2011-11-18

マフムード・アフマディーネジャード、イラン大統領「ビンラディンはワシントンにいる」


 2010年12月、ABCインタビュー。


 恥知らずで思い上がったアメリカ人記者と、知的で謙虚な大統領の姿が好対照をなしている。

ロン・ポール 大手メディアCBSもついにトップ大統領候補一人と認める


 先週の土曜日のディベイドからCBSは態度を変えたようです。3日前、CBSは一時間番組で外交政策の討論会を主催しましたが、ロン・ポールはたったの90秒しか放送されなかったのです。しかし、CBSも他のライバル会社同様に、ロ­ンボールを取材にやって来ました。ブルーンバーグはロン・ポールはアイオアでトップ争いをしていると報じ、それほどロン・ポール氏に対して友好的ではない、CBSもトップ争い候補者だと認めました。(11月17日)


 共和党ロンポール氏は共和党大統領予備選挙に出馬中で、先日アイオアの擬似投票では僅差の2位につけました。個人の自由を保護、小さな政府(政府の介入に反対)、連邦銀行の(最終的に)廃止、海外米軍撤退などを掲げています。(8月24日)


豆長者

NATOリビア戦争「カダフィの死は政治的暗殺」元フランス大使


カダフィ

政府による自作自演テロの例

「一人っ子政策」の陰で人身売買(中国)

アフガニスタンのレンガ工場における子供たちの奴隷労働



子どもを喰う世界ちいさな労働者―写真家ルイス・ハインの目がとらえた子どもたち告発・現代の人身売買 奴隷にされる女性と子どもわたし8歳、カカオ畑で働きつづけて。―児童労働者とよばれる2億1800万人の子どもたち

深海までいけるようなテンション

2011-11-17

ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン


『奴隷船の世界史』布留川正博
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『ダッチマン/奴隷』リロイ・ジョーンズ

 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点

『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

 近代ヨーロッパの繁栄を支えたのは奴隷の存在であった。つまり産業革命も国民国家もアフリカ人を踏みつけることで成立したわけだ。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある(Wikipedia)。その後、アメリカ先住民を大量虐殺したヨーロッパ人は労働力として1000万人を超える黒人を輸入した。

Slave trader ledger p.12
(奴隷商人の元帳、1848年)

 奴隷は「物」であった。本書でも法的には「動産」として扱われている。ナット・ターナー(1800-1831年)は実在した人物だ。彼が首謀者となって55人の白人を殺害し、20名あまりが身体に障害を被(こうむ)った。

 本書の冒頭に掲げる《公示》と題した一文は、このボードに関して当時記録された唯一の重要文書に付せられた序文である。この文書は約20ページからなる小冊子で、『ナット・ターナの告白』と大され、翌年初頭リッチモンドで出版されたものであるが、私はその小冊子のいくつかの部分を本書に織りこんだ。物語を書き進めるにあたり、私はナット・ターナーと彼を首謀者とする反乱に関して、【既知の】事実はできるだけ忠実にたどったつもりである。

【『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン:大橋吉之輔〈おおはし・きちのすけ〉訳(河出書房新社、1970年)以下同】

 事実を元にしたフィクションである。当然ではあるが実際のナット・ターナーとは違っていることだろう。しかしながら、ウィリアム・スタイロンの想像力が吹き込まれて、ナット・ターナーが歴史の彼方から蘇ってくるのだ。その意味では著者の己心に実在したナット・ターナーといえるだろう。

Slave

 闇は眼に快かった。長年のあいだ、この時刻には祈りをあげるか、聖書を読むのが私の習慣だった。しかし、囚人となってからのこの5日間、私は聖書を持つことを禁じられ、祈りについては――そう、唇から祈りの言葉をむりやりにでも押し出すことが全くできなくなっていることは、私にとってもはや驚きでもなんでもなくなっていた。だが、この日々の勤行をやりたいという強い欲求はまだあった。それは私が大人になってからずっと長いあいだ、肉体の機能のように単純で自然な習慣になっていたのだ。だがいまは、私の理解を越えた幾何学とか他の不可思議な学問の問題のように、やりとげることがまるで不可能なように思えるのだった。今となっては、いつ自分に祈る力がなくなったかを思い出すこともできない――1ヵ月、2ヵ月、あるいはそれ以上前だったかもしれない。何故その力が私から消え失せたか、その理由でも分かっていれば、せめてもの慰めになっていただろう。ところが、それすらわからず、私と神とへだてる深淵にはいかなる形のかけ橋も見当たらなかったのだ(後略)

 本書のテーマは宗教と暴力である。『一九八四年』は全体主義と暴力を描いた。『黒い警官』は権力と暴力を描いた。この3冊は暴力三部作と名づけていいだろう。私が読んできた小説で最高の部類に君臨する。

 ナット・ターナーは奴隷でありながら読み書きができた。また霊感も強かったようだ。弁護士のグレイはナットのことを「神父さん」と呼んでいる。

 人を疑うことを知らなかったアフリカ人が、まんまとヨーロッパ人に騙されてアメリカへ輸入された。船倉に押し込められ、劣悪な環境の中で死んでいった人々も多かった。鎖に縛られて運ばれたアフリカ人は、アメリカに降ろされると今度は鞭を振るわれた。

whippingPostDover,Del

 鞭を持つのは神の代理人である白人であった。彼らは「神の支配」という妄想に取りつかれているため、その反動として現実世界で支配せずにはいられないのだ。他国をヨーロッパの植民地とするのは当然の権利であり、グローバルスタンダードという名を借りた自分たちのルールを押しつけるのも朝飯前だ。

「南部だけじゃなく北部でも、アメリカじゅうで、みんなが不思議に思った、どうして黒んぼどもがあんなに団結できたんだろう? どうしてあいつらがあんな【計画】を考えだし、それを整然と言ってもいいくらいにおし進めて、実行に移すことができたんだろう、とね。だが、だれにもわからなかった、真相はどうしてもつかめなかった。なにがなにやらさっぱりで、五里霧中の有様だったわけだ」

