2008-11-09

嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

「嘘つきのパラドックス」は「自己言及のパラドックス」ともいう。

「私は嘘をついている」――この言葉、嘘つきのパラドックスは、何千年にもわたってヨーロッパの思索者たちを悩ませてきた。この言葉は、もし正しければ偽りになり、偽りなら正しくなる。自分が嘘をついていると主張する嘘つきは、真実を語っていることになるし、逆に、彼が嘘をついているのなら、そう主張したときには嘘をついていないことになってしまう。このパラドックスを特化させたものはいくらでもあるが、根本はみな同じで、自己言及は問題を来たすのだ。これは「私は嘘をついている」という主張にもあてはまるし、「有限の数の語句では定義できない数」という定義にもあてはまる。そうしたパラドックスは、じつに忌まわしい。その一つに、いわゆる〈リシャールのパラドックス〉という、数の不加算性にまつわるものがある。
 ゲーデルは、そうしたパラドックス(哲学者のお好みの言葉を使えば「二律背反」)を彷彿とさせる命題を研究することで、数学的論理の望みを断ち切った。1931年に発表された論文に、非数学的表現を使った文章は非常に少ないが、その一つにこうある。「この議論は、いやがおうにもリシャールのパラドックスを思い起こさせる。嘘つきのパラドックスとも密接な関係がある」ゲーデルが独創的だったのは、「私は証明されえない」という主張をしてみたことだ。もしこの主張が正しければ、証明のしようがない。もし偽りならば、この主張も立証できるはずだ。ところがこの主張が証明できてしまうと、主張の内容と矛盾する。つまり、偽りの事柄を立証してしまったことになる。この主張が正しいのは、唯一、それが証明不可能なときだけだ。これでは数学的論理は形無しだが、それは、これがパラドックスや矛盾だからではない。じつは、問題はこの「私は証明されえない」という主張が正しい点にある。これは、私たちには証明のしようのない真理が存在するということだ。数学的な証明や論理的な証明では到達しえない真理があるのだ。
 ゲーデルの証明をおおざっぱに言うとそうなる。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】

 ゲーデルの不完全性定理については、以下のページがわかりやすい――

不完全性定理 - 哲学的な何か、あと科学とか

 第1不完全性原理「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

 第2不完全性原理「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」

 ということは、だ。もし全知全能の神がいるとすれば、それは神が創った世界の外側からしか証明できないってことになる。それでも、ゲーデルは神の実在を証明しようとはしていたんだけどね。

 これは凄いよ。デジタルコンピュータが二進法で動いていることを踏まえると、数学は「置き換え可能な言語」と考えられる。そこに限界があるというのだから、人間の思考の限界を示したも同然だ。早速、今日から考えることをやめようと思う。エ? ああ、その通りだよ。元々あまり考える方ではない。

 ただし、ゲーデルの不完全性定理は、「閉ざされた体系」を想定していることに注目する必要がある。これを、「開かれた体系」にして相互作用を働かせれば、双方の別世界から矛盾を解決することも可能になりそうな気がしないでもないわけでもなくはないとすることもない(←語尾を不明確にしただけだ)。【※これは私の完全な記述ミスで「開かれた系」は系ではない。システムは閉じてこそ世界が形成されるからだ。例えば人体が開かれているとすれば、それはシャム双生児のようになってしまう。同じ勘違いをする人のために、この文章は敢えてそのままにしておく。 2010年9月3日】

 だけどさ、不完全だから面白いんだよね。物質やエネルギーを見ても完全なものなんてないしさ。大体、完全なものがあったとしても、時を経れば劣化してゆくことは避けようがない。成住壊空(じょうじゅうえくう)だわな。

「私たちには証明のしようのない真理が存在する」――そうなら、ますます生きるのが楽しみになってくるよ。科学も文明も宗教も、まだまだ発展する余地があるってことだもんね。



アルゴリズムとは/『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ

2008-11-07

ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン


 ・目次
 ・エリ・ヴィーゼルはホロコースト産業の通訳者
 ・誇張された歴史を生還者が嘲笑
 ・1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった
 ・戦後、米ユダヤ人はドイツの再軍備を支持
 ・米ユダヤ人組織はなりふり構わず反共姿勢を鮮明にした
 ・第三次中東戦争がナチ・ホロコーストをザ・ホロコーストに変えた
 ・1960年代、ユダヤ人エリートはアイヒマンの拉致を批判
 ・六月戦争以降、米国内でイスラエル関連のコラムが激増する
 ・「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘
 ・ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」
 ・ザ・ホロコーストの神聖化
 ・ホロコーストを神聖化するエリ・ヴィーゼル
 ・ホロコースト文学のインチキ
 ・ビンヤミン・ヴィルコミルスキーはユダヤ人ですらなかった

