・CIAの秘密実験 暗殺
・国会議員の4分の1が世襲議員/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人
@nhk_HORIJUN
堀 潤 Jun Hori 震災と原発事故から9ヶ月が過ぎた。亡くなった方は1万5841人。9日現在で3493人の方が行方不明のままだ。そして33万2691人の方が全国で避難生活を続けている。僕は番組で「被災者」や「被災地」という表現を使わないことにしている。状況を一言でくくってしまう便利さが嫌いだから。
Dec 11 via webFavoriteRetweetReply
認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。
【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】
山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。
【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】
ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。
【クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ】
ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。
【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】
誤訳余りに多し、全面改訂を
《亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫》
週刊新潮5月22日号で取り上げられているとおり、この訳書にはおびただしい誤訳がある。指摘した「ドストエーフスキイの会」のHPによると、誤訳・不適切訳は、検証された第1巻だけで100以上。全巻では数百箇所に上るという。しかも、その多くが初歩的誤りであり、仕事の杜撰さは否みようがない。実際、誤訳のほとんどは先行訳では正しく訳されているのである。
それだけではない。その後の対応に不信が募る。1月末以降、訳者・出版社は、指摘をなぞり、脱落も含めて第1巻の40数箇所を第20刷と22刷で訂正している。ところが、このことは明記も公表もされていない。しかも、上記週刊新潮で誤訳訂正について質された訳者は、「ケアレスミスが10箇所程度。その他は解釈の違い」と弁明しているのである。残念ながら、これは事実に反する。現に40箇所余りを訂正しているのがその証拠であり、また、その大半は上述のように「解釈」以前のレベルの誤訳だからである。
問題は更にある。訳者は、先の弁明の如く大量誤訳の事実を認めていない。従って、第1巻の残り、そして、巻を追って増すという第2巻以降の膨大な誤訳はいまだ手つかずのまま増刷され続けているのである。
苦しいことではあろうが、訳者・出版社は、誤訳の実態を率直に認め、もう一度原文に立ち返って全巻を徹底的にチェックし直すべきである。そして、できるだけ早く改訂版を出してほしい。それが、読者、また、作品に心血を注いだ原作者に対して果たすべき道義的責務ではないか。なお、誤訳の大半は文脈の誤読に由来するものだが、中には、恣意的誤訳も散見する。これらも是非正して頂きたい。
ドストエフスキーの魅力を広く世に伝えた訳者の功績は大であり、読みやすさを目指した新訳の意図に異論はない。問題は、翻訳の基礎がおろそかだったことである。これでは、作品の読みを深めることは出来ない。新訳が信頼できる翻訳に生まれ変わることを願いたい。
(削除につき、再投稿しました。事態は今も基本的に変わっていません。2011/6/30)
【のんき亭】
亀山郁夫はいつも大袈裟に絶望しているので、有意な情報ではない。 https://t.co/Mc36nbNX8R
— Satoshi Ikeuchi 池内恵 (@chutoislam) March 12, 2022
岩波文庫第一巻にはすばらしい解説がついている!
《米川正夫訳、岩波文庫》
私は最初に光文社文庫の『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)を読みました。その中で文脈からして疑問に感じる箇所がいくつかあり、その確認のために岩波版を読んでみました。すると非常に明快に色々な箇所の疑問が解けました。
以下、光文社亀山版と岩波米川版とを比較した感想です。亀山訳には人の名前などロシア文学初心者にとって親切な解説があり、文字や段落の工夫などでぐんぐん読み進めることができますが、ドストエフスキーの意図をきちんと読み解くには米川訳は必携。亀山訳で『カラマーゾフ』にはまった人は是非米山訳も手にとってみられることをお奨めします。
何より岩波文庫1巻の最初についている解説がすばらしい。高々2~3頁の短い解説ですが、江川卓や亀山郁夫による色々な解説本と比較しても、この米川正夫の解説は非常によくまとまった優れた内容のものです。
色々な新機軸の説を読む前に、まずはこの解説を読まれてはどうでしょうか(さらに詳しい解説としては『評伝ドストエフスキー』モチューリスキー、筑摩書房が定評あり)。宗教的な背景についてこの岩波の解説よりももっと簡潔概観的なものが必要な場合は講談社学術文庫『キリスト教の歴史』小田垣雅也(うち、9章10章)が参考になります。
欲を言えば、字をもっと大きくして欲しい。岩波文庫には米川正夫訳で『悪霊』『未成年』『作家の日記』もあるはずですが、品切れ重版未定のまま、というのはいかにも惜しい気がします。
【海産巻貝】
私たちのいう「現実」っていうのは、所詮感覚器官から送られてきた信号をもとに脳が作った映像に過ぎないから、それが加工できるということは、現実が加工できることを意味する。そんなことができるようになった社会で、「客観的現実」などというストーリーが果たしてどれほど意味を持てるか
— P-63A5 KingToriniku (@poulet_pensant) 2010, 12月 11
中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。
【Wikipedia】
したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。
【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】
「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)
人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。
言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。
【茂木健一郎】
時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。
【月並会第1回 「時間」その一】
ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。
@shinpei23
Higashi Shinpei 日本語字幕付き! RT @moribooh: 震災復興チャリティーソング『Starting Over』を歌ったジャマイカの大御所16名が、在ジャマイカ大使館での天皇陛下生誕記念レセプションに招待されたとか。 http://t.co/5RoMr4PI
Dec 07 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
3 「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれに打ち勝った。彼はわれから強奪した」という思いを抱く人には、怨みはついにやむことがない(ダンマパダ)
— 仏陀 ブッダ ことば 仏教 (@Buddha_Words) December 6, 2011
結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」】
つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。