2018-09-07

東大法学部系の憲法学者が日本を崩壊へと誘う/『憲法と平和を問いなおす』長谷部恭男


 ・東大法学部系の憲法学者が日本を崩壊へと誘う

『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
・『ほんとうの憲法 戦後日本憲法学批判』篠田英朗
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖

 より深刻に見える問題は、そうした身分制秩序の「飛び地」に暮らす天皇が、憲法によって、日本国の象徴とされていることである(憲法第1条)。全体としては、普遍的人権を享有する平等な国民によって担われるはずの日本の憲法体制を、固有の身分に即した特殊な特権と義務を持つ天皇が象徴することには、明らかに不自然さがある。
 もっとも、この問題は、みかけほど深刻ではないという見方もありうる。象徴、シンボルとは、抽象的な観念や事態を示す具体的なモノやヒトを指す。鳩は平和の象徴であり、白百合の花は純潔の象徴であり、マクドナルド・ハンバーガーはアメリカ帝国主義の象徴であるといった具合である。ある具体的なモノを抽象的な観念や事態の象徴であると実際に考えるか否かは、人々が、その具体的なモノを抽象的な観念や事態の象徴であると実際に考えるか否かに依存する問題である。鳩が平和の象徴であるのは、そのように多くの人々が考えるという事実があるからであって、多くの人がそうは考えなくなれば、鳩は平和の象徴ではない。

【『憲法と平和を問いなおす』長谷部恭男〈はせべ・やすお〉(ちくま新書、2004年)以下同】

 私自身は憲法改正を望んでいる。特に拉致被害や竹島問題、中国共産党による領空・領海侵犯、北朝鮮による核恫喝外交を鑑みて9条を変える必要があると考えている。っていうかさ、この期に及んで「護憲派」を名乗る連中は頭がどうかしているだろ? 私はまたその成り立ちからして現憲法は容認し難い。速やかに憲法を改正して、普通の軍隊と情報機関を設けるのが当然だろう。

国益を貫き独自の情報機関を作ったドイツ政府/『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘
瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行

 長谷部恭男は東大の名誉教授。衆議院憲法審査会(2015年6月4日)の参考人質疑で与党が推薦した憲法学者でありながら、集団的自衛権に対して「違憲」を主張したことで話題となった人物だ。公明党が長谷川の推薦に関与していないとすれば(憲法審査会 長谷部教授の参考人推薦、公明は関与否定)、自民党はしっかりと内部調査をするべきだ。

 天皇陛下の立場を「身分」と捉え、鳩やマクドナルドになぞらえるような人物なのだ。しかも筆が滑ったと見えてアメリカに「帝国主義」を付けてしまっている。「私は左翼です」と名乗ったも同然だ。

 既に何度も書いている通り、日本は天皇陛下を中心とした一君万民思想があったからこそ奴隷の存在がなかった(武田邦彦の受け売り)。そうした日本の歴史を無視する者は共産主義体制か共和制を目指していると考えざるを得ない。

 憲法は、天皇がこの抽象的な存在である日本の象徴だというのであるが、それには、「国民の総意に基づく」という限定がついている(憲法第1条)。鳩が平和の象徴であるか否かが、多くの人々がそのように鳩のことを考えるか否かという事実に依存しているように、天皇が日本の象徴であるか否かも、国民の多くがそのように天皇を考えるか否かという事実に依存している。日本国の象徴たる天皇の地位が「国民の総意に基づく」というのは、したがって、当然のことがらを確認しているだけのことである。
 つまり、多くの国民が、身分制秩序のなかで生きる天皇を現在の日本の象徴と考える不自然さに気づいて、天皇を日本の象徴と考えなくなれば、天皇は日本の象徴ではなくなり、冒頭の問題も解消する。そのことを、憲法は暗に示唆していることになる。

「国民の総意に基づく」と書いてある憲法の方こそおかしいのだ。現行憲法を金科玉条のごとく崇め、その解釈をするのが憲法学者だという思い上がりが見える。「身分制秩序のなかで生きる天皇を現在の日本の象徴と考える不自然さ」と書く自分の不自然さに気づいていない。日本の伝統を「不自然」と感じるのだから長谷部は共産主義者に違いあるまい。

 長谷部は近著で「憲法学者以外の者は、憲法について語るべきではない」とまで主張している模様。

長谷部恭男教授の「憲法学者=知的指導者」論に驚嘆する – 篠田英朗

 東大法学部系の憲法学者が日本を崩壊へと誘(いざな)う。彼らは自分を高みに起きながらも国防や外交において責任を取ることがない。9条を擁護するのであれば竹島に上陸してもらいたいよ、俺としては。また彼らは北朝鮮による拉致被害をどのように考えているのか? 憲法が国民を守っていない現実をどう見つめているのか?

