2018-08-19

三島への愛惜と厚情/『三島由紀夫の死と私』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫
『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平

 ・三島への愛惜と厚情

『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介

 彼(※保守系知識人)らは過激な死を嫌って、逃げ腰でした。

【『三島由紀夫の死と私』西尾幹二(PHP研究所、2008年/戎光祥出版増補新訂版、2020年)以下同】

 西尾幹二は一時期よくテレビに出演していた。一見して小柄で表情の乏しい大きな顔と傲岸な話しぶりが悪印象として残った。かつての保守系は強面(こわもて)タイプが多かったように思う。映画に出てくるアメリカ南部のオヤジみたいで、信念を論理的に述べるのではなく思い込みをでかい声でまくし立てるのが所謂「右」であった。

 前にも書いたが私が西尾を見直したのは東北大震災後、原発推進派から反対に転じたことだ。インターネット番組で語る西尾は思想ではなく事実を通して過去の意見を翻した。「君子(くんし)は豹変(ひょうへん)し、小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む」(『易経』革卦〈かくか〉/『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)とはこのことである。

 文芸評論家として登場した無名の若き西尾を三島は見逃さなかった。一流の人物はやはり目の付けどころが違う。デビュー作『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書、1969年)に三島は推薦文を寄せた。

 本書は西尾の告白である。三島文学を論じたものではなく、三島の死から受けた衝撃を赤裸々に述べている。ここには岡潔が新しい生命を吹き込んだ「情緒」が流れ通っている。

 三島由紀夫氏にお会いしたのは一度だけである。昭和43年の秋であったと思うが、ある人が橋渡しをしてくれて、特徴のあるあのお宅を訪問することになった。多忙な氏が、無名の外国文学者の最初の仕事(その頃私はある雑誌にヨーロッパ論を連載していた)に関心を持っているとある編集者から伝え聞いていた。そこへ橋渡しをしてくれる人が別に現われたので、若干とも私のことを氏が知っていて下さるという安心感から、ようやくお訪ねする気になったのだと思う。世の中は大学紛争で騒然としていたころのことであった。
 階段をぐるぐる昇って三島邸の一番高いところに位置した、白壁の明るい部屋に通された。橋渡しの知人と一緒にしばらく待っていると、やがて大きな、元気のいい声がした。氏は椅子から立ち上がった私の正面にきちんと姿勢を正し、三島です、と明晰な発音で挨拶された。それから円卓をはさんで、私にビールを注いでくれた。氏は年下の、まだたいした仕事もしていない文学青年を相手にしているという風ではなかった。物の言い方は遠慮がなく、率直であったが、客である私には礼儀正しく、外国の作家のことが話題になると、まず私の見解を質した。男らしく、さっぱりした人だと私は思った。日本の文化人の誰彼が話題にのぼると、氏はそうとうに辛辣なことをずけずけ言ったが、陰湿なところがまるでなく、からっとしていた。たった今怒りの言葉を述べて、次の瞬間にはもうそれにこだわっていないという風だった。私もまた、怒りはときに大切だと思っている方だが、氏の前に出ると勝負にならなかった。そう私が述べると氏はとても愉快そうに爽快な笑い声をあげた。私がしばらくしてトイレに立とうとすると、氏はすばやく私を先導し、階段を三つも跳ぶようにして降りて、なんのこだわりもなく便所のドアを開いてくれた。私はこのときの氏の偉ぶらない物腰と、敏捷な身のこなしをいつまでも忘れられないでいる。そのときはなんでもないことだと思っていたが、あとでよく考えてみると、年下の無名の人間を、このように友人のように扱う率直さはじつは大変なことだと思った。私は大学関係の先生や先輩を訪問して、こんな風にわけへだてなく遇されたことはたえて一度もなかったからである。

 巷間に流布している三島像と全く違う。肉体改造(ボディビル)から自決に至るまでコンプレックスの裏返しとして戯画的に描かれることが珍しくない。ところがどうだ。西尾が綴る第一印象のスケッチは過激とは無縁な日常の三島をものの見事に捉えている。

