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2016-03-04

ピアノを弾く特攻隊員/『月光の夏』毛利恒之


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎

 ・ピアノを弾く特攻隊員

『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 彼らは公子にむかって上体を折り敬礼した。
「自分たちは三田川(みたがわ)から来ました。目達原(めたばる)基地の特攻隊のものです」
 公子は息をのんだ。
「あす、発(た)ちます。時間がありません。お願いであります。ピアノを弾(ひ)かせてください。こいつは上野の音楽学校のピアノ科の学生だったんです」
 涼(すず)やかなまなざしの明るい活発な感じの隊員が、長身のやや神経質な面ながの隊員を紹介した。長身の隊員はうなずき目礼した。
「死ぬまえに一度、思いっきり、ピアノを弾かせてください」
 公子は、言いようのない衝撃を受けて、胸がつまった。(中略)
 ふたりの隊員たちは、特攻出撃を間近にひかえて、グランドピアノを探しまわったという。おおかたの学校にはオルガンしかなかった。めずらしく鳥栖の国民学校にグランドピアノがあると聞いて、彼らは三田川から十二、三キロの道のりを長崎本線の線路づたいに走るようにしてやってきたのだった。(中略)
 長身の隊員は椅子にかけると、両の手の細い指を鍵盤に走らせた。音がはずみ、舞い、おどる。これまでピアノにふれることもできず、抑えにおさえてきた気持ちが、音色とともに一気にほとばしり出ているように公子は感じた。
「先生、なにか楽譜はありませんか」
 隊員にいわれて、公子はピアノ曲集をさしだした。
「いまベートーヴェンの『月光』を練習しています。この楽譜しかないのですが」
「では、『月光』を弾きましょう。先生、あなたの耳に残しておいてください」
 隊員は楽譜を開いた。ピアノにむかい、姿勢をただすと、鍵盤に両の手の指をそえる。呼吸をととのえ、宙に視線を止めた。万感の思いをひめた瞳が光をおびた。
 沈んだ音色につつまれた幻想的なメロディーが、ゆるやかに流れでる。ピアノ・ソナタ第14番嬰(えい)ハ短調『月光』第1楽章(アダージョ・ソステヌート)……。
 闇の雲間からもれる月の光のように、ときにほの明るく、あるいは暗く、沈鬱に流れる調べは、熱情を潜めてリフレインし、やがて静かに高揚する。隊員はときおり祈るように瞑目し、ひたむきに弾きつづけた。
(ピアノが歌っている!)
 公子は胸をうたれた。すばらしい、こんな演奏は初めて聴く、と公子は思った。
 もうひとりの隊員が上手に楽譜をめくった。彼もまた、音楽に関係していたのだろう。
(たくさんのひとびとをまえに演奏会をなさりたかったろうに……)
 あすにも死地へ出撃しなければならない、このピアニスト志望の青年の胸中を思うと、公子は悲痛な思いに胸をしめつけられた。

【『月光の夏』毛利恒之〈もうり・つねゆき〉(汐文社、1993年/講談社文庫、1995年)】

 涙が噴き出たのは土田世紀の『同じ月を見ている』以来のこと。実話に基づく小説(ノンフィクション・ノベル)である。たぶん特攻隊員のプライバシーに配慮したのだろう。ある小学校で古いピアノが処分されることとなった。定年を控えた女性教師が「ピアノを譲り受けたい」と申し出た。古ぼけたピアノにはあるエピソードがあった。それは45年も前の話だった。感動的なエピソードが全校生徒の前で紹介され、報道を通して多くの人々が知ることとなった。

 特攻隊員がピアノを演奏している間に教頭が生徒たちを集めてきた。感動した生徒たちは「海ゆかば」を歌って送りたいと申し出た。もう一人の特攻隊員がピアノ演奏を買って出た。

 







 実は本書を通して「海ゆかば」を初めて知った次第である。よもやこれほどの名曲とは思わなかった。『万葉集』に収められている大伴家持〈おおともの・やかもち〉の和歌に、信時潔〈のぶとき・きよし〉が曲をつけたもの。

 本書のテーマは「矛盾」である。メディアと特攻隊の矛盾によってその功罪がくっきりと浮かび上がる。そこに日本社会の縮図を見出すことも可能だろう。特攻隊の恥部(ちぶ)に関する緘口令(かんこうれい)は敗戦から半生記を経ても尚生きていた。「誰がしゃべったんだ?」という元隊員たちの姿に戦慄さえ覚えた。同質性を重んじるこの国で弱い者いじめは、たぶん文化として息づいているのだろう。

 もう一度「海ゆかば」を聴いてもらいたい。




 この映像は「ピアノを弾いた特攻隊員」かもしれない。無限の思いと無言のメッセージを感じずにはいられない。

 エピソードを語った公子もメディア(ラジオ番組)に翻弄される。話したことを後悔するほどであった。しかしその気持ちを引っくり返したのもまたメディア(別のラジオ番組)であった。毛利自身も仮名となっているが、ジャーナリズムの魂を見る思いがした。

 映画化にあたっては、九州を中心とした市民・企業・団体により1億円の募金が集められた(Wikipedia)。

2016-02-28

元米兵が語る沖縄戦 大東亜戦争

鉄ちゃんのうどん/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 知ってますか、焼夷弾(しょういだん)ちゅうのは空中で一ぺん炸裂(さくれつ)し、1発の焼夷弾は70発の焼夷筒に分裂して地上に叩(たた)きこまれてくるのです。それも、前の爆撃機がまず油を撒(ま)いて飛ぶ、そのうしろからB公(B29)の大編隊がぐるっと市街地を包み囲んでその外側から焼夷弾を落していく……無差別のみなごろし爆撃ですわ。
 それに、焼夷弾は叩けば消えるから必ず消せ、と軍や役所からきびしく教えこまれていました。みんな必死でその通りにした。気がついたときは、1000度を超える高熱の、逃げ場のない焔(ほのお)の壁にとり巻かれていたのです。こんな殺生(せっしょう)なはなしがおますか。まるで、B29と日本の軍・官が共謀して大阪市民をなぶり殺しにしたようなもンでしょう。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 日本人は焼き殺された。沖縄戦では洞窟という洞窟を火炎放射器が襲った。これらの武器はナパーム弾白リン弾へと進化する。「焼き殺す」のは、やはり魔女の火刑に由来するものであろう。つまり罪深き者として神の火で焼かれるのだ。

 原爆を落とされた広島・長崎、そして大空襲のあった東京を除くと、1万人以上殺されたのは大阪府15784人、愛知県13359人、兵庫県12427人となっている(日本本土空襲 > 都道府県別被害数)。

 この章は一人の人物の証言が続く。関西弁の「語り」という文化の底力が哀切をまとって口を突く。

 分隊長をしていたのは新子(あたらし)鉄男という名のうどん職人の倅(せがれ)だった。当時14歳。大阪一のうどん屋になるのが夢だった。

 鉄ちゃんのはなしになると、どうしても受け売りのうどん話になって恐縮ですが、もうすこし辛抱して聞いてやってください。すみません。……わたしもこうして鉄ちゃんからよう聞かされましてね。(中略)
「うどんづくりは水も粉ォも大事やけど、一番むつかしいのンは塩の加減や」
 上手な料理人のことを、塩を上手につかうひと“塩番”(じょうばん)ちゅうのやぜ、と鉄ちゃんは何処(どこ)で聞いてきたのか、大人びた口ぶりでよう言うてました。また、
「うどんを打つときは何も考えず、無心で打つこと。それがコツや」
 でないと、喰(た)べおわってから“ああ美味(うま)かった”というほんののうどんは出来へんのや。

 鉄ちゃんのうどんの師匠である老舗(しにせ)松葉家の主人夫婦が疎開することになった。主は「この松葉家の焼跡で鉄ちゃん、お前(ま)はんの打ったうどんを食べて、お別れの会を盛大になりまひょ。そやさかい、お友達はナンボでも呼んで来なはれ」と伝える。

 汗まみれになって松葉家の焼跡まで辿(たど)りつくと、煉瓦(れんが)は石ころで築いた即製のかまどが二つ、その上に釜(かま)がかけられ、傍には戸板の食台、その上に丼鉢(どんぶりばち)が置かれていました。鉄ちゃんが辰一(=主人)さん夫婦に挨拶(あいさつ)をしているあいだに、わたしたちは水を汲(く)み、薪(まき)を集め、早速、湯を沸かしにかかります。うどんはすでに昨晩、鉄ちゃんと辰一さんが打ちあげて、熟(ね)かせています。
 やがて、焼跡に湯気がたちのぼり、いつも空腹で目をまわしたような顔つきをしている少年たちにはこの世のものとは思えぬダシの匂(にお)いがただよいはじめます。
「まだ、あかんぜぇ」
 鉄ちゃんは道化(おどけ)たような顔つきでわたしたちを制して、ぐらぐら沸きたっている湯でうどんをゆがき、鉢にいれダシをいれ、その最初の一杯をまず、地べたに坐りこんでいる辰一さんに、そして奥さんの喜代子さんに、3杯目を大田原軍曹に渡します。
 辰一さんは両手で抱くようにしたうどん鉢を、ちょっと拝むようなしぐさで、鉄ちゃんの差しだした割箸(わりばし)を片手にとり、前歯でぴしっと割って、ダシを一口すすり、うどんを音をたててすすりこみました。しばらくして辰一さんは、鉄ちゃんのほうにうなずき微笑しました。
「うわぁ、よかった」
 いままで、息をつめるように辰一さんの表情を■(目+貴/みつ)めていた鉄ちゃんが、思わず大きな声をだしたので、わたしたちは大わらいしました。
 鉄ちゃんはそんな笑い声は気にせず、
「新子(あたらし)分隊は唯今より、うどん攻撃にうつる」
 いいながら鉄ちゃんは、にやりとします。
「攻撃は各個前進! そうれ行けぇ!」
 箸と丼鉢をもって、いまか今かと待ちかまえていたわたしらは、手に手に見よう見真似でうどんをゆがき、ダシをそそぎ、音をたててすすりこみます。油揚(あぶらげ)もネギもないまったくの素うどんでしたが、わたしは今でも、あれほど美味(うま)いうどんは此の世にないと思うております。

