便利ネタ↓↓
— 麦ライス@簡単レシピ/料理ハック (@HG7654321) July 26, 2020
『長ネギみじん切り』は中間まで裏表斜めに切り込みを入れ、端から切っていくと早く綺麗に切れます
ホウキ状にしてから切るのはもう禁止
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2021-01-09
長ネギのみじん切り
2021-01-08
徳川幕府の経済力/『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎
・『お坊さんはなぜ領収書を出さないのか』大村大次郎 2012年
・『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎 2012年
・『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎 2015年
・『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎 2015年
・『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が古代~現代にガサ入れ』大村大次郎 2016年
・『お金の流れで探る現代権力史 「世界の今」が驚くほどよくわかる』大村大次郎
・徳川幕府の経済力
・『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎 2018年
・『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎
・『脱税の世界史』大村大次郎 2019年
・日本の近代史を学ぶ
薩摩藩と長州藩は、関ヶ原で敵についた外様大名として、江戸時代を通じて幕府からいじめ抜かれた。江戸から遠く離れているため参勤交代で莫大な費用が掛かる上、たびたび幕府から「天下普請」(てんかぶしん)と言われる幕府関係の城の整備や治水事業などを押し付けられた。両藩とも一時期は、財政破綻(はたん)寸前にまで追い詰められた。
が、この過酷な環境は、逆に早期の財政再建のきっかけになり、両藩は諸藩に先駆けて、産業振興にいそしみ米穀経済から脱することになった。
【『お金で読み解く明治維新 薩摩、長州の倒幕資金のひみつ』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(ビジネス社、2018年)】
関ヶ原の戦い(1600年)から戊辰戦争(1868年:明治元年~1869年)までは250年以上を経ている。恨みというものはつくづく恐ろしい。戦争や虐殺の傷は歴史に長く留(とど)まる。民族の相違を簡単に乗り越えることが難しいのも歴史的理由によるものなのだろう。
米穀経済とは米本位性である。商品の流通が活発になれば自ずと貨幣経済にシフトする。
江戸時代というのは、徳川幕府が経済的には優位になるシステムになっていた。
あまり顧みられることはないが、実は江戸徳川幕府というのは、日本の歴代の武家政権の中では、【断トツで大きい経済力】を持っていた。
江戸幕府は、約400万石の直轄領を有していた。親藩(徳川家一門)の領地を含めると800万石近くもあり、当時の日本の領土の25%に達していた。
これは封建制度としては、かなり広い領地だといえる。
鎌倉幕府は関東の数か国から十数か国を有していたにすぎず、せいぜい200~300万石である。室町幕府はそれよりさらに少なかったと見られている。そして豊臣政権にいたっては、家臣だった徳川家康よりも直轄領は小さかったのだ。豊臣政権は、全国の主な鉱山や港湾を支配下に置いていたため、総合的な経済力では徳川家康を上回っていたが、それでも、家康に対して圧倒的な差があったわけではない。
このように武家政権の中では、江戸幕府がとびぬけて直轄領が広いのである。直轄領が広いということは、兵動員力の大きさにもつながる。つまりは軍事力が大きいということである。
封建制度と聞くと前時代的なニュアンスで受け止める人が多いだろうが実は違う。近代化の前段階として欠くべからざる制度なのだ。世界でも封建社会が成立したのは西欧と日本だけだ(『自然観と科学思想』倉前盛通)。
部族社会→封建制度→近代国家の流れは、経済および軍事のシステム化が進行した歴史である。戦後の日本が歪(いびつ)な形をしているのは軍事をなげうって経済一辺倒で発展してきたためだ。吉田茂の深慮遠謀(『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行)は理解できるが、高度経済成長の豊かさを享受する中で独立の機運は一向に訪れなかった。政治家と国民の目を覚まさせるべく立ち上がったのが三島由紀夫であったが、命懸けのメッセージも嘲笑されただけで終わった。
近代戦争は兵器を必要とする。その兵器を買う経済力が国家の威信を決めるといっても過言ではない。たった一度の戦争に敗れただけでこの国は国民の生命と財産を守ることもあきらめた。北朝鮮による拉致被害、東日本大震災における政治の迷走、二転三転する新型コロナ対策などを見れば一目瞭然だ。日本は国家の体(てい)をなしていない。
2021-01-06
奴隷制とリンカーン大統領/『奴隷船の世界史』布留川正博
・イギリスにおけるカトリック差別
・奴隷制とリンカーン大統領
・『奴隷とは』ジュリアス・レスター
・『砂糖の世界史』川北稔
・『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
・『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
ただし、奴隷解放は当初南北戦争の争点では必ずしもなかった。重要だったのは合衆国の連邦体制を維持することである。リンカン大統領は戦争中の1862年8月、「私の最大の目的は、連邦を救うことである。奴隷制を保持するか廃止するかは喫緊の課題ではない」と述べている。ただし彼は、奴隷制は道徳的に誤りであるという信念は大統領就任以前から抱いていた。
1863年、リンカンが奴隷解放を宣言したのは、南部連合を孤立させるための戦略の一環であった。北軍の連邦諸州の目的に、連邦の維持だけでなく、奴隷解放も付け加わったのである。これによって南部連合は動揺し、国際的にも孤立してゆく。戦争は南北あわせて60万人以上の戦死者をだす未曽有の事態となったが、ゲティスバーグの戦い(1863年7月)での北軍勝利が転回点となり、経済力にまさる北部連邦諸州が勝利した。北軍には解放奴隷を含む多数の黒人兵も従軍した。戦争終結後の1865年4月15日、リンカンは暗殺されるが、同年12月、憲法修正第13条によって合衆国における奴隷制度廃止が実現されたのである。
【『奴隷船の世界史』布留川正博〈ふるかわ・まさひろ〉(岩波新書、2019年)】
「リンカーン大統領が奴隷解放を唱えたのは黒人を兵士に起用するための方便だった」と物の本で読んだ覚えがある。布留川正博の視点は中庸に貫かれていて妙な偏りがない。学問とはかくあるべきだろう。
3分の1ほど読んで「奴隷ではなく奴隷船の歴史」であることに気づいた。本を閉じそうになったが最後まで読ませられたのは著者の筆力が優れている証拠だろう。
ジム・クロウ法(1876~1964年)という人種差別法があったことを踏まえると、リンカーンが掲げたのは単なる理想だったのだろう。つまり餅の画(え)を描(か)いてみせたのだ。