 三島への愛惜と厚情が彼の末期(まつご)を嘲笑する世間を許すことができなかった。

 江藤淳のこの「『ごっこ』の世界が終ったとき」は明らかな生存中の三島さんへの批判です。そして江藤淳は、三島さんが死んだときにも嘲ったのです。それが私には許せなかった。三島さんの死後に書いた「不自由への情熱」のなかで、私は江藤淳のこの点を避難しました。それを引いてみます。

 三島氏の死に到った行動について、ある著名な評論家が、まるで白昼夢を見ているようで、死んでもなお本気でないようにみえるところがあるなどと、気楽なことを言っていたが、こういうことでは孤独な心の謎などはなにひとつ見えないし、時代のニヒリズムにも初めから目をふさいでいるようなものである。
(「不自由への情熱」『新潮』昭和46年2月号)

 西尾は「江藤が三島を殺した」とまで書いている。つまり江藤の嘲(あざけ)りが三島を決起へと駆り立てたという見方である。江藤淳は西尾より早く論壇に登場したエースで、小林秀雄亡き後は文芸時評の第一人者と目された人物である。その江藤に噛み付く勇気が西尾の気概を示して余りある。傍証として西尾は小林と江藤の対談を挙げる。

小林秀雄●三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。

江藤淳●そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。

小林●いや、それは違うでしょう。

江藤●じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。

小林●あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。

江藤●日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

小林●いやァ、そんなこというけどな。それなら、吉田松陰は病気か。

江藤●吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。

小林●日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。

江藤●ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども……。

小林●合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。

江藤●僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどとは思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。

小林●いえ。ぜんぜんそうではない。三島は、ずいぶん希望したでしょう。松蔭もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。
 三島の場合はあのときに、よしッ、と、みな立ったかもしれません。そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。

江藤●立とうが、立つまいが……?

小林●うん。

江藤●そうですか。

小林●ああいうことは、わざわざいろんなこと思うことはないんじゃないの。歴史というものは、あんなものの連続ですよ。子供だって、女の子だって、くやしくて、つらいことだって、みんなやっていることですよ。みんな、腹切ってますよ。(小林秀雄・江藤淳「歴史について」『諸君!』昭和46年7月号)

 江藤の見立ては通俗的すぎて、街角インタビューに出てくる主婦と遜色(そんしょく)がない。時代の常識に反するものはおしなべて狂気と受け止められるが、古い常識を覆して新しい常識へと誘(いざな)うのもまた狂気なのだ。無論、狂気とは世間の印象に過ぎなく、時代を揺り動かす人物にとっては正真正銘の正気である。

 その点、小林は傍観者的な冷めた見方ではなく、三島を理解しようとする苦衷(くちゅう)が垣間見える。

 割腹が狂気に映った時、日本の武士道は完全に死んだのだろう。

2018-08-17

三島由紀夫が憂えた日本の荒廃/『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平


『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫

 ・三島由紀夫が憂えた日本の荒廃

『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介

 三島由紀夫の死には、政治的な速効性はありませんでしたし、三島自身もそんなことは初めから思ってもいませんでした。しかし、30年以上たった今から考えると、彼の最後の行為は、戦後日本の精神的荒廃への生命を賭した警告という意味が際だって見えてきます。この日本の荒廃を、三島は一貫して、今のインタビュー発言にもあるとおり、「偽善」と呼んでいます。
「偽善」とは、民主主義の美名のもとに人間の生き方や国の政策に関する意思決定を自分でおこなおうとせず、個人と社会と国家のとりあえずの目的を経済成長(つまり金もうけ)のみに置き、精神の空虚を物質的繁栄で糊塗する態度にほかなりません。

【『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平〈ちゅうじょう・しょうへい〉(実業之日本社、2005年)以下同】

