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2015-10-09

自分が変わると世界も変わる/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

「あれから何かが変わりました。
 それが何かというと、うーん、よく分からないけど、ここ2カ月、心が盛り沢山で、私のキャパを超えていた。体も限界で、体が反応して腸が動いたり、家に帰ってからは脳みそが反応して、頭の中がポップコーン状態で、自分がどこかに行ってしまいそうだった。
 この変化は、先生が言うように、いいことだろうけど、その変化に抵抗してみたりもしていた。
 この1週間、普通の状態が見えていたり、違うものが見えていたりだった。
『解決はあなたの中にあるのでしょう』って先生に言われて、その言葉が残った。
 そうして自分の中に、宇宙が広がった。
 突然、それが現れて、訳も分からず大泣きした。そうだったのかって、今、私がここに『在る』、それだけ。
 今まで何度も本で読んで、そうなのかなと思ってきたけど、それを実際に感じたら衝撃的だった。なんだか花火のしだれ柳みたいにダイヤモンドが降り注いでくるようで、今、ここに『在る』だけで、幸せなんだと思った。そうしたら美術館で急に色彩が押し寄せてきた時みたいに、幸せが押し寄せてきて、受け止めきれなくて、分からなくなった」

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

 ブッダは最後の旅でこう語った。「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)と。やはり「答え」は自分の中にあるのだ。高橋という触媒を得て親からの虐待に苦しみ、のた打ち回ってきた子供の瞳に全く新しい世界が立ち現れる。自分が変わると世界も変わる。「あなたは世界だ」とクリシュナムルティが語った理由もここにあるのだろう。

 それはたった一人に起こった「小さな悟り」である。だが彼女に起こったことは誰にでも起こり得る可能性がある。彼女の変化が私を変え、あなたを変え、そして世界を変えるかもしれない。真の幸福とは「ただ在る」ことだった。その奇蹟を自覚し得ないところに我々の不幸がある。余命を宣告された病人や、特攻に向かう若者の言葉が胸を打つのは彼らが「生きる不思議」を悟っているためだ。

「電車の中で、人がなつかしく見える。世界は今まで以上に、色彩豊かで、ずっと立体的で、厚みがある。みんながんばってそれを生きている。
 筋が見えてきた。道理が立っている。子を叱る大人の筋と、それに抵抗する子どもの筋、しっかり見える。それぞれがんばっているな、と思った。
 以前は人が怖かった。電車が怖かった。親が子どもを叱るのを聞くと、その場から逃げ出した。でも、今は落語を聞いているような感じだ。それはきれいに筋を追っていけるという意味だ」

 新しい世界に立った新しい自分が新しい言葉を放つ。「筋が見えてきた。道理が立っている」とは、愛着関係を結んでもらえなかった彼女がコミュニケーション世界を発見した言葉であろう。視界から恐怖の縞模様が消え去った様子がありありと伝わってくる。

 飲んだり食べたりすることの楽しみと、人にほめてもらうことの楽しみ、その二重の楽しみを官女は飲み会で味わう。生命的存在と社会的存在の二重の楽しみだ。
「世間」というのはもともとは仏教用語で、「出世間」とは社会から離れて悟りを得る意味であるという。被虐者はもともと半分は「出世間」に生きているようなものだった。だから、普通の人よりは社会的存在から離れやすいのかもしれない。
 離れることによって楽しみが二重になる、知ることで世界が広がるのである。
 存在についての探求がここにまで及んでくると、彼らの悩みは被虐待ゆえの悩みを越えて人として生まれてきたことの悩みになり、「普通」と「被虐」の違いを超えた解決にまで到達したように思う。
 これが私が被虐者=異邦人から教えてもらった存在の秘密である。

 しかしながら被虐者は自ら出世間の道を選んだわけではない。彼らは出家者以上に困難多き道を歩んだといってよい。幸福に対する感度は確かに高いだろうが幸福になる確証はない。むしろ不幸と不遇に苦しみ続ける人の方が多いことだろう。

 まだまだ書きたいことはある。それほど心が揺さぶられた一書であった。高橋は立派な精神科医であると思う。精神科や心療内科は玉石混交の世界でデタラメな医者も山ほどいる。高橋と出会わなければ救われなかった患者も多かったことだろう。にもかかわらず私の心の温度は沸点に達しない。被虐者たちの言葉に感動すればするほどナイフのように冷めた思いがよぎる。

 なぜか? 患者と高橋のコミュニケーションがカネを介したものであるからだ。それを恥じる言葉がどこにもない。わかっている。確かに言い過ぎだ。この世は親切やボランティアで食っていけるほど甘い世界ではない。それでも尚私は「カネを支払わなければならない関係性」に一抹の寂しさを禁じ得ないのだ。

 カネは技術に対して支払われる。我々の世界では芸術も音楽も文化も「対価を支払うもの」となってしまった。マネーという通行手形なしで我々は世界を歩くことができない。そんな現実を思い知らされた。たとえ今直ぐ治療すれば助かる命があったとしても優先されるのは支払い能力だ。飢えた人間に施されるパン屋のパンはない。一切は商品なのだ。

「自我があらゆる無秩序の原因ではないでしょうか?」(動画3分39秒/クリシュナムルティ:心の本質 第1部「心理的無秩序の根源」)との問いを思えば、病んだ心は程度問題であって万人に共通するものと私は考える。悩みは尽きることがない。浅い位置で生きている限りは。

2015-10-04

「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 今まで気づかなかった自分を知ることこそが真の「自己受容」になり、それによって古い認知や生き方の中で悩んでいた自分が解放され、治療されるのだ。
 では、心にとって「知る」とはどういうことかといえば、それは、「離れる」ことである。
 子どもが生まれ育った自分の家(住宅)を知るのは、歩けるようになって外から家を見た時である。家から離れて初めて自分の家が友だちの家と違うと分かり、自分の家を知る。何かを「知る」ことは、それから「離れる」ことである。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

 離れなければ見えない、との指摘に眼から鱗が落ちる。37歳の男性の体験談が紹介されている。彼は高橋の指摘で初めて自分が虐待されてきたことを理解した。そして母親に知的障害があることを知った。その日の夜は眠れなかった。妻には「とてもショックなことがあった。でも、それは悪いことじゃないから心配はいらない、もう少し一人にさせておいてくれ」と告げた。男性はベッドで横になったまま次の日も眠れなかった。妻が救急車を呼ぼうとすると「大丈夫だ。心は死んだけど、体は生きているから」と応じた。そのまま4日間もの間、一睡もしなかった。

 ある種の悟り体験といってよい。虐待と知的障害とのキーワードが彼の人生の不可解だった部分を理由のある物語に変えたのだろう。それまでの人生の構成が劇的に転換された。物語には一本の筋が通ったものの、それは悲劇であった。

 幼い日に身につけた自己防衛の術(すべ)が大人になっても尚、認知を歪める。避けることなどでき得なかった矛盾であろう。

「母とのつながり」、愛着関係を信じようとしてきたファンタジーが崩壊した。ないものを「ある」と思って生きてきた。でも、「ない」と分かったら、同時に義務感が消え、自分を責めなくなった。彼を縛ってきた規範がその力を失ったのだ。
 しかし、その代わりに頼るべきもの、人生の指針となるものもなくなった。人生を理解できなくなり、「ただ見ている」という視点だけが残った。宙に浮いた心はただ現実を見ていた。愛着や自己愛や信頼の中から自分と人とのつながりをみ(ママ)るのではなく、そこに戻れない彼は、いつの間にか心理カプセルからも辺縁の世界からも離れて人生を見ていた。

 心は宙に浮いたままであったが、もう一人の自分が実況中継をするようになっていた。つまり彼は誰から教わることなくヴィパッサナー瞑想(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司、宝島社、2004年)を実践していた。クリシュナムルティが説く「見る」とも合致している。

 瞑想とは
 あるがままに ものを見ることであり
 それを超えていくことです

【『瞑想』J・クリシュナムルティ:中川吉晴訳(UNIO、1995年)】

 ところが、どんなにわずかでも、自分を知りはじめたとたんに、創造性のとてつもない過程がすでに始まっているのです。それは、実際のありのままの自分がふいに見えるという発見です――欲張りで、喧嘩好きで、怒って、妬んで、愚かなものなのです。事実を改めようとせずに見る、ありのままの自分をただ見るだけでも、驚くような啓示です。そこから深く深く、無限に行けるのです。なぜなら、自覚に終わりはないからです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 知識や概念、はたまた哲学・宗教を通せば、ありのままの自分は見えない。【あるべき】自分は本当の自分ではない。社会は様々な役割を押し付けるが十分な演技力がないと抑圧される。役が身分を決めるのだ(安冨歩/『日本文化の歴史』尾藤正英、岩波新書、2000年)。

