2011-12-12

CIAの秘密実験 マインドコントロール/洗脳



CIA洗脳実験室~父は人体実験の犠牲になった~タヴィストック洗脳研究所洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学する洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

CIAの秘密実験 暗殺
国会議員の4分の1が世襲議員/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人

Digital Deception/映像の欺瞞


 あなたは映像を信じることができるか? テレビ報道に嘘はないか?


写真、映像、報道がただの妄想に。誰も見抜けぬ恐怖の未来
CNNリビア偽装報道
リビア国民評議会「嘘の勝利報道効果あった」 偽トリポリ緑の広場

「米金融寡頭権力 帝国の強さと脆さ」ティエリ・メサン


 2009年 仏ジャ-ナリスト、ティエリ・メサンの分析。アパルトヘイト、シオニズム、ユーロ、NATO誘拐作戦などについて。

東日本大震災の死者は1万5841人、行方不明者は3493人

震災と原発事故から9ヶ月が過ぎた。亡くなった方は1万5841人。9日現在で3493人の方が行方不明のままだ。そして33万2691人の方が全国で避難生活を続けている。僕は番組で「被災者」や「被災地」という表現を使わないことにしている。状況を一言でくくってしまう便利さが嫌いだから。
Dec 11 via webFavoriteRetweetReply

2011-12-11

高橋和夫


 1冊挫折。

なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫(幻冬舎、2010年)/ナチス・ドイツによって600万人のユダヤ人が虐殺されたという記述があり(29ページ)、そこでやめた。殺されたのはユダヤ人だけではない。それをあたかもユダヤ人だけ殺されたように歴史を改竄(かいざん)してきたのだ。今後、私が高橋の著作を読むことはないだろう。

「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン

アレバ核廃棄物処理の現実


 2005年12月。

グロ-バル化 IMF(国際通貨基金)が貧困を作るとき


 アフリカのガーナを例に自由貿易政策により貧しい国々が陥った厳しい状況を示すBBCのドキュメンタリー。



IMF(国際通貨基金) - 使命と誤算 (中公新書)グローバル経済を動かす愚かな人々世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正すエコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ

IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる

戦争ジャーナリズムの現実 リビアの例


戦争

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

拘束される記者激増 中国はワースト3位


 アメリカに本部を置く「ジャーナリスト保護委員会」の統計によると、世界で拘束されている記者の数は15年ぶりに、ワースト記­録を更新。イランとエリトリア、中国がワースト3を占めています。

「ジャーナリスト保護委員会」は1996年から、拘束されている記者の統計を開始。今年の12月1日までで、世界では記者や編集者、カメラマンなど179人が不当な判決で­服役させられています。去年の同時期はわずか34人でした。一番多いのはイランの42人。次はエリトリアの28人。中国は27人と世界ワースト3位です。

 NYタイムズ元記者 趙岩さん:「一昨年 胡主席はメディア開放を表明しました。しかし現実は違います。今年 記者への締め付けは厳しくなり、特に「中東の春」以降締め付けは厳しさを増しています」

 ジャーナリスト保護委員会によると、大部分の記者は、国家への反逆罪で拘束されています。次に多いのが、検閲制度への違反だそうです。

 NYタイムズ元記者 趙岩さん:「相対的にネット市民記者の逮捕が年々増えています。最近よく聞くのは"省をまたいだ逮捕"どれも市民記者の逮捕です。この状況をとめなければ、共産党を誰が監­督するのでしょうか」

 中国で拘束されている27人のうち、半分はウィグル族かチベット族です。ただし、今年釈放されるはずのウィグル族の記者2人は含まれていません。2人は、「国家機密漏洩罪­」と「分裂主義」で有罪になり、いまだに消息不明です。

