2021-12-22
2021-12-21
2021-12-19
基準値を下げて病人を製造する日本高血圧学会/『長生きは「唾液」で決まる! 「口」ストレッチで全身が健康になる』植田耕一郎
・『人は口から死んでいく 人生100年時代を健康に生きるコツ!』安藤正之
・基準値を下げて病人を製造する日本高血圧学会
・『ずっと健康でいたいなら唾液力をきたえなさい!』槻木恵一
・『免疫力を上げ自律神経を整える 舌(べろ)トレ』今井一彰
・『舌をみれば病気がわかる 中医学に基づく『舌診』で毎日できる健康セルフチェック』幸井俊高
・『あなたの老いは舌から始まる 今日からできる口の中のケアのすべて』菊谷武
・『肺炎がいやなら、のどを鍛えなさい』西山耕一郎
・『誤嚥性肺炎で死にたくなければのど筋トレしなさい』西山耕一郎
・『つらい不調が続いたら 慢性上咽頭炎を治しなさい』堀田修
・身体革命
・必読書リスト その二
とくに標準血圧のガイドラインは、目に余るものがありました。
2000年まで、最高血圧160以上の患者さんが高血圧症として降圧剤が処方されており、その数は1800万人といわれていました。
2000年に、日本高血圧学会が高血圧治療ガイドラインを発表し、高齢者については最高血圧140以上が高血圧症となり、患者さんは3700万人に増えたといわれます。
さらに2008年のメタボ健診に便乗して、高血圧症は最高血圧130以上という基準が示され、今日、私の推測では、6500万人が高血圧症を患う病人となっています。
今や、65歳以上の高齢者を集めたら、降圧剤を服用していない人を探すのは難しいと思います。
いったい、これは誰が臨んだ結果でしょうか。少なくとも、けっして患者さん自身が望んだ結果ではないと思います。
また、このように基準値を少し下げるだけで、一気に何千万人と患者が増えるわけです。
現状として、最高血圧130以上の人のほうが多いのであれば、統計学的にはむしろ、最高血圧130以上の高血圧の人が正常で、それ未満の人のほうが正規分布から外れた異常である、と考えるべきではないでしょうか。
わかりやすくいえば、ふたりにひとりは薬を飲んでいる場合、それはもはや異常な現象としての「病気」とは呼べないのではないか、ということです。
糖尿病の基準である血糖値、高脂血症のコレステロール基準値も、しかりです。
【『長生きは「唾液」で決まる! 「口」ストレッチで全身が健康になる』植田耕一郎〈うえだ・こういちろう〉(講談社+α新書、2014年)】
降圧剤は1兆円市場である。武田邦彦は「降圧剤の投与によって認知症患者が増大した」と指摘している。こうなるとまるで麻薬や覚醒剤の売買と変わらないように見えてくる。私は酒をやめてから血圧がずっと180台だったが自分で少し低くした。今は多分140台である。
植田は現場の感覚を重んじる歯科医である。リハビリ現場で目撃した高齢患者に衝撃を受ける。そこから唾液に着目したオーラルケアを編み出す。口ストレッチはいずれも簡単な動きで、「エ、たったこれだけ?」と思う程度の運動である。ところがどっこい実に重要なストレッチで、死命を分かつといっても過言ではない。
私は最近、嚥下(えんげ)機能が衰えてきているのでよくわかる。もともと扁桃炎持ちで、睡眠時無高級症候群もあり、口を開けて寝る悪い癖がある。近頃はセロテープを貼って寝ている。更に年をとってから寝返りの数が極端に減っていて、仰向けで寝ていると腰に疲労感が残る。長時間にわたってクルマを運転した後のようなずっしりとした疲労感だ。というわけで横を向いて寝るようにしている。
ここ数年間で、筋トレを始めとする運動~ウォーキング~ストレッチ~ヨガなどの本を読んできた。そして血管マッサージ~自律神経から口に至った。自然な流れではあったが、きちんと外側から内側に向かっている。で、最後は呼吸である。まだまだ本の選球眼は衰えていない。
恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也
・『北の海』井上靖
・『七帝柔道記』増田俊也
・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
・『VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也
・恩讐の彼方に
増田●もしヒクソンさんが木村先生の立場だったら、どう思いますか。
ヒクソン●ありえない。
増田●ありえないとは?