 彼は突然手に入れた自由に戸惑い、そして怯えた。だがその後、全く新たな存在となる。彼は過去から離れ、欲望から離れることで変容したのだ。

2015-09-30

「虐待の要因」に疑問あり/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 母子の愛着関係が成立していれば、虐待は起きない。
 なぜかというと、母親は子どもの痛み、苦しみ、辛さを我がことのように感じてしまうからだ。
 子どもが怪我をして泣いていれば、母親は子ども以上にその痛みを感じてしまうので、わが子に暴力を振るい続けることはできないし(身体的虐待は起こりえない)、子どもが寒がっていれば母親はその寒さを感じてしまうから、自分の服を脱いででも子どもを守る(ネグレクトが起こりえない)。子どもがひどく落ち込んでいれば母親は自分の責任のようにそれを感じるから、「どうしたの」と声をかける(心理的虐待が起こりえない)。まして、女の子の尊厳を潰してしまう性的虐待が起こりそうであれば、母親は命をかけてでも娘を守る(性的虐待が起こりえない)。
 だから、愛着関係が成立しているごく「普通の」家庭では、児童虐待は起こりえないのだ。そして、愛着関係はごくあたりまえの母子関係なので、誰もそれが「ない」ことを想像できない。
 これが、多くの人が虐待を理解できない最大の理由である。
 しかし、愛着関係が成立していない家庭があるのだ。
 愛着関係が成立しない要因はいくつかあるが、その中でもっとも多いのは、虐待をする母親・父親に何らかの精神的な障害がある場合である。具体的には、
  1.知的障害
  2.知的障害以外の発達障害のあるタイプ
  3.重度の精神障害
 などである。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】

 実に危うい記述である。愛着理論というモデルの前提が判断基準になっており、データが一つも示されていない(愛着障害については「ハーローによるアカゲザルの愛着実験」などの異論もある)。たとえ臨床から導かれた結論であったとしても一人の医師が扱う臨床例は数が制限される。高橋は多少それを自覚しているのだろう。「虐待の要因」とせずに「愛着関係が成立しない要因」と書いている。また精神障害と知的障害は異なる。文章の揺れが目立つ。

 この言い分を真に受ければ、虐待を根絶するためには「三者の出産制限」となりかねない。共感能力の欠如と知的障害・精神障害に相関性があるという事実を示さなければ正当とは言い難い。善悪の規範が曖昧という観点から私はむしろサイコパシー(精神病質)度をチェックする方が有効であるように思う。

 例えばアメリカでは「家庭内で一人の子供が虐待される場合、それは父親と似てない子供である確率が高い」というデータがある(『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ、2000年)。中世に至るまでの戦争や紛争で負けた方は男と子供は全員殺され、女は獲得物とされた。要は「敵の遺伝子は滅ぼす」ということなのだろう。「父親と似てない」ことは「他人の子」であるサインと受け止められることは確かにあり得る。

 高橋は被虐者独特の言葉遣い(「死にたい」ではなく「消えたい」など)から彼らの感覚世界が常人とは懸け離れていることに思い至る。そんな彼らを「異邦人」と呼ぶ。この呼称についても私は終始違和感を覚えてならなかった。異なる世界を生きてきたから外国人や宇宙人のように見つめることは差別につながりかねない。異なる世界を生きてきたのは彼らが望んだことではないのだ。彼らはサバイバーであり、鞭打たれた者である。だからといって特に別称で呼ぶ必要はないだろう。

 M・スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』が1996年に刊行され、マリー=フランス・イルゴイエンヌ著『モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない』が1999年、そしてマーサ・スタウト著『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』が出たのが2006年であった。アメリカでは25人に1人がソシオパスと推測された。

 日本社会でもパワハラ、セクハラ、モンスターペアレントなどの言葉が台頭した。サイコパス、境界性人格障害、ソシオパス、アスペルガー障害、発達障害などが広く認知された。個人的にはテレビの影響が大きいと考える。テレビが先鞭(せんべん)をつけ、病める心理を拡大再生産しているように思えてならない。テレビが社会の規範となることでモラルを崩壊する。公器で許されることは家庭でも学校でも社会でも許されてしまう。その意味では、現代のいじめもテレビが発明したものかもしれない。



精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック

2015-09-28

愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 人は、生まれつき愛情を受け取るようにできている。だから、生まれてすぐに赤ちゃんは愛情に反応する。母子関係の最初、この世の存在の出発点だ。しかし、求めていた愛情が受け取れないばかりか、それをあからさまに否定されると、子どもは愛情を受け取ろうとする心にブレーキをかけ、ついにはロックして使えないようにする。期待して裏切られるよりは最初から受け取らないと決めるほうが、苦しみは小さく、生きやすいからだ。
 被虐者に限らず、人の愛情や親切、感謝を、遠慮したり、躊躇したり、時には拒否してしまう心理は誰にでもある。
 しかし、被虐者の場合は、それが人一倍強く、人生全体を支配している。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

 これを愛着障害という。生きるために心を閉ざすのだ。そして三つ子の魂は百まで引き継がれる。幼児期に閉ざした心が開くことは稀だ。なぜなら「閉ざした」自覚がないゆえに。

 39歳の一人暮らしの男性、青井椋二さんが語ってくれた。
 彼は虐待を受けて育った。小さい頃、十分な食事をもらえなかった。もの心ついた頃には、彼は台所の米びつから生の米を食べていた。
「近くに住む叔父の家が農家だったので、家にお米はあったのだと思う。小学校5年生の時、近所のおばさんからお米の炊き方を教えてもらった。自分で炊いて初めて温かいご飯を食べた。すごく柔らかくて甘かった。
 小学校に入る前だったと思うが、台所の引き出しの奥に、破けた即席ラーメンの袋を見つけた。その中には麺のかけらが残っていた。ほんの少ししかなかったけど、とてもうれしかった。まるごとの即席ラーメンを食べられることはなかった。だから、18歳で家を出て、自分で働くようになっても、きちんと袋に入った即席ラーメンは、長い間、僕のご馳走だった。
 20歳の頃、恐る恐る、思い切って、母親に言ってみた。
『小さい頃、食事をもらえなかった』と。
 あの人が何と返事をするかと思ったら、『あんたは食が細かったからね』と、あっさり返された。まったく覚えていないようだった」

 コミュニティは崩壊し、セーフティネットの機能を失った。生米を食べて生きる少年に誰一人気づかなかったとすれば、そこに社会は存在しない。虐待する親というたった一本の線にすがって生きることが唯一の選択肢である。

 少し前に映画『アクト・オブ・キリング』を見た。インドネシアで100万人の大虐殺を行ってきた「英雄」たちが再現映画を制作する。彼らは笑いながら思い出を語る。殺人の効率化を同じ現場で実演し、昂奮に酔って歌い踊る。そして映画のカットを自慢気に孫たちに見せる。終盤に至ってわずかばかりの罪悪感が頭をもたげるが、多分彼らの生き方が変わることはないだろう。

 次回紹介する予定だが高橋は虐待の原因として、親の知的障害・精神障害・発達障害などを挙げている。彼らは共感能力を欠くゆえに子供と愛着関係を結ぶことができないのだろう。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 カウンセリングを受ける中で小学5年生の頃の記憶がありありと蘇る。近所に住む優しいお姉さんがクッキーをくれた。透明の袋は赤いリボンで結ばれていた。そんなきれいなものを見るのは初めてのことだった。お姉さんは「遠慮しなくていいのよ」と声をかけた。彼はお姉さんの手からクッキーを奪うと、地面に叩きつけた。そして「こんなものいらない! いらない! いらない! いらない!」と叫びながらクッキーを足で踏みつけた。

 高橋はこれを「被虐待児の『試し行動』」と解説する。私はそうは思わない。試し行動は一種のテストクロージングであろう。少年の行動は鹿野武一〈かの・ぶいち〉やナット・ターナーと同じものである。

ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン

「その優しさ」を受け入れてしまえば自己の拠(よ)って立つ世界が崩壊するのだ。少年は本能的にクッキーを拒むことで、優しいお姉さんと親の比較を回避したのだろう。穴の深さを知ってしまえば這い上がる気力もなくなる。それほどの深みに彼は位置していたのだ。

 ある地域の保育士によれば、感覚的には1/3から半分くらいの児童に発達障害傾向が見られるという(『ニッポンの貧困 必要なのは「慈善」より「投資」』中川雅之、2015年)。とすると少子化とはいえ子虐待の比率は高まる可能性も考えられよう。私の頭では幼稚園や小学校で定期的に聞き取り調査を行うといった程度の策しか思い浮かばない。



「ママ遅いよ」
【衝撃事件の核心】見逃されたSOS…両親からの虐待で死亡した7歳男児の阿鼻叫喚
「死んじゃう」空腹耐えかね男児万引き 父らに傷害容疑

2015-09-25

虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 彼女は身体的な虐待は受けていなかった。虐待の種類については次章で述べるが、彼女が受けていたのは「心理的虐待」である。心理的虐待は周りに気づかれないだけでなく、子ども自身も気づくことはない。
 心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
 彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、「食事もお弁当も作ってくれた」、「叱られたことはなかった」、だから母親は優しい人だった、と言う。
 心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。叱られなかったのは、子どもに無関心だっただけだろう。しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

 私は幼い頃からものを感じる力が人より強かった。3歳の時、スーパーで見知らぬオバサンに「どうして僕の頭にカゴをぶつけて謝らないの?」と大騒ぎをしたことがあるらしい。もちろん憶えていない。20代になって伯母から聞いた。そのことを父が語ったのは更に20年後のことである。私の父はお世辞にもいい親とは言えない。ただ怖いだけの存在だった。しかし正義感の塊(かたまり)みたいな人で判断を誤ることも殆どなかった。きっと父の影響が幼い私に及んでいたのだろう。