新唐人テレビ 2011-12-11


ジャーナリストの拘束数、昨年比20%増 NPOまとめ

2011-12-10

『カラマーゾフの兄弟』翻訳比較


どの小説から読んだらいいか、どのテキストで読んだらいいか、についての案内

誤訳余りに多し、全面改訂を

《亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫》

 週刊新潮5月22日号で取り上げられているとおり、この訳書にはおびただしい誤訳がある。指摘した「ドストエーフスキイの会」のHPによると、誤訳・不適切訳は、検証された第1巻だけで100以上。全巻では数百箇所に上るという。しかも、その多くが初歩的誤りであり、仕事の杜撰さは否みようがない。実際、誤訳のほとんどは先行訳では正しく訳されているのである。

 それだけではない。その後の対応に不信が募る。1月末以降、訳者・出版社は、指摘をなぞり、脱落も含めて第1巻の40数箇所を第20刷と22刷で訂正している。ところが、このことは明記も公表もされていない。しかも、上記週刊新潮で誤訳訂正について質された訳者は、「ケアレスミスが10箇所程度。その他は解釈の違い」と弁明しているのである。残念ながら、これは事実に反する。現に40箇所余りを訂正しているのがその証拠であり、また、その大半は上述のように「解釈」以前のレベルの誤訳だからである。

 問題は更にある。訳者は、先の弁明の如く大量誤訳の事実を認めていない。従って、第1巻の残り、そして、巻を追って増すという第2巻以降の膨大な誤訳はいまだ手つかずのまま増刷され続けているのである。

 苦しいことではあろうが、訳者・出版社は、誤訳の実態を率直に認め、もう一度原文に立ち返って全巻を徹底的にチェックし直すべきである。そして、できるだけ早く改訂版を出してほしい。それが、読者、また、作品に心血を注いだ原作者に対して果たすべき道義的責務ではないか。なお、誤訳の大半は文脈の誤読に由来するものだが、中には、恣意的誤訳も散見する。これらも是非正して頂きたい。

 ドストエフスキーの魅力を広く世に伝えた訳者の功績は大であり、読みやすさを目指した新訳の意図に異論はない。問題は、翻訳の基礎がおろそかだったことである。これでは、作品の読みを深めることは出来ない。新訳が信頼できる翻訳に生まれ変わることを願いたい。

(削除につき、再投稿しました。事態は今も基本的に変わっていません。2011/6/30)

のんき亭

亀山訳「カラマーゾフの兄弟」雑感
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する
佐藤優氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」を読む
カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)




翻訳比較
亀山郁夫訳と原卓也訳の比較

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)



岩波文庫第一巻にはすばらしい解説がついている!

《米川正夫訳、岩波文庫》

 私は最初に光文社文庫の『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)を読みました。その中で文脈からして疑問に感じる箇所がいくつかあり、その確認のために岩波版を読んでみました。すると非常に明快に色々な箇所の疑問が解けました。

 以下、光文社亀山版と岩波米川版とを比較した感想です。亀山訳には人の名前などロシア文学初心者にとって親切な解説があり、文字や段落の工夫などでぐんぐん読み進めることができますが、ドストエフスキーの意図をきちんと読み解くには米川訳は必携。亀山訳で『カラマーゾフ』にはまった人は是非米山訳も手にとってみられることをお奨めします。

 何より岩波文庫1巻の最初についている解説がすばらしい。高々2~3頁の短い解説ですが、江川卓や亀山郁夫による色々な解説本と比較しても、この米川正夫の解説は非常によくまとまった優れた内容のものです。

 色々な新機軸の説を読む前に、まずはこの解説を読まれてはどうでしょうか(さらに詳しい解説としては『評伝ドストエフスキー』モチューリスキー、筑摩書房が定評あり)。宗教的な背景についてこの岩波の解説よりももっと簡潔概観的なものが必要な場合は講談社学術文庫『キリスト教の歴史』小田垣雅也(うち、9章10章)が参考になります。

 欲を言えば、字をもっと大きくして欲しい。岩波文庫には米川正夫訳で『悪霊』『未成年』『作家の日記』もあるはずですが、品切れ重版未定のまま、というのはいかにも惜しい気がします。

