2008-12-23

なぜ私達は声が出ないのか/『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 ・なぜ私達は声が出ないのか

『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
『リズム遊びが脳を育む』大城清美編著、穂盛文子映像監督
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『息の人間学 身体関係論2』齋藤孝
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『スーパーボディを読む ジョーダン、ウッズ、玉三郎の「胴体力」』伊藤昇

 竹内敏晴は演出家である。若い頃、一時的に聴覚を失った経験があり、独自のボイストレーニングを行っている。言うなれば「声と身体」のプロ。理論をもてあそぶような姿勢がなく、経験に裏打ちされた論理は雄々しい説得力に富んでいる。

 竹内は嘆く。「現代人は声が出なくなった」と。建物がコンクリートで造られるようになってから、子供は騒ぐことを禁じられた。何せ、赤ん坊の泣き声を嫌悪する父親がいるご時世だ。

 こえの面から見たことばとは、本来からだの発する音、さらに主体とそのからだそのものに即して言えば、からだの動きに他ならぬことになる。こえを、そしてことばを発するとは、からだの内に発した動きを、もっとも敏感にからだ全体に拡大した時、呼吸器官の部分に現れる動きの一部である。だから、からだが充分に解放され、内なる情報に対して敏速に反応できるだけ柔軟である時、充分に豊かなこえが発せられるのは当然のこととなるだろう。こえの問題は、本来発声器官の問題ではなく、からだ全体の問題なのである。
 気がつき始めてみると、こえの状態が悪い人があまりに多いので、私は不安になってきた。
 なぜ私たちは、これほどこえが出ないのか。
 なぜ私たちは、こんなにからだが歪んでいるのだろう。

【『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴(思想の科学社、1975年/ちくま文庫、1988年)】

 発語と言葉の認識という観点からすれば、脳機能の働きが抜け落ちているが、それでも説得力は色褪せていない。我々は音の出なくなったスピーカーみたいな身体を抱えているのだ。

 飽食よりも、むしろ身体を動かさなくなった生活様式の方が問題なのだろう。文明の発達は、額に汗して働くことを人々から奪い去った。私が流す汗の多くは冷や汗だ。

 自分の声が反響しない身体は、他人の声に震えることもない。そして、共感は失われ、共鳴は途絶える。声の大小ではなく、相手に届いているかどうかが問われるのだ。

 ストレスが多くなると身体は硬直する。硬直した身体はコントロールしにくくなる。そして、精神は拘縮する一方となる。

 ポピュラーミュージックの多くが「泣き声」みたいに聞こえるのも、声が出なくなっている証拠なのだろう。

 声を解放するには、身体の姿勢と生きる姿勢を変える必要がある。

2008-12-22

ユダヤ民族はヘブライ語を失わなかったから建国できた/『祖国とは国語』藤原正彦


『妻として母としての幸せ』藤原てい
『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦

 ・ユダヤ民族はヘブライ語を失わなかったから建国できた

『国家の品格』藤原正彦
『日本人の矜持 九人との対話』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦

 人間は言葉でしか思考できない。それゆえ、言葉に支配されていると言ってもよいだろう。我々は、言葉の外側に脱出することができない。「祖国とは国語である」と藤原正彦は言い切る――

 祖国とは国語である。ユダヤ民族は2000年以上も流浪しながら、ヘブライ語を失わなかったから、20世紀になって再び建国することができた。私には英米にユダヤ人の友達が多くいるが、ある者は子供の頃、家庭でヘブライ語で育てられ、ある者はイスラエルの大学や大学院へ留学し、ヘブライ語を修得した。ユダヤ人の国語に対する覚悟には圧倒される。
 それに比べ、言語を奪われた民族の運命は、琉球やアイヌを見れば明らかである。
 祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。

【『祖国とは国語』藤原正彦(講談社、2003年/新潮文庫、2005年)】

 そう言われれば確かに。言葉の乱れは文化が崩壊する様相なのだろう。ポピュラーミュージックの歌詞は、既に英語の奴隷と成り果てている。

 数学者の藤原正彦が、義務教育における国語の重要性を叫んでいる。ともすると、日本人だから日本語を話せると我々は思い込んでいるが、ひょっとすると満足に日本語すら話せていない可能性がある。

 言葉の貧しさ、卑しさ、乱雑さは、精神の空洞化を表象している。小難しいテクニックを弄する必要はない。ただ、嘘のない言葉を私は綴りたい。

2008-12-21

赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン


『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春

 ・赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性

『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦絵
・『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫

 原初の言葉と音楽性との関係を探る学術書。専門性は相当高い。表紙がゴリラとなっているのがご愛嬌。

 乳児は「動き」よりも、「イントネーション」に反応するという――

 乳児とのやりとりがはじめての人も母親と同じくらい韻律を誇張し、乳児のほうもそれをよろこぶ。実験の結果、乳児は通常の発話よりIDS(※乳幼児への発話=赤ちゃんことば)を聞くのを強く好み、表情より声のイントネーションにはるかによく反応することがわかっている。未熟児も同様で、なでるなどの他のあやし方よりIDSのほうが鎮静効果がある。そして、子どもからの好意的な反応が非言語での会話をさらにうながすことになる。事実、韻律要素のひとつの機能は、大人同士の会話に必須のターン交替を引き起こすことにある。

【『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン:熊谷淳子訳(早川書房、2006年)以下同】

 私は弟妹3人を育てているからわかるのだが、実はこれ、凄い指摘だ。普通は表情や動作などの動きでアプローチしがちである。日本語が漢字の象徴性に依存していることを何となく実感しているためだろう。ひょっとしたら、「いないいないばあ」も、言葉のイントネーションに反応しているかも知れない。つまり、言葉を獲得する前段階では、視覚よりも聴覚がリードしているという事実を示している。

 これらの実験は、IDSでは“メロディがメッセージである”こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。そのメッセージがなんであれ、子どもにとっては良いものであるらしい。乳幼児が受け取るIDSの質と量は、乳幼児の成長率と相関することが示されている。

 赤ん坊が理解するのは、言葉ではなくメロディだった。吃驚仰天。これを証明するために、複数の外国語を赤ん坊に聴かせる実験が行われた――

 結果は歴然としていた。赤ん坊は提示されたフレーズの種類にふさわしい反応をした。どの言語の発話でも、無意味語の発話でも、禁止を表すフレーズには顔をしかめ、容認を表すフレーズには微笑んだ。だがひとつだけ、さほど予想外でない例外があった。日本語で話されたフレーズには子どもが反応しなかったのだ。(アン・)ファーナルドは、日本人の母親の場合、欧州言語を話す母親よりピッチ変化の幅が狭いためと考えた。この結果は、日本人の音声表現や表情が解読しづらいとする他の研究とも一致する。

 何と外国語であっても、赤ん坊はメロディの意味を正しく理解した。ということはだよ、老人性痴呆(認知症)=幼児化と考えれば、赤ちゃん言葉のメロディ志向はメッセージの伝達性を高める可能性がある。今、私は“介護の常識”を思いっきり踏みつけたところだ。足の下でまだもぞもぞしているよ(笑)。

 介護現場では、「要介護者の尊厳」に敬意を払うよう周知徹底されているが、実際はぞんざいな言葉遣いが横行している。大抵の場合、これに腹を立てるのは家族だ。はたから見ると年寄りを「子供扱い」しているように見えてしまうからだ。

 ところがどっこい、そうではないのだ。私の身内にも失語症(高次脳機能障害)患者がいるが、私は天性の技術で意思の疎通ができる。失語症や認知症の場合、とにかく短くわかりやすいメッセージを伝えることが先決だ。発話が無理であれば、手を挙げて答えてもらうため、「――の人?」と聞くのが手っ取り早い(「疲れた人?」「寒い人?」「家に戻って寝たい人」など)。慣れてくると、3回ほどの質問で言いたいことを理解できるようになる。

 介護現場というのは、理論よりも経験則に沿った行為が重んじられる。ゆっくりと話しかけ、文節を尻上がりに間延びさせ、敬語を割愛する。すると、素人が聞けば殆ど赤ちゃん言葉になってしまうのだ。ヘルパーの皆さん、理論はここに私が構築した。思う存分、赤ちゃん言葉を使用されたし。中には、「赤ちゃんプレイ」を好むジイサンだっていることだろう。



頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2008-12-14

「囚人のジレンマ」には2種類の合理性が考えられる/『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎


『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

 ・「囚人のジレンマ」には2種類の合理性が考えられる
 ・完全に民主的な投票システムは存在しない
 ・独裁制、貴族制、民主制の違い

『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎

宗教とは何か?
必読書 その三

「囚人のジレンマ」については以下のページを参照のこと。

Wikipedia

 で、このジレンマの理由はどこにあるのか――

数理経済学者●いえいえ、わからないのも無理ありません。というのは、協調にしても裏切りにしても、どちらが本当に合理的な選択なのかわからないのです。その意味で、囚人のジレンマは、パラドックスなのです。
 ここで重要なのは、2種類の合理性が考えられるということです。それは、それぞれのプレーヤーが自分にとって最も利益の高い行動を取る「個人的合理性」と、二人のプレーヤーが平等に同じ行動を取って集団全体の利益を高める「集団的合理性」です。
 個人的合理性と集団的合理性が一致すれば、何も問題はありません。しかし、囚人のジレンマでは、集団的合理性に基づく選択のほうが、個人的合理性に基づく選択よりも両プレーヤーにとって有利なようになっています。したがって、お互いに協調するのが最も合理的だと思われるわけですが、そのように考えて協調した結果、相手の裏切りにあって結局は大損するかもしれない。そこが難しいところなのです。

