘も石油の価格も仕切っていた。これは要するに帝国主義の名残(なごり)ということです。世界資本主義の中心国が周辺部に植民地をつくり、土地を囲い込むことによって、資源や市場、労働力を手に入れる。こうした帝国主義の延長線上に石油メジャーによる支配があった。その支配のもとで先進国はずっと経済成長してきたわけです。
 しかし、こうした帝国主義の支配も、50年代、60年代における脱植民地化の運動や、それにつづく資源ナショナリズムの高揚で、しだいに崩れていきます。そして、石油についてもOPECが発言力や価格決定力をもつようになってしまう。当然、アメリカをはじめとする先進国側はそれに反撃をします。ポイントはそのやり方ですね。つまり石油を金融商品化して、国債石油市場を整備してしまう。それによって石油を戦略物資から市況商品に変えてしまうんです。

【『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫、萱野稔人〈かやの・としひと〉(集英社新書、2010年)以下同】

 昨今の世界経済危機は資本主義の転換点であるという主旨を様々な角度から検証している。年長者である水野が終始控え目で実に礼儀正しく、萱野を上手く引き立てている。萱野は哲学者だけあって経済の本質を鋭く捉えている。

 先物取引の大きな目的はリスクヘッジにある。

 例えばある商社が、米国から大豆10,000トンを輸入する。米国で買い付け、船で日本に到着するまでに1箇月かかるとする。1箇月の間に大豆の販売価格が仮に1kgあたり10円下がったとすると、商社は1億円の損失を出すことになる。そのため、商社は必ず買付けと同時に、商品先物取引を利用して10,000トン分の大豆を売契約し、利益額を確定する。 値下がりすれば先物で利益が出るので、現物の損失と相殺することが出来る。値上がりの場合は利益を放棄することとなるが、商社の利益は価格変動の激しい相場商品を安全に取引することにある。また、生産者も植えつけ前に先物市場において採算価格で販売契約し、販売価格を生産前に決めることで、収穫時の投機的な値上がり益の可能性を放棄する代わりに適切な利益を確保し、収穫時の価格下落(採算割れ)を気にせずに安心して計画的に生産することが出来る。

Wikipedia

 これが基本的な考え方だ。ところが恣意的な価格決定のためにマーケットがつくられたとすれば、マーケット価格が現物に対するリスクと化すのだ。その上インターネットによって瞬時の取引が可能となり、異なるマーケット同士が連鎖性を帯びている。このため金融危機はいつどこで起こってもおかしくない状況となっている。

水野●驚くことに、アメリカのWTI先物市場にしても、ロンドンのICEフューチャーズ・ヨーロッパ(旧国債石油取引所)にしても、そこで取引されている石油の生産量は世界全体の1~2%ぐらいです。にもかかわらず、それが世界の原油価格を決めてしまうんですね。

萱野●そうなんですよね。世界全体の1日あたりの石油生産量は、2000年代前半の時点でだいたい7500万バレルです。これに対して、ニューヨークやロンドンの先物市場で取引される1日あたりの生産量は、せいぜい1000万バレルです。

水野●1.5%もありませんね。

萱野●ところが先物取引というのは相対取引で何度もやりとりしますから、取引量だけでみると1億バレル以上になる。その取引量によって国際的な価格決定をしてしまう。価格という点からみると、石油は完全に領土主権のもとから離れ、市場メカニズムのもとに置かれるようになったことがわかりますね。

 しかも10~20倍のレバレッジが効いている。金融市場に出回る投機マネーは世界のGDP総計の4倍といわれてきたが、世界各国の通貨安競争を経た現在ではもっと増えていることだろう。もともと交換手段に過ぎなかったマネーが膨張に次ぐ膨張を繰り返し、今度は実体経済に襲いかかる。プールの水が増えすぎて足が届かなくなっているような状態だ。投機マネーとは「取り敢えず今直ぐ必要ではないカネ」の異名だ。

 マネーサプライが増加しているにもかかわらずインフレを示すのは株価と不動産価格だけで経済全体の底上げにつながっていない。

萱野●要するに、イラク戦争というのは、イラクにある石油利権を植民地主義敵に囲い込むための戦争だったのではなく、ドルを基軸としてまわっている国際石油市場のルールを守るための戦争だったんですね。これはひじょうに重要なポイントです。

 本書以外でも広く指摘されている事実だが、フセイン大統領は石油の決済をドルからユーロに代えることを決定し、国連からも承認された。これをアメリカが指をくわえて見過ごせば、ドル基軸通貨体制が大きく揺らぐ。つまり人命よりもシステムの方が重い、というのがアメリカの政治原理なのだ。