 白人が黒人を猿同様に考えていたことがよくわかる。

 すべての黒人が12歳か10歳かあるいはそれよりも早くから、自分は白人から見れば人格も道徳観も魂も欠けたただの商品、品物にすぎぬことを自覚するときにもつようになるあの内的な感じ――それは言葉で表わすことはほとんど不可能な実在感だ――を表現したのもハークだった。その感じをハークは【黒ぼけ】と名づけたが、それは私の知っているどの言葉よりも、すべての黒人の心情にひそむ麻痺状態と恐怖とを簡明に表現している。

 黒人が奴隷となる様相を見事に描いている。自由を奪われた人間は無気力になる。奴隷という身分自体が強制収容所と同じ機能を果たすのだ。

「お前の評判は、いわば、お前に先行してるんだ。ここ数年間、ひとりの非凡な奴隷についての驚くべき噂がわしの耳にとどいていた。その奴隷は、このクロス・キーズの近在で何人かの主人に、転々と所有されたが、もって生まれた卑賤な境遇をよく克服して――語るも不思議(ミーラーピレ・デイクトゥ)や――すらすらと読み書きができるようになり、その証拠をみせろとあれば、自然科学のむつかしい抽象的な著作も読解してみせるし、また、口から出まかせの口述筆記もみごとな書体で何ページでもやってのけるし、さらに、簡単な代数が分かるくらいに算数もマスターしているし、他方、聖書のほうの理解もずいぶん深いもので、数少ない神学の大家のうち彼の聖書の知識を試験したものたちは、彼の博学のすばらしさに驚いて首をふり退散したそうだ」彼は言葉を切り、げっぷをした。

「要するに、この呪われた国のもっとも惨めな底辺の一人でありながら、自分の悲惨な境遇をよく克服して物ではなく【人間】になった一人の奴隷の存在を想像するということは――そんなことは、どんな奔放な想像の域をも越えた話だ。否(ノー)、否(ノー)! そんな異形(いぎょう)のイメージを受け入れることを拒否する! 説教師さん、【ネコ】という字はどう書くのかいってみてくれ、え? さあ、この悪ふざけの流言の本当のところをわしに証(あか)してみせてくれ!」

 読み書きは自問自答へといざなった。信仰は神との対話であった。ナット・ターナーの内側では他の奴隷たちと隔絶した自我が芽生えたのだろう。そもそも学ぶこと自体が自由を意味する。そして自由を享受するほど不自由に敏感となってゆく。

 ナットの主人であるサミュエル・ターナーは奴隷制に反対していた。しかし不幸なことにナットの知性は本質を見抜いていた。

 しかしいぜんとして不幸な事実は残る。暖かい友情や一種の【愛情】が(※主人であるサミュエル・ターナーとナットの)二人のあいだに通いあってはいたが、私が養豚とか新式肥料の散布のばあいとまったく同じような実験対象にされていたことに変わりはないのだ。

 ある日のこと、仲間が売られてしまったことにナットは気づく。サミュエル・ターナーは弁明した。

「たしかに、真の人間といえるものはまだどこにもいはしない。【たしかに】そうなんだ! なぜなら、これまでの人間は分別のない愚かものばかりで、それだけがおのれの同属、同胞と卑劣きわまる関係を保って生きているのだ。それ以外にどうしてあんなにぶざまで恥かしい憎むべき残酷さを説明できようか! ふくろねずみやスカンクでさえもっと分別がある! いたちや野ねずみでさえ自分の同類い対しては天性の愛情というものをもっている。人間と同じように低劣ことがやれるのはただ虫けらだけだ――夏になるとポプラの木に群がって、甘い蜜を分泌する小さなあぶらむしどもと貪婪(どんらん)に結ばれようとする蟻のように。そうだ、たぶん真の人間らしい人間はまだどこにもいはしないのだ。ああ、神はどんなにか痛恨の涙を流していらっしゃることか、人間の他の人間に対する所業をごらんになって!」急に言葉がとぎれた。見ると彼は発作を起こしたように首をふり、とつぜんこう叫んだ、「それもすべて金の名において行なわれているのだ! 【金】の!」

 サミュエル・ターナーは罪悪感を隠せなかった。そしてナットをも手放すことになる。新しい主人はエップス牧師だった。

「話によるとだな、黒んぼの男は一般にふつうよりも1インチ長い一物(いちもつ)をもっとるそうだが、そうなのかい、ぼうや?」
 私は、ふるえる指を太腿に感じながら、じっと押し黙っていた。

 エップス牧師は男色家だった。ナットが拒むや否や苛酷な労働を命じ、あろうことか近隣の人々に無料でナットを貸し出した。この二つの出来事がナットの心に暗い影を落としたことは容易に想像がつく。

 飢えと同様、私は鞭も経験したことがなかった。鞭がふりおろされて首筋に火縄のようにまきついたとき、痛みが光のように炸裂して頭蓋の空洞のなかでぱっと花ひらいた。私は思わずあえいだ。痛みは喉の内側につきぬけて尾をひき、私を窒息させてしまいそうな気がしたので、さらにまたあえいだ。そのときになってはじめて、つまり数秒後のことだが、やっと鞭の音が私の心に知覚され――それは空を切る鎌のような妙にもの静かなひゅうという音だった。またそのときはじめて、私は片手をあげて生皮鞭が肉にくいこんだ箇所をさわってみたが、熱くねばねばした血の流れを指先に感じた。

1863
(鞭打ちによる傷痕、1863年)

 白人に対する鋭くはげしい憎悪は、もちろん、黒人たちが心のなかに容易に抱きうる感情である。しかし実をいえば、すべての黒人の心のなかにそのような憎悪が充満しているわけではない。それが至るところで華々しくはびこるには、あまりにも多くの神秘的な生活や機会の様式(パターン)が必要なのである。そのような真実の憎悪――それは非常に純粋かつ頑固な憎しみで、どんな人間味のあるあたたかい気持も、どんな共感や同情も、その石のような表面には微細な刻み目やひっかき傷すらつけられないほどのものだ――は、すべての黒人に共通しているものではない。それは、残忍な葉をつけた花崗岩の花のように、育つときには育っていくが、それももとはといえば不確かな地面にまかれた弱い種子から出てくるのである。その憎悪が完全に結実するには、悪意にみちた充分な育ち方をするには、多くの条件が必要だが、そのうちでも、黒人がそれまでのある時点において白人とあるていど親しく暮らした経験があるという事実はもっとも重要な条件である。黒人が自分の憎悪の対象をよく知るということ、白人の策略、欺瞞、貪欲さ、腐敗の極致、を知るようになるということは、もっとも必要なのだ。
 なぜなら、白人を親しく知らなければ、その気まぐれで不遜な温情に屈服したことがなければ、その寝具や汚れた下着や便所の内部の臭いをかいだことがなければ、自分の黒い腕が白人女の指にさりげなく横柄にさわられたことがなければ、また、白人がふざけたり、くつろいだり、心にもない信心をしたり、下劣な酔っ払いかたをしたり、干し草畑で欲情まるだしに不倫の交接をしたりするところを目撃したことがなければ――そういう打ちとけた内輪の事実を知悉していなければ、黒人の憎悪はあくまでたんなる【見せかけ】にすぎないのだ。そんな憎しみは抽象的な幻想にすぎない。