 それから7日後に鉄ちゃんは焼夷弾で火だるまとなり、全身に火傷(やけど)を負って死んだ。享年14歳。大田原軍曹は鉄ちゃんが義兄弟の契りを交わした人物だった。もう一つのドラマが数十年後に判明する。証言者が知ったのは取材を受ける前年であったという。飲み屋で偶然居合わせ、意気投合した相手がなんと大田原の後輩であったという。

 玉音放送に続いて鈴木貫太郎首相が「日本は無条件降伏した」と言うや否や、大田原軍曹は軍刀を抜き払い、「天皇の軍隊に降伏があるか!」とラジオを一刀両断した。そして再び「天皇の軍隊に降伏はない!」と叫んで抗命出撃をするのである。この章は中日新聞の記事で締め括られている。大田原は佐野飛行場の上空で自爆した。

 困難な時代の中で彼らは生き生きと輝き、そして死んだ。戦後、「あの戦争は間違いだった」とGHQが洗脳した。日本人が死者に対する敬意を失った時、国家としての独立の気構えを失った。昭和20年(1945年)8月15日以降、平和が日本を蝕み続けて今日に至る。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

2016-02-26

千田孝正伍長/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

〈すべての行動が自信に満ち、純で神をみる如(ごと)き若者たちでした。ですから、佐賀の村びとの隊員たちへの好意は、他の隊とは問題にならぬほど絶大なるものがありました。毎日、朝から何十人といふ老若男女がやってきました。リヤカーに酒や卵、アメ、煮染(にしめ)、おすし、などを乗せて。
「このたびはご苦労さまです……これを、どうぞ召しあがってください」
 と涙をこぼし、拝みながら言ひます。
 夜になると、村の人びとの中で芸自慢なのが歌や踊りで慰問をしてくれました。が、特攻ほがらか部隊の隊員たちのはちきれるばかりの元気な余興は、かへつて逆に村の人びとを慰問する程でありました。なかでも人気者の千田伍長の陽気な、
 ♪鉄砲玉とは おいらのことよ 待ちに待つてた 首途(かどで)だ さらば
  友よ笑つて今夜の飯を おいらの分まで 食つてくれ
 と歌ひながら剽軽(へうきん)な身ぶり手ぶりで踊る特攻唄(とくこううた)は、村の人びとを爆笑させ、そして、涙ぐませました。
 佐賀の村人たちの好意は、このやうに非常なものでしたが、二十歳前後の前途有為な隊員たちの将(まさ)に散らんとするを、これを見送るはなむけとしては、決して多すぎはしなかつたと思ひます。でも隊員の方々は恐縮して、申しわけないやうな顔をして居られました。もちろん、「もうすぐ、特攻隊で死ぬんだぞ」などといふ昂(たか)ぶつたところなど、まつたく見られませんでした。なごやかで、若者らしい元気よさがありました〉(宮本誠也の手紙)〈※庵点を♪に代えた〉

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 千田孝正伍長は18歳であった。第72振武隊は自分たちで「特攻ほがらか部隊」と名づけるほど陽気な少年たちが集まった。今知ったのだが、あの「子犬を抱いた特攻隊」の写真が彼らである。出撃を2時間後に控えていた。子犬を抱く少年の右隣が千田である。


 前日、千田の密かな行動が女子青年団員に目撃されていた。

「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途(いちず)な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬(ほお)に流れる涙にこびりついて離れませんでした。38年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡(うち)にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄ぐらい竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。――立派でした、あンひとたちは……」(松元ヒミ子の証言)〈※小さい「ン」の字を半角に代えた〉

 揺れる心を日本刀で断ち切ろうとしたのか。陽気な少年の心は凄絶な不安に苛(さいな)まれていた。19歳とあるのは「数え」のためだろう。

 特攻隊の資料は少ない。GHQの占領に当たって罪を恐れた人々が特攻隊に関する書類や手紙を焼却してしまったためだ。神坂は残された手紙と生存者の証言を絶妙に構成し、一人ひとりを立体的に描き出す。神坂自身もまた特攻の生き残りであった。

 宮本の手紙は長文である。彼は千田の先輩であった。隊員が散華(さんげ)すると周りの人間が遺族に手紙を書いた。切々たる思いが行間に溢(あふ)れる。

 神風特別攻撃隊の創始者・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉は特攻を「統率の外道」と断じた。死亡率が100%である以上、統率とも作戦とも呼べるものではなかった。道を外れれば転落する。だが国家は転落しても、特攻隊の死が汚れたものになるわけではない。その数6418名。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った

2016-02-25

特攻隊員たちの表情/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 とめさんは健在であった。81歳。でっぷりと肥(ふと)って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖(つえ)をついて奥座敷まできてくれた。
「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫(わ)びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。
「僕が死んだら、きっと蛍(ほたる)になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹(ぐんそう)が、翌晩、1匹の“蛍”に化(な)って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉(しょうい)が、出発の前夜、とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄(うた)ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。
「僕の生命(いのち)の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてください」
 そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私(あた)ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)】

 その純粋と待ち受ける悲惨の狭間(はざま)にあって彼らは臆することなく矛盾を生きた。以下のページに遺影と詳しいエピソードがある。

「特攻の真実と平和」板津忠正
ホタルになった特攻隊員(宮川三郎軍曹)

“特攻の母”鳥濱〈とりはま〉トメは89歳まで生きた(1992年没)。



 沖縄という犠牲があり、特攻隊という犠牲があって、本土は守られた。やがて敗戦の精神的空白にマルクス主義が浸透する。その勢いはいよいよ盛んになり、1960年代から70年代に渡る安保闘争で頂点に至る。当時、自衛隊は日陰者として扱われた。戦力放棄を謳った戦後憲法の下(もと)で自衛隊員は公務員と位置づけられた。決起を呼びかけた三島由紀夫に対して、自衛隊員が野次と怒号で応じた時、特攻の精神は死に絶えたのだろう。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

2016-02-18

継母への溢れる感謝/『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子

 ・継母への溢れる感謝

『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

少尉 第77振武隊 昭和20年5月4日出撃戦死 宮城県 18歳 相花信夫

 遺書
 母を慕いて
 母上お元気ですか
 永い間本当に有難うございました
 我六歳の時より育て下されし母
 継母とは言え世の此の種の女にある如き
 不祥事は一度たりとてなく
 慈しみ育て下されし母
 有難い母 尊い母

 俺は幸福だった
 遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
 幾度か思い切って呼ばんとしたが
 何と意思薄弱な俺だったろう
 母上お許し下さい
 さぞ淋しかったでしょう
 今こそ大声で呼ばして頂きます
 お母さん お母さん お母さんと
(注:ノート2頁に楷書でペン書き)

【『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編(ジャプラン、2010年/村永薫編、ジャプラン、1991年『知覧特別攻撃隊 写真・遺書・日記・手紙・記録・名簿』改題)】

 検索したのだが高岡修編と村永薫編の違いが判明せず。副題も微妙に異なる。

 沖縄戦では知覧(ちらん/鹿児島県)と都城(みやこのじょう/宮崎県)から特攻隊は飛び立った。

 特別攻撃隊といえば誰もが真っ先に神風(「しんぷう」が正式名称)特攻隊を思い浮かべることだろう。250kg爆弾を搭載し敵艦に体当たりを決行する攻撃を採用したのは大西瀧治郎海軍〈おおにし・たきじろう〉中将であった。物資が乏しくなる中で阿吽(あうん)の呼吸で生まれた作戦といってよい。決して上から一方的に命じたものではない。「特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と大西は語った。祖国を守るための犠牲であったことは疑う余地もない。大西の壮絶な最期については以下のページが詳しい。

【号泣必至】特攻の生みの親、大西瀧治郎海軍中将の凄絶なる生涯。

 DVDのリンクが切れているが、まだ販売されている→『あゝ決戦航空隊



 しっかりとした筆跡で継母(けいぼ)への「残した思い」を記している。大きく伸びたお母さんの「ん」の字に涙を禁じ得ない。私は彼らの遺言に対して何かを書こうとする気が起こらない。ただ、「彼らが守ろうとした」祖国で生きることに尽きせぬ感謝を覚える。そして兵器も兵士もなくなった祖国が、国家の未来を担う十代の少年たちに旧式の戦闘機で死ねと命じた事実は忘れまい。

 各人が自分の眼で見て、読んで、彼らの思いに触れて判断すればいいだろう。ただしイデオロギーに基づく非難・政治利用はやめるべきだ。本当に日本が嫌いな共産主義者であれば、さっさと中国かロシアに移住すべきだろう。














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「児玉誉士夫小論」林房雄/『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫

2016-02-14

ユニーク極まりない努力/『大空のサムライ』坂井三郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集

 ・ユニーク極まりない努力

『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 そして最後には、私は昼間の星を探しはじめた。これはなかなかむずかしいことであった。発明や発見は、現状を否定するところから生まれるといわれるが、これをやりとげるには、いろいろな段階を経なければならなかった。
 子供のころ歌った童謡に、一番星見つけた、二番星見つけた、という歌詞があるが、私はまず日の暮れに、その一番星を1秒でも早く見つける練習、また、明け方には、最後まで消え残る星を追ってみた。そのうえ簡単な星座の勉強をして、昼間、頭の上にくる星の中でどの星が一番明るかを調べた。そして、毎日のように頭の真上の大空を見つめたものである。
 大空のすみきった11月のある日の午後、私は飛行場の芝草の上にあお向けに寝て、大体見当をつけておいた一点を、長い時間見つづけていたことがある。寝たのは頭がぐらぐらしないようにするためだが、30分ほど青空の一点を見つづけても何も見えないので、あきらめて立ち上がろうとして両眼を横に動かした瞬間、白いケシ粒のようなものが、ちらっと見えたような気がした。おやっ、と思ってよく見ると、星があった。私は思わず「見えた!」と叫び声をあげた。

【『大空のサムライ』坂井三郎(講談社+α文庫、2001年/光人社NF文庫、2003年/講談社、1992年『坂井三郎 空戦記録』改題)】

 弛まぬ努力によって坂井の視力は2.5となる。マサイ族並みの視力である。まだ戦闘機にレーダーがない時代である。目の良さが生と死を分けた。坂井はただの一度も敵から先に発見されたことがないという。日中の星探しはアメリカに嫁いだ娘を通して孫も行っている。

 坂井はユニークな発想で次々と新たな訓練を生み出す。トンボやハエを素手でつかむ練習、逆立ち15分、息を止める稽古2分30秒などなど。いずれも戦闘機技術に直結したものである。天才とは独創の異名か。

 坂井三郎は毀誉褒貶(きよほうへん)の多い人である。本書にも若干の脚色があるようだ。それでも「米軍が恐れた男」である事実は動かない。サカイの名は敵にまで知られていた。戦後になって戦った相手と邂逅(かいこう)する場面が忘れ難い。緊張の面持ちで臨むも、一旦打ち解けてしまえばスポーツ選手のように互いの健闘を称(たた)え合う。空の男には乾(かわ)いた爽やかさがある。

 幾多の戦闘をくぐり抜けてきた坂井もついに負傷する。大事に大事にしてきた眼までやられてしまう。坂井は飛行機を降りた。一度復活したがやはりダメだった。

 経験した者にしかわからない戦場の生々しさが伝わってくる。歴史の現場は何という迫力に満ちていることか。

 尚、講談社+α文庫は2分冊で光人社NF文庫は1冊となっている。続篇以降を読みたい人は光人社版がよかろう。

大空のサムライ(上) 死闘の果てに悔いなし (講談社+α文庫)大空のサムライ(下) 還らざる零戦隊 (講談社+α文庫)大空のサムライ―かえらざる零戦隊 (光人社NF文庫)

続・大空のサムライ―回想のエースたち (光人社NF文庫)戦話・大空のサムライ―可能性に挑戦し征服する極意 (光人社NF文庫)大空のサムライ・完結篇―撃墜王との対話 (光人社NF文庫)

2016-02-06

靖國神社/『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集


 ・靖國神社

『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス
・『保守も知らない靖国神社』小林よしのり

日本の近代史を学ぶ

 海軍大尉 植村 眞久 命
 神風特別攻撃隊大和隊
 昭和19年10月26日 比島海域にて戦死
 東京都出身 立教大学卒 25歳

 素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人なるやうにと思つて、お父様が考へたのです。私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのを見届けたいのですが、若(も)しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなつて、父に會(あ)ひたい時は九段へいらつしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前を幸せ者と思ひます。(中略)
 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
昭和19年9月吉日          父
植村素子へ

 追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、御父様が戴いて自分の飛行機に御守り様として乗せてをります。だから素子は父様といつも一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。

【『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集(産経新聞出版、2010年)】


 靖國神社で販売されている『英霊の言乃葉』の第1~9輯(しゅう)の選集。産経新聞出版社が小林に選者を依頼したという。その経緯については小林の「まえがき」に詳しい。戦時中の遺書といえば『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(日本戦没学生記念会編、1949年)が有名だが、CIE(GHQの民間情報局)の検閲が施されていることが判明した(日本経済新聞 1982年8月22日/戦後の風潮)。

 靖國に祀(まつ)られた英霊は神に位置づけられるため名前の末尾に命(みこと)が付く。名前「のみこと」と読む。数詞は「柱」(はしら)。ペリー来航(1853年)以降の戦没者などが祀(まつ)られていることから「日本近代化の犠牲者」と見ることもできよう。ただし祀られているのは政府軍側の人物に限られる。私は靖國神社を否定する気は毛頭ないが、ひとつだけすっきりしないのは「政府軍側」と天皇陛下の整合性である。具体的には戊辰戦争における会津藩を逆賊と位置づける歴史には加担できない。

 植村が娘に宛てた遺書は老境を思わせるほどの風格がある。我が子にキラキラネームをつけるような現代の馬鹿親とは何が違うのか? それはやはり「責任感」であろう。子の幸福を思う心の深さが異なるのだ。

 私が胸を打たれたのは「お前が大きくなつて、父に會(あ)ひたい時は九段へいらつしゃい」との一言であった。九段とは靖國神社である。若き特攻隊員たちは「靖國で会おう」と口々に約し合いながら大空へ飛び立った。その聖地ともいうべき靖國が現在では政争の具とされている。

 敗戦から29年後に復員した小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉は「天皇陛下万歳」と叫んだ。帰国後、検査入院を経て真っ先に靖國を参拝し、皇居を遥拝した。また政府からの見舞金100万円と義援金の全てを靖國神社に奉納している。マスコミは狂ったように「軍国主義の亡霊」と書き立てた。日本は変わってしまった。変わってしまった日本に耐えられなくなった小野田はブラジルへ去った(『たった一人の30年戦争』小野田寛郎、1995年)。

 植村の戦死から22年後の'67(S42)、愛児であった娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。 同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社にて鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。 素子は「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。

歴史が眠る多磨霊園:植村眞久

 死して尚、親の想いが子を育む。人の一念は時を超えるのだ。

 尚、靖国神社公式サイトの「靖国神社について > 今月の社頭掲示」では平成20年(2008年)以降のものが紹介されている。




国民の遺書  「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選
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2016-01-31

アメリカ兵の眼に映った神風特攻隊/『國破れてマッカーサー』西鋭夫


『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


 ・憲法9条に埋葬された日本人の誇り
 ・アメリカ兵の眼に映った神風特攻隊

『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

日本の近代史を学ぶ

 だが、時折、一機だけが幾(いく)ら機関銃を浴びせても落ちない。銃弾の波間を潜(くぐ)り、近づいてはきては逃げ、そしてまた突っこんでくる。日の丸の鉢巻が見える。祖国のために死を覚悟し、己(おのれ)の誇りと勇気に支えられ、横殴りの嵐のような機関銃の弾雨(だんう)を見事な操縦技術で避け、航空母艦に体当たりし撃沈しようとする恐るべき敵に、水兵たちは、深い畏敬と凍りつくような恐怖とが入り交じった「感動」に似た感情を持つ。命を懸けた死闘が続く。ついに、神風は燃料が尽き、突っ込(ママ)んでくる。その時、撃ち落とす。その瞬間、どっと大歓声が湧(ママ)き上がる。その直後、耳が裂けるような轟音(ごうおん)を発していた甲板上がシーンとした静寂に覆われる。
 水兵たちはその素晴らしい敵日本人に、「なぜ落ちたのだ!?」「なぜ死んだのだ!?」「これだけ見事に闘ったのだから、引き分けにして帰ってくれればよかったのに!!」と言う。
 アメリカ水兵たちの感情は、愛国心に燃えた一人の勇敢な戦士が、同じ心をも(ママ)って闘った戦士に感じる真(まこと)の「人間性」であろう。それは、悲惨な戦争の美化ではなく、激戦の後、生き残った者たちが心の奥深く感じる戦争への虚(むな)しさだ。あの静寂は、生きるため、殺さなければならない人間の性(さが)への「鎮魂の黙禱(もくとう)」であったのだ。

【『國破れてマッカーサー』西鋭夫〈にし・としお〉(中央公論社、1998年/中公文庫、2005年)】

 重い証言である。なぜなら神風特攻隊が突撃する現実の姿を日本人は誰も知らなかったのだから。米軍が撮影していなければ、あの壮絶な勇姿は永久に日の目を見ることはなかったに違いない。

 当然のことではあるが軍隊の指揮系統は命令というスタイルで維持される。そこに疑問を挟む余地はない。敗戦後、特攻は愚行であり、無駄死にと嘲笑された。米兵ですら目を瞠(みは)ったその最期を、同胞である日本人が小馬鹿にしたのだ。軍国主義という言葉が世の中を席巻し、戦前は忌むべき歴史とされた。

 高度経済成長を迎えた頃、既に右翼は暴力団紛(まが)いの徒党を指すようになり、愛国心という言葉は彼らの看板文句であった。大音量で流される軍歌は人々から嫌悪され、街宣が大衆の心をつかむことはなかった。左翼も右翼も暴力の尖鋭化によって国民から見放された。