 正義感というのは厄介なものだ。望むと望まざるとにかかわらず周囲に波風を立ててしまうからだ。しかも敏感に不正を感じ取るために誰も気づかないような温度で怒りに火がつく。そして純粋な怒りは速やかに殺意へと向かう。真剣といえば聞こえはいいが、その中身は殺意である。斬るか斬られるかとの判断から「相手を斬る」方向に素早く行動する。もちろん直ぐ斬るわけではない。物事には段階がある。ただ最終的に「斬る」という覚悟は最初から決めている。

 虐待体験だけの寄せ集めであれば私は読み終えることができなかったことだろう。高橋は構成をよく考えている。不眠症の相談に訪れたのは41歳の女性である。彼女は日にちと曜日の感覚が欠落していた。日々の眠りが浅く一日が途切れていないためだった。それが虐待に由来する症状だとは素人には思いも寄らない世界である。

 彼女はいつも緊張し、自分を抑え、母親の顔色をうかがい、先回りして生きてきた。そうしていないと、もっとけなされて見捨てられてしまうからだ。母親は、子どもにいつも無関心なだけなのだが、子どもはそこに必死になって自分の期待を投影しようとする。しかし、母親は反応しない。これでもだめなんだ、ここまでがんばってもだめなんだと、その空回りがまた底なしの恐怖を育て、彼女の心は緊張でいつも震えている。身体的な虐待を受けたのとは違う、真綿で首を絞められるような、恐怖と孤独が心を覆う。恐怖に潰されないために、ぎりぎりで自分を支えるために必要だったのが、「優しい母親」という翻訳である。
 こうして彼女は、幼稚園の頃から不眠症になった。

 脳は因果を求めて物語を形成する。

物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答

 幼子にとって母親の存在は「環境そのもの」である。母親は子供の「生きる場」であり別の選択肢はない。生きることは「母親を頼る」ことを意味する。十分な理性も知識もない幼児が母親の是非を問うことは不可能だ。ダメな親であったとしても受け入れるしかない。逃げることも死ぬこともできないのだから当然だ。そこに「歪んだ解釈」が生まれる。人類初期の宗教と似たメカニズムであろう。

 カウンセリングを通して彼女は虐待の鎖から解き放たれる。生まれて初めて自由を味わった言葉が悟性の輝きを発する。

「先生、私、生まれて初めて『一日が終わる』という体験をしました。一日って終わるんですね」

「眠れるようになったんです。体が楽になりました。生活が変わりました」

「最近、眠るコツが分かりました。ああ、目を閉じると眠れるんだ、と思いました。体の疲れで眠れるという感じがします。体が『重たい』のではなくて、『眠たい』というのがわかりました。眠たいというのは気持ちがいいものなのですね。
 それから、朝起きても肩が重くない。体がこわばっていないんです。『ああ、また朝が来てしまった』という重い気分がないです。眠ると体が軽くなるんですね。
 毎朝、新しい気持ちになって、毎朝、幸せって思います」

 よく生きることはよく死ぬことに通じ、よき一日の生活はよき睡眠につながるのだろう。死んだように眠れる人こそ幸せである。

 一日が、夜に終わって、朝に始まる。その間、完全に意識が消え、時間が途切れる。時計は動き続けていても、人の心の中の時間は夜11時で止まり、朝、6時に新しく始まる。それで、翌朝は前の日とは違う気分になる。だから、一日が終わり、新しい日にちが始まる。
 前の日の心は、前の晩に途切れいている。朝、新しい心が動き出すからこそ、毎日、毎日、という区切りができて日付が変わる。一昨日、昨日、今日ができて日にちが数えられるようになり、1週間の曜日ができあがる。

「虐待を受けている子どもは、『普通の』眠りを知らない」という。彼らの不安や恐怖を思えば当然だろう。今度から児童と話す機会には必ず睡眠状態を確認してみようと思う。

 最後にもう一つ彼女の言葉を紹介しよう。

「辛いことや嫌なことがあっても、1週間経つとそれがあまり気にならなくなって、初めて『過ぎ去る』ということがわかりました」


「死にたい」と「消えたい」の違い/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 当初、私は元「被虐待児」の「消えたい」という訴えを聞いた時に、うつ病と同じように「希死念慮あり」とカルテに記載していた。つまり、抑うつ感の中で「自殺したい」と思っていると解釈していたのだ。
 しかし、その後、「死にたい」と「消えたい」とは、その前提がまったく異なっているのが分かってきた。
「死にたい」は、生きたい、生きている、を前提としている。
「消えたい」は、生きたい、生きている、と一度も思ったことのない人が使う。
(中略)
 被虐待児がもらす「消えたい」には、前提となる「生きたい、生きてみたい、生きてきた」がない。生きる目的とか、意味とかを持ったことがなく、楽しみとか、幸せを一度も味わったことのない人から発せられる言葉だ。今までただ生きていたけど、何もいいことがなかった、何の意味もなかった、そうして生きていることに疲れた。だから、「消えたい」。
「死にたい」の中には、自分の望む人生を実現できなかった無念さや、力不足だた自分への怒り、それを許してくれなかった他人への恨みがある。一方、「消えたい」の中には怒りはないか、あっても微かだ。そして、淡い悲しみだけが広がっている。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】

 人は「思ったように」しか生きられない。いつでも選択肢は自由なようでありながら実は不自由の中を生きている。面白くないことがあると思い悩み、不安や怒りにとらわれ、思考と感情は同じ位置をぐるぐる回る。我々は想念すら自由に扱うことができない。感覚もまた同様であろう。見るもの、聞くものの刺激に次々と反応しているだけだ。

 PTSDなどに代表される「傷ついた心理」の問題もここにある。いじめは行為そのものも悲惨だが、「いじめられた記憶」に苛まれる事後の影響が深刻なのだ。

 虐待され続けた子供たちは「死にたい」と思うことすらできなかった。彼らは人間として扱われてこなかったために自我形成をも阻害されたのだろう。虐待という環境下で自由な発想は生まれない。ただ親から振るわれる暴力に怯え、反応するだけだ。彼らは死のうとする意思まで奪われた。

 自由な感情すら持てなかった彼らの「消えたい」という言葉は「淡い存在」を示し、自己の輪郭すらはっきりと描けなかった事実を物語っている。

 そんな彼らが高橋と出会って変わる。彼らは初めて一個の人間として接してもらった。カウンセリングはコミュニケーションでもあった。人とつながった時、彼らは自分の存在を実感できたことだろう。「私はいてもいいんだ」とすら思ったかもしれない。

 人と人とがつながる。ただそれだけで救われることがある。果たして我々は周囲の人々と確かにつながっているだろうか?

2015-09-23

被虐少女の自殺未遂/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳


『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『生きる技法』安冨歩
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳

 ・被虐少女の自殺未遂
 ・「死にたい」と「消えたい」の違い
 ・虐待による睡眠障害
 ・愛着障害と愛情への反発
 ・「虐待の要因」に疑問あり
 ・「知る」ことは「離れる」こと
 ・自分が変わると世界も変わる

『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 それから何回かの診察を経て、彼はまた突然話しだした。
「先生、僕は右足の爪がないんです」と言った。
「小学校4年の時、言うことを聞かないから、ペンチで剥がされたんです」
 彼は耳を塞ぎたくなる話を、淡々と、他人事のように語った。

【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】

 ページをめくるのに勇気を必要とする本だ。「これはルワンダだな」と思わざるを得なかった。家庭という密室で振るわれる幼児への暴力は、逃げ場のないことを考えると地獄そのものであろう。私の中を殺意が駆け巡った。直接聞いていたら、その場で親を殺しに行くかもしれない。

 高橋によれば被虐児童は苛酷な体験をやり過ごすために離れた位置から自分を見る傾向があるという。離人症解離性障害)になることも珍しくない。それどころか虐待された自覚を持たないケースまである。

 その日、彼女(当時10歳の亜矢さん)の学年は校外学習で工場見学に出かける予定だった。工場は電車に乗って三つ目の駅である。
 亜矢ちゃんは、朝いつもより少し早く起きて、集合場所の駅に向かって歩いていた。
 住宅地の上に大きな青空が広がり、白い雲が二つ、三つ浮かんでいる。気持ちのいい春の日だった。
 ふと空を見上げると、白い雲の間にキラキラと光るものが見えた。彼女は立ち止まった。目をこらして見ていると、それはゆっくり風に乗って亜矢ちゃんのほうに落ちてきた。小さな星が光り、それがいくつも連なって首飾りのように見える。太陽の光を反射して金色や銀色になったり、時々、赤や青の光が混じった。
「なんだろう。きれい……」
 そう思って彼女が近づくと、光もまた彼女のほうに近づいてきた。温かく、すがすがしい不思議なな空気に包まれて、彼女はじっと眺めていた。それはますます大きくなった。そして、とうとう飛びつけば手がとどきそうなところまで降りて来た。
「つかまえられる!」と、そう思って亜矢ちゃんは光に向かって走り出し、最後にポンと飛び上がった。そして、手が首飾りに触れたかと思ったその瞬間、後ろから鋭い怒鳴り声がした。