 奴隷が立ち上がるには白人の権威を失墜させる必要があった。権威とは神格化の異名でもある。天上人(てんじょうびと)と思い込んでしまえば、手が届かないから殴る気も起こらない。

 ナットは実際には一人の白人娘を殺しただけであった。そのことについて書かれたページがあるのを今思い出した。

ウイリアム・スタイロン 『ナット・ターナーの告白』をめぐる諸問題

 ナットは弁護士のグレイにこう告げた。

 しかし、これだけはいっておきたい、それをいわなければ黒人の生存の中心にある狂気を理解していただけないからだ――すなわち、黒人というものは、叩きのめし、飢えさせ、自分自身のたれた糞の中にまみれさせておけば、これは生涯あなたのいいなりになるだろう。突拍子もない博愛主義のようなものを仄めかして畏れさせ、希望を持たせるようなことをいってくすぐると、彼はあなたののどをかっ切りたいと思うようになるだろう。

Nat Turner -Nat_Turner_captured
(ナット・ターナー)

 この複雑性を理解するのは難しい。ただしヒントがある。

 夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。
 メーデー前日の4月30日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。
 これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

 恵まれた位置から施される優しさは、時に暴力と等しい力を発揮する。人間らしさに触れることで苦しみの純度が高まるのだろう。単なる惨めさではない。相手と自分との間に存在する世界の深淵を垣間見てしまうためだ。微温的な態度が人を傷つけることは日常でも決して珍しいことではない。

 またナットが叛乱を成功に導くことができなかったのは、ただ単に暴力への耐性がなかったためだろう。

William Styron
(ウィリアム・スタイロン)

 出版直後から異論・反論も多かったようだが、ウィリアム・スタイロンは見事にナット・ターナーを蘇らせた。

 ナットの人間的な資質もさることながら、私はキリスト教に巣食う暴力的な側面を見逃すことができないと考える。バイブルには暴力と死がゴロゴロ転がっている。で、一番人殺しに手を染めているのは神様自身なのだ。神は人間に命令する。それが妄想であったとしても、敬虔なクリスチャンであれば実行するに違いない。

「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた

 絞首刑に処されたナットの遺体は皮をはがれ、首を切られ、八つ裂きにされた。そして復讐の念に燃えた白人の暴徒は手当たり次第に黒人をリンチした。


ナット・ターナーが反乱を起こした日
キリスト教の浸透で広がった黒人霊歌の発展
ついに自由を我らに 米国の公民権運動(PDF)
クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義
大阪産業大学付属高校同級生殺害事件
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
日本における集団は共同体と化す/『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平
愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
子供を虐待するエホバの証人/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

「侵略国アメリカの新戦略ツイッタ- 2009年イラン選挙」ティエリ・メサン

2011-11-15

水野和夫、萱野稔人


 1冊読了。

 68冊目『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫、萱野稔人〈かやの・としひと〉(集英社新書、2010年)/これは勉強になった。対談、鼎談の類いでは『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』に次ぐ面白さである。萱野といえば朝日ニュースター(CS放送)「ニュースの深層」でお馴染みだが、哲学者だとは知らなかった。年長者である水野の礼儀正しさが対談を爽やかなものにしている。昨今の世界的な経済危機は資本主義の転換点であるという主張は十分頷けるものだ。

アサド軍に拷問された遺体 2011年11月8日(シリア)


http://youtu.be/dxSmwO1aKi8

 ・アサド軍に殺された少女

教義、学問、知識、戒律、道徳

839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
Nov 15 via twittbot.netFavoriteRetweetReply


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ベネズエラ反大統領派候補らを銃撃、現場映像がユーチューブに


 ベネズエラの首都カラカス東郊で12日、来年の大統領選に向け反チャベス大統領派の候補者として名乗りを上げているマリア・コリナ・マチャド氏と支持者らが武装グループの銃撃を受け、同氏によると1人が負傷した。

 映像は約50秒間。最初の30秒では、同氏がソフトボール試合の始球式に登板した後、住民や記者らの前で話している。そこへ数発の銃声が響き、人々が四方八方へ散った。バスに乗る人の姿もあり、「行け、行け、行け」という声が聞こえる。ビデオが本物かどうかは確認されていない。

 一方、反政府紙ナシオナルが現場の模様として掲載した写真では、オートバイに乗った2人組のうち後部座席の1人がバスに銃を向けている。マチャド陣営の報道担当者はCNNスペイン語版に、オートバイの2人組がマチャド氏や支持者らの乗ったバスを銃撃したと語った。同氏にけがはなかった。

 大統領選では、反大統領派で名乗りを上げている数人の中から予備選で1人が選出され、チャベス大統領と対決することになる。

 マチャド氏はCNNスペイン語版とのインタビューで、銃撃は犯罪組織の仕業だと非難。「政府はそれを取り締まるどころか加担している」と述べ、政府から一部の組織に武器が提供されているケースもあると述べた。

 CNNは同国の内務司法省と通信情報省にコメントを求めたが、返答はなかった。

CNN 2011-11-14

2011-11-14

ハリウッドがアラブ人を貶めた





腐ったエリ-トと卑怯なメディア シャルリー・エブド放火事件


フランス風刺紙の編集部、火炎瓶で焼ける 表紙に預言者の風刺画

 イスラム教の預言者ムハンマド(Mohammed)を「ゲスト編集長」に見立て、2日発売号で「アラブの春(Arab Spring)」特集号を組んだフランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)」の編集部が、発売日未明に火炎瓶を投げ込まれ、編集部の中が焼けた。