萱野●先進国にとっての戦争が、ある領土の支配権を獲得するためのものではなくなり、脱領土的なシステムを防衛するためのものとなったのです。領土、ではなく、抽象的なシステムによって自らの利益を守ることに、軍事力の目的が変わっていったのです。
 かつての植民地支配では、その土地の領土主権は認められていませんでしたよね。それは完全に宗主国のコントロールのもとにあった。それが現在では、領土主権は一応その土地にあるものとして認められたうえで、しかし、その領土主権を無化してしまうような国際経済のルールをつうじて、覇権国の利益が維持されるのです。
 これは、経済覇権のあり方が脱植民地化のプロセスをつうじて大きく変化したということをあらわしています。いまや経済覇権は領土の支配をつうじてなされるのではありません。領土の支配を必要としない脱領土的なシステムをつうじてなされるのです。

 卓見だ。更に「脱領土的な覇権の確立、これがおそらくグローバル化のひとつの意味なのです」とも。本書の次に『日本はニッポン! 金融グローバリズム以後の世界』藤井厳喜、渡邉哲也:ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ編(総和社、2010年)を読むと更に理解が深まる。グローバリズムの本質と惨禍については『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クラインが詳しい。またアメリカが安全保障上の観点から通貨戦争に備えている事実はジェームズ・リカーズが書いている。

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日本はニッポン! 金融グローバリズム以後の世界
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大英帝国の没落と金本位制/『新・マネー敗戦 ――ドル暴落後の日本』岩本沙弓
米ドル崩壊のシナリオ/『通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した!』ジェームズ・リカーズ

2014-04-14

日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー


岸田●ペリーがきたというのが、アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。

バトラー●文化に対する強姦ということは言えるんでしょうかねえ。

岸田●その理論的根拠については僕の書いた本のなかに述べておりますが、僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。

バトラー●そのつもりでしたね。

岸田●アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じ籠もっていた古い日本を近代文明へと拓いた、むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。

バトラー●(省略)

岸田●ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわばある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲よくしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。

【『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年青土社、1992年/河出文庫、1994年)】

 ケネス・D・バトラーは東洋言語学博士でアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの所長を務めた人物。岸田の対談集はどれも面白いが本書の出来はあまりよくない。

 私はペリー強姦説が岸田のオリジナルだと思い込んでいたので司馬遼太郎の名前を見て驚いた。

 ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。

【『近代の拘束、日本の宿命』福田和也(文春文庫、1998年)】

 つまり強姦された挙げ句に、白人の家へ嫁入りさせられてしまったわけだ。そう。先進国一家だ。

 憂鬱になってくる。強姦した相手が金持ちであったために結婚生活が何となく幸福に見えてしまう。日本の経済発展の底流にはそういう心理的な誤魔化しがあったのだろう。で、怒りの矛先はアメリカではなく中国や韓国に向かう。まったく捻(ねじ)れている。

 しかも、黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。現在、その捕鯨で我が日本は白人どもから叩かれている(有色人捕鯨国だけを攻撃する実態)。

「強姦」は喩えではない。アメリカ人は黒人奴隷やインディアンを実際に強姦しまくっている。ノルマンディー上陸作戦においては白人をも強姦している(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。奴らのフロンティアスピリットとは強姦を意味するのかもしれない。

「世界の警察」を自認するアメリカは強姦魔であった。民主主義が有効であるならば、アメリカは倒されてしかるべき国家だ。



黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典
意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2014-04-10

浪花千栄子の美しい言葉づかい/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


 ・落語とは
 ・浪花千栄子の美しい言葉づかい
 ・死の恐怖

浪花●だんだんバタのにおいがプンプンしてくる世のなかになってまいりましたけど、あたくしなんか、ドブヅケ(ぬかみそづけ)のにおいがプンプンいたしますんでございます。まだドブヅケたべてくれはりますあいだは、つづけていかれるやろおもてますけど、そのうち、ドブヅケはすみへすみへ追いやられてしまうことになりまっしゃろうと思いましてね、心ぼそいかぎりでございますねん。

【対談 浪花千栄子〈なにわ・ちえこ〉・徳川夢声〈とくがわ・むせい〉/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)】

 浪花千栄子は8歳の時から奉公に出され、教育を受けることができなかった。苦労しながら独学で読み書きを学んだ。美しい大阪弁を話すことで知られる女優と思っていたところ、正確には船場言葉というそうだ(大阪弁完全マスター)。私と同世代であっても浪花千栄子を知る人は少ない。でも「オロナイン軟膏の看板」は殆どの人が知っているはずだ。


 浪花の本名は南口〈なんこう〉キクノという。ここから「軟膏効くの」に因(ちな)んで起用された。

 バタとはバターのこと。確かバルザック著『「絶対」の探求』にも「バタ」という表記があったように思う。今でも「バタ臭い」という言葉で残っている。

 文字を読めなかったがゆえに言葉を大切にした人なのだろう。それにも増して人を大切にしてきたのだろう。言葉づかいは作法というよりも流儀である。その美しい心に思いを馳せる。