 文部行政による補助金の扱い方を直ちに変える必要がある。反日教授や教師がのさばっている現状は政府与党にも責任がある。

日本の憲法学が憲法を殺した」という小室直樹の指摘がよくわかった。

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)
長谷部 恭男
筑摩書房
売り上げランキング: 209,373

ギョサン vs. ベンサン


 上がギョサンで下がベンサン(便所サンダル)である。



 履きやすさ、丈夫さ、コストパフォーマンスの高さという点でサンダル界に君臨する王者といってよい。私は長らくギョサンを愛用してきたが思い切ってベンサンも試してみた。

 ベンサンの特長はその軽さである。北海道ではサンダルのことを「つっかけ」(突っ掛け)と呼ぶのだが、まさに「つっかけ」そのもの。ギョサンからベンサンに転向する連中は軽さに魅了されたと察しがつく。またギョサンよりはクッション性もわずかながらある。ただしそこまでのことだ。

 個人的にはギョサンに軍配を上げる。運動神経がよい者であれば直ぐに気づくことだが鼻緒の操作性は微妙な動きに対応できる。クルマやギア付きバイクを運転すればたちどころに理解できる(※法令違反に該当する)。脱げかかったサンダルは足全体を前に動かす必要があるが、鼻緒の場合は親指と人差し指の2本で操作が可能なのだ。確かにギョサンは重い。重いのだがヒールが高く前傾が掛かっているためさほど気にならない。濡れた路面に対しても圧倒的なグリップ力を誇る。

 ま、要は好みだ。ギョサンのマイナス面を挙げると、長時間歩くと小さなイボイボで足の裏が痛くなる。靴下を履くと操作性が鈍くなる。この2点である。

 amazonのギョサンは高いので、私はいつも「ぎょさんネット」で購入している。松下靴店は送料が650円と高い。

2018-09-04

余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望


55歳から始めるロードバイク
格安ロードバイクを嗤(わら)うことなかれ

 ・余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望

中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ

 著作権フリーの適当な画像が見当たらないので、自転車雑文については動画を貼りつけることにした。尚、ラベル(カテゴリー)を「ロードバイク」から「自転車」に変えた。紹介するのはTHURSDAYBOMBER氏の投稿で、私が自転車に乗ろうと思い立ち、最初に見つけた動画である。住んでいる場所が近いこともあって釘づけとなった。彼は恐るべき人物で自転車で相模原市から北海道や九州まで訪れ、最近に至ってはアジア諸国をも駆け抜けている。それだけではない。山中湖までジョギングしたり、キックボードで鹿児島から神奈川まで帰ってくるような鉄人である。目出度く医師となったのだが、医師らしからぬ引きこもり系キャラが独特の魅力を発揮している。


 何をするにせよ遅すぎることはない。何もしないより100倍マシだ。これが私の基本的な考え方である。昨年の春にバドミントンを始めたのだが1ヶ月間のうちに三度もふくらはぎの肉離れ(筋肉の部分断裂)を起こしてしまった。リハビリのつもりでひたすらウォーキングをしたのだが10kmを超えると膝が痛くなる。その時自転車を思いついたのだった。自転車運動は膝と腰への負担が少ないのだ。

 早速ネット上でロードバイクの関連記事を入念にチェックし、自転車を物色し続けた。カーボン素材が軽いのは知っていたが横からの衝撃に弱い。つまり転倒(落車)した場合破損するリスクがある。最も多く出回っているアルミは長距離だと振動で手が痛くなる。というわけで細身のフレームが美しいクロムモリブデン鋼(クロモリ)一択となった。一番頑丈な素材だ。