 警察によると、パリ(Paris)にある同編集部で火災が発生したのは2日午前1時(日本時間同9時)ごろ。負傷者は出ていない。目撃者がAFPに語ったところでは、窓から火炎瓶が投げ込まれ、コンピューター・システムから火があがった。

 2日発売の同紙は「アラブの春」特集号で、シャリア(Sharia、イスラム法)にかけて紙名も「シャリア・エブド」(Charia Hebdo)に変え、表紙には「笑い死にしなければ、むち打ち100回の刑だ」と宣言する預言者ムハンマドの風刺画をあしらっていた。イスラム教では、預言者ムハンマドを描くことは厳しく禁じられている。

 同紙発行人のCharb氏は、「ツイッター(Twitter)やフェイスブック(Facebook)で、抗議や脅迫、侮辱などを何通か受け取った。全て警察に転送した」と述べ、放火はこの特集号に関係があると確信していると語った。

 同氏はイスラム教に対する挑発行為だという非難を退け、「いつも通りの本紙の仕事をしているだけだと思っている。今週号が違う唯一の点は、ムハンマドが表紙になっていることで、それは極めて珍しいことではあるが」と述べた。

 同紙は過去にデンマークの新聞に掲載された預言者ムハンマドの風刺画を転載し、ふたつのイスラム教団体から訴えられたが、2007年にパリの裁判所がこの訴えを却下し、怒った世界のイスラム教徒の間で抗議が広がった経緯がある。

AFP 2011-11-02


 2011年11月2日。風刺新聞「シャーリー・エブド」放火事件はイスラム教徒中傷目的の国家の陰謀の可能性が疑われる。この新聞はマホメット風刺画事件にも関わっている­。

【動画アップ主】

シャルリー・エブド紙事務所、放火される
ムハンマド風刺画事件
マホメット風刺画事件は帝国の陰謀

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従は服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 岡本浩一は東海村JCO臨界事故の調査委員を務めた人物で、東京電力の隠蔽体質は「無責任の構造」によるものと検証してみせた。

 集団における同調はソロモン・アッシュが同調行動の実験によって解明した。

アッシュの同調実験

 同調性に関する一連の見事な実験がS・E・アシュ(Ash,1951)によって行われている。6人の被験者集団が、ある長さの線を見せられて、別の3本の中でそれと同じ長さのものはどれか、と尋ねられる。実は被験者は一人を除いて全員が、毎回、あるいは一定割合で「まちがった」線の一つを選ぶように指示されている。何も知らない被験者は、集団の大半の人が答えるのを聞いてから自分の判断を述べるように仕組まれている。アシュによれば、このような社会的圧力の下では、被験者の相当数が自分の目という疑いようのない証拠を受け入れるよりも、集団に流されたという。
 アシュの被験者は集団に「同調」したことになる。本書での実験では、被験者は実験者に「服従」する。服従と同調はどちらも、自分の主体性を外部の源に預けることを指す。でも両者は重要な形で異なっている。

 1.ヒエラルキー●権威への服従は、行為者が、自分の上にいる人物が行動を指図する権利を持っていると感じるようなヒエラルキー構造の中で起きる。同調は同じ地位の人々の間で行動を左右する。服従はある地位と別の地位を結びつける。
 2.模倣●同調は模倣だが、服従はちがう。同調は、影響を受けた人が仲間の行動を採用するので、行動の均質化をもたらす。服従では、影響の源を模倣することなく、遵守が生じる。兵士は自分に与えられた命令を反復するだけではなく、それを実行する。
 3.明示性●服従においては、行動の指示は命令や指令の形をとるので明示的である。同調では、ある集団に流される要件は、しばしば暗黙のままである。したがって集団圧力に関するアシュの実験では、集団のメンバーから被験者に対して、自分たちに流されろというはっきりした要求が出されたりはしない。行動は自発的に被験者によって採用される。実際、多くの被験者は、集団のメンバーが明示的に同調しろと要求したら、かえって抵抗する。状況としては、その集団は平等な人々の集まりだとされているため、だれもお互いに命令する権利はないはずだからだ。
 4.自発性●だが服従と同調のいちばんはっきりしたちがいは、事後的に生じる――つまり、被験者が自分の行動をどう説明するかにあらわれる。被験者は、自分の行動の説明として同調は否定するが、服従は自ら認める。これをはっきりさせよう。集団圧力に関するアシュの実験では、被験者は自分の行動がどれだけ集団の他のメンバーに影響されたかについて、過小評価する。毎回集団に屈服した場合であっても、集団効果を最小化して、自分の自立性を強調したがる。判断をまちがえたとしても、それは自分自身のまちがいであり、目がよく見えなかったり、判断をあやまったりしただけなのだと固執することも多い。自分が集団に同調した度合いを最小化しようとする。

 服従実験では、反応は真逆となる。ここでは被験者は、被害者に電撃を加えるという行動について、一切の個人的な関与を否定し、自分の行動をすべて、権威が課した外的な要件に帰属させている。つまり、同調する被験者は、自分の自立性が集団によって阻害されたことはないと頑固に主張するのに対し、服従する被験者は、自分が被害者に電撃を加えるにあたり自立性はまったくなかったと主張し、自分の行動は完全に自分の埒外だったのだと述べる。
 なぜこうなるのだろう? それは同調というのが、暗黙の圧力に対する反応だからだ。仲間に屈する正当な理由を指摘できないために、自分が圧力に屈したことを否定するわけだ。それも実験者に対してだけでなく、自分自身に対しても。服従では、正反対となる。状況は公式に、自発性のないものとして定義づけられる。というのも、服従が期待されている明示的な命令があるからだ。被験者は、自分の行動についての全面的な説明として、この状況の公式な定義をよりどころとする。
 したがって服従と同調の心理的な影響はちがっている。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】



 最初の2回のテストでは、ほかのメンバーは正しい答えを言って、特に何事もなく進む。3回目では、3番目の線が正しいものなので、被験者はそう言おうと待ち構えている。ところが最初の被験者(※サクラ)は「(※長さが同じなのは)1番目の線です」と答える。そして二人目も「1番目の線です」と言う。ほかの参加者(※全員がサクラ)も「1番目の線です」と答える。回答が進むにつれ、真の被験者は何かが変だと考えるようになる。自分の番になったときには、その被験者は、自分の判断を信じるか、それとも意見が一致しているほあのメンバーの答えにあわせるかを今すぐ決めないといけないという困った状態に陥っていることに気づくのである。驚いたことに、だいたい13の試行において、真の被験者は、実験的に作り出されたいつわりの多数派に合わせた回答をしたのである。(ソロモン・アッシュの「同調行動の実験」)