 愛する祖国を守ろうとした先人を愚弄(ぐろう)した瞬間から、この国は国家という枠組みが融解したのだろう。敗戦という精神的真空状態の中で日本人は大事なものを見失った。忘れてはならないことを忘れた。そこへマッカーサーが東京裁判史観という価値観を吹き込んだ。日本人は日本人であることを恥じた。

 吉田茂は国体を守ることと引き換えに全てをGHQに差し出した。吉田は経済復興を最優先課題とし、軍備は米軍に肩代わりさせた。やがてその流れは朝鮮特需~高度成長~バブル景気へと引き継がれる。それでも日本人の精神性は変わらなかった。アメリカの核の傘の下でぬくぬくと平和を享受し続けた。朝鮮が分断され、ベトナムが戦火にさらされ、チベットが侵略され、ウイグルが弾圧されても、この国は平和である。なんと愚かな錯覚か。

國破れてマッカーサー (中公文庫)
西 鋭夫
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2016-01-19

天才戦略家の戦後/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 ・天才戦略家の戦後
 ・ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 片倉(衷)は陸大教官石原の教え子で、昭和6年の満州事変の時は見習い参謀だった。ともに満州事変を乗り切った、いわば子弟である。その片倉が、重病の石原に変わって供述書を口述・代筆する。
 石原はむしろ戦犯になり、ペリー来航まで遡って戦う腹だった。しかし4月8日の参与検事会議で戦犯リストから外され、残念がった。それでも彼は、検事たちが新しい証拠を見つけては再び戦犯リストに挙げてくるだろうと、むしろ期待した。

【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013/双葉文庫、2016年)以下同】

 礼賛本である。客観性に乏しいため割り引いて読む必要があろう。にもかかわらず「必読書」としたのは、やはり石原莞爾〈いしわら・かんじ〉という男が規格外の日本人であったためだ。稀代の天才戦略家は合理性の権化(ごんげ)であった。不合理には昂然と異を唱え、たとえ上官であったとしても罵倒した。普通の日本人とは立つ位置が異なっていたのだろう。

 病室にアメリカ軍の法務官と通訳が新聞記者たちと一緒に入ってきて、「これから証人尋問を開始する!」と宣告した。

「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないのだ。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。広島と長崎に原爆を落としたのはトルーマンだ。彼こそ第一級の戦犯ではないか。どうした。なぜオレを逮捕しないんだ」

 と、石原は怒鳴りつけた。


 敗戦後、原爆に関する報道はGHQにより規制された。日本国民が初めて原爆の惨禍を知ったのはサンフランシスコ講和条約が発効した(1952年4月28日)独立後のことで、『アサヒグラフ』が1952年8月6日号で報じた。


米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人

 昭和21年4月29日は月曜日で、戦後初めて迎えた天長節である。キーナン首席検事は起訴状を読み上げ、裁判開始の日どりは5月3日からとした。起訴された名前は荒木貞夫から始まって梅津美治郎までの28名。
 石原は、翌30日の連盟会員が持ってきた新聞でそのことを知ると、
「オレの名前があったらな。この裁判を引っくり返してやるんだが――」
 と残念がった。

 Wikipediaの石原記事は読み物として通用するほど面白い。個人的にはハンガリー人宇宙人説の筆頭ジョン・フォン・ノイマンと双璧をなす記事だと思う。

戦犯自称の真相」という中途半端な記述があるが、酒田臨時法廷における石原の堂々たる態度や、公判終了直後にその場でアメリカ人検事が非礼を詫(わ)びたことなどを併せ鑑み、各人が判断すればいいだろう。

「ときに東京裁判は、日清日露戦争まで遡って戦犯を処罰するべきだ、という者がいる。君はどう思うかね」
 すると法務官は「そうする方針です」と答えた。
 その時だった。石原はニヤリとして、
「これは面白い。大いにやってくれ。それだったら、ペリーこそが戦争犯罪人だ。ペリーを呼んでこい」と言った。

 ペリーを知らないという法務官に石原は歴史を語り、「だからペリーを呼んでこい。彼をあの世から呼んで来(ママ)て、戦犯としてはどうかね」と言いくるめた。返答に窮した法務官が「今度の戦犯の中で、いったい誰が第一級と思われますか」と尋ねると、間髪を入れず「それはトルーマンだよ」と、アメリカ大統領の名前を上げ、具体的な国際法違反を懇々と語り、更にはナポレオンの話までする。法務官は「まるで陸軍大学の講義を聴いているみたいでした」と感激しながら帰っていった。

 石原は国際法の仕組みをきちんと理解していたのだろう。それゆえ欧米の土俵(≒論理)に上がろうとも、「勝てる戦略」が見えていたのではないか。ただし寺内大吉著『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義』(1988年)は石原の日蓮主義を批判的に捉えている。

2015-12-09

真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れた真相/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八


『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『國破れて マッカーサー』西鋭夫

 ・黒船の強味
 ・真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れた真相

『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八

日本の近代史を学ぶ

Q●宣戦布告を定めた国際法はどのようなものでしたか。

A●「開戦に関する条約」といい、日本の代表は1907年10月18日に、オランダのハーグ会議の場で署名をした。欧州の主だった国々の間で効力を発生したのは、1910年1月26日からである(これ以前は、まだどの国も義務を負わされない)。日本は、1911年12月13日に批准書を寄託し、日本に関しては、条約の効力は、1912年2月11日から発生した。それに先立つ1912年1月13日に、政府が日本国民に向けて公布している。
 条約が国際法として有効になるためには、出席した代表者のサイン(調印)だけではだめで、本国の国会の批准が必要である。アメリカ合衆国であれば、連邦議会上院の外交委員会で審議の上、上院が批准する。日本でも、貴族院や枢密院が反対すれば、批准はできないようになっていた。
「開戦に関する条約」は、「戦争は予告なくして之を開始せざるべし。また、戦争状態は遅滞なく之を中立国に通告すべし」と謳(うた)い、これが主な趣意である。

【『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉以下同】

 1907年は明治40年。1912年は明治45年で7月30日以降は大正元年となる。19世紀末、多くの国々が普仏戦争(1870-71年)に勝ったドイツ軍の動員奇襲に学ぶべくドイツ軍人を招聘(しょうへい)した。日本陸軍はメッケルを教官として受け入れた。本書はQ&Aの体裁となっているが、陸軍参謀の兒玉源太郎が動員奇襲によってロシアを防ぎ、満州国を最初に発想し、それが後に不良資産となってゆく様を詳述する。

 兵藤は真珠湾奇襲を「卑劣」と断じている。日米開戦の情況について再確認しておこう。

 アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手交する。日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、米国と英国に宣戦を布告した。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。そのため「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。

Wikipedia

 事務上の責任が問われる井口・奥村の罪は切腹ものだ、と指摘する声も少なくない。ところが実際はこの二人、戦後になって重用(ちょうよう)されているのである。対米覚書の手交が遅れた模様については、以下の説明が一般的だ。

【外務省の本性】“日米開戦”という国難において『自国破壊行為』を行った2名の在米キャリア外交官はどう処分されたか

 ところが2012年に新事実が判明する。

真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証/通信記録を九大教授発見 外務省の故意か

 1941年12月8日の日米開戦をめぐる新事実が明らかになった。最後通告の手直しが遅れ、米国に「だまし討ち」と非難された問題で、修正を指示する日本から大使館への電報が半日以上を経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった。これまで不明だった発信時刻が判明。「在ワシントン大使館の職務怠慢による遅れ」とする通説に一石を投じそうだ。

 米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で9月末、記録を発見したのは九州大学の三輪宗弘教授。外務省が東京中央電信局からワシントンの大使館に向けた電報の発信時刻や、米海軍がそれを傍受した時刻などを記録した資料だ。
 開戦直前に外務省が大使館に送った公電は901号に始まり、911号まである。中核となる電報は902号で、米政府が戦争回避のための条件を日本に突きつけた文書、いわゆるハル・ノートに対し、これ以上の交渉を打ち切るとした覚書がその中身である。それ以外の電報は、誤字訂正や暗号解読機の破壊を命じた訓電などだ。

■誤字など175カ所

 902号電報は長文のため14部に分かれ、第1部から第13部までほぼ予定通りの時刻に発信された。しかし、12月7日午前1時(日本時間)までに発信するはずの14部は15時間以上遅延した。

 しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、外務省は175カ所に及ぶ誤字などの訂正を903号、906号の2通に分けて大使館に送信した。
 外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが、三輪教授が今回の調査で2通の発信時刻を突き止めた。前に送った電報に誤りなどがあれば直ちに訂正電報を打つのが通例だが、調査結果によって、2通の発信時刻は前の電報(902号第13部)から十数時間後と大幅に時間がたっていることがわかった。

 当時は文書の清書にタイプライターを使っていた。ワープロと違って、字句の修正や挿入、削除があると最初から打ち直さなければならない。つまり訂正電報が届かない限り、大使館は通告文書を清書できないが、この2通の遅れが、最終的に米政府に通告文書を手交する時刻が遅れる大きな要因となった。

 なぜ2通は遅れたのか。訂正電報2通の発見は、通告遅延の真相解明に大きな意味を持つが、三輪教授は「発信の大幅遅れは、陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」と語り、外務省が故意に電報を遅延させた可能性が高いという。