 もともと三島由紀夫には興味がなかった。中条省平はフランス文学者だが書評や映画評を書いていて時折り目を惹(ひ)くものがあった。ところがどうだ。中条の文章を読むつもりだった私は完全に三島の虜(とりこ)となった。果たして今、「切腹してまで伝えたいメッセージ」を持つ人物がいるだろうか? 腹を切るのは日本男児として最高の責任の取り方である。政治家も学者も教師も責任逃れの言いわけばかり巧みになり、大人が無責任になってしまった時代のきっかけは、三島の声に耳を傾けなかったところに遠因があると思われてならないのだ。

 佐藤栄作首相(当時)は「憲法改正を考えるならば、他にいろいろな方法があるはずだ。暴力行為に訴える了見はわからない。気が狂っているとしか思えない」と語り、中曽根康弘防衛庁長官(当時)は「世の中にとってまったく迷惑だ」と言い放った。三島の行動を浅墓にもテロと見なした自民党政治は、学生運動の衰退に合わせて腐敗の度を増していった。

佐藤栄作と三島由紀夫/『絢爛たる醜聞』工藤美代子

 多くの人々が嘲笑う中で三島のメッセージを肚(はら)で受け止めた人も少ないながら存在した。作家の森茉莉はこう記した。

「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい。現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が失われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬のある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。……三島はこの無風帯のような、日本の状態に、堪えられなかったのと同時に、文学の世界の駘蕩とした、(一部の優秀な作家、評論家は除いて)無感動なあり方にも堪えられなかった」

 敗戦から復興までは駆け足で進んだ。朝鮮特需(1950-55年)をテコにして日本は高度経済成長を迎える。暇な学生たちが大騒ぎをしたのも「食う心配」がなくなったためだろう。マスコミや知識人たちは学生運動の味方をすることで戦争責任の免罪を試みた。かつての軍人は肩身が狭く沈黙を保った。豊かになれば食べ物が余り、そして腐ってゆく。人の精神もまた。








 戦争を工事現場に例える感覚がまったく理解できない。そもそも戦争とは殺し合いなのだ。で、平河某は工事現場で300万人の死者が出ても同じ考え方をするのだろうか?

 戦後の戦争アレルギーが平和ボケとなり、平和ボケがより一層戦争アレルギーを強める。軍事力を持たないチベットやウイグルが中国共産党によって虐殺され、中国が領空・領海侵犯を繰り返し、北朝鮮が核弾頭を日本に向ける現状において、反戦・平和を唱える連中は頭がおかしいと言わざるを得ない。大体、戦争もできない国家が国民を守れるはずがないのだ。

 我々は今こそ三島由紀夫の遺言に耳を傾けるべきだ。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
 このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

「果たし得ていない約束」三島由紀夫/サンケイ新聞 昭和45年7月7日付夕刊

 三島の演説に対して自衛官は野次と怒号で応えた。日本人は魂までGHQに占領されてしまったのだ。三島事件こそは東亜百年戦争のエピローグであった。

2018-08-15

数学は論理ではなく情緒である/『春宵十話』岡潔


『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利

 ・数学は論理ではなく情緒である

『風蘭』岡潔
『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔

必読書リスト その四

 人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
 私は数学の研究をつとめとしている者であって、大学を出てから今日まで39年間、それのみにいそしんできた。今後もそうするだろう。数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字版に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。
 私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。(「はしがき」1963年1月30日)

【『春宵十話』岡潔(毎日新聞社、1963年光文社文庫、2006年/角川ソフィア文庫、2014年)】

 カテゴリーを「エッセイ」にしたが岡潔の口述を毎日新聞社の松村洋が筆記したものらしい。

 この噂を聞きつけた当時毎日新聞奈良支局にいた松村洋が、何度かにわたって岡にエッセイのようなものを書かないかとくどいたのである。
 ところが岡は、自分は世間とは没交渉しているので、またそれで研究時間がおかしくなるのも困るからと、何度も固辞した。そこを粘っているうちに、そこまでおっしゃるなら口述ならかまいませんということになって、陽の目をみたのが「春宵十話」の新聞連載だった。

