2011-09-28
2011-09-27
アシッド・アタック(酸攻撃)
アシッド・アタック(酸攻撃)なる言葉を初めて知った。
・女性に酸を浴びせて顔を損壊させる事件の裏に何があるのか
検索したところ、様々なページがあった。
・酸に焼かれた少女 : セイダ&ナイラのストーリー(パキスタン)
・アシッドアタック 酸を浴びせられた女性たち パキスタン
・女性の一生を台無しにするアシッドアタック
・画像検索
地の果てまで追いかけても同じ目に遭わせてやるべきだ。犯人には凌遅刑(りょうちけい)が相応(ふさわ)しい。
戦略の誤りは戦術では補えない
戦術や作戦レベルでの間違いは、方法論のレベルで発生したものなので後とで修正が効く可能性があるが、政治レベルや戦略レベルの間違いは、目的そのもののレベルで発生したものなので、結果としては取り返しのつかないことにつながる。戦略の成功というのは絶対に保証できるものではなく、つねに「政策のセンス」や「軍隊の能力」、そしてその二つの間の「対話」によって左右されるものだ。したがって、良い戦略というのは常にこの「対話」の中から生まれなければならない。
【『戦略の格言 戦略家のための40の議論』コリン・グレイ:奥山真司〈おくやま・まさし〉訳(芙蓉書房出版、2009年)】
・戦略と戦術
2011-09-26
少年と語るマスード
時系列が定かではないが、いずれも2001年4月4日に撮影されたものだ。「パンジシールの獅子」と恐れられた男の顔が思わず綻(ほころ)んだ。少年は何をお願いしたのだろうか。マスードの周囲にはいつも人がいる。彼は簾(すだれ)の向こう側に鎮座(ちんざ)するようなことがなかった。クリシュナムルティにも共通している点である。
・アフガンの英雄アフマド・シャー・マスード/『マスードの戦い』長倉洋海
圧迫面接という手法を根絶するための妄想
圧迫面接をご存じだろうか? 不況時における就職は企業に有利な買い手市場となる。クレーム処理やトラブル対応の能力を問う目的で、威圧的・高圧的・居丈高な質問を面接で繰り返すことを圧迫面接という。
・Wikipedia
株式会社ネットマイルの面接担当者がGoogle+で実況中継をしたらしい。
・架空?の「罵倒面接」を実況中継 苦しい弁明を乗り切るお詫びの作法とは
・Google+で採用面接を“実況中継”して炎上 社員の投稿をネットマイルが謝罪「架空のもの」
・Google+で架空面接“実況”のネットマイル社員、社内処分へ
・ネットで男性社員が「採用面接」実況 勤務先は「架空のもの」とした上で謝罪
・株式会社ネットマイルの池田達成さん、専門学生(30歳)が面接している様子をGoogle+で実況
・株式会社ネットマイルの池田達成、30歳専門学生の採用面接をネットで実況し炎上→嘘でした @netmile1
実は教員採用試験の面接においても圧迫面接は行われてきた(※都道府県によって異なる)。
・恐怖の圧迫面接
怖そうな試験管に、全くの真顔で最初は、試験管「君の言っていることがわからない」といわれ、次に、試験管「何を言いたいの? 完結に述べて」と吐き捨てられ、最後には、試験管「結局机上の空論なんじゃないの? 現場では無理なんだよ」と怒られた……。
【上記ブログより引用】
ま、体裁を変えた「いじめ」といってよい。「現場では無理なんだよ」だと? 一体お前らがどんな教育成果を上げたというのだ? 選ぶ側の傲慢さが全開となっている。
暴力が容認される世界では暴力で対抗するしかない。これが私の持論だ。プーラン・デヴィを見よ。
・両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
私はスーザン・ソンタグよりも積極的に暴力を容認する立場だ。欧米が世界を牛耳っている間は。
では早速、教員採用試験を妄想してみよう。
「あなたが尊敬する人物は?」山口二矢〈やまぐち・おとや〉です。
・浅沼稲次郎暗殺事件(1960年10月12日)
青年は圧迫面接を伏し目がちで無言のままやり過ごす。
「そんな姿勢じゃ、現場では無理なんだよ!」と罵声が響き渡る。合図を待っていたかのように青年は立ち上がり、座っていたイスを振りかざす。怒鳴った男の口は半開きで震えている。青年は居並ぶ連中を見下ろしながら「静かにしていてください。声を上げてはいけません」と言うなり、イスを男の頭部に叩きつけた。
中年の女性が失禁した。「今から私の言う通りにしてください。そうでなければ、この男性と同じ目に遭わせます。いいですね」。青年は全員の身分証明証と免許証を携帯電話で撮影した。続いて携帯電話を渡し、一人ひとりに住所と電話番号を言わせた。自宅の留守番電話に録音したのだ。
イスを元に戻し、再び腰を掛けた。パックリと開いた男の頭部から青年の足元まで血が流れていた。
「さて皆さん、こうしたことが教育現場で起きたら、どのように対応するのか見せてください」
「また、あなたたちが圧迫面接という形で行使する暴力と、私が振るった暴力との違いを教えてください」
「わ、わ、わたしたちは教育委員会の指示に従っているだけです」。そう答えた男の腕をつかみ、青年は彼の小指を捻(ひね)り上げた。乾いた小枝の折れるような音がした。男は指をかばいながら低い声で泣き出した。
「確か、ナチス高官のアドルフ・アイヒマンも裁判で同じことを言ってましたね。その答えは不合格です」
青年は胸ポケットからアイスピックを取り出した。「私が不採用になるのは一向に構いません。ただ、皆さんがこれ以上、圧迫面接を続けるようでしたら、このアイスピックがあなた方の心臓に突き立てられると思ってください」
彼は何事もなかったように面接会場を去っていった。(完)
なお教員採用試験における圧迫面接は2011年度から殆ど行われていないようである。テロが起こる前でよかったね。
・面接官「我社であなたを採用するとして、我社にどんなメリットがありますか?」 俺「ぐぬぬ……」
・先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光
2011-09-25
行動
「うまくいかないかもしれないけど、いくかもしれない。とにかく、やってみることだわ」
【『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1981年/ハヤカワ文庫、1988年)】
まだ中毒になっていない人のためのtumblr入門