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】



 実験をやってみると、驚くほど多くの人が、サクラの影響を受け、正しくない線分を答えることがわかった。この実験では、なんと35パーセントの誤答率を記録している。単独回答ならば、誤答率は5パーセントの課題である。
 実験中の被験者の様子の記述が残されている。その典型的な様子は次のようなものである。
 最初のサクラが間違えたとき、被験者は「バカな奴だ」という感じで笑っている。サクラの2人目くらいまでは、笑ったりそっくりかえったりしているが、3人目くらいから、まず、目を凝らしてカードを凝視する。それから、課題の内容を確かめようとするように、他の「被験者」(サクラ)の顔を見たり、実験者に、こと問いたげ(ママ/「物問いたげな」の間違いか?)な視線を送ったりする。4人目、5人目では、あきらかに不安な表情や苛立ちを様子に表す。そして自分の番となると、サクラたちと同じ答えをするようになるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】



 サクラの人数を減らして実験を行った結果、同調は、サクラが2人では有意に起こり始め、サクラが3人では、サクラがそれ以上の人数の場合とほとんどかわらない比率で同調が起こることがわかった。
 したがって、ごく少ない人数で同調が起こることがわかる。
 ここまで紹介した研究は、真の被験者が1人で、いつも1人対多数の同調者という条件の研究だが、自分以外に、同じ意見の人がいる場合はどうなのだろうか。
 同調しない「非同調者」がいる場合、同調はどのように変化するのだろうか。
 最初の実験では7人のサクラに対して、被験者はたった1人だったのだが、これが1人でなく2人だった場合、3人だった場合と、真の被験者の人数を変えて実験を繰り返している。その結果、被験者が2人ならば、同調の発生率は格段に下がることがわかった。つまり、被験者が孤立無援で同調する複数のサクラに出会ったときに、同調が起こるのである。逆にいえば、自分と同意見の正解者が1人でもいると、多数の他者と異なる違憲も表明しやすいということになる。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 見知らぬサクラの判断に影響を受けてしまうわけだから、友人などの感情を込めた反応に逆らい難いことは明々白々であろう。「エ、何言ってんの?(=ひょっとして馬鹿?)」という反応を我々は極度に恐れる。学校でのいじめを考えればもっとわかりやすいだろう。皆と違うことは「異質」と評価され、「排除」の対象となる。

 ここで重要なポイントを一つ。「権威」と「権力」は似て非なるものだ。

 権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】



注記。権威のなかに物理的強制力の現れしか見ない権威「理論」もたしかにある。だが後で見るように、物理的強制力は権威とは何の関係もないし、むしろそれとは正反対ですらある。だから、権威を物理的強制力に還元することは、権威の実在を端的に否定し、無視することである。したがって、われわれはこのまちがった見解を【権威の理論】のなかに含めない。

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】

 権威に強制力はないのである。

 では、なぜこのような非合理的な判断を我々はするのだろうか? 人間心理の奥深くを探ってゆくと、善悪が混沌となる領域、すなわち本能に辿りつく。

 同調する心理は「共感」のメカニズムと隣り合わせに位置するのではないかと私は睨(にら)んでいる。

 共感とは、ごく簡単に言うと、ほかの人や動物の状態に影響される能力のことだ。だから、誰かの振るまいをまねるといった単純な動きも、共感と呼ぶことができる。相手が頭の後ろで手を組むと、つい自分も同じことをやりたくなる。会議では、脚を組んだりほどいたり、上半身を前に傾けたりうしろにそらしたり、髪を直したり、テーブルにひじをついたりといった行動が伝染することが多い。ことにこちらが好感を抱いている相手だと、無意識に動きを合わせようとする。長年連れそった夫婦が似たものどうしになるのも、物腰や身ぶりが同調してくるからだろう。こうした模倣の威力を逆手にとって、人間どうしの感情を操作することもできる。こちらの動作を忠実にまねる人と、いちいちちがう動作をする人――実験でそうするよう指示されているからだが――では、後者への好感度が低くなるのだ。恋に落ちるとき、「ピンときた」と感じるのは、脚を開く、腕を広げるといったボディランゲージで憎からぬ気持ちを発信するのに加えて、意識しないままおたがいの行動を反射的に模倣してきた結果だろう。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】



 共感を抑え込んだり、心の中でブロックしたり、それに基づいて行動しなかったりすることは可能でも、精神病質者と呼ばれるごく一部の人を除いては、私たちはみな、他者の境遇に感情的な影響を受けずにはいられない。根本的であるにもかかわらず、めったに投げかけられることのない疑問がある。それは、自然淘汰はなぜ、私たちが仲間たちと調和し、仲間が苦しみや悲しみを感じれば自分も苦しみや悲しみを感じ、彼らが喜びを感じれば自分も喜びを感じるように人間の脳をデザインしたのかという疑問だ。他者を利用できさえすればいいのなら、進化は共感などというものには、ぜったいに手を染めなかっただろう。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)】

 よく「他者への想像力」といわれるが、ドゥ・ヴァールはこれを斥(しりぞ)ける。人間が共感的であるのは「生まれつき」であるという学説を紹介している。

 ここからが問題だ。共感と同調は似て非なるものだ。同調は周囲のテンポに合わせるだけの行動であろう。それに対して共感は相手の手を握り、肩を抱きしめる感受性である。合理性を飛び越えて、一緒に泣く精神である。

 全然まとまらないのだが、結論を述べてしまおう(笑)。共感力の強い人ほど同調しない――これが結論だ。理由は、私がそうであるからだ(笑)。


真の思索者は権威を認めない
あらゆる信念には精神を曇らせる効果がある/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ
権威を知るための書籍
消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
集合知は沈黙の中から生まれる
下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
小賢しい宗教批判/『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健

カール・シファキス


 1冊挫折。

詐欺とペテンの大百科』カール・シファキス:鶴田文〈つるた・あや〉訳(青土社、1996年/新装版、2001年)/文章がよくない。冗長な序文を読んだだけでウンザリ。これほど読書意欲を失わせる文章も珍しい。

