2022-01-10

偶然の一致が人生を開く扉/『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ


『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ
『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ

 ・偶然の一致が人生を開く扉

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

必読書リスト その五

 奇跡は日常生活に現れる流れ星のようなものです。めったに見ることはできず、見つけると、何か不思議なものに出会ったような気がしてきます。しかし、流れ星はいつも空を横切っています。日中は日差しがまぶしくて気づかないだけですし、雲ひとつない暗い夜も、たまたま見上げた場所が星の通り道とは違っているから、見つからないにすぎません。
 流れ星と同じように、奇跡もわたしたちの意識を毎日のように横切っています。自分の運命がこれからどうなるのかわらからなくても、奇跡に気づくか無視するかの、どちらかを選ぶことはできます。結果は歴然としています。奇跡にきちんと目を配ってさえいれば、夢にも思い描けなかったほど驚きと刺激に満ちた人生が始まり、素晴らしい体験も増えていくのです。(中略)
 あなたの内面には、肉体や歯垢や感情を超越した純粋な可能性の「場」が存在しています。この場には不可能の文字はありません。奇跡を起こすこともできます。いえ、ここでこそ奇跡が起きているのです。あなたの内面に存在するこの場は、存在するあらゆるものだけでなく、まだ形として現れないすべてのものと関連しあっています。

【『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ:住友進〈すみとも・すすむ〉訳(サンマーク文庫、2007年/サンマーク出版、2004年『迷ったときは運命を信じなさい すべての願望は自然に叶う』改題文庫化)以下同】

 奇蹟はいつだって偶然訪れる。奇蹟に原因を求めれば不思議さは失われるだろう。目が見えることも不思議だ。耳が聴こえることも奇蹟だ。しかし我々はそのように感じない。感性が汚れているためだ。

 奇蹟は人生に光彩を与える。瞬時に驚きが歓びが満ち溢れ、過去も未来も洗い流して現在を見つめさせ、欲望や迷いを一掃する。「不思議だなあ」と思える瞬間こそが幸福なのだろう。

 流れ星の喩(たと)えもわかりやすい。そもそも日中に星が見えない不思議すらも我々は失念している。

 わたしは10年以上もの間、偶然の一致(シンクロニシティ)こそ人生を導き、形づくっていく原動力であるという考えに魅了され続けてきました。

 通常は「共時性」と訳されるシンクロニシティだが「偶然の一致」の方が腑に落ちる。コンピューティングとは計算の謂(いい)であるが、脳がこれほど計算外のことを喜ぶ事実を思えば、脳は単なる計算機ではないのだろう。

 五感もまた計算するために働いているが、美しい絵画を見たり、好きな音楽を聴く時、我々の感覚は明らかに計算から外れている。統合された情報が生み出す創発現象か。

 偶然の一致の意味を理解して、人生を送るようになれば、心の奥に横たわっている無限の可能性の場につながることができます。つながった瞬間、奇跡が起こりはじめるのです。これが「シンクロディスティニ(運命を変える偶然の一致)」と呼ばれる状態です。この状態に置かれると、すべての願望が、花が咲くように、自然に実現するようになります。しかしシンクロディスティニを起こすには、物質的な世界に出現する複雑な“偶然の一致のダンス”に気づくだけでなく、心の奥深い場所にも赴かなくてはいけません。ものごとの性質を深く理解し、わたしたちの宇宙をたえず創(つく)り出している知性の泉に気づかなくてはなりません。奇跡が訪れたときには、自分を変えていくチャンスを、どこまでも追い求める意思をもつことが肝心なのです。

 本書を読んで私の中で一番変わったのは浄土宗浄土真宗(念仏)に対する評価である。ま、この歳になって勉強する気は更々ないが、「他力」を侮ってきたことを反省した。

 ただし私の場合、還暦を前にしてまだまだ血気盛んなところがあるため、「座して死を待つよりは、出て活路を見出さん」(諸葛孔明)姿勢に変わりはない。

 

