それはひどい落胆のしるし、もの言わぬ死の叫び、諦めようとせず、死なぬために、手遅れにならないうちに気勢をもりかえそうとする敗残の軍隊が、秩序も何も乱したような有様だった。(「恋盗人」)
【『11の物語』パトリシア・ハイスミス:小倉多加志〈おぐら・たかし〉訳(ハヤカワ文庫、2005年)】
――孫子〈そんし〉に、なにかすごみのようなものが、憑(つ)いたな。
と、白圭は感じていた。からだつきやことばづかいにまるみがあるのは、むかしとかわらないが、ひとつちがったのは目である。目に心の風景がうつるとすれば、孫ピンの目のなかに峻谷(しゅんこく)と峻峰(しゅんぽう)がみえた。さらにいえば、その谷と峰とに霧がかかっている。したがって谷の深さと峰の高さをみきわめようがない。そんな感じであった。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
「よかろう。雨や風の日のほかは、庭で教えよう」
と、孫ピンは入門をゆるし、陽のしたでこの熱心な弟子に教学をさずけることにした。
慶■〈けいウン/さんずい+云〉は身ぶるいした。
あたりの空気をうごかしてくる孫ピンのことばは、かつて耳にした孫ピンのことばとはちがい、神韻(しんいん)といってよい深みをそなえている。あえていえば、孫ピンがくぐりぬけてきた苦難の闇の底知れなさと生死の境にあったうつろいやすい微光、そんなものの存在が、足のない孫ピンの容光から慶ウンにつたわってきた。
戦いにむかう兵は、孫ピンが体験したとおなじ闇と微光の世界に投げこまれる。
それらの兵を凱帰(がいき)させるために、どうしても戦略というものがいる。兵とは民である。民の力で国は富むものであり、その民を兵として酷使し、しかも戦陣で死なすことは、国にとって二倍の損害になる。国の威信をたもつ戦いをまっとうして兵を生還させるのが為政者(いせいしゃ)のつとめであろう。だが、どの国もそこまで考えて兵をつかってはいない。
戦略とは、人のいのちの大切さの上に成り立つものである。
威王〈いおう〉の目から田忌〈でんき〉をみると、たしかにこの将軍は勇気にすぐれ、つねに敵軍をみくだして、兵をするどくすすめる指揮ぶりで、自軍に不利が生じても一歩も退かぬたのもしさはあるのだが、それをうらがえせば、
――権(けん)に欠ける。
というみかたができる。権は、臨機応変といいかえてもよい。
城を守りぬくことにおいて、生涯、いちども破れることを知らなかった墨子〈ぼくし〉は、じつは武人ではなく思想家であったのだが、かれは権について、
――所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という。
と、いっている。所体というのは、あたえられた情況ということであろう。そのなかでものごとの軽さと重さをみきわめることが権であるというのである。また、権は、ものごとの是非(ぜひ)をきめることではなく、利害を正すことである、とも墨子はいっている。
戦争は将軍にとってまさに所体といえるであろう。
「いや、白圭〈はくけい〉の子ではないのです。白圭もわたしも、あの子をあずかっているにすぎません」
「ほう、して、その父母は──」
田嬰〈でんえい〉の声に、はっと青欄〈せいらん〉は孫ピンをみつめた。
「天、と申しておきましょう」
孫ピンが微笑すると同時に貌弁〈ぼうべん〉が声をたてて笑った。その笑声に天空の雲が破られたのか、月光が台上にさらさらながれ落ちてきた。
「五月の子は、身長が門の高さにひとしくなり、父母にとって害になるということだ」(中略)
田文〈でんぶん〉は笑いたくなった。その笑いをこらえたためか、かれの舌鋒(ぜっぽう)はするどく父にむかった。
「人の命運というものは、天からさずかるものでしょうか。それとも、門からさずかるものでしょうか」
田嬰〈でんえい〉はむすっと口をむすんだ。不快そのものの表情である。
田文は父の気色(きしょく)の変化を恐れなかった。さらに、
「人の命運が天からさずかるものであれば、父上はご心配なさることはありますまい。もしも門からさずかるものであれば、門を高くすればよろしいではありませんか。そうすれば、だれがその門にとどきましょうか」
と、からさをこめていった。
戦争というものは、勝つべくして勝つものであり、軍旅をすすめながら勝算を計(はか)るものではない。それは孫子〈そんし〉の兵法の根幹にある考えかたである。
人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
寿洋(じゅよう)の目が少年のようだ、と風洪(ふうこう)が感じたのは、寿洋という商人が少年の純粋さをもちつづけてきたということであろうが、寿洋の心が商略という腥風(せいふう)の吹きすさぶ道を歩いてきたにもかかわらず、汚れなかったということであり、さらにいえば、かれを襲った不幸をはねかえし、かれを浸(ひた)した幸福におぼれなかったということでもあり、そのことはとりもなおさず、常人ばなれのした信念があるということである。