海産巻貝
カラマーゾフの兄弟〈第1巻〉 (岩波文庫)カラマーゾフの兄弟〈第2巻〉 (岩波文庫)カラマーゾフの兄弟 第3巻 (岩波文庫 赤 615-1)カラマーゾフの兄弟 第4巻 (岩波文庫 赤 615-2)

「カラマーゾフ兄弟の翻訳をめぐって」という本

リビア難民の証言 2011年4月4日 ラス・ジュディの国境

イラン大統領「核兵器の時代は終わる」2011年8月5日

イスラエル最高裁判所 ロスチャイルド家とフリーメイソン



フリーメイソン完全ガイド〈上〉歴史と組織構成・編フリーメイソン完全ガイド〈下〉神話の真相とシンボル・編真説フリーメイソン大百科 上真説フリーメイソン大百科 下

フリーメイスンのすべて―その歴史・象徴・秘密

フリーメイソン

ジャーナリストの拘束数、昨年比20%増 NPOまとめ


 国際非営利団体のジャーナリスト保護委員会(CPJ)は8日、世界各地で投獄されているジャーナリストの数は前年比で20%以上増加し、179人に上ったとする報告を発表した。中東と北アフリカの国々で行われた取り締まりが増加の主因だという。

 CPJのまとめによると、今年12月1日時点で投獄されている記者や編集者、フォトジャーナリストの数は総計179人にのぼる。2010年の12月1日は145人だった。

 国別の内訳ではイランが最多の42人を拘留しており、CPJは2年以上前に行われた大統領選以降、報道関係者に対する圧迫が始まったとしている。次いでアフリカのエリトリアで28人、中国で27人が拘留されていた。

 中東および北アフリカ地域であわせて77人のジャーナリストが拘留されており、全体の45%を占めた。

CNN 2011-12-08

拘束される記者激増 中国はワースト3位

ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの死因再調査で遺体発掘か チリ


 チリ共産党が、1973年に死去した詩人パブロ・ネルーダ氏の死因再調査に際して遺体を発掘し調査するよう当局に求めている。

 パブロ・ネルーダ氏の死因は前立腺がんとされているが、同氏の元運転手は、治療を受けていた病院で毒物を注射投与されて死亡したと証言している。ネルーダ氏は、ピノチェト陸軍司令官が率いた軍事クーデターの12日後に死亡している。

 ネルーダ氏の死因をめぐっては、今年6月に証言や投薬記録を改めて調査する命令が裁判所から出されていた。裁判所の命令は遺体の調査には触れていない。

 同氏の功績を称える目的で未亡人が設立したパブロ・ネルーダ財団の責任者は地元ラジオ局に対し、同氏の死に第三者が介在するとは考えにくいとして遺体発掘に反対の意を示した。

 ネルーダ氏は詩人で国会議員も務め、共産党員でもあった。1971年にはノーベル文学賞を受賞している。

 チリではピノチェト政権時代の人権侵害726件に関する大規模な調査が行われている。アジェンデ元大統領の遺体は今年に入って発掘調査され、死因は自殺との結論が7月に出されている。

CNN 2011-12-08

マチュピチュの頂二〇〇〇年ネルーダ詩集 (海外詩文庫)愛と革命の詩人ネルーダ

『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』八木啓代

観測史上最大のブラックホール二つ発見、太陽の100億倍


 米カリフォルニア大学などの研究チームが観測史上最大のブラックホールを二つ発見したとして、科学誌「ネイチャー」に発表した。

 二つのブラックホールはそれぞれ太陽の約100億倍の質量を持ち、あらゆる物質が重力から抜け出せなくなる「外縁」の大きさは、太陽と冥王星との距離の約5倍に達していた。これまでの観測では1977年に見つかった太陽の60億倍のブラックホールが最大とされていた。

 研究チームはハワイにあるケック天文台やジェミニ天文台、マクドナルド天文台を使って地球から比較的近い距離にある銀河を観測。その結果、地球から3億2000万光年離れた獅子座の方向にあるブラックホールと、同3億3600万光年離れたかみのけ座の方向にあるブラックホールを発見した。