tumblr(タンブラー)の話をしよう。初秋の季節、日曜日の昼下がりにはtumblrの話題が相応(ふさわ)しい。
ま、何をどう使おうと自由なわけだが、tumblrについては画像共有ミニブログと認識するのが正しい。ファン(フォロワー)の殆どが外国人のため、日本語の文章は理解されない。実態としては動画も共有(リブログ)されにくい。
tumblrは静かに始めたい。そうでないとあっと言う間に中毒に陥る。「これなしではやっていけない身体」になってしまうのだ。
まずtumblrに登録する。「tumblr」という表記も間違えると恥ずかしいので辞書登録しておく。次に以下のページで「テーマ」を決める。
・tumblr Theme Garden
ここで慌ててはいけない。コーヒーを飲むことをお勧めしよう。
そして必ずflickr(フリッカー)に登録する。flickrにはtumblr共有ボタンがあるからだ。登録したばかりだと、「t」ボタンが表示されないことがあるようだが、以下のページを参考にされよ。
・新機能のFlickr共有ボタンで写真単位の共有が楽になった
・Flickr、真剣に「ソーシャル」との連携を狙う?! 「Share This」機能によりTwitterやFacebookでの簡単共有機能を実装
・flickr BLOG(英語)
自分で撮影した画像を広めたい人は、ある程度ファンの数が増えてから行うべきだろう。
ここから白紙状態のtumblrをあなたの色で染めることとなる。コレクター、キュレーターとしての一歩を踏み出すのだ。鹿島茂の言葉を噛み締めておきたい。
・『子供より古書が大事と思いたい』鹿島茂
最初の画像は「ダッシュボード→Tumblrの人気ページを見る」から行えばよい。気に入った画像をクリックし、ページ上部の「リブログ」ボタンを押すだけだ。
またURL指定もできるので、ウェブ上の画像であれば何でもポスト可能だ(画像URLを指定)。YouTubeなどの動画もURLだけでアップできる。
フォローする人数はあまり増やさない方がいいと思う。twitterと一緒で収集がつかなくなるからだ。私は10人しかフォローしていない(ファンは99人)。
フォローする人の探し方は、気に入った画像をアップした人のtumblrへジャンプ。「アーカイブ」を見る。アーカイブのリンクがない場合は、URLの末尾に「/archive」を付ければ閲覧できる。これも辞書登録しておこう。で、パッと見た瞬間の印象で決める。少々訓練が必要だが、慣れればどうってことはない。
私の基本的な手法は、flickrでどんどんお気に入り(You→Your Favorites)を増やし、それをtumblrにポストするというものだ。重複することがないよう、ポストした画像はお気に入りから削除する。ここで求められるのは英語キーワードによる検索能力だ。
色々調べてみると、「ポストする画像を探すのに苦労している」などという声が散見されるが、全く信じ難い話である。私は抑制するのに苦労しているのだ。tumblrの容量は1日あたり75枚までとなっている(容量オーバーした場合の規制解除は16:20)。
比較的人気があると思われるテーマは、夕日、海、水、消失点、建築様式(アーキテクチャー)、モノクロ、美男美女といったところだ。私は貧困、差別、暴力などのリアリティに関心がある。
更にtumblrを電子書籍のような体裁にするサービスもある。
・puble
画像の海で波乗りを楽しむのがtumblrライフといえる。
・onologue
・Bloggerへの画像アップはflickr経由がよさそう&tumblrとの連携について
・tumblrに見る危険性
・画像はflickrにアップするのが正しい
2011-09-24
Fuck you God
詳細は不明だが地雷の被害だと思われる。「神よ、くたばれ」という叫びは届くだろうか。神様は天上でふんぞり返って、一人の子供すら満足に救うことができない。少年は中指を立てることもできなくなってしまった。
【※ノートの上部がやけに白い。「FUCK YOU GOD」の文字は細工されている可能性がある。 10月2日】
やはり創作であった。本物はこちら。
Deanne Fitzmaurice(サンフランシスコ・クロニクル)が撮影。イラク戦争の爆発で瀕死の重傷を負ったイラク人少年。彼を治療するオクラホマ州の病院に関するシリーズでピュリッツァー賞を受賞している。
・ピュリッツァー賞受賞作品集
読書の技術
書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えてくるのには、相当な時間と努力を必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、そこ以外にはない。
【『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(日産書房、1949年/新潮文庫改版、1961年)】
ニュートリノの速度は光の速度より速い、相対性理論と矛盾 CERN
素粒子ニュートリノが質量を持つことの最終確認を目指す国際共同実験OPERA(オペラ)の研究グループは22日、ニュートリノの速度が光速より速いことを実験で見出したと発表した。確認されれば、アインシュタイン(Albert Einstein)の相対性理論に重大な欠陥があることになる。
実験では、スイスの欧州合同原子核研究機構(European Centre for Nuclear Research、CERN)から730キロ先にあるイタリアのグランサッソ国立研究所(Gran Sasso Laboratory)へ、数十億のニュートリノ粒子を発射。光の到達時間は2.3ミリ秒だったが、ニュートリノの到達はそれよりも60ナノ秒ほど早かった(誤差は10ナノ秒以下)。ニュートリノの速度は毎秒30万6キロで、光速より毎秒6キロ速いことになる。
OPERAのスポークスマンを務める物理学者のアントニオ・エレディタート(Antonio Ereditato)氏は、「ニュートリノの速さを知るための実験だったが、このような結果が得られるとは」と、本人も驚きを隠せない様子。発表に至るまでには、約6か月をかけて再検証や再テストなどを行ったという。
研究者らはなお今回の結果には慎重で、世界中の物理学者らに精査してもらおうと、同日ウェブサイト上に全データを公開することにした。結果が確認されれば、物理学における理解が根本から覆されることになるという。
物体を貫通するのに加速?