風洪はそう考えた。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
寿洋という商人がひとすじなわでないことくらい、風洪にもよくわかる。
──が、あの老人は、善人だ。
と、心のなかで断定した。その人をみきわめるには、初対面こそがもっとも重要である、と風洪はおもっている。その点、寿洋という老人は素直に心にはいってきた。
公孫鞅(こうそんおう)は、連日、孤立無援の論陣を張っていた。
かれの思想の根幹にあるのは、
──いかに国を富ませ、兵を強くするか。
ということであり、そのためには国家の意志を統一しなければならないということであった。
たとえば法も国家の意志のあらわれであるが、その法が国民すべてに適用されなければ、効力をうしなってしまう。が、現実には公族や貴族には適用されていない。おなじ罪を犯しても、庶民は罰せられるが、貴門の者はゆるされる。
国民とひとくちにいうが、公民と私民とがあり、公民と私民とでは賦税(ふぜい)の率がちがい、私民のあいだでも、主君がちがえば賦税の重さがちがう。
こまなことをいえば、一升(しょう)の量でも、各領地によってちがうのである。
そのようにばらばらなものがよりあつまって秦(しん)ができている。それではいくら君主が心をくだき骨をけずって善政をおこなおうとしても、だれの目にもみえる業績とはならない。
このさい、ことごとく旧弊(きゅうへい)を廃し、新制度をしきたい。それが公孫鞅の主張であった。
孝公(こうこう)は慎重であった。
改革に賛同する者の声が反対する者の声にかき消えないほどのたしかさをもつまで、自分の意中をいわず、議論をみまもりつづけた。
ふたつの声の量が、ひとしくなった。
臣下の目がそろって孝公を仰いだ。
──もうよかろう。
と、おもった孝公は、おもむろに口をひらいた。
「窮巷(きゅうこう)は怪(かい)多く、曲学(きょくがく)は弁(べん)多しときく。愚者(ぐしゃ)の笑いを智者は哀しみ、狂夫の楽しみを賢者は憂える。世にかかわりて、もって議するも、わしはこれを疑わず」
孝公がそういった瞬間、秦(しん)は改革の第一歩をふみだしたことになる。
窮巷、すなわちかたいなかに住んでいると、世知に欠け、なんでも怪しむようになり、曲学、つまり正しい学問をしていない者はいたずらにしゃべるだけである。愚かな者が笑ったことを知恵のある者は哀しみ、狂人の楽しむことを賢人は憂えるものである。世俗の旧習にとらわれた議論がどんなにおこなわれようとも、わしには信念がある。
孝公はそういったことになる。
その信念とは、秦を改革することであり、それは国法を変ずることになるので、当時のことばとして、
「変法」
である。議場は粛然(しゅくぜん)とした。
中央の目がとどかないことをさいわいに、かってに法令を変える悪辣(あくらつ)な官吏もいる。法令の一字を加えても消しても死刑にする。公孫鞅(こうそんおう)がそういったとき、
「一字で、死刑か」
と、孝公はつぶやき、目をみはった。
「さようです」
公孫鞅は平然といい、ことばを継(つ)いだ。
とにかく公孫鞅の提言は重大なことをふくんでいた。公族や貴族の領地では法令の書きかえなど日常茶飯事(さはんじ)であったのに、それができなくなった。各地方の役人は法令の内容を人民にろくにしらせずに、独断でとりしまりをおこなっていたのに、こんどは法令の全文を人民に告げ、なおかつ説明しなければならない。それをおこたり人民が罪を犯すと自分が罰せられるのである。いわば人民もその法令によって、官吏(かんり)を監視できるのである。違法の官吏がいれば、法官の長に質問し、その質問は公表されるからである。
「法令は民の命です。政治をおこなう本(もと)です。それなくして民を守ることはできません」
と、あえて強く言上した。
「太子をさばくのですか」
と、法官はうろたえぎみにいった。
「そうです。法の下には身分の上下はありません。わが君が罪を犯せば、たとえ一国の君主でも、刑罰をうけねばなりません。太子でも容赦はなりません」
公孫鞅(こうそんおう)は厳然としていった。
太子駟(たいしし)の罪状はあきらかとなり、有罪と決した。が、一国の嫡子に刑をおよぼすことをはばかり、傅(ふ)の公子虔(けん)を■(ぎ/鼻+リ)、師の公孫■(こうそんか)を黥(げい/いれずみをする)刑に処した。翌日から法令を非難する民の声はぴたりと熄(や)んだ。
「利の世界で生きようとなさる」
「いえ、仁義の世界で生きるつもりです」
「ほう」
尸子(しし)は微笑をふくんだ。
「義を買い、仁(じん)を売ります。利は人に与えるものだとおもっております」