【『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎(講談社現代新書、2008年)】

 実に興味深い指摘だ。枠組みの数だけ異なる合理性が存在するってことだもんね。仕事で考えるともっとわかりやすい。自分→部署→会社全体のどこに依って立つかで文句も意見も変わってくる。日本の政治が機能していないのも、官僚の間に省益優先というパラメータが働いているためだ。自分さえよければいいのか? その通り。

 地球上のすべての人々が、世界的合理性に基づいて生活すれば、一瞬にして平和が築かれることだろう。

 この話、これだけで終わらない。高橋昌一郎のペンさばきは軽快だ。

※なぜかamazonでは送料がかかるため、ヨドバシカメラでの購入をお勧めする。

2008-12-07

女子中学生の渾身の叫び/『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子

 ・女子中学生の渾身の叫び

『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

命を見つめて

本当の幸せは「今、生きている」ということ

 みなさん、みなさんは本当の幸せって何だと思いますか。実は、幸せが私たちの一番身近にあることを病気になったおかげで知ることができました。それは、地位でも、名誉でも、お金でもなく「今、生きている」ということなんです。

 私は小学6年生の時に骨肉腫という骨のガンが発見され、約1年半に及ぶ闘病生活を送りました。この時医者に、病気に負ければ命がないと言われ、右足も太ももから切断しなければならないと厳しい宣告を受けました。初めは、とてもショックでしたが、必ず勝ってみせると決意し希望だけを胸に真っ向から病気と闘ってきました。その結果、病気に打ち勝ち右足も手術はしましたが残すことができたのです。

 しかし、この闘病生活の間に一緒に病気と闘ってきた15人の大切な仲間が次から次に亡くなっていきました。小さな赤ちゃんから、おじちゃんおばちゃんまで年齢も病気もさまざまです。厳しい治療とあらゆる検査の連続で心も体もボロボロになりながら、私たちは生き続けるために必死に闘ってきました。

 しかし、あまりにも現実は厳しく、みんな一瞬にして亡くなっていかれ、生き続けることがこれほど困難で、これほど偉大なものかということを思い知らされました。みんないつの日か、元気になっている自分を思い描きながら、どんなに苦しくても目標に向かって明るく元気にがんばっていました。

 それなのに生き続けることができなくて、どれほど悔しかったことでしょう。私がはっきり感じたのは、病気と闘っている人たちが誰よりも一番輝いていたということです。そして健康な体で学校に通ったり、家族や友達とあたり前のように毎日を過ごせるということが、どれほど幸せなことかということです。

 たとえ、どんなに困難な壁にぶつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても命さえあれば必ず前に進んで行けるんです。生きたくても生きられなかったたくさんの仲間が命をかけて教えてくれた大切なメッセージを、世界中の人々に伝えていくことが私の使命だと思っています。

 今の世の中、人と人が殺し合う戦争や、平気で人の命を奪う事件、そしていじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見る度に怒りの気持ちでいっぱいになります。一体どれだけの人がそれらのニュースに対して真剣に向き合っているのでしょうか。

 私の大好きな詩人の言葉の中に「今の社会のほとんどの問題で悪に対して『自分には関係ない』と言う人が多くなっている。自分の身にふりかからない限り見て見ぬふりをする。それが実は、悪を応援することになる。私には関係ないというのは楽かもしれないが、一番人間をダメにさせていく。自分の人間らしさが削られどんどん消えていってしまう。それを自覚しないと悪を平気で許す無気力な人間になってしまう」と書いてありました。

 本当にその通りだと思います。どんなに小さな悪に対しても、決して許してはいけないのです。そこから悪がエスカレートしていくのです。今の現実がそれです。命を軽く考えている人たちに、病気と闘っている人たちの姿を見てもらいたいです。そしてどれだけ命が尊いかということを知ってもらいたいです。

 みなさん、私たち人間はいつどうなるかなんて誰にも分からないんです。だからこそ、一日一日がとても大切なんです。病気になったおかげで生きていく上で一番大切なことを知ることができました。今では心から病気に感謝しています。私は自分の使命を果たすため、亡くなったみんなの分まで精いっぱい生きていきます。みなさんも、今生きていることに感謝して悔いのない人生を送ってください。

【『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳(ハート出版、2005年)】

 猿渡瞳ちゃんは、この作文を発表してから2ヶ月後に逝去した。合掌。謹んでご冥福を祈る。骨肉腫と格闘した彼女は、中学生でありながら、まるで人類の教師のように「生きる姿勢」を我々に教えてくれる。