ニュートリノは、太陽などの恒星が核融合を起こす時の副産物だ。電気的に中性な粒子で、極めて小さく、質量を持つことが発見されたのはごく最近のこと。大量に存在しているが検出は難しいことから「幽霊素粒子」とも呼ばれる。
ただし、アインシュタインの特殊相対性理論に沿えば、物質は真空では光より速く移動することができない。
ニュートリノは地球の地殻を含めて物体を貫通して移動しているが、「移動速度が(貫通により)遅くなることはあっても光速以上に加速することはあり得ない」と、データの再検証に参加したフランスの物理学者、ピエール・ビネトリュイ(Pierre Binetruy)氏は、疑問点を指摘した。
2007年に米フェルミ国立加速器研究所(Fermilab)で同様の実験に参加した英オックスフォード大(Oxford University)のアルフォンス・ウィーバー(Alfons Weber)教授(素粒子物理学)は、光速より速いニュートリノが現行の理論と相容れないことを認めた上で、測定誤差の可能性を指摘し、同様の実験を行って結果を検証する必要性を説いた。
フェルミで行われた実験では、やはりニュートリノの速度が光速をやや上回っていたが、結果は測定誤差の範囲内だったという。
4次元とは別の次元?
理論物理学者は、ニュートリノの予想外の速さを説明するための新たな理論を構築する必要に迫られるだろう。
先のビネトリュイ氏は、ニュートリノが4次元(空間の3次元+時間)とは別の次元への近道を見つけたのかもしれないと話した。「あるいは、光速は最速とわれわれが思い込んでいただけなのかもしれない」
【AFP 2011-09-23】
・「光より速いニュートリノ」をめぐる誤解
・第一種過誤を恐れる物理学者、第二種過誤を恐れる経済学者
・大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とスモール・ビッグバン
2011-09-23
子供の絵に見られる世界観の発達
子どもたちは幼いとき平面的な絵を描きます。年長になると、それが立体的になってくる。このような表現様式の発達は、子どもに見える世界、つまり子どもの世界観の発達に対応しているのでしょう。子どもに影の存在を教え、より現実に近い知覚を与えるもの、それが父の存在の認識です。父存在(それは神と呼ばれることもあります)の掟に従って生きるほかない自己を認識すること、それによって子どもは人間になるのです。
【『インナーマザーは支配する』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)】
2011-09-22
パキスタン情報当局、米国を狙った攻撃に関与=米当局者
パキスタンの情報機関である統合情報部(ISI)が、同国を拠点とする武装勢力「ハッカニ・ネットワーク」に対して米国を標的にした攻撃を働きかけた証拠が数多くあると、複数の米当局者が警告している。
2人の米当局者と米パ関係に詳しいある情報筋によると、9月13日にアフガニスタンの首都カブールで起きた米大使館と北大西洋条約機構(NATO)本部への攻撃について、米情報当局が報告書の中で、ISIがハッカニに指示もしくは要請したものだと指摘。ただ、この情報の裏付けはまだ取れていないという。
また、米政府の内部調査に詳しい別の当局者は、少なくともISIがハッカニに対し、米国を標的にした攻撃をけしかけていたことが諜報を通じて強く示唆されていると述べた。
マレン米統合参謀本部議長も今週に入り、ハッカニに対して行動を取るようパキスタン側に求めていた。
ISIによるハッカニへの関与が事実だとすれば、今年5月の米軍によるウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦で悪化していた米国とパキスタンの関係はさらに冷え込むとみられる。
【ロイター 2011-09-22】
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
・読書の昂奮極まれり
・『歴史とはなにか』岡田英弘
・『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
・『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース
・世界史の教科書
・必読書リスト その四
1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。
数ページをパラパラとめくったところで「名著!」という文字が極太ゴシック体で点滅する。脳内ではシナプスが次々と発火し、それまではつながらなかった回路を連続的に形成する。長い間、どんよりと疑問に思ってきたことが氷解し、疑問にまで至っていないモヤモヤしたものまでが一掃された。まさしく天才本(てんさいぼん)といってよい。
歴史とは「物語化された時間」である。物語は時系列に沿って進行するため歴史的であることを免れない。時間は過去から未来へと一直線上を進むためだ。
生老病死というリズムが人生の前提である以上、人間そのものが歴史的存在といえる。
「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的によせ、私たちの時代的な地位を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。
【『歴史とは何か』E・H・カー:清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)以下同】
歴史は事実そのものではない。歴史家の目に映ったものが歴史として綴られるのだ。つまり、あらゆる歴史は歴史家の立ち位置に束縛されている。写真はカメラマンの位置からしか撮影することができない。
魚が魚屋の店先で手に入るように、歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来るわけです。歴史家は事実を集め、これを家へ持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。
とすると、素材を知ることなくして歴史という料理を味わうことはできない。更に用いられなかった材料をも見抜き、その理由を察知することが求められよう。それができなければ、与えられた歴史を鵜呑みにするしかない。
現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。事実というのは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発現を許すかを決めるのは歴史家なのです。ビランデルロの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。1066年にヘスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。
ある出来事に意味を吹き込むのが歴史家の仕事であるならば、歴史家は神と同じ場所に位置するものと考えてよい。捏造(ねつぞう)、偽造、割愛、削除を自由に行えるのだ。ま、数百年後に出されたジャンケンみたいなものだろう。
また当たり前のことではあるが、大衆の平凡な営為に歴史的価値はなく、平均値としてのみ記録される。
歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう。この解釈という要素は歴史上のすべての事実の中に含まれているのです。
これが一つ目の急所だ。「歴史とは解釈である」。実は政治も宗教も科学も芸術も解釈である。脳機能の根幹を成すアナロジーは解釈そのものだ。すなわち思考とは解釈の異名である。
・アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
E・H・カーに導かれてはたと気づく。「言葉は解釈を超えられない」ことを。解釈とは説明である。「自分」というフィルターを通した逆理解である以上、解釈はバイアス(歪み)を避けられない。そもそも認知そのものにバイアスが掛かっている(認知バイアス)以上、進歩・進化・昇華・脱構築といったところで、情報の書き換えにすぎないのだ。結局、「上書き保存」ということだ。
てにをはのレベルであればどうってことはないのだが、「大虐殺はあったのか、なかったのか」なんて次元になると国家間でぶつかり合う羽目となる。議論の内容は細密を極め、さほど関心のない人から見ると、まるで量子世界のように映る。
紀元前5世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって――ペルシア人のこと、奴隷のこと、アテナイの住民であっても市民でない人々のことまで持ち出そうとは思いませんが――どう見えていたかということになりますと、私たちは殆ど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。それと同様に、中世を取扱った現代の歴史書のうちで、中世の人々は宗教に深い関心を抱いていた、と書いてあるのを読みますと、どうしてそれが判るのか、本当にそうなのか、と私は怪しく思うのです。
あらゆる分野で古い解釈と新しい解釈とが争い合っている。こうした議論は必ず資料に依存する。「書かれたもの」が正義としてまかり通るのだ。誤っている可能性はこれっぽっちも考慮されない。
信心深い中世人という姿は、それが真実であっても、真実でなくとも、もう打ち壊すことはできません。なぜなら、中世人について知られている殆どすべての事実は、それを信じていた人たち、他の人々がそれを信じるのを望んでいた人たちが私たちのためにあらかじめ選んでくれたものなのですから。そして、恐らくその反対の証拠になったであろうと思われる別の沢山の事実は失われていて、もう取り戻すに由ないのですから。死に絶えた幾世代かの歴史家、記録者、年代記作家の永代所有権によって過去というものの型が決定されてしまっていて、もう裁判所に訴える余地も残されておりません。
歴史とは加工された記録なのだ。古(いにしえ)の権力者が暦(こよみ)を支配してきた事実を思えば、更に意味合いが深まる。
・現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
すべての歴史は「現代史」である、とクローチェ(1866-1952、イタリアの哲学者)は宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。
過去を「見る」ことはできても、過去へ「行く」ことはできない。
コリングウッドの見解は次のように要約することが出来ます。歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の異なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。
これが2番目のホシ(急所)だ。歴史の相対性理論、あるいは歴史の縁起観ともいうべきか。過去と現在を往来する眼差しの中に歴史は立ち上がる。
下界は見えるが山頂の見えない登山のようなものか。
歴史家は過去の一員ではなく、現在の一員なのです。
歴史修正主義を見れば一目瞭然だ。
まだまだ書き足りないのだが、ひとまず結論を述べよう。既に二日がかりで書いている。
ここで、歴史における叛逆者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。
人間は社会的動物であるというよりも社会の産物なのだ。文化や価値観といったところで、最終的には言語と思考に収斂(しゅうれん)される。つまり言葉を親から教わる時点で否応(いやおう)なく社会と関わりを持ってしまうのだ。
歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。
偉人は一個の存在であると共に社会現象なのだ。これは凄い。凄すぎる。
私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。
「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである」
E・H・カーの指摘は複雑系科学とも完全に一致している。特定の個人に光を当てれば当てるほど、その人物は一般人から懸け離れた存在となる。ブッダやイエスを考えるとわかりやすい。彼らをヒューマンファクターとして捉えるのか、それとも現象として捉えるのかという問題だ。大雑把にいえば神はヒューマンファクターで、仏は現象といえる。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。
ここからクライマックスに至る。
現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。
私の意識は吹っ飛んだ。気がついた時はリングの上で大の字になっていた。いや本当の話だよ。
すなわちデカルトが自我を発明(『方法序説』1637年)し、それ以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」と喝破(かっぱ)している。
歴史とは自覚的なものなのだ。
自我と経済が結びついて近代の扉は開かれた。産業革命~資本主義、市民革命~国民国家という構図だ。
そうすると民主主義という概念は、歴史の主体者であることを民衆に吹き込む思想なのだろう。しかしながら我々は「現象」であることを免れないのだ。カーの見識は自由意志のテーマにも深く関わってくる。
読書の昂奮極まれり、という一書である。
・E・H・カーの『歴史とは何か』再読
・歴史という物語を学ぶための教科書
・世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
・コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
・ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
・宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
・宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
・あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス
2011-09-21
せめて「小銭か微笑みを」
2011-09-20
どの時代にも転換点がある
「どの時代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表現する新たな仕方がある」(ジェイコブ・ブロノフスキー)
【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一、林大訳(草思社、2001年)】
コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
・『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
・『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
・コミュニケーションの可能性