ちくま哲学の森 1 生きる技術

筑摩書房
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2014-03-09

帝国主義大国を目指すロシア/『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦、佐藤優


『日本の秘密』副島隆彦

 ・帝国主義大国を目指すロシア

 数日前に読了。時間がなくてまだ読書日記にも書いていないが、タイムリーな部分だけ紹介しよう。佐藤優は本に対しても人に対しても健啖家(けんたんか)のようだ。個人的には副島隆彦が苦手である。メディアから完全に無視されていることに対するルサンチマンを感じるせいだ。見ようによっては師事した小室直樹の負の部分を受け継いでいるようにも思える。裏づけはあるのだろうが結論の前に飛躍が目立ち、頑迷さを露呈することが多い。ただ侮れない人物であることは確かだ。

佐藤●石油、天然ガス、レアメタルなどの資源が豊富なロシアが再び大国の位置をめざしています。私はプーチン、メドベージェフ体制が推進するロシアは、2020年までに帝国主義大国をめざすと考えています。

【『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(日本文芸社、2008年)以下同】

 佐藤の予告はウクライナ危機から実現に向かいそうだ。日本のニュースは西側情報を垂れ流しているため迂闊に信用すると世界情勢を読み誤る。ロシアに対する否定的な見方は片目をつぶったも同然だ。以下のブログを参照せよ。

櫻井ジャーナル

 私は2020年までに日中戦争が起こると考えている。同年夏に開催予定の東京オリンピックは実現しないことだろう。【1940年】の再来だ。

佐藤●グルジアに対する軍事攻撃で、米ロが再び「新冷戦の時代」に入ると主張する人々がいます。しかし、冷戦はイデオロギーがないと起こりません。冷戦の条件というのはイデオロギーがあること、実際の戦争にならない状態が維持されるような次元が図られること、それができないから、今回のグルジア問題では「冷戦」には入らないと思います。(中略)
 私は新冷戦などではなく、ロシア・グルジア戦争は既に「熱い戦争」になっていると思います。
 今後、大国が絡んだ形での2国間戦争というのは「フォークランド紛争」のような形になるでしょう。

 歴史は繰り返す。なぜなら人類の知性が更新されないからだ(『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー)。業(ごう)が輪廻(りんね)するのではなくして、輪廻すること自体が人類の業なのだろう。

佐藤●物事を戦争によって解決するというハードルが低くなります。現状の国境線というものを、不可侵ではなく、武力による不変更というヨーロッパ・ロシアに存在していたゲームのルールが、アブハジア、南オセチアの独立で完全に破られました。
 ですから、「新冷戦」は訪れない、新冷戦は来ないけれどそれがよい話だと勘違いしたら間違いで、軍事衝突という「熱い戦争」の時代が来ると思います。

「ロシアの防衛産業の雇用人口は250万人から300万人といわれ、製造業全体の20%を占める」(Wikipedia)。ロシアはアメリカに次ぐ武器輸出大国とされるが、軍需産業のランキングにロシア企業は見当たらない。

軍需産業
世界の軍事企業の売上高ランキング

 プーチンの狙いは軍需産業へのテコ入れも考えられよう。アメリカも同様だが在庫を処分しなければ新製品の販売が困難だ。戦争は最大のスクラップ・アンド・ビルドであり経済政策として推進される。資本主義は地球を不毛化する。

 もう一つ、ちょっと気になった部分を。

副島●ネオ・コーポラティズム Neo-Corporatism という言葉があります。これを、いちばん、手っ取り早く日本人が理解したければ、「開発独裁」とか「優れた独裁者国家」を類推すればよい。シンガポールのリー・クアン・ユーとかマレーシアのマハティールとか、韓国の朴正煕〈パク・チョンヒ〉とか、台湾の李登輝〈リー・トンホイ〉を例に挙げればいい。彼らのような優秀な指導者が出てきて、資源と国民エネルギーとを上手に配分したら、その国は急速に豊かになれるわけです。そうした新興国の開発独裁を、今、ブラジルやインド、そして中国、ロシアが一生懸命やろうとしています。
 ロシアのプーチンやメドベージェフこそは、ネオ・コーポラティズムの体現者です。ひと言で言えばイタリアのムッソリーニの再来です。イタリアのファシズム運動こそはコーポラティズムです。労働組合までも巻き込んだ国家体制づくりをしました。

 直後のページではネオ・コーポラティズムに「新統制経済国家」とルビを振っている。

 Wikipediaを見たところ、コーポラティズムおよびネオ・コーポラティズムの原義は副島の考え方が正しいようだ。日本がファシズム化する証拠として佐藤は「自動車の後部座席シートベルトの着用義務」を挙げ、副島は「ATMでの送金が10万円を上限」としたことを金融統制と言い切っている。

 私が本書を知ったのは「コーポラティズム」で検索したことによる。ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読んだ直後であった。ナオミ・クラインが説くコーポラティズムは巨大資本を有する私企業が米国政府の政策決定に深く関与し、世界各国の戦争や災害に便乗して他国をエコノミック・レイプする手口であった。実に紛らわしい。日本語だとコーポレーション主義にした方がよさそうだ。いっそのこと「ハゲタカ」と呼んだらどうだ?