モンゴメリー・バス・ボイコット事件(ローザ・パークス)の歴史的意味

ある本を読んでモンゴメリー・バス・ボイコット事件の本当の意味を知った。黒人公民権運動→一部の白人が応援→メキシコ系アメリカ人青年同盟結成→アメリカインディアン同盟結成につながる。この流れはアメリカ学生運動~ベトナム反戦運動にまで拡がった。実にダイナミックな史観だと思う。
Oct 03 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply


さっきの続き。ベトナム反戦運動から、ヒッピー・ムーブメント~カウンターカルチャーまでつなげると、相当大きなテーマになる。南米のフォルクローレと日本のフォークを結ぶことも可能だろう。最大の問題はドラッグとニューエイジという思想性である。
Oct 03 via webFavoriteRetweetReply


公民権運動の母ローザ・パークスとバス

生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる

2011-11-13

顔の錯視


 眼が四つ、口が二つになっただけで、焦点を結ぶことができなくなる。視覚は「眼が見ている」わけではなく、「脳が読み解いている」ことが明らかだ。

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騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

ビンラディンは2001年に死亡


 デヴィッド・レイ・グリフィンが提示する証拠の数々。





9・11事件は謀略か―「21世紀の真珠湾攻撃」とブッシュ政権9・11の矛盾―9・11委員会報告書が黙殺した重大な事実9.11テロ疑惑国会追及―オバマ米国は変われるか

自称若くて可愛い女「年収4000万以上の男と結婚したい」→J・P・モルガン社長「君の資産価値は低い」


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宛先: J・P・モルガン社長
送信者: 一人の若い女性
件名:どうやったら金持ちの男と結婚できるのか?
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 正直に、はっきりと聞きます。私、年収4000万円以上の男と結婚したいと思ってるんです。今25歳で、見た目は結構可愛いと思ってて、スタイルもいいと思うんだけど。

 確かに、欲張りだと思うんですけど、ニューヨークの中間所得層の年収が8000万円くらいだし、大したことないと思うんです。

 それで、このフォーラムに来てる人で年収4000万円以上の人っていますか? それとも、みんな結婚してるんですか?

 質問は一つだけ:どうやったら金持ちの男と結婚できるか。

 実際に、年収2000万円くらいの人とは付き合ったことはあるんですけど、それ以上の年収の人と付き合ったことなくて、もしニューヨークの西にあるNYガーデン(?)って所に引っ越すと考えたら、2000万円の収入じゃ少ないと思うんです。

 だから、少し聞きにくいんですけど、いくつか質問です。

1.金持ちの学士を持ってる人っていうのはどこで遊んだりしてるんですか?(できれば、レストランの名前とか、具体的なバーの場所とか、ジムとかの住所)
2.どれくらいの年齢層を狙えばいいのか。
3.なんで金持ちのほとんどの妻の見た目が普通なのか。何人か会ったことある中じゃ、普通以下(笑)、なのに金持ちの男と結婚できてるんです。
4.どうやって結婚する女性を選ぶのか、どういう人が彼女向けなのか(私の狙いは結婚すること)



 若くて可愛い女性へ

 興味深いメール読みました。実際、あなたのように考える人は少なくないと思います。なので、一人の投資家として答えさせてください。

 僕の年収は8000万円以上で、あなたのいう条件は満たしてると思うから、僕が答えても問題は無い……よね。ビジネスマンの視点としては、あなたと結婚するのは悪い選択と言えるだろう。答えはシンプルだから、説明させてね。

 少し詳細を加えながら説明すると、あなたは、“美しさ”と“お金”の交換しようとしてるってこと:Aさんが「美」をあげるかわりに、Bはそれにお金を払う。ということ。

 すると、そこにヤバイ問題があるんだよね。僕のお金はなくならないけど、君の美しさっていうのはいずれ消える。しかも、僕の収入は年々増えるけど、君が毎年綺麗になることはない。

 ビジネス的な説明を加えるとすると、

 僕は魅力的な「資産」だけど、

 君の「資産の価値は低い」といえる。

 実は、君は普通の資産ですらなくて、急速に変化する「消費する資産」ということ。君の価値は10年で更に悪くなるからね。

 ウォールストリートには、トレード(交換)の時に「短期交換」ていうのがあるんだけど、“君とのデート”にはその「短期売買」があるんだ。

 もし、交換するモノの価値が将来的に下がると考えると、その交換するモノは長期的に持ってるモノじゃなくて、というか君のいう「結婚」と考えてたら、少し言い方が悪くなってしまうけど、君は資産としては、売られるか“レンタル”した方が賢い選択だということ。

 年収8000万円以上の誰でもいいっていうのは悪くないけど、僕たちは君とは結婚しなくて、デートだけっていうこと。アドバイスするとしたら、金持ちと結婚する方法を探すっていうのは忘れて、自分自身で金持ちになって年収8千万円稼いだ方が、金持ちのおバカさんを探すよりもいいと思うよ。

 こんな返事になったけど、少しでも助けになれば。

 あ、あと、もし“レンタル”に興味あるんだったら、連絡してね。

ハムスター速報

真実を真実と知り、真実でないものを真実でないと見る

真実を真実と知り、真実でないものを真実でないと見る人々は、正しい見方を持っているので、彼らは真実に到達できる。      ダンマパダ #Buddhism
Nov 26 10 via twittbot.netFavoriteRetweetReply


神秘時代のクリシュナムルティ/『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、メイベル・コリンズ
うその中にうそを探すな  ほんとの中にうそを探せ

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟『ダンマパダ』全詩解説―仏祖に学ぶひとすじの道

2011-11-12

警察の蛮行



ジョルジュ・サンドの破れた夢 フリーメイソンの理想と現実



歌姫コンシュエロ 上 愛と冒険の旅 (ジョルジュ・サンドセレクション 3)歌姫コンシュエロ 下 愛と冒険の旅 (ジョルジュ・サンドセレクション 4)愛の妖精 (中公文庫)

Georges Sand

フリーメイソン

民間人虐殺の米兵に有罪 「戦争記念品」として指切り取る


 アフガニスタン南部で2010年に民間人の男性3人を虐殺し“戦争の記念品”として遺体の指を切り取ったなどとして起訴された米陸軍2等軍曹カルバン・ギブズ(Calvin R. Gibbs)被告(26)に対する軍法会議が10日、米西部ワシントン州の米軍基地で開かれ、8年半後に仮釈放を可能にする条件付きで終身刑が言い渡された。