マラソンで成功するのは「計算ができる」ランナー/『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー

大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子


『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 ・大塩平八郎の檄文

『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫

檄文

(袋上書)天の生んだ民である村々の         小百姓のものまでに告ぐ

「天下の人民が刻苦窮迫すると、天の愛も絶滅終熄するであろう」「小人に国家を治めさせたならば、災害は相次ぎ到来するであろう」と昔の聖人は、深く天下後世の民の君となり、臣となるものを誡めおかれたので、東照神君(徳川家康)も、寄るべない人にこそ、最も憐れみを加えるのが仁政の基だと仰せおかれた。にもかかわらず、この二百四、五十年の太平の間に、しだいに上に立つものは驕りをきわめ、大切な政治にたずさわる諸役人どもは、賄賂をおおっぴらに贈貰(ぞうせい)している。奥向女中の手づるにより、道徳仁義もない卑劣なものでも立身して重要な役に登り、自分一家を肥やすことのみに智術をめぐらし、その領分の民百姓へ過分の御用金を課している。従来、過重の年貢、諸役に困苦する上に、このような無理無法を申し渡され、民百姓はつぎつぎに出費がかさみ、天下の民は困苦窮迫するようになった。このため、江戸表より一国中すべて、民は上を怨まぬものはないようになってきた。にもかかわらず、天子は足利氏以来、御隠居同様(政治にあずかられず)賞罰の権を失われたので、人民の怨みはどこへ告げ愬えるに訴えるところのないようになってしまっている。ついに、人びとの怨みが天に達し、年々の地震火災により、山も崩れ水もあふれるなど、種々さまざまの天災が打ちつづき、ために五穀実らず飢饉と相成った。これらはみな、天が深く誡められる有難いお告げであるのに、上に立つ人はいっこうに気付かず、なおも小人、奸者らが大事な政治をとり行い、ただ下を悩まし、金、米を取りたてる手段ばかりに奔走している。

【『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子〈みやぎ・きみこ〉(中央公論社、1978年https://amzn.to/3zCPaXc/中公バックス、1984年)以下同】

「檄」(げき)は「激」ではない。本来は「木札に記された文書」のこと。檄文とは「自らの主張を綴った文書」で、同意を求め行動を促すことを目的としている。「檄を飛ばす」とは急いで決起を促すこと。

 大塩平八郎は与力であった。現代であれば警察署長、地方裁判官、市長を兼務したような官職か。大塩平八郎の乱(1837年)は、社会の実情を知悉(ちしつ)し、国政(当時は藩=国)トップの無責任・無能を知る中間官僚が起こした叛乱である。

 加えて、三都の内、大阪の金持などは年来、大名貸の利息、扶持米などを莫大に掠(かす)め取り、いまだかつてないような裕福な暮し振りで、町人の身分でありながら、大名の家老、用人格の扱いをうけている。また自分の田畑、新田を夥しく所持し、何不足なく暮し、昨今の天災、天罰を見ながら、畏れもせず、餓死する貧乏人、乞食を救おうともしない。自身は膏梁の味だと美食をし、妾宅へ入りこみ、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘い、高価な酒を湯水同然に呑み、この難渋の時節に絹服をまとった役者を妓女とともに迎えて、平生同様に遊楽に耽るのは、いったい、どういうことか。紂王の長夜の酒盛も同様だ。そのところの奉行諸役人は、手にした権力でもってこれらのものを取り締り、人民を救うこともできず、日々堂島の米相場ばかりをいじくっている。まったく禄盗人で、決して天道聖人の心に叶わず、ご容赦のないことだ。蟄居の私も、もはや我慢ならず、湯王、武王の権勢、孔子、孟子の道徳はないけれど、致し方なく、天下のためと思い、血族への禍をもあえて犯し、この度有志のものと申し合わせた。
 つまり、民を悩まし苦しめる諸役人を、まず誅伐し、引き続いて驕っている大阪市中の金持町人どもを誅戮する。そして彼らが穴蔵に蓄えている金・銀・錫、およびその蔵屋敷に隠匿している俵米などを、それぞれ配分する。よって、摂津、河内、和泉、播磨の諸国のうち、田畑をもたぬもの、あるいはもっていても父母妻子らを養えぬほど困窮しているものへ、これらの米金を取らせるので、いつでも大阪市中に騒動が起こったと聞き伝えたら、里数をいとわず一刻も早く大阪へ向って馳せ参じるよう。銘々へ右の米金を分けよう。(紂王の)金・粟 を民に与えた遺意にならい、さしあたりの飢饉、難儀を救おう。もしまた、その内に人物、才能の優れたものは、それぞれ取り立てて無道の者を征伐する軍役にもつかおう。
 これは決して一揆蜂起の企てと同じでない。(われわれは)追々年貢諸役までを軽減し、すべて中興の神武天皇の政治のとおり、心豊かな取扱いをし、年来の驕奢、隠逸の風俗をすっかり改めて、本来の質素に立ち返り、天下の人々がいつまでも天の恩を有難く思い、父母妻子を養う事ができ、生きながらの地獄を救い、死後の極楽を眼前に展開し、堯・舜・天照皇大神の時代を再現できないにしても、中興の(神武帝)政治の姿には立ち返らせようと思うのだ。