・必読書リスト その二
ALS(筋萎縮性側索硬化症)は神経細胞が徐々に死んでゆく病気(神経変性疾患)で、筋力低下により身体が動かなくなる。進行が早く3年から5年で死に至る。今現在、有効な治療法はない。素人の目には筋肉が死んでいくような症状に見え、筋ジストロフィーと酷似している。
生老病死(しょうろうびょうし)が倍速で進むのだから、本人にとっても家族にとっても過酷な病気である。
母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。
【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】
川口一家は夫の赴任先であるイギリスで暮らしていた。母親が難病となった以上、帰国しなければならない。自分の負担もさることながら、家族にも新たな負担をかけることになる。子供たちはまだ幼かった。
ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。
TLSとは「トータリィ・ロックトイン・ステイト(Totally Locked-in State=TLS)」のこと。私は本書で初めて知った。精神活動が閉じ込められることを意味するのだろう。
ALSの場合だと最後の砦は瞬(まばた)きや目の動きである。それが失われると次に訪れるのは呼吸停止である。人工呼吸器を装着したとしても最終的に心臓が止まる。意外と見落としがちだが、心臓も筋肉で動いているのだ。
病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。
介護における夫婦の擦れ違いは決して珍しいことではない。熱意があるほど心理的なギャップが生じる。まず現実の問題として時間が奪われる。当然、介護のために別の何かが犠牲となる。その犠牲に対して齟齬(そご)が生じるのだ。例えば子供にとっては弁当を作ることや、参観日に来ることなどが切実な問題と化すケースがある。川口夫妻は後に離婚する。
強気で生きてきた母親が少しずつ弱音を吐くようになる。
こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。
病気自体がそもそも矛盾をはらんでいる。因果関係に思いを馳せ、「どうして私が」「なぜ今なのか」となりがちだ。難病や重病になるほど本人が放つメッセージも混乱することが多い。矛盾した言葉から本人の気持ちをすくい取ることは想像以上に難しい。
筋力が低下する様相を母親はこう語る。
「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」
知覚から恐怖が忍び寄る。沈みゆく船の中でじっと浸水を見つめているような心境であろう。そして言葉を失った後の領域を我々は知ることができないのだ。24時間続く金縛り状態、これが「閉じ込め症候群」だ。
神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。
「人工呼吸器といってもメガネのようなものです」との言葉で装着を決意する。やはり命に関わる仕事には、物語を紡ぐ力が求められる。メガネという軽い言葉の裏側に生命を重んじる態度が窺える。しかしながら、これは結構勇気のある発言で、あとあと「メガネと違いますよね?」とケチをつけられるリスクを含んでいるのだ。それ相当の責任感がなければ言えるものではない。
それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。
看護師を雇えば、1ヶ月400万円を超す作業を川口は妹と二人で行っていた。介護や看病は労多くして報われることが少ない。実際、「子供なんだから親の面倒をみるのは当然」と考えている親も多く、認知症が絡んでくると虐待に至ることも珍しくない。閉ざされた空間に自分を見失う機会はいくらでも転がっている。介護をしている人たちにも何らかのケアが必要なのだ。
もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。
諦(あきら)めには2種類ある。達観と無気力だ。後者は関係性を断絶する。我々の価値観は生産性に支配されている。教育も政治も効果が問われる。実際問題として治る見込みのない病人は病院を追い出され、よくなる見通しの立たない障害者のリハビリ治療は打ち切られる。私はこれを「悪しきプラグマティズム」と名づける。
効用を重んじるあまり、我々はコミュニケーション不能となり、生の重みを見失ったのだ。
川口の達観は一種の悟りといってよい。わけのわからない哲学よりも遥かな高みに辿り着いている。
たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
汗だけでなく、顔色も語っている。
私は頬を打たれたような衝撃を受けた。川口が示しているのはコミュニケーションの可能性であったのだ。「コミュニケイト」は「つながっている」ことを意味する。その状態とは理解-共感である。これは理解から共感に至るのではなくして同時であらねばならない。すなわち理解即共感であり共感即理解なのだ。
コミュニケーションは情報交換から始まる。通常であれば言葉や声のイントネーション、目つき、仕草、顔色、態度、その他諸々をひっくるめた情報を受け取る。ところが川口は「汗」でわかるというのだから凄い。
やはり、「見る人が見ればわかる」のだ。私の目はまだまだ節穴であることを痛感した。
そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
母は病身を通して娘をここまで育てたのだろう。コミュニケーションとはかくも荘厳なのだ。そして理解-共感という悟性がこれほど人生を豊かにするのだ。
実は証拠がある。
・「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」
健常者からすれば「不自由な身体」に見えるが、実際は精神が身体に束縛されているのかもしれないのだ。自由と不自由は紙一重である。川口は介護という不自由の中から自由な境地を開いた。何と偉大なドラマだろう。12年間に及んだ修行といってよい。
逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
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川口 有美子
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・「沈黙の身体が語る存在の重み 介護で見いだした逆転の生命観」柳田邦男
・植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達
・パソコンが壊れた、死んだ、殺した
・ストレスとコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』
・対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー
・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・孤独感は免疫系統の力を弱める/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
・コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
・言葉によらないコミュニケーションの存在/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