 アメリカが吹聴する「自由」とは、戦争をする自由であり、簒奪(さんだつ)する自由のことである。日本は敗戦以降、ひたすら奪われ続けてきた。TPPによって収奪は極限まで加速し、円安が極まった時点で日本は暴走することだろう。その後ドルの価値が崩壊する。

2014-01-13

日本に真のジャーナリズムは存在しない/『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝、藤原肇


『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 ・強靭なロジック
 ・日本に真のジャーナリズムは存在しない

『藤原肇対談集 賢く生きる』藤原肇

正慶●メディアが社会を支配するメディアクラシーも進んでいます。したがって、コマーシャリズムとセンセーショナリズムに支配されるマスメディアが改まらない限り、日本に福音はもたらされないような気がします。

藤原●しかも、日本の場合、新聞社がテレビを支配する構造になっています。本来、新聞とテレビはまったく異質の媒体だから、それぞれ独立した形であるべきですが、日本はテレビ局が新聞社の天下り先になっている。こんな構造がまかり通っている間は、日本に真のジャーナリズムは存在しないと言えます。

【『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝〈しょうけい・たかし〉、藤原肇(清流出版、2003年)】

 ジャーナリストやアナウンサーがもてはやされる時代は嘆かわしい。メディアへの露出度が権威と化した時代なのだろう。テレビに「ものを作っている」ような顔つきをされると片腹が痛くなる。お前さんたちは単なる加工業者にすぎない。

 報道とは世の中の出来事を知らしめることであるが、「道」の字に込められた願いはかなえられているだろうか? 報道は偏向することを避けられない。なぜなら観測者は複数の位置に立つことができないからだ。ところが昨今のジャーナリストは少々の取材で「すべてを知った」つもりになっている。まるで神だ。

 権力を監視する役割を担うマスコミが既に第四の権力と化している。テレビは許認可事業で広告収入によって支えられている。当然のように政治家・官僚&業界とは持ちつ持たれつの関係となる。そしてテレビはあらゆる人々をタレント化する。最も成功したのは小泉元首相であろう。繰り出されるワン・フレーズはあたかも優れた一発芸のようであった。多くの視聴者が求めているのは事実でもなければ真実でもない。単なる刺激だ。我々は強い反応を求める。そう。涎(よだれ)を催すベルが欲しいのだ(パブロフの犬)。

 マスメディアは改まることがない。もちろん我々もだ。幸福とは十分な量のパンとサーカスを意味するのだから。

「真のジャーナリズム」を求めるところに依存が生じる。むしろ「ものを見る確かな眼」を身につけながら、情報リテラシーを磨くべきだろう。

 存在しないのはそれだけではない。真の政治家もいなければ、真の教育者もいなければ、真の宗教家もいない。真の奴隷は存在するようだが。



立花隆氏の基調講演(1)テーマ「ジャーナリズムの危機」
時代に適した変化が求められるジャーナリズム

2013-07-20

断章取義と日蓮思想/『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平


 ・断章取義と日蓮思想
 ・日本における集団は共同体と化す

 昔から保守系論壇に登場する学者が苦手だ。知が光となって人間世界を明るく照らすのであれば、やはり世の中の矛盾や理不尽を浮かび上がらせるのが学問の目的ではないのか? 私にはそんな思い込みがある。チャーチル曰く「若いうちに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。大人になっても左翼に傾倒している者は知能が足りない」と(※注)。ま、十代で本多勝一を読んできたせいかもしれない。

 弁当兄さん(finalvent)山本七平を愛読してきた、とツイートしていたので本書を開いてみた。面白かった。

山本 徳川時代の町人学者の行き方は「断章取義」と言われています。章を断って義を取る、つまり原典の文脈をバラバラにして、自分に必要なものだけを取るんですね。(中略)いわば、自分の体系を聖人の片言隻句の引用ですべてつないでしまう。原典は仏教だろうと儒教だろうとかまわないわけで、これはつまり思想を取り入れたということではなく、表現を採用して権威化したに過ぎないんです。そのため真の思想的対決には決してならない。

【『日本人と「日本病」について』岸田秀〈きしだ・しゅう〉、山本七平〈やまもと・しちへい〉(文藝春秋、1980年/青土社、1992年/文春文庫、1996年)】

「あ!」と思った。「俺のことだ」と(笑)。抜き書きの多用、おんぶに抱っこ、著作を杖と頼む行為だ。

「町人」「義」というフレーズで思い出されるのは京都町衆である。断章取義は日蓮思想に由来するのではないだろうか?