 元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏は、こうした問題を長年にわたり追究、戦後の極東軍事裁判での証言、関係者の手記などを基に902号第14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、これに外務省が協力した結果と推定している。今回、見つかった新資料はそれを補完するものとなる。

 米国の通信会社が、日本からの暗号化したこれら電報を大使館に届けたのは7日午前9時前後(米国東部時間)とみられ、大使館が暗号を解読してタイプで清書、コーデル・ハル国務長官の手に渡ったのは真珠湾攻撃が始まった後の7日午後2時20分(同)だった。

 遅くとも真珠湾攻撃の30分前と設定していた最後通告が攻撃の後になったのは、大使館の怠慢によるとされてきた。米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、米政府に手交する通告文書作成が遅延したというものだ。
 が、井口氏はそれを否定。「真実を歪曲(わいきょく)した開戦物語が一人歩きして国民に誤った印象を与えている」と指摘する。

■奇襲成功“支援”

 近年の研究によって様々な事実も明らかになっている。開戦直前の緊迫した状況だったにもかかわらず、大使館宛てのこれらの訓電の「至急」の指定が取り消され、「大至急」を「至急」に引き下げたものがあった。
 また、大佐の葬儀も、遅延には無関係だったことが長崎純心大学の塩崎弘明教授の研究によって明らかになった。
 さらに今回とは別に、三輪教授は国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」を発見している。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料だ。目的は東郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためとされる。
 今回の資料発見について、塩崎教授は「真珠湾の奇襲を成功させるため意図的に電報を遅らせたことがこれで明らかになった。打電時間についての新資料自体は細かなことだが、正確な歴史認識を得るためには、こうした史実を丁寧に掘り起こしていく必要がある」と語る。
 また、東京大学の渡辺昭夫名誉教授は「通告の前に攻撃が始まったという問題の本質は(新資料によっても)変わらないと思うが、隠されていた事実を明らかにし、政策決定における問題を追究するのは学問的に意味がある」と評している。

【日本経済新聞 2012年12月8日付】

 わかりにくい。実にわかりにくい。ストンと腑に落ちるものが一つもない。

 一方では、「宣戦布告の有無など大した問題ではない」「アメリカはベトナムやイラクに宣戦布告していない」との意見も多い。ただし、ベトナムやイラクは軍事制裁であって戦争ではないとの声もある。そもそも「開戦に関する条約」は日露戦争に由来する。日本が宣戦布告なしで戦闘に突入したことを問題視したわけだ(宣戦布告の歴史については「宣戦布告とは何か」を参照せよ)。

 更に二つある。「日本の暗号をアメリカはとっくに解読していたのだから、真珠湾攻撃は事前に知っていたはずだ」との指摘が一つ(真珠湾攻撃陰謀説)。そして「支那事変においてアメリカはフライング・タイガース(アメリカ合衆国義勇軍との位置づけ)を派遣して国民党を支援した時点において日米は戦闘状態に入った」とする説である。

 どの指摘ももっともらしく聞こえる。が、すっきりしない。兵藤は「日本が意図的に遅らせた」と言い切る。

Q●1941年12月の対米開戦前に、野村吉三郎大使がすでに2月からワシントンに赴任していたのに、11月になって、あとからもう一人、来栖大使を二重にアメリカへ送り込んだのは、なぜなのですか? 来栖大使を送って野村大使を呼び戻すというのならばともかく、野村大使はそのまま残り続けて、駐米の特命全権大使が二人も居ることになってしまった。しかも、日米交渉の打ち切りの通告は、元から居た野村大使が、アメリカの外務大臣であるハル国務長官に手交していますよね。だったら来栖大使は、何をしに来ていたのか? これを説明してくれる参考書がみつかりません。

A●二人の大使の帯びていた任務が180度サカサマであったと考えれば、得心がしやすいだろう。簡単に言えば、野村大使の使命は、赴任の最初から、来た(ママ)るべき対米開戦通告をできるだけ遅らせることにしかなかった。つまり米国海軍を奇襲することしか頭にない帝国海軍の利害の、暗黙の代理人だった。それに対して、外務省のプロ外交官である来栖大使は、〈昭和天皇の避戦の意向を、東条内閣としては大いに尊重し、このように動いておりますから〉という、いわば昭和天皇を騙すための芝居をさせられたのだ。
 対米開戦のプログラムはすでに9月から走り始めていて、11月ではもう誰にも止めようがない。来栖大使の派遣は、東条の天皇に対するポーズに過ぎなかっただろう。
 もちろん外務省は、子飼いの来栖の方を重く用いたかったろう。しかし、帝国海軍(海軍省、軍令部、連合艦隊)は、野村を無理に使わせ続けた。
 野村大使は元海軍大将だ。(中略)
 野村にしかできぬと大いに期待された仕事とは、日本海軍の秘密の願望――つまり開戦通告を遅らせて、いざというときに以心伝心で大使館業務のサボタージュ(もし開戦通告が実際の攻撃開始時刻よりも前すぎるなと思われた場合は、それを独断で攻撃開始直後まで遅らせてしまう)をやってのけることだったろう。
 日本外務省としても、外交官出身ではない野村などを駐米大使に発令されるのは、初めから面白くはなかった。大いに不満だったのだが、明治いらい(ママ)、日本外務省は、帝国陸海軍の奇襲開戦に奉仕するのが秘密の使命になっていたので、さいしょから米国に奇襲開戦する意欲に燃えていた海軍省からの露骨な人事要求を呑んでいたまでだ。

 ヘッケルから教わったプロシア式動員奇襲の伝統から日本軍は抜け出すことができなかった。真相はやはり「真珠湾奇襲」であったのだろう。

 確かに真珠湾奇襲は卑劣な行為であった。だが戦争行為そのものが罪とされるわけではない。ナチス・ドイツが第二次世界大戦において殆どの戦争において宣戦布告をしていないにもかかわらず、なぜ真珠湾だけが特筆されるのか? それはアメリカの開戦理由による。フランクリン・ルーズベルトは「アメリカの青少年をいかなる外国の戦争にも送り込むことはない」と公約して大統領になった。だが彼はイギリスがナチス・ドイツに苦戦するのを見て、参戦せずにはいられなかった。アメリカは世論の国である。大統領といえどもこれを無視することはできない。そこでエネルギーや資源の乏しい日本を禁輸で締め上げ、暴発する瞬間を待った。ルーズベルトは真珠湾奇襲を神に感謝したことだろう。モンロー主義を堅持してきたアメリカの世論は完全に引っくり返った。

 近代日本の迷走は明治維新に始まり大東亜戦争で頂点に至り、敗戦以降、東京裁判史観に覆われた挙げ句に国家観を見失った。奇襲は卑劣な行為であったとしても、戦争行為そのものが卑劣とされるわけではない。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(クラウゼヴィッツ)。国家には戦争をする権利があるのだ。戦後教育は戦争=悪という図式を児童に刷り込んだ。そんな国民が安全保障や憲法改正を正しく考えることなど不可能だろう。

日本の戦争Q&A―兵頭二十八軍学塾
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2015-12-03

黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八


『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『國破れて マッカーサー』西鋭夫

 ・黒船の強味
 ・真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れた真相

『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八

日本の近代史を学ぶ

Q●なぜ徳川幕府は、黒船と戦争しなかったのでしょうか。兵員数では圧倒していたと思うのですが……。

A●(中略)つまり波打ち際から5kmぐらい離れれば、最新鋭の艦砲の直撃も免れることができるのだが、江戸城の周りには武家屋敷が、さらにその周りにはおびただしい町屋が連なっていた。ペリー艦隊にとっては、風上の市街地をまず砲撃で炎上させ、それを江戸城まで延焼させることぐらいは、わけもないのであった。そのような前例としては、ナポレオン戦争中のネルソン艦隊による、コペンハーゲン市の焼き討ちがあった。
 さらにペリー艦隊は、江戸湾の入り口付近で海賊を働き、日本の商船の出入りを完全に阻止することもできた。江戸時代の街道は、荷車すら通れない未舗装の狭い道幅で、陸上の長距離輸送は、馬の背中や牛の背中に物資を載せて運ぶ以外にない。それではとうてい、大坂方面からの廻船による輸送力を、代行できるものではなかった。食料や薪炭の入港が途絶すれば、ひたすら消費するのみの100万都市には、たちどころに飢餓状態が現出するはずであった。そこには旗本の家族や家来だって巻き込まれてしまうのである。
 もしも江戸城が焼かれ、将軍のお膝元が生活物資の欠乏で大混乱に陥るという事態になれば、諸藩が徳川家に対する忠誠をひるがえす好機が、そこに生ずるだろう。大名が勝手に国元に戻ったり、各地から諸藩の軍勢が江戸にのぼってくるかもしれない。外様大名の誰かと、外国軍が結託しないという保証もなかった。(中略)
 幕末の日本には、全国で47万人くらいの武士がいたらしい。しかし戦争では、特定の戦場に、相手より強力な戦力を集中できた者が勝つ。ペリー艦隊は、日本の海岸の好きな場所に、300人の海兵隊を投入することができる。しかも、艦砲射撃の支援火力付きである。日本側が1500人の火縄銃隊をあつめてきたら、こんどは別な場所を襲撃すればよいのだ。有力な親藩の城下町も多くが海岸の近くにあり、焼き討ち攻撃には弱かった。
 この機動力と火力とを、徳川政権が実力で排除するためには、台場ではなく、鉄道か軍艦かの、どちらかが必要なのであった。