 最初は5万円前後のフラットバーロードに乗って脚力が十分付いてから買い換えるつもりだった。「ま、数年も経てば……」と考えていた時、自分が55歳であることに初めて気づいた。5年後には還暦を迎える。私の感覚は少しおかしくて30代前半で止まったままなのだ。体力が衰えたり、クルマの運転が下手になっているのは確かだが、基本的な判断力は決して衰えていない。

 ってなわけで、結局一発勝負で10年間は乗る気構えで選んだ。転倒リスクを考慮してビンディングシューズを履く予定はなかった。飽くまでも私が愛してやまないギョサン(樹脂サンダル)で乗ると決めていた。そうでなくても買い揃える必要のある物が多いのだ。余計な出費は控えたい。コンポーネントはTiagra(ティアグラ)かSORA(ソラ)に絞った。10万円前後の車体価格だと自動的にSORAの選択となる。

 5月に買って、誕生日を少し過ぎた7月から乗り始めた。サドルの高さとハンドルの不安定さとケツの痛さに目が眩(くら)んだ。乗った瞬間に買ったことを後悔したほどだ。ひと月ちょっとの間に500kmほど走り、やっと体が馴染んできた。最初はとにかく尻対策が必要でサドルカバーとレーサーパンツは用意すべきだ。



 注意点としてはサドルカバーを装着するとサドルバッグは付けられなくなる。またレーサーパンツはどうせヘタってくるのだから安物を買い換える方がいいと思う。

 ケツが気にならなくなると今度は首の痛みに悩まされる。初心者は思い切ってサドルを一番下まで下げた方がよい。慣れてから少しずつ上げると前傾姿勢が楽になってくる。ドロップハンドルだとブラケットの突端に掌(てのひら)を乗せたり、エンド部分を握って変化をつけると姿勢の妙味に気づく。

 私は煙草を吸う時しか本を読んでいないのだが、本を読むより地図を見る時間の方が長くなった。ネットを渉猟(しょうりょう)するのもGoogleマップに費やされる時間がダントツで増えた。目指すべき目的地を探し回っているのだ。「制覇」と題したテキストファイルを用意し、行きたい地名を距離順で陸続と記した。最終目標は実家の札幌まで1000kmの道を走破する予定である。尚、走行記録(地名と距離)は表計算ソフトに記録している(中華サイコン万歳)。

 地図はツーリングマップル一択である(Rは判型が大きい)。通常の地図だと山間部が割愛されているためだ。

ツーリングマップル 関東甲信越

昭文社
売り上げランキング: 9,501

ツーリングマップルR 関東甲信越

昭文社
売り上げランキング: 7,484

 私は幼い頃から瞬発力と機敏さだけは秀でていたが脚力は平均以下だった。それでも初心者で50km程度は走れるのだからロードバイクは凄い。どうやら余生をサドルの上で過ごすことになりそうだ。

 現在、私の本拠地は中津川~宮ヶ瀬湖界隈である。ま、本拠地といってもただ好きなだけだ。実に不思議なことだが地図を見るとどうしても湖を目指したくなる。当然ではあるが山を超える必要がある。まず最初の野望は10年前に果たせなかった奥多摩湖の制覇である。1年かけて取り組み、時計周りと反対周り(都道206号〈川野上川乗線〉と県道18号〈上野原丹波線〉の両コースも)を成し遂げ(約150km)、和田峠や払沢(ほっさわ)の滝などを総ナメにし、あきる野市界隈を我が庭とする。これを2年計画とする。

 次に富士山方面を攻略する。富士山5合目までは当然のこと、富士五湖、更には富士山一周(220km)を50代後半の仕事とする。で、遂に還暦で札幌に向かう。1000km(青森-函館フェリー)あるので1日200km走ったとしても5日間を要する。野垂れ死にする可能性もあるが男子の最期としてはそれも悪くない。