社会的責任において買ったものを心で売る。そこで得た利益を世の人に還元するということである。
「かつてそんな商人はいなかった。もしあなたがそれをなせば、あなたは万民に慕われるだろう」
と、尸子は楽しげにいった。
夢1 睡眠時の夢について考える連続ツイート。夢のメカニズムについてはまだわかっていない。浅い眠りに陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。 しかし、最近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。http://bit.ly/dphJ8r
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢2 夢の語源は「寝目(いめ)」で、「寝」は「睡眠」、「目」は「見えるもの」の意味である。平安時代頃より「ゆめ」に転じ、「はかなさ」など種々の意味で比喩的にも用いられるようになった。夢が「将来の希望」といった意味で使われ始めたのは近代以降。http://bit.ly/ajxNsX
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢3 部首は下の「夕」で、「夕方」「夕べ」の「夕」ですから、「暗い」とか「よく見えない」という意味ですから、なんとなくわかります。それで上半分ですが、これは「かん」という漢字(昔の字なのででないのです... http://bit.ly/cQPYmW
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢4 荘子「胡蝶の夢」 http://bit.ly/dBSNa6
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢5 『枕中記』(ちんちゅうき)「邯鄲の夢」(かんたんのゆめ) http://bit.ly/ahFiiP
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢6 脳は睡眠中も起きている時と同等の活動をしていることが明らかになっている。睡眠時は五官からの情報が遮断されている。そして意識がない。物理的な現象が夢に影響を与えることはあるが、これは半覚醒状態といえよう。夢は無意識領域に現れた意識と考えることが可能だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢7 私は夢を幽霊のようなものだと考えている。前の日に感じた違和感、無念、恨みつらみといったものが化けて出てくるのだ。その思いや思念を何らかの形で社会の枠組みに合うように変換しているのだと思う。脳内ネットワークが社会ネットワークと摺り合わせをするのが夢なのだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢8 この考えが正しければ、幽霊が死んでも死にきれない怨念を表しているように、夢は眠っても眠りきれない中途半端な状態といえる。虐殺や事故死が痛ましいのは、そこに我々が「無念の物語」を描くためだ。だが、平均寿命まで生きたとしても「中断された」ような死に方をする人は多い。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢9 夢は現実と対比される。夢か現(うつつ)か幻か。その一方でぼんやりと人生を過ごすことを酔生夢死という。これは私にいわせれば「夢生現死」となる。完全に意識が休んで(=死んで)いれば夢は見ない。だから夢を多く見る人ほど、社会で違和感を覚えたり、恐れを抱いているように思う。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢10 物事に熱中することを無我夢中という。これまた本当は「無我眠中」である。なぜなら夢には「我」(が=意識)が存在するからだ。完全に生きるとは「生に没頭する」ことだ。生を味わい尽くすことだ。ここにブッダが説いた無我の境地がある。大切なのは違和感を言葉にすることだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢11 違和感を放置しない。自分の感覚が狂っているのか、周囲が誤っているのかを厳しく問うべきだ。「おかしい」と思ったら声を上げることが正しい。違和感をうやむやにしている人は判断力が劣化してゆく。生きるとは疑問を乗り越えてゆくことでもある。生の炎を燃焼させよ。夢を見るな。以上
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
