2020-09-27
2020-09-26
『田中清玄自伝』は戦後史の貴重な資料/『日本の秘密』副島隆彦
・『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦、佐藤優
・片岡鐵哉『さらば吉田茂』の衝撃
・『田中清玄自伝』は戦後史の貴重な資料
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉
・『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
60年安保闘争で、「全学連主流派」という、元祖・過激派学生運動を、背後から使嗾(しそう/あやつり、そそのかす)したのは、まず岸信介を政権の座から追い落とそうとして動いた、自民党・吉田学校(宏池会〈こうちかい〉)の人々であった。その証拠となる文献を、以下にいくつか挙げることにする。
まず、どうしても、田中清玄(せいげん)氏の『田中清玄自伝』(大須賀瑞生インタビュー、文藝春秋、1993年刊)からである。この本は、きわめて重要な本である。日本の戦後史を検証してゆく上で、陰画(ネガ)のような役割を果たす貴重な回顧録である。田中清玄の死に際の遺言集である。田中清玄は本書の中で、かなり大胆に正直に多くの歴史証言を行っている。しかし肝心の、日本の戦後史の大きな核心部分については、狡猾にも歴史の闇に葬るべく、いくつかの重要事実の公開を慎重に避けていると私は判断する。
それ以外では、嘘は書かれていない本だ。
【『日本の秘密』副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉(弓立社、1999年/PHP研究所新版、2010年)】
うっかりしていた。私は田中清玄〈たなか・きよはる〉を本書で知った。2015年12月に読了。随分と遠回りしてしまった。ただし意味のある遠回りであった。副島隆彦には一部のコアなファン層がいるが私はあまり好きではない。この人はともすると過激に傾く嫌いがある。穏健なオールドリベラリズムとは反対の性質を感じる。
「戦後史の大きな核心部分」とはCIAによる工作のことか。アメリカは1947年、マーシャル・プランで反共に舵を切った。翌1948年1月6日、アメリカのロイヤル陸軍長官は「日本を共産主義の防波堤にする」と宣言した。同年、朝鮮戦争が勃発。GHQの占領が終了した1952年以降はCIAが様々な工作をしたと仄聞(そくぶん)する。日本が安全保障すら自前で賄(まかな)えないのは自民党が甘い汁を吸いすぎたためだろう。この国は右も左も売国奴だらけだ。
私は三島由紀夫の純情には惹かれるが非常に危うい性質をも感じる。三島の見識と切腹には飛躍がありすぎる。田中清玄は三島のことを「礼儀知らず」と一言で切り捨てた。
2020-09-25
愛の字義/『漢字なりたち図鑑 形から起源・由来を読み解く』円満字二郎
【愛】アイ
[会意]“後ろを向く”ことを表す「●」と、「心」と、“足”を意味する「●」を組み合わせた漢字が、変形したもの。本来の意味は“心残りがあって振り向きながら進む”ことだと考えられています。気になってしかたがないところから、“愛(あい)する”という意味で使われるようになりました。
【『漢字なりたち図鑑 形から起源・由来を読み解く』円満字二郎〈えんまんじ・じろう〉(誠文堂新光社、2014年)】
伏せ字部分がわかりにくので画像を上げる。
著者名はふざけたペンネームと思いきや本名のようだ。
愛の字義は仏教の渇愛に近い。愛とは固執である。「愛(め)でる」と使えばピンとくるが、愛という語を日常で使うことはまずない。キリスト教で説くラブがわかりにくいのも愛が観念的である証左といっていいだろう。
ブッダが示すのは慈悲であるが決して同苦することはない。なぜなら仏はありのままに苦を見つめるだけで、苦から離れた位置にいるためだ。我々はともすると情愛を求めるが、それは欠乏を補うためだ。ある種の承認欲求の現れと知るべきだ。
愛が引きずるものであれば、それは好ましい足枷(あしかせ)でしかない。感情の昂(たか)ぶりは往々にして瞳を暗くする。過去と現在、他人と自分という比較に幸不幸の陥穽(かんせい)がある。愛よりも智慧が重い。
会津戦争のその後/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『日本の秘密』副島隆彦
・『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
・『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