日蓮 京都での繁栄と受難

 日蓮の考え方に文義意というのがある。文(もん)は経文、義は経文の意義、意は仏の本意を指す。三重(さんじゅう)に深めてゆくといえば聞こえはいいが、読み手の恣意的解釈を拡大しているようにも思える。日蓮本人としては経文だけあって形骸化した仏教界に警鐘を鳴らしたのだろう。

 日蓮が激しい感情の持ち主であったこともあって日蓮系は極端に走る教団が多い。戦前の右翼に始まり、新興教団の創価学会顕正会にまで至る。

 日蓮系はことごとく断章取義である。日蓮の遺文を切り取っては水戸黄門の印籠みたいにかざす悪癖がある。そこに思想的格闘は見られない。印籠教学といってよいだろう。

 生き方に一貫性がないから「思想的対決」が生まれ得ない。日本人は思想・哲学よりも所属や党派を重んじる。「お前はどこのどいつだ?」。我々は皆、○○村の誰ベエだ。村の掟こそが正義なのだ。

 京都町衆について詳しいことは知らない。知っているのは本阿弥光悦〈ほんあみ・こうえつ〉の名前くらいだ。

 日蓮は鎌倉時代にあって思想的対決を望んだ稀有な人物であった。その末裔(まつえい)が断章取義に陥るのだからこれほどの矛盾もあるまい。

日本人と「日本病」について (文春学藝ライブラリー)
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Estatua de Nichiren del siglo 13

2013-05-07

渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」/『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英


『つぎはぎ仏教入門』呉智英

 ・渇愛の原語は「好ましい」「いとおしい」

『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

宮崎●愛の問題はどうですか。たとえば「ダンマパダ」や「ウダーナヴァルガ」で、ブッダは繰り返し「愛する者に会うことなかれ」と戒めています。なぜかというと、「愛」もその対象も必ず変滅するからです。経典には「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とすら記されてある。

呉●トリシュナー(サンスクリットの「渇き」)だね。愛の問題はね、いろんなところで何度も言ってますが、日本人の中で愛がものすごく大きな原理になってきたのは1970年ぐらいからで、それまではそんなに愛っていうのは大きな原理ではなかった。

宮崎●ダンマパダの、この偈の“愛”はパーリ語のピヤで、渇愛というよりは単純に「好ましい」「いとおしい」ぐらいの語意なんですが、それでもこのように否定的に語られているのが興味深い。

【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】

 宮崎哲弥が“評論家の師匠”と呼ぶ呉智英との対談。マンガネタも豊富。一日で読み終えた。

 同様のテーマは『大パリニッバーナ経』でもアーナンダとのやり取りで「婦人を見るな」とブッダが断言する件(くだり)がある。

 ここらあたりでつまずく人も多いと思われるので少々解説しておこう。

 仏教の哲学性は万人に共通する「苦」を見つめることであった。仏典で仏は医師に喩(たと)えられる。マッサージ師ではない。つまり極言すればブッダの狙いは「抜苦」にあったわけで、最初から「与楽」を目指したものではない。

 果たして苦はどこから生まれるのか? ブッダの瞳は「我」(が)を捉えた。更に我の構成要素をも見極め、瞑想の深度は時空を超えて遂に成道(じょうどう)する。

 日本では愛と聞けば大半の人々が恋愛を思う。呉が1970年台からと指摘しているのは、ベトナム戦争反対運動のラブ&ピースや、ビートルズからフォークを経てニューミュージックに至るサブカルチャー・ムーブメントを指すのだろう。恋愛結婚が増えたのも戦後になってからのことだ。

 恋愛は愛なのだろうか? 私の10代を振り返ってみよう。恋愛感情は断じて愛ではなかった。単なる欲望であった(笑)。それこそ渇愛そのものだ。ただただ相手を手に入れたいという衝動に駆られていた。恋愛が美しいのは、ま、そうだな、最初の1週間くらいだろうな。10年以上連れ添った夫婦を見てごらんよ。半分以上はそっぽを向いているから。

 ブッダが明かしたのは苦と快楽が表裏一体であることだった。欲望がプラスに傾くと快楽で、マイナスに傾くと苦になるわけだ。愛憎もまた表裏一体だ。

 美味しいものを食べれば食べるほど、日常の食事がまずくなるようなものだ。快楽が比較を生み、比較が不幸を感じさせる。比較には限度がない。欲望は更なる高みを目指す。

 愛する者がいるゆえに悲哀が深まる現実を見失ってはなるまい。愛と喪失感は比例関係にある。だがこの愛は仏教的視座に立てば「自我の延長」と見ることが可能だ。

 好き嫌いというのは反応である。道徳的な理由であろうと進化的な理由であろうと反応に過ぎない。生の本質は反応である。政治・経済・科学・宗教・文化といってもそこにあるのは反応だ。

 我々の人生はビリヤードの球みたいなものだ。ある時は教育というキューでつつかれ、またある場合には他人が決めたコースを無理矢理走らせられる。そしてメディアは常に大衆の欲望を操縦する。

「好きこそものの上手なれ」とも言う。確かに技術においてはそうだろう。しかしこれが人生に反映されると機械的な生き方となってゆくことを避けられない。

 欲望は現在性を見失わせる。満たされぬ渇(かわ)きに支配された人は荘厳な夕日の美しさに決して気づくことがない。彼の目は自分の将来しか見つめていないからだ。

知的唯仏論さみしさサヨナラ会議宮崎哲弥 仏教教理問答つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

2012-04-24

レオポルド・ストコフスキーとの対談/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ


 ・クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの
 ・あなたは「過去のコピー」にすぎない
 ・レオポルド・ストコフスキーとの対談