川を見る。次から次へと流れ去る水を見つめる。川はどこにあるのだろう? 川を自宅に持ち帰ることはできない。とすると川に実体はないのだろう。水が干上がれば、それは川ではない。つまり川が流れているのではなく、流れそのものが川なのだ。私の目の前にあるのは「川という現象」だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 30, 2010
打ち上げ花火を見る。一筋の光が天を目指し、爆発する。地面を揺るがす音と共に七色の炎が放射状に広がる。光の雫は重力に抗えず、垂れかかった涙のように闇の中へ消えてゆく。夜空に花火の残像が浮かぶ。花火もまた現象である。 RT @fuitsuono: 川を見る…
— 小野不一 (@fuitsuono) August 31, 2010
花を見る。やがて花は枯れる。遂に跡形もなくなる。花という現象。人を見る。人の一生を見る。やがて人は死ぬ。骨も消え去る。人という現象。私も川も現象である。実体はない。あるのは流動性だけ。変化こそ本質である。これを諸行無常という。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 31, 2010
生命現象とは「時間的存在」なのだろう。 RT @krishnamurtibot: このように、時間の永続性があり、また最後には到達される真理という観念に対して思考が付与した永遠性がある。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 14, 2010
斉(せい)の国は塩をにぎった。
のちに天下を制するものは、塩と鉄である、といわれるようになる。その片方を斉が多量に産することによって、この国は富んだ。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
中国で紙が発明されるのは紀元前2世紀で、前漢王朝の時代である。紙といえば、後漢王朝の蔡倫(さいりん)という官人が発明したことになっているが、実際はそれよりはるかまえに発明されていた。それはともかく、戦国時代には紙がないので、ふつうに文字を書くとしたら、布のうえか、木片や竹片のうえということになる。木片のほうが竹片より不乱しにくいので、木片が重宝がられたにちがいなく、
「■(片+賣/トク)」
とよばれる木片は、書き物用の木の札のことで、それはいまでいう手帳とか手紙のことである。
風洪(ふうこう)が部屋にはいると、夭(わか)い女がいて、揖(ゆう)をした。揖というのは、両手を胸のまえで組み、上下させる礼のしかたである。その礼容が明るい。性格が明朗なのかもしれない。
風洪は冷(ひ)えた目で公孫鞅(こうそんおう)を凝視(ぎょうし)しはじめた。この男はその場に応じていろいろな顔をつくることができる。が、いろいろな話をつくるのであれば、信用できない。
人を生かすことのできぬ者は、人を殺すこともできないのである。恵王(けいおう)の本性にあるなまぬるさを、公孫鞅(こうそんおう)はおそろしいほど深々と洞察したのである。
風洪は心のなかで皮肉な笑いを浮かべた。人のこころのなかのことは、顔なんぞみなくてもわかる。声をきけばよい。辰斗の声には誠意というものがいささかもこめられていない。
「赤子はつよいな。おのれの欲望のためにないている」
と、ふくみのあることをいった。
「すさまじいことを申される」
血のめぐりのよい公孫鞅(こうそんおう)は風洪(ふうこう)の諷意(ふうい)をすぐに汲んだ。それにしても、
――欲望のためになけ。
とは、うちひしがれた公孫鞅を立ち直らせるに、なんとふさわしいことばであったことか。公孫鞅は大望(たいぼう)があるといった。が、涙とともに流れ去るような大望では、男の本懐とはいえまい。
が、どの国も、
「軽治(けいじ)」
であるがゆえに、農民の苦労にむくいていない。軽治というのは、軽い政治のことであるらしい。耳なれぬことばであったので風洪が問うと、たとえば、と公孫鞅(こうそんおう)はいい、
――農貧しくして、商富む。
それが軽治であるとこたえた。農民が貧困で、商人が富裕である、そういう状態を国政がゆるしているとき、それを軽治というようだ。
犯罪者にたいしては肉体を損傷するというのが、処刑の方法である。犯罪者であるというしるしを、だれの目にもあきらかにするのである。たとえば、
黥(げい)
とよばれるものは、いれずみであり、これをひたいにほどこす。
■(月+リ/げつ)
■(月+濱のつくり/ひん)
は、あしきりの刑である。足をうしなった者は門番になるというのが、古代の事例にある。ところが衣服を着ると肉体の欠損をかくし、受刑者であることを世間の目からくらますことができるものがある。それは、
宮刑(きゅうけい)
腐刑(ふけい)
とよばれるもので、すなわち男性の生殖器をきりとる刑で、重罪を犯した者に適用する。