・現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
・介護
2011-09-19
苦渋に満ちた少年の顔
その瞳に明日は映らない。No Future。もはや泣くに泣けないのだろう。何度も何度も裏切られ、騙(だま)され、殴られてきたに違いない。あらゆる悲惨を知り尽くした老人のような風貌だ。君が生きる過酷な人生に私は寄り添うことすらできない。だから「許してくれ」という言葉は慎もう。ただ、君を心に抱いて今日から生きてゆこう。
双子のパラドックス
ニュートンの運動法則は空間内の絶対的位置という概念にとどめをさしてしまった。一方、相対論は絶対時間を排除してしまった。そこで何が起こるか、双児を例にとって考えてみよう。双児の一方が山の上に移り住んでおり、もう一方は海辺にとどまっているとすれば、前者は後者よりも速く齢をとるだろう。したがって二人が再会することがあれば、そのときには一方が他方よりも老いていることになる。この例では年齢の違いはごくわずかだが、双児の一方が光速にほぼ等しい速さの宇宙船に乗って長い旅に出るとすれば、違いはずっと大きくなる。旅から帰ってきたとき、彼は地球に残っていた兄弟にくらべてずっと若いだろう。この現象は双児のパラドックスと呼ばれているが、これをパラドックスと感じるのは実は、心の底に絶対時間の概念が巣食っているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。そのかわりに、個人はめいめいが独自の時間尺度をもっているが、これはその人がどこにいるか、どのような運動をしているかによって決まるのである。
【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】
・Wikipedia
・双子のパラドックスについて
2011-09-18
シンボルは真実ではない/『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ
・シンボルは真実ではない
・真実在
・ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 2
書籍タイトルはクリシュナムルティ・トラップである。ブッダの動執生疑(どうしゅうしょうぎ/執着している心を揺り動かし、疑問を生じさせる化導〈けどう〉方法)と同じ仕掛けだ。
私自身は神の存在をこれっぽっちも信じていないし、いたとしても会いたくはないね。だって、こんな無責任な世界をつくった張本人だよ。植木等にも劣る野郎であることは間違いない。
しかし西洋を中心とする世界は神を中心に動いている。どんなに神と無縁な生活をしていても、西洋的価値観は我が身に降りかかってくる。それが汚染だとしても、現実理解のためにキリスト教を学ぶことは欠かせないのだ。
そして本書は洋の東西を問わず、宗教に関わっている者であれば必読のテキストで何らかの応答を求められる。
永遠不滅なるものを見出すためには、伝統や過去の経験や知識の集積である時間から、自由でなければならない。それは、何を信じるか信じないかといった、未熟でまったく子供じみた質問ではない。そんなことは、本質的な問題とはまったく関係ない。本当に発見したいと願っている真剣な心は、孤立した自己中心的な活動をすっかり放棄し、完全に独りである状態になるだろう。美しさ、永遠なるものの理解が実現されるのは、この、完全な独りである状態においてのみである。
言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではないので、危険なものである。言葉は意味、概念を運ぶが、しかし言葉はそれが指し示すものではない。したがって、わたしが永遠なるものに関して語るとき、もしわたしの言葉に影響されたり、その信仰に囚われたりするだけならば、それはとても子供じみていると理解しなければならない。
永遠なるものが存在するかどうかを発見するためには、時間とは何かを理解する必要がある。時間とは最も厄介な代物だ。年表的時間、時間ではかれる時間のことを言っているのではない。どちらも目に見え、必要なものである。ここで話しているのは、心理的継続としての時間である。この継続性なくして生活できるだろうか? 継続性を与えるものは、まさしく思考である。もし何かを絶えず考えるとすれば、それはひとつの継続性をもつ。もし妻の写真を毎日眺めるとすれば、それにある継続性を与えることになる。
この世で、行動に継続性を与えることなく生き、結果として、すべての行動にあらためて初めて出会うといったことが可能だろうか? すなわち、一日中のすべての行動のたびに精神的に死に、その結果、心は過去をけっして蓄積することも、過去から汚染されることもなく、つねに新しく、新鮮、無垢であることができるだろうか? そのようなことは可能であり、人はそのように生きることができる。しかし、それがあなたにとっても本当だという意味ではない。あなたは、自分自身で発見しなければならない。
【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)以下同】
最初のパラグラフがわかりにくいことだろう。以下の記事を参照されよ。
・ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
「言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではない」――まず、ここが難所である。普通に読めば理解できるはずだ。ところが宗教者は教義(=言葉)に支配されているため納得することができない。
まず大前提として言葉は同じ世界にいる人にしか通用しない。方言や外国語など。
もっとわかりやすいのは赤ん坊だろう。彼らに言葉は通じない。耳の不自由な人に声は届かない。別の形の――読唇術および手話――情報が必要となる。
言葉が示すのはイメージ情報である。「私」という言葉には、69億6420万7416人分(17:05現在)のイメージ情報がある。つまり私がいうところの「私」と、あなたが思うところの「私」は別物なのだ。
とすると人の数だけ神仏が存在していると考えてよかろう。無数のイメージが神仏という言葉に収まる。
次にシンボル。シンボルといえば偶像崇拝である。宗教的な偶像は仏像を始め、十字架、イコン、聖骸布(せいがいふ)、遺骨、マンダラなどがある。イワシの頭も含む。
シンボルは当のものではない。象徴、表象は氷山の一角と考えるべきだろう。ハーケンクロイツはナチス党のシンボルであるがナチス党そのものではない。
悟りの内容を言葉にしたものが経典で、図像化したものがマンダラであるが、それらは悟りそのものではない。しかし宗教者は自ら勇んで言葉の奴隷となる。
宗教は言葉のレベルに転落した。それが証拠に宗教という宗教は皆、教義の古さ、緻密さを競い合っているではないか。たぶん宗教は考古学となったのだろう。
「神」と綴った紙を壁に貼ってみよ。拝む人々が増えれば、そこに神が存在する。これは明らかな幻覚、錯覚である。ま、「始めに言葉ありき」という論法でゆけば、神という言葉をつくった時点で神の勝利なのかもしれない。
時間については以下の各ページを参照されよ。
・時間
すでに話したように、言葉、シンボルは、実在ではない。「木」という言葉は、実際の木ではない。したがって人は、言葉に捕らえられないように十分用心しなければならない。言葉、シンボルから自由なとき、心は驚くほど敏感になり、ものを発見する状態になる。
とすれば、真の宗教を求める者は一度教義から離れることが必要だ。言葉に対するイメージを一掃しなくてはならないからだ。イメージは想起できるゆえに過去なのだ。まったく新しいものはイメージすることができない。そして完全に過去を死なせた時、そこに「新しい生」が流れ始める。