「危ない! 馬鹿!」
「何やってるんだ!」
 同時に、彼女の体は太い腕に捕まれて、後ろに引き戻された。

 自殺未遂であった。高橋は「幻覚的なファンタジーの中で自殺に至る人は珍しくない」という主旨のことを書いている。それは何に由来するのか。多分、「この世は生きるに値しない」と無意識下で脳が判断した時にドーパミンが噴出するのだろう。亜矢ちゃんは死ななかったが、これ自体が臨死体験といってもいいのではないか。

死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清

 亜矢ちゃんは三つ下の妹と2人姉妹、それと両親との4人家族である。
 小学校2年から一切の家事をさせられていた。夕食の支度と部屋の掃除、それからお風呂の掃除、夕方は、保育園に通っている妹をお迎えに行った。保育園の先生に、「いいお姉さんね」とほめられた。4歳の妹の手を引いて帰宅して、お風呂に入れた。忙しかった。
 家事が終わっていないと、帰ってきた母親に叩かれた。罰として夕食をもらえないこともよくあった。自分が準備した夕食を目の前にして食べさせてもらえない。亜矢ちゃんは痩せた子だった。1日のうちで彼女が確実に食べられる食事は、学校の給食だけだった。だから、学校に行くのは楽しかった。
 それと、本を読むことが彼女の楽しみだった。小学生の頃からずっと、彼女の居場所は玄関の横の板の間だった。そこに座って本を読んでいた。なぜ玄関にいるのかというと、リビングにいる母親から呼ばれたらすぐに動けるように、だ。少しでも返事が遅れると、叩かれた。
「聞こえないのか、何やっていたんだ!」と、ビンタされた。
 だから、「亜矢!」と呼ばれたら飛んでいけるように玄関にいたのだ。
 母親の機嫌を損ねると、髪の毛をつかまれて、振り回された。ごっそりと毛が抜けたことがある。その時は、飛び散った髪を1本1本指で集めてゴミ箱に入れた。床が汚れているとまた叩かれる。雑巾で血のあとを拭き取った。翌朝、鏡を見ながらハゲになったところをヘアピンで隠して、彼女は学校に行った。
「おばあちゃん、もう疲れた。消えたい」
 亜矢ちゃんは、両親が去った後にそう言った。

 祖母は児童相談所へゆく。虐待と判断され、亜矢ちゃんは施設に預けられる。約1年後、母子の再統合が実施され、実母のもとへ戻った。それから以前とまったく同じ暴力と家事労働の日々が再開する。

将来、児童相談所に勤めたいのですが、児童相談所の職員は地方公務員なのですか?:教えて!goo

「No.4」の回答から児童相談所の激務が窺える。当然ではあるが彼らのミスが報道されることはあっても、功績がニュースになることはないと考えてよかろう。しかし、である。こういう仕事は向き不向きがあり、不向きな人々にとっては単なる作業と化すことだろう。教員についても同様で、虐待の可能性を何気ない振る舞いから見抜くこともできないような連中は教職に就くべきではない。そもそも誰も「気づかない」こと自体がおかしい。歩く姿や目の色に必ずサインが出ているはずだ。

 亜矢さんは24歳の時に高橋のクリニックを訪れ、セカンドオピニオンを求めた。前の病院ではうつ病と診断されたが思うように病状が好転しなかった。彼女は著者の前で過去を吐き出した。

「先生、私は4年生の時に、自分がある年齢の『ある日』までは生きている、と決めたんです」。高橋は「その日」がそう遠くはないだろうとの予感を抱く。そして「慢性疲労とうつ病の混在で社会恐怖が見られる」と診断。薬物治療よりもカウンセリングを勧めた。

 その後睡眠薬を中心とする処方に切り替え、睡眠の取り方と生活リズムの作り方が功を奏す。「先生、ぐっすり眠ることができました。ぐっすり、という言葉は知っていたけど、こういうことを言うのですね。6時間も続けて眠れたのは生まれて初めてです」と嬉しそうに伝えた。

 小さい頃から、家では食事にありつければそれだけで幸運だったし、唯一、確実に食べられた学校の給食は、出されたものが全部美味しかった。だから、彼女の中には食べ物の「好き、嫌い」「美味しい、まずい」、何かを「食べたい」という概念はもともとなかった。

 それから少しずつ食事が「楽しみ」と思えるように変わっていった。

「先生、私、あと半年くらいは生きていけます。たぶん、そのくらいはお金が続きます。
 今は、私は幸せです。安心です。こんな気持ちになったのは生まれて初めてです。
 小学校4年の時に、死ぬ日を決めてここまで来ました。今、私は美味しいご飯も食べられるし、暖かい布団もあるし、安心して眠ることも知りました。好きな本も読めます。それから2週に1回だけど、ここで自分のことを話せます。先生に気持ちが分かってもらえます。安心できて、生活ができて、気持ちが通じるってことを知りました。『よくがんばってきたね』と何度も言ってもらえました。これって、幸せです」

「消える」と決めた日まで生きている人生は終わった。

 美味しく食べて、ぐっすり眠れて、誰かと気持ちが通じる――これが幸せであった。彼女は文字通り生命の危機から生き延びたサバイバーであった。幼子であることを踏まえれば大病や災害から生還した人々(『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー、2009年)よりも稀有(けう)な存在だ。幸せとは当たり前のことなのだろう。もともとは「仕合わせ」と書いた。

 我々は幸せに対する感度が鈍くなっているのだろう。そして我々が望む幸せは本当の幸せではないのだ。心が欲望や消費に翻弄されて常に満たされない渇きを抱えている。

 目が見えることも幸せだ。耳が聞こえることも幸せだ。歩けることも幸せだ。呼吸することも幸せである。つまり生きることそれ自体が幸せなのだ。

 蘇生した彼女の言葉は爽やかに人生の真実を教えてくれる。



子供を虐待するエホバの証人/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅

2015-04-28

日本における集団は共同体と化す/『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平


 ・断章取義と日蓮思想
 ・日本における集団は共同体と化す

岸田 つまり日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っているわけですね。

【『日本人と「日本病」について』岸田秀〈きしだ・しゅう〉、山本七平〈やまもと・しちへい〉(文藝春秋、1980年/青土社、1992年/文春文庫、1996年)以下同】

 ま、早い話が親分子分の世界だ。確かにそうだ。後進の育成を我々は「面倒を見る」と表現する。この時点でもう兄貴分だ(笑)。結局、日本の集団は「一家」のレベルに過ぎないのだろう。日本経済をバブル景気まで支えてきた終身雇用制は、まさしく「擬制血縁の原理」が機能していた。

山本 私はね、ヨーロッパが血縁幻想を持つための条件をなくしたとすれば、それは二つあると思っているんです。一つは奴隷制ですね、人間を買ってくる。もう一つは僧院制、これは独身主義です。血縁ができない。したがって、これらは真の意味の組織だけになってくるんです。
 奴隷制度はヨーロッパに唯一神が現れる前から、一種の組織だったんですね。あの時代の自由の概念はきわめてはっきりしていて、契約の対象か売買の対象かで自由民か奴隷かが決まるわけです。ひと口に奴隷といっても、いわゆる技能奴隷、学問奴隷などはムチでひっぱたいてもダメで、報酬を与えないと働かない。その結果、ずいぶん金持の奴隷もいたわけなんです。だけど、金を持っただけでは自由民になれない。奴隷は契約の対象じゃないんですから、いわば家畜が背中に貨幣でも積んでいるような形にすぎないんですね。

「民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に『創られた伝統』に過ぎない」(『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優)としても、やはりヨーロッパには異なる宗教や言語が存在したわけだから「敵」が多かったことは確かだろう。第二次世界大戦に至るまで戦争に次ぐ戦争の歴史を経てきた。それゆえ集団内にあっても徹底的に主張をぶつけ合う。日本のように小異を捨てて大同につくなどということはあり得ない。

岸田 やはりヨーロッパは家畜文化であるというところに、根本の起源があるのかもしれませんね。

山本 そうかもしれません。

岸田 日本には奴隷制はなかったわけですからね。

山本 ないです。「貞永(じょうえい)式目」を見ると人身売買はありますが、ローマのような制度としての奴隷制というものはない。これははっきりしている。

 人間を家畜化したのが奴隷である。

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 日本に奴隷制がなかった事実が、ヨーロッパと日本の帝国主義の違いにつながる。イギリスやフランスは植民地を奴隷として扱った。日本は一度もそんな真似をしたことがない。朝鮮も併合したのであって植民地ではなかった。イングランドとスコットランドのようなものだ。

 ヨーロッパ人がアフリカ人やインディアンに為した仕打ちを見るがいい。キリスト教による宗教的正義がヨーロッパ人の残虐非道を可能とした。アメリカでは黒人奴隷が動産として扱われた(『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン)。