ところがこの受刑者にひとつの利点がもたらされた。どういうことかといえば、かれらは男性であることを喪失したのであるから、性欲にともなうなまぐさみがなくなり、それだけに女性に近づけても害のない存在であるとみなされ、女ばかりの住まいである後宮の警備の任をあたえられるようになった。これを寺人(じじん)という。さらに殿上にあって庶務をおこなう者もあらわれた。これが宦官(かんがん)である。
何となく会話がかみ合わない、冷蔵庫の中に同じものが買ってある。そのくせ私が作った惣菜には手をつけずに腐らせるなど、(以下略)
【『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね(シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年)以下同】
周囲の認知症の高齢者を見ていると、「お菓子をやたら買い込む」という行動はかなり重要な初期サインだと気づかされる。ポイントは「甘いものが以前より好きになる」「大人買いする」ということだ。味覚が変わるのは認知症の初期症状で、最初に酸っぱいモノがダメになり、甘さを感じる味覚は最後まで残るらしい。
皮膚感覚ではないが、皮膚の表面の状態については私なりの考察がある。それはこうだ。親父を含め周りの高齢者を見ていて、「あるとき」からイキナリ、肌がキレイになることに気がついた。その「あるとき」とは、認知症が始まったときである。
親父は背が縮み、今や私のほうが10センチ以上は高いので、まるで傷ついた少年兵に肩を貸す三等兵みたいだ。
(※4カ月近く待たされた後)「もうすぐ時効だし、こんな人はいっぱいいるんですよね」ということで、告訴状を受け取ることさえしなかった。
彼はなにか言おうと努めたが、湿り気をおびた胸のつかえが喉をからませ、一言も口にすることができなかった……彼はちょうどこれと同じ胸のつかえをバスラで味わった。バスラで彼は、クウェイトへの密入国を商売にしているデブ親爺の事務所を訪れ、一人の老いぼれ男が荷いうるかぎりの汚辱と希望を両の肩に背負いながらこの男の前に立っていた……(「太陽の男たち」1963年)
【『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー:黒田寿郎、奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(河出書房新社、1978年〈『現代アラブ小説集 7』〉/新装新版、2009年/河出文庫、2017年)】
生あるものはたえず欲望に逐われている。欲望はその満足・達成を求めてやまないけれども、なかなか果たされず、その欲望はますますつのるばかり。幸い、あれこれに恵まれて、欲望はついに満たされた。ゴールに達した。その途端、もはや【その】欲望は【そこ】にはない。だれが滅ぼしたのでもない。欲望みずからが跡かたもなく消え失せてしまっている。それは、あるいは一杯の水にせよ、あるいは最高の栄誉にせよ、あるいは多額の賞金にせよ、文字どおりピンからキリまで、あらゆる欲望が現実にそのようにある。
欲望に惹かれ、欲望の赴く途・指示する方向をひたすらに進み、万難を排して、ようやく行きつくと、そこではもはや消えている。欲望は、そのようないわば自己矛盾・自己否定を、その本質とする〔かえってそのために、つづいて別の欲望が生ずる。しかしもちろんそれも果たされれば滅びる。ここに俗にいう「欲望は無限」の根があるとはいえ、実はこの俗言は正確さを欠いている〕。
【『大乗とは何か』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(法蔵館、2001年/ちくま学芸文庫、2016年)以下同】
この新たなる運動は次第に高まり、力を増していって、ついにそのなかに、さとれるもの=ブッダがあらわれる〔以下はこれを仏と記す〕。換言すれば、ゴータマ・ブッダとは別の新たな仏の誕生があり、しかしその名は一切伝わらない。これら無名の仏の教えは、釈尊の場合と同様、やはり経にほかならず、これらの経は、当然のことながら従来の伝統仏教とは異質のものをもはらみ、それらの高唱のうちに、やがてみずからを「大乗」(マハーヤーナ)と称するようになる。
大乗の語を最初に記したのは般若経であり、その原初型はおそらく紀元前後のころの成立とされている。それは短く小さな経であったと推定されるが、次第に増広され、また多様化して、多種の般若経がつぎつぎと生まれてゆき、それは数百年に及ぶ。
