・『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
・『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋
・狂者と狷者
・人生の目的
・「武」の意義
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・必読書リスト その五
狂者(きょうしゃ)は進(すす)みて取る。(『論語』「子路」)
中道を行なう人間がもっとも好ましい。しかし、中庸(ちゅうよう)の人は少ない。そこで次に選ぶとしたら、狂者である。なぜか。狂者とは、実行はまだともなわないが、志は高く、進取的な人間だからである。
狷者(けんしゃ)は為さざる所あり。
中庸の人が第一、狂者が第二、これについでとるべきは狷者である。狷者は引っ込み思案ではあるが、そのかわり、不善、不義はだんじてしないという操(みさお)の固い所がある。
【『中国古典名言事典』諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉(新装版、2001年/座右版、1993年/講談社、1972年/講談社学術文庫、1979年)】
何度か中国古典に取り組んできたが『論語』すら読了できない始末だ。いずれも訳文がしっくり来ない。本来であれば原典に当たるのが基本であるが、人生に残された時間を思えばそろそろ好き勝手な放浪も許されない時期だ。たとえそれが読書であったとしてもだ。「名言集」の類(たぐ)いはつまみ食いである。文脈も見落としかねない。名言集だと「読書百遍義自(おの)ずから見(あらわ)る」(「意自ずから通ず」とも)は通用しない。しかしながら私がやろうとしているのは言葉によってシナプス結合を整理することである。もっと言えば半世紀近く読んできた本や出会った人々で入り乱れた配線をつなぎ直し、太く短いケーブルにしようと目論んでいるのだ。
本書に関しては文庫本を避けた方がよい。解説のフォントが小さくて読みにくい。7ポイントから6ポイントだと思われる。老眼気味の人は迷うことなく座右版を選ぶこと。
岡崎久彦著『陸奥宗光とその時代』で「狂者と獧者(狷者)」という言葉を知った。山縣有朋〈やまがた・ありとも〉は狂介と名乗り、陸奥宗光は雅号を六石狂夫と称した。
吉田松陰が「諸君、狂いたまえ」と教えた理由も腑に落ちる。時代が激動する時に中庸の人の居場所はない。中庸人が支えるのは過去の時代である。「吉田松陰が彼らに教えたのは『狂』という字でした。狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は『自分でも持て余してしまうような情熱』を指します」(山縣有朋(狂介)の「狂」の字 -どういういきさつで名前に「狂」という- 歴史学 | 教えて!goo)。
白川静もまた「狂」の字を愛した。「狂は気がくるうことではない。好むところに溺れること、憑(つ)きものがおちないことをいう。例えば風雅に徹する人のことを風狂の徒という。それは〈世間の埒外(らちがい)に逸出しようとする志をもつもの〉であり、狂とは〈最大の讃辞(さんじ)〉だった」(「天声人語」2014年1月3日付)。
狂の字のけもの偏はもともと犬を意味する。つまり犬がくるくると激しく動き回る様を「狂う」と名付けたのだろう。維新回天の志士たちが狂の字を好んだのも当然か。
一方、狷の字は狷介(けんかい)で辛うじて生き残っている。「自分の意志をまげず、人と和合しないこと」で頑固・頑迷と同意である。一方的な言葉のイメージに囚(とら)われると豊かさを失う。乱れた世の中において狷者たり得る者は賢者に通じる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし)という時に「人と和合しないこと」は正しいのである。
世の中の大勢に流されないことは簡単なようで難しい。例えば2005年の郵政解散とその後の総選挙である。私はさしたる考えもなく小泉首相を支持した。自民党内の造反議員に敬意を抱くこともなかった。資本主義は競争原理で動いているのだから巨額な貯金を有する郵便局も競争に晒されるべきである、と考えた。郵便局が社会インフラだとは思いもしなかった。時流に流された事実を言い逃れする言葉を私は持たない。人生にくっきりと残した汚点の一つである。
映画や漫画の世界だともっとわかりやすい。ヒーローは常に狂者である。常識から「はみ出す」ところにドラマが生まれるからだ。
誤解される人の姿は美しい。
人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じて、その人は強く豊かなのだ。誤解の満艦飾となって、誇らかに華やぐべきだ。
【『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』岡本敏子(小学館文庫、1999年)】
・『銀と金』福本伸行
・小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
・恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也