岸田 では、日本の集団はどういう原理で動いているでしょうかね。

山本 ただ一つ、言えるだろうと思う仮説をたてるとしますと、日本では何かの集団が機能すれば、それは「共同体」になってしまう。それを擬制の血縁集団のようにして統制するということじゃないでしょうか。ただ、機能しなくちゃいけないんです、絶対に。血縁集団というものは元来、機能しなくていいんですね。機能しなくても血縁は血縁。しかし、機能集団は別にある。しかし、日本の場合、それは即共同体に転化しちゃう。

 これは日本がもともと母系社会であったことと関係しているように思う。父は裁き、母は守るというのが親の機能であるが、日本のリーダーに求められるのは母親的な役回りである。親分・兄貴分も同様で父としての厳しさよりも、母親的な包容力が重視される。考えてみれば村というコミュニティや談合という文化も極めて女性的だ。

 ま、天照大神(あまてらすおおみかみ)は女神だし、卑弥呼(?-248年頃)という女性権力者がいたことを踏まえると、キリスト教ほどの男尊女卑感覚はなかったことだろう。

 今この本を読むと、意外なことに「日本はそれでいいんじゃないか」という思いが強い。自立した人格の欠如とか散々自分たちのことをボロクソに言ってきたが、寄り合い、もたれ合いながらも、奴隷制がなかった歴史的事実を誇るべきだろう。俺たちは『「甘え」の構造』(土居健郎)でゆこうぜ(笑)。今更、砂漠の宗教にカブれる必要はない。自然に恵まれた環境なんだから価値観が異なるのは当たり前だ。それゆえ私は今こそ日本のあらゆる集団が「確固たる共同体」を構築すべきだと提案したい。

日本人と「日本病」について (文春学藝ライブラリー)
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会津藩の運命が日本の行く末を決めた/『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
シナの文化は滅んだ/『香乱記』宮城谷昌光

2015-03-13

「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 この説によれば、意識は何ら活動しておらず、実際、何もすることはできないという。ハーバート・スペンサー(訳注 1820-1903、イギリスの哲学者)は、厳密な進化論と矛盾しないためにはこのように意識を一段低く見るしかないとした。現実的な実験主義者の多くは今なお彼と意見を同じくしている。動物は進化し、その過程で神経系やその機械的反射作用の複雑性が増す。神経がある一定の複雑性に達すると、意識が生まれ、この世界の出来事をただ傍観者として眺めるだけの、救いのない行動を始めるというのだ。
 私たちの行動は、脳の配線図と、外界の刺激に対する反射作用とに完全に制御されている。意識は配線が出す熱であり、随伴的な現象にすぎない。シャドワース・ホジソン(訳注 1832-1912、イギリスの哲学者)が言うように、意識が持つ感情は、色そのものによってではなく、色のついた無数の石によってまとまりを保っている、モザイクの表面の色にすぎない。あるいは、トマス・ヘンリー・ハクスリー(訳注 1825-95、イギリスの生物学者)がある有名な論文で主張したように、「我々は意識を持つ自動人形である」。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】

 トマス・ヘンリー・ハクスリーは王立協会の会長を務めた人物で、オルダス・ハクスリーの祖父に当たる。彼もまたダーウィンの進化論を支持した。この文章は意識に対する様々な見解を紹介している件(くだり)なのだが、実は意識が「何であるのか」すらもわかっていない。

 ともすると意識を高等なものと考えがちだが、ただ単に意識という反応があるだけなのかもしれない。

 私は毎度書いている通り、「生とは反応である」との持論をもつゆえに異論はない。ただし教育と努力の可能性を考える必要があろう。

 チンパンジーの社会では力の強い者がボスとして君臨する。ボスが老いたり、弱ったりすれば若いオスがボスをこてんぱんにする。文字通り暴力が支配する世界だ。時には2位とそれ以下のチンパンジーが徒党を組んで襲うケースもある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 ヒトの場合ももちろん体が大きくて力の強い者が優位である。子供社会を見れば一目瞭然だ。しかしながらヒトの場合、努力で力に対抗し得る。例えば空手・柔道・システマなどを習えば、その【技術】によって生まれついた力の差を克服できるのだ。

 そして高度に発達した社会では力よりも知性の優れた者が後世に遺伝子をのこす確率が高まる。具体的には人々を動かす政治力であり、時には人を騙す能力となる。「嘘をつく」というのは知的に高度な行為であることを見逃してはなるまい。

 こう考えてみると、教育の本質が「技の獲得」にあることが見えてくる。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 近代の歴史とも見事に符合する。中世以降、宗教が後(おく)れをとったのもここに理由があると思われる。科学的視点を欠いた宗教は「秘伝」を重んじて、「技能」を軽視したのだろう。キリスト教においてはプロテスタントが登場するまで聖書すら「秘伝」であった。これまた16世紀の歴史である。

術とはアート/『言語表現法講義』加藤典洋

 そして中世に「マネー」が生まれた。

マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康

 もちろん貨幣経済は古くから存在したが信用創造という概念はなかった。ユダヤ人の金貸しが発行した預り証が紙幣の原型であり、彼らは更に為替・証券・債権を誕生させ、銀行・保険・株式会社をつくり上げる。

 資本主義は資本がすべてであり、あらゆるものが商品化されるシステムだ。欲望まみれの社会で生き残るのはカネを掴んだ者だ。幸福は金額と化す。我々の生き方や脳はマネーに支配されている。マネーこそは中世以降、完全に世界を征服した宗教といっても過言ではない。単なる約束事であるにもかかわらず、誰もがその存在と価値を信じ込んで疑うことがないのだから。

 現代社会はマネーに対する反応で動いている。そしてグローバリゼーションという名の下で、明らかに経済が政治よりも優位性を強めている。多国籍企業が持つ力は既に国家を凌駕しつつある。

資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

「意識を持つ自動人形」をやめることは可能だろうか? 極めて困難だ。我々が小説や映画やドラマ、漫画などを好むのは、「感情を操られたい」願望がある証拠だろう。学校や企業では「自動」の速度や合理化を競っている節すら窺える。

 ではどうするのか? 「止まる」ことだ。動くのをやめて止まればいい。そして心の動きまで止めてしまう。これを止観(しかん)という。そう。瞑想だ。本当に生きるためには死の淵まで降りる必要がある。瞑想は時間を止める行為でもある。三昧に至れば欲望は洗い落とされる。ま、至っていない私が言うのも何だが。


あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

2015-03-11

認識と存在/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 何世紀にもわたって人々は考察と実験を重ね、時代によって「精神」と「物質」、「主体」と「客体」、「魂」と「体」などと呼ばれた二つの想像上の存在を結びつけようと試み、意識の流れや状態、内容にかかわる果てしない論考を行ない、様々な用語を区別してきた。そうした用語には「直観」(訳注 論証を用いないで対象を一挙に捉えること)、「センス・データ」(訳注 感覚を通じて意識に上るもの。イギリスの哲学者ジョージ・ムーアや同じくイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの用語)、「所与」(訳注 外界から直接与えられるもの)、「生(なま)の感覚」(訳注 経験そのものから受ける主観的な感覚)、「センサ」(訳注 感覚のこと。イギリスの哲学者C・D・ブロードの造語)、「表象」(訳注 頭の中に現れる外的対象の像)、「構成主義者」(訳注 ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ヴントなど)の内観における「感覚」や「心像」や「情緒」、科学的実証主義者(訳注 フランスの哲学者オーギュスト・コントなど)の「実証データ」、「現象的場」(訳注 アメリカの心理学者カール・ロジャース(ママ)が唱えた経験の主観的現実)、トマス・ホッブズ(訳注 1588-1679、イギリスの政治思想学者)の「幻影」(訳注 ホッブズは著書『リヴァイアサン』の中で、人が眠っていると気づかずに見る幻や幻影の話をしている)、イマヌエル・カント(訳注 1724-1804、ドイツの哲学者)の「現象」(訳注 カントは、私たちが経験するのは物ではなくその現象であるとし、現象に客観的現実を認めようとした)、観念論者の「仮象」(訳注 ドイツ観念論の頂点に立つ哲学者W・F・ヘーゲルは、カントの主観的な仮象と客観的な現象の二分法を退け、仮象も本質の現れであるとした)、エルンスト・マッハ(訳注 1838-1916、オーストリアの物理学者、哲学者)の「感性的諸要素」(訳注 マッハは、世界は色や音などの感覚的諸要素から成り立っていると考えた)、チャールズ・サンダース・パース(訳注 1839-1914、アメリカの論理学者)の「ファネロン」(訳注 パースの造語で、現象を意味する)、ギルバート・ライル(訳注 1900-76、イギリスの哲学者)の「カテゴリー・ミステイク」(訳注 ライルは、別のカテゴリーに属するものを同等に論ずることはできないとした)などがある。しかし、これらすべてをもってしても、意識の問題はいまだに解決されていない。この問題にまつわる何かが解決されることを拒み、しつこくつきまとってくる。
 どうしても消え去らぬのは差異だ。それは他者が見ている私たちと、私たち自身の内的自己観やそれを支える深い感覚との差異、あるいは、共有された行動の世界にいる「あなたや私」と、思考の対象となる事物の定めようのない在りかの差異だ。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】

 哲学の世界では近代から現代にかけて「認識論から存在論へ」という流れがあり、第一哲学へと回帰した。ところが1990年代に花開いた脳科学からは認知科学が実を結び、心理学もこれを追随している。