・『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
・『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
・『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・会津戦争のその後
・昭和天皇に御巡幸を進言
・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
・田中清玄の右翼人物評
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
――昭和3年、秩父宮殿下が松平家の勢津子さんと結婚されたとき、会津の人達は「これで賊軍の汚名は晴らされた」と、泣いて喜んだという話を聞いたことがあります。
その通り。もともと会津武士たちを賊軍扱いにしなかったのは、大本営にいた西郷隆盛さんですよ。実際の司令官で会津まで来ていたのは黒田清隆、その下に板垣退助、中島信行がいた。彼等は会津戦争の悲惨さを実際に見て知っている。田中の家の隣が西郷頼母の家で、そのあたり一帯は梅屋敷と呼ばれていたのですが、西郷家などは、12歳の少女まで21名全員が自決し、最後に奥方が命を絶っているんですね。板垣、中島はここへも検分に来ていますが、あまりの悲惨さに、黙って手を合わせただけで出てきたという話も残っています。こうした様子を二人は、大本営にいた西郷隆盛さんにつぶさに報告したんだと思いますね。
ですからいくさがすんだ後は、函館の五稜郭に立て籠もった榎本武揚、大鳥圭介以下、一人も殺されていないし、みな禁錮2年とか4年ぐらいで出てきて、その後、北海道開拓使長官となった黒田清隆が会津の武士たちを積極的に取り立てています。
しかし、田中家としては中老・玄純は北海道で亡くなり、大老・玄清は会津で腹を切り、一族のものは散り散りばらばらですよ。それは悲惨なものでした。とくに新政府の命令で下北半島の斗南(となみ)にやられた者たちは大変でした。これはもう人間の住むところじゃないですよ。核燃料のリサイクル基地か何かにしようと、今もむつ小川原あたりでやっているが、大変な湿地帯のうえに土地が荒れて作物が育たないから、食べ物に難渋しましてねえ。
田中玄純の倅に源之進玄直(はるなお)という者がおりますが、これが私の曾祖父です。この人も黒田清隆に取り立てられた一人です。
【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】
「戦前に逮捕されて共産主義から転向し、戦後は政商になった人物」程度に思っていた。底の浅い先入観は見事に外れた。まあ、とんでもない人物だ。在野の国士と言ってよい。岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉は立場上、発言が慎重にならざるを得ないが、田中清玄(1906-93年)はビックリするほど明け透けに語る。筋を通す生き方がいかにも会津人らしい。
田中は戦前の非合法時代における武装共産党の中央委員長を務めた。学生時代に空手を行っていたので腕っ節も滅法強い。田中が転向したきっかけは実母の諫死(かんし)であった。詳細には触れていないが多分切腹したものと思われる。その瞬間、田中は「やったな!」と直感したという。その後獄中にあってスターリンの胡散臭さを見抜いていた彼は「果たして何が真実なのか?」という哲学的煩悶に取り憑かれる。田中が出した答えは「尊皇」であった。会津士魂が蘇ったとしか思えない。
長らく抱えていた疑問が氷解した。山川捨松〈やまかわ・すてまつ〉の留学(『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武)も同様の措置であったのだろう。ただし、それで清算できたわけではない。
1986年に、友好都市提携の申し入れを拒否した。萩市は、戊辰戦争で会津藩と戦った長州藩の本拠地である。萩市から、敵として戦った戊辰戦争から120年を記念しての友好都市提携の申し入れがあったが、会津若松市民の間から「我々は(戊辰戦争の)恨みを忘れていない」、当時の福島県知事松平勇雄を指し「孫がまだ生きている」との意見があったため、これを拒否した。ただ、実際この騒動の後に萩市と会津若松市は友好都市関係を結ぶことこそ無かったが、活発に交流するようになり、この騒動はそのきっかけとなった。
【Wikipedia:会津若松市】
会津藩は朝敵となってしまったため靖国神社にも祀(まつ)られていない。靖国神社にとっては瑕疵(かし)で済まされない歴史である。
2020-09-24