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

 真の対話は化学反応を起こす。著名人による対談は互いに太鼓を抱えて予定調和の音頭を奏でるものが多い。対話の中身よりも、むしろ名前が重要なのだろう。あるいは肩書き。ま、形を変えて引き伸ばした営業や挨拶みたいな代物だ。

 私はクラッシクをほとんど聴かないのでレオポルド・ストコフスキーの名前を知らなかった。フィラデルフィア・オーケストラの著名な指揮者だそうだ(当時)。クリシュナムルティ33歳、レオポルド・ストコフスキー46歳の時の対談が収められている。

 まずはレオポルド・ストコフスキーの指揮を紹介しよう。




 レオポルド・ストコフスキーの戸惑う様子が各ページから伝わってくる。クリシュナムルティ特有の文脈を異次元のもののように感じたはずだ。ストコフスキーは戸惑うたびに注意を払い、問いを深めている。

クリシュナムルティ●直観は、英知の極致、頂点、精髄なのです。

【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)以下同】

 直感、ではない。直感は「感じる」ことで、直観は「捉える」ことだ。第六感のような感覚的なものではなく、英知の閃(ひらめ)きによって物事をありのままに見通す所作(しょさ)である。

 直観という瞬間性に時間的感覚はない。主体と客体の差異も消失する。そこに存在するのは閃光(せんこう)の如き視線のみだ。

 我々は普段見ているようで見ていない。ただ漫然と眺めているだけだ。あるいは概念やイメージというフィルター越しに見てしまう。つまり、ありのままを見るのではなくして、過去を見ているのだ。これはクリシュナムルティが一貫して指摘していることだ。

ストコフスキー●私はかねがね、芸術作品は無名であるべきだと思ってきました。私が気にかけていた問いはこうです。詩、ドラマ、絵あるいは交響曲は、その創造者の表現だろうか、それとも彼は、想像力の流れの通路となる媒介だろうか?

 本物の芸術は作り手の意図を超えて、天から降ってくるように現れる。意思を超越した領域に真理や法則性が垣間見えることがある。ストコフスキーが只者でないことがわかる。

 無名性は永遠性に通じる。作者の名前を付与したものは自我の延長にすぎないからだ。何であれ世に残すことを意図したものは死を忌避していると考えてよい。

 私は大乗仏教の政治性に激しい嫌悪感を抱いているが、その無名性には注目せざるを得ない。

 クリシュナムルティは次のように応じた。

「創造的なものを解放するためには、正しく考えることが重要です。正しく考えるには、自分自身のことを知らなければなりません。自分自身を知るためには、無執着であること、絶対的に正直で、判断から自由でなければなりません。それは、自分自身の映画を見守るように、日中、受け入れも拒みもせずに、自分の思考と感情に連続的に気づくことを意味するのです」

「無執着≒判断から自由」という指摘が鋭い。我々は何をもって判断しているのか? 本能レベルでは敵か味方かを判断し、コミュニティレベル(社会レベル)では損得で判断している。判断を基底部で支えているのは所属や帰属と考えてよさそうだ。

 社会人として、大人として、親として、日本人として、「それはおかしい、間違っている」と我々は言う。相手を断罪する時、私は「社会を代表する人物」みたいな顔つきをしているはずだ。集団には必ず不文律があるものだが、結局のところ「村の掟」と同質だ。

「判断から自由」――これこそが真のリベラリズムといえよう。せめて判断を留保する勇気を持ちたい。

「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」

「正しい環境」とは脳の環境のことであろう。すなわち思考を脇へ置くことを意味する。思考から離れ、判断から離れることが、自我から離れる=自我からの自由を示す。

「自由な思考」という言葉は罠だ。思考は過去への鎖であり、自我への束縛であり、最終的に牢獄と化すからだ。哲学の限界がここにある。

2010-03-06

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男


『人類史のなかの定住革命』西田正規
『砂糖の世界史』川北稔
『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一

 ・動物文明と植物文明という世界史の構図
 ・黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった
 ・中東が砂漠になった理由
 ・レッドからグリーンへ

『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之

必読書リスト その四

 これは勉強になった。人類史の壮大なパノラマを「環境史」という視点で読み解く作業が実に刺激的である。最近よく聞かれるようになったが、世界の大きな戦争は寒冷期に起こっているという。これは少し考えればわかることだが、寒くなれば暖房などのエネルギーを多量に使うようになる上、農作物が不作となれば大量の人々が移動をする。当然のように温暖な地域を目指すことになるから衝突は必至だ。

 このように世界の歴史を「環境」から検討する学問を環境史という。人類の歴史が大自然との戦いであったことや、天候が人間心理に及ぼす影響を踏まえると、その相関関係はかなり説得力があるように思う。