「『在る』とはどういうことか?」とパルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-?)は考えた。「万物は流転する」(ヘラクレイトス)。変化するものを「在る」とすることはできない。彼はそう考えた。まったく厄介なことを考えたものだ。そこからイデアや創造神に向かうのは必定である。「在るものがあるはずだ」ってなことだ。

 仏教において人間の存在は五蘊(ごうん/色・受・想・行・識)という要素が構成するものとして見る。考えるのではない。見るのだ。色蘊(しきうん)は肉体、受・想・行・識はそれぞれ、感受・表象・意志・認識作用を意味する。自我を構成するのは五蘊であり、更に深く潜ると無我に至る。そして世界は無常を奏でる。一生という限られた時間の運動は認識に極まる(唯識)。ということは何もないのか? いや、ある。縁起という関係性があるのだ。

 西洋哲学が存在に固執するのは神(≒自我)への愛着から離れることができないためだろう。言葉をこねくり回して難しさを競うよりも、素直に仏教を学ぶべきだ。

2014-09-01

ヨーロッパの拡張主義・膨張運動/『続 ものぐさ精神分析』岸田秀


『ものぐさ精神分析』岸田秀

 ・現代心理学が垂れ流す害毒
 ・文明とは病気である
 ・貧困な性行為
 ・ヨーロッパの拡張主義・膨張運動

『唯脳論』養老孟司

 実際、この伝染病(※=ヨーロッパ文明)の基本要素である、他人(他の生命)を単なる手段・物質と見るあくなきエゴイズムと利益の追求、不安(劣等感、罪悪感)に駆り立てられた絶対的安全と権力の追求、最小限の労力で最大限の成果をあげようとする能率主義は、いったんその方向に踏み出せば、そのあとは坂道をころげ落ちる雪ダルマのような悪循環がかぎりなくつづくのみである(原水爆は、ヨーロッパ近代的自我の確立、エゴイズムと能率主義の必然的帰結である)。どこにも歯止めがない。そして無菌者は必ず保菌者に負け、同じ保菌者になるか(日本)、滅び去るか(インディアン)、あるいは閉じこもって難を避けるか(未開民族)しかない。歯止めのないこのヨーロッパ文明に歯止めをかける文明が現われ得るであろうか。それとも人類は悪循環の果てに奈落の底に落ち込むのであろうか。

【『続 ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)】

 ヨーロッパの拡張主義・膨張運動はアレクサンドロス大王(紀元前356-紀元前323年)に始まり、十字軍(1096-1272年)、大航海時代(15世紀半ば-17世紀半ば)を経て、産業革命(18世紀半ば-19世紀)・資本主義経済に至り、帝国主義植民地主義を生んだ。

 その歴史的な結晶がアメリカであると考えてよい。新自由主義は世界各国に壊滅的なダメージを与え(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン)、サブプライム・ショック~リーマン・ショックとなって破裂した。こうしてシカゴ学派は敗れ去った。大銀行は国家の資本注入によって辛うじて生きながらえた。先進国という先進国が社会主義色の強い保護主義に舵を切った。

 それにしても「無菌者は必ず保菌者に負け、同じ保菌者になるか(日本)、滅び去るか(インディアン)」との指摘が手厳しい。平和的な民族は必ず攻撃的な民族によって滅ぼされる。

 本来であればアメリカやEUに対抗し得るアジア・ブロックを形成すべきだとは思うが、中国と韓国の反日感情がそれを許さない。中国の共産党支配を引っくり返すか、日中戦争になるかはこの10年ではっきりするだろう。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

2014-08-29

軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤り/『ものぐさ精神分析』岸田秀


宗教とは何か?

 ・唯幻論の衝撃
 ・吉田松陰の小児的な自己中心性
 ・明治政府そのものが外的自己と内的自己との妥協の産物
 ・軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤り

『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 日本にペリー・ショックという精神外傷を与えて日本を精神分裂病質者にしたのも、日本を発狂に追いつめたのもアメリカであった。そのアメリカへの憎悪にはすさまじいものがあった。この憎悪は、単に鬼畜米英のスローガンによって惹き起こされたのではなく、100年の歴史をもつ憎悪であった。日米戦争によって、百年来はじめてこの憎悪の自由な発現が許された。開戦は内的自己を解放した。
 軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りである。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教えこまれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではない。この戦争は国民の大半が支持した。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であった。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう。

【『ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)】

 特定の思想・信条・宗教を持つ者は必読のこと。岸田唯幻論に価値観を揺さぶられるのは確実だ。吉本隆明が『共同幻想論』(河出書房新社、1968年)で国家というシステムは共同幻想であると説いたが、岸田は価値観そのものを幻想と捉えている。

 抑圧された感情は消えることがない。意識から無意識へと追いやられても超自我となって自我に影響を及ぼす。

 黒船来航を「強姦」と表現したのは司馬遼太郎であった(『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー:トレヴィル、1986年)。そこから太平洋戦争敗北に至るまでの日本を一人の人格と見なして岸田は精神分析を試みた。

 黒船来航(1853年)から88年後に太平洋戦争(1941年)が始まった。1945年の東京大空襲と原爆投下は日本人のメンタリティをずたずたにした。東京裁判を経て戦後教育が自虐史観を植えつけても抑圧された感情は消えることがない。そして今まさに日本国民は歩調を揃えるようにして右方向へ歩みつつある。

 何事においても責任を自分の外部に求めることは、その容易さゆえに自分を変革することがない。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

2014-08-07

唯識における意識/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 この研究所の中心を成す考えの数々を初めて公に概説したのは、1969年9月にワシントンで行なった米国心理学会の招聘講演でのことだった。(プリンストン大学にて、1982年)

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(原書、1976年/紀伊國屋書店、2005年)以下同】

宗教とは何か?」の順番で読むことが望ましい。副読本については「手引き」を参照せよ。

 当然ではあるが意識は宗教と歴史の発生に深く関わっている。ジュリアン・ジェインズの主張は実に刺激的だ。3000年前の人類に意識はなく左右の脳は分裂状態に置かれていた。当時の人類は右脳が発する神の声に従う自動人形であった。そして脳が統合され意識が誕生する。と同時に神の声は聞こえなくなった――というもの。つまり人類全体が統合失調症だったわけだ。

 とすると宗教は右脳から生まれ、左脳で教義に置き換えられたと考えることが可能だ。しかし悟りは論理ではない。牽強付会を恐れず申せば教義(論理)から悟りに至ることは不可能だ。

 ジュリアン・レインズはゾウリムシが学習できるのであれば意識があるに違いないと考えていた。この思い込みの誤りに気づいたのは数年後のことだった。

 その理由は、言わばある大きな歴史上の強迫観念の存在にある。心理学にはこうした強迫観念が多い。心理学を考える上で科学史が欠かせぬ理由の一つは、それがこうした知性の混乱から逃れ、それを乗り越える唯一の方法だということだ。18世紀から19世紀にかけて心理学の一学派を成した連合主義(訳注 あらゆる心理現象を刺激と反応の関係で説明しようとする考え方)は、あまりにも魅力的に提示された上に、高名な学者多数に擁護されていたため、この学派の基本的な誤りが一般の人びとの考え方や言葉にまで浸透してしまった。当時ばかりか今なお残るその誤りとは、意識は感覚や観念などの要素が占める実際の空間であるという考え方、そして、これらの要素は互いに似通っていたり、同時に起きるように外界によって設定さていたりするから、これらの要素間の連合こそ学習であり、心であるという考え方だ。こうして、学習と意識は混同され、曖昧極まりない「経験」という用語と同一視されるようになった。

 著者は「学習の起源と意識の起源は異なる」としている。私の「人生とは反応の異名である」という考え方は連合主義と同じだったのね。

 唯識だと五感を統合するのが意識で、自我意識は末那識と立て分ける。認識作用を中心に展開しているため学習と意識という対比はない。学習はむしろ十界論の声聞界・縁覚界として捉えるべきだろう。

 統一された脳から論理が生み出され、正義と不正の概念から意識が芽生えたのかもしれない。我々は一日の大半を無意識で過ごしている。意識的になるのは社会的な場面で自分の権利に関わる時であろう。



サードマン現象は右脳で起こる/『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
戦後に広まった新興宗教の秀逸なルポ/『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2014-04-16

カウンセラーのパーソナリティ/『カウンセリングの技法』國分康孝


コミュニケーションの技法
・カウンセラーのパーソナリティ

『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス

 カウンセリングの技法というものは、カウンセラーのパーソナリティの表現でなければならない。心の中では人を軽蔑しながらも、口先だけで「うんうん」と受容するのは欺瞞的である。心の中と表現(技法)とが一致するのでなければならない。

【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】

 國分の動画を見つけた時は昂奮した。線のくっきりした顔つきであるにもかかわらず柔和だ。話し方も頗(すこぶ)る優しい。さすがカウンセラーである。そして何と言っても高名な人物に特有の傲然とした雰囲気がない。ありのままの人柄が伝わってくる。