【『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉】

 長年にわたる疑問が解けた。黒船の強味は火力と機動力にあった。世界中の主要都市が海に接しているのも船を受け入れるためである。それは現在も変わらない。鉄道ではやはり量が劣る。

 大まかな歴史を辿ってみよう。

 1415-1648年 大航海時代
 1434年 エンリケ航海王子の派遣隊がボジャドール(ブジャドゥール、ボハドルとも)岬を踏破
 1492年 クリストファー・コロンブスバハマ諸島に到達。
 1497年 ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達
 1543年 種子島にポルトガル船が漂着。鉄砲伝来。
 1519-22年 マゼランが世界一周。
 1602年 オランダ東インド会社(世界初の株式会社)が設立。
 1620年 ピルグリム・ファーザーズメイフラワー号で北米へ移住。
 1840-42年 第一次阿片戦争
 1853-56年 クリミア戦争
 1853年 黒船来航
 1856-60年 第二次阿片戦争
 1856年 ハリス来日。
 1858年 日米修好通商条約
 1861-65年 北米で南北戦争
 1868年 明治維新
 1894-95年 日清戦争
 1904-05年 日露戦争
 1914-18年 第一次世界大戦
 1939-45年 第二次世界大戦

 大航海時代は植民地化と奴隷貿易の時代でもあった。

 ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。
 1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。
 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。

Wikipedia

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔
奴隷は「人間」であった/『奴隷とは』ジュリアス・レスター

「奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である」には疑問あり。要はビジネスとして成立させたのは誰か、ということが重要だ。ユダヤ人であるという指摘もある(デイヴィッド・デューク)。大航海時代を支えたのはユダヤ資本であり、リスクを債権化するという株式会社の原型を考案したのもユダヤ人だ(『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦)。

 火薬・羅針盤・活版印刷術の三大発明はもともと中国伝来のものだった。これらを戦争および侵略の道具としたところに西欧の強味があった。活版印刷は紙幣(銀行券)を生み、他方では宗教改革の追い風となる。

 年表を見直すと、やはり戦争によって技術革新(イノベーション)が進んできた事実がよくわかる。第二次世界大戦は空中戦となり、スプートニク・ショック(1957年)以降、人類は宇宙を目指す。

 本書で初めて知ったのだがクリミア戦争の戦域はカムチャツカ半島まで及んだという(Wikipedia)。つまりペリー艦隊はヨーロッパ諸国が戦争で手を出しにくい絶好の時期に訪れたわけだ。

 日本の開国は事実上はハリスによる日米修好通商条約だが、そのインパクトによって殆どの日本人が黒船によるものと誤解している。開国した日本は自ら黒船を造ろうと決意。欧米列強に学びながら帝国主義の道を歩まざるを得なくなる。

日本の戦争Q&A―兵頭二十八軍学塾
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日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー
泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典
黒船を歌う江戸時代の人々/『幕末外交と開国』加藤祐三

2015-11-28

憲法9条に埋葬された日本人の誇り/『國破れてマッカーサー』西鋭夫


『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ

 ・憲法9条に埋葬された日本人の誇り
 ・アメリカ兵の眼に映った神風特攻隊

『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 スタンフォード大学フーバー研究所出版から出た本のタイトルは Unconditional Democracy 日本の「無条件降伏(unconditional surender)」と「民主主義」をかけたもので、「有無を言わさず民主主義化された」という強い皮肉を含んだタイトル。アメリカでは、このタイトルだけでも有名になった本だ。
 この本は、アメリカで公開された生(なま)の機密文書を使って書かれた最初の本である。出版されたのは1982(昭和57)年。1991(平成3)年、廣池学園出版部からもペーパーバック版が刊行された。
 私が翻訳したのではないが、大手町ブックスから『マッカーサーの犯罪』として、1983年に出版されたのはこの本だ。その直後から、日本からもアメリカ国内からも、学者たちから電話や手紙が沢山あった。占領関係の資料についての「教えを請(こ)う」ものだった。
『國破れて マッカーサー』は Unconditional Democracy と『マッカーサーの犯罪』を基(もと)に、戦後日本の原点、「占領」という悲劇をさらに明らかにしようと、私自身が全面的に書き改めたものである。(「はじめに」)

【『國破れてマッカーサー』西鋭夫〈にし・としお〉(中央公論社、1998年/中公文庫、2005年)以下同】

 わかりにくい出自である。ひねくれた自慢が話を更にややこしくしている。しかも『マッカーサーの犯罪』は西の名前で刊行されているのだ。本書は確かに良書である。良書なんだが時折行間から嫌な匂いが放たれる。もともと保守とは穏健さに裏打ちされた政治姿勢であり、革新は暴力性を秘めた急進性を伴う性質のものだった。その意味から申せば西は保守ではない。右翼というべき人物だろう。真の保守とは武田邦彦のような人物である。

 ダイレクト出版株式会社で講演録を販売しているが、「無料」と謳っていたので注文したところ、届いたのは音声CDであった。しかも申し込みをした時点でサイトから動画をダウンロードできるため、多分「送料550円」で利益を出しているのだろう。動画を見れば一目瞭然だが時折大声を張り上げる虚仮威(こけおど)しともいうべき講演スタイルで、怒りっぽい年寄りにしか見えない。話しっぷりからも右翼であることが伝わってくる。

 我々の「誇り」は第9条の中に埋葬(まいそう)されている。

 確かにそうだ。民族としての誇りは既にない。GHQの占領政策で埋め込まれた戦争の罪悪感は、戦後教育を通して子供たちの血となり骨と化した。現在の国際情勢にあって日本は歴史的事実を開陳することも許されない立場となっている。従軍慰安婦捏造や南京大虐殺捏造に対して事実究明の反論をすることもできなければ、怒ることすら躊躇(ためら)われる雰囲気に覆われている。

 日本の文化から、日本の歴史から、日本人の意識から「魂」を抜き去り、アメリカが「安全である」と吟味したものだけを、学校教育で徹底させるべし。マッカーサー元帥の命令一声で、日本教育が大改革をさせられたのは、アメリカの国防と繁栄という最も重要な国益があったからだ。
 アメリカが恐れ戦(おのの)いた「日本人の愛国心」を殺すために陰謀作成された「洗脳」を、日本は戦後五十余年の今でさえ「平和教育」と呼び、盲目的に崇拝し、亡国教育に現(うつつ)を抜かしている。(中略)
 あの口五月蠅(うるさ)いアメリカ、自動車部品を1個、2個と数えるアメリカが、コダック、富士フイルムを1本、2本と数えるアメリカが、日本の「教育」に文句を言わない。一言も注文を付けない。
 日本の教育は今のままで良いと思っているからだ。アメリカは日本教育改革がここまで成功するとは思ってもいなかった。

 本書は前半が占領政策、後半が教育行政を描く。単なる機密文書の紹介にとどまらず、しっかりと構成されている。日本の近代史を知るためには不可欠の一書といってよい。ただし、マッカーシズムについて書きながらもヴェノナ文書(『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア)に関する記述がないのは腑に落ちない。またマッカーサーについては兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉著『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』を併せて読むと理解が深まる。



GHQはハーグ陸戦条約に違反/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2015-11-17

左翼とサヨクあるいは反日を巡って/『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり


 ・左翼とサヨクあるいは反日を巡って

・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 2』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 3』小林よしのり
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論』小林よしのり

日本の近代史を学ぶ

【日本の】個人主義者は国家が嫌いである 権力も嫌いである

 そしてこの平和が自明のものであり 税金さえ払えば手に入るサービスだと思っている

 日本の個人はまるで消費者なのだ!!

【『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり(幻冬舎、1998年)以下同】

 漫画吹き出しのためテキストの改行は無視した。日本の古代が『古事記』というフィクションによって成り立ち(『官僚病の起源』岸田秀、1997年)、明治維新という擬装を通して近代化された(『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織、2012年)ことを思えば、この国はたぶん理念を欠いている。ただし四方を海に囲まれた地理的優位さが歴史と伝統の形成を可能にした。

 近代日本において左翼と右翼を定義することは難しい。江戸末期では攘夷派も開国派も尊王を標榜しており(『攘夷の幕末史』町田明広、2010年)、倒幕という運動性と残虐な急進性からすれば攘夷派は完全な左翼である。ところが右翼の原点は西郷隆盛の精神にあり、玄洋社(1881-1946年)が道を開いたのである。昨今では「過激な」右翼と「穏健な」左翼という顛倒(てんとう)した事態となっている。

 1922年(大正11年)に日本共産党が結成される。度重なる弾圧を経て、しばしば破壊活動を起こし、同党は敗戦の後に合法化される。これをもって「左翼とは『天皇制』打倒を目論み、日本文化を否定しかつ破壊へと導く思想・行動」と認められるか。

 スターリンが言い始めた「天皇制」(emperor system)とのキーワードは左翼用語であり、個人的には「いわゆる天皇制」(「いわゆる従軍慰安婦」に倣〈なら〉う)と表現したい。制度を導入したというよりは自然発生的であったと考えるためだ。文脈によっては「天皇制」と鍵括弧を付けることにする。

 わしは戦後180度転換したこの日本の「空気」をすべて疑う(中略)

 日本を覆うその「空気」とは…(中略)

 新聞のほとんどに彼らはいる

 テレビ 雑誌 マスコミ内に いる

 教育界にかなりいる

 司法関係者にいる

 国外にまで暗躍している

 この「残存左翼」に操られやすいのが「うす甘いサヨクの市民グループ」だ

 明確な左翼思想を持つわけでなく…人権・平等・自由・フェミニズム・反戦平和などの思想が彼らを突き動かす(中略)

「うす甘いサヨク市民グループ」の周りには 大多数の「うす甘い戦後民主主義の国民」がいるわけである

 つまり「人権」「自由」「個人」「反戦平和」などの価値を揚げれば「残存左翼から「うす甘いサヨク市民グループ」から「戦後民主主義者」まで大同団結できてしまう

 要するに戦後民主主義は「サヨク」なのだ!