異能の軍人/『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
・『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
・『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
・『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
・『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
・『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆
・異能の軍人
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
本書には、岩畔豪雄(1897~1970年)に対して木戸日記研究会・日本近代史料研究会が1967年に3回にわたり行った聴き取り調査の記録、および岩畔自身が記した41年の日米交渉の顛末に関する文書が収められている。
岩畔豪雄は、昭和戦前期に軍事官僚として陸軍省と参謀本部(いわゆる省部)の要職を歴任、満州国の経営に参画し、さらには謀略工作も担当した。アジア・太平洋戦争勃発直前には日米交渉に関与し、そして開戦後はマラヤ作戦、ビルマ作戦および対インド政治工作に従事する。この他にも中野学校、機甲本部、大東亜共栄圏、戦陣訓、登戸研究所、偽造紙幣工作、など岩畔が関与した事案は枚挙にいとまなく、「異能の軍人」の面目躍如であった。(等松春夫〈とうまつ・はるお〉)
【『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉(日本経済新聞出版、2015年/日本近代史料研究会、1977年『岩畔豪雄氏談話速記録』を改題)以下同】
古書店主の仕事は目録作りである。要は本の並べ方に工夫を凝らし、鎬(しのぎ)を削るのが古本屋の仕事だ。上記リンクの並びは思わずニンマリした出来映えである。岩畔豪雄と田中清玄〈たなか・きよはる〉には妙に重なる部分がある。裏方に徹して少なからず国家の動向に影響を及ぼした点もさることながら、二人の人物評が目を引く。何気ない一言が本質を浮かび上がらせ、偶像に亀裂を入れる破壊力がある。
巻頭に「なお、本記録の編集は竹山護夫会員が担当した」とある。護夫〈もりお〉は竹山道雄の長男である。惜しくも44歳で没した。そのほか、伊藤隆、佐藤誠三郎、松沢哲成、丸山真男の名前がある。
「異能の軍人」とは言い得て妙だ。岩畔豪雄は軍人という枠に収まる人物ではなかった。戦時にあっても平時にあっても遺憾なく才能を発揮できる男であったのだろう。真の才能は韜晦(とうかい)を拒む。水のように溢れ出て周囲を潤すのだ。
二・二六事件に関しても当時を知っているだけあって指摘が具体的で思弁に傾いていない。
―― それが、二・二六というものが将校だけの画策であれば、ああいう裁判はなされなかったのでしょうか。
岩畔●やっぱりやったでしょうね。
二・二六というのは非常に遺憾なことだったのですが、大体が陸軍の首脳部の初めからこういう問題に対する態度が悪いですよ。一番最初の三月事件の時あたりに橋本欣五郎をパッとやるというようなことをやっておればけじめがついたのですが、その時なにもなかったから、あとからまた10月事件をやった。その時も処罰を20日か30日食って終り。これではいかんですよ。パッとやればそうすればその後にあんなことなど起こらないのですよ。
一番態度が悪いのが首脳部ですよ。これはみなさんもよく注意して下さいよ、「その精神は諒とするも行動が悪い」と言っているのです。行動が悪いものは精神も悪いので、これが日本人の一つの欠点だと思うのです。だから、「お前行動も悪い、したがって精神も悪い」、こういかなければならないところを、みんなが「精神は可なるも行為が悪い」と言う。こんなバカな話があろうかというのですよ。これが三月事件、10月事件が二・二六事件に至った大きな原因であったわけですよ。だからなんでも同じなので、初めにスパッと手の中を見せんようにやっておけばあとはサッといったものを、そこがコツだと思うのですが。
実務家の面目躍如である。三島由紀夫は反対方向へ行ってしまった。大東亜戦争における軍の暴走を解く鍵は二・二六事件にある。是非や善悪が極めてつかみにくく、責任の所在すら曖昧になりやすい。日本の談合文化が最も悪い方向へ露呈した歴史と言ってよい。司馬遼太郎が否定した気持ちも何となく理解できよう。
調べれば調べるほどわからなくなる大東亜戦争や二・二六事件であるが、岩畔の指摘はスッキリしていてストンと腑に落ちる。二・二六事件は社会主義という流感のようなものだったのではあるまいか。そんな気がしてならない。