 今回の発見についてカリフォルニア大学バークリー校の研究者は「われわれは最大のブラックホールに近付いているかもしれない」「この二つのブラックホールが最大なのか、それとも氷山の一角なのかを見極めるために観測を続ける必要がある。現時点では分かっていない」と話している。

CNN 2011-12-06

ブラックホール

2011-12-09

加工可能な現実

シオニストのパレスチナ侵略と圧制 イスラエルの真実


 時間がない人は最後の動画だけでも見よ。イスラエル軍の残虐さを理解できる。





















メディアが広めたイスラエルに関する10の嘘

シリア反乱はシオニスト陰謀 シリア人学生が告発するメディアの嘘

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元


 数年前に初めて『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1958年)を飛ばし読みした。「フーン」とは思ったものの、さほど心は動かなかった。その後、クリシュナムルティと遭遇する。私は乾いた砂が水を吸うように貪り読んだ。気がつくとブッダの言葉は激変していた。雷光の如く胸に突き刺さった。

 言葉はシンボルだ。仏教では文・義・意という立て分け方がある。経文、教義、真意という意味で、一つの言葉を三重に深めている。

 シンボルの究極は数式とマンダラである。詩歌や名言がこれに次ぐ。要は抽象度が高いのだ。

 なぜ私はブッダの言葉を理解できなかったのだろう? それは文(もん)だけ読んで、義意に辿りつけなかったためだ。そして今、義意をわかったように思っている。しかし実は違う。もしも義意がわかったとすれば、私はブッダと同じ悟りに達したことになるからだ。

 おわかりになっただろうか? 言葉とは翻訳機能にすぎないのだ。我々は日常の対話においてすら言葉というシンボルを手繰り寄せながら、コミュニケーションを図っているのである。ゆえに時折誤解や行き違いが生じる。

日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 言葉がコミュニケーションのツールであるならば、マンダラも悟りのための道具なのだろう。

 前置きが長くなってしまった。シリーズ『人生と仏教』は全12巻となっている。中村元が担当しているのは本巻だけのようだ。温厚な人物だけに時折盛り込まれる手厳しい指摘が鞭のように唸(うな)る。

 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。

Wikipedia

 前半の初期仏教に対して、後半の鎌倉仏教&その他は失速した観がある。やはり些末な教義が言葉の抽象度を低くしているように感じてならない。中村は初心者にもわかる言葉で、深遠な仏法哲理を自在に語る。

 したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
 では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。

【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】

 以下、無記に関するリンク。

原始仏教の教理
無記説の考察
輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
連続ツイート 無記(茂木健一郎)
茂木健一郎氏の連続ツイート「無記」に関する違和感

 続いて「毒矢の喩え」が引用される。

「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)

 西洋で形而上学が発展したのは、教会がアリストテレスを採用したためだ。多分。キリスト教は砂漠で生まれた。砂漠には何もない。そこに広がっているのは天だけだ。だからキリスト教は自然環境を征服する対象と見なした。これは建築様式にも反映されていて、多くの教会が尖塔(せんとう)となって天を目指している。

「毒矢の喩え」は広く知られているが実に鮮やかな反論である。我々は生まれてから歴史、文化、伝統などの条件づけによって数えきれないほどの小さな毒矢を射(う)たれている。生の本質に暗い理由はそこにある。資本主義が世界を席巻してからというもの、人間の悩みは経済的なものに限定されてしまった。収入、対価、コスト、合理性など、あらゆることが経済的尺度に置き換えられる。

 人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。

 言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。

茂木健一郎

 これは卓見だと思う。生は瞬間瞬間とどまることがない。そのダイナミズムを言葉が止めてしまうというのだ。教義に額づく宗教者が愚かであるのも同じ理由だ。生を教義の中に閉じ込めることは本末転倒である。仏教は啓典宗教ではない。