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘

 ノーマン・G・フィンケルスタインは、自分の主張が独善へと傾斜しないように、さまざまな人物からの指摘も挙げている。これもその一つ――

 イスラエルの著名ライター、ボアス・エヴロンは「ホロコースト意識」について、その実体は「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観である。その真の目的は、過去を理解することではまったくなく、現在を操作することである」と喝破している。ナチ・ホロコーストそのものは、本質的にはいかなる政治的課題にも奉仕するものではない。イスラエルの政策を支持する動機にもなれば、反対する理由にもなる。しかしイデオロギーのプリズムを通して屈折させられるとき、「ナチによる絶滅の記憶」は「イスラエル指導層と海外ユダヤの掌中の強力な道具」(エヴロン)として働くようになる。すなわち、「ナチ・ホロコースト」が「ザ・ホロコースト」になったのである。

【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン: 立木勝〈たちき・まさる〉訳(三交社、2004年)】

 歴史は長いものに巻かれる。恐ろしいのは、既に「ナチ・ホロコースト」よりも「ザ・ホロコースト」の方が長期間に渡って流布している事実である。ホロコーストからの生還者だって、もうさほどいないことだろう。そして、証人を失った歴史は更に塗り替えられる結果となる。新事実を盛り込むことだって可能だ。メディアが許認可事業である以上、権力には抗しきれない。

 苫米地英人の一連の著作を読むまで、洗脳とは閉ざされた環境下で睡眠などを奪って行うものだとばかり思っていた。ところが、実はもっと日常的に行われているもので、いわゆる「刷り込み」(インプリンティング)に近いものだと知った。ホロコーストに関しては、膨大な情報が溢れている。それらに触れれば触れるほど、怒りや悲しみを覚える。そして、激しい感情と共に思い込みが強化されてゆくのだ。

 もちろん、事実というものは多面的な姿を持っている。だが明らかに、「ザ・ホロコースト」は嘘で築かれている。嘘の歴史が闊歩し、巨額な賠償金を詐取している現実がある。

 人々がテレビの前から腰を上げない限り、洗脳は避けようがない。小さな声でもいいから、一人ひとりが何らかの発信を行うべきだと考える。それ以外に、洗脳を拒絶する手立てがないからだ。

2008-11-05

嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ


『悲しみの秘義』若松英輔
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『休戦』プリーモ・レーヴィ

 ・嘘、悪意、欺瞞、偽善

『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ページをめくるごとに私はたじろいだ。死の臭いがそこここに立ち込めている。プリーモ・レーヴィの遺作は、遺作となることを運命づけられていた。深い思索は地表にもどることができぬほどの深淵に達していた。

 地球の中心までは6400kmもの距離がある。人類が最も深く掘った穴は、ロシア北西部のコラ半島で、たったの12.261kmだ。5000分の1ほどの距離しかない。レーヴィは多分、マントルあたりまで行き着いてしまったのだろう。岩石がドロドロに溶ける2891kmのギリギリまで辿り着いたのだ。そして、鉱物相が相転移し、不連続に増加した密度が発する震度に、読者の自我が揺り動かされるのだ。

 生っちょろい覚悟でこの本と向き合うと危険だ。この私ですら死にたくなったほどだ。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを生き延びた。そして1987年4月11日、自宅のアパートから身を投げて死んだ。強制収容所を生き抜いた男ですら、生を断念する世界に我々は置かれている。

 それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか?
 この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で、頭の良い専門家であっても、アイヒマンのように冷酷な狂信主義者であっても、トレブリンカのシュタングルやカドゥクのような愚鈍な野獣であっても。言い回しは異なり、知的水準や教養程度の差で傲慢さに強弱はあるにせよ、彼らは実質的に同じことを言っていた。私は命令されたからそれをした。他のものは(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。私の受けた教育、私の生きていた環境では、そうせざるを得なかった。もし私がそうしなかったら、私の地位に取って代わった別のものがさらに残忍なことをしただろう。こうした自己正当化を読むものが、初めに感じるものは嫌悪の身震いである。彼らは嘘をついている、自分の言うことが信じてもらえるなどとははなから思っていない、自分たちがもたらした大量の死や苦痛と、彼らの言い訳の間の落差を見て取ることができない。彼らは嘘をついていることを知りつつ、嘘を述べている。彼らは悪を持って行動している。

【『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(朝日新聞社、2000年/朝日文庫、2019年)】

 私は、パトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)の言葉を思い出した。「嘘は暴力に至る控え室である。“真実が君臨すること”が民主社会の基本でなければならぬ」――。

 レーヴィが耐えられなくなったのは、アウシュヴィッツを凌駕する嘘、悪意、欺瞞、偽善であったのか。悪臭にまみれた我々の鼻は、既に何も嗅ぎ取れなくなってしまっている。

 しかし、だ。レーヴィの鼻を通すと、そこにはもっと強烈な死臭がプンプンしているのだ。退くも地獄、進むも地獄だ。で、私は本を閉じてしまったというわけ。とにかく強靭な体力をつけておかない限り、こんな本は読めるはずがない。