 それが「空気」の正体である

 次に紹介するのはニコニコ大百科(仮)の「サヨク」という項目である。

 サヨクとは、本来の左翼思想と「人権・平等・環境」といった理念を振りかざす左翼シンパシー的な立場を区別する上で、用いられる用語である。

 現在はネット言論(2ch、ブログなど)において広く用いられている。レッテル・蔑称としても用いられる。

概要

 明確な定義について見解は分かれるが、一般的には左翼思想及び共産主義体制の近隣国家にシンパシーを示すが、正面からマルクス主義的な社会革命を標榜することはなく、「平和・国際協調・人権・民主主義・環境保護」といった口当たりのよいスローガンを掲げて活動する思想・立場のことを言う。

 カタカナ表記の「サヨク」は小説のタイトルとしてつかわれることもあったが、漫画家の小林よしのりによって、従来の左翼と区別される思想・政治的立場を示す語として積極的に用いられるようになった。小林は、「サヨク」という語を、イデオロギー的な議論を避け、表面的なスローガンに論点をすりかえる方法論を、カタカナ表記のフランクさによって揶揄する意味で用いたと考えられる。

「サヨク」の背景

 冷戦下の政治工作の一環として、共産主義陣営は資本主義国内部の批判勢力を組織・支援した。こうした工作はマスコミや「進歩的知識人」「市民団体」などを通して行われたが、このときに用いられたのが「平和・民主主義」といったスローガンであった。

 ソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義が失敗をみたことが知れ渡ると、イデオロギーとしての左翼は求心力を失ったが、これらの批判勢力は口当たりのよいスローガンに身を隠しつつ、活動を継続していった。

「サヨク」はこうしたイデオロギー的ルーツを表面に出すことなく(または自覚することなく)現在も根強く活動している。

ニコニコ大百科(仮)

 左翼はフランス革命の急進派(ジャコバン党)に始まり、共産主義・社会主義を経て、リベラル派への変態を辿る。日本においては東京裁判史観に基づく戦後教育が、昭和期に至るまでの伝統を消し去った。経済成長を遂げるにつれ武士道という節度も溶解した。愛国心は鼻で笑われ、国民は国体を見失った。

 日本の近代史は奥が深い。GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争贖罪意識洗脳プログラム)や薩長土肥によって綴られた明治維新以降は、飽くまでも「官軍の歴史」であると理解すべきだろう。

 佐藤優が小林を批判していた。気をつけなければならないことは佐藤の指摘は歴史認識としては正しいのだが、GHQによる占領政策から人々の目を逸(そ)らさせてしまう点にある。彼はそれを計算ずくで行っているのだろう。私としては小林の漫画は読むに堪(た)えないし、「わし」という言葉づかいが社会性を無視して鼻持ちならないが、小林の書籍や言動から少なからず影響を受けており、敬意を表するものである。

 民主制(※デモクラシーを民主主義とするのは誤訳)は情報公開(ディスクロージャー)によって作動する。私が民主制よりも貴族制を重んじるのは、あらゆる国家において100%の情報が公開されることはないと考えるためだ。

 左翼という政治性、サヨクという知的欺瞞、反日という民族嫌悪は平和という名の温室で栽培された。戦争は経済問題に起因する。そして経済は気温に左右される。すなわち地球の寒冷化が戦争を生むのだ。国内情勢を見るだけでも地球温暖化の嘘が知れよう。温暖で作物が豊富にとれれば人々は争わない。石油の確認埋蔵量も増えているからエネルギー確保が戦争要因となることも考えにくい。いずれにせよ2020年の東京オリンピックまでには明らかとなるに違いない。

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論 (2)新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

アンサイクロペディア:左翼
左翼有名人リスト
日本共産党が機関紙「赤旗」紙上で32年テーゼを発表

会津戦争の悲劇/『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

2015-05-06

戦争まみれのヨーロッパ史/『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト


 近代資本主義の始めを考察し、それを誕生させた外的なもろもろの状況を思い浮かべるとき、十字軍の戦いからナポレオン戦争にいたるまでくりひろげられた永遠の係争と戦争に注目しないわけにはいかないであろう。イタリアとスペインの両軍は、中世後期には唯一の軍隊であった。英仏両国は14世紀から15世紀にかけての100年間にわたって戦った。ヨーロッパにおいて戦争がなかった年は、16世紀においては25年間、17世紀においてはただの21年にすぎなかった。したがって、この200年間に戦争があった年は、154年になる。オランダの場合、1568年から1648年までの間、80年が、そして1652年から1713年までの間は、36年が、戦争の年であった。145年のうち116年は、戦争の年であったわけだ。そしてついに、相次ぐ革命戦争の中で、ヨーロッパの民衆は、最終的な巨大な衝撃を体験する。ところで、そのさい戦争と資本主義との間になんらかの関連があるに違いなかったことは、ちょっと考えただけでも、確実だと思われる。

【『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト:金森誠也〈かなもり・しげなり〉訳(論創社、1996年/講談社学術文庫、2010年)以下同】

 原著刊行は1913年。第一次世界大戦が翌年に始まる。ヨーロッパの歴史は戦争の歴史であった。第1回十字軍(1096–1099)からナポレオン戦争(1803-1815) までは約700年を要する。ゾンバルトが触れているのはヨーロッパ中世盛期から近世に至るまでであるが、それ以前はゲルマン民族の大移動を中心とする民族移動時代で、これまた戦争・紛争の時代といってよい。

 環境史(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)では寒冷化を戦争要因として挙げるが、ヨーロッパ史を動かしてきたのはキリスト教であり、宗教戦争の色合いが強い。三十年戦争(1618-1648)が終わるとドイツの人口は「1800万から700万に減ったという」(世界史講義録 第65回 ドイツの混迷・三十年戦争)。

世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数

 しかし、それでもなおかつ【戦争がなければ、そもそも資本主義は存在しなかった】。戦争は資本主義の組織をたんに破壊し、資本主義の発展をたんに阻んだばかりではない。それと同時に戦争は資本主義の発展を促進した。いやそればかりか――戦争はその発展をはじめて可能にした。それというのも、すべての資本主義が結びついているもっとも重要な条件が、戦争によってはじめて充足されたからである。
 とりわけわたしは、16世紀と18世紀の間にヨーロッパで進行した資本主義的組織の独自の発展の前提となった国家の形成について考えている。とくに説明する必要はないが、近代国家はひたすら軍備によってつくられた。それは近代国家の外面、国境線、またそれに劣らず内部の構成についてもいえることだ。行政、財政は、近代的意味において、戦争という課題を直接果たすことによって発展した。16世紀以降の数世紀においては国家主義、国庫優先主義、軍国主義は、まったく同一であった。なんぴとも熟知しているように、植民地は大勢の人々の血を流した戦闘によって征服され、防衛された。中近東のイタリアの植民地から始まってイギリスの大植民地にいたるまで、植民地は他国民を武力で駆逐することによって獲得された。

 戦争が莫大な需要を喚起した。カネがなければ戦争はできない。そして鉄と弾薬が工業を発展させる。

 間断なき戦争を遂行しながらヨーロッパは魔女狩りを同時に行った。帝国主義以降はアフリカ黒人を奴隷にし、アメリカ大陸でインディアンを大量虐殺する。

 思い切りのよい人殺しを可能にしたのは「正義」という病であった。病気をもたらしたのはもちろんキリスト教だ。「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。

 もともとヨーロッパの植民地であった北米は第二次世界大戦を経て世界に君臨し、その後「経済政策としての戦争」を推し進める。戦争はインフラを破壊し(スクラップ)、再構築(ビルド)することで投資と雇用機会を生む。

 ヴェルナー・ゾンバルトマックス・ウェーバーと並び称される経済史家だが明らかに了見が狭い。戦争が資本主義の発達に大きな役割を果たしたことは確かだろうがそれがすべてではない。株式会社は大航海時代から誕生した(『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦)。また経済史という点では三大バブルも見逃せない。更に戦争経済におけるユダヤ資本の影響を考慮する必要があろう(『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵)。

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2014-04-12

人類の戦争本能/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ


・人類の戦争本能
アメリカを代表する作家トマス・ウルフ

「(中略)どこか海外の、別の戦区はどうですか。デスクワークが退屈なら、前線に出るのは?」
「とくにそういう希望はありません」と若い軍曹は言った。
「じゃ何が希望なのかな」
 軍曹は肩をすくめ、自分の手を眺めた。「平和に暮らしたいです。なぜか一晩のあいだに世界中の銃砲類が一つ残らず錆(さ)びつき、細菌爆弾の細菌が死に絶え、戦車が突然タールの穴と化した道路で有史前の怪物のように沈んでしまえばいい。それが私の望みです」

【「木製の道具」/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ:小笠原豊樹〈おがさわら・とよき〉訳(河出文庫、2011年/集英社、1978年/集英社文庫、1982年)以下同】