 ロードバイクには初老のオヤジの胸をときめかせる何かがある。生きる姿勢も前傾となる。

人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄

 ・人間は世界を幻のように見る

『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

必読書リスト その四

 私は長いあいだ人間の心の動きを驚(おどろ)き怪(あや)しんできた。その謎(なぞ)を解きたいと願っていたのだったが、その正体もはっきりとは摑(つか)めず、どこから手をつけていいかも分からない。ただ茫然(ぼうぜん)として手をこまねいている間に年月は奔(はし)って、もはや日暮(ひぐ)れである。
 この謎は、まだ学問の領域(りょういき)ではとりあげられていないのではないか、という気がする。私にはそれを解くことはできず諦(あきら)める他はないのだが、今までにああではないかこうではあるまいかと思いあぐんだ段階のことを記しておきたい。
 その人間の心の不可解とは、だいたい、客観世界(きゃっかんせかい)についての人間の認識とはどういうものなのだろうか、というようなことである。
 人間はナマの世界に自分で直接にふれることはあまりないのではなかろうか。むしろ、世界についてのある映像(えいぞう)の中に生きているのではないのだろうか。
 そして、その人間の世界に対する映像(えいぞう)のもち方は、自分の直接の経験(けいけん)から生れたものよりも、むしろおおむね他から注ぎこまれたものではないだろうか? 「このように見よ」という教条(きょうじょう)のようなものがあって、人間はそれに合せて世界を見る。人間の対世界態度は他から与えられ、これが基本になって世界像がえがかれ、人間はその世界像にしたがって行動する。この際に理性はほとんど参与しない。(「人間は世界を幻のように見る ――傾向敵集合表象――」)

【『歴史的意識について』竹山道雄(講談社学術文庫、1983年)以下同】

 竹山道雄の著作を貫いてやまないのは「イデオロギーに対する不信感」である。その筆鋒(ひっぽう)はナチス・ドイツ、軍国ファッショ、社会主義・共産主義に向けられた。時代を激しく揺り動かすのは煽動されたファナティックな大衆である。大衆は他人から与えられた結論を自分の判断と錯覚し、時代の波に飲み込まれ、次の波を形成してゆく。

 岸田秀が『ものぐさ精神分析』で唯幻論(ゆいげんろん)を披露したのが1977年のこと。注目すべき見解ではあったが学問的な裏づけが弱い。西洋の認識論はプラトンからデカルトまでの流れがあるが、より具体的な進展は人工知能分野における認知科学まで待たねばならなかった。

 1976年に『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』(ジュリアン・ジェインズ)の原書が出ている。ジェインズの衣鉢を継いだ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(トール・ノーレットランダーシュ)の原書が1991年である。同年には『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』(トーマス・ギロビッチ)も刊行されている。その後、コンピュータの発達によって脳科学が一気に花開く。アントニオ・R・ダマシオもこの系譜に加えてよい。

 宗教分野では『解明される宗教 進化論的アプローチ』( ダニエル・C・デネット)、『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』(ニコラス・ウェイド)、『神はなぜいるのか?』(パスカル・ボイヤー)、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』(アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース)と豪華絢爛なラインナップが勢揃いした。

 そしてコンピュータ文明論ともいうべき『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』(レイ・カーツワイル)にまでつながるのである。

 傾向敵集合表象はナマの客観世界からは独立して、人間精神の中だけで成立した世界像であるが、ほとんど絶対の権威(けんい)をもって支配する。それが風のごとく来ってまた去ってゆくのを私は幾度(いくど)も経験した。それが一世を覆(おお)うのをいかんとも解することができず、ついには国運をも傾けてゆく中にただ怪訝(かいが)の念をもって揉(も)まれていた。

 大東亜戦争は冷静に考えれば確かに勝ち目のない戦争であった。講和をするのも遅すぎた。黒船襲来不平等条約三国干渉人種的差別撤廃提案の否決と国民的鬱積は60年以上にも及んだ。軍国主義に至った背景を思えば、当時の政治家や国民を軽々しく批判することは難しい。ドイツは第一次世界大戦後に敗れて法外な賠償金を求められ、国民の溜まりに溜まった怒りがヒトラーを誕生させたのと似ている。しかし日本に独裁者は存在しなかったし、大量虐殺の計画も実施もない。

 共同幻影は集団の中に暗示(あんじ)によって触発され、さながら女が衣装(いしょう)の流行から免(まぬか)れることができないのと同じ強制力(きょうせいりょく)をもつ。それはさながら水が大地に浸(し)みるように拡(ひろ)がってゆくのだが、それに対して、個人の理性をもってしては歯が立たない。