ヒクソン●私をフェイク(※八百長)の舞台に上げることは誰もできない。どれほどの大金を積まれても私がフェイクのリングに上がることはありえない。
増田●木村先生はフェイクの舞台、プロレスのリングに上がった時点で間違っていたと?
ヒクソン●そうです。私がそのようなことをやっていたら、もちろん自分のことを許すことはできないし、そのリングへ出た時点で格闘家として負けだと思います。
【『木村政彦外伝』増田俊也〈ますだ・としなり〉(イースト・プレス、2018年)以下同】
プロ柔道からプロレスラーに転向した木村政彦が力道山にノックアウトされた動画を見た後のヒクソン・グレイシーの言葉である。父親のエリオ・グレイシーはグレイシー柔術の創始者で木村に敗れている。この時決めた腕緘(うでがらみ)をグレイシー柔術では木村に敬意を表して「キムラ・ロック」と呼んだ。
一流の心は一流の人にしかわからない。そんな思いで増田はヒクソンにインタビューしている。北大時代の増田の後輩である中井祐樹がヒクソンと対戦していることも縁を感じさせる。
結局は経済の問題なのだ。いざ食えなくなれば体を売り物にするしかない。男も女も一緒だ。肉体労働と性産業の違いがあるだけだ。近代社会は労働を売り物に変えた。あらゆるものが値段をつけられ売り物にされるのが資本主義だ。そうした厳しい現実に木村は晒(さら)されたのだろう。ヒクソンの言葉は正論だが、正論だけでは喰ってゆけない。
青木●でも結局みんなまともじゃないんで。「中井祐樹」がまともかって言ったらまともじゃないし、僕もまともではないだろうし。でも逆に「普通」って何なの? という話にもなりますよね。
増田●まともだったら、ある世界でトップを取るような存在には絶対になれない。一流の人は、持ってる秤(はかり)が狂ってる人ばっかりですよ。どの世界の一流の人と会ってもそれは思います。その秤の狂いこそ、一流の魅力なんです。そういう人に会うと僕は嬉しくなりますけどね。
青木真也は「跳関十段」(とびかんじゅうだん)との異名をもつ柔道選手で後にプロ格闘家へ転向した。廣田瑞人〈ひろた・みずと〉の腕を折って勝った後、侮辱したポーズをとった試合はよく覚えている。私は格闘技で骨折に至るシーンを初めて見たので衝撃を受けた。
増田の「秤(はかり)が狂ってる」という言葉は巧みな表現だ。指導や常識を重んじれば、ある枠に自分をはめ込む結果となる。
・狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
・狂者と狷者/『中国古典名言事典』諸橋轍次
岩釣●(木村)先生のトレーニングってとにかく半端じゃないんだよ。俺が(大学)1年の夏に60kgのバーベルを100回×2セット上げて、先生の前で胸張って「できました」って言ったら、先生が「君、何回やったんだ?」って言うから「100回できました」って言ったら、「僕は1時間それを続けたよ」って言われてさ。真剣な顔で。60kgを1時間続けてみてよ。全然パワーが違う。40代始(ママ)めの頃でもまだまだ強かった。
あまりの凄まじさに笑い声をあげてしまった。柔道やレスリングの練習が厳しいのはよく知っている。高校生ですら桁違いの練習量だった。
岡野●今、いい背負いを見ることはないでしょう? 大体が膝を畳に着く。膝を着くということは体全体のパワーが使えないということです。背負いでもつま先、足首、アキレス腱、そして最後は親指の力、これ全部使うわけですからね。片膝着けばパワーが半分減る、両膝着いてしまえば、そこから下のパワーを自ら殺してしまう。やっぱり全身の力、特に親指から腰まで繋がる下半身の力は非常に重要ですよ。
こうした体に関する技法の話がてんこ盛りで非常に嬉しい。ホリスティック(全体)とはこういうことを意味するのだろう。体の部分部分を鍛える筋トレは全体性につながらない。単純な自重トレーニングにも同様の陥穽(かんせい)がある。