法華経に、はじめて「小乗」(ヒーナヤーナ)の語が、従来の仏教に対する貶称としてあらわれ、しかもこの法華経は、大乗・小乗の別なく、ことごとくを一乗(一仏乗)に導くという。ここに方便(ウパーヤ)というありかたが見なおされて、成仏に向かうさまざまな通路を開く。それらを支えるものに、時間・空間その他のすべての限定をこえた仏が立てられて、「久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)」と呼ぶ。なお後述するように、法華経そのものの読誦や書写などがとりわけ強調されるが、それは他の諸経典にはあまり見られない。
中国はもともと仏教伝来以前に独自の高度な精神世界を築きあげており、その民族意識の底流のうえに、漢訳するさい、それらを織りこませている。さらには、インドに欠如して中国には強烈である諸思想、たとえば現世中心(輪廻の無視)、国家意識、祖先崇拝(死者供養)、家の尊重その他によって、中国人に適した新たなる経を、中国人みずから〔体裁はインド原典に似せて〕つくありあげる。仁王(にんのう)〔般若〕経(きょう)、盂蘭盆経(うらぼんきょう)、父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)、四十二章経ほか、多数の経典を、中国人がすでに疑経と自認している。それらは偽経とも評されようが、それでも経である〔経と呼ばれている〕ことにはちがいないところから、一般には、そのすべてがほぼそのまま仏説と信じられて、国家の要請や民衆の渇望に応(こた)えつつ、歴史の年輪を刻んだ。
日本仏教の最も特筆すべき性質は、在家の重視であり、これは当初の聖徳太子以来つづいている。当然、国家や政治とのつながりも密で深い。また日本人の一種のマジカルな霊力への傾向も、日本仏教に色濃く反映している。
マンダラは当初はヒンドゥー教の影響のもとに密教が独自におこなう宗教儀式の場であり、その行事のたびに、諸仏・諸尊の集まるその壇が設けられ、あとは取り払われていた。それがいつか定着して、やがては図像化され、また彫像をも伴うようになり、ここに、大乗仏教に登場した諸仏ほかがことごとく招きいれられて、昔の流行語でいえばオン・パレードの檜舞台にたがいに妍(※けん)を競い合う。
過去と未来にくりひろげられた仏は、ついにはいわば時間を横に倒して、空間的に展開・拡大され、四方に一仏ずつが立って、一時多仏が誕生する。それは大乗仏教運動の所産であり、あるいはこの多仏思想が大乗仏教を引きおこす一翼をになっていた。
ところで、仏教において実体が無いという説明が空に関してなされるのは、実は部派仏教のひとびとが、この実体という概念を重要視して、実体というものに或る意味で取りつかれていたからなのです。そこで、この実体という考えを否定する、あるいは破壊する、実体化することを打ち破るものとして、シューンヤということばが使われました。(中略)
空を説明するのに、実体が無いというのは、一つの論理的な表現であり、とらわれないというのは、実践的な表現です。部派仏教のひとびとが、論理的には実体を考え、あるいは実践においても或る制約にとらわれていたあり方に対する反省を求め、それを排して、釈尊の初期仏教に立ち返れというスローガンとして、大乗仏教の、そして般若経の空が説かれました。
「今日、この手で赤のやつらを300人殺した」暗い窓の外を見つめた。「やったのは昨日だったかもしれない。こうして日々は過ぎていく」また彼女に眼を戻す。「記憶と歴史のなかへ、嘘つきだらけの博物館のなかへと流れていく」
【『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク:加賀山卓朗訳(文春文庫、2006年)以下同】
エル・カルニセロは彼の髪をつかんで持ち上げ、自分のほうを向かせた。血まみれの眼球を手のひらにのせ、ドン・セサーロに見せた。こいつは──眼球の価値を見積もるかのように、手のひらを上下させながら獣はそう言った──ずっと正義を、真実を見ないできた。そしてドン・セサーロの顔を下に向けながら眼球を地面に落とし、ブーツの踵で踏みつけて土にめり込ませた。
闘い方は子供のころから知っていた──ボクシングではなく、文字通りの【闘い】だ。誰かが教えてくれたわけではないが、自然に身についていた。本物の闘いにルールなどないことも学んでいた。止める者もいなかった。本物の闘いは一方が戦えなくなるまで続く。それでも終わらないときもある。ボクシングは本物の闘いではない。技術と忍耐を要し、セルフコントロールを試される運動だ。自分が負けていても、どれほど傷つけられ、腹を立てていても、ルールを守らなければならない。ルールなど無視してしまえば、相手を殺せることがわかっていてもだ。リングの中で闘うことによって、規律が身につく。おれはそこが好きだった。
それまでにも死体は見たことがあった。盲腸が破裂して死んだ男、溺死した男、線路のうえで酔いつぶれ、汽車に轢かれた男。死者のちがいはただ、きれいに死ぬか、汚らしく死ぬかということだけだ。おれは死は死だと思っていた。この泥棒たちに引き金を引くずっとまえから、おれは死は死だと思っていた。汚らしく死んだ人間を見て胸を悪くしても仕方がない。牛肉を見て気分を悪くする理由がないのと同じだ。これは俺の座右の銘と言ってもいい。