―― 石原莞爾はどうだったんですか。
岩畔●この人は私もよくわからないのですが、大谷はそれを非常にはっきり書いておるようですが、大体ああいう態度を取ったと思うのだが、石原なんという人は、「よし、これは治める、しかし、これを利用してなにかやる」というそういう政治的な見透しはあったでしょうね。そういう感じがあの人については非常にするのです。
「某(なにがし)」ではなく「なん」というのが岩畔の口癖である。「なん」呼ばわりした人物は大抵評価が低い(笑)。自分たちで勝手に次期首相を決めようとしたわけだから(『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹)、岩畔の指摘は正鵠(せいこく)を射ている。
それで石原莞爾〈いしわら・かんじ〉の軍事的才能が翳(かげ)りを帯びることはないが、満州事変が後進に与えた悪影響は計り知れない。
・【赤字のお仕事】「インスタバエ」ってどんな「ハエ」? 「…映え」「…栄え」の書き分け原則とは(1/3ページ) - 産経ニュース
・インターネット特別展 公文書に見る日米交渉
・三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた/『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
・二・二六事件前夜の正確な情況/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた/『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
・『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
・『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
・日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
(※ポツダム宣言に対して)結局なにも発表しないのはやはりまずい。かといって、確たることはいえる状態ではない。あたらずさわらずでいこうということになった。発表はするが、とくに国民の戦意を低下させる心配のある文句は削除(さくじょ)する。政府の公式見解は発表しない。新聞にはできるだけ小さく調子をさげて取扱うように指導する。新聞側の観測として、政府はこの宣言を無視するらしいとつけ加えることはさしつかえない。これが政府の報道への方針となった。
翌28日の新聞は、内閣情報局のこのような指令にしたがって編集され、国民の大多数には、さしたる衝撃もあたえなかった。
この静観の方針には、はじめは軍部も賛成していた。だが、時間がたつとともに、第一線のまだ元気のいい部隊から「なぜ政府はポツダム宣言に対して、断乎たる反対決意を発表しないのか」という詰問(きつもん)電報がひっきりなしにとどきはじめた。やがて軍中央部も硬化し、このような状態では、とうてい前線の士気は維持できないと主張するようになった。
なぜなら、内地にいる兵隊は一般国民と同様につんぼ桟敷(さじき)にいるわけだが、前線の将兵は作戦の必要上いろいろの通信機械、ラジオなどをもっているから、敵側の情報もそうとう的確につかんでいる。この降伏勧告を黙って放置したのでは、動揺はまぬがれない、というのであった。
28日午前におこなわれた政府と大本営の情報交換会議の席上でも、政府はこの宣言に反対であることを明らかにすべきである、と軍部側から強く要望された。
やむなく、政府は積極的には発表しないけれども、新聞記者の質問に答える形で、意志を表明しようということになった。
28日午後4時、鈴木首相は記者会見で「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼きなおしであるから重要視しない」と、のべた。ところが、重要視云々(うんぬん)をくりかえしているうちに「黙殺」という言葉がでてきてしまった。新聞は29日朝刊でこれを大きくとりあげ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。しかも、ノーコメントの意味であった「黙殺」が、外国に報道されたときに ignore (無視する)となり、さらに外国の新聞では“日本はポツダム宣言を reject (拒絶する)した”となってしまった。このため米国英国の新聞の態度は一変し、その論調は硬化した。これを後で知った東郷外相は激怒し、総理談話は閣議決定に反すると抗議した。しかし、もはや談話の撤回は不可能であった。