 私はやはり「毒矢の喩え」を忠実に読むことが大事であると考える。要はブッダが斥(しりぞ)けたのは「死から目を背け、死から遠ざかる思考」であったといえまいか。

 時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。

月並会第1回 「時間」その一

 我々は限定された時間を生きる。その限界性を打ち破るものは思考ではない。なぜなら言葉はシンボルにすぎないからだ。

 そもそも言語機能は脳の部分的な働きであり、しかも後天的に獲得されたことを見落としてはなるまい。人間を深いところで支えているのは脳の古い皮質大脳辺縁系)なのだ。

 ブッダが見つめたのは生と死であった。形而上学は生と死を見失わせる。

 ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
 そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
 したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
 かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。

 私はクリシュナムルティを学んでから、ブッダや日蓮などには「教義を説いた自覚がなかったに違いない」と思うようになった。なぜなら一切の束縛から人間を自由にしようとした彼らが「私の教義に従え」と言うわけがないからだ。それが証明された。

 例えば自殺についても無記と同様だと思われる。

仏教は自殺を本当に禁じているのか?
自殺を止められた釈尊の譬え話
自殺についての仏教の視点 現実感覚の確立とあの世への連続感(PDF)
自殺と向き合えない仏教

 私も元々は自殺に絶対反対であった。その理由は強い者よりも弱い者を殺す罪は重く、男性よりも女性を殺す罪は重く、大人よりも子供を殺す罪は重く、他人よりも自分を殺す罪は重いというものであった。

 もう10年以上前になるが後輩の父親が自殺をした。行方不明になってから半年後に青木ヶ原の樹海で発見された。掛ける言葉が見つからなかった。ただ一緒に泣いた。

 もちろん「自殺するのも自由だ」と言うことは困難だ。しかし「自殺はいけない。自殺は悪である」という単純な論理が、どれほど遺族を苦しめることだろう。「自殺を止められなかったのは家族の落ち度だ」と自分たちを責めているにもかかわらず。

 また喫煙や飲酒、コーヒーなどの刺激物、甘い物などの嗜好品を好むのは、「緩慢な自殺」と考えることも可能だろう。オートバイの暴走は文字通りの自殺行為である。不摂生、肥満、運動不足、他人の噂話、不勉強、怠惰、鈍感、凡庸……全部自殺行為だよ(笑)。

 事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。

 先日、「怨みはついにやむことがない」というツイートを紹介した。クリシュナムルティを通すと読めるようになる。縁起とは、「罵る人と罵られる人がいる」「害する人と害される人がいる」という事実を達観することだ。そこに強弱、あるいは上下という人間関係の物語を与えるから、自我が立ち上がるのだ。

 我々は過去の物語に生きている。諸法無我とは「私」という連続性から離れることである。なぜなら過去を死なせることなしに、現在を生きることは不可能であるからだ。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
意識は過去の過程である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 言葉ではなく沈黙の中に無量のものがある。無記という静謐の宇宙を味わう。

人生と仏教〈第11〉未来をひらく思想 (1970年)

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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説

2011-12-08

サルコジよ、あなたは昨晩何人の子供を殺したか リビア戦争の現実


 ベルギー人ジャーナリスト、ミシェル・コロンによる、NATOの「人道的」爆撃に関する調査。


サルコジ

カナダのユダヤ・イスラエルロビー

ホロコーストの真実を求めて


「しかしプールが見たければ、前もってそれが存在することを知っている必要がある。ガイドツアーでは見れないからだ。ガイドツアーには原則的に、ホロコーストの話をすでに信じ、それに対しておそらく何らかの感情を持つ観光客が参加する。選択的に編集されたガイドツアーで恐ろしい話を次から次へと聞かされた後、最後に最終駅のガス室に至る。この段階で、ツアーのグループは感情的にどんなことでも信じる準備ができている。ガス室は、観客を沸かせるための2時間の前座の後の主役に似ている」

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ










1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
「貧しいユダヤ人」だけがナチスに殺された/『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス
ガス室否定論者フォリソンを弁護したノーム・チョムスキー

Starting Over [Official Music Video]