 大正期や戦後の赤化(せっか)が正しくそうだった。かつての大本教創価学会もそうだったのかもしれぬ。

 傾向敵集合表象はつねに論理化して説かれる。そして、理屈(りくつ)はみな後からつく。どのようにもつく。
 その幻影と狂信を正当化する理屈のつけ方には、さまざまなパターンがある。
 もっともしばしば行われるのは「部分的真理の一般化」ということである。

 いわゆる理論武装である。特にキリスト教世界から誕生した共産主義はディベートの流れを汲(く)んでいて自分たちへの批判を想定した問答をマニュアル化する。現実の否定、あるべき理想、論理の構築が三位一体となって脳内情報を書き換える。

 人間はごく身のまわりの事や昨日とか今日の事についてならともかく、すこし離れたことについては、自分が主体になってナマの経験に即して判断することは、ほとんどない。むしろ、集団がいだいている社会表象とでもいうべき、あたえられた枠組(わくぐみ)にしたがって判断する。これは個人が主体であるといわれるヨーロッパ人でもやはりそうである。

 時代の波をつくるのは人々の昂奮や熱狂だ。理性ではない。群れを形成することで生き延びてきた我々の脳(≒心)は他人に同調しやすい。なぜなら同調することが生存確率を高めたのだから。

 いちじるしいことであるが、「第二現実」のみが、人間のエモーションをはげしく動かす。ナマの現実によって激情(げきじょう)が触発(しょくはつ)されることはあまりない。ナマの現実に異変があったときには、むしろそれへの対応(たいおう)にいそがしく、戦中もいかにして食物を手に入れるとか疎開(そかい)するとかに集中して、われわれはむしろプラクチカルになり、悲観(ひかん)とか絶望(ぜつぼう)という情動(じょうどう)はなかった。敗戦のときには虚脱(きょだつ)してむしろ平静だったが、やがて宣伝(せんでん)がはじまってから激動(げきどう)した。戦時中には自殺はなく、敗戦翌年にはおどろくべき数にのぼった。

 私が「物語」と呼び、バイロン・ケイティが「ストーリー」と名づけたものを、竹山は「第二現実」といっている。創作された映画や小説が「第二現実」であるように、我々は「自分」というフィルターを通して世界を見つめる。そこに喜怒哀楽が生まれる。人の感情の多くは誤解や錯誤から生じているのだ。「見る」という行為をブッダは如実知見と説き、智ギ天台は止観とあらわし、日蓮は観心本尊抄を認(したた)め、クリシュナムルティは徹底して「見る」ことを教えた。

 私の眼は節穴なのだろうか? その通り。人間の五感の中で視覚情報が圧倒的に多いのは脳の後ろ1/3を視覚野が占めているためである。ところがだ、実際の視覚情報は我々が感じているような細密なものではなく脳が補完・調整をしているのだ。しかも知覚は準備電位より0.5秒遅れて発生し、視覚の場合は更に光速度分の遅れが加わる。例えば北極星でサッカーが行われたとしよう。我々が超大型電波望遠鏡で見るのは434年前に行われたゲームだ。

 そして見る行為には必ず見えないものが含まれている。表が見えている時、裏は見えない。中も見えない。前を見る時、後ろは見えない。遠くを見る時、近くは見えない。美人を見る時、その他大勢は見えない。見るとは見えない事実を自覚することである。ま、無知の知みたいなもんだ。

歴史的意識について (講談社学術文庫 (622))
竹山 道雄
講談社
売り上げランキング: 258,872

2018-09-02

読み始める

チベット大虐殺と朝日新聞
岩田温
オークラ出版
売り上げランキング: 440,030

さらば、暴政―自民党政権 負の系譜
藤原 肇
清流出版
売り上げランキング: 377,300

柳生武芸帳〈上〉 (文春文庫)
五味 康祐
文藝春秋
売り上げランキング: 109,344

柳生武芸帳〈下〉 (文春文庫)
五味 康祐
文藝春秋
売り上げランキング: 110,492

隠蔽捜査 (新潮文庫)
隠蔽捜査 (新潮文庫)
posted with amazlet at 18.09.02
今野 敏
新潮社
売り上げランキング: 47,457

自転車の教科書 ー身体の使い方編ー (やまめの学校)
堂城 賢
小学館
売り上げランキング: 155,597