バビロニアの天文学とともにバビロニアの数ももたらされた。天文学上の目的でギリシア人は六十進法の数体系を採用し、1時間を60分に、また1分を60秒に分けた。紀元前500年頃、バビロニアの文献に空位を表すものとしてゼロが現れはじめた。当然、ゼロはギリシアの天文学界にも広まった。(中略)ギリシア人はゼロを好まず、使うのをできるだけ避けた。
【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)以下同】
無限と空虚には、ギリシアを恐れさせる力があった。無限は、あらゆる運動を不可能にする恐れがあったし、無は、小さな宇宙を1000個もの破片に砕け散らせる恐れがあった。ギリシア哲学は、ゼロを斥けることによって、自らの宇宙観に2000年にわたって生きつづける永続性を与えた。
ピュタゴラスの教義は西洋哲学の中心となった。それは、宇宙全体が比と形に支配されているというものだった。惑星は、回転しながら音楽を奏でる天球の一部として動いているのだった。だが、天球のむこうには何があるのか。さらに大きな天球があり、そのまたむこうにはさらに大きな天球があるのか。いちばん外の天球は宇宙の果てなのか。アリストテレスやその後の哲学者たちは、無限の数の天球が入れ子状になっているはずはないと主張した。この哲学を採用した西洋世界に、無限を受け入れる余地はなかった。西洋人は無限を徹底的に排除した。というのも、無限はすでに西洋思想の根元を蝕みはじめていたからだ。それはゼノンのせいだった。同時代人から西洋世界でもっとも厄介な人物と見なされていた哲学者だ。
ギリシア人はこの問題に悩んだが、その根源を探り当てた。それは無限だった。ゼノンのパラドクスの核心にあるのは無限である。ゼノンは連続的な運動を無限の数の小さなステップに分割したのだ。ステップが無限にあるから、ステップが小さくなっていっても、競争はいつまでもつづくのだとギリシア人は考えた。競争は有限の時間のうちには終わらない――そうギリシア人は考えた。古代人には無限を扱う道具がなかったが、現代の数学者は無限を扱うすべを身につけている。無限は注意深く処理しなければならないが、征服できる。ゼロの助けを借りれば。2400年分の数学で武装した私たちにとって、振り返って、ゼノンのアキレス腱を見つけるのはむずかしくはない。
ギリシア人はこのちょっとした数学上の芸当をやってみせることができなかった。ゼロを受け入れなかったため、極限の概念をもっていなかった。無限数列の項には極限も目的地もなかった。終点もなく小さくなっていくように思われた。その結果、ギリシア人は無限なるものを扱うことができなかった。無の概念について思索はしたが、数としてのゼロは斥けた。そして、無限なるものの概念を弄んだが、数の領域の近辺のどこにも無限――無限に小さい数と無限に大きい数――を受け入れようとしなかった。これはギリシア数学最大の失敗であり、ギリシア人が微積分を発見できなかったただ一つの理由だった。
無限、ゼロ、極限の概念はすべて結びついて一束になっている。ギリシアの哲学者は、その束をほぐすことができなかった。そのため、ゼノンの難問を解くすべがなかった。だが、ゼノンのパラドクスはあまりにも強力だったので、ギリシア人は、ゼノンの無限を説明して片づけてしまおうと繰り返し試みた。しかし、妥当な概念で武装していなかったので、失敗する運命にあった。
5世紀頃、インドの数学者は数体系を変えた。ギリシア式からバビロニア式に切り換えたのだ。新しいインドの数体系とバビロニア式との重要な違いの一つは、インドの数が60ではなく10を底としていたことだ。私たちの数字は、インド人が用いた記号が発展したものだ。だから本来、アラビア数字ではなくインド数字と呼ばれるべきである。
インド人にとっては、負の数は文句なしに意味をなした。負の数がはじめて姿を表したのは、インド(および中国)だ。7世紀のインドの数学者、ブラフマグプタは、数を割る規則を述べ、そこに負の数も含めた。「正の数を正の数で割っても、負の数を負の数で割っても、正である。正の数を負の数で割ると、負である。負の数を正の数で割ると、負である」と書いた。これらは今日認められている規則だ。二つの数の符号が同じなら、一方をもう一方で割ると、答えは正である。
ブラフマグプタは、0÷0は0だと考えた(後で見るように、これは間違っている)。そして、1÷0は……何だと考えたのか、実はわからない。何しろ、ブラフマグプタの言っていることは大した意味がないから。要するに、ブラフマグプタは、手を振って、問題が消え去ってくれるよう願っていたのだ。