 たまたま、ジョン・グレイ著『わらの犬 地球に君臨する人間』という陰気臭い本と一緒に読んでいたこともあり、本書に救われるような気がした。学問の王道はやはり「面白主義」である。予想だにしなかった事柄が結びつく時のスリルが堪(たま)らん。

 私は今まで、西洋文明=騎馬民族vs東洋文明=農耕民族と何となく考えていたが、本書では動物文明(家畜&麦作)vs植物文明(稲作&漁業)という構図が示されており、文明の違いを様々な角度から検証している。更に、アジアにおいて黄河文明などは動物文明であったとのこと。

 先進国は基本的に西洋のルールに従っていると思われるが、その暴力性・侵略性が実によく理解できる。

安田●やはり家畜の民がつくった文明が、現在の世界を支配しているということです。この点が21世紀には大変大きな意味をもつと思います。人間を家畜と同じようにコントロールして奴隷をつくる。そして人間の性、つまり子どもを産むことにまでタッチする文化をどう考えるのか。たとえば遺伝子操作やクローン技術は、全部ヨーロッパ文明=家畜の民が生み出した技術革新です。
 もともと家畜の民だった人がつくった地中海文明のうえに、キリスト教という家畜の民の巨大宗教がやってきて、自然支配の文明をつくりだした。これが人類の歴史における大きな悲劇だったと思う。

【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年)/新版、2013年)以下同】

 人間の家畜化が奴隷化であった。ヨーロッパの隣に位置するアフリカの歴史を見れば一目瞭然だ。

『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 西洋における農業は麦作が中心だった。麦作は畑を耕すために動物の力を必要とした。そして麦作は個人戦で展開することができた──

安田●僕は湯浅さんから教えられたんですが、ムギというのは天水農業の下では個人の欲望を自由に解放できる農作物です。つまり、自分の土地を所有し、水に支配される度合いが少ないために、自分の好きなように土地を耕していけば、それだけ生産性が上がる。ですから個人の欲望を解放しやすいわけです。一方稲作は、いつも水に支配されていますから、個人の欲望は解放しにくい。共同体に属さないことには農耕がしにくいという制約がありますね。

湯浅●水管理には協調性が必要です。

 別の見方をすれば、個人で開墾することができたからこそ、奴隷に任せることも可能であった──

安田●稲作は苗代をつくり、種籾をまき、田植えをし、草取りをし、刈り取るというように、かなり集約的で時期が制限された農耕ですから一所懸命やらないといけない。

石●稲作は技術集約的、かつ労働集約的ですね。

安田●奴隷には任しておけないということですね。ムギとコメはそこに根本的な違いがある。

石●それは面白い。稲作文明で大規模な奴隷が発生した例は思いつきませんね。

湯浅●僕は麦作文明からは、労働の生産性を追求する経済学、稲作文明からは土地の生産性を追求する経済学が誕生したと思っています。前者が今日の近代経済学にも通じる。マルクス経済学も労働の経済性の追求でしょう。労働の生産性というのは、自分以外のエネルギーを自分のエネルギーにしてしまうわけです。初めはウシ、ウマ、いまや石炭、石油になっています。

安田●これはあくまでも「家畜の経済学」ですね。

湯浅●そう。それに対してコメの経済は土地の生産性を重視する。つまり、一定の限界があり、最終的には水の量で決定するわけですね。

石●それと地形ですね。

湯浅●そう。日本の中世文書をご覧になればわかるように、紛争は入会と水をめぐる争いですよ。

 そして牧畜が森を破壊する──

安田●それまで、中世ヨーロッパの農業社会は非常に不安定だった。ところが、稲作農業というのは初期の段階から土地の生産性を生かす方向にいっていますから、非常に循環的だった。ですから、東と西の中世社会を比べてみたときに、日本やアジアの水田稲作農業のほうがはるかに生産性も高かったし、社会的な安定性という面においてもヨーロッパの中世社会よりもよかった。

湯浅●だいたい物質文明は、16世紀まではアジアのほうが高かったわけです。

安田●秋の終わりに家畜を殺して、やっと冬を越していた三圃式農業の悪循環を脱却するために、四圃式農業が登場した。それによって、初めてヨーロッパの農村が近代化への道を歩み出したのです。

石●しかし、家畜を森林に放したために、大規模な森林破壊が起きる。ブタの放牧によって、若芽とドングリを食われて木がなくなってしまう。

安田●もちろんこれもヨーロッパの森林破壊の一つの原因です。それは、もっと前から行われていた。

湯浅●僕は、鉄の破壊力も大きいと思っています。

 最後の「鉄の破壊力」というのは、鉄を精錬するために大量の木を燃やす必要があるためだ。また塩害によって、森を開拓せざるを得ない状況も生まれたようだ。

安田●ヨーロッパへ留学した研究者の多くは、21世紀は個人を解放し、個人が自立しなければならないというわけです(笑)。日本人は個人が自立していない。ヨーロッパ人はきちんと個を確立している、と。
 それはそうですが、逆にいったら個人が勝手気ままにやる社会ということです。これをコントロールしようと思ったら、厳しい法律を決めるしかない。「おまえ、これをやったらおちんちん切るぞ」という厳しい法律で個人をコントロールするしかないのが動物文明です。今の中国は、まさにこの方策を断行するしかない。そうしないと四分五裂してしまう。中国文明も黄河文明がそうであるように、動物文明、家畜文明の性格を強く持っている。