 河出書房新社から復刊。20年振りに再読した。「読む官能」ともいうべき刺激に溢れている。やはり小説は年をとらないと読めないものだ。そこそこ面白かったと記憶していたが、そんなレベルではなかった。『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア、『廃市・飛ぶ男』福永武彦、『日日平安』山本周五郎、ちくま日本文学の『中島敦』、それに本書を加えて短篇集ベスト5としたい。467ページのどこにも隙(すき)がない。本が涎(よだれ)だらけになってしまった(ウソ)。

 神経過敏症と思われる軍曹が上官に呼ばれる。戦地で平和を望むのは子供染みている。という「常識」にブラッドベリは罠を仕掛ける。ゆっくり時間をかけて丹念に読まないと味わいが薄くなる。絶品の料理に舌鼓を打つようなものだ。


 だが軍曹は自分の手にむかって語りつづけ、その手をひっくり返しては指をじっと見つめるのだった。「もしあすの朝起きたら銃砲類がぼろぼろに錆びていたとして、あなた方士官のみなさんは、私たち部下は、いや【世界全体】はどうするでしょうか」
 この軍曹は注意深く扱わねばならない、と思った士官は、静かな笑顔を見せた。
「それは面白い質問ですね。そういう仮定について話すことは興味深い。恐慌状態が広範囲に広がるだろうというのが私の答です。どの国も世界中で武器を失くしたのは自国だけだと考えて、その災厄をもたらした張本人としての敵国を非難するでしょう。自殺や、株の暴落が続けさまに起って、数限りない悲劇が生れるでしょう」
「しかし、その【あと】は」と軍曹は言った。「すべての国が武器を失ったことは事実だとわかり、もう何一つ恐れるべきものはない、私たちはみんな新鮮な気持で再出発できるのだとわかったあとは、どうなります」
「どこの国も先を争って再武装するでしょうね」
「もしそれを阻止できたとしたら?」
「その場合は拳で殴り合うでしょう。事態がそこまで進めばの話ですが。鋼鉄のスパイクのついたグローブをはめて、男たちの大群が国境地帯に集まるでしょう。そのグローブをとりあげれば、爪や足を使うでしょう。脚を切り落せば、唾を吐きかけ合うでしょう。舌を切り、口にコルクを詰めたとしても、男どもは大気を憎しみで満たすでしょう。その大気の毒にあてられて、蚊も地面に落ち、鳥も電線からばったり落ちるほどにね」
「じゃ結局、武器を破壊しても、なんにもならないということですか」と軍曹が言った。
「その通りです。ちょうど亀の甲羅を剥がすようなものだ。ショックのあまり、文明は息がとまって死ぬでしょう」

 再読したのは「その場合は拳で殴り合うでしょう」の科白(せりふ)を確認するためだった。人類の戦争本能をこれほど見事に語った言葉を私は他に知らない。「人類の」というのは言い過ぎだが、集団に戦争本能が存在することは否定できまい。我々の社会ではそれを「競争」と呼ぶ。

 平和を夢見る軍曹の戯言(たわごと)が少しずつ色を変える。そして寛容な上官の言葉がどんどん尖鋭化(せんえいか)してゆく。まさに戦争と平和が対立する姿だ。

 物語はあっと驚く展開となり劇的に幕を下ろす。軍曹を「神の化身」と考えれば、物語の味わいは更に深まる。

とうに夜半を過ぎて (河出文庫)

本のない未来社会を描いて、現代をあぶり出す見事な風刺/『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2014-04-03

被爆を抱えた日常/『夕凪の街 桜の国』こうの史代


 ・被爆を抱えた日常

『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎
小倉に投下予定だった原爆

 死体を平気でまたいで歩くようになっていた
 時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った

 地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた

 わたしは
 腐ってないおばさんを冷静に選んで
 下駄を盗んで履く人間になっていた。

【『夕凪の街 桜の国』こうの史代〈ふみよ〉(双葉社、2004年)】

 昭和20年8月7日、広島。これは原爆が落とされた翌日の出来事である。その地獄絵図にどうしても私の想像が及ばない。私が知っている暴力は殴ったり蹴ったりするレベルのものだ。人間が人の形を維持したまま炭化したり、影しか残っていなかったりするのは一瞬の出来事である。そこに感情を喚起する余地はない。まったくない。化学反応のように始末あるいは処分されただけだ。それもボタンひとつで。

 マンガ作品としてはそれほど評価できない。物語が寸断されており、出来損ないのモザイク画みたいになってしまっている。ただし描こうとしたテーマは素晴らしいと思う。被爆を抱えた日常はそこはかとなく死とあきらめ、倦怠感に包まれている。

 広角で描かれた淡い景色が味わい深い。原爆ドームのカットを見るだけでも本書を読む価値がある。ラストにかけて絵は消え失せ、主人公の科白(せりふ)だけが続く。そこに強い憎悪は見られない。庶民の感覚からすれば「どうして?」という疑問は浮かんでも、この惨劇を遂行した人間の姿が浮かび上がってこないためだろう。人間の所業とは思い難い残酷を繰り返すのが人類の業(ごう)なのか。

 アメリカは原爆投下に関して一度も謝罪をしていない。そのアメリカに安全を保障してもらうというのだから日米安保ほど不思議なものもあるまい。原爆を落とされた唯一の国が戦後、アメリカの核の傘の下に入るというのも理解しにくい。傘から核が振ってくる可能性はないと言い切れるのか?

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2014-03-08

戦争を認める人間を私は許さない/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
・戦争を認める人間を私は許さない

 東京に出たいと願っていたことも、それと無関係ではあるまい。絵かき仲間との接触や交流に私は何を求めていたというのか。そんな所から新しいモチーフが生まれたとしても、新しい表現技術を学んだとしても、それは皮相のことでしかないだろう。必要なものは、外なるものではなく、内なるものであることを私は忘れていたのだ。
 シベリヤがそんな私を徹底的に叩き直してくれた。シベリヤで私は真に絵を描くことを学んだのだ。それまでは、いわば当然のことと前提していた絵を描くことができるということが、何物にもかえがたい特権であることを知った。それが失われたときはじめて私は水を失った魚のように自分の命を支えていたものを知ったのだ。描いた絵の評価、画家としての名声、そんなこととは一切無関係に、私はただ無性に絵が描きたかった。そして、以前は苦労して求めていたモチーフが、泉のように無限に自分の中から湧いてくるのだった。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

 出征前、30歳の香月は中央進出を目指し、35歳までに画家としての地位を確立したいと考えていた。青年から壮年へと向かう季節だ。努力よりも結果が問われ、社会は「何ができるか」を求める。プロとは「それで飯を食ってゆける」人の異名だ。世間の評価を求めるのは決して不自然なことではない。だが違った。間違っていた。


 香月が求めていたのは技巧ではなかった。生きるか死ぬかという瀬戸際で技巧は通用しない。苛酷なシベリヤが「徹底的に叩き直し」たのは絵筆を握る握力そのものであった。強制収容所も香月の手から絵筆を奪うことはできなかった。そして抑留者を見放した祖国へ帰ってからも香月は絵筆を堅持し続けた。死して尚、香月は絵筆を握りしめていることだろう。

 私のシベリヤは、ある日本人にとってはインパールであり、ガダルカナルであったろう。私たちをガダルカナルに、シベリヤに追いやり、殺し合うことを命じ、死ぬことを命じた連中が、サンフランシスコにいって、悪うございましたと頭を下げてきた。もちろん講和全権団がそのまま戦争指導者だったというわけではない。しかし私には、人こそ変れ同じような連中に思える。指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない。
 講和条約が結ばれたこと自体に文句をつけるつもりはない。しかし、私はなんとも割り切れない気持をおぼえる。すると我々の闘いは間違いだったのか。間違いだったことに命を賭けさせられたのか。指導者の誤りによって我々は死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、いちはやくあれは間違いでしたと謝りにいく。この仕組みが納得できない。私自身が、そして戦争に参加した一人一人の人間が講和を結びにいくというのなら話はわかる。どこか私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。この仕組みがつづく限り、いつ同じことが起らないと保証できよう。
 とにかく一切の指導者、命令する人間という者を信用しない。だから組織というものも右から左までひっくるめて一切信用しない。学校の教師をしていた時代も、私は一人だけ組合に入らないで頑張り通した。命令されることは何事にまれ拒否するつもりだ。やることがあったら一人でやる。
 シベリヤホロンバイルインパールガダルカナルサンフランシスコ三隅(※現在は長門市)の町に住み、ここだけを生活圏としてはいるが、私はこの五つの方位を決して忘れない。五つの方位を含む故郷、それが、“私の地球”だ。

 芸術家の血を吐くような叫びだ。シベリア抑留の恨みを抑えた分だけ怒りの深さが伝わってくる。国家とはいつの時代も国民を使い捨てにするシステムなのだろう。戦争、増税、社会保障切り捨てと、手を変え品を変え国民から奪い続ける。国家とはブラックホールの異名か。

 人間は弱い。弱いから群れる。群れは一定の安全を保証してくれる。ただしその見返りとして魂の切り売りが求められる。組織の規模が大きくなればなるほど腐敗の度を深めてゆく。

 香月はシベリヤで目を覚ました。果たして私はどうか。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
立花 隆
文藝春秋
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香月泰男美術館
雪舟・香月泰男コレクションの山口県立美術館
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