ブラフマグプタの誤りは、それほど長続きはしなかった。やがてインド人は、1÷0が無限大であることに気づいた。「ゼロを分母とする分数は、無限量と名づけられる」と、12世紀のインドの数学者、バスカラは書いている。バスカラは1÷0に数を加えると、どうなるかを語っている。「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神のなかでは何の変化も起こらない」
神は見いだされた。無限大のなかに。そしてゼロのなかに。
アリストテレスはまだ教会をしっかり支配していて、どんなに優れた思想家も、無限に大きなもの、無限に小さなもの、無を斥けた。13世紀に十字軍が終わっても、聖トマス・アクイナスは、神が無限なるものをつくるなどというのは、学のある馬をつくるようなもので、そんなことはありえないと言い放った。しかし、だからといって、神が全能でないわけではなかった。神が全能でないという考えは、キリスト教神学で御法度だった。
教会はさらに数百年アリストテレスにしがみつきつづけるのだが、アリストテレスの没落と、無と無限の台頭は明らかにはじまっていた。ゼロが西洋世界に到来するのに好都合な時代だった。12世紀半ば、アルフワリズミの Al-jabr の最初の翻訳がスペイン、イングランド、ヨーロッパのその他の地域に入ってきていた。ゼロは迫ってきていたのであり、教会がアリストテレス哲学の足かせを断ち切るとすぐに登場した。
ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、ささいな事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。今からでも遅くない。
【『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編(フィルムアート社、1997年)以下同】
感ずるという言葉は人間が作り出したものだ。見上げることもあったでしょう。下を向いたとき、あなたは感じたでしょう。しかし感ずるという言葉ではなかったかもしれない。右を向き、左を向き、あらゆる運動のなかで、やがて人間との関係が成立したときに欠くことができないもの、それは運動だった。下を向くということは自分自身を見つめるということに関係しているか。右を向き、左を向き、それはあなたの喜びや悲しみの分かち合うために必要だったのか。そのようにしてあなたの関節が肉体がだんだん成立したんだ。命には理屈が不必要だった。
舞踏の場というのは、お母さんのおなかの中だ。胎内、宇宙の胎内、私の踊りの場は胎内、おなかの中だ。死と生は分かちがたく一つ。人間が誕生するように死が必ずやってくる。つねに矛盾をはらんでいる。われわれの命が誕生する。さかのぼって天地創造までくる。天地創造からずうっと歴史が通じてわれわれのところまで続いている。これがわれわれの考えになければならないと思う。考えるということは生きるということだ。われわれはあんまり合理的にわかろうわかろうとして、大事なものはみんなぽろぽろぽろぽろ落ちてしまって、残ったものは味もそっけもないものになってしまう。
クレイジーじゃないとだめですよ。忘れたころに、花がここにあった。何か知らないけど、ここに花があった。花と、さて何しているんだ。花と語り合ってるんだ。トーキングですよ、花と。トーキングしようと思って、すっといくと、いつの間にか花がなくなってしまった。とにかくクレイジーですよ、だからフリースタイルで。
フリースタイル。何か表現しようというんじゃなくて。いま、トレーニングしたことは全部忘れてね。ただ立っているだけでもいい。
みんなの目を見た。何かね、考えているような目が非常に多いんだな。こうしよう、ああしようって。目のやり場がなくなってしまう。そういう中でさ、目がね、大事ですよ。宇宙の、宇宙が目のなかにすべて集約されている、要約されている。目がまるで宇宙のような、こういうなかで無心になることができる。目が開いている、目が。遠くを見るようにさ、瞳孔小さくして。見ない目ですよ、目に入っていない。宇宙がすっと入ってくる。そうすると、いつのまにか無心にもなれるんじゃないかと私は思ったわけです。探しているときは考えてるときなんだ。これじゃ無心になんかなれない。ものが生まれてこないんですよ。
目を開いて、そして見ない。手を出しても反応がない。そういう目のほうがいい。これもある、あれもある、さあどうしたらいいかじゃなくて、見ない目。無心になる。じゃ勉強しなかったのか。勉強して勉強して勉強して全部捨ててしまった。捨ててしまったんではないんだ。それが自分を支えてくれる。私はそういう踊りを見るとね、あんまり派手に動かなくたって、じっと立っているだけでも、ちょっと動いただけでも、ああ、いいなと思う。