衝撃的な一書である。
・教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
2011-09-17
世界情勢を読む会、矢野絢也
2冊読了。
63冊目『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会(日本文芸社、2004年)/息抜きのつもりで読んだのだが予想以上に面白かった。確かに裏面史ではあるが内容は硬派。経済的なつながりが浮き彫りにされており、ニュースの裏側がわかる仕組みとなっている。モンサント社に関する記述もあり、もっと早く読むべきであったと反省。
64冊目『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/前著の『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』と大半が重複した内容。高裁で逆転判決が出て矢野側が勝訴したので出版に至ったのだろう。内容的には前著の方が優れている。公明党OBである大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名が、矢野から100冊を超える手帳を強奪したことが明らかになった。また幾度となく創価学会の幹部複数名が億単位の寄付を強要している。
私にとって人工呼吸器は機械ではありません
私にとって人工呼吸器は機械ではありません。体の一部です。私は呼吸器は機械だとまったく思っていません。
呼吸器使用者には呼吸器との相性があるのです。以前使っていた呼吸器では、血中濃度の科学的データが正常であるにもかかわらず、苦しいということがありました。現在使っている機械に変えたところ、食欲もわき、一年間で体重が10キロも増えました。おそらく目に見えない呼気波形や呼吸パターンの違いがあるからでしょう。また、使っているうちに、カフや換気量を調節することで、食べる時以外はしゃべれる状態をつくれることがわかってきました。
(※「第4回北海道在宅人工呼吸研究会」での発表原稿より)
【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)】
フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン
1冊挫折。
『身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン:田中靖夫訳(工作舎、2001年)/チンプンカンプンで、お手上げ。言葉遣いから文体に至るまで肌に合わず。オートポイエーシスの手引き書と考えていただけに他を探す必要あり。
宇宙図の悟り
・宇宙図
前にも書いたが、上記ページのアニメーションを見て私は悟りが閃(ひらめい)いた。直ちに科学技術広報財団に申し込んだのが画像の宇宙図である。
・科学技術広報財団(サイズは2種類)
見るたびに脳が活性化される。137億年を俯瞰するのだからそれも当然だ。最初の悟りを再掲しておく。
時間と空間に関する覚え書き
◆では、宇宙図を見て閃いた悟りを開陳しよう(笑)。視覚が捉えている世界は「光の反射」である。光には速度がある(秒速30万km)。つまり我々に見えているのは「過去の世界」であって「現在という瞬間」を見ることはできない。
◆更に人間の知覚は0.5秒遅れる。つまり「光の速度+0.5秒」前の世界を我々は認識しているわけだ。
・人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二
◆例えば北極星。地球上から見える北極星の光は431光年を経たものである。仮に北極星でサッカーの試合をしたとしよう。コイントスが終わっていよいよゲームが始まる。この場合、431年前のゲームを我々が見ていることになる。
◆諸行無常とは存在の本質を示した言葉であろう。「とどまることを知らない変化」こそが存在の存在たる所以であり、それが生命現象である。しかしながら我々の視覚に映じているのは過去の世界であるがゆえに、「存在の影(あるいは迹〈かげ〉)」しか認識できない。
◆「神」という視点は光に支えられた座標なのだろう。それは「見える世界」に限定される。そうでありながら光の源である太陽を人間は直視することができない。「見えるもの」には名が付与される。言葉は名詞から発生したと考えられている。神は光であるがゆえに「初めに言葉ありき」という構図ができる。
◆相対性理論は空間と時間が絶対ではないことを明かした。例えば光のスピードで走る車をあなたが道路で眺めたとしよう。車内の人達は全く動いておらず、彼らの周囲にある物は全て縮んで見える。車の中では普通に時間が進行しているにもかかわらずだ。
◆車を運転していたのは浦島太郎だった。首都「光速」道路で竜宮城へ行き、3年後に自宅へ帰ったところ、何と300年が経過していた。これを「ウラシマ効果」という。
◆実は我々の生活にもウラシマ効果は存在する。
・相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
◆神が光であると仮定すれば、神的世界は光の届く範囲に限定される。そして光は必ず影をつくり出す。なぜなら物体が光をさえぎるからだ。こうして光は「表と裏」という世界を形成する。地球が太陽に照らされる時、光と同じ速度で地球の影は宇宙に伸びる。その先にも闇は広がっている。
◆宇宙全体に光が及ぶことはない。なぜなら宇宙は光速度を上回るスピードで膨張しているからだ。
・宇宙にはてはあるのですか?
◆光に支配されたキリスト教的時間観は直線的とならざるを得ない。生→死→復活→永遠、というのがそれだ。これでは系(システム)として閉じていないので必ず矛盾が生じる。
・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典
◆仏教は現在性を追求している。仏典においては「将来」ではなく「未来」という言葉が使われる。「将(まさ)に来たらん」とする時間ではなく、「未(いま)だ来たらざる」時間として捉える。厳密にいえば仏教は未来を認めていないのだ。
◆ブッダが説いた原始の教えはプラグマティズムと受け止められがちだが、むしろ現在性を重んじた智慧であったと考えるべきだろう。カースト制度を支える輪廻という物語を解体するには、前世・来世を一掃する必要があった。悟りとは修行の果てに得られるものではなく、ありのままの現在性を捉えることだ。
◆光の速度を超えると虚数の世界が現れる。2乗してマイナスとなるのが虚数だ。量子力学や電磁気学では実際に使われている。膨張する宇宙の果てが虚数の世界であれば、そこはネガとポジが反転する世界だ。生老病死も反転し、光速度を超えた時点で過去へと向かい、久遠元初に辿り着くかもしれない。
◆実際は光速度に近づくほど質量は無限に重量を増す。これがE=mc²。質量が無限大の世界といえばブラックホールだ。地球を2cmに圧縮すればブラックホールが出来上がる(※実際は質量不足で不可能)。そしてブラックホールを取り巻く空間は激しく歪む。
◆物理世界における光速度を超えるのは、無意識の直観であり、これこそが悟りなのだろう。
・敢えて“科学ミステリ”と言ってしまおう/『数学的にありえない』アダム・ファウアー
・月並会第1回 「時間」その一
・ブラックホールの画像と動画
2011-09-16
法華経と同じ物語構造/『介子推』宮城谷昌光
・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・法華経と同じ物語構造
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