 いつの時代も叛乱の原因は貧困である。五・一五事件二・二六事件も東北の貧困が背景にあった。現在であれば失業率がその指標となる。

 多くの庶民が塗炭の苦しみに喘ぐと、必ず誰かが立ち上がって叛乱を起こす。これがヒトという種に埋め込まれたコミュニティ戦略なのだろう。最低基準としての平等が破壊されるとコミュニティは成り立たない。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

 理窟や政治力学ではない。ヒトの本能がそうさせるのだ。困っている人を見れば放っておかないのが惻隠の情である。

  天命を報じて天誅を致す。
 天保八酉年月日
  摂津・河内・和泉・播磨村々
   庄屋年寄百姓、ならびに小百姓共へ

 もしも自分の周囲の人々の半分が生活に困窮するようなことがあれば、男子たるものいつでも立ち上がる用意をしておくべきだ。檄文の準備も怠り無く。その時はもちろんネットも駆使する。「座して死を待つよりは、出て活路を見出さん」(諸葛孔明)との言葉を銘記せよ。

技と術/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー、『言語表現法講義』加藤典洋


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍

 ・技と術

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 既に何度も紹介してきたテキストである。個人的には「ミステリー=密教」と読めた。科学は顕教(けんぎょう)である。顕教であるがゆえに訂正され、多くの人々に受け継がれ、そして発展してゆく。一子相伝の秘技は途絶える可能性が高い。

 学、論、法、と来て、さらにいっそう頭より手の方の比重が大きくなると、何になるか、というと、これが術、なんです。術、というのは、アートです。芸術もアート、でも芸術は昔はファイン・アートとファインがついて、美術でした。アートは、技術。フランス語でアルチザンといえば、職人さん。これは、手の比重の方が頭より大きい。そのことで少し頭を楽にしてあげる領域です。

【『言語表現法講義』加藤典洋〈かとう・のりひろ〉(岩波書店、1996年)】

 忘れ得ぬテキストである。ちょうどクリシュナムルティを読んでいた影響もあった。クリシュナムルティが使う術という言葉には確かにアートの意味が込められていた。

 仏教の経論釈広略要とも似通っている。たぶん密教が目指したのは術であったのだろうが、術が目的化したところに形骸化した葬式仏教の原因があったように思われる。マンダラ・マントラ・手印などは瞑想から離れる行為だ。悟りよりも修行を重んじるのは本末転倒だろう。

 現代社会において技と術はスポーツや芸術の専売特許になってしまった感がある。生活や人生における技と術の意味を考える必要があろう。

 

術と法の違い/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光

2022-01-08

読むに耐えない翻訳/『青い眼がほしい』トニ・モリスン


 尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーで歌っている。

【『青い眼がほしい』トニ・モリスン:大社淑子〈おおこそ・よしこ〉訳(早川書房、1994年/ハヤカワepi文庫、2001年)】

「情欲のように静かに」で挫ける。多分、女性の感覚なのだろう。男の場合は炎のようにパッと燃え上がる。たったそれだけのことではあるが、翻訳センスが表れている。読むに耐えない。

のたうち回るような衝撃/『イノセント・デイズ』早見和真


 ・のたうち回るような衝撃

『ぼくんちの宗教戦争!』早見和真

ミステリ&SF

 幸乃の呼吸の音だけが耳を打つ時間は、数分にわたり続いた。6年かの拘置所生活ではじめて見せる彼女の抗おうとする姿に、周りを取り囲んだ者たちは息をのんで見守るしかなかった。それは私が望み続けていた光景に近かった。ただ、彼女が立ち向かおうとするものだけが、望んだものと違っていた。

【『イノセント・デイズ』早見和真〈はやみ・かずまさ〉(新潮社、2014年/新潮文庫、2017年)】

2021年に読んだ本ランキング」に入れるのを忘れていた。衝撃の度合いでは高村薫著『レディ・ジョーカー』を超える。死刑囚・田中幸乃と彼女を取り巻く人々の短篇連作集である。異なる人生が事件を巡って交錯する。それぞれの思いが擦れ違い、欲望が絡み合う。

 私にとっては女子高生のいじめが目を背けたくなるような代物だった。「旭川女子中学生いじめ凍死事件」(2021年)を思えば、さほど珍しいことでもないのだろう。もしも私が被害者なら間違いなく相手を殺す。迷うことなく。自分の力が弱ければ不意打ちをすればいい。人間の知性はそのように使うべきなのだ。「いじめを行った者は必ず殺される」という事実が常識となれば、いじめはこの世からなくなることだろう。

 どこにも救いのない物語である。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』へのオマージュ作品だとすれば、見事に成功している。のたうち回るような衝撃である。