「カウンセリングの技法で問われるのは、お前さんの性格だよ」と國分は言い切っている。医師と患者は対等な関係ではない。困っているのは患者だ。意識するとしないとにかかわらず上下関係が構築されやすい。同じ言葉であっても人によって響き方がまるで違う。そこに心の不思議な作用がある。國分は技法とパーソナリティが一体化する条件を四つ挙げる。部分的に紹介しよう。

【人好き】人好きの人間とは、自分を好いている人間である。自己嫌悪の強い人は他者嫌悪も強い。人の好き嫌いの激しい人は自分への好き嫌いも激しいはずである。
 カウンセリングは人の面倒をみる仕事であるから、人好きでないと永続きしない。負担になってくるからである。自分を好くとは自己受容のことである。あるがままの自分を受け入れることである。たとえば、ケチな自分をとがめているとケチな相手をもとがめたくなる。ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる。(後略)

【共感性】(中略)共感性はクライエントと類似の感情体験があるとき生じてくる。それゆえ、カウンセラーは日常生活でできるだけ多様な感情体験をしておくのがよい。多種多様な人とつきあう、多種多様な状況に身をおいてみる、多種多様な読書をするなどである。苦労は買ってでもせよということになる。実戦を知らない作戦参謀にはなるなということである。共感性なしに面接技法を用いるとき、それは会話術に堕してしまう。

【無構え】カウンセラーが四角四面なパーソナリティでは来談者もリラックスできない。カウンセラーは酒を飲んでいないときでも、酒に酔ったときのような心境でなければならぬ。すなわち、天真爛漫、天衣無縫でなければならぬ。防御がなければないほど好ましい。(後略)

【自分の人生】カウンセラーは自分の人生をもたねばならない。自分の人生をもたないものは、他人の人生を自分の人生のようにみなしてつい深入りしてしまう。自分の人生がない人は、ややもすると人が幸福な人生を築くと嫉妬しがちである。自分の人生が幸福なとき、初めて人の幸福が喜べるのである。(後略)

 実にわかりやすい話である。現場の体験から導き出された智慧といってよい。相談される機会が多い人ならピンとくるはずだ。互いが心を開けばこそ、胸を打つ対話が成り立つのだ。コミュニケイトとは「通じ合う」ことだ。開かなければ通じない。

 行き詰まりとは先に進めない状態を指す。苦しい胸の内を開き、「そうか――」と話を聞いてあげるだけでもパッと光が差すこともある。苦悩には目方がある。その重みにこちらがしっかりと踏みこたえることができないと、単なる苦悩の二重奏で終わる。私はルワンダ本を読んだ時にそうなった。深海に引きずり込まれたような心境であった。その状態が1年以上続いた。

 多くの人が人生で最大のストレスを感じるのは家族や伴侶の死である。この時、物語化に失敗すると立ち直ることが難しくなる。特に不慮の事故や痛ましい事件の巻き添えとなった場合、理窟で乗り越えることは不可能だ。その意味からも山下京子河野義行の著作を読んでおくべきだ。

 人生どんな出会いがあるかわからぬものだ。だからこそ人との出会いを求めて貪欲に行動することが正しい。今はネットもあるのだから、有効な武器として活用すべきだろう。

國分康孝の談話室


Ph.D國分康孝教授の最終講義
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝

Ph.D國分康孝教授の最終講義




國分康孝の談話室
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝

2014-04-14

コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝


・コミュニケーションの技法
カウンセラーのパーソナリティ

『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス

 まず第一に、カウンセリングは「行動の変容」を目標にする。人間が人間を治すとか変えるとかするのは高慢である。われわれにできることは相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことであるという人がいるかもしれぬ。しかし、反論したい。何のために共感したり理解的態度を示そうとするのか。それはそのことにより相手を助けることができるからである。助かることができるとは、相手の行動の変容に効果があるということである。「いや、そうではない。効果など計算してはいない。そうせずにおれないからそうするのだ」というならば、それはプロフェッショナルな面接とはいえない。一定時間、一定場所で料金をとって面接するからには何らかの目的がなければならぬ。目的なしに料金をとるわけにはいかない。「治すのではない、非審判的・許容的雰囲気をつくるだけだ。あとは来談者が勝手に自己を変えていくのだ」といったところで、やはり非審判的・許容的な雰囲気をつくる目的を問うならば、それは行動変容の条件として不可欠だからということになろう。それゆえ、カウンセリングは学派の如何を問わず行動の変容を目指すものといえる。では、行動の変容とは何か。反応の仕方に多様性がでてくることである。今まで父にビクビクしていた人が、父に適当に冗談が言えるようになり、上司にビクビクしていた人が、上司に「ハイわかりました」と言うだけでなく、「……ですね」と復唱して確認しておけばよいという具合に、今までとは異なる反応を学習することである。この場合、反応の仕方といっても、たとえば異人種に対する偏見のような心の中の反応と、飲酒・喫煙・麻薬常習・盗みというような外的に観察しうる反応がある。カウンセリングは、この両者の反応の変容を目指すものである。
 では、行動の変容を目指すカウンセリングはいかなる手段をとるのか。それは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションである。つまり、音声言語のやりとりや身体言語のやりとりを通して行動の変容を促進しようとするのである。

【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】

 1月にパソコンを新調したのだが、ホームページ作成ソフトのCDが見つからないため更新が滞っている。で、探すのも更新するのも面倒なんで、ブログに「必読書」のカテゴリーを設けた。読書の道標(みちしるべ)になれば幸いである。せっかくなんで心理学の必読書を以下に示しておこう。

精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』
現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』
極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 岡田尊司〈おかだ・たかし〉著『マインド・コントロール』を加える予定。

 そして本書である。凡百のマネジメント本が100冊束になってもかなわない一書である。「コミュニケーションの技法」として読むことが可能だ。上記テキストからも明らかなように國分は実務家である。たぶんカール・ロジャーズの名を借りて来談者中心療法を悪用するカウンセラーが多かったのだろう。因みに患者をクライアント(来談者)と呼んだのはロジャーズを嚆矢(こうし)とする。

 ロジャーズの手法は高度にシステム化されており、カウンセラーの意志力なくして実践は難しい。悪用するつもりがなくても、結果的に患者を野放しにすることも容易に想定できる。ま、閉ざされたスペースで適当に仕事をしている心療内科が多かったのだろう。國分は同業者に対して「仕事をせよ!」と呼びかけたのだ。

 具体的なやり取りも紹介されていて、これが大変参考になる。とにかく無駄な理論や理屈がない。どこまでも具体性に基づき、効果を検証する。臨床の鑑(かがみ)だ。

 影響を受けた人物として霜田静志〈しもだ・せいし〉を筆頭に挙げている。

 私が20代の頃であった。私より年上のクライエントが私の言うとおりに動いてくれて、私も何かえらくなったような気持だという意味のことを言った。「國分君、それはね、君に頭を下げているのではないよ。君の学問に頭を下げているのだよ。それを忘れちゃだめだよ」と霜田静志は私を諭した。

 こういうエピソードをさらりと書けるところがまた憎いではないか。

 ビジネス、スポーツ、教育で人を育てる機会がある人は必読のこと。テクニックが身につくというよりも、コミュニケーションの幅が広がる。


 私は、面接のほかに読書をすすめることがよくある。自分の正当性を主張してやまない母親には霜田静志の『叱らぬ教育の実践』(黎明書房)をすすめる。生徒に好かれない教師にはニイル『問題の教師』(黎明書房)をすすめる。自分の問題点に気づきカウンセリングへの意欲を高めるのがねらいである。簡便法の一つの試みである。効果は今のところ半々である。人生計画もなく留年や登校拒否をしている青年には井上富雄『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)をすすめる。これは一念発起のきっかけになるようである。


 カウンセリングをする場合の著者を支えている本として以下が紹介されている。

新版 ニイル選集〈1〉問題の子ども新版 ニイル選集〈2〉問題の親新版 ニイル選集〈3〉恐るべき学校

新版 ニイル選集〈4〉問題の教師新版 ニイル選集〈5〉自由な子ども五輪書 (岩波文庫)

Ph.D國分康孝教授の最終講義
國分康孝の談話室

日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー


岸田●ペリーがきたというのが、アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。

バトラー●文化に対する強姦ということは言えるんでしょうかねえ。

岸田●その理論的根拠については僕の書いた本のなかに述べておりますが、僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。

バトラー●そのつもりでしたね。

岸田●アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じ籠もっていた古い日本を近代文明へと拓いた、むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。

バトラー●(省略)

岸田●ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわばある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲よくしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。

【『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年青土社、1992年/河出文庫、1994年)】

 ケネス・D・バトラーは東洋言語学博士でアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの所長を務めた人物。岸田の対談集はどれも面白いが本書の出来はあまりよくない。

 私はペリー強姦説が岸田のオリジナルだと思い込んでいたので司馬遼太郎の名前を見て驚いた。

 ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。

【『近代の拘束、日本の宿命』福田和也(文春文庫、1998年)】

 つまり強姦された挙げ句に、白人の家へ嫁入りさせられてしまったわけだ。そう。先進国一家だ。

 憂鬱になってくる。強姦した相手が金持ちであったために結婚生活が何となく幸福に見えてしまう。日本の経済発展の底流にはそういう心理的な誤魔化しがあったのだろう。で、怒りの矛先はアメリカではなく中国や韓国に向かう。まったく捻(ねじ)れている。