湯浅●僕は、日本的な個は充実していたと思っています。日本社会は西ヨーロッパと同じように、「多数中心社会」だと思っています。一つの中心に集中しないようにしている。たとえば天皇と将軍という複数のシステムができていて、一つが独走しないように常に片手が牽制している構造ができているわけです。 「個が充実してない」というよりも、その仕方が違うのではないでしょうか。日本の歴史で欧米的にいちばん個が充実していた時代は戦国時代です。その後、江戸的な抑制システムに転換していく。あの下剋上の時代こそ、個が充実することによってコミュニティも充実したのではないでしょうか。京都の祇園祭の母体となる「町衆」も戦国時代に誕生しました。

 個人戦によって西洋では過剰な自意識が芽生えた。そこに権利を守る必要が生まれたというわけだ。アメリカが訴訟社会であるのも、人種の坩堝(るつぼ)=多様な価値観が入り乱れているためなのだろう。価値観が異なるのだから「暗黙の了解」という文化は生まれない。

石●人間の欲望を抑制する「装置」は何かと考えたんですが、過去で最も効果的な装置は宗教ですよね。それと、農村社会も多分、立派な装置を備えていたようにみえる。常にお天道様が相手ですから、早稲まきのイネをまいて駄目だったら、すぐに遅まきに切り替える、というふうにいくつも装置がある。農耕社会というのは、常に生き残っていくためには同じ作物を植えないで、半分は収穫は低いけど乾燥に強いものを植えるようなやり方をしている。
 アフリカの農耕社会では、「ムゼー(長老)の知恵」といって、同じトウモロコシでも何種か何回かに分けて種をまきます。あるものは発育が遅いけれども収穫が非常にいい、あるものは早くできても収穫が悪いというように、常に安全装置をみています。
 たぶん牧畜社会では、そうした安全装置がないですから、病気で全部のヤギが死んでしまうと、結局隣の村へヤギを盗りにいくことになる。

 つまり、「生きるための侵略主義」ということになろうか。しかも西洋の連中には一神教の神様までついていたわけだから侵略を正当化するのも朝飯前だ。

 農業を支配しているのは気候である。西洋も稲作をすりゃよかったのに、と言ったところで、雨が少なければそれもかなわない。元々は自生していたのだろうから、突飛な作物を植え付けすることは考えにくい。それこそ畑違いというものだろう。

 我々にしたって、「稲作は循環型だから俺等の勝ちだ」なんて油断していられない。大体、食糧の殆どを輸入しているわけだから、農作物と国民性の相関関係も随分と変わっているに違いない。

 食べ物を自分達で供給しなくなったことによって、我々は根無し草のようになってはいないだろうか? どこで作られたのかもわからない加工食品を食べることで、ひょっとしたら無国籍になりつつあるような気がする。

 取り敢えず今のところは温暖化が進んでいるようだから、しばらくの間は世界の動乱は起こらないことを信じたい。



大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔
あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール
魔女狩りは1300年から激化/『魔女狩り』森島恒雄
日本における集団は共同体と化す/『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平
戦争まみれのヨーロッパ史/『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト
「自然豊かな日本」という思い込み/『森林飽和 国土の変貌を考える』太田武彦

2008-11-15

自分の位置を知る/『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司


 大物同士の対談ということで期待していたのだが、とんだ肩透かしを食らった。初心者向けの内容であった。「ためになる茶飲み話」といった印象だが、それでもキラリと光る言葉が散りばめられている。

佐治●われわれが迷子になるときになぜ不安になるのかというと、自分の位置づけがわからなくなるからですよね。窓際族なんてまさにそれでしょう。その人の位置づけをわからなくさせるってことだから。

【『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫〈さじ・はるお〉、養老孟司〈ようろう・たけし〉(河出書房新社、2004年)】

 理論物理学者がこう言うと、「ほほう、地球が太陽系の軌道を回っているうちは、迷子じゃないってわけですな」と返したくなる。ミクロの世界だと電子の軌道とかね。

 座標軸がなければ自分の位置がわからない。コンパスがなければ進むべき方向も定まらない。

 じゃあ、我々は一体どうやって自分の位置を特定しているのだろう。家族や友人、思想・信条、仕事や趣味といったところか。

 例えば若い時分だと、「母親を悲しませてはならない」と誰もが思う。これなんかは、母親を座標軸として自分の位置関係を確認していることになろう。時に両親を失った若者が捨て鉢な生き方をすることも決して珍しくはない。

 自分へとつながっている“見えない糸”が確かにある。その本数や太さが、確かな自分を築き、人生に彩(いろど)りを添えるのだ。