岡野●どんなに立派な理想でも、それを長く維持するためには経営が大切なわけですから、その経営と中身の充実がバランスを取れてなくてはいけない。
岡野の正気塾も牛島道場も長く続かなかった。それに対する自戒の言葉である。あらゆる団体に通じる話である。
増田●毎日9時間も練習すると、あのルスカでも痩せちゃうんですね……。ルスカが「私の柔道生活の中で最も苦しく厳しいものだった」と振り返っていたのはこいうことだったんですね。そんな苦しい稽古のために何度も日本に来て、岡野先生についていくルスカもすごい。ルスカのほうが3歳年上ですよね。よほど岡野先生の正気塾が魅力的だったのでしょうね……。ミュンヘン五輪でルスカが2階級を制覇したとき正気塾のジャージーを着て表彰台に上りましたね。自分は岡野先生の弟子だからって。
岡野●気を遣って表彰台に上ってくれたわけですよね。その思いやりが非常にうれしかったですよ。私はそのことを知らなかったからね。
増田●岡野先生はミュンヘン五輪のときは日本にいらしたんですか。
岡野●で。後で人づてに聞いたんです。
増田●国家を代表する最高の栄誉の場所で、母国のユニフォームを脱いで、外国のいち私塾のジャージーに着替えるということは、通常ありえないことです。正気塾のネームの入ったジャージーを着て表彰台に上がる、そういう気遣いをするようになったこと自体、きっとルスカが正気塾での修行、共同生活を通して、日本人の静かな感謝の仕方、武道的な心を学んだのではないでしょうか。
岡野●そうだと思います。
ウィレム・ルスカ(オランダ)はミュンヘンオリンピックの無差別級・重量級の金メダリスト。「オリンピック同一大会で2階級を制覇した唯一の柔道家」(Wikipedia)である。1976年、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行いTKO負けを喫した。
正気塾のジャージ姿は画像で紹介されている。岡野功は東京五輪(1964年)の80kg級金メダリスト。著書の『バイタル柔道 投技編』(1972年)、『バイタル柔道 寝技編』(1975年)は世界中の柔道家に愛読され、今日もロングセラーを続けている。引退後も数多くのメダリストを育てた名伯楽である。
半分ほどがインタビューだが、どれも実に面白い。面白さだけなら星五つである。怨念で綴った前著に続き、恩讐(おんしゅう)の彼方に見える風景は決して暗いものではない。「木村 vs. 山下」にこだわるところは子供っぽくて好きになれないが、嘘のなさが読者に訴えるのだろう。
2021-12-18
母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性/『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
・『逝きし世の面影』渡辺京二
・母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性
・『武家の女性』山川菊栄
・日本の近代史を学ぶ
彼女の人生の後半は、日米の赤十字活動や国際連盟の運営協力に費(つい)やされます。さらに晩年は自国の日本人に対する移民差別政策に断固反対してスイスに亡命、二度と故国へ戻ることなく昭和3年(1928)晩秋、ジュネーブの自邸で亡くなります。72歳でした。正義感に溢(あふ)れ武家の婦人のように凛(りん)とし、生涯を独身で通したシドモア女史、彼女を悼む元駐米大使・埴原正直〈はにはら・まさなお〉や外務省高官、さらに新渡戸博士夫妻、横浜市長、英米の外交官が多数参列し、国際社会に尽くした功績を称え、慈愛に満ちた面影(おもかげ)を偲(しの)びました。
【『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア:外崎克久〈とのさき・かつひさ〉訳(講談社学術文庫、2002年/初版は明治24年)】