 事件ではギブズ被告ら5人が殺人などの罪で起訴され、検察側は同被告が首謀者と指摘した。ドイツ誌シュピーゲルが3月、遺体の脇で記念撮影し笑顔を見せる米兵の写真を掲載、アフガン駐留米軍の最悪のスキャンダルとして注目を集めた。

 判決などによると、ギブズ被告らはアフガン人の男性3人を虐殺した上で、遺体の近くに武器を置いて戦闘だったように見せ掛ける偽装工作をした。ギブズ被告は法廷で「仕留めたシカの角を保存するように」遺体の指や歯を自分のものにしたと供述した。(共同)

MSN産経ニュース 2011-11-11

罪もない少年を殺害し、笑顔で記念撮影をする米兵(アフガニスタン)
米兵、上半身吹き飛んだ遺体と笑顔で記念撮影
虐殺を通報したのに逮捕された兵士
アフガン人虐殺事件の続報
アフガンの民間人を殺し、記念に指を切断していた米軍兵士
人はのべつ戦場で消える
米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

イラク戦争後、女性4000人が不明 内外で人身売買の犠牲か


【ロンドン(CNN)】女性の権利拡大などの運動を進めるイラクの非政府組織(NGO)は10日までに、2003年の米軍主導のイラク軍事作戦開始後の最初の7年間で、推定約4000人のイラク人女性が行方不明になっていると述べた。

 このうち5分の1が18歳以下。正確な情報入手は難しいとしながらも、消息を絶ったこれら女性の多くは犯罪集団により国内外で売買されて性的な強制労働を強いられているほか、家族が命じる強制結婚などの犠牲になっているとみられると指摘した。

 強制結婚や虐待、家庭内暴力を逃れた若い女性を専門に狙った人身売買組織もあるという。

 イラクでは軍事作戦により数十万人規模の国民が自宅を失ったり、避難民になったりしている。男性が家族の生計を立てるため女性の近縁者に売春を強要する例もあるとみられる。

 一方、中東地域での教育改善や社会改革を要求するNGO「SCEME」(本部ロンドン)は軍事作戦の開始以降、10~12歳のイラク人少女がシリア、ヨルダン、レバノン、アラブ首長国連邦(UAE)やサウジアラビアに送られ、性的搾取を受けているとの報告書をまとめた。

 また、イラク内で売られた犠牲者はナイトクラブや売春宿での労働を強いられていると指摘。一部の売春宿の客はイラクで活動する米国関係者と主張した。

 この報告書作成を担当したSCEMEの女性は英国上院での公聴会でも証言したが、イラク人女性の性的搾取は03年前にも存在したが、軍事作戦が招いた社会混乱で一層悪化したとも主張した。イラク内での女性の人身売買には多数の女性も関与し、本人が性的搾取の犠牲者だった例もあるという。

CNN 2011-11-10

フレーム問題


Wikipedia
フレーム問題
なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか
「フレーム問題」という客観主義的な錯覚
フレーム問題と世界 人工知能・哲学・ハイデガー
フレーム問題
フレーム問題とは人工知能を研究するに当たって最大の難問と言われているものです
アスペルガー症候群者の「フレーム問題」

 フレーム問題に対応するのは、ダマシオのソマティック・マーカー仮説だと思われる。

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ



近未来に必ず起こる七つの大変化/『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』山本康正

髪は死んだ

髪は死んだ。RT @assamtea: 髪のみぞ知るRT @clione: どうか髪の赦しをRT @kshumpei: 「髪はしんじがたい」と書いた二日後、前頭部の髪が激減しているのを発見し、畏怖を覚える。髪の怒りに触れてしまったのだろうか。
Nov 30 10 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply


髪もほつれ毛もあるものか。 RT @haya4taku: 髪などもともと幻想なのだ RT @fuitsuono: 髪は死んだ。RT @assamtea: 髪のみぞ知るRT @clione: どうか髪の赦しをRT @kshumpei: 「髪はしんじがたい」と書いた二日後
Dec 05 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply

2011-11-11

作家セリーヌ、ユダヤロビ-の圧力で記念祝賀から除外



夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)なしくずしの死〈下〉 (河出文庫)

人は自分自身の光りとなるべきだ/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』
『最後の日記』J・クリシュナムルティ

 誰しも日記をつけたことがあるだろう。若い頃の日記は感傷に傾きすぎて、後から読むと思わず赤面するような文章が多い。日記とは自問自答でもある。どのように繕(つくろ)ったとしても心の遍歴が浮かんでくるものだ。逆説的ではあるが、それゆえに大半の日記は読む価値がない。

 ウェブ上を占める膨大な数のブログも多くは日記の類いである。たとえ有名人であろうとも、私は他人の日常に興味を覚えない。また素人であっても書く以上は批評的な視点や、何らかの価値観を記さなければ表現とはいえないだろう。

 クリシュナムルティが突然日記をつけ始めた。1973年のことである。既に78歳であった。本書には1975年までの日記が収められている。宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉は作家だけあって訳文も読みやすい。文章の体裁は『生と覚醒のコメンタリー』(全4冊)と全く同じである。風景や人物を描写しながら既成概念を粉砕し、我々の思考を激しく揺さぶる。