リンカーンが奴隷制反対を聴衆の前で公言したのは1854年だが、
1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」と語っている。
【Wikipedia】
公民権運動のきっかけとなったモンゴメリー・バス・ボイコット事件が起こったのが1955年だ。黒人専用座席に坐っていたローザ・パークスが運転手から立つよう促された。パークス女史は静かに「ノー」と言った。そして彼女は逮捕された。ここからマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが立ち上がるのである。
・公民権運動の母ローザ・パークスが乗ったバス
アメリカ建国の200年は人種差別の時代と言ってよい。根深い差別感情は現在もまだ途絶えることなく連綿と続く。しかしながら間もなくアメリカは有色人種の国となる。白人人口が減少した時、現在の大統領選挙以上の混乱が待ち受けているような気がしてならない。
2021-01-05
「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク
・『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
・『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
・『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
・『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
・「自己」という幻想
「自己とは、内側にある安定した核だ」と昔から固く信じられてきたが、それは科学的事実からかけ離れた幻想である。「ここが人格や自己意識を生み出す源だ」と言える特定の脳内領域やニューロンは存在しない。実のところ、やつれ顔のシュールマンは、「自己とは、我が研究チームが自由に造り替えられるものです」と言うこともできたのだ。実験結果を見れば、どの患者にも普遍の核など存在しないことは明らかだ。自己とは、そのときどきの脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に電気を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう。
【『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク:赤根洋子〈あかね・ようこ〉訳(文藝春秋、2020年)】
著者が言う「脳の状態」を石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉風に表現すれば「スタイル」となる(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。つまり我々は自分が好む反応を定式化することで「自己」という産物を創造しているのだろう。それは文字通り「型」(スタイル)といってよい。
人は身口意(しんくい)の三業(さんごう)を繰り返すことで自我を形成する。すなわち自我とはパターンに過ぎない。私は「小野さんらしい」と言われることが多い。特に目上の人物と喧嘩をする際に私の個性は最大限発揮される。そうした行為は私が自ら選んで行われるものだ。時折失敗することもあるが気にしない。じっと黙っているわけにはいかないからだ。
悪しき性格は劣等感によって作られる。負の感情が正常な判断を失わさせる。その意味で恨みや妬みが一番厄介な感情だと思う。
「自己」が幻想であれば誰かから馬鹿にされても怒る必要はない。たまたまその時の「脳の状態」が馬鹿にされたのだから。
翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった/『翻訳語成立事情』柳父章
・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
・「存在」という訳語
・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった
・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章
「恋愛」とは何か。「恋愛」とは、男と女がたがいに愛しあうことである、とか、その他いろいろの定義、説明があるであろうが、私はここで、「恋愛」とは舶来の概念である、ということを語りたい。そういう側面から「恋愛」について考えてみる必要があると思うのである。 なぜか。「恋愛」もまた、「美」や「近代」などと同じように翻訳語だからである。この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、1世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。 しかし、男と女というものはあり、たがいに恋しあうということはあったではないか。万葉の歌にも、それは多く語られている。そういう反論が当然予想されよう。その通りであって、それはかつて私たちの国では、「恋」とか「愛」とか、あるいは「情」とか「色」とかいったことばで語られたのである。が、「恋愛」ではなかった。
【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】
「エ!?」となった。人を好きになるのは自然なことだ。私が初めて好きになった女の子は同じ幼稚園に通うヨーコちゃんだった。同じ想いを抱いていたカタギリで二人でヨーコちゃんの頬にチューをしたことがある。淡い感情は思春期に入ると性的色彩を帯びてどす黒くなってゆく。それでもまだ中学生くらいまでは話していて面白いレベルでうろうろしている。
恋愛以前にあったものは何だろうか? それは「情」である。「恋」の語源は「乞(こ)う」で、「愛」は「かなしい」とも読む。ここまで解説すると、「じょう」(情)や「なさけ」(情け)と通底していることがおわかりいただけよう。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。要はこうだ。誰かが誰かを好きになる。言葉や恋文で赤裸々な真情を伝える。相手はそれを持ち帰ってあれこれ迷う。自分も想いを寄せていた人物であればハッピーエンドとなるわけだが、犬が涎(よだれ)をこぼしながら餌にありつくような真似はしたくない。少し時間を置いて焦(じ)らしてみようか。それとも……。
実はこうした駆け引き、あるいはセオリー(理論)、はたまた概念は近代ヨーロッパで生まれた。恋愛という新しい概念で人類を束縛したのが実は『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ著、原著は1774年刊、和訳は1891年高山樗牛訳)であった。つまりゲーテこそが恋愛の父なのだ。
それ以前にも『ロミオとジュリエット』(1595年前後)など恋愛作品は存在したがゲーテほどの衝撃を与えていない。『若きウェルテルの悩み』はヨーロッパでベストセラーとなり自殺者が続出した。
人間とは「概念を生きる動物」なのだ。夢や理想と言えば聞こえはいいが所詮妄想である。
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