 我々日本人は日々、アンサーソングを歌ってゆかねばなるまい。

日本語字幕付き! RT @moribooh: 震災復興チャリティーソング『Starting Over』を歌ったジャマイカの大御所16名が、在ジャマイカ大使館での天皇陛下生誕記念レセプションに招待されたとか。 http://t.co/5RoMr4PI
Dec 07 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply



獄中の堀江貴文氏からの手紙


 だが、裏返せば、刑務所に入らなければ、堀江氏がテレビを観ることもなかったといえる。“メディア界の風雲児”とも呼ばれ、時代の先頭を切っていた彼が、自由を奪われた際にようやく辿り着いたのが「テレビ」であるとはなんという皮肉な結果だろう。

 換言すれば、テレビ自らが“刑務所の娯楽”という安全の中に埋没してしまった観がある。それはメディアとしての停滞に他ならないし、成長を放棄したことを宣言したようなものである。

上杉隆

だからテレビに嫌われる国家の恥 - 一億総洗脳化の真実

2011-12-07

金色に輝くマルーン・ベルズの山頂


 米国コロラド州。4300メートルの頂が金色(こんじき)に輝く。その姿をマルーン湖が静かに映し出す。あたかも五行マンダラの如し。

Maroon Bells Sunrise, Colorado Rockies

競争原理がひずみを生み出した


「競争原理」とは、勝者しか幸せになれないシステムになっている。

「1%の金持ちと99%の貧困層」という社会になる。これに反旗を翻しているのが「ウォール街を占拠せよ」という反格差運動だ。

鈴木傾城〈すずき・けいせい〉

地震兵器HAARPの陰謀


ジェシー・ベンチュラ

守屋洋


 1冊挫折。

中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ100の至言』守屋洋(角川SSC新書、2010年)/完全な手抜き本。右ページに訳文と本文が掲載されている。フォントサイズは訳文がメインとなっていて、古典の香りを台無しにしている。で、守屋の文章は短文の切れ味を欠いている。右ページだけ通読した。

カダフィ 群集への演説 2011年7月21日 スルト(リビア)


 集まった群集を見ながら、姿を現すことなく語りかけるリビア大統領ムアンマル・カダフィは、多国籍軍の爆撃へ挑戦的に立ち向かうよう国民を鼓舞し、裏切り者を非難する。


カダフィ

リビア攻撃は2001年から計画されていた

アフガニスタン戦争の真の理由



ブッシュ妄言録―ブッシュとおかしな仲間たち (二見文庫)ブッシュ妄言録策謀家チェイニー 副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」 (朝日選書)ブッシュ・ファミリー ブッシュ一族 虚飾の源流 1908年~

青のグラデーション


 重なり合う水平線と地平線が距離感を失わせる。時間と距離とが溶け合い、空間が垂直に迫ってくる。同じ光景は二度とあるまい。美しさとは瞬間に具(そな)わるものだ。決して繰り返されることがない。

Beyond

2011-12-06

怨みはついにやむことがない


ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二


 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一
 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二

『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良

 結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
 仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」

 いくらか参考にはなるが、仏教の素養がない人にはチンプンカンプンなことだろう。専門家の言葉は大衆に届かない。ま、届けるつもりもないのだろう。「だから何なんだ?」「それがどうした?」と言われてしまえばそれまで。

 なぜ永遠に反復しなければならないのか、永遠反復する場合としない場合とでは何が違うのか、こういった点が非常にわかりにくい。精読していない立場でいうのも何だが、永劫回帰の焼き直しにしか見えない。

 大体、永遠に反復するのであれば、それ自体が六道輪廻の範疇となってしまう。法(真理)を表現する言葉は社会の変遷に伴って変わらざるを得ない。そこに言葉と知性の更新があるのだ。

 つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
 仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
 この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
 この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。

 僣越ながら私が一言で述べてしまおう。大日如来も阿弥陀如来も久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうじんにょらい)も全部一緒だ。これらには仏を神格化する目的があったのだろう。仏なのに神を目指すのだから不思議な話だ。人類という種はよほど人格神が好きなのだろう。