重耳〈ちょうじ〉こと文公は春秋時代の覇者となり、従者の介子推〈かいしすい〉は後漢の時代に神となった。
読むのは二度目である。棒術の威丈夫といった淡い記憶しか残っていなかった。『重耳』を読んで初めて介子推を理解した。やはり書物には順序というものがある。まず『重耳』を開いてから後に本書を求めるのが正しい。
・占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光
『介子推』は『重耳』の余滴(よてき)である。著者は「つらい、とつぶやいて何度か泣いた。そういう体験をもつのは、この小説がはじめてであり、もうないかもしれない」とあとがきに記している。史実は少ない。だが宮城谷は書かずにはいられなかった。棒術の達人というのも創作である。
つまり介子推という人物は、数千年を経てもなお想像力を掻き立ててやまない存在感があることになろう。人はそれを「魂」と呼ぶ。
物語は前半と後半に分かれる。前半ではファンタジー的手法を駆使して教育が描かれている。
だが、石遠〈せきえん〉はちがう。
屋根をみあげて、草が腐ってきたかな、などという。甕(かめ)の破片を手にとり、土のこねかたが浅かったのだろう、などという。そういう感想のひとつひとつは、たとえば、
――形のあるものは、かならずこわれる。
というような、あきらめにも似た認識からは遠く、ものごとをかならず人の営為のなかでとらえ、人の工夫や努力の足りなさを訴えているようにきこえた。
おなじことばではないが、そのようなことを介推〈かいすい〉は母にいったことがある。すると母は、
「ああ、石〈せき〉さんは、人の限りということがわかっている人ですね」
と、即座にいった。
このこたえのほうが、介推にはむずかしかった。
【『介子推』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
見事な導入部である。技術が棒術へと結びつき、生の術=生きる流儀をも示す。この一文が本書全体のストーリーを見事に象徴している。
村に住む男性が虎に食われる事件が起こる。介推は人知れず虎を討つことを決意する。水を汲(く)みに山へ何度か足を運んでいると仙人のような老人が現れた。老人は「霊木(れいぼく)を探し、その枝を削り、虎を撃て」と命じた。
棒を手にした介推は、これまで感じたことのない不安をおぼえた。
虎と戦うことが怖いということではない。
棒がかるいのである。
その棒をつかむと、自分まで地から浮きあがりそうに感じる。棒から手をはなすと、自身の体重にもどる。その奇妙さが介推に大いに不安をあたえた。
介推はまだ子供であった。体重の変動は自我の脆(もろ)さを表現したものだ。棒を扱うだけの技量が彼にはまだなかった。
あてはない。
あの老人があらわれるのを待つだけである。
介推は一昼夜を山中ですごした。
――わたしは耳がよくなったのか。
と、介推は耳に手をあててみた。物音がくっきりときこえる。耳をふさいでみても、物音が小さくなったという感じはしない。
――棒のせいであろうか。
と、おもい、棒をはなしてみても、その感覚に変化はない。
目が集中力であるのに対して、耳は注意力である。介推は変わった。そして世界も同時に変わった。
翌日も、山中をさまよっただけでおわった。
だが、介推は自身が新鮮に洗われたという感動をおぼえた。
生きている者は、音を発する。
風に揺れる木も草も、岩清水でさえも、生きている。山中で起居していると、山の呼吸と同化してゆく。その呼吸は、人だけがよりあつまっている里にはないもので、ゆったりと大きく、また深いものである。
――あの虎は、この調和を乱している。
いろいろなものがよりあつまって山はできている。山は和音そのものだといってよい。虎はその和音を破壊しているにちがいない。
学ぶ意味が巧みに描かれている。本質を見抜く力こそ学問の証であろう。介推は老人と自然から生の本質を学んだ。そして遂に虎を退治する。彼はその偉業を黙して語ることがなかった。
荒唐無稽と思えばそれまでなのだが、実は法華経の構成と似ている。法華経は霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)という二つの場所で説かれる。前者を歴史的次元、後者を本源的次元と捉えることが可能だ。虚空会を文字通り空中と考えれば、単なるSFになってしまう。しかしブッダの悟性の内部世界を描いたものと弁えれば、さほど違和感は覚えない。
つまり介推のエピソードは事実であるか否かではなく、成長の変化を物語化したものと受け止めるべきなのだ。
そして介推は重耳の従者となる。19年に及ぶ放浪につき従い、幾度となく重耳の危難を防いだ。遂に刺客である閻楚〈えんそ〉と対決する。
舎(いえ)にむかう介推のからだのなかに、異常な高鳴りがある。
閻楚〈えんそ〉の剣を棒でうけたとき、
――重公子〈ちょうこうし〉とは、それほどの人か。
と、実感した。それほどの人というのは、このようなすさまじい剣で狙われる人、ということで、重耳〈ちょうじ〉が存在する尊さというものを、かえってその剣がおしえてくれた。
――重公子を守りぬいてやる。
介推のからだ全体がそう叫んでいた。
これぞ物語の妙というもの。互いの命を奪い合う格闘の中から見事なコミュニケーション領域を描いている。人と人とが出会うとはこういうことなのだろう。
介推は無名のままであった。ある時、太子昭〈たいししょう〉という人物を暗殺者の手から救った。この時も介推は尋ねられても決して名乗らなかった。介推の賢明さを見抜いた太子昭は心で呟いた。「これほどの男を賤臣にしたままの主人とは、よほど暗愚な者であろう」と。
物語はクライマックスを迎える。咎犯〈きゅうはん〉の舌禍ともいうべき事件が起こる。
このやりとりを、たまたま介推は近くでみていた。
――公子はまだ君主になっていないのに、咎犯〈きゅうはん〉はもう賞をねだっている。
そうみえた。
重耳は功を遂げようとしていた。咎犯〈きゅうはん〉は一計を案じて古くからの従者を重んじるよう画策した。介推の瞳にはこれが邪(よこしま)なものとして映った。介推に言わせれば、重耳の成功は天命であって配下が誇る性質のものではない。自らの功績を誇示し、報酬を無理強いする咎犯〈きゅうはん〉を介推は許せなかった。
下(しも)はその罪を義とし、上(かみ)はその姦(かん)を賞し、上下(しょうか)あい蒙(あざむ)く。
介推がそういったとき、母は、
――ああ、この子はまだ閻楚〈えんそ〉と戦っているのだ。
と、察した。下は臣下のことである。臣下は自分の罪を義にすりかえた。しかも上、すなわち君主はその姦邪(かんじゃ)を賞した。それでは臣下と君主とがあざむきあっていることになる。
「そういう人々がいるところに、わたしはいたくないのです」
口調は激しくないのだが、強いことばである。
介推はあまりにも清らかだった。主従の関係に政治を差し挟むことを嫌悪した。
組織というものは大きくなるにつれて官僚を必要とする。清流は海へと向かう中で必ず大河となって濁る。介子推はその濁りを鋭く察知し忌避したのだろう。どんな世界でも現場を支えているのはこういった人々だ。
この件(くだり)を読んで、ボクサーの大橋秀行を思い出した。
・リング上での崇高な出会い/『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔
一つだけケチをつけると、閻楚〈えんそ〉が重耳に介推の功績を語るシーンが曖昧で、『重耳』を読んでいないとストレスを覚えてしまう。著者の気持ちが昂っていたためと善意に解釈することは可能だが、拍子抜けの感は拭えない。
・重耳・介子推
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