 しかも、黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。現在、その捕鯨で我が日本は白人どもから叩かれている(有色人捕鯨国だけを攻撃する実態)。

「強姦」は喩えではない。アメリカ人は黒人奴隷やインディアンを実際に強姦しまくっている。ノルマンディー上陸作戦においては白人をも強姦している(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。奴らのフロンティアスピリットとは強姦を意味するのかもしれない。

「世界の警察」を自認するアメリカは強姦魔であった。民主主義が有効であるならば、アメリカは倒されてしかるべき国家だ。



黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典
意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2014-03-29

すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ


 あなたの存在を今支えているのが何か知っていますか?
 その表面をちょっと撫でてみるために、例えば、あなたが朝食を終えて、お気に入りの椅子に座り、この本を取り上げたと想像してみましょう。あなたの首と肩が、頭を支えています。胸の骨と筋肉が呼吸を支えています。椅子があなたの身体を支えています。床が椅子を支えています。地球が、あなたの住んでいる建物を支えています。いろいろな恒星や惑星が、地球の軌道を支えています。窓の外では、男性が犬を連れて道を歩いています。この男性があなたを何らかのかたちで支えていないと断言できますか? 彼は、あなたの家に電気を供給している会社で、書類整理の仕事をしているかもしれませんよ。
 道にいる人たちの中で、そして、その背後で働いている、見えない無数の人たちの中で、あなたの存在を支えていない人がいると断言できますか? 同じ質問が、過去に生きていた先祖たちにも、また、朝食と何かの関係があったさまざまな動物や植物にも当てはまります。どれほど多くの起こりそうもない偶然が、今のあなたを作りだしたのでしょうか!

【『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ:水島広子訳(創元社、2007年)以下同】

 バイロン・ケイティの『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』(旧訳は安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)に続く2冊目の著作。

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 装丁と訳文が明らかに女性向けとなっている。原書に由来するのかどうかは不明。「訳者あとがき」によれば、バイロン・ケイティは元々重度のうつ病だった。摂食障害の社会復帰センターへ入所したのは彼女の保険がそこしか適用できなかったためだという。「自分はベッドに寝る価値もない」と彼女は床で寝ていた。ある朝、目を覚ますと世界は一変していた。自分を苦しめているものは「現実」ではなく、「自分が信じている考え」であることに気づいたのだ。うつ病というプロセスを経てバイロン・ケイティは悟った。

 私を支えているものに気づくことは現実を知ることでもある。この相依相関の関係性をブッダは縁起と説いた。バイロン・ケイティの目はありのままの縁起世界を見つめている。「支えられた自分」を自覚する時、人は自(おの)ずから「支えよう」とする方向を目指す。「私」という存在は「支えられている重み」を実感する中にあるのだろう。

 グローバリゼーションの時代にあってはテレビに映る外国人すら自分と関係があるかもしれない。その人たちが輸入品の製造や収穫をしている可能性がある。今目の前にあるパソコンも、部品や部材をたどってゆけば数百人、数千人の人々につながっていることだろう。


 すべてのものがあなたを支えているのです。あなたがそれに気づいていようといまいと、考えようと考えまいと、理解しようと理解しまいと、それを好きであれ嫌いであれ、あなたが幸せであろうと悲しかろうと、眠っていようと起きていようと、やる気があろうとなかろうと、支えているのです。お返しに何かを要求することなく、ただひたすら支えているのです。

 これを生きる中で自覚しているのはインディアンだけだろう。彼らは大地に感謝を捧げ、恵みを享受する。インディアンに富という概念はない。彼らは必要最小限を自然から分け与えてもらい、必ず正しい行為に使うことを約束する。ブッダとクリシュナムルティの思想を生きるのはインディアンである。彼らの生は完全に自然と調和している。それゆえ私は密教(日本仏教)のスピリチュアリズムは否定するが、インディアンのスピリチュアリズムは肯定する。ひょっとすると同じ文化がアイヌや沖縄、エスキモーにもあったのかもしれない。

「私」という言葉を、「私の考えは」に置き換えることが、気づきをもたらすこともあります。「私は敗北者だ」は、「私の考えは敗北的だ。特に自分自身についての考えは」となります。(中略)痛みをもたらすのは考えであり、あなたの人生ではありません。

 我々は思考に囚われている。身動きもままならないほどに。ブッダやクリシュナムルティの教えですら我々は思考で受け止める。バイロン・ケイティは思考から離れた。まさに独覚(どっかく=アルハット=阿羅漢)である。世界を変えるためにはブッダの教えを広めるよりも、人類全体がインディアンを目指すべきなのかもしれない。

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問

2014-02-07

殺人を研究する/『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン


 貴公子や高僧はかつらをつけた御者に戦車を操らせ、
 昂然と桂冠を戴いて時代の栄華を味わう。
 その足元で、見下され、見捨てられ、槍に取り囲まれた男たち。

 傷だらけの軍にあって死ぬまで戦う者たち、
 戦場の埃と轟音と絶叫に茫然と立ちすくむ者たち、
 頭を割られ、目に流れ込む血をぬぐうこともできぬ者たち。

 胸に勲章を飾った将軍たちは王に愛でられ、
 威勢のよい馬にまたがり、高らかにらっぱを鳴らして行進する。
 その陰で、泥にまみれて城を攻め、無名のまま死んでゆく若者たち。

 だれもが美酒と富と歓楽を謳い、
 堂々たる美丈夫の君主を讃えようとも
 私は土と泥を謳い、埃と砂を謳おう。

 だれもが音楽と豪華と栄光を愛でようとも、
 私は一握の灰を、口いっぱいの泥を謳おう。
 雨と寒さに手足を失い、倒れ、盲いた者どもを讃えよう。

 神よ、そんな者どものことをこそ
 謳わせたまえ、語らせたまえ――アーメン

ジョン・メースフィールド「神に捧ぐ」

【『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン:安原和見訳(ちくま学芸文庫、2004年/原書房、1998年『「人殺し」の心理学』改題)以下同】

 巻頭で「献辞」として紹介されている詩である(一般的な表記はジョン・メイスフィールド)。

 いつの時代も戦争を決めるのは老人で、若者が戦地へ送り出される。手足が凍傷するのは内蔵を守るためだ。我々は国家という人体の手足に過ぎない。あるいは伸びた分の爪かも。

 30cmに満たない足の裏が人体を支える。最も高い位置にあるのは頭だ。「頭(ず)が高い」とはよくいったもので、他人の頭を下げさせるところに権力有する根源的な力がある。

 戦争とは国家が人殺しを命令することだ。他者の命を奪うことが最大の罪であるならば、それ以下の罪――強姦・傷害・窃盗など――は容易に行われることだろう。しかも現代科学は瞬時の大量殺戮を可能にした。

 ハードカバーの書影は射殺された兵士の写真。頽(くずお)れて不自然な格好で息絶え、モノクロ写真であるにもかかわらず粘着性のある血糊(ちのり)が生々しい。

「人殺し」の心理学

 なぜ、殺人について研究しなければならないのか。セックスについて研究すると言えば、やはり同じように、なぜセックスを? と問われるだろう。この二つの問いには共通する部分が多い。リチャード・ヘクラーらはこう指摘している――「神話では、アレス(戦争の神)とアプロディテ(美と愛の女性)の結婚からハルモニア(調和の神)が生まれた」。つまり平和は、性と戦争とをふたつながら超克してはじめて実現するものだ。そして戦争を超克するためには、少なくともキンゼー(米国の動物学者。人間の性行動の研究で有名)やマスターズ(米国の婦人科医。男女の性行動の研究で有名)やジョンソン(米国の心理学者。人間の性行動について研究)のような真摯な研究が必要である。どんな社会にも盲点がある。直視することが非常にむずかしい側面、と言い換えてもよい。今日の盲点は殺人であり、1世紀前には性だった。

 キンゼーはアルフレッド・キンゼイで、他の二人はマスターズ&ジョンソンのウィリアム・マスターズとヴァージニア・ジョンソンだろう。名前表記の不親切さが気になる。著者名もデイヴとすべきではなかったか。

 もうひとつ見逃せない記述がある。

 かつてロバート・ハインラインはこう書いた――生きる喜びは「よい女を愛し、悪い男を殺すこと」にあると。

 性も暴力も接触行為である。ただ力の加減が異なる。人間の愛情と憎悪が同じ接触に向かう不思議。ハインラインの言葉は男の本性を巧みに言い当てている。

 本書によれば普通の人間は殺人行為をためらう傾向があり、戦場で殺人を忌避する行動が数多く見られるという。そりゃ当然だ。同類なのだから。しかし物語のルールを変更すれば人間はいくらでも殺人が可能となる。魔女狩り、インディアン虐殺、黒人リンチ、ルワンダ大虐殺……。

 ゆえに米軍では敵国人をゴキブリ呼ばわりし、徹底的に憎悪することを訓練してきた。

 個人的にはシステマティックに戦争を考えるよりは、フランス・ドゥ・ヴァールのようにヒトの本能から捉えた方が人間の本質に迫れると思う。

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)