シドモアという女性の存在が逆にアメリカを見直すきっかけとなる。かような人物を生み出す土壌がアメリカにはあったのだろう。祖国を捨てることは並大抵の決意ではできない。
エリザ・ルーアマー・シドモアは米国地理学協会初の女性理事でもある紀行作家。27歳で来日し、以後45年間にわたって日米友好を推進した。上野公園や隅田川の桜を見た彼女が、ポトマック河畔の植樹を実現に導いた。選りすぐりの苗木3000本がワシントンに贈られ、明治45年(1912年)3月、ポトマック公園で寄贈桜の植樹式が行われる。タフト大統領と珍田〈ちんだ〉駐米大使夫人の手で植えられた。女史の悲願が20年越しにかなった瞬間であった。
日本のあらゆる階層に子供の遊技や遠足が普及しています。学校は野外運動に熱心で、陽(ひ)当たりのよい朝は毎日子供たちが旗や色付き帽子で区分されて隊列行進し、公園や練兵場へ行って運動、訓練、競技にいそしみます。(中略)
ある女学校では昔の和式作法を教え、女学生は伝統的礼法、茶の湯、刺繍(ししゅう)、俳諧(はいかい)、生け花、さらに三味線を学びます。最近、一度廃(すた)れかかった琴が人気復活し、甘美な音色の水平ハープを少女らは好んで弾(ひ)いています。
一番驚いたのは亀戸天神の藤棚や葛飾の堀切菖蒲園が紹介されていたことだ。自分が暮した地域が出てくると、どうしても思いが深くなる。
しかし、何といっても浜松の最も羨(うらや)むべき財産はオタツさんです。私たちが宿に到着すると、オタツさんは私たちの身につけている指輪、ピン止(ママ)め、ヘアピン、時計、ビーズ飾りに好奇心いっぱいで夢中になりながら、2階へ手荷物を運んでくれました。笑顔満面で手を叩き、澄んだ瞳がキラキラ輝き白い歯がまぶしここぼれるオタツさんは、まさに明眸皓歯(めいぼうこし)の女性です。夕食の際、高さ8インチ[20センチ]の膳が置かれ、傍(かたわ)らに座った愛らしいオタツさんが仕切って給仕をしました。彼女の美貌(びぼう)だけでなく、魅力的率直(そっちょく)さ、無邪気さ、機敏さ、さらに優雅さが私たち全員をいっそう虜(とりこ)にしました。私たちの賞賛に美しき乙女は限りなく欣喜(きんき)し、しばらくして真新しい青と白の木綿着に着替え、町で買った最高級の髪飾りをつけ、華麗な黒縮緬(くろちりめん)と金紐(きんひも)で青黒くふさふさした髪を蝶(ちょう)の輪(わ)に結んで戻ってきました。そしてオタツさんの発案で小さな踊り子を招きました。少女は一本のしなやかな細枝とお面で、天照大神(あまてらすおおみかみ)にまつわる踊り手・鈿女(うずめ)、さらに伝説やメロドラマに登場する有名なヒロインを演じました。
浜松の宿を去る際、優しく愛らしいオタツさんから私の写真を送るよう請(こ)われました。強く懇願する瞳に、私は流暢(りゅうちょう)な彼女の日本語を理解せずには済まされぬ衝動にかられました。彼女は走り去り、また戻ってきて私にとび込み、1865年[慶応元]当時の服装をした外国美人の安価な彩色写真を見せました。茶屋を出発するときが、とうとうやってきました。しばらくの間、オタツさんは人力車に付き添い、別れ際、愛らしい眼に涙を浮かべ手を握り、最後の「サヨナラ」の声は啜(すす)り泣(な)きに変わりました。
旅先で擦れ違うような出会いにも心を留(とど)めている。やはり人と人とは理解し合えるのだ。今更ながらその事実に感動する。人柄は振る舞いという反応に表れる。言葉が通じなくとも心は通う。こうした出会いが日本への愛情と育ち、日米親善の道を開き、そしてアメリカの人種差別を許さぬ行為につながったのだろう。類書に『イザベラ・バードの日本紀行』がある。
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