 では神とは何か? 神とは偶像である。ここ、アンダーライン。キリスト教が偶像崇拝を戒めている(モーゼの十戒)のは、偶像は一つあれば十分だからだ。神が自分に似せて人間を創造したのではない。人間が自分に似せて神という偶像を想像したのだ。

 しかもこの作品は目に見えない。会った人もいなければ、言葉を交わした人もいない。啓示とは個々人の脳内に発現した妄想である。「いる」って言い張るのであれば俺の家に連れて来いよ。言いたいことが山ほどあるから(笑)。

 結論――人類は神様が大好き。「人智の及ばぬ」という言葉に象徴されているが、一人ひとりは部分情報としての人生を生きるしかない。そこで全体情報という視点として「神」という座標が想定されたのだろう。

人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。ブッダ以前にもブッダと呼ばれた人々はいた。そしてブッダはアルハット(阿羅漢/独覚〈どっかく〉=独りで悟りを開いた者)と呼ばれることをよしとした。ティク・ナット・ハンによれば、後年は「タターガタ」(真如から来たりし者=如来)と名乗ったようだ。

 日本の仏教は鎌倉時代のドグマに支配されている。だから800年近く経っても何の進歩も深化もない。これ自体、教義が知性を眠らせることを示している。

 仏教は小乗から大乗へと移り変わる中で教義を構造化した。寺院建築と似たようなもので、脳のネットワーク機能が進むと必ず様式化されてゆくのだ。情報のフィードバック構造が変化するためだ。そして悟りからどんどん離れてゆく結果となる。

 仏教における真理は、空=縁起=諸法無我であり、実相=中道であろう。仏の絶対視は諸法無我に反する。

 そんなわけで日本語の「仏」ってえのあ、もうダメだと思う。手垢まみれになっちまって神と見分けがつかないもの。敗戦後の日本では「神も仏もあるものか」と並び称されるようになってしまった。

 仏という言葉に隔絶感を覚えるのは、悟った人がいないためである。「仏教は凄い」と語る人は多いが、「仏教で悟った」人を見たことがない。

ニコラス・ウェイド


 1冊読了。

 69冊目『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)/天才本。タイミングどんぴしゃり。本書は“進化宗教学”の地平を拓いたといってよい。宗教の発祥を探り、進化に伴って宗教が淘汰されなかった理由を解明している。リチャード・ドーキンスやダニエル・C・デネットを読んでいる人は必読のこと。「高等批評」(聖書の科学的研究)という言葉は知らなかった。私にとっては出会うべくして出会った一冊。

新世界秩序の十戒 ジョージア州のガイドスト-ン


現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

イスラエル人の知らないシオニズムの真実







ガス室否定論者フォリソンを弁護したノーム・チョムスキー


フォリソン事件 ホロコースト否定論擁護説
ロベール・フォリソン、ネルヴァルを読む
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか

 ・ホロコーストの真実を求めて
 ・ノーム・チョムスキー

バーバラ・W・タックマン、伊藤計劃、ソール・A・クリプキ


 3冊挫折。

決定的瞬間 暗号が世界を変えた』バーバラ・W・タックマン:町野武訳(みすず書房、1968年/ちくま学芸文庫、2008年)/展開が悪い。力のない握手みたいな出だし。

虐殺器官』伊藤計劃〈いとう・けいかく〉(早川書房、2007年/ハヤカワ文庫、2010年)/小田雅久仁と文体の印象が似ている。クセのある形容が肌に合わず。伊藤は彗星のように登場し三つの作品を発表。その後、30代半ばで急逝した。意を決して再読するも、「ぼく」という言葉に堪えられず。

名指しと必然性 様相の形而上学と心身問題』ソール・A・クリプキ:八木沢敬〈やぎさわ・たかし〉、野家啓一〈のえ・けいいち〉訳(産業図書、1985年)/歯が立たず。「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)。恐らく「語られうること」を解明しようとしているのだろう。宗教用語――例えば創世記、久遠、神、仏など――を本書で炙(あぶ)り出せば面白いと思う。後々再読せねばなるまい。