2008-11-04

進化医学(ダーウィン医学)というアプローチ/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ・進化医学(ダーウィン医学)というアプローチ
 ・自然淘汰は人間の幸福に関心がない
 ・痛みを感じられない人のほとんどは30歳までに死ぬ
 ・進化における平均の優位性
 ・平時の勇気、戦時の臆病

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー

 ユニークな学術書。トリビアネタ満載。短い章立てとなっており、すんなり読める。ただし、訳文が酷い。

 進化医学の基本的な考えはこうだ――

 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 つまり、病気の至近要因と進化的要因とを区別し、「なぜそのようなDNAを持つに至ったのか」を探る医学である。もう少しわかりやすく言えば、「なぜ病気になったのか?」ではなく、「病気になる何らかの理由があるはずだ」というアプローチをする。で、「何らかの理由」とは「進化上、種(しゅ)全体にとって有利な」という意味だ。そしてDNAは「繁殖成功度を高める」方向にのみ進化し続ける。ま、必要悪としての病気と言ってよい。

 我々の身体は、暑いとダラダラと汗をかき、寒ければガタガタと震え、風邪をひけば高熱を発する。だがこれは一面的な見方で本当の意味は違う。汗をかくのは気化熱で身体を冷やすためであり、震えるのは体温を高めるためであり、高熱を発するのは体内の病原菌を死滅させるためなのだ。快適な生活空間は、こうした身体機能を損なっている可能性がある。そして対症療法的な医療も。

 仏法では生老病死と説き、成住壊空(じょうじゅうえくう)と断ずる。これ、万物流転のリズムか。ならば、病気は避けられない。となると、上手く付き合ってゆく他ない。病気を根絶することが進化上、有利かどうかは判断のしようがないためだ。その意味で、ダーウィン医学は東洋的なアプローチ法(運命論よりは宿命論に近い)といえる。

2008-11-01

「環境帝国主義」とは?/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 世界経済が自由競争で成り立っていると思ったら大間違いだ。実は、「不公平」というルールで運用されているからだ。欧米列強は、発展途上国が絶対に発展できない仕組みを既に作り上げてしまった。

 梅崎義人が糾弾しているのは、環境や動物愛護をテコにして、貿易すら自由にさせない欧米の悪辣(あくらつ)な手口である。昨今、声高に主張されている「環境問題」も全く同じ異臭を放っている。

 環境帝国主義とは、一般的には環境問題に関する自己の主張を相手に強要する行為を指すが、ここでは次のように定義しておく。
「自国以外に生息する動・植物の利用を、自国の法律または国際条約によって一方的に禁止しようとする考え方並びにその行動」
 このようなことが実際にあり得るだろうか。いぶかる人々も多いと思うが、環境帝国主義は堂々と罷り通っている。
 アメリカには「海産哺乳動物保護法と「絶滅に瀕した動植物保護法」という二つの国内法がある。いずれも1970年代の初めに制定されている。前者は、クジラを初め、オットセイ、イルカ、アシカ、アザラシ、トドなどすべての海洋哺乳類の保護を決めた法律で、殺すことはもちろん、虐待やいじめることも禁止している。更にその製品の輸入までも禁じられている。例えば、クジラのベーコンやアザラシの毛皮はアメリカ国内には持ち込めない。そして、後者の「絶滅に瀕した動植物保護法は、絶滅の恐れのある動植物の利用だけでなく、その生息、繁殖地の開発あるいは利用までも禁じている。
 信じられないことだが、アメリカのこの二つの国内法は、全世界を対象にしている。「海産哺乳動物保護法」に基づき、アメリカは国際捕鯨委員会(IWC)の場で全面禁止を実現した。同法はニクソン大統領時代の72年に制定されたが、このアメリカ大統領は「私はこの法律の効果を世界中に広めたい」と署名時に語っている。
「絶滅に瀕した動植物保護法」で、保護すべき動物としてリストアップされている種は全体で900にのぼるが、そのうちの600が、なんとアメリカ以外に生息する動物である。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 農耕民族にジャーナリズムは育たない、というのが私の持論である。なぜなら、真実を報じたところで立ち上がる民衆は一人もいないためだ。立ち上がったとしても、直ぐに座り込んでしまうことだろう。これを繰り返せばヒンズースクワットとなる。真実に目覚めて、自分の足を一歩前に出すことが、我が国では「村八分」を意味するのだ。

 かような背景もあって、日本のジャーナリズムは権力者のスポークスマンとなり、メッセンジャーとなり、アナウンサーと化している現状を呈している。

 そんな中にあって、梅崎義人が著した本書には、紛れもなく「ペンの力」が横溢(おういつ)している。ジャーナリストの仕事とは、「世界が置かれた状況を読み解く作業」と言ってよい。