日本は貴重な一日一日を無駄にすごしていたのであった。しかも、すくなくとも一日たてば一日と、日本にとって破滅の色は濃くなるばかりであった。では、このとき、政府はなにを信じて頑張っていたのだろうか。それは、いぜんとして、ソ連を仲介とする和平交渉であったのだ。
【『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利〈はんどう・かずとし〉(文春文庫、2006年/文藝春秋新社、1965年、大宅壮一〈おおや・そういち〉編『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』/角川文庫、1973年/文藝春秋、1995年、半藤一利『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』)】
元は文藝春秋の「戦史研究会」が企画、資料収集しまとめたものを大宅壮一のビッグネームで出版したもの。上記テキストは大宅編で半藤版はかなり手が入っている。読み比べるのも一興であろう。ただし角川文庫版は紙質が悪く活字も小さい。
「ともかく、これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまいのではないか。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」(半藤一利版)
この大御心(おおみごころ)が政府首脳には伝わらなかった。国体護持の熱誠ゆえに意見が割れた。『日本のいちばん長い日』とは昭和20年(1945年)8月15日を指す。正午の玉音放送に至るまでの24時間を綴る。その意味では元祖『24 -TWENTY FOUR-』と言っていいかもしれぬ。目次が秀逸だ。
序(大宅壮一)
プロローグ
正午――午後一時 “わが屍を越えてゆけ” 阿南陸相はいった
午後一時――二時 “録音放送にきまった” 下村総裁はいった
午後二時――三時 “軍は自分が責任をもってまとめる” 米内海相はいった
午後三時――四時 “永田鉄山の二の舞だぞ” 田中軍司令官はいった
午後四時――五時 “どうせ明日は死ぬ身だ” 井田中佐はいった
午後五時――六時 “近衛師団に不穏の計画があるが” 近衛公爵はいった
午後六時――七時 “時が時だから自重せねばいかん” 蓮沼武官長はいった
午後七時――八時 “軍の決定になんら裏はない” 荒尾軍事課長はいった
午後八時――九時 “小官は断乎抗戦を継続する” 小薗司令はいった
午後九時――十時 “師団命令を書いてくれ” 芳賀連隊長はいった
午後十時――十一時 “斬る覚悟でなければ成功しない” 畑中少佐はいった
午後十一時――十二時 “とにかく無事にすべては終わった” 東郷外相はいった
十五日零時――午前一時 “それでも貴様たちは男か” 佐々木大尉はいった
午前一時――二時 “東部軍に何をせよというのか” 高嶋参謀長はいった
午前二時――三時 “二・二六のときと同じだね” 石渡宮相はいった
午前三時――四時 “いまになって騒いでなんになる” 木戸内府はいった
午前四時――五時 “斬っても何もならんだろう” 徳川侍従はいった
午前五時――六時 “御文庫に兵隊が入ってくる” 戸田侍従はいった
午前六時――七時 “兵に私の心をいってきかせよう” 天皇はいわれた
午前七時――八時 “謹んで玉音を拝しますよう” 館野放送員はいった
午前八時――九時 “これからは老人の出る幕ではないな” 鈴木首相はいった
午前九時――十時 “その二人を至急取押さえろ!” 塚本憲兵中佐はいった
午前十時――十一時 “これから放送局へ行きます” 加藤局長はいった
午前十一時――正午 “ただいまより重大な放送があります” 和田放送員はいった
エピローグ
あとがき
白眉はポツダム宣言受諾の御聖断と宮城事件である。
明治・大正で青年に育った近代日本は昭和に入り分裂症(統合失調症)状態となる。右脳と左脳の均衡が崩れ、右脳から天の声が聞こえるような有り様だった。その要因は会津戦争(1868年/明治元年)にあったと私は考える。そもそも尊皇の総本山ともいうべき会津藩が逆賊になることがおかしいのだ。あの悲惨が近代化のために不可欠であったとは到底思えない(『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人)。戊辰戦争の負け組は欧州で虐げられたユダヤ人のような感情を抱いたことだろう。大正デモクラシー~社会主義思想~昭和維新の流れは抑圧された東北のエスと言ってよい。小室直樹は三島理論から「阿頼耶(アーラヤ)識」としたが、フロイト理論のエスの方が相応しいように思う。抑圧された感情が消えることはない。娘の身売りが多かった東北で一気に心理的抑圧が噴出したのだろう。