 なにが正気で、なにが狂気だろう? だれが正気で、だれが知っているだろうか? 政治家は正気だろうか? 聖職者たち、彼らは狂っていやしないか? イデオロギーに専念している人たちは正気だろうか? 私たちは彼らに操られ、型にはめられ、小突きまわされている。私たちは正気だろうか?
 正気とはなんだろうか? 全人的であること、行動や生活や、あらゆる種類の関係において、断片的でないこと――それが正気であることの本質だ。正気とは全体的であること、健康で神聖であることを意味する。狂気、神経症、精神病、失調症、分裂病、病名はなんでもかまわない。それは行動が断片的であるということだ。関係の動き――、つまり存在そのものがばらばらになっていることだ。敵対や分裂を生みだすこと、これがあなたがたの代表である政治家のやっている仕事だが、それが狂気をはぐくんでいる。独裁者としてであれ、平和の名においてであれ、他のどんなイデオロギーの名においてであれ、事情は同じだ。そして聖職者だが、彼らの世界を見るがいい。みんなが真理であると見なしているもの、救世主や、神や、天国、地獄、それとあなたとの間に聖職者は立っている。彼は取次役であり、代理人だ。彼は天国の鍵を手にしている。彼は信仰と教義(ドグマ)と儀式を通して、人間を調整してきた。彼はまことに伝道者(プロパガンディスト)である。あなたが安逸と安全を求め明日を恐れるからこそ、聖職者はあなたたちを調整してきたのだ。それに芸術家たち、知識人たち、科学者たち。たいそう崇(あが)められ称えられてきたが、彼らは正気だろうか? それとも彼らはまったく違った二つの世界に住んでいるのだろうか? 表現へ駆り立てる理念や想像の世界があり、それは悲しみや喜びの日常から完全に分離しているのだろうか?
 あなたの周囲の世界は断片的であり、あなたもまた断片的だ。その表現が闘いであり、混乱や、みじめさなのだ。あなたがそのような世界であり、そんな世界があなた自身なのだ。正気とは、行為を伴いつつ人生を闘いなしに生きることだ。行為と理念は相対立する。見ることは行なうことだ。先に観念構成があってその結論に従って行為があるというのではない。それでは混乱を生むばかりだ。分析者自身が分析されるものだ。もし分析者が、自分を分析されるものとは違ったなにか分離したものだと考えれば、そこには衝突が生じ、この衝突の場に不調和が生じる。観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年)以下同】

 狂気と正気を分けるのは多数決である。皆が「魔女を退治しようぜ」といえば魔女を焼くことは正気となる。関東大震災の時は朝鮮人を殺すことが正気であった。戦争においては敵国の兵士を殺戮することが正気である。ベトナム戦争でアメリカ兵は、ベトナム人の耳や首のコレクションを自慢した。

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 では現在の我々の正気度を検証してみよう。多くの人々にとって人生の目標は「競争に勝つ」ことであり、それが上手くいかないところに悩みが生まれる。学生であろうと社会人であろうと一緒だ。少しでも他人を出し抜くことこそが生き甲斐なのだ。

 毎年3万人の人が自殺をし、5000人の人が交通事故で死亡しても我々の人生は何ひとつ変わらない。ルワンダで大虐殺があっても、パレスチナ人がイスラエル軍に殺されても全く変化しない。

 確かに気の毒だとは思う。でも、どうせ何もできない。だったら深刻に考えてもしようがない。自分のことだけで頭がいっぱいだ。私の将来さえよくなってくれれば後はどうでもいい。

 これが果たして「正気」といえるだろうか? 資本主義に毒された世界で、何から何まで経済的な尺度で判断し、競争に駆り立てられる我々は正気なのだろうか?

 政党も企業も学校も教団も自分のことしか考えていない。自分たちさえ繁栄できればよい。そのために戦い、争い、罵り合うのが我々の日常だ。勝てば官軍、負ければ賊軍だ。

 そのありのままの自分を見つめよ、とクリシュナムルティは教える。見ることが気づくことであり、洞察から英知が生まれる。「ここがよくないから、今度からはこうしよう」ということではない。クリシュナムルティは理想も努力も斥(しりぞ)ける。そのような思考や行為自体が「社会の鋳型」(いがた)であるからだ。

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

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 人は自分自身の光りとなるべきだ。この光りが、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で、撞着(どうちゃく)を免れない。自己にとって光りであるとは、他人の光りがどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけをもっていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。もしあなたが、権威、教義、結論といったものの暗い陰の下にあれば、自分自身の光りであることはできない。倫理性は、思考によって組み立てられるものではない。環境の圧力に押されて出てくるものでもない。それは昨日に属さず、伝統にも属さない。倫理性は愛の産む子供であり、愛は欲望や快楽ではない。性愛や官能の楽しみは、愛ではない。

 ブッダの教えと完全に一致している。否、クリシュナムルティが説いているのは仏法そのものであると私は受け止める。「なんじらは、ここに自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい」(大般涅槃経)。ブッダもクリシュナムルティも「私の教えに従え」とは絶対に言わない。一切の隷属から人々を解放することが彼らの教えであった。

 自由とは、あなたが自分自身にとって光りとなることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光りが行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。理念とか原理とかは思考の不毛な動きであり、この光りと共存することはできない。一方が他方を否定するのだ。この光り、この法が、あなたと分離している。観察者がいるところには、この光り、この愛は存在しない。観察する者の構造は、思考によって組み立てられたもので、けっして新しくなく、けっして自由ではない。方法とか、体系、修練といったものなど、なにもない。見ることだけがあり、それが行為することだ。あなたは見なければならない。ただし他人の目を通してではなく。この光り、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光があるだけだ。これが愛だ。

 真の哲学や宗教は鋳型ではないはずだ。教育という名目で行われるコントロールとも無縁であろう。この腐りきった社会を構成している自分の腐敗ぶりを見つめる。本当に見つめることができれば、その瞬間に腐敗から離れているはずだ。

Jiddu Krishnamurti

 宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉はクリシュナムルティの講話を実際に聴いている。

 一人の老人がテントの隙間から現われた。いや、老人という言葉はそぐわない。完全な白髪なのに不思議な若々しさがあった。肉の若さではない。意識がしんと張りつめ、それでいて、いまの瞬間に没入し、活(い)きいき弾むような自由感があった。新鮮な老人――、そんな印象だ。クルタというなんの変哲もない白い木綿服を着ていた。台の上にあぐらをかいて合掌し、テントのなかを埋めつくす数百人の聴衆を、ゆっくり5分ほどかけて眺め回した。見るというより写しとるような眼差だった。なにも喋らない。さらに5~6分過ぎた。宙から垂れる透明な糸でもたぐり寄せるように、ふっと口をひらいた。流暢な英語だった。意味を追うよりも音の響きそのものに耳を澄ませたくなる声だ。(訳者あとがき)

 実に見事な描写である。クリシュナムルティの言葉は水のように浸透し、風のように頬を撫でる。

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

 真のコミュニケーションは見つめ合うところに極まることが、よく理解できる。互いの瞳が鏡となって光を反射し、世界を照らすのだ。世界に平和が訪れていないのは、我々が相手を見つめていない証拠といえよう。