947夜『春宵十話』岡潔|松岡正剛の千夜千冊

 昭和38年2月10日、岡先生の第一エッセイ集
 『春宵十話』(毎日新聞社)
が出版されました。定価380円。すでに公表された三つのエッセイ「春宵十話」「中谷宇吉郎さんを思う」「新春放談」に、新たに19篇のエッセイ(すべて口述筆記。口述は前年3月から9月にかけて行われました。記録者は松村記者)と一篇の講演記録を合わせて編集されました。「春宵十話」の採録にあたり、若干の加筆訂正が行われました。「はしがき」の日付は「一九六三・一・三○」。「あとがき」の日付は「一九六三年一月」で、執筆者は「毎日新聞大阪本社社会部松村洋」と明記されています。昭和38年を代表する話題作になり、この年、「第17回毎日出版文化賞」を受賞しました。

日々のつれづれ (岡潔先生を語る85)エッセイ集の刊行のはじまり

日々のつれづれ 岡先生の回想

 ダイヤモンドは磨かなければ光を発しない。松村記者の筆記・編集という行為が研磨作業となったのだ。いい仕事である。タイトルは「しゅんしょうじゅうわ」と読む。

 岡潔は「世界中の数学者が挑んでも、1問解くのに100年はかかる、といわれた3大難問を1人で解いた天才で、文化勲章受章者」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。更に「その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、『岡潔』というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともある」(Wikipedia)。つまり天才を二乗したような人物なのだ。

 私が生まれたのは1963年の7月である。『春宵十話』がある世界に生まれて本当によかったと思う。

 岡は戦後の日本に警鐘を鳴らし続けた。編まれた文章のどれもが「黙っておらるか」という気魄(きはく)に貫かれている。

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祖父の教え/『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利


 ・祖父の教え

『春宵十話』岡潔
『風蘭』岡潔
『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔

 文一郎の教えはただ一つ、
「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」
であった。これは、前述したように私財をなげうって村のために尽くした文一郎の言葉だけに、幼い潔の胸にも非常な説得力を持って響いたことだろう。そして文一郎は、この唯一の戒律を潔がきちんと守っているかどうか、遠くから見守ったのであった。戒律というのは自ら進んで守らなければ意味がない。だから「遠くから見守る」ということが非常に大切だったのである。
 そして潔もその教えを徹底的に守り抜いたようである。潔は一時期、八重の自分に対する無条件でひたむきな愛情を利己的な愛情であると言って非難したことがあったというが、それは、母親がわが子を愛するのも「他人(ひと)を先にする」ことに反していると潔が思ってしまったからであった。つまり、文一郎の教えはそれほど徹底していたのである。

【『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利〈おびがね・みつとし〉(新泉社、2003年)】

 数学の天才が情緒を説くに至ったのは幼少時に受けた影響が大きいためか。岡潔は自らの随筆でも幼い日の思い出を実に生き生きと書いている。

 私が私淑(ししゅく)するクリシュナムルティ(1895年生まれ)や竹山道雄(1903年生まれ)とほぼ同世代である(岡は1901年生まれ)。岡潔の著作は当たり外れがあるのだが2~3冊は必読書に入れる予定である。その強いメッセージ性と仏教性が数学者から放たれる意外性に不思議な感興を覚える。

 この世代は前半生を戦争と共に過ごした人々である。祖父の文一郎はたぶん明治以前の生まれだろう。「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」との教えは維新後の混乱から導かれたものではなかったか。まだ情報化社会ではなかったがゆえに、人伝(ひとづて)に流れる情報は生々しく社会を動かしたことと想像する。

「他人に譲る」行為は心の余裕によって為(な)されるものである。自分しか見えていない人間には実践することができない。また譲る行為そのものが「競争を拒む」精神に彩られている。「どうぞ」と譲る一言に心の豊かさが凝結している。

 岡文一郎は「橋本市古佐田の丸山公園には、岡博士の祖父・文一郎氏の碑があります。文一郎氏は〝橋本のまちは高野街道と大和街道が交差する交通・文化の要衝〟として、当時、高野口町妙寺にあった伊都郡役所を橋本に移設した人物」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。また同ページによれば。「大人になった岡博士は、数学界の3大難問が解けたのは“祖父の徹底したこの教育があったから”と述懐している」とも。

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