大東亜戦争の印象を一言でいえば「ズルズル行ってダラダラ終わった」ことになろうか。欧米の帝国主義を打ち破り、世界中の植民地解放に道を拓いた世界史的功績を否定するつもりは毛頭ないが、負けた戦争をきちんと振り返らなければ日本の再生はないだろう。東京裁判を否定する声は多いが、本気で戦争責任を追求する人は皆無だ。切腹した人々は立派であった。
岡部伸〈おかべ・のぶる〉著『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』を先に読めば、断腸の思いに駆られる。ヤルタ会談(1945年〈昭和20年〉2月4~11日)では、ドイツ降伏から3ヶ月後にソ連が対日戦に加わる密約が交わされた。小野寺信は直後の2月半ばにこの情報を本国に打電した。ところがソ連の仲介による和平工作に傾いていた参謀本部は小野寺情報を握り潰した。その事実を小野寺本人が知ったのは実に38年後のことである。
2発目の原子爆弾が長崎に落ちたまさにその時、日本の首脳は相変わらず結論の出ない会議を続けていた。
2020-09-19
人生の岐路/『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆
・『政治を考える指標』辻清明
・伊藤隆の藤岡信勝批判
・人生の岐路
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
6月15日、国会突入デモで樺美智子〈かんば・みちこ〉さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
樺さんは国史研究室の4年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいないようでした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
そう言って、別れました。
【『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆〈いとう・たかし〉(中公新書、2015年)以下同】
日常の何気ない選択が人生を決定的に変えることがある。もしもデモに参加していなければ樺美智子は長生きしたことだろう。ブントと訣別していた可能性もある。国史を研究していたわけだからひょっとすると保守論客になってもおかしくはない。今日の行き先次第では自分が死ぬこともあり得るのだ。
その後、伊藤の提案で樺美智子合同慰霊祭が執り行われた。
不謹慎な言い方かもしれませんが、60年安保の打ち上げとして最高のイベントになったと思いました。それで一切の政治活動をやめたのです。
しばらくして佐藤(※誠三郎)君と、安保運動のイデオローグと言われた清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉氏(1907~88)に会う機会がありました。東大赤門隣の学士会分館で、学習院大学教授となった香山健一〈こうやま・けんいち〉君や、全学連書記長だった小野寺正臣〈おのでら・まさおみ〉君、評論家になった森田実〈もりた・みのる〉君など、清水と行動を共にした人たちも一緒でした。佐藤君と香山君の付き合いからそうなったのだと思います。
この時、清水幾太郎氏は、日本共産党に裏切られたと言って泣きました。それを見て私は、がっくりきました。闘争というものは負けたからといって泣くものじゃないだろう。そこで何かをつかんで、もう一度相手をやっつけるならわかる。だが、泣くものではない。しかもわれわれ若い奴に向かって泣くとは、と思ったことを覚えています。
伊藤は新しい歴史教科書をつくる会にも参加しているが左翼からの評価も高い学者である。司馬遼太郎をやり込めたエピソードも綴られているが、静かな気骨を感じさせる人物だ。
会話調の文章が読みやすく、史料学の大変さがよくわかる。予算が足りなくて頓挫した企画も多いようだ。史料の乏しい昭和史の道をオーラル・ヒストリーの手法で切り拓いた人物といってよい。一般人でも取っつきやすい作品として岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉にインタビューをした『昭和陸軍謀略秘史』(日本経済新聞出版、2015年/日本近代史料研究会、1977年『岩畔豪雄氏談話速記録』改題)がある。
・樺美智子さんの「死の真相」 (60年安保の裏側で) ―60年安保闘争